日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易

自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消

TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します


2009年4月13日 
……… は じ め に ………
 明治維新後、「富国強兵政策」を強力に押し進めていった日本、第1次世界大戦後、世界の先進国の仲間入りを果たしたかのように思えた。 しかし、日本、ドイツ、イタリアの3カ国は、先進植民地主義大国の既得権益に阻まれ、さらに新たなブロック経済政策のために自由な貿易からの利益を得ることができなかった。このため先進植民地主義大国に対して新たなブロック経済圏を作るべく、強い影響力を発揮できる植民地を求めて、「日独伊三国軍事同盟」を結び、経済的・軍事的侵略を進めていった。
 このように、日本をはじめとする後進工業国が「追いつき、追い越し作戦」を取っている頃、1992年10月のニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌に対して、イギリスは1932年9月にオタワで会議を開き、イギリス本国とその属領植民地との間で特恵制度によるブロック経済圏を作り上げていった。こうしたイギリスの動きに対応して先進植民地主義諸国は、自由貿易から保護貿易へと政策を転換していった。
 先進工業国の仲間入りをしたかのように思えていた日本は、こうしたブロック経済の動きに対して自由貿易の恩恵が得られないために、日本独自のブロック経済圏を作り上げなければならなかった。先進諸国のブロック経済政策と、中国の対日ボイコット運動により、日本は 「大東亜共栄圏」 なる愚かな幻想を描くことになった。
 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の期間で、日本は保護貿易政策の犠牲者であった。 その犠牲者でまだ先進工業国から見れば弱小後進工業国であった日本があたかも「窮鼠猫をかむ」を狙ったかのような「大東亜戦争」という無謀な賭に出ることになった。このような保護貿易政策の犠牲者であった日本が、21世紀現在、保護貿易の加害者になろうとしている。戦後の荒廃から立ち直れたのも、自由貿易のおかげであったことも忘れてしまったようだ。このホームページでは、第1次大戦後から第2次対戦に至る期間に日本がどれほど保護貿易による被害を受けたか、について検証してみることにした。
 「自由貿易こそが国民を豊かにする」 歴史を振り返って見ればこの言葉が正しいことが理解できるはずだ。歴史の過ちを繰り返さないためにも、そしてこれから中進国・先進国の仲間入りをしようとしている国のためにも、自由貿易体制を維持し、貿易による相互利益を享受できるようにすべきだと主張します。

日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易
自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消
(1)世界の経済秩序を破壊する日本 既得権を死守しようとする先進植民地主義国  ( 2008年8月25日 )
(2)自由貿易から保護貿易への転換 オタワ会議から広まったブロック経済政策とは  ( 2008年9月1日 )
(3)当時はブロック化をどう評価したか それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる  ( 2008年9月8日 )
(4)日本が選択した「大東亜共栄圏」構想 それ以外に選択肢はなかったのだろうか  ( 2008年9月15日 )
(5)中国貿易の低迷による日本の貿易 日本製品排斥運動で満州が主生命線になる  ( 2008年9月22日 )
(6)英帝国ブロックの日本綿製品排斥運動 世界1の生産を誇った日本綿業への規制  ( 2008年9月29日 )
(7)『時局大熱論集』という強硬意見集 徳富蘇峰、中野正剛、藤原銀次郎などの主張  ( 2008年10月6日 )
(8)米国の日本に対する経済制裁 ボイコット運動とそれに対する日本政府の対応策  ( 2008年10月13日 )
(9)ABDCラインと呼ばれた経済封鎖網 それによる日本国内経済の実態を振り返る  ( 2008年10月20日 )
(10)英連邦諸国などとの貿易戦争 オーストラリア、オランダ、インド、エジプト他  ( 2008年10月27日 )
(11)新天地ラテン・アメリカへの進出 日本の繊維製品と発展途上国産業との摩擦  ( 2008年11月3日 )
(12)米国の貿易規制による石油ショック 勝つ見込みのないエネルギー戦争へ突入  ( 2008年11月10日 )
(13)陸・海軍、御前会議などの動き 無謀な大東亜戦争へと追い込まれて行く過程  ( 2008年11月17日 )
(14)東亜新秩序とそれに対する英米の圧力 日本が考えていた以上の綿密な計画  ( 2008年11月24日 )
(15)保護貿易の反省から生まれたガット 二度と再び日本のような被害国を生むな  ( 2008年12月1日 )
(16)ガットが進化してWTOへ 日本の農業保護関税政策は世界で容認されるのか  ( 2008年12月8日 )
(17)FTAは最恵国待遇に反しないのか? 新たなブロック化の危険性はないのか?  ( 2008年12月15日 )
(18)辛抱強い貿易自由化へのラウンド交渉を 紆余曲折があっても道筋は失わず  ( 2008年12月22日 )
(19)大東亜戦争を本当に反省しているのか 一部衰退産業の保護は袋小路への道  ( 2008年12月29日 )
(20)コメ自由化への関税政策試案 特定の国からの輸入に頼らない農産物の関税化  ( 2009年1月5日 )
(21)グローバルゼーションを基本とした政策 成長痛を恐れぬ農業政策の立案を  ( 2009年1月12日 )
(22)自由貿易こそが国民を豊かにする 地産地消、金融支援、バイアメリカンとは?  ( 2009年4月13日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)世界の経済秩序を破壊する日本
既得権を死守しようとする先進植民地主義国
<出る杭はうたれる日本>  第1世界大戦後、日本は世界経済に大きな影響力を発揮して参入し始めた。これに対して、先進諸国は既得権を脅かす厄介者として、日本への規制を強めていった。 先進諸国の規制と中国の対日ボイコットは日本の経済政策の選択肢を狭める結果となった。こうした歴史的経過については 「池田美智子著『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年」に詳しいので、ここでは、初めに『対日経済封鎖』からの引用文を紹介することにしよう。
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<『対日経済封鎖』「まえがき」から> 本書は、第1次世界大戦と第2次世界大戦とに挟まれた期間(戦間期)の、世界市場における日本の経済成長と通商問題の一断面を扱っている。この主題に関するこうしたアプローチは、今まで日本でも外国でも、また世界史の中でも扱われていない。
 戦間期までには欧米先進諸国の植民地争奪競争はすでに過去のものとなっていた。また世界経済も第1次世界大戦後の反動不況から立ち直りつつあった。戦前の秩序にそのまま復帰することは夢でしかなかった。世界の規制の秩序はその根底から揺らぎ、大きな変革へと胎動しつつあった。そのような歴史的過程の中で、日本は急速に成長し世界市場へ参入し、当時の世界のダイナミックな変革へ、さらに拍車をかけていく。
 当時の日本は、努力の集積の結果、先進の欧米諸国に「追いつき」つつあった相対的経済後発国であった。日本の経済的な「追いつき」は、海外市場への輸出の競争力として現れた。 しかも、東洋の一小国の世界市場への挑戦的参入は、欧米諸国がかつて経験したことのないものであった。特に発展途上国へ工業製品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の登場はその市場への”侵略”と見なされた。 先進諸国のうち世界のその時点での現状維持(スティタスクオ)こそ「正しい」と信じる国の眼には、日本は暗黙裡にその既得権と市場の秩序を破壊する”侵略者”と感じられた。日本は既存の市場の均衡を破り、不当な廉価販売によって先入者たちの富を侵略すると思われた。
 かくて欧米諸国の海外市場とその植民地および属領などは、日本からの輸出品に対して厳しい規制をかけていく。 差別的規制もあった。日本側の対応もあって、それらは当時の国際的諸条件のもとで瞬く間に世界を覆っていく。 当時の日本は特に貿易を規制されては生き延びていけなかった。言い換えれば、日本は勤勉な労働力に頼って、資源の乏しい国土の不利益を国際交易によって代替え、産業化を進展させ、世界市場と共存してきたからとも言える。 日本経済の発展は、日本自身にとっても初めての世界市場への大規模な参入となって現れ、先進諸国をはじめとするほぼ全世界から厳しい通商摩擦の十字砲火の中にさらされた。厳しさを加える対日輸入規制は日本経済に深い影響を与え、波及的な相互作用を促したのである。それはまた国際経済の性質上、決して2国間のみに留まることはできなかった。そのいずれかの国と交易をしている第3国へも波及し、そこでもまた相互反応を生み出し、ひいては保護主義の悪循環を招いた。そして世界貿易は、縮小の渦の中へと陥ったのである。
 世界的な保護主義の嵐が吹きすさぶ中で、日本は追われ追われて、ついには外貨を稼ぐ市場すら探すことができなくなった。それは日本の第2次世界大戦参入をうながす原因の1つとなったのである。 (『対日経済封鎖』から)
<50数年前の保護主義と現代日本の保護主義>   本書に書かれている50数年前の世界史の1面と、その深層に作用するダイナミズムは、今日の世界にも示唆するところが多い。第1に、世界経済の発展は、後発諸国(今日の言葉では発展途上国)の経済発展に伴って展開される経済上の変化を内包していることである。歴史的過程としての産業化による諸国の興隆を振り返ってみよう。英国は産業革命を初めておこした国である。すなわち、その当時英国は世界のどの国よりも経済先進国であった。それに比べフランスは英国よりも経済後進国であり、ドイツはフランスよりもさらに後れていた。また米国も、この意味で英国に比べて経済後進国であったことは言うまでもない。そして日本は、本書で扱っている戦間期の1番終わり頃に世界市場で産業の一部で追いつきつつあった相対的経済後進国であった。
 このような世界の経済発展の歴史を俯瞰すれば、産業革命以降今日までの相対的経済後発諸国の「追いつき」課程の世界的展開が明らかになってくる。この経済後発諸国の「追いつき」課程は、現在も発展途上諸国によって展開されているし、そしてまた将来も続いていくことであろう。相対的経済後発諸国、つまりその時々の発展途上諸国が、先進諸国に経済的に追いついていく過程で、その産業分野における急速な成長力を持って世界市場に進出すれば、通商摩擦が必ずといってよいほど生じてくる。 先進諸国の産業にとってみれば、その既得権益、市場を侵されたくないのである。したがて、発展途上諸国の産業化、つまり「追いつき」が効果的に続く限り通商摩擦は避けられないと言ってよいであろう。このような経済後発諸国が「追いついて」いく歴史的序列を、過去から未来への史的比較という縦軸から転じて、現在という歴史上の一時点をとって、水平的に並び変えてみれば、それは様々に発展段階の異なる先進諸国と発展途上諸国の混じり合った今日の世界経済地図となる。こうして史的比較は、今日の交際的な比較に通ずるところがある。
 ただ付言しておくが、こうした歴史の流れから見た過去の相対的経済後発諸国で今の先進国となった国々は、それぞれがその歴史的時点におれる世界史の中の環境と、国内的に与えられた諸条件のもとで、それぞれに必死に創意と工夫をめぐらして、自国よりも相対的に先進的であった諸国に追いつき、また時には何らかの分野で先進諸国を凌いできたのである。 その国々が現在の先進諸国である。今は先進諸国として発展途上諸国の経済発展を援助している。しかし一方で、それが成功すればするほど国際貿易摩擦は増大していく面があることを認識する必要がある。
 このような経済史的遠近法から、世界の後進諸国の経済発展とそれに伴う通商摩擦という問題を理解することができれば、本書で扱った出来事は50余年前の知られざる史実の探求に尽きるものではない。また日本だけの問題でないことも明らかとなるであろう。 (『対日経済封鎖』から)
<今日の「追いつき競争」を考える>   本書で扱う50数年前のできごとは、当時の先進諸国側にもまた日本側にも思い当たることが多いであろう。現在、日本をも含む先進諸国側としては、発展途上諸国との貿易とそこに生じる通商摩擦に対してどのような態度を採るべきだろうか。 発展途上諸国としてはその問題に対して、どのように自らを育みながらどのような心構えでいくべきなのか。そして、それらの具体的な方法とは……。これらの国々がかつて日本や当時の先進諸国の轍を再び踏むことのないようにと、誰しもが願う。そしてまた、後発国がたとえ「追いつき」に成功しても、それは経済のある一部の分野にほぼ限られている。加えて、「追いついた」後発国は、一般に外交、国際性、国内政治、法律の解釈等々の点では、後進性を深く残したままでいることが多い。このことを世界市場での激しい「追いつき」競争の中で、国際的に多くの競争相手国に理解してこらうことがいかに難しいかは、本書の中で見られるように見本が度々経験している。(中略)
 米国は若く、自国の力が強くなっても、その国内経済政策の動向が世界に及ぼす影響を考えなかった。1929年10月のニューヨークのウォール街の株の暴落、世界金融市場からの米国資本の大量引き上げ、米国議会内のなれ合いによって決まったスムート・ホーレイ法(保護貿易、高率関税で悪名高い)の実施によって、世界経済が大恐慌の渦に巻き込まれ、その後の長期的沈滞へと押し流されるなど考えてもみなかった。こうして本書の対象期間の後半には、世界経済の流れは一変していた。そうした嵐の時代がやってくる寸前に、日本はILO(国際労働機構)の勧告を受け入れて紡績業の深夜労働をやめ(1929年)、金本位制を再建し(1930年)、「大国」の仲間入りができたと喜んでいた。
 そうしてやってきた世界市場の沈静化の中で、どの国も自国内の経済問題の収拾と対応に追われ、他国を顧みることは少なく、保護主義は次第に高まっていくのであった。その中で、近代国家としては若かった日本は貿易の自由を求めていった。そうする以外に日本は生きられなかった面がある。このような世界的流れを背景として本書をひもといていただければ幸いである。
 本書は、現代史の中で日本という1つの国を焦点として、壮大な世界市場を舞台に世界の国々と数々の人々の運命を巻き込んで展開された保護主義と貿易差別の歴史的実験を描いた記録である。その内容は読む人によっては辛く悲しいことかもしれない。しかし深く考えてみれば、私たちはこうしたものを乗り越えるところまで今日来ている。当時、世界各地の市場で日本人が暗濾たる思いで見たであろう夕日は、日本のみならず世界の”自由貿易”の終焉を告げる日没であった。しかし、第2次世界大戦後、人間の本性に根ざす経済行動の1つとして、貿易の自由は不死鳥のごとく蘇った。そしてまた、現在の保護主義と管理貿易の果てに、これから私たちは何を生み出すのであろうか。
 さらに、研究の過程で知ったことであるが、本書の中に登場する米国人の観察者や、東京の英国大使館員の、日本の競争力についての見方が的を射ていることに感銘せざるを得ない。あのような多くの非難と偏見を浴びせられていた時代にあっても、物事を正しく観ている人々はいるものである。この人々の言葉は、まるで今日の日本があることを、あのような時代のなかで既に洞察しているかのようであった。
 本書を組み立てている原資料の多くは、米国のワシントンD・Cの議会資料館と英国の公文書館、東京の外務省資料館の中に、著者が訪ねていって解禁の許しをこう日まで、ひっそりと光の当たる時を待っていたのである。原資料と統計の示すものの解釈は様々と思うが、私にはこれから記すことがその埋もれた史郎からのメッセージのように聞こえた。 (『対日経済封鎖』から)
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<ブラック・サーズデーからの世界大恐慌から経済のブロック化が始まった>  1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出された。その後、一時的に株価は持ち直したかのように見えたが、大きく下落し、これをきっかけに世界恐慌が始まった。世界的な恐慌に対して各国の対処の仕方は様々であったが、基本的には自国の産業を守ろうとする「保護貿易主義」であった。
