日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易
自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消
2009年4月13日
……… は じ め に ………
♣ 明治維新後、「富国強兵政策」を強力に押し進めていった日本、第1次世界大戦後、世界の先進国の仲間入りを果たしたかのように思えた。
しかし、日本、ドイツ、イタリアの3カ国は、先進植民地主義大国の既得権益に阻まれ、さらに新たなブロック経済政策のために自由な貿易からの利益を得ることができなかった。このため先進植民地主義大国に対して新たなブロック経済圏を作るべく、強い影響力を発揮できる植民地を求めて、「日独伊三国軍事同盟」を結び、経済的・軍事的侵略を進めていった。
このように、日本をはじめとする後進工業国が「追いつき、追い越し作戦」を取っている頃、1992年10月のニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌に対して、イギリスは1932年9月にオタワで会議を開き、イギリス本国とその属領植民地との間で特恵制度によるブロック経済圏を作り上げていった。こうしたイギリスの動きに対応して先進植民地主義諸国は、自由貿易から保護貿易へと政策を転換していった。
先進工業国の仲間入りをしたかのように思えていた日本は、こうしたブロック経済の動きに対して自由貿易の恩恵が得られないために、日本独自のブロック経済圏を作り上げなければならなかった。先進諸国のブロック経済政策と、中国の対日ボイコット運動により、日本は 「大東亜共栄圏」 なる愚かな幻想を描くことになった。
第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の期間で、日本は保護貿易政策の犠牲者であった。
その犠牲者でまだ先進工業国から見れば弱小後進工業国であった日本があたかも「窮鼠猫をかむ」を狙ったかのような「大東亜戦争」という無謀な賭に出ることになった。このような保護貿易政策の犠牲者であった日本が、21世紀現在、保護貿易の加害者になろうとしている。戦後の荒廃から立ち直れたのも、自由貿易のおかげであったことも忘れてしまったようだ。このホームページでは、第1次大戦後から第2次対戦に至る期間に日本がどれほど保護貿易による被害を受けたか、について検証してみることにした。
「自由貿易こそが国民を豊かにする」 歴史を振り返って見ればこの言葉が正しいことが理解できるはずだ。歴史の過ちを繰り返さないためにも、そしてこれから中進国・先進国の仲間入りをしようとしている国のためにも、自由貿易体制を維持し、貿易による相互利益を享受できるようにすべきだと主張します。
日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易
自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消
● (1)世界の経済秩序を破壊する日本
既得権を死守しようとする先進植民地主義国
( 2008年8月25日 )
● (2)自由貿易から保護貿易への転換
オタワ会議から広まったブロック経済政策とは
( 2008年9月1日 )
● (3)当時はブロック化をどう評価したか
それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる
( 2008年9月8日 )
● (4)日本が選択した「大東亜共栄圏」構想
それ以外に選択肢はなかったのだろうか
( 2008年9月15日 )
● (5)中国貿易の低迷による日本の貿易
日本製品排斥運動で満州が主生命線になる
( 2008年9月22日 )
● (6)英帝国ブロックの日本綿製品排斥運動
世界1の生産を誇った日本綿業への規制
( 2008年9月29日 )
● (7)『時局大熱論集』という強硬意見集
徳富蘇峰、中野正剛、藤原銀次郎などの主張
( 2008年10月6日 )
● (8)米国の日本に対する経済制裁
ボイコット運動とそれに対する日本政府の対応策
( 2008年10月13日 )
● (9)ABDCラインと呼ばれた経済封鎖網
それによる日本国内経済の実態を振り返る
( 2008年10月20日 )
● (10)英連邦諸国などとの貿易戦争
オーストラリア、オランダ、インド、エジプト他
( 2008年10月27日 )
● (11)新天地ラテン・アメリカへの進出
日本の繊維製品と発展途上国産業との摩擦
( 2008年11月3日 )
● (12)米国の貿易規制による石油ショック
勝つ見込みのないエネルギー戦争へ突入
( 2008年11月10日 )
● (13)陸・海軍、御前会議などの動き
無謀な大東亜戦争へと追い込まれて行く過程
( 2008年11月17日 )
● (14)東亜新秩序とそれに対する英米の圧力
日本が考えていた以上の綿密な計画
( 2008年11月24日 )
● (15)保護貿易の反省から生まれたガット
二度と再び日本のような被害国を生むな
( 2008年12月1日 )
● (16)ガットが進化してWTOへ
日本の農業保護関税政策は世界で容認されるのか
( 2008年12月8日 )
● (17)FTAは最恵国待遇に反しないのか?
新たなブロック化の危険性はないのか?
( 2008年12月15日 )
● (18)辛抱強い貿易自由化へのラウンド交渉を
紆余曲折があっても道筋は失わず
( 2008年12月22日 )
● (19)大東亜戦争を本当に反省しているのか
一部衰退産業の保護は袋小路への道
( 2008年12月29日 )
● (20)コメ自由化への関税政策試案
特定の国からの輸入に頼らない農産物の関税化
( 2009年1月5日 )
● (21)グローバルゼーションを基本とした政策
成長痛を恐れぬ農業政策の立案を
( 2009年1月12日 )
● (22)自由貿易こそが国民を豊かにする
地産地消、金融支援、バイアメリカンとは?
( 2009年4月13日 )
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趣味の経済学
アマチュアエコノミストのすすめ
Index
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2%インフレ目標政策失敗への途
量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
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FX、お客が損すりゃ業者は儲かる
仕組みの解明と適切な後始末を
(2011年11月1日)
(1)世界の経済秩序を破壊する日本
既得権を死守しようとする先進植民地主義国
<出る杭はうたれる日本>
第1世界大戦後、日本は世界経済に大きな影響力を発揮して参入し始めた。これに対して、先進諸国は既得権を脅かす厄介者として、日本への規制を強めていった。
先進諸国の規制と中国の対日ボイコットは日本の経済政策の選択肢を狭める結果となった。こうした歴史的経過については
「池田美智子著『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年」に詳しいので、ここでは、初めに『対日経済封鎖』からの引用文を紹介することにしよう。
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<『対日経済封鎖』「まえがき」から>
本書は、第1次世界大戦と第2次世界大戦とに挟まれた期間(戦間期)の、世界市場における日本の経済成長と通商問題の一断面を扱っている。この主題に関するこうしたアプローチは、今まで日本でも外国でも、また世界史の中でも扱われていない。
戦間期までには欧米先進諸国の植民地争奪競争はすでに過去のものとなっていた。また世界経済も第1次世界大戦後の反動不況から立ち直りつつあった。戦前の秩序にそのまま復帰することは夢でしかなかった。世界の規制の秩序はその根底から揺らぎ、大きな変革へと胎動しつつあった。そのような歴史的過程の中で、日本は急速に成長し世界市場へ参入し、当時の世界のダイナミックな変革へ、さらに拍車をかけていく。
当時の日本は、努力の集積の結果、先進の欧米諸国に「追いつき」つつあった相対的経済後発国であった。日本の経済的な「追いつき」は、海外市場への輸出の競争力として現れた。
しかも、東洋の一小国の世界市場への挑戦的参入は、欧米諸国がかつて経験したことのないものであった。特に発展途上国へ工業製品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の登場はその市場への”侵略”と見なされた。
先進諸国のうち世界のその時点での現状維持(スティタスクオ)こそ「正しい」と信じる国の眼には、日本は暗黙裡にその既得権と市場の秩序を破壊する”侵略者”と感じられた。日本は既存の市場の均衡を破り、不当な廉価販売によって先入者たちの富を侵略すると思われた。
かくて欧米諸国の海外市場とその植民地および属領などは、日本からの輸出品に対して厳しい規制をかけていく。
差別的規制もあった。日本側の対応もあって、それらは当時の国際的諸条件のもとで瞬く間に世界を覆っていく。
当時の日本は特に貿易を規制されては生き延びていけなかった。言い換えれば、日本は勤勉な労働力に頼って、資源の乏しい国土の不利益を国際交易によって代替え、産業化を進展させ、世界市場と共存してきたからとも言える。
日本経済の発展は、日本自身にとっても初めての世界市場への大規模な参入となって現れ、先進諸国をはじめとするほぼ全世界から厳しい通商摩擦の十字砲火の中にさらされた。厳しさを加える対日輸入規制は日本経済に深い影響を与え、波及的な相互作用を促したのである。それはまた国際経済の性質上、決して2国間のみに留まることはできなかった。そのいずれかの国と交易をしている第3国へも波及し、そこでもまた相互反応を生み出し、ひいては保護主義の悪循環を招いた。そして世界貿易は、縮小の渦の中へと陥ったのである。