アメリカ  第1次世界大戦によってヨーロッパ経済は衰退しきっていた。そのヨーロッパに代ってアメリカが世界経済の主導権を握るようになった。ヨーロッパ経済の立ち直り、モータリゼーションの普及などによりアメリカの景気は活気を呈していた。この好景気に対し投機筋の資金が参入し、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。この好景気、しかし実状は生産過剰で需要不足がハッキリすればバブルがはじけるような状況であった。
 そういう状況でのニューヨーク株式市場での株価下落はしかし、その後の事の大きさは予想されていなかった。いくつかの銀行が破綻したがアメリカ政府は有効な対策はとらなかった。このためマネーサプライは減少し不況の傷口を大きくした。共和党のフーヴァー大統は1930年にスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採用した。
 第1次大戦後、国際連盟が設立されたが提案国のアメリカは参加しなかった。アメリカは、第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会への7番目の年次教書演説で「モンロー主義」(「モンロー教書」ともいう)を発表した。このモンロー教書は欧州列強に対する「アメリカ大陸縄張り宣言」であると同時に、ヨーロッパに対する不介入宣言でもあった。つまり、「アメリカ(南北アメリカ大陸)の問題はアメリカに任せろ。口を出すな。その代わり、ヨーロッパの問題には介入しない」という宣言であった。経済はすでにグローバリゼーションが進んでいたが、アメリカは自国の経済だけを考えて政策を実行していた。このため、アメリカの不況はヨーロッパにも広がり世界的な不況=恐慌になっていった。
 1933年大統領に就任した民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は積極的な経済政策であるニューディール政策を実行し大恐慌に対処しようとした。その成果についての評価は2分していて、効果があったか、無かったか、ここでは論じないことにする。イギリスはじめ先進諸国が保護貿易、ブロック経済政策を採用するなかで、アメリカも保護貿易に進むことになった。アメリカは広い土地と、ヨーロッパ諸国から影響されにくい南北アメリカ諸国が近くに存在し、ヨーロッパ諸国がブロック経済清濁を採用することによって、アメリカも実質的なブロック経済政策を採用することになった。
イギリス  イギリスの大恐慌の時代は、「赤い30年代」と表現されるように、資本主義経済に対する不安と、社会主義に対する期待が大きかった。伝えられるソ連経済のニュースをもとに、「ソ連とは違う、デモクラシーでの社会主義経済の実行」を目標とすべきとの考えが広まっていた。
 そうした社会情勢の中で成立したマクドナルド挙国一致内閣は1931年9月211日に金本位制を廃止した。1932年7月21日から8月21日、カナダのオタワでイギリス帝国経済会議を開き、オタワ協定を締結した。(会議に参加したのはイギリス本国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、インド、南ローデシアの植民地) これはイギリス連邦を世界恐慌から救出する方策として、イギリス連邦以外の国の製品に対して高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度をより完備・徹底したのもだった。「イギリス連邦の皆さんは、イギリス連邦で生産されたものを買いましょう」「連邦内の顔の見える生産者のものを買いましょう」「東洋には『地産地消』とか『身土不二』という言葉があります。これを見習いましょう」ということだった。このオタワ会議以降各国はブロック経済に走ることになった。
フランス  第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。
 1929年に始まった世界恐慌、フランスへ波及するのに時間がかかった。1932年頃までは本格的に波及せず、むしろ逆にポンド、ドルの下落を恐れた外資がフランスに大量に流入し、表面的には国際収支は大幅黒字となり、フランスは世界的不景気のなかの「繁栄の小島」と称された時期さえあった。しかし1932年以降生産は大幅に低下し、失業者は増加し、税収入不足から緊縮財政になり、これに対して官公吏を中心とする抵抗が強まった。それに対して政府は有効な政策を打てなかった。悪い政府より無能な政府の方が国民にとって我慢がならないという場合がある。当時のフランス人にとって周囲には「ダイナミック」な独裁国家の発展を見せつけられていただけに苛立ちはなおさら大きかった。
 左からの変革を願うものは当然社会主義、共産主義に目を向けた。当時、恐慌に苦しむ資本主義諸国と対照的に5ヶ年計画により経済建設を着々とおし進めるソ連の姿は、ソ連と共産主義の威信を大衆の目に、またとりわけ当時普及し始めたマスコミに登場する、<マス・インテリ>の目に大きく映らずにおかなかった。(大粛清はまだ始まっていなかった)
 1934年5月、それまでの政策を変更してコミンテルとフランス共産党が反ファシズム戦線のために社会党とも手を結ぶ、となった。1934年7月277日社会党と共産党は統一行動協定を結ぶ。「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉はこの年の10月にフランス共産党機関誌「リュマニテ」に使われた
 1936年4−5月の選挙で選挙協力が実を結び、共産党、社会党が躍進した。第一党となった社会党のレオン・ブルムが政権を担当することとなった。内閣は社会党と急進党の連立で、共産党は閣外協力。1936年6月4日夜、ブルムはルブラン大統領に閣僚名簿を提出し、翌5日正午にラジオで国民に呼びかけた。
 1937年6月の社会的激動のショックに新たにスペイン内乱をめぐる国内対立の激化が加わり、有産階級の不安と警戒は高まった。政府に対する信頼は低下し、資金の国外流出と国内退蔵のためフランス銀行の金保有高は9月23日には国防上の必要最低限といわれる500億フランに減少し、国債の売れ行きも悪化した。ついに9月26日、政府は銀行券の自由兌換を停止し、実質的なフラン切り下げを発表した。しかしこの決定はあまりにも遅く、切り下げ幅も不十分で、賃上げ、労働時間短縮の影響もあり、短時間に切り下げの利益は失われ、あとには政府の信用失墜と与党各派の相互非難とインフレを残すばかりとなった。
 政府が期待した本格的経済回復はおこらず、予算赤字の増大の見込みと再軍備費の重圧は再び通貨不安を引き起こした。フラン投機の再熱により為替平衡基金の100億フランは1月末にはすっかり底をついていた。なんらかの処置が必要であった。
 1937年2月13日、物価上昇に対応して賃上げを要求していた公務員に対してラジオ演説でブルムは「休止=ポーズ」を声明した。 公務員の要求に対して強い態度を取ろうとした社会党のブルム政権、しかし5月開催を控えたパリ万博を控え公務員への強い態度はとれなかった。
 フランスでは、イギリスの「赤い30年代」以上にソ連から伝えられる社会主義に大きなあこがれを抱いていた。そして社会党のレオン・ブルムが政権を担うことになった。しかし、経済政策は有効な対策も打てず、政治的には、1936年7月17日からのスペイン内乱に、政府としてなにもできなかった。その後、ブルム内閣は国民の信頼を失い、フランスの政局は不安定なまま第2次対戦を迎えることになる。ちなみに、この1936年に、ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発表されている。
ドイツ  1918年11月11日、ドイツの降伏により第1次世界大戦が終結。第1次世界大戦の末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会を開く。これが基礎となり1919年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は、エーベルトを大統領に選出するとともに、社会民主党・中央党・民主党のいわいるワイマール連合内閣を成立させ、1919年7月31日に「世界で最も民主的」と言われたワイマール憲法を採択した。  ワイマール共和国は民主主義の理想を高々と掲げたのだが、現実の政治経済は厳しいものだった。ドイツの降伏を取り決めたベルサイユ条約は、ドイツから全海外領土と本国の13%を奪い、軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い、さらに莫大な賠償金を課するものであり、その賠償金は1320億マルクにのぼるものであった。このため各地で一揆・反乱・革命が勃発し、経済はハイパー・インフレに襲われ、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆が起きる。こうした時期に外相シュトレーゼマンは国際協調外交を展開し、ドイツ経済の再建と国際的地位の回復に努めた。産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入し、合理化運動を進めた。  ドーズ案とはアメリカの銀行家 Charles G. Dawes (1865-1951)を長とする賠償委員会が作成した賠償支払計画案。ドーズ委員会はドイツ通貨の安定と財政均衡をはかり、賠償方式を緩和させる一方、ドイツの鉄道、工業施設を担保に、アメリカの資金を導入しドイツ工業の復興をはかる収拾案を作成し、1924年7−8月のロンドン賠償会議で採択調印された。以後、ドイツ経済は立ち直りのきざしが見えた。1925年ドーズはノーベル平和賞を受けた。
 ヒトラーは元ライヒスバンク総裁シャハトに経済政策の全権を与え失業の解消と再軍備を進める。1938年、軍拡景気の局面にはいり、4ヶ年計画が発足し、重化学工業への資本と労働力の集中は一層進む。1938年オーストリア、ズデーデン地方の併合、翌39年3月チェコスロバキア占領といった軍事拡大政策もその成功のため国民からは高い支持を受ける。アウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンは国民の夢を膨らませ、生活の不満はユダヤ民族への差別によって解消させる。(もっとも戦時中はVWも軍需産業に集中し、ビートルが国民車として普及するのは戦後になってから)
 ドイツでの大恐慌は国民にはあまり影響を与えず、ヒトラーの国家社会主義は国民生活の向上に実績を上げた。しかし、対外的には新たな「地産地消」を進めるべく「自給自足」の供給地=植民地を積極的に広げるという、侵略政策を押し進めることになった。
イタリア  第一次世界大戦後、混乱していたイタリアではムッソリーニのファシスト党が1922年から政権を担当することになった。1926年にはファシスト党以外の全政党を解散させることで一党独裁制を確立した。1936年7月17日からのスペイン内戦の関してはドイツとともに反乱軍のフランコを支援することになる。
 イタリアは19世紀末からエチオピアを植民地に、と狙っていた。ムッソリーニ政権は1935年1月にフランス外相ピエール・ラヴァルとの間でフランス・イタリア間の連携強化協定を結んだ。英仏の宥和的態度を見ていたムッソリーニはエチオピア侵攻が成功すると確信し、1935年10月3日エチオピアへ侵攻を開始した。国際連盟は11月18日に対イタリア経済制裁を発動したが、ヒトラーはイタリアへ武器や戦略物資援助を続けた。 1936年5月6日イタリア軍は首都アディス・アベバに入城、皇帝ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスに亡命、5月9日にムッソリーニはエチオピア併合を宣言した。
 このエチオピア問題には日本国内で関心を持つ有志がいた。アジア・アフリカに関心を持つ頭山満ら250人の有志は1935年6月4日、エチオピア問題懇談会を設立。満場一致で採択した決議文を、「代表頭山満」の名で、エチオピア外相ヘルイに打電した。「危機に直面せるエチオピア政府及び国民に深厚なる同情の誠意を表す(中略)国際正義、国際平和の見地より円満なる問題の解決を望」。ヘルイからの謝電はその翌日に届いた。「我が政府の名において、余は感激に堪えざる貴電に対し、衷心より感謝の意を表す」。電報のやりとりはその後も続き、エチオピア政府は9月、日本に特派使節を送り込んだ。
 満州事変以降、軍部の影響力が強まり、イタリア、ドイツに急接近していた日本政府は、「満州国」の承認と引き換えに、イタリアのエチオピア併合を黙認。そして頭山満は1938年3月、今度はイタリア使節歓迎国民大会に出席している。
 1926年イタリアはアルバニアを保護国とし、1939年に併合した
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社   1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書     1992. 1.25
( 2008年8月25日 TANAKA1942b )
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(2)自由貿易から保護貿易への転換
オタワ会議から広まったブロック経済政策とは
<イギリスが主催したオタワ会議>  1914年に始まった第1次世界大戦は1918年に終結した。この戦争がそれまでの戦争と違うのは、@非常に多くの国が参戦した。A兵隊だけでなく、一般市民も大きな被害を受けた。ということであった。このためヨーロッパ諸国の産業施設は大きな被害を受け、生産が戦前の水準に達するには時間がかかり、そためにアメリカの生産活動に大きな期待がかかり、アメリカ経済は活気を呈した、その活気に対して多くの投資がなされ、経済活動が実体以上の数字が表示され、まさにバブル状態であった。活発なアメリカの生産活動に対し、ヨーロッパでの生産活動も再建され、需要以上の生産が行われた。
 こうした状況で、1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。これを契機にアメリカが不況になり、この不況はパンデミーのように世界中に広まっていった。その影響、その経済対策は国によって違いはあったが、イギリスの経済政策は多くの国に影響を与えた。その政策とは「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」であった。
 生産活動の主導権はアメリカに移っていた。このため、アメリカの不況は世界に広がることになった。しかし、イギリスの影響力も大きく、その経済政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」がその後の世界経済に大きな影響を与えることになった。
 このうちの「オタワ会議」について、『対日経済封鎖』の関連する部分の文章を引用することにしよう。
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<日英間の貿易紛争とオタワ会議>  英国は1932年のオタワ会議で英連邦内の自治領および植民地と帝国特恵協定を結び、世界貿易に重い軛(くびき)をかけた。特恵待遇の強化を図ることによって、英帝国の交渉力を強化し、その貿易収支を改善し、また不況下の英国経済には雇用の増加をもたらすものと期待していた。なぜならば、英国経済は、1925年の金本位制の再建にもとづくデフレと、31年の英ポンド平価切り下げ後のインフレに悩んでいたのである。世界経済は、このオタワ会議以降、”自由貿易”に終わりを告げ、保護主義へと転換したのであった。
 この頃、日本の輸出先導産業は、1次産品の生糸から工業生産物である綿繊維製品へと移っていた。1932年、綿製品は総輸出の25%にのぼり、生糸の21%を超えた。そして、この日本綿製品の輸出量はそれまでの世界の覇者・英国を凌いで世界1位となった。
 日本のすべての繊維品輸出の稼ぎ頭は綿布であった。1932年、その輸出量は20億9千平方ヤードと世界最高を記録した。こうして日本が達成したものこそ、日英間の貿易紛争を尖鋭化させ、それは特に英連邦市場を舞台に演じられることになった。英連邦諸国が公然と対日貿易差別の圧力をかけ始めたのも、この頃のことであった。 (『対日経済封鎖』から)
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<オタワ会議を日本ではどのように見たのか?>  世界不況時にイギリスのとった政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」はその後の世界経済・各国の経済政策に大きな影響を与えた。そのなかでも「オタワ会議」はその後の保護主義への先駆けとして各国政府の政策に大きな影響を与えた。その「オタワ会議」が日本でどのように評価されていたのか?そのあたりから話を進めることにしよう。