世界的な保護主義の嵐が吹きすさぶ中で、日本は追われ追われて、ついには外貨を稼ぐ市場すら探すことができなくなった。それは日本の第2次世界大戦参入をうながす原因の1つとなったのである。
(『対日経済封鎖』から)
<50数年前の保護主義と現代日本の保護主義>
本書に書かれている50数年前の世界史の1面と、その深層に作用するダイナミズムは、今日の世界にも示唆するところが多い。第1に、世界経済の発展は、後発諸国(今日の言葉では発展途上国)の経済発展に伴って展開される経済上の変化を内包していることである。歴史的過程としての産業化による諸国の興隆を振り返ってみよう。英国は産業革命を初めておこした国である。すなわち、その当時英国は世界のどの国よりも経済先進国であった。それに比べフランスは英国よりも経済後進国であり、ドイツはフランスよりもさらに後れていた。また米国も、この意味で英国に比べて経済後進国であったことは言うまでもない。そして日本は、本書で扱っている戦間期の1番終わり頃に世界市場で産業の一部で追いつきつつあった相対的経済後進国であった。
このような世界の経済発展の歴史を俯瞰すれば、産業革命以降今日までの相対的経済後発諸国の「追いつき」課程の世界的展開が明らかになってくる。この経済後発諸国の「追いつき」課程は、現在も発展途上諸国によって展開されているし、そしてまた将来も続いていくことであろう。相対的経済後発諸国、つまりその時々の発展途上諸国が、先進諸国に経済的に追いついていく過程で、その産業分野における急速な成長力を持って世界市場に進出すれば、通商摩擦が必ずといってよいほど生じてくる。
先進諸国の産業にとってみれば、その既得権益、市場を侵されたくないのである。したがて、発展途上諸国の産業化、つまり「追いつき」が効果的に続く限り通商摩擦は避けられないと言ってよいであろう。このような経済後発諸国が「追いついて」いく歴史的序列を、過去から未来への史的比較という縦軸から転じて、現在という歴史上の一時点をとって、水平的に並び変えてみれば、それは様々に発展段階の異なる先進諸国と発展途上諸国の混じり合った今日の世界経済地図となる。こうして史的比較は、今日の交際的な比較に通ずるところがある。
ただ付言しておくが、こうした歴史の流れから見た過去の相対的経済後発諸国で今の先進国となった国々は、それぞれがその歴史的時点におれる世界史の中の環境と、国内的に与えられた諸条件のもとで、それぞれに必死に創意と工夫をめぐらして、自国よりも相対的に先進的であった諸国に追いつき、また時には何らかの分野で先進諸国を凌いできたのである。
その国々が現在の先進諸国である。今は先進諸国として発展途上諸国の経済発展を援助している。しかし一方で、それが成功すればするほど国際貿易摩擦は増大していく面があることを認識する必要がある。
このような経済史的遠近法から、世界の後進諸国の経済発展とそれに伴う通商摩擦という問題を理解することができれば、本書で扱った出来事は50余年前の知られざる史実の探求に尽きるものではない。また日本だけの問題でないことも明らかとなるであろう。
(『対日経済封鎖』から)
<今日の「追いつき競争」を考える>
本書で扱う50数年前のできごとは、当時の先進諸国側にもまた日本側にも思い当たることが多いであろう。現在、日本をも含む先進諸国側としては、発展途上諸国との貿易とそこに生じる通商摩擦に対してどのような態度を採るべきだろうか。
発展途上諸国としてはその問題に対して、どのように自らを育みながらどのような心構えでいくべきなのか。そして、それらの具体的な方法とは……。これらの国々がかつて日本や当時の先進諸国の轍を再び踏むことのないようにと、誰しもが願う。そしてまた、後発国がたとえ「追いつき」に成功しても、それは経済のある一部の分野にほぼ限られている。加えて、「追いついた」後発国は、一般に外交、国際性、国内政治、法律の解釈等々の点では、後進性を深く残したままでいることが多い。このことを世界市場での激しい「追いつき」競争の中で、国際的に多くの競争相手国に理解してこらうことがいかに難しいかは、本書の中で見られるように見本が度々経験している。(中略)