<オタワ英帝國経済会議> 英本国政府は1932年7月21日より1ヶ月間カナダ「オタワ市」自治領その他の地方政府を召集し英帝國経済会議を主催して特恵関税協定を始め英帝國内各領の経済的結束を緊密ならしむべき各般の方策を決定したり。蓋し19世紀後半以来事由貿易主義の大施を翳し其の卓越せる工業能力と広大なる植民地の豊富なる天然資源とを基礎として世界通商の覇権を掌握し来れる英本國も欧州大戦後内戦争の疲れに加え外新興工業國の台頭に依り漸次昔日の商権失墜して之が挽回用意ならざるを看取するや茲に其の方針を一変し退いて英帝國内を固むるの方策を樹つるに至れり。
 右英本國の新政策は結局英帝国内各地の経済関係を今世紀当初の状態に転廻せんとするものにして換言すれば各植民地をして英本國に対する工業原料等の供給地たらしむると共に右植民地を蚕食せる外國商権を駆逐して是等の地方を専ら英本國品の独占市場たらしむとするものなるか故に大戦以来発達したる植民地の工業状態と右植民地及隣接諸外國間の経済関係とを考察する時は前述新政策の実現に幾多の困難を伴うべきは想像に難からず英本國が欧州大戦の苦杯に顧み國内農業の保護政策を樹立したる事実は植民地との利害関係の調和を一段と困難ならしむるものと思惟せられたり。
 前記の事情の下に開催せられたる「オタワ」英帝國経済会議は幾多の新指針を決定し而して右決定は会議後各々実行に移されて爾来3カ年を閲せり「オタワ」会議の開催は唯英帝國内の重大問題たるに止まらず会議の実績如何に依り其の世界経済界に及ぼすべき影響も亦少なからず左に会議開催前後の経済を略述し併せて会議の成果に付考察するところあらんとす。 (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<英本国ノ貿易状況>  欧州大戦勃発の前年たる1913年度に於ける英本国の貿易状況を概観するに輸入総額7億6千8百7十4萬磅(ポンド)(植民地よりの輸入1億9千百5十2萬磅外国よりの輸入5億5千7百2十2萬磅)。輸出総額6億3千4百8十2萬磅(植民地向け輸出2億8百9十萬2磅外国向け輸出4億2千5百9十萬磅)合計貿易総額14億8百5十6萬磅なり。又欧州大戦後の世界経済繁栄期たる1924年乃至29年の6カ年に於ける貿易状況を見るに此の6カ年間平均の輸入総額12億4千5百7十萬磅(植民地よりの輸入額3億8千3十7萬磅、外国よりの輸入額8億6千5百3十3萬磅)、輸出総額8億6千3十萬磅(植民地向け輸出3億5千2百9萬磅、外国向け輸出5億8百2十1萬磅)、合計貿易総額21億6百萬磅にして輸出入共大戦前に比し著しき発展をなしたり。然るに此の英本国の貿易も世界的不況の襲来と共に漸次衰運に傾き「オタワ」会議開催の前年たる1931年に至りては其総額大戦前1913年度の貿易額に達せず殊に其の輸出の方面に於いて著しき減退を示せり、即ち同年度の輸入総額8億6千百2十5萬磅(植民地よりの輸入額2億4千7百4十2萬磅、外国よりの輸入額6億1千4百8十4萬磅)。輸出総額4億5千4百4十9萬磅(植民地向け輸出額1億8千6百7十4萬磅、外国向け輸出額2億6千7百7十5萬磅)、合計貿易総額13億1千5百7十4萬磅にして戦前1913年度の総額より9千2百8十2萬磅の減少を示し、而して此の減少は専ら輸出に於ける1億5千8百十5萬磅の減少を来したるが為輸入に於ては多少の増額を見たるに拘わらず総額に於いて前記の減少を来すに至りたるものにして、換言せば1931年度の貿易内容の著しく悪化せる状況を窺知するに足るべし。今大戦前(1913年)戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年)及世界的不況期(1931年)の3期に於ける英本国貿易状況を次に表に掲ぐ。(表略) (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<日本との関係>  本邦と英本国との貿易関係を概観するに英本国に於ける本邦よりの輸入は戦前1913年に於いて4百3十8萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出は14百8十3萬磅(輸出総額の2.3%)、合計貿易総額千9百2十1萬磅にして、また戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年平均)に於ける貿易状況は本邦よりの輸入7百9十9萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出千6百9十2萬磅(輸出総額の2.0%)。合計貿易総額2千4百9十1萬磅なり。而して此の貿易関係は世界不況の襲来と共に減退し1931年於いては本邦よりの輸入6百9十5萬磅(輸入総額の0.8%)。本邦向け輸出6百3十3萬磅(輸出総額の1.4%)。合計貿易総額千3百2十8萬磅に減少せり。
 是を要するに英本国より看るときは本邦との通商関係は同国の貿易上左迄重きをなすに足らず、また其内容に於いては欧州大戦前長期に亘りり著しき輸出超過の関係に在りたるも戦後世界的不況期に入りてより輸出激減して「オタワ」会議の前年に於いては遂に僅少の輸入超過を示すに至れり。 (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)

数字を見やすく表示すると   上記英本国の貿易の数字、これを見やすく表示してみよう。

1913年    輸入総額  7億6,874萬ポンド   輸出総額  6億3,482萬ポンド
         植民地から 1億9,152萬ポンド   植民地向け 2億0,892萬ポンド
         外国から  5億5,722萬ポンド   外国向け  4億2,590萬ポンド
         貿易総額 14億0,856萬ポンド
1924〜29  輸入総額 12億4,570萬ポンド   輸出総額  8億6,030萬ポンド
(平均)     植民地から 3億8,037萬ポンド   植民地向け 3億5,209萬ポンド
         外国から  8億6,533萬ポンド   外国向け  5億0,821萬ポンド
         貿易総額 21億0,600萬ポンド
1931年    輸入総額  8億6,125萬ポンド   輸出総額  4億5,449萬ポンド
         植民地から 2億4,712萬ポンド   植民地向け 1億8,674萬ポンド
         外国から  6億1,484萬ポンド   外国向け  2億6,715萬ポンド
         貿易総額 13億1,574萬ポンド
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<大英帝国経済ブロックのオタワ協定に依る結合>  今日の英帝国経済ブロックの結成は先ずオタワ会議に依り採用せられた特恵関税政策を基礎として為された。オタワ会議は1932年7月21日より8月20日迄開催せられ、英帝国を始め、加奈陀、愛蘭、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアの代表が参加した。会議の議題は開催地たる加奈陀政府は主となって関係諸政府と協議の上之を取纏め7月11日に其の要旨を公表したが内容は次の如きものであった。
(一)一般通商問題 
 (1)一英帝國内の貿易に関係ある通商政策及び関税政策の審議
  (イ)互恵通商主義及び互恵関税主義の承認問題
  (ロ)現行特恵関税及び将来の特恵関税を英帝國内全域に押し及ぼすの問題
  (ハ)外國に興へ居る関税上の利益を英帝國内の他の地方に許興するの問題
  (ニ)特恵税率を享くるに必要なる帝國的要素(Enpire Content)(商品の含有する英帝國的原料及び労力)の割合決定問題
  (ホ)帝國内に於ける輸出奨励金及び不当廉売に対する課税問題
 (2)外國に対する通商政策の審議
  (イ)外國に対して興ふる通商上の利益帝國内特恵との関係問題
  (ロ)英帝國内に於ける地方的特恵関税及び輸入割当制と最恵國約款の解消問題
 (3)英帝國内の協力方法の審議
  現存機関の再検討、産業協力委員会報告書の審査、交通通信問題、規格統一問題
(二)通貨及び金融問題
  英帝國内各種通貨及び貨幣本位の関係の審査、物価の恢復及び為替安定策
(三)特恵関税協定問題

 此等の主要議題に付いては会議に於いて夫々決議及び声明が為されたが、会議の結果成立した事項中最も重要なるは所詮オタワ協定として有名なる英帝國内特恵関税制度に関する次の12個の協定である。
 1、英本國と加奈陀、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアとの間の7個の特恵関税協定
 2、加奈陀と愛蘭、南阿連邦及び南ローデシアの3個の貿易協定
 3、南阿連邦及び愛蘭間の貿易協定、並に南阿連邦間の貿易に関する交換公文
 英帝國内の特恵関係は此の12個の協定に尽きているものではなく、此の外にも英帝國諸邦間の協定や一方的行為に依り相互に又は一方的に特恵税率を興へている場合も存在することに留意して置く必要はある。
(一)オタワ会議に依る協定の中で特に重要なるは英本國と属領諸邦との間に締結せられた協定である。此等協定は英印協定を除くの外凡て有効期間を5箇年とし爾後は6箇月の予告を以て廃棄し得ることとなっていて、(英印協定には一定の有効期間はなく6箇月の予告を以て随時破棄し得ることとなっている)、其の協定内容は各々多少の相違はあるが大体に於いて共通の点が多い。此の協定に依り英本國が属領諸邦に対して与えた特恵は大要次の如きである。
1932年3月1日実施せる輸入関税法に基く従価1割の輸入税並に同法に基く付加関税を帝國内よりの輸入品に対して引続き免除すること。
外国産の小麦、バター、チーズ、果実、果実缶詰、卵及び銅等に対し一定限度迄現行輸入税を引上げ若しくは此等に対して新たなる輸入税を設くること(例へば小麦に関しては1クォーターに付2志、銅に関しては1封度に付き2片と約されている。)
一定の外國産品に対する関税率の引下は同種産品に付重要なる関心を有する英属領の同意なしに行はざること(例へば木材に対する関税率の引下げは加奈陀政府の同意なき限り軽減せず又肉缶詰に対する関税率は豪州政府の同意なき限り軽減せずと云ふが如きである。)
肉類の輸入制限を行ひ英属領(例へば豪州、新西蘭)に有利なる輸入割当を興ふること。
 之に対し属領側から本國に興へた対償は、要するに本國よりの一定輸入品に対する関税上の特恵を維持又は拡大すること並に輸入英國品が生産品の関係に於いて属領製品と合理的競争をなし得ざるが如き高率の保護関税を設けざることの2点である。如何なる種類の英本國品に特恵を興ふるべきかは夫々の協定に明記せられている。
 畢竟するに英本國と属領間の協定は之に依り英本國が各属領より出来る丈け多量の原料及び食糧品を輸入する代わりに、各属領をして英本國工業品に最も都合良き市場たらんとすることにあったのである。
(二)次に同じオタワ会議で出てきた英属領諸邦間の協定は何れも相互に相手側の特に重視する輸出産品に対し特恵を興ふるやうに仕組まれているが(例えば加奈陀の小麦や木材、南阿連邦の果実や玉葱等)、此等協定の有効期間は英本國との協定と同じく5箇年で其後は6箇月の予告を以て廃棄することとなっている。 (『ブロック経済に関する研究』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『オタワ英帝国経済会議の考察』          外務省調査部編纂 日本國際協会   1936. 2.19
『ブロック経済に関する研究』               菅沼秀助 生活社      1939.10.17
( 2008年9月1日 TANAKA1942b )
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(3)当時はブロック化をどう評価したか
それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる
<昭和研究会というシンクタンクの見方>  産業革命を最初に成し遂げたイギリスは世界で最初の工業国であった。しかし決して「地産地消」の国ではなく、日本と同様自由貿易によって成り立っている「貿易立国」でもあった。そして、金本位制度のもと、世界の自由貿易を押し進め、産業面でも、貿易面でも世界経済をリードしていた。第1次世界大戦後、産業面ではアメリカがリードするようになったが、アメリカはモンロー主義政策をとり、世界経済を積極的にリードするという姿勢はとらなかった。このため、イギリスは相変わらず世界経済に大きな影響力を発揮していた。そのイギリスが、金本本位制を放棄し、オタワ会議でブロック経済を押し進めることになり、世界経済は大きく保護主義へと変わり始めた。
 そのオタワ会議、日本では当時どのように捉えていたのだろうか?21世紀の現代の見方は上記のようなものだが、当時の日本ではどのように捉えていたのだろうか?今週はこうした点について扱うことにする。先週は、外務省の文書を取り上げたので、今週は民間の見方を取り上げる。それは昭和研究会という、当時の英知を集めたシンクタンクだ。その『ブロック経済に関する研究』の文章を引用することにしよう。
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『ブロック経済に関する研究』の例言 から  
1、本書は、昭和研究会東亜ブロック経済研究会の成果に成るものである。東亜ブロック経済研究会は、支那事変処理の経済的側面に於ける志向目標を確立せんとする意図を以て、 昭和13年9月関係専門家並評論家14名を以て組織され、本年上半期まで大体隔週1回の会合を以て研究を継続した。
2、同研究会の結論は本書に於て第1章を成す部分である。同研究会は先ず世界ブロック化の大勢を本質的に究明し、その角度より東亜ブロック経済の本質と性格とを理論的に明らかならしめんとする方法を採り、 本年上半期に於いて一応の結論に到達した。之を右研究会の委員長加田哲二氏の執筆を主として煩わし、本書第1章に掲ぐることとしたのである。
3、右結論に至る迄には、世界各ブロック並に東亜ブロックの諸問題につき、会員諸氏並に会員外専門家の研究報告を煩はし、貴重の資料を堆積せしめた。本書第2章以下は、其等のうち公表に支障なき部分を再編集して掲出せるものであるが、第2章並に第4章は湯川盛夫氏、第3章は吉田寛史氏、第5章は千葉秦一氏、第6章は加多哲二氏、第7章は昭和研究会事務局の労作に成る。但し、何れの場合に於いても、その調査方針乃至内容に就いては、同研究会の討議を経て共同研究たるの実質を有し、全般の責任は悉く昭和研究会の負ふ処であることを明記致し度い。
 尚ほ各章末に掲げた「資料」は主として事務局の筆録にかかり、支障なき限りその原報告者乃至典據を明らかにすることとした。
4、昭和研究会は、今回の報告を基礎とし今秋以降新に研究部門を組織して具体的に東亜ブロック経済結成の諸方策にいたるまで研究を進めんとする意図を持つものであるが(その成果を斯の如き形態の於いて公表しうるや否やは予断の限りではない)、不取敢右の如くまでの研究成果を公表するのは、此種研究の水準向上に寄与せんとする趣旨に他ならない。茲に当初以来熱誠なる研究を続けられたる東亜ブロック経済研究会加田委員長並に左記会員諸氏に対し深厚なる謝意を表明するものである。
  猪谷善一氏、姉川武嗣氏、加田哲二氏、金原賢之助氏、高橋亀吉氏、千葉蓁一氏、友岡久雄氏、松井春生氏、三浦鐵太郎氏、山崎靖純氏、吉田寛氏、笠信太郎氏、和田耕作氏、湯川盛夫氏
 (備考)右は当初の会員にて、其後千葉氏は台湾に、猪谷氏は大阪に栄任せられ、本年1月以降新に小林幾太郎氏、樋口弘氏の参加を見た。
  昭和14年10月5日  昭和研究会事務局
(『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の本質と東亜ブロック経済の特質>   ブロック経済政策は、1932年9月のオッタワ会議の結果として、英本國とその属領植民地との間に結ばれた特恵制度による連繋によって、具体化せられたものである。イギリス帝國は、世界恐慌の結果として、金本位制を離脱せざるを得ない状態に置かれ、その救治政策としてブロック政策を考案した。その以後において、諸国は、自國の植民地領域、新しく獲得した領域、または、自國と特殊関係を有する國家との間にブロック関係を創定せんとすることに努力している。これは、まづ貿易政策の上に現れて、特恵関税政策となり、割当政策となっている。現在主として行われているのは、求償貿易政策である。これによって自國産業の必要とするところのものを獲得すると同時に、自國の生産品の販路を獲得せんとするものである。
 かくのごとき意味におけるブロック政策は、恐慌対策として考案されたことは事実であり、現在においても、その意味を最も多く含むものであるが、現段階におけるブロック政策は、その上に戦時経済的意義を、多分に以ている。それはヨーロッパ大戦の経験と近時における國際関係の緊迫化から戦時経済体制を整備せんとする要求とから起こっている。それは次のごとき事情を含んでいる。
 1、自國産業一般の原料を確保すること。
 2、生産品に対する確実な販路を獲得すること。
 3、戦時資材(軍需材料並に食糧)の供給を確保すること。
 4、以上3項に加へて、その領域を国防地帯として用兵の基地と考える場合。
 これらの必要のために、イギリス帝國は、その属領・植民地を一丸として、大英帝國ブロックを形成し、満州事変以後における満州國の成立は、日満議定書、満州開発計画によって、日満のブロックを形成せしめている。資源の貧弱なイタリーは、エチオピア併合によって、イタリー経済に新しい要素を加へている。ドイツのオーストリア併合、ズデーデン地方の合併は、その同民種たるの理由によって行はれたのであるが、これがナチ・ドイツ4カ年計画に対して有する意義は、いまだ巨大な期待をなし得ないものがある、更にチェッコの併合は、大ドイツ國の生存に必要な経済的地域として行はれたことは確実である。いまやドイツは、その東南方政策によって、ポーランド回廊問題の解決、中欧の諸地方、ウクライナへの進出も、既定の方針であるかのごとく見える。これらの諸國の行動は、新しいブロックの形成を目標とするものである。
 ブロック政策は、植民地または、その支配下の半植民地の広大な領域を有する國家が行ふとき、それは消極的な形態を採る。大英帝國ブロックは、その地域において、既に英帝國の主権下に久しく入っている諸領域を包含している。フランスも広大な殖民地との間に特殊的連繋関係の設定を行っている。アメリカ合衆国は、その地理的地位に幸せられて、中南米に多くの半植民地を以ているが、それをアメリカ・ブロックにまで形成せんとしている。ソ連は、その辺境地帯に住んでいる、未発達種族を包含して、広大なソ連ブロックを形成している。これらの諸國は、過去2,3世紀の間に、広大な地域をその領土に収め、これによって、幾多の経済的利益を獲得し来ったのあるが、いまや国際情勢の緊迫化によって、世界のいたるところに一触即発の状態にある戦争を前にしつつ、自國の権益を死守せんとしているのである。これらの諸国はいはゆる「持てる国」であって、その開発に着手していない幾多の資源を持ちながら、これを他の経済的開発にすら委ねることが出来ない諸國である。
 これに対して、ドイツ、イタリーのごときは、いはゆる「持たない國」であって、その領土においても、資源においても貧弱を極めている。日本も亦その人口に比較して領土狭小の故に「持たない國」の中に数えられる。ドイツのごときは、世界戦争以前にまで持っていた諸植民地(英仏蘭等に比すれば、狭小なものであるが)をヴェルサイユ条約によって奪はれ、本國の一部分をも割譲を余儀なくされたのであって、その資源の欠乏は、著しいものがある。イタリーのごときも、大戦の講和会議において、英仏が獅子の分け前を取ったにも拘わらず、何等の領土をも獲得するところがなかった。而して、その有する植民地のごときも、資源貧弱である。これらの「持たない國」は、新しい領域への要求を常に提出しつつつある。その理由は、一面においては、一般産業の発展のためであると同時に、戦時経済体制への整備のためである。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<持てる國と持てない國の對立>   「持てる國」と「持てない國」との對立は、こゝに起こってゐる。
 「持てる國」のブロック政策は、「持たない國」の経済的活動を狭小化する。大英帝國ブロックの形成によって、わが國の受ける打撃のごときが、この適例である。わが國は、インドから綿花を、オーストラリアから羊毛を多額に買い取ってゐるにも拘わらず、イギリスのブロック政策は、わが國の商品に對して、イギリス商品の特恵的取扱によって、對抗してゐるのであった。かくのごとき「持てる國」のブロック政策が「持たない國」の活動を狭小化することが、「持たない國」をして、その活動領域拡大のために、強い要求を提出せしめ、この要求の貫徹を期する上において、軍備の拡大を行ふ理由となるのである。
 従って、世界における諸強國は、各々そのブロックを維持し、またはこれを形成せんと努力をしてゐる。これを解決するために、資源、販路などの「平和的変更」(ピースフル・チェンヂ)が提案せらるゝ一方において、「持てる國」の當局者は、しばしば寸土尺地をも、他に割譲する意思のないことを宣言してゐる。さうだとすれば、この問題の解決は、遂には実力によらざるを得ない。実力によるとすれば、それは経済力によるか、政治力によるかである。しかるに平和的な経済的方法が、高関税障壁、ブロック政策のために採用せらるゝことが、不可能であるとすれば、政治力を用ゆる以外に、方法はないのである。それも、平和的な外交方法によって、「平和的変更」が不可能であるから、政治の要求を体現する他の手段によらねばならぬ。クラウゼウイッツの言ふやうに、「他の手段をもってする政治の延長は戦争である」戦争の必然性は、こゝに確定的である。
 戦争が必然的であるとすれば、戦争當事國は、最も早くその戦備を整へねばならぬ。そのためには資源の供給を確立しなければならぬ。資源供給地域の確保の方向は、先ず最も抵抗力の弱い部分に向はざるを得ない。「持てる國」との密接な関係を持たない地域で、その要求國との接壌地帯が、その目標となることは必然的である。こゝに世界再分割の傾向が発生する。もし「持てる國」が、かゝる状態の不利益を察して、その領土を割譲するか、その自由な処分に任すならば、世界の武力による分割は、免れ得るであらう。
 しかしながら、それが許されない限りにおいて、戦争準備のためのブロック化政策は必然である。この情勢に對応して、「持てる國」のブロック化政策が、進展するものとすれば、相互的にブロックの強化が行はれるに至るであらう。
 かくのごとき傾向は、世界を数個のブロックに分割する結果を招来するであらう。そして、従来のやうな比較的狭小な地域と少数の人口とを有する國家を、減少せしめるか、かくのごとき國家が、その形式上の獨立を維持しながら、強大國のブロックに編入さらるゝに至るかであらう。拡大地域におけるブロック化政策の必然性は、以上のやうな政治経済的要請に基づくものであるが、このブロック化を可能ならし、えた最大の要因は、機械の発展である。生産における機械の応用とその組織の発展と交通機関の異常な発展とである。かゝる技術の発展の結果は、世界を狭小ならしめると同時に、この狭小化した地域において、自由に軍隊を動かし得る程度に、軍隊が機械化したことである。これらの結果は、人間の知恵の現状においては、戦争に導かれるより外にないのである。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の目的、制約>  経済ブロックは、実際的には世界恐慌の對策として、形成されたものである。而して、この経済ブロックの形成の世界的傾向が、平和的方法で実行し得ない現状が、各國をして、軍備の拡大に赴かしめる必然性のあること、従ってまた戦争の必然性が存在することは、前段述べたところである。かゝる相互に関連した理由によって、ブロックが形成さらるゝとすれば、ブロックの本質はこの条件によって規定せられねばならぬであらう。ブロック経済の理想的本質をもって、ブロック領域内における自給自足にありとするものがある。一國における自給自足を理想的状態としたのは、封建時代においてであった。この時代においては、産業的需要も多種多様でなく、従って産業の必要とする資源のごときも、単純少量で足りたので、この状態の実現は、甚しい困難を伴ふものではなかったし、よしまた自國領域以外の資源を必要とする場合においても、交通機関の不備が、このことを許さなかった状態にあるので、その取得を断念すべき状態にあった。しかるに、近代においては、封建時代における経済様相は、変革せられて、生産規模の発展、交通機関の進歩が、封建時代の不可能または困難を、可能または容易にしたことは事実である。この事実が、また自給自足の状態を不可能にしてゐることも、認識せられねばならぬ。
 かくのごとき結果から、もし理想的な自給自足的ブロックを形成するとすれば、それは全世界を1つのブロックとしなければならない。
 別の言葉でいへば、世界の政治的統一が成し遂げられねばならぬのである。しかしながら、世界の政治的経済的統一のごときは現在のやうな民族主義の思想と実践との濃厚な時代においては、急速に実現し得ないことはいふまでもないことであり、かくのごとき企画を実行に移そうとすれば、全世界との戦争を敢えてしなければならぬ状態が、これを不可能ならしめている。
 一経済ブロックにおいて、比較的多くの資源を獲得し得るものは、大英帝國ブロックであるが、そこでも完全なものでないことはいふまでもない。よし、またブロック内において、資源獲得が不可能であるとしても、多量に生産せらるゝ諸種の商品のブロック内消化が、また問題である。何となれば、現在におけるブロックの構成は、一中樞國家とそれの衛星的領域との連繋であり、衛星的領域は資本主義の未発達状態にある農業的領域であるか、相當に資本主義の発達してゐるところでも、中樞的資本主義國に對して付随的意義しか持たないところの領域である。従って、中樞國家資本主義國が、そのブロック経済領域から自由に資源を獲得し得たにしろ、それによる生産品のすべてを、この領域内だけでしょうかすることは、殆ど不可能であるといひ得るであらう。
 かくて見てくれば、ブロック経済における自給自足性は2つの方面から現在のところ不可能であるといはねばならぬ。
一、現在形成せられ、また形成せられやうとしているブロック経済は、(イ)代駅帝国ブロック、(ロ)北米合衆國ブロック、(ハ)ソ連ブロック、(ニ)フランス・ブロック、(ホ)ドイツ・ブロック、(ヘ)イタリー・グロック、(ト)東亜(日本)ブロックであるが、そのいずれについて見ても、資源的に充分なもの2を以ていない。従って極めて現実的に考へられた経済ブロックにおいては、ブロック内自給自足は不可能である。
 この自給自足性が充分に確立せられ得る望まれるブロックを形成するためには、多大の困難と犠牲を払わなければならぬし、よしまたこれを払ったとしたところで、これが実現の可能性が興へられるか否かは、甚だしい疑問であるといはねばならぬであらう。さうすれば、ブロック経済の自給自足性は、現在においては、問題にならぬといはねばならぬ。
二、第二は、ブロック経済内、殊にその中枢國家領域における大量的生産が、ブロック内において消化し得ないといふ条件である。これはブロックの形成が、従来の植民地的関係の拡大である点から、さう論断せざるを得ない。先進的資本主義國と後進國との連繋、各ブロックによる後進國領域に対する特恵的関係によって、他國の活動を排除しようとする傾向がこれである。
 従って、ブロック経済の設定も、封鎖経済の本質に徹することが出来ない現状にある。即ちブロック経済の設定も、また世界経済的条件の下においてのみ可能だといふことである。此点でブロック経済に対する誤解が修正されねばならぬ。即ち、それは単にブロック内の自給自足を目標とすべきではなく、進んで次の国際分業の原則を再建せんとするところにその積極的意義を認ぬべきである。つまり世界が従来の國組織では狭さを感じ、より広汎なる一定地域にブロックを建設すると共に、これを単位として世界の新融通関係へ到る段階を形成しつつあるものと認むべきである。従って、これは或る程度までエクスクルーシブであると共に、又多分にインクルーシブでなければならない(何をエクスクルードし、何をインクルーシドすべきかが重大な問題である)。又軍備を中心に云へば、ブロック経済は一応戦ふ形の完備を目指すものには違ひはないが、同時に戦う形の中に次の平和への動向を持つものでなければならない。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<昭和研究会というシンク・タンク>  上記『ブロック経済に関する研究』の著者菅沼秀助は昭和研究会に属していた。ここではその「昭和研究会」に付いて扱うことにし、『昭和研究会』からの文章を引用することにしよう。
国策研究の開始
  私は、近衛に紹介され、各種の研究会が始まった。初めは部門ごとに専門家を招いて、話を聞くところから始まった。近衛、後藤、蝋山、それに当時大蔵省ににいた井川忠雄と、私が出席した。場所は、近衛と由縁の深い霞山会館であった。弁当はいつも築地の錦水から取り寄せたが、会合のたびに近衛公が出るか、出ないかという問い合わせがあった。出席の時には近衛の弁当だけ、刺身や生ものを止めて煮物に差し替えられるのだ。私は陛下には生ものを差し上げないと聞いていたが、近衛までそうであるとは思っていなかった。また、近衛は自分で財布を持ったことがない、とも聞いた。初めて身分の大きな相違に気がついた。
 会議は蝋山が司会をし、井川と私とが記録をとり、これを蝋山が見たうえで、タイプで数部要録を作って要所に配布した。
 第1回の会合は、昭和8年10月9日の国防・外交の会で、米田実、芦田均、稲原勝治、それに海軍から石川信吾、陸軍から鈴木貞一を招いた。続いて同じ問題で、16日に伊藤正徳の話を聞いた。19日には後藤文夫、阿部重孝、関口泰、田沢義鋪、城戸幡太郎らで教育問題を研究、以後、教育問題研究会は毎週1回開催と決まった。翌20日は社会大衆党の政策を聞く会を開き、麻生久(良方の父君)、加盟貫一郎、井川忠雄らが集まった。以後麻生たちは、週1回後藤事務所にやってきて、すき焼きを囲みながら、社会大衆党の政策を熱心に語った。近衛内閣の成立を見越し、まず後藤の教育をしようとしたものである。さらに22日には、青木得三、土方茂美、河合良成、山室宋文を招いて財政問題の会、25日には支那問題を宮崎竜介、というように10月中に6回の会合を開いた。
 11月に入っても、会合は頻繁に開かれ、外交問題を石井菊次郎、社会経済問題を松岡駒吉、麻生久、河合栄治郎、三輪寿荘、金融問題を新木栄吉、田辺加多丸、加納久朗、荒木光太郎、というように聞いていった。しかしその後、行政機構改革問題を前田多門、菊池慎三、佐々井弘雄、唐沢俊樹を招いて聞いたとき、数日後の読売新聞に佐々が書いた「後藤隆之助主宰するところの研究会に招かれたが、この研究会は近衛公の国策研究会で云々……」という記事が出たので、近衛は以後、政権に野心があると見られるのを警戒して、ごく少数の特別の会合以外は、出席しなくなってしまった。
 その年の12月に入って、時事問題懇この要綱審議と談会を設けたいという名目で案内状を出し、霞山会館で発起人会を開いた。集まったのは次のの人々であった。
 有馬頼寧、河合栄治郎、佐藤寛次、那須皓、蝋山政道、後藤隆之助、井川忠雄、酒井三郎
 これらの人々から推薦があり、さらに次の人々を加えることが決まった。
 新木栄吉、河上丈太郎、松岡駒吉、関口泰、田沢義鋪、田辺加多丸、東畑精一、田島道治
 そして第1回の会合の時に、名称を「昭和研究会」と名付け、国策を総合的に研究すること、毎週1回会合することを決めた。集まった人々の多くは、近衛に近い友人で、いずれ近衛が政権を担当する時がくるので、その時のために政策を用意しておこうという気持ちが強かった。しかし、席上関口泰から、
 「この研究会は特定個人のためにやるのかどうか。ここに集まったものは近衛公と親しい友人が多いけれど、一個人近衛公のために研究するのではなく、激動する内外の情勢から日本を見ると、私たち自身、自分のこととして、日本がどうあるべきかという政策を真剣に検討すべきではないかと思う」
 という発言があって、みんなこれに賛成し、各自が会合のたびに会費を持ち寄って集まることになった。この時は、会費として夕食代2円を集めている。
 何回か会合を続けるうちに、単に時事問題を話し合うというよりは、テーマをしぼって基本的な問題を検討した方がいいということになり、蝋山が「昭和国策要綱」草案をまとめ、これを基にして審議を進めることになった。要綱は、政治外交、金融財政、経済社会、」労働、農村、教育など全般にわたっており、それぞれ項目ごとに審議を重ねた。記録は前と同じ井川と私がとり、蝋山が目を通してタイプに打ったものを、近衛などに配布した。わずかな部数であった。その間、高橋亀吉がアメリカから帰朝した時に、ニューディールの話を聞いたあと、メンバーに加えたりした。国策要綱の審議は、翌年の4月の初めに一応終了した。5月に近衛がアメリカに行った時、蝋山がこれに動向し、この旅行中にまとめることになったが、なかなか脱稿しなかった。この要綱審議と並行して、後藤事務所では、松井春生の「経済参謀本部論」、三浦哲太郎、石橋湛山、山崎靖純による「統制経済について」、大蔵公望の「満州問題」などを次々に聞いた。これらの人びとは、以後、昭和研究会とは有力メンバーになっていったのである。
 なお、農村問題研究会と教育問題研究会とは、この間も毎週1回開かれていた。農村問題研究会は、青年団本部に設けられていたの依存問題研究会を重要問題の1つとして引き継いだ形であったが、委員長後藤文夫が斉藤内閣の農林大臣になったなめ、委員の人びとは研究の成果を農村行政に生かそうとして、熱心に会合を続けた。教育問題研究会も青年団本部時代から引き継がれたものであった。この研究会は、会合を重ねて一応の改革案ができると、名称を教育改革同志会と改め、昭和研究会の別働隊として、実行団体としての運動を進めることになった。