米国は若く、自国の力が強くなっても、その国内経済政策の動向が世界に及ぼす影響を考えなかった。1929年10月のニューヨークのウォール街の株の暴落、世界金融市場からの米国資本の大量引き上げ、米国議会内のなれ合いによって決まったスムート・ホーレイ法(保護貿易、高率関税で悪名高い)の実施によって、世界経済が大恐慌の渦に巻き込まれ、その後の長期的沈滞へと押し流されるなど考えてもみなかった。こうして本書の対象期間の後半には、世界経済の流れは一変していた。そうした嵐の時代がやってくる寸前に、日本はILO(国際労働機構)の勧告を受け入れて紡績業の深夜労働をやめ(1929年)、金本位制を再建し(1930年)、「大国」の仲間入りができたと喜んでいた。
そうしてやってきた世界市場の沈静化の中で、どの国も自国内の経済問題の収拾と対応に追われ、他国を顧みることは少なく、保護主義は次第に高まっていくのであった。その中で、近代国家としては若かった日本は貿易の自由を求めていった。そうする以外に日本は生きられなかった面がある。このような世界的流れを背景として本書をひもといていただければ幸いである。
本書は、現代史の中で日本という1つの国を焦点として、壮大な世界市場を舞台に世界の国々と数々の人々の運命を巻き込んで展開された保護主義と貿易差別の歴史的実験を描いた記録である。その内容は読む人によっては辛く悲しいことかもしれない。しかし深く考えてみれば、私たちはこうしたものを乗り越えるところまで今日来ている。当時、世界各地の市場で日本人が暗濾たる思いで見たであろう夕日は、日本のみならず世界の”自由貿易”の終焉を告げる日没であった。しかし、第2次世界大戦後、人間の本性に根ざす経済行動の1つとして、貿易の自由は不死鳥のごとく蘇った。そしてまた、現在の保護主義と管理貿易の果てに、これから私たちは何を生み出すのであろうか。
さらに、研究の過程で知ったことであるが、本書の中に登場する米国人の観察者や、東京の英国大使館員の、日本の競争力についての見方が的を射ていることに感銘せざるを得ない。あのような多くの非難と偏見を浴びせられていた時代にあっても、物事を正しく観ている人々はいるものである。この人々の言葉は、まるで今日の日本があることを、あのような時代のなかで既に洞察しているかのようであった。
本書を組み立てている原資料の多くは、米国のワシントンD・Cの議会資料館と英国の公文書館、東京の外務省資料館の中に、著者が訪ねていって解禁の許しをこう日まで、ひっそりと光の当たる時を待っていたのである。原資料と統計の示すものの解釈は様々と思うが、私にはこれから記すことがその埋もれた史郎からのメッセージのように聞こえた。
(『対日経済封鎖』から)
* * *
<ブラック・サーズデーからの世界大恐慌から経済のブロック化が始まった>
1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出された。その後、一時的に株価は持ち直したかのように見えたが、大きく下落し、これをきっかけに世界恐慌が始まった。世界的な恐慌に対して各国の対処の仕方は様々であったが、基本的には自国の産業を守ろうとする「保護貿易主義」であった。
アメリカ
第1次世界大戦によってヨーロッパ経済は衰退しきっていた。そのヨーロッパに代ってアメリカが世界経済の主導権を握るようになった。ヨーロッパ経済の立ち直り、モータリゼーションの普及などによりアメリカの景気は活気を呈していた。この好景気に対し投機筋の資金が参入し、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。この好景気、しかし実状は生産過剰で需要不足がハッキリすればバブルがはじけるような状況であった。
そういう状況でのニューヨーク株式市場での株価下落はしかし、その後の事の大きさは予想されていなかった。いくつかの銀行が破綻したがアメリカ政府は有効な対策はとらなかった。このためマネーサプライは減少し不況の傷口を大きくした。共和党のフーヴァー大統は1930年にスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採用した。
第1次大戦後、国際連盟が設立されたが提案国のアメリカは参加しなかった。アメリカは、第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会への7番目の年次教書演説で「モンロー主義」(「モンロー教書」ともいう)を発表した。このモンロー教書は欧州列強に対する「アメリカ大陸縄張り宣言」であると同時に、ヨーロッパに対する不介入宣言でもあった。つまり、「アメリカ(南北アメリカ大陸)の問題はアメリカに任せろ。口を出すな。その代わり、ヨーロッパの問題には介入しない」という宣言であった。経済はすでにグローバリゼーションが進んでいたが、アメリカは自国の経済だけを考えて政策を実行していた。このため、アメリカの不況はヨーロッパにも広がり世界的な不況=恐慌になっていった。