 こうして諸会合を続けているうちに、研究会の動きは世人の噂に上るようになったので、もうこの辺で堂々と正面から打って出てもいいのではないか、という意見が内部から強く出るようになり、みんなはそれに賛成した。今まで研究会は後藤事務所の名のもとに、」できるだけ目立たぬように進めてきた。研究成果や意見書もごく少部数作成して、政府、各階の有力者だけに提案してきた。中には3部くらいしか作らないものもあった。もちろんそういう極秘事項のものはこれからもあるだろうが、大部分は要所要所に広く配布するようにし、事務所も青山から丸の内に出て、名称も個人名でなく、正面切って研究会の名を出すようにすることが決まった。昭和研究会の新展開である。昭和10年の新春を迎えてのことだった。 (『昭和研究会』から)
<尾崎・ゾルゲ事件と尾崎秀実の評価>  『昭和研究会』の中に「尾崎・ゾルゲ事件」を扱った部分がある。オタワ会議とは直接関係はないがあまり知られていないことも書かれているのでここで取り上げることにした。
 第3次近衛内閣がいよいよ終末に近づいたころ、有名な「尾崎・ゾルゲ事件」というのが起こった。この事件で逮捕された尾崎秀実は、これまでにも出てきたように、昭和研究会のメンバーでもあるので、ここで少し触れておこう。
 尾崎秀実については、戦後、軍国主義の滔々(とうとう)たる流れの中で苦闘した革命家としても理想的なイメージが描かれているが、
「われわれの仲間うちでは誰もそう思っていない。要するに、酒は好き、女は好きでね。金に困ったあげく、大したネタでもない新聞社の情報をゾルゲに売っていたのさ」
 と、東京放送の「時事放談」(昭和53年6月25日放送)で、朝日新聞社で尾崎の先輩であった細川隆元が語っていた。対談者の藤原弘達は、高低も否定もしなかったが、そういう意見を初めて聞いたように見えた。
 共産党国際スパイ団ゾルゲ事件の発覚によって、昭和16年10月15日、尾崎が突然検挙されたニュースほど、当時私たちに衝撃を与えたものはなかった。研究会の時だけでなく、平常もいつも親しく接触していた私たちは、半信半疑というよりも、むしろ信じられない事件であった。さっそく昭和研究会の委員であった池田克(大審院刑事局長)や、内務省の先輩である大塚惟精、唐沢俊樹にただしたところでは、「明白な証拠がある。しかし、局部的なもので、他に波及することはない」という答えであった。内容は深く知らされてなかったが、私たちはこれを信ずるほかはなかった。尾崎は昭和塾の講師でもあったので、これをきっかけに昭和塾理事であった大塚の意見によって、結局昭和塾は解散を余儀なくされてしまった。
 この事件は、翌17年の5月、司法省から「国際諜報団事件」として発表された。このスパイ団は、コミンテルン本部から派遣されたリヒアルト・ゾルゲが、宮城与徳、尾崎秀実らを中核として、日本に赤色スパイ団を組織し、多くの機密事項をソ連に流したものであるとされたのであった。
 尾崎は、人なつっこく話好きで、いつも笑みをたたえ、みんなに親しまれ、そして少しく軽かった。声をひそめて、こういう話がsつぞ、と言って、よくこっそり情報を漏らしたりした。私は彼を共産革命家とは思っていなかったが、軽率にしゃべりすぎることと、彼がやっていた研究室に、左翼経歴のある若い人々を集めていることを知って、こういう時勢には言動に気をつけないと危ないな、という予感がなんとなくしていた。
 検挙されたことを聞いて、私たちが集まった時に、これは近衛内閣打倒の軍や反対派の謀略ではないかとか、情報好きと軽さが災いしたのではないかとか、あるいは、確かに不審な行動があった、共産主義者に違いないとか、さまざまな見方があった。当時、壮年団本部におり、のちに読売の論説委員になった市川清敏は、
「これだけ長い間つきあっていて、少しもおかしいと感じさせなかったのは、よほど偉大な人物か、そうでないか2つである。しかし、私には、尾崎君はそんなに医大な人物とは思えない」
 と言っていた。
 もし尾崎が、日本の社会革命のために、情報を提供していたとすれば、彼ほどよい立場にいた者はなかったと言ってよいだろう。彼は近衛内閣の嘱託であり、新聞社や満鉄関係から、刻々動く情報を得ることができた。また昭和研究会のメンバーとして、各研究会の動きを知り、諸官庁の資料を手に入れることができ、日本の対支、対米英、とくに対ソ方針を的確につかむことができた。
 私は、尾崎がある日、目の色を変えてしょうわ研究会の事務所に飛び込んで来た時のことを思い出した。彼は、居合わせた大山と私に、
「漢口を即時たたくべし、漢口は政治、経済はもとより、軍事、交通その他、大陸に残された唯一の大動脈の中心である。もし、この要路を押さえれば、直ちに中国の息の根を止めることができる」
 と言って、原稿用紙数枚の意見書を出し、「これを昭和研究会の名で、内閣や軍に出そうではないか」と熱心に主張した。前に述べた通り、支那事変に対する研究会の根本方針は、事変の不拡大であった。そして、その主唱の中心をなすものは、支那問題研究会であり、尾崎はまたそのメンバーの1人であった。大山と私とは、尾崎の意見の突然の急変に、奇異な思いをした。私たちは佐々を訪ね、尾崎の主張を述べたところ、佐々は「これはとんでもないことだ。おかしいぞ」と、首を傾げた。
 こうして、尾崎は漢口作戦促進を昭和研究会から建言することには失敗したけれども、おそらく他のいろいろのルートを通じて、強力に働きかけたに違いない。研究会では、当時高橋亀吉なども漢口作戦を強調していたので、尾崎だけの意見ではないにしても、その後、軍が漢口作戦に直進したのは、尾崎のこのような働きかけが、ある程度作用したと言っても過言ではあるまい。また、のちに研究会のある会合で彼は「ビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と主張して、石原莞爾が「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うか」と激怒した一幕もあった。
 尾崎の女関係は私は知らないが、酒が好きで銀座のバーをよく飲み歩いていたことは、確かだし、そのために金の要ることも、確かであった。しかし、彼が意見書を持ってきた時のことを考えてみると、彼の行動が金ほしさのためだけで深みにはまったと見るのは、酷であるような気がする。
 彼は、支那問題研究会の報告で、
「国民党自身の力は弱いが、外国の勢力、とくにイギリスの支配力が強いので、中国は本質的に反資本主義国にはなり得ない。しかし、資本主義の育成もなかなか困難な国である。そうだとすると、その時に広大なソビエト区域の存在は必ず反帝勢力となって現れる」
 と言っていた。彼の事変に対する態度は「どうもはっきりしないね」と大山と私は首を傾げていた。そういう尾崎の言い方を思い合わせると、彼は資本主義社会が共産主義社会に転換することは必然であり、日本の軍国主義体制が敗れて、中国が共産化し、人民が解放されることは、中国にとっても、日本にとっても、また世界にとっても、大いなる進歩であり、世界人類のためであると考えていたのではないか。彼は行動の基盤をそこに置いていたのではないか。それゆえにまた、ソ連に対して理想的は社会として幻想を描いていたのではなかったか、と思われる。
 そして、その転換のためには、近衛をロボットとして利用するのが最も上策だと、判断していたのではなかったか。しかし、細川や市川の尾崎評もいあり、彼がそこまで考えていたかどうかは、人によって意見も分かれるところであろう。
 なお、尾崎の葬儀は、まことにさびしかった。彼ほど交友の広い者は余りなかったし、また深い交わりの人も多かったと思うが、それらの人々は殆ど顔を見せなかったと。そういう中で、独り後藤隆之助が、尾崎の棺側にあって、参列者一人一人に頭を下げていた。 (『昭和研究会』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ブロック経済に関する研究』               菅沼秀助 生活社      1939.10.17
『昭和研究会』                      酒井三郎 中公文庫     1992. 7.10
( 2008年9月8日 TANAKA1942b )
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(4)日本が選択した「大東亜共栄圏」構想
それ以外に選択肢はなかったのだろうか?
  先進諸国が保護主義を強めていったのに対し、日本は、日本独自のブロックを作らなければならなくなった。そこで生まれたのが「大東亜共栄圏」という構想であった。ここでは当時の識者がどのように考え、それをどのように訴えていたかを取り上げることにしよう。
<南方建設対策の意義と問題の重点>  大東亜戦争の完勝を確保するためにも、聖戦目的たる大東亜共栄圏確立のためにも、その扇の要となるものは、南方建設の成否如何であることは改めて絮節するまでもない。ところで、現下謂ふ所の南方建設は、戦時特殊の事情に鑑み、左の如き3段階に之を分けて其の具体的方策を樹てる外ないわけである。
  (1) 軍事占領直後一定期間の作戦期に於ける応急対策
  (2) 右作戦期一巡後の長期戦段階に於ける半恒久対策
  (3) 世界的規模に於いて大東亜共栄圏を本格的に建設し得る段階に於ける恒久対策
 (1) の応急対策に於いては、謂ふ迄もなく当面に於ける先戦目的の達成と云ふことが其の根幹を成すものであるが、(2) の長期戦対策に於いては、作戦目的も依然重大位置を占めざるを得ないが、それ以外に於いて、大東亜共栄圏そのものの建設目的の達成そのものが、併立的に愈々重大考慮を要求するに至るのである。併し、長期戦段階に於いては、一方には戦争状態のため、一方には東亜以外との交易の壮絶のため、共栄圏の建設は未だ其の本来の姿に於いて之を進めることが出来ず、多分に過渡期的性格のものたらざるを得ない。ゴム、錫、砂糖、コプラ、マニラ麻等の戦時過剰産業乃至物資処理対策の如き其の典型的事例である。
 斯様なわけで、大東亜共栄圏建設の本格的対策を施策し、以て東洋民族そのものの物心両面に於ける向上を真に全面的に図り得る段階は之を平和克復後に俟たねばならず、それ迄の過渡期に於いては、作戦要求そのものを何よりも優先せしめ、而かも、戦時非常状態を基礎とする応急的乃至長期戦的共栄圏対策に全力を挙げる外ない次第である。併し乍ら、応急対策乃至半恒久対策は謂う迄もなく、極力恒久対策の線に沿えるものたらしめ、且つ、追い級対策の段階は極力急速に之を長期戦段階のそれに切り替へることが建設対策上肝要である。と共に、以上の段階に於いても、主力を注ぐべき対策の重点や序列は必ず之を総合的に考査することの要がある譯であって、これ等を全体的に考慮せる総合対策を、豫め至急考究確立する措置を講ずることが此際特に必要である。之に処するがために、第1に問題となることは、以上の如き総合的観点よりする南方建設基本対策の一大企画機関創設の急務についてである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<自由通商の崩壊とブロック経済の生成>  前節の如き國際自由通商体制の崩壊に代わって、新たに登場し来れる國際政治経済の新秩序は、所謂ブロック経済である。尤も、それは其の当初から、現在の如き世界の新秩序としての相貌と資性とを具備していたものではなく、発生的には単なる世界恐慌対策として登場し、爾後、世界の新秩序としての資格を漸次加ふるに至ったものである。いま、その経過の一般を一瞥せば、大凡、次の如くである。
(a) 世界恐慌凌駕対策としての「ブロック」経済の生成=消極的経済事由。
 (イ) 自國産業の破滅、失業問題の破局的困難を救ふため、持てる國々が真先になって、自己の政治権力下の販路を、自國乃至自國「ブロック」内産業のために排他的に優先独占する貿易政策を採ったもの。
 (ロ) 為替暴落阻止、其他通貨価値維持の見地より出発して、為替統制、輸入割当等の貿易統制から、「ブロック」経済に進んだもの。
 (ハ) 他國が「ブロック」経済政策を採用せるために、之に刺激せられて受動的に(但し自らに内在せる経済困難凌駕のため)「ブロック」経済政策を採るに至ったもの。
(b) 國際経済戦上の有力なる武器としての「ブロック」経済の発展=積極的経済事由。即ちはじめ専ら世界恐慌凌駕策として発生した「ブロック」経済の本質は、其の後次第に変質し、新たに、自國並びに植民地の総合的輸入力を武器として、求償的にその輸出の確保並びにその積極的増進をも企画せんとする、國際経済戦上の攻撃的体制としての「ブロック」経済の積極的役割が濃厚となるに至った。日英通商戦に於ける英國の経済戦略はその典型である。
(c) 軍事的要求としての「ブロック」経済の生成。
 (イ) 國際関係の緊迫化は、「持たざる國」をして、その國防資源乃至基礎産業資源の自國政治支配圏内に於ける確保と拡大とに之を煽立て、他方、「持てる國」は之を有力なる武器として、資源の自給的、独占的位置を確保すべく、夫々、その「ブロック」陣を強化した。
 (ロ) 欧州大戦の教訓は、國際自由経済の下に於いてすら、既に、戦時必要の原料食料の自給率を平時に於いて備えることの必要を痛感せしめつつあったが、「ブロック」経済化の傾向と通商不安とは、持たざる國をして、右の必要を益々命令的ならしめた。
 (ハ) 加之、國際連盟の経済制裁規定、並びに「持てる國」による経済制裁の度々の恫喝は、「持たざる國」をして軍需資源の自己傘下に於ける確保の必要に、度々油を注ぐ結果を生んだ。
 (ニ) 最後に、前記(b) の如き求償的貿易抗争裡に於いては、基礎的軍事資源をその支配下に有することがその國をきわめて有利なる位置に立たしめるものなることが、実践的に訓へられ、國際経済戦争力の強化の見地からも軍事資源確保のための「ブロック」経済の要求が益々鮮烈化した。
 (ホ) 飛行機、戦車等の近代兵器の発達は、従来の如き狭少なる國境の維持を戦略上不可能にし、ヨリ大なる境界線を必要とするに至った。
 ブロック経済が、今日の如く世界の支配的体制となるに至った経路は、之を大体以上の如く解釈すべきであらう。而して、「ブロック」経済生成の契機となれる以上の諸事由が、如何なる比重を以て組み合わされているかは各「ブロック」によってそれぞれ異なり、一般に、「ブロック」の中軸低国家の最弱点が、その「ブロック」結成の直接的契機として最全面に押出されているが、それらの相違よりして、又、各「ブロック」にはそれぞれの特色乃至性格とも云ふものが表面化されて居る。
 例えば、持てる國の「ブロック」結成の大部分は、先ず、世界恐慌の経済的困難克服策より発して、市場防衛のための貿易対策に重点が置かれ、随って、現状維持を建前とする消極的、保守的特色を帯びるに対し、「持たざる國」の「ブロック」的要請は、斯くの如き市場の消極的防衛よりも寧ろ、資源、並びに市場の積極的拡大確保に向かって集中せられ、その必然的結果として、現状打破を建前とする積極的、攻撃的態勢に傾くが如くである。併し、右の差異は、必ずしも各「ブロック」の本質的差異を示すものではない。蓋し、「持てる國」は既に十分の資源と販路とをその政治支配圏内に持てるが故に、之を要求せず、ただ、その弱点とする経済競争力を政治力を以て補うに汲々たるのであり、之に反し、「持たざる國」は、資源と販路とを、その政治圏内に十分持たざるが故に之を強く要求するにすぎないものであるからである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<序>  民族と階級の問題は今世界が当面しつつある最も大きな課題である。しかも日本は現在支那事変と言ふ日支両民族の抗争のただ中に立って、民族と階級との問題の具体的解決を迫られつつある。東亜はこの今日の世界史の最大の課題に対して今答案を書かんとしている。しかも、それは日支の抗争と言ふ奮き世界秩序の当然の破綻から招来された事変の故に、その解答も、また世界史的な広さと高さとの於いてのみ解決の途を得るものであって、それ以外に解決の方法のない事も明らかに意識されてきた。
 その世界史の課題への答案は、未だ具体的ではないが、構造的にはすでに生まれつつある。「東亜共同体」の理念がそれである。
 筆者は支那事変の発生と共に、事変の基底の深さの故に、その内包する歴史的意思は、やがて東亜共同体への凝固の必然となり、それのみが東亜の解決である事を直感した。そして1ヶ年の余に亙って、そうした見地から事変の発展を検討し続けたのであった。最近において東亜思想、或いは東亜共同体の理念は種々な形で論壇にも、正解にも取り上げられはじめた。しかし、事由主義の基礎の上に、単なる一片の政策論として取り上げられた東亜共同体論の余りに多い事は、むしろ日本の知性の低調を語る以外の何物でもあり得ない。
 民族共同体の理念は、所謂近代国家を形成した19世紀の支配國の世界秩序である國際金融資本秩序、國際共産主義秩序に反立した新世界秩序の建設を目指し、その精神領域においては古き個人主義の諸文化体系に対して、新しき全体生命観に基づく世界観を樹立せんとしているのである。それは現実の生活秩序に対しての、また我々の精神領域に対しても1つの変革を要求しているのである。それは時代の革命を意味している。従ってそれは今日の世界史の課題たる古き秩序の下における矛盾である民族と階級の問題をも従来の方法を越へて同時に解決せんとする生命の意欲を持つものなのである。
 東亜共同体理念は日本の1つの政策ではなく、かつて「アジア的」なる軽蔑の代名詞を冠せられた東亜の地域に生まれつつある新しき民族理念であり、社会理念であり、政治、経済、文化の原理なのである。この理念による新秩序の完成の日は、軽蔑の代名詞「アジア的」なるものを、新しき文化の代名詞として高らかに世界に誇り得る日なのである。
 本書は東亜共同体理念に関する一切の問題を提示したものである。筆者が民族共同体の主張を書き続けた2カ年にわたる所産である。本書に収められた諸論文は、大体雑誌「解剖時代」にその都度掲載されたものである。故に歴史篇の収められた、支那事変の過程に於ける諸分析は悉くその当時のものであるが、ことさら日付を附して、過程的な形のままでここに収録した。それは事変の進展の過程における日支両國民の意識目標の推移と、民族我の自覚とをありのままの形で表現せんとしたからである。そしてそれが如何なる意識段階を経つつ、東亜共同体の理念に凝固されたかを如実に示さんとしたのである。
 時間的余裕の不足の故に、種々不備、不満の点も多いのであるが、問題を一応全部提出して見たいと言う希望が、この書の出版となったのである。
 東亜共同体の理論も哲学も、それは今後の東亜の知性を動員して成し遂げられなければならない問題なのである。支那事変の一応の解決が如何なる形でなされようと、この歴史の意思として表れた民族共同体の理念は自己の歴史性を貫くであらう。
 今後この種の研究が各専門部門から現れる事を期待して、本書が、より高き、より正しきものを生み出す刺激となれば幸甚である。 (『東亜共同体の原理』から)
<自由通商の崩壊とブロック経済の生成>  前節の如き國際自由通商体制の崩壊に代わって、新たに登場し来れる國際政治経済の新秩序は、所謂ブロック経済である。尤も、それは其の当初から、現在の如き世界の新秩序としての相貌と資性とを具備していたものではなく、発生的には単なる世界恐慌対策として登場し、爾後、世界の新秩序としての資格を漸次加ふるに至ったものである。いま、その経過の一般を一瞥せば、大凡、次の如くである。
(a) 世界恐慌凌駕対策としての「ブロック」経済の生成=消極的経済事由。
 (イ) 自國産業の破滅、失業問題の破局的困難を救ふため、持てる國々が真先になって、自己の政治権力下の販路を、自國乃至自國「ブロック」内産業のために排他的に優先独占する貿易政策を採ったもの。
 (ロ) 為替暴落阻止、其他通貨価値維持の見地より出発して、為替統制、輸入割当等の貿易統制から、「ブロック」経済に進んだもの。
 (ハ) 他國が「ブロック」経済政策を採用せるために、之に刺激せられて受動的に(但し自らに内在せる経済困難凌駕のため)「ブロック」経済政策を採るに至ったもの。
(b) 國際経済戦上の有力なる武器としての「ブロック」経済の発展=積極的経済事由。即ちはじめ専ら世界恐慌凌駕策として発生した「ブロック」経済の本質は、其の後次第に変質し、新たに、自國並びに植民地の総合的輸入力を武器として、求償的にその輸出の確保並びにその積極的増進をも企画せんとする、國際経済戦上の攻撃的体制としての「ブロック」経済の積極的役割が濃厚となるに至った。日英通商戦に於ける英國の経済戦略はその典型である。
(c) 軍事的要求としての「ブロック」経済の生成。
 (イ) 國際関係の緊迫化は、「持たざる國」をして、その國防資源乃至基礎産業資源の自國政治支配圏内に於ける確保と拡大とに之を煽立て、他方、「持てる國」は之を有力なる武器として、資源の自給的、独占的位置を確保すべく、夫々、その「ブロック」陣を強化した。
 (ロ) 欧州大戦の教訓は、國際自由経済の下に於いてすら、既に、戦時必要の原料食料の自給率を平時に於いて備えることの必要を痛感せしめつつあったが、「ブロック」経済化の傾向と通商不安とは、持たざる國をして、右の必要を益々命令的ならしめた。
 (ハ) 加之、國際連盟の経済制裁規定、並びに「持てる國」による経済制裁の度々の恫喝は、「持たざる國」をして軍需資源の自己傘下に於ける確保の必要に、度々油を注ぐ結果を生んだ。
 (ニ) 最後に、前記(b) の如き求償的貿易抗争裡に於いては、基礎的軍事資源をその支配下に有することがその國をきわめて有利なる位置に立たしめるものなることが、実践的に訓へられ、國際経済戦争力の強化の見地からも軍事資源確保のための「ブロック」経済の要求が益々鮮烈化した。
 (ホ) 飛行機、戦車等の近代兵器の発達は、従来の如き狭少なる國境の維持を戦略上不可能にし、ヨリ大なる境界線を必要とするに至った。
 ブロック経済が、今日の如く世界の支配的体制となるに至った経路は、之を大体以上の如く解釈すべきであらう。而して、「ブロック」経済生成の契機となれる以上の諸事由が、如何なる比重を以て組み合わされているかは各「ブロック」によってそれぞれ異なり、一般に、「ブロック」の中軸低国家の最弱点が、その「ブロック」結成の直接的契機として最全面に押出されているが、それらの相違よりして、又、各「ブロック」にはそれぞれの特色乃至性格とも云ふものが表面化されて居る。
 例えば、持てる國の「ブロック」結成の大部分は、先ず、世界恐慌の経済的困難克服策より発して、市場防衛のための貿易対策に重点が置かれ、随って、現状維持を建前とする消極的、保守的特色を帯びるに対し、「持たざる國」の「ブロック」的要請は、斯くの如き市場の消極的防衛よりも寧ろ、資源、並びに市場の積極的拡大確保に向かって集中せられ、その必然的結果として、現状打破を建前とする積極的、攻撃的態勢に傾くが如くである。併し、右の差異は、必ずしも各「ブロック」の本質的差異を示すものではない。蓋し、「持てる國」は既に十分の資源と販路とをその政治支配圏内に持てるが故に、之を要求せず、ただ、その弱点とする経済競争力を政治力を以て補うに汲々たるのであり、之に反し、「持たざる國」は、資源と販路とを、その政治圏内に十分持たざるが故に之を強く要求するにすぎないものであるからである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<大東亜共栄圏 理念空振り日本の大義>  いつの時代も戦争は、理念と大義を必要とした。太平洋戦争も例外ではない。米英は「自由と民主主義」の旗印の下に、「軍国主義」日本を軍事力でたたいた。これに対して、日本が掲げたのが、「大東亜共栄圏」だ。
 開戦時の首相、東条英機の遺族宅に1枚の写真がある。
 参議院1号委員室(当時貴族院)。コの字形の机の中央に軍服の登場が陣取り、両わきに6人、後方に随員。
 「父が逮捕されるまで東京・用賀の私邸に応接間にこの写真が掲げてあった。最も誇らしい晴れ舞台だった」と東条の三男、敏夫。
 撮影日は1943(昭和18)年11月5日か6日。初の「大東亜会議」の光景だ。
 このとき東条が提案し満場一致で採択された「大東亜共同宣言」は、英米の「大西洋憲章」に対抗、日本の大義「大東亜共栄圏」構想を初めて世界に問うものだった。
 日本は真珠湾攻撃の直前まで開戦の名目が立たず苦しんでいた。41年11月2日の段階で天皇から「(戦争の)大義名分をいかに考えるか」と尋ねられた東条が「目下研究中」と返答している。5日の御前会議で「自存自衛」と「大東亜の新秩序建設」を掲げることに決したものの、諸外国には説得力がなかった。
 新たな大義を必要とするほど日本は追い込まれていた。
 遅ればせの宣言だったが、内容をようやくすれば「共存共栄」「独立親和」「文化高揚」「経済繁栄」「世界進運貢献」の「五原則」。
 伊藤隆・政策研究大学院大教授は「植民地解放をいたい、戦後、アジア各国の独立を促した。旧宗主国の英仏、オランダが植民地を取り戻そうとしたとき、これに勝る大義名分がなかったからだ」と話す。名越二荒之助・元高千穂商科大教授も「戦後、バンドン会議でネールらが提唱した平和五原則の先駆け。アジア各国に深い影響を残した」と言う。
 しかし、このとき出席したのは、大半が日本の傀儡政権代表だった。
 中華民国(汪兆銘)の汪行政院院長、「満州国」の張景恵首相、フィリピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース代表の賛成演説は、東条のコピーに近い。
 唯一の正当政府、タイは、ワンワイ・タヤコン殿下を代理出席させ、距離を置いた。
 豪ABC放送は「2人の顕著な欠席者がある。タイのピブン総理と仏印のドクター総督。この両人は、自国民の反日感情、ないし対日非強力の態度を知り、日本の独裁者に対する自信を持ち始めた」と分析した。
 反英闘争の英雄、ボーズは「岡倉覚三(天心)先生、孫逸仙(孫文)先生の夢が実現されんことを」と発言したが、仮政府代表として、共栄圏をインド独立に利用したいとの思惑が先立っていた。
 天心の言葉「アジアは1つ」にもかかわらず、この時期から抗日運動が激しくなる。
 ベトナムのベトミン戦線、フィリピンの人民抗日軍、マレー人民抗日軍、旧満州では関東軍70万人のうち40万人の兵力を東北抗日軍の「討伐」に割いていた。
 日本軍は、この時期、タイ・ビルマ間の泰緬鉄道で現地人に強制労働をさせ数千人が死亡、ジャワの農村では「ロームシャ」狩りを行っていた。理念は高く、現実は泥の中であえいでいた。
 戦況もあやしかった。すでに2月にはガダルカナル島を撤退、戦線は、総崩れの状態。敗走する日本兵の現地調達という名の略奪も激しさを増し、会議当日にはブーゲンビル島が総攻撃された。 (『20世紀 大東亜共栄圏』から)
大東亜共栄圏  日本を盟主にアジア、太平洋に広がる経済圏をつくろうという主張、旧満州に対して「日満一体」、日中戦争期には「東亜新秩序」が叫ばれたが欧州支配下の東南アジアへ「南進」するため植民地解放のスローガンが盛り込まれた。公式の発言としては開戦前年の1940(昭和15)年9月1日、第2次近衛内閣の外相、松岡洋右が記者会見で最初に使用した。 (『20世紀 大東亜共栄圏』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社   1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書     1992. 1.25
( 2008年9月15日 TANAKA1942b )
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(5)中国貿易の低迷による日本の貿易
日本製品排斥運動で満州が生命線になる
 先進諸国が自給自足とブロック経済化を進める中で、日本は狭まる貿易先の代償を中国に求めた。中国から安く資源を買い、工業製品を中国に売り込もうとしていた。その中国で日本製品のボイコット運動が起きた。そボイコット運動によって日本の貿易体制がどのような影響を受けたのか?今週はこうした点について扱うことにする。
<3つの中国市場>  この章の狙いはあくまで中国のボイコット運動の経済的示唆を分析することであって、ボイコットについての政治的判断や見解を述べることではない。中国の国土に日本軍が存在していたがためにボイコット運動が起きたことは十分理解できることだからである。
 中国は当時、日本が最も頼みとする市場の1つであった。1926年以前の20年間、中国は毎年、日本の総輸出の約20%を吸収し、一方、中国からの輸入は日本の総輸入額の約11〜12.5%を占めていた。日本は1918年を除いて毎年、中国貿易に出超を記録し、その額は1920年以降、著増していた。この対中貿易の黒字が、日本の対欧先進工業国との貿易収支の赤字を緩和するうえで役に立った。1926年だけでも、日本の貿易収支は3億2千9百万ドルの赤字であったが、中国貿易の黒字は8千5百万ドルにのぼった。
 しかし、その後、1926年から37年にかけて、日本と中国との貿易は低減の一途をたどるのである。ここで統計を詳しく見る必要上、中国を統計的に3グループに分類した。@中国(狭義)、A関東州、B満州(1931年以後)──の3グループである。なぜなら、後の2つのグループはこの期間を通じて日本の影響が極めて強かったからである。
表 1
年\地域 T
  中国(狭義)  
U
  関東州  
V
  満 州  
W
  中国全土(W=T+U+V)  
X
  その他のアジア諸国  
1926
20.6
4.8
  
25.4
18.8
1929
16.1
5.8
  
21.9
20.7
1931
12.5
5.7
0.9
19.1
34.9
1932
9.1
8.5
1.8
18.1
30.0
1935
5.8
11.9
4.4
22.0
27.9
1937
5.6
12.4
6.8
24.9
26.9
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 中国内の3つのグループを合わせた中国本土に対する日本の輸出が、1926,37年ともに、日本の総輸出のほぼ4分の1のシェアを保っていたことは注目に値する。それは表に見られるように、中国(狭義)向け輸出の衰退を関東州および満州への輸出増大で埋め合わせたからであった。中国(狭義)向け輸出は1931年から年を追う毎に衰えていくが、逆に関東州と満州への輸出は増大している。ことに32年以後、中国(狭義)向け輸出が26年レベルの半分以下、やがて37年には4分の1に激減していく中で、関東州への輸出は32年には26年レベルの倍、やがて3倍へと増加し、満州向けもそれぞれ倍増、6倍増となり、中国(狭義)向けの衰退を相殺したからであった。これが中国全土をまず統計的に3つのグループに分けた理由である。もしこれを、「大蔵省統計」のように中国全土への輸出総計(関東州を含む)のみを辿ることになれば、この章の分析の目的と意義はぼやけたものとなってしまう恐れがあった。
 この表に見るような関東州と満州向けの増大は、実は日本にとっては経済的矛盾の増大を抱え込むようなものであった。輸出増で日本の貿易収支が黒字になっても、決済はドルではなく円で支払われたからである。 (『対日経済封鎖』から)
<対中輸出シェアの低下>  日本の中国全土を除くアジア諸国向け輸出は、1926年の総輸出のうち18.8%のシェアを占めた。それは1931−32年にかけていったん30%まで急上昇し、36年、37年には約27%へと落ちたが、いずれにしても増加した。このアジア向け輸出の増加分は、中国を含まない地域で起こったことに注意しておきたい。
 かくて、1937年の日本の総輸出は、そのうち約25%が中国全土へ、約27%がその他のアジア諸国へ、そして残りの47%がアジア以外の北米大陸、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、中近東等へと振り向けられた。
 中国側の統計にも見られるように、なぜ、日本の総輸出に占める中国(北支・中支・南支という狭義)のシェアが非常に低下したのだろうか。
表 1
年\地域 T
 英 国 
U
 香 港 
V
 日 本 
W
 米 国 
X
 総輸入額 
1926
10.3
11.1
30.0
16.7
1,124
1929
9.4
16.9
25.5
18.2
1,269
1932
11.3
5.5
13.9
25.5
1,634
1935
10.6
1.8
15.1
19.0
919
1937
11.7
1.8
15.7
19.8
953
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 第1の理由は、中国の全世界からの輸入の減少である。表2のコラム5に明らかなように、中国の総輸入額は大幅に低下した。それには2つの理由が考えられる。1つは、1934,35年の中国の銀通貨価値の過大評価を相殺するために輸入品価格が高騰したこと。2つは、1936年の両国の銀本位制からの離脱によって、中国の通貨価格が下落し輸入の減少を招いたことである。
 しかし、中国の輸入は同期間内に、どの国に対しても一律に低下したわけではない。その中でも日本のシェアの低下は目覚ましかった。1926年の30%から37年の15.7%へとほぼ半減した。
 中国輸入市場でシェアが最も低下したのは香港であり、次いで日本であった。逆に、シェアが最も上昇したのは米国で、1937年には20%に近づいた。 (『対日経済封鎖』から)
<香港経由で南支へ輸出>
 1920年代における南支向けの日本の輸出のほぼ80%は、香港経由であったと言われている。1929年に、中国のボイコット運動の鉾先が英国からそれて日本に向けられた時、中国の香港からの輸入は総輸入の17%と逆に高くなった。
 しかし、1932年にはボイコッターたちが香港からの中国向け輸入貨物を検閲し、日本商品の没収を始めるにおよんで、香港のシェアは5.5%へと低下した。
 したがって、その年以後の日本の香港への輸出額を中国への輸出と見なし総計することはことはこ例えばC・F・レーマの場合がそうであるが、正確ではない。彼の統計にほぼ頼れるのは1931年9月以前の、対日ボイコットのための貨物検閲が始まる直前までである。これは、今までの通説には取り上げられなかった点である。 (『対日経済封鎖』から)
<中国の関税政策の影響>