1933年大統領に就任した民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は積極的な経済政策であるニューディール政策を実行し大恐慌に対処しようとした。その成果についての評価は2分していて、効果があったか、無かったか、ここでは論じないことにする。イギリスはじめ先進諸国が保護貿易、ブロック経済政策を採用するなかで、アメリカも保護貿易に進むことになった。アメリカは広い土地と、ヨーロッパ諸国から影響されにくい南北アメリカ諸国が近くに存在し、ヨーロッパ諸国がブロック経済清濁を採用することによって、アメリカも実質的なブロック経済政策を採用することになった。
イギリス
イギリスの大恐慌の時代は、「赤い30年代」と表現されるように、資本主義経済に対する不安と、社会主義に対する期待が大きかった。伝えられるソ連経済のニュースをもとに、「ソ連とは違う、デモクラシーでの社会主義経済の実行」を目標とすべきとの考えが広まっていた。
そうした社会情勢の中で成立したマクドナルド挙国一致内閣は1931年9月211日に金本位制を廃止した。1932年7月21日から8月21日、カナダのオタワでイギリス帝国経済会議を開き、オタワ協定を締結した。(会議に参加したのはイギリス本国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、インド、南ローデシアの植民地) これはイギリス連邦を世界恐慌から救出する方策として、イギリス連邦以外の国の製品に対して高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度をより完備・徹底したのもだった。「イギリス連邦の皆さんは、イギリス連邦で生産されたものを買いましょう」「連邦内の顔の見える生産者のものを買いましょう」「東洋には『地産地消』とか『身土不二』という言葉があります。これを見習いましょう」ということだった。このオタワ会議以降各国はブロック経済に走ることになった。
フランス
第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。
1929年に始まった世界恐慌、フランスへ波及するのに時間がかかった。1932年頃までは本格的に波及せず、むしろ逆にポンド、ドルの下落を恐れた外資がフランスに大量に流入し、表面的には国際収支は大幅黒字となり、フランスは世界的不景気のなかの「繁栄の小島」と称された時期さえあった。しかし1932年以降生産は大幅に低下し、失業者は増加し、税収入不足から緊縮財政になり、これに対して官公吏を中心とする抵抗が強まった。それに対して政府は有効な政策を打てなかった。悪い政府より無能な政府の方が国民にとって我慢がならないという場合がある。当時のフランス人にとって周囲には「ダイナミック」な独裁国家の発展を見せつけられていただけに苛立ちはなおさら大きかった。
左からの変革を願うものは当然社会主義、共産主義に目を向けた。当時、恐慌に苦しむ資本主義諸国と対照的に5ヶ年計画により経済建設を着々とおし進めるソ連の姿は、ソ連と共産主義の威信を大衆の目に、またとりわけ当時普及し始めたマスコミに登場する、<マス・インテリ>の目に大きく映らずにおかなかった。(大粛清はまだ始まっていなかった)
1934年5月、それまでの政策を変更してコミンテルとフランス共産党が反ファシズム戦線のために社会党とも手を結ぶ、となった。1934年7月277日社会党と共産党は統一行動協定を結ぶ。「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉はこの年の10月にフランス共産党機関誌「リュマニテ」に使われた
1936年4−5月の選挙で選挙協力が実を結び、共産党、社会党が躍進した。第一党となった社会党のレオン・ブルムが政権を担当することとなった。内閣は社会党と急進党の連立で、共産党は閣外協力。1936年6月4日夜、ブルムはルブラン大統領に閣僚名簿を提出し、翌5日正午にラジオで国民に呼びかけた。
1937年6月の社会的激動のショックに新たにスペイン内乱をめぐる国内対立の激化が加わり、有産階級の不安と警戒は高まった。政府に対する信頼は低下し、資金の国外流出と国内退蔵のためフランス銀行の金保有高は9月23日には国防上の必要最低限といわれる500億フランに減少し、国債の売れ行きも悪化した。ついに9月26日、政府は銀行券の自由兌換を停止し、実質的なフラン切り下げを発表した。しかしこの決定はあまりにも遅く、切り下げ幅も不十分で、賃上げ、労働時間短縮の影響もあり、短時間に切り下げの利益は失われ、あとには政府の信用失墜と与党各派の相互非難とインフレを残すばかりとなった。
政府が期待した本格的経済回復はおこらず、予算赤字の増大の見込みと再軍備費の重圧は再び通貨不安を引き起こした。フラン投機の再熱により為替平衡基金の100億フランは1月末にはすっかり底をついていた。なんらかの処置が必要であった。
1937年2月13日、物価上昇に対応して賃上げを要求していた公務員に対してラジオ演説でブルムは「休止=ポーズ」を声明した。 公務員の要求に対して強い態度を取ろうとした社会党のブルム政権、しかし5月開催を控えたパリ万博を控え公務員への強い態度はとれなかった。
フランスでは、イギリスの「赤い30年代」以上にソ連から伝えられる社会主義に大きなあこがれを抱いていた。そして社会党のレオン・ブルムが政権を担うことになった。しかし、経済政策は有効な対策も打てず、政治的には、1936年7月17日からのスペイン内乱に、政府としてなにもできなかった。その後、ブルム内閣は国民の信頼を失い、フランスの政局は不安定なまま第2次対戦を迎えることになる。ちなみに、この1936年に、ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発表されている。
ドイツ
1918年11月11日、ドイツの降伏により第1次世界大戦が終結。第1次世界大戦の末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会を開く。これが基礎となり1919年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は、エーベルトを大統領に選出するとともに、社会民主党・中央党・民主党のいわいるワイマール連合内閣を成立させ、1919年7月31日に「世界で最も民主的」と言われたワイマール憲法を採択した。
ワイマール共和国は民主主義の理想を高々と掲げたのだが、現実の政治経済は厳しいものだった。ドイツの降伏を取り決めたベルサイユ条約は、ドイツから全海外領土と本国の13%を奪い、軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い、さらに莫大な賠償金を課するものであり、その賠償金は1320億マルクにのぼるものであった。このため各地で一揆・反乱・革命が勃発し、経済はハイパー・インフレに襲われ、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆が起きる。こうした時期に外相シュトレーゼマンは国際協調外交を展開し、ドイツ経済の再建と国際的地位の回復に努めた。産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入し、合理化運動を進めた。
ドーズ案とはアメリカの銀行家 Charles G. Dawes (1865-1951)を長とする賠償委員会が作成した賠償支払計画案。ドーズ委員会はドイツ通貨の安定と財政均衡をはかり、賠償方式を緩和させる一方、ドイツの鉄道、工業施設を担保に、アメリカの資金を導入しドイツ工業の復興をはかる収拾案を作成し、1924年7−8月のロンドン賠償会議で採択調印された。以後、ドイツ経済は立ち直りのきざしが見えた。1925年ドーズはノーベル平和賞を受けた。
ヒトラーは元ライヒスバンク総裁シャハトに経済政策の全権を与え失業の解消と再軍備を進める。1938年、軍拡景気の局面にはいり、4ヶ年計画が発足し、重化学工業への資本と労働力の集中は一層進む。1938年オーストリア、ズデーデン地方の併合、翌39年3月チェコスロバキア占領といった軍事拡大政策もその成功のため国民からは高い支持を受ける。アウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンは国民の夢を膨らませ、生活の不満はユダヤ民族への差別によって解消させる。(もっとも戦時中はVWも軍需産業に集中し、ビートルが国民車として普及するのは戦後になってから)
ドイツでの大恐慌は国民にはあまり影響を与えず、ヒトラーの国家社会主義は国民生活の向上に実績を上げた。しかし、対外的には新たな「地産地消」を進めるべく「自給自足」の供給地=植民地を積極的に広げるという、侵略政策を押し進めることになった。
イタリア