 日本の中国(狭義)向け輸出の低下は、中国政府の関税政策の硬化にも原因があったかも知れない。1931年初め、中国は関税政策を保護主義の手段として採用した。日本の輸出品のほとんどは日用品」として一般品に分類されたため、平均より高い関税がかけられた。しかし日本の統計からは、この関税改訂が日本の中国向け輸出に与えた直接的な影響は少なかったことが読みとれる。関税引き上げはすでに予想されたもので、日本の綿紡各社は中国の日本綿紡産業への投資を増加させていたのである。
 このようにして、中国の新しい関税率は日本の輸出にとってはやや不利なものとなったが、大きくは影響しなかった。
 日本の対中輸出は統計に見られるように、1927年、29年、31年9月の満州事変以降と、ボイコット運動の激しかった年には他の年よりも深く落ち込んでいるのである。したがって、日本の対中輸出激減とボイコット運動とのつながりが、残された問題として浮かび上がってくる。 (『対日経済封鎖』から)
<満州への傾斜>
 日本の中国向け輸出の推移と実態をより詳しく捉えるために、輸出先を北支、中支、南支、満州と地域別に訳、その変化を見たのが表3である。なお、関東州向けの輸出はこの表には含まれていない(原関税統計のまま)。
表 3
年\地域  満 州  北 支   中 支  南 支   総 計
1926 16.1 24.0 53.6 5.0 100
29 18.3 24.7 54.5 0.9 100
32 16.7 48.7 34.6 0.1 100
33 43.0 30.6 25.5 0.1 100
35 45.9 24.0 28.4 1.2 100
37 54.7 20.7 24.1 0.5 100
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 まず南支向け輸出であるが、1926年には最大限のシェアを占めたが対中輸出の5%にしか達しなかった。1929年以後はほとんど無視してよいほどの額になった。
 中支は、この地域だけで1926−29年の間、日本からの中国向け輸出の54−55%を吸収していた。したがって、中支への輸出の大幅な減少は日本にとっては痛手であった。33−37年にかけては約25−28%へと落ち込んだが、漏示、この地域に厳しいボイコットが拡がっていたことに注意すべきである。
 北支は全体の約4分の1のシェアをほぼ保っていた。それはこの地方の比較的穏やかなボイコット運動を反映するものだった。1932年の最初の6ヶ月には、31年9月以降の中・南支におけるつぃに地ボイコットへの反動で、この地域への日本の輸出は活況を呈し、その結果、32年の北支のシェアは48%にも上ったのである。
 満州の対する輸出は1926年には16%を占めていたが、33年以降、それは43%以上のシェアに上昇した。この満州向け輸出で日本は32年以降、毎年貿易収支の黒字を計上し、31年から37年までの間に42億4千万ドルを稼ぎ出した。
 この対満州輸出の激増には問題があった。この地域への純輸出は兌換制のない満州貨幣と円で支払われたから、貿易収支黒字の拡大は日本のたいがい金融の地位を危うくするだけであった。それは日本の外貨の純流出にもつながった。輸出が増大するにつれて輸出国。日本がますます貧しくなるというパターンを示した。日本は外貨を稼ぐことができずに、ただ商品を送りつづけたのである(その多くは満州の経済的基盤の構築と工場建設に使われた)。こうした商品には、日本が外貨を支払って輸入した原料を使っている物も多かった。
 日本は満州にできるだけ多くを輸出し、ボイコット運動のために中支と南支で失った分を少しでも穴埋めしようとしたのであった。日本の軍国主義者mの政策当局者も、ボイコットによってよって失った中支・南支の市場の”代償”として、将来満州から手に入れられるものがあるという考えを推し進めていた。
 それは経済的視点からのみ考えても貧しく誤った着想であった。満州の資源は豊富とはいえず、市場も狭小であった。満州で産出される主なものは大豆と、あまり質の高くない鉄鉱石と石炭等であった。また、日本の工業品の市場としては人工密度も、住民の所得も低く、工業発展もいまだ遠かった。しかし、日本の軍事的政治的、そして経済的な要請(誤った着想)が、この考えをますます推し進めた。時代のこうした”要求”は、日本にとって満州方面は日本の工業製品の輸出と資源の輸入のために、失った中支・南素に代わる市場として働くであろうし、そう機能すべきであるという方向を強めていった。 (『対日経済封鎖』から)
*                      *                      *
 世界各国がブロック経済化を進め、日本もブロック化を進めた。その政策のポイントとなったのが「満州国」建設であった。日本では多くの知識人が「満州国」建設を歓迎した。けれどもそうした「植民地政策」に批判的な立場を貫き通した知識人がいた。「日本中が大本営発表の政策を批判しなかった。日本中が批判精神を忘れてしまった。そんな中で、われわれだけが、あるいは当社だけが、政府に批判的な立場をとることはできなかった」と言うのは「言い訳」「言い逃れ」で、あの時代にあっても精一杯リベラルな立場を貫き通したジャーナリストがいた。満州建設の関して、石橋湛山の記事を引用してみよう。
<満蒙新国家の成立と我国民の対策>
 満蒙に於ける所謂新政権は、東北行政委員会なる名に依って、去17日成立せる旨宣言せられた。続いて此委員会は、旧宣統帝を執政に挙げ、近く満蒙共和国を建設すべしと伝えらるる。記者は斯くて満蒙が幸いに所謂保疆安民の良土と化さば、支那人の為めにも日本人の為めにも、はた又世界人類の為めにも、まことに喜ぶべき事だと慶賀する。何卒其然らんことを切に祈って、已(や)まぬのである。
 併しながら此新国家は、云うまでもなく昨年9月以来の事変の結果として甚だ不自然の経過に依って成立したものである。一言にすれば我軍隊の息がかかり、其保護乃至干渉によって、辛くも生まれ出たる急造の国家である。記者は斯様の国家更にが、俄に其独自の力にて、今後の満蒙を健全に経営し得べしとは信じ得ない。思うに之は、此国家の誕生に多くの努力を払える我軍部及其他の人々の亦素より覚悟せる所であろう。我国民としては、之は甚だ容易ならぬ役目である。併し善にせよ、悪にせよ、既にここまで乗りかかった船なれば、今更棄て去るわけには行かぬ。出来る限りの力を注ぎ、新政権を助け、満蒙を真に保疆安民の楽土たらしめるこそ、避け難き我国民の責務である。さて然からば我国は、如何にして、此責務を果たすべきか。
 先ず第1に提議したきは、出来る限り速やかに新政権に警察乃至軍隊を組織せしめ、、我軍隊をば満蒙の地より(既成の条約にて認めらるる範囲の分は暫く残すも)撤退する事である。或は満蒙新国家の対外国防の為めには、当分日本軍隊の駐屯を要すべしと説く者もないではない。が之は第1に我国軍の権威の為め、第2には満蒙新国家と我国との親善の為め、第3には列国に徒(いたず)らなる疑念の念を抱かしめざる為め、記者の絶対に反対する所である。我国軍は、申すまでもなく陛下の赤子を徴募して、我国家の防衛の為め、組織せる尊き軍隊であって、之を如何に特別の関係に或る満蒙の為めと雖も、苟(いやしく)も外国の国防に使役する如き事は断じて許されざるところである。のみならず満蒙国民と雖も、其国防を日本軍隊が負担し呉れると云えば、難有(ありがた)きが如くなれども、併し其国内の処々に外国軍隊が駐屯することを、素(もと)よち心より喜ぶ筈はない。結局は彼我の間に面白からぬ感情を激発するに到るべきは想像に難くない。また列国が、さらぬだに満蒙新国家の成立を以て、我国の領土的野心に出づと疑える所に、永く我軍隊を満蒙に止むれば、愈よ此疑惑を裏書きする結果となり、ただに我国が外交手にに不利の立場に陥るのみならず、満蒙新国家の国際的関係にも亦甚だ支障を来すであろう。而して斯く我国は軍隊を速やかに撤退する(既成条約に依り認めらるる分も、将来出来る限り撤退したい)代りに、新国家が警察乃至軍隊を組織する為めには、其要求に応じて十分の助力をする。
 第2に、併しながら斯様な助力は、は、決して強制的に之を押し付けてはならぬと記者は提議する。大正4年の例の21箇条──之こそ実に取り返しのつかぬ我対支外交の失敗の歴史であった──の中には支那に政治財政軍事等の顧問共感を押売し、或は警察官庁に日本人の割込を要求し、また一定数量の兵器の供給を日本から仰げと云うが如き、詰らぬ箇条が沢山に存在した。斯う云う事を、最後通牒を叩き付けて強制し、対手が之を承諾したからが何になろう。論より証拠、我国は21箇条に依って、唯だ支那国民の頑強なる排日熱を煽り、彼等を挙って我国に背かしめた事以外、遂に何物も獲なかった(支那人が近年国辱記念日として大騒ぎする5月7日は21箇条の為め日本が最後通牒を支那に発した日であって、5月9日はそれを支那が承諾したる日である)。我国民は深く此歴史省る要がある。満蒙新国家は、今は我国の干渉が激しく、彼等の自治を尊重せざれば、いつかは又必ず我国に反抗しよう。『東京日日新聞』の徳富蘇峰氏は、其国民新聞の古き時代から、最も強烈な対支強硬論者である。が其人すら、最近には保護は宜し、干渉は排すべしと論じておる。最近の事態に深く感ずる所があっての事であろう。
 第3に、然からば如何なる態度で、我国は満蒙新国家に助力すべきかと云うに、記者は1にも親切、2にも親切、3にも親切と提議する。我国の支那通と伝わるる人の間には、或は支那人は他人の親切を仇で返す忘恩の民なりと非難する者がある。通の言であれば、或はそれが真当かも知れぬが、併し記者はそれと同時に又一体我国人中、果たして何れだけ支那国民に親切を尽したる者ありやとも尋ねなければならぬ。我国が安政の開国以来、明治維新を経て、現在あるに至ったまでには、それこそ外国人の恩を蒙ったことが著しく多い。一般的に云えば、日本が今日支那などに向かって文明国顔をしておる其文明は、主として実に欧米から伝えられたものである。更に之を個人と個人の関係で云うなら、今日までの我国運を開拓した優秀なる我人材の少なからざる数は、実に欧米人の指導教育に依って人と成った。精しい事蹟は茲に述ぶる余白も材料もないけれども、記者が今記憶している所だけでも、日本に来ていた欧米人、また日本人が向うに行って世話になった欧米人で、真に日本人を愛し、何うか日本を善い国にしてやろうと云う熱情から、日本人の為めに尽して呉れた人々は少なくない。我国人中、支那に関係を持った人々で果たして左様な親切心を以て支那人の指導教養に努めた者が幾許あろうか。袁世凱の時代、我国には非常に沢山の支那の青年が留学した。また其頃我国の教育者は非常に沢山に支那の学校に教官として招かれた。が其支那から来た青年に向かって、我国の学校、我国の下宿屋、其他多くの人々は、何んな待遇を与えたか、また支那に沢山行った我教師たちは、彼地に於いて、果たして如何なる意気と熱心さを以てまた教育に従事したか。また其後満州等には軍事顧問なども我国から行っていたが、其等の人は、一体何んな態度を支那に対して取っていたか。記者は遺憾ながら其等の中に、真に幾許の親切を支那人の為め、支那の為め、尽くした人あるか知らぬ。多い中には、無論それも絶無とは云えないだろうが、記者は概して云うに日本人には、従来支那に対する親切心は欠けていと考える。そう云う事で、何うして我国が支那から親しみを以て迎えられよう。満蒙新国家に対しても同様だ。実を云うと、我国には、まだ後進国に云うべき独立の文明は存しない(総ての学術が外国語を通さずして学び得ざるは其証拠だ)。従って唯だ文明を吸収するだけなら、満蒙は日本に頼る必要はない。之を補うものは唯親切の力である。いずれ新国家には顧問なども入ることだろう、其人選には此点の考慮が肝要だ。
 第4には、記者は満蒙に大に資本を輸出すべしと提議する。新聞に依るには或は満蒙に大に人を輸出する計画あるやに伝えられるが、若し真当なら、それは恐らく失敗だ。其理由は既に先般記者は論じた。之に反して資本は満蒙の開拓には是非共必要の資料であって、新国家成功の一重点は是にある。而して同時に之は、我国にも利益をもたらす。手始めは、道路鉄道用水路等の建設の為めの資本の供給だ。満蒙には我経済的地盤を築かんとせば、此用意を欠いてはならぬ。*週刊『東洋経済新報』昭和7年2月27日号「社説」(『石橋湛山全集』第8巻 から)
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 日本が我が儘を通せる経済ブロック、その中心は中国であり、満州であった。中国で日本商品の不買運動が起きて、満州の重要性が高まった。そうした中国情勢に対し、日本国内では「日本の植民地」との意識が高かった。石橋湛山のようなジャーナリストは例外で、国の政策でもまるで植民地扱いであった。ここでは、「昭和研究会」をブレーンとして持つ近衛秀麿首相の、昭和12年9月5日、帝国議会での演説を引用することにしよう。
<第72回帝国議会に於ける近衛首相の施政演説> 昨日開院式に当たりまして、時局に関し特に優渥なる、勅語を拝しましたことは、真に驚愕感激の至に堪えません。私は諸君と共に謹んで聖旨を奉載して一意報効の誠を拝し宸襟を安んじ奉り度いと存ずるのであります。
 去る7月7日北支に事変が勃発しまして以来、帝国政府が支那に対して採り来りました根本方針は、飽く迄も支那政府の反省を求めてその誤れる排日政策を放棄せしめ、以て日支両国の国交を根本的に調整せんとするにあるのでありまして、此方針は今日と雖何等変る所がないのであります。只此方針を遂行する手段と致しまして、従来政府は出来る丈事件の拡大する事を防ぎ、局面を限定して事態を収拾すべく努めたのであります。このことは今日迄度々声明致した通りでありまして、諸君も御承知のことと思ふのであります。
 然るに支那側は公正なる帝国政府の真意を了解せざるのみならず、帝国政府の隠忍に乗じて益々毎日抗日の気勢を挙げ、統制無き国民感情の激する所、事態は急速なる悪化を来し、局面は北支のみならず、中支南支にまでも波及するに至ったのであります。隠忍に隠忍を重ねて参りました我政府も、是に於いて従来の如く、消極的且局地的に之を収拾することの不可能なるを認むるに至りまして、遂に断呼として積極的且全面的に支那軍に対して一大打撃を与ふるの止むに立至りました次第であります。
 抑も一国が特定の他の一国を排斥侮辱することは以てその国策となし、国民教育の方針としてかかる思想を幼少なる児童の頭脳にまで注入するが如きことは、古今東西の歴史に於いて未だ類例を見ざる所でありまして、之が招来に於ける結果を考ふる時には、独り日支両国の国交の為のみならず東洋の平和延いては全世界の平和の為に真に寒心に堪えないものがあるのであります。帝国政府としては従来度々支那に対しその態度を更めんことを要求したにも拘わらず少しも顧みるところなく、遂に今次の事態を惹起せしむるに至ったのであります。帝国が断呼一撃を加ふるの決意をなしたることは、独り帝国自衛の為のみならず、正義人道の上より見ましても、極めて当然のことなりと固く信じて疑はぬものであります。東亜の和平なくして東亜国民の幸福なしと信ずるからであります。固より帝国の打撃を加へんとする目標は、かかる誤まれる拝外政策を実行しつつある所の支那政府及軍隊でありまして、帝国は断じて支那国民を敵とするものではないのであります。又支那政府に致しましても、真に能く反省を致し、今後我国と提携して、相共に東洋文化の発達と東洋平和の確立に向かって力を尽さんとする誠意を示すに至りましたならば、帝国としてはそれでも尚之を追求せんとするものではないのであります。
 併ながら今日此際帝国として採るべき手段は、出来る丈速かに支那軍に対して徹底的打撃を加へ、彼をして戦意を喪失せしむる以外にないのであります。尚支那が容易に反省を致さず、飽く迄執拗なる抵抗を続くる場合には、帝国として長期に亘る戦も勿論辞するものではないのであります。唯ふに東洋平和確立の大使命を達成するが為には、尚前途に幾多の難問が横って居るのであって、此難問を突破するが為には、上下一致、堅忍持久の精神を以て邁進するの覚悟を要すると思ふのであります。
 今や我忠勇なる将兵は全支に亘り万難を排し堂々正義の陣を進め、皇軍の威力を中外に宣揚しつつあることは、国民の等しく感謝感激に堪へぬ所であります。又之と同時に全国津々浦々に至るまで銃後の熱誠が湧立ちまして、美はしき挙国一体の実を示しつつあることも、誠に力強く感ずる次第であります。願はくは一時の戦勝に酔ふが如き事なく、この緊張を持続して時限を克服し、終局の目的を達成しなければならぬと思ふのであります。
 政府は茲に時局の急務に応ずる為に必要なる予算案及法律案を帝国議会に提出致して居ります。是等の法律に於て政府は此非常事態に対応する様財政経済の体制を整ふることと致したいのであります。固より之が為財界に無用の衝撃を与ふることは出来る丈之を避くる様十分の注意を払う心算であります。尚事変の経過、外交の事情、財政の計算等に付きましては、夫々主務大臣より申しのべます。
 政府は此重大なる時局に当たり、諸君と共に此国家の大事を翼賛し奉ることを以て誠に光栄とすると同時に、責任の益々重大なることを痛感するのであります。諸君に於かれましても、宜しく政府の意のある所を諒とせられ、慎重御審議の上、協賛を与へられん事を切望する次第であります。(『近衛首相演述集』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『石橋湛山全集』第8巻          石橋湛山全集編纂委員会編 東洋経済新報社  1971.10. 5
『近衛首相演述集』1937.11ー1939.02    厚地盛茂編          1937.11
( 2008年9月22日 TANAKA1942b )
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(6)英帝国ブロックの日本綿製品排斥運動
世界1の生産を誇った日本綿業への規制
  イギリスが、ポンド切り下げ、金本位制廃止、オタワ会議と保護主義を強めていった。そうした保護主義の影響は「日英綿業戦争」として具現化されていった。今週はオタワ協定以降のイギリスの保護貿易主義について扱う。
<日英綿業戦争──排斥される日本商品>  世界恐慌が長期化するとともに、そこからの脱出の道を、経済的勢力圏の形成──つまりブロック経済化に求める傾向があらわれてきた。日本商品は、ダンピングとの批判を受けながら、低為替、低賃金を武器に目覚ましい進出をとげた。そのなかで、とくに綿布市場をめぐっての英国との対立が激化した。 (『昭和経済史』から)
ロンドン経済会議  ブロック経済化の先頭に立ったのは英国であった。昭和7年(1932)7月からオタワで開かれた帝国経済会議で、カナダ、オーストラリア、インドなど英帝国内諸国との特恵関税を協定し、英本国の市場を英帝国内諸国に優先的に解放するとともに、英国の輸出市場を確保するという自給的経済圏の形成をはかった。英帝国内の貿易は、世界貿易の恢復を上回る速さで恢復し、ブロック化は成果をあげたが、半面では、ブロック外の諸国との対立は激化した。すでに、関税のカベを高くし、輸入を直接的に制限することによって国内市場を防衛する経済鎖国主義の風潮が一般化したなかで、英国のブロック経済化の動きは、連鎖反応を引き起こした。
 もちろん、国際金本位制のもとで展開されたような多角的世界貿易の復活への努力がなされなかったわけではない。世界経済の難問、賠償・戦債問題の解決を目指して、昭和7年6が牛にはスイスのローザンヌで賠償会議が開かれ、対米戦債とドイツ賠償の棒引き案とも言うべきローザンヌ協定が成立したが、米国は戦債完済を要求するシャイロット的姿勢を続け、国際協調の足並みはそろわなかった。
 ローザンヌ会議の決議によって、昭和8年6月には、ロンドンで世界経済会議が開催された。世界恐慌からの脱出を目指して、66カ国の首相・大臣クラスの全権が参加し、国際通貨体制の再建と関税戦争の休止を議する予定であった。ところが、開催初日の議長マクドマルド英首相の演説が、対米戦債問題に触れたことから、米国は会議に冷淡になり、フランスが主張した各国為替相場安定のための為替協定に提案に対して、米国は一時的為替協定は枝葉抹節の問題であり、貿易制限の緩和こそ本題であると反発した。
 昭和8年3月、ルーズベルト新大統領就任と同時に、金本位制を停止してニューディール時代に入った米国は、ドルを切り下げてインフレーションによる景気刺激策を展開する自由を保留するために、フランスの固定相場制提案に反対したわけである。
 戦債処理と為替安定の2大問題で行き詰まったロンドン会議は、結局、成果のないままに無期休会となった。第2次大戦前の最後の世界経済会議の決裂のあとは、ブロック経済の時代となった。英国はポンドを軸とするスターリング・ブロック、ドイツは双務精算方式によって東欧・南米諸国を包含した広域経済圏、米国はラテン・アメリカ諸国との互恵通商条約とドル投資によるパン・アメリカニズム(ドル・ブロック)、フランスはフランを中心とした金ブロック、そして、日本は日満ブロックを、それぞれ形成する方向に向かった。
 昭和6年(1931)12月の金輸出再禁以来、円の為替相場は低落を続けたが、7年7月には資金逃避防止法、8年5月には外国為替管理法が施行されて、ようやく低位に安定した。基準相場は、ドルが動揺し始めたためにポンド建てに変更され、1円=1シリング2ペンスを維持する政策が採られた。これは、昭和5年(1930)の対英平均相場と比べて、42%低い水準であった。 (『昭和経済史』から)
輸出、拡大に転ず  この低為替は、日本の輸出を著しく促進させた。世界貿易が縮小傾向にあるなかで、日本の輸出額(旧ドル換算額)は、昭和8年から上昇に転じた。昭和4年を100として、昭和9年の世界貿易額は34であるのに対して、日本の輸出額は51まで回復した。同年の米国の輸出額は25、英国は39,ドイツは31であるから、日本の輸出回復のテンポは異常に速かったと言える。日本商品の進出は、欧米諸国にショックを与え、「経済黄禍論」(イエロー・ペリル)がやかましくなった。黄色人種が為替ダンピング、ソシアル・ダンピングで、市場を荒らしまわるという批判である。
 円相場の低落と同時に、国内物価は上昇したが、国内物価上昇率より為替下落率がはるかに大きかったから、日本商品のたいがい価格は大幅に下落した。井上財政が意図しつつも実現できなかった日本の物価の国際的な割高是正が、高橋財政下に金輸出再禁止による為替低落で達成されることになった。しかも、井上財政と世界恐慌の二重の圧力によって、生産性上昇・賃金引き下げが強行されて精算コストが低減していたところであるから、日本商品の国際競争力はきわめて強力になった。 (『昭和経済史』から)
「ダンピング」批判  これが為替の過度な切り下げによるダンピング、あるいは、異常に低劣な労働条件・低賃金によるソシアル・ダンピングであるかどうかについて、議論は分かれるが、当時においては、問題はすぐれて政治的なものであった。諸外国は、日本をソシアル・ダンピングと批判して、自らの保護政策、日本商品排斥措置を正当化しようとし、日本はダンピングを否定して、いささか古ぼけた自由貿易主義を振りかざして、昭和9年4月には国際労働局のモーレット次長が来日して実地調査を行い、ソシアル・ダンピングの事実はないとの判定を下したが、もとより、日本商品に対する排斥運動は、判定に権威があれば鎮静するという性質のものではなかった。
 日本商品排斥を最も強力に実行したのは、中国を別にすれば英帝国であった。昭和7年(1932)のオタワ会議以来、英本国、インド、カナダ、オーストラリアなどで関税の差別的引き上げが相次いだ。インドは、それまで英国産品が従価25%、その他の国の産品は従価31.25%であった綿布輸入関税を、昭和7年8月に、英国産品は据え置いて、その他国産を50%に引き上げ、さらに、翌8年6月にはその他国産は75%にに引き上げた。これは、日本綿布を目標とした輸入制限措置であり、8年4月には日印通商条約の破棄が通告されていたから、日本のこうむる影響は大きかった。 (『昭和経済史』から)
インド市場争奪戦  かつては英国綿業が独占していたインド市場では、インド綿業の発展と共に自給率が高まり、狭められた輸入品市場には日本綿業が進出して、三国綿業の競争が展開されていた。インドの綿布関税引き上げは、自国綿業保護と同時に英国綿業を擁護する意味を持っていた。英帝国の日本商品排斥のうらには、英国の綿業地帯であるランカシャーやマンチェスターの利害が大きくさようしていたのであり、日英綿業戦争が日英対立の主軸となったのである。昭和7年下期に日本の綿布輸出量は英国を追い越して世界第1位に立ったから、英綿業の焦りは激しかった。
 インドの禁止的な関税引き上げに対して、紡績連合会はインド綿花買い入れ停止を決行し、抗議の意志を示し、日本経済連合会は、英国産業連盟などに綿業競争の調整を呼びかけた。昭和8年9月からシムラ、のちにニューデリーで日印会商が開催され、翌9年1月に日印通商協定綱要の合意が成立し、7月には日印新通商条約が調印された。協定であは、日本綿布輸出をインド綿花輸入とリンクさせて輸出数量を制限するのと引き替えに、綿布関税を従価50%へ引き下げることが定められた。
 日本政府は、日本綿業界の激しい不満を抑えつけるようなかたちでインド側に譲歩し、日印会商をまとめ上げたが、そこには、国際連盟脱退(昭和8年3月)によって孤立化した日本の立場をそれ以上悪化ああせまいとする配慮が働いていた。
 日印会商と平行して、昭和8年9月から日英会商も開催された。日英会商は、まず、民間人による日英綿業競技会のかたちで行われたが、輸出市場協定をめぐって日英綿業代表が激突して物別れとなり、英国は政府間交渉を提起したが、日本政府はこれに応ぜず、結局、会商は決裂した。英国は、昭和9年5月に本国及び植民地の綿布輸入割当制を実施し、日英綿業戦争はさらに激化することとなった。 (『昭和経済史』から)
綿布、生糸を抜く  日本商品排斥にう対して、政府は、一方では日印会商で示したような譲歩的姿勢、輸出の自主的統制策をとると同時に、他方では、「貿易調節及通商擁護法」を制定して、反攻撃的対応策も講じた。昭和9年5月施行の通商擁護法は、日貨排斥国に対して報復的に関税を引き上げたり、輸入を制限する権限を政府に与えた。通商擁護法は、昭和10年7月にカナダ、11年6月にオーストラリアに対して発動された。これは木材・小麦・羊毛などの輸出国で、日本への貿易収支が出超であった両国に対して、ある程度効果があり、通商協定の締結が促進された。
 しかし、ブロック化時代に通商政策が果たし得る機能は限られており、日本商品は、関税生涯を乗り越え、貿易制限の網目をくぐって、いわば実力で世界市場に進出し、経済戦争を激化させた。その先兵は、綿・人絹織物と電球・ゴムぐつ・自転車などの雑貨であり、綿布輸出額は、昭和9年から生糸を抜いて首位を占めた。生糸と綿との主役交代は、欧米の消費市場に依存した輸出から、欧米と世界市場を競い合う輸出への構造的転換を象徴しているが、それは、同時に、欧米との協調から欧米との対決への移行、中国侵略から対英米へのエスカレーションを暗示するものでもあった。 (『昭和経済史』三和良一 から)
英、日本の合理化に感服  近代綿工業の母国英国が、日本綿業に敗北した理由は、賃金率格差よりも生産構造そのものの立ち遅れにあったと言って良い。日本綿業は、昭和4年7月から工業法による深夜業禁止にそなえて、大正末から合理化に全力をあげた。精紡ハイドラフトなどの技術革新を伴う設備増設、自動化とスピードアップ、標準化と科学的管理などが進められ、生産は大幅に高められた。
 老舗の英国綿業は、技術的にも経営的にも確信への対応が鈍く、第1次大戦後、衰退の途をたどっていた。経営者たちは、自動織機の据え付けや2交代就業の導入が、労働組合の反対で進まないと不平をこぼしていたが、ケインズらが説いたカルテル結成による産業組織の改革提案には冷淡であった。昭和初期に来日した英国の綿商人は、東洋紡績四貫島工場を見学して、「こんなに大きな工場でありながら製品の種類はわずかに6種類しかやっていない。英国なら何十種とやっているだろう。これなら、いいものが安くできるのは当然だ」と語ったという。 (『昭和経済史』三和良一 から)
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オタワ協定の変質  エイメリーの考えたように、オタワ協定は帝国統合に向けた重要な第1歩であった。彼は『自伝』で、「一方で自由貿易と、他方での保fご・特恵との間の争点は通商政策の単なる細目ではない。それは本質的に、国民生活についての全面的に異なった2つの哲学の間の対立である」(Amery, My Politicial Life, 1955,Vol.V,P95)と書いている。通商政策は哲学だという主張は魅力的ではある。だが現実には、オタワ協定以降すぐにその変質が始まった。イギリスはオタワ協定以降、33年にはドイツ、デンマーク、アルゼンチン、スウェーデン、ノルウェー、ラトビア、エストニア、フィンランドと、34年にはリトアニア、35年にはポーランドと一連の通商協定を締結している。この結果、こうした一連の2国間協定と帝国特恵との関係がすぐに問題となる。エイメリーにとっては、とくにアルゼンチンとの協定はオタワ協定の前進に対する大きな打撃であった。
 アルゼンチンとの協定でエイメリーが最も問題としたのは、アルゼンチン産食肉の輸入量を一定以上減らす場合には自治領からの食糧輸入も同時に減らすという条項であった。これによって国内農業者が利益 を得ることは確かだが、エイメリーはこの条項がもたらす国農業者と帝国農業者の利害対立を考慮した。この協定は、外国からの輸入を減らせば同時に帝国からの輸入も減らすことになるから、イギリス農業者は自治領の発展を犠牲にすることによってのみ外国との競争から保護される、という構造を定着させるものであった。この協定は、帝国統合の方向とは逆に、自治領と外国を同じに扱うものであった。エイメリーは33年5月の日記に、アルゼンチンとの協定は私を怒り狂わせたと書いた。この協定は、オタワでその基礎が据えられた、帝国協力の原則に対する破壊的な背任行為と理解された。そしてその後の2国間の一連の通商協定は、エイメリーによれば、オタワでの方針のいっそうの発展の可能性を直接ん8い制限し、またオタワで達成された全精神に明らかに反するものであった。
 一連の2国間協定の最後にくるのが38年の英米通商協定であった。この協定によって、小麦や木材は免税品目となりアメリカからの輸入に関税がかからなくなった。したがって、オタワ協定で与えられたこれらの品目に対する帝国特恵はアメリカに関してはなくなった。このためイギリス市場への輸出品目の点でアメリカと競合したカナダにとっての損失は大きかったが、それを補うものとしてこの協定の締結と同時に米・カナダ通商協定が結ばれ、カナダはアメリカ市場へのアクセスを獲得した。オタワ協定以前は、カナダの貿易相手国はアメリカが大きな比重を占めていた(29年には、輸入ではアメリカが69%、イギリスが15%、輸出ではアメリカが43%、イギリスが25%)。オタワ協定後はわずかずつではあるがイギリスの比重が増しつつあった(37年には、輸入ではアメリカが61%、イギリスが18%。輸出ではアメリカが36%、イギリスが40%)。だが、米・カナダ通商協定以降この傾向は再び反転した。英米通商協定をイギリスに受け入れさせたアメリカの意図がオタワ体制の打破であったことは間違いない。M.ベロフの研究が言うように、この協定は「オタワ特恵体制からの退却の始まり」(Max Beloff,Dream of Commonwealth 1921-42,1989,p.198)であった。
 エイメリーは『ワシントン借款協定』(The Washington Loan Agreements,1946)という著作で、英米通商協定について「それは帝国特恵をさらに一層削減し、制限した」と書いた。この協定によって、イギリスは民間部門での購入がなく政府が独占的に輸入する財について、新たに帝国特恵を与えたり、帝国内諸国と互恵的な協定を締結したりしないと約束した。さらにエイメリーによれば、」英米通商協定の重大な問題点は「イギリス政府が最恵国条項原則を全面的に受け入れた」(pp.93-4)ことであった。帝国特恵は当然に、帝国外に対する最恵国条項の適用を免除しなければ維持できないものであるが、それが崩されはじめたのである。
 英米通商協定は、それまでのイギリスがイニシアティブを握った一連の通商協定とは違って、余剰農産物に対する市場を求めるアメリカの圧力にイギリスが応じたものであった。イギリスが高尚に応じた理由は、36年のドイツ軍ラインラント進駐、オーストリアのドイツ国家宣言がもたらしたヨーロッパ情勢の緊迫化であった。イギリスは対米関係の改善とアメリカからの援助の必要に迫られていた。こうした英米関係強化の必要性は対独開戦と供に一挙に表面化する。
 対米関係改善の必要性が増した背景にはイギリスの国際収支の悪化があった。オタワ協定以降のイギリスの対帝国貿易の弘津は上昇していた。しかし、オタワ以降の最も特徴的な点はイギリスの対帝国貿易が黒字から大幅な赤字に転落したことである。
 特恵関税制度は帝国諸国からのイギリスへの輸出を増大させたが、イギリスからの帝国諸国への輸出を減少させた。マーシャルが、イギリスの産業上の主導権喪失にもかかわらず後進国との有利な公益条件の利益 を主張し得た背景には、第1次大戦前の多角的貿易決済機構が存在した。そしてその中心をなしたのは、インドを初めとする対アジア・アフリカ市場での大きな貿易黒字であった。だがその対インド貿易も、30年代中葉にはイギリスの入超に変化した。対インド輸出の中軸をなしたマンチェスターの綿織物輸出量は、インドの輸入代替工業化の進展によって大幅に落ち込み、第1次大戦中に国産量がイギリスからの輸入量を凌駕していた、そして30年代にはイギリス綿織物はインド市場で日本との厳しい競争に直面していた。 (『自由と保護』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『昭和経済史』上                   有沢広巳監修 日本経済新聞社  1994. 3.11
『自由と保護』イギリス通商政策論史            服部正治 ナカニシヤ出版  1999. 4.30
( 2008年9月29日 TANAKA1942b )