第一次世界大戦後、混乱していたイタリアではムッソリーニのファシスト党が1922年から政権を担当することになった。1926年にはファシスト党以外の全政党を解散させることで一党独裁制を確立した。1936年7月17日からのスペイン内戦の関してはドイツとともに反乱軍のフランコを支援することになる。
イタリアは19世紀末からエチオピアを植民地に、と狙っていた。ムッソリーニ政権は1935年1月にフランス外相ピエール・ラヴァルとの間でフランス・イタリア間の連携強化協定を結んだ。英仏の宥和的態度を見ていたムッソリーニはエチオピア侵攻が成功すると確信し、1935年10月3日エチオピアへ侵攻を開始した。国際連盟は11月18日に対イタリア経済制裁を発動したが、ヒトラーはイタリアへ武器や戦略物資援助を続けた。 1936年5月6日イタリア軍は首都アディス・アベバに入城、皇帝ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスに亡命、5月9日にムッソリーニはエチオピア併合を宣言した。
このエチオピア問題には日本国内で関心を持つ有志がいた。アジア・アフリカに関心を持つ頭山満ら250人の有志は1935年6月4日、エチオピア問題懇談会を設立。満場一致で採択した決議文を、「代表頭山満」の名で、エチオピア外相ヘルイに打電した。「危機に直面せるエチオピア政府及び国民に深厚なる同情の誠意を表す(中略)国際正義、国際平和の見地より円満なる問題の解決を望」。ヘルイからの謝電はその翌日に届いた。「我が政府の名において、余は感激に堪えざる貴電に対し、衷心より感謝の意を表す」。電報のやりとりはその後も続き、エチオピア政府は9月、日本に特派使節を送り込んだ。
満州事変以降、軍部の影響力が強まり、イタリア、ドイツに急接近していた日本政府は、「満州国」の承認と引き換えに、イタリアのエチオピア併合を黙認。そして頭山満は1938年3月、今度はイタリア使節歓迎国民大会に出席している。
1926年イタリアはアルバニアを保護国とし、1939年に併合した
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年 池田美智子 日本経済新聞社 1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争 清水惣七 新人物往来社 1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか 宮川眞喜雄 中公新書 1992. 1.25
( 2008年8月25日 TANAKA1942b )
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(2)自由貿易から保護貿易への転換
オタワ会議から広まったブロック経済政策とは
<イギリスが主催したオタワ会議>
1914年に始まった第1次世界大戦は1918年に終結した。この戦争がそれまでの戦争と違うのは、@非常に多くの国が参戦した。A兵隊だけでなく、一般市民も大きな被害を受けた。ということであった。このためヨーロッパ諸国の産業施設は大きな被害を受け、生産が戦前の水準に達するには時間がかかり、そためにアメリカの生産活動に大きな期待がかかり、アメリカ経済は活気を呈した、その活気に対して多くの投資がなされ、経済活動が実体以上の数字が表示され、まさにバブル状態であった。活発なアメリカの生産活動に対し、ヨーロッパでの生産活動も再建され、需要以上の生産が行われた。
こうした状況で、1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。これを契機にアメリカが不況になり、この不況はパンデミーのように世界中に広まっていった。その影響、その経済対策は国によって違いはあったが、イギリスの経済政策は多くの国に影響を与えた。その政策とは「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」であった。
生産活動の主導権はアメリカに移っていた。このため、アメリカの不況は世界に広がることになった。しかし、イギリスの影響力も大きく、その経済政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」がその後の世界経済に大きな影響を与えることになった。
このうちの「オタワ会議」について、『対日経済封鎖』の関連する部分の文章を引用することにしよう。
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<日英間の貿易紛争とオタワ会議>
英国は1932年のオタワ会議で英連邦内の自治領および植民地と帝国特恵協定を結び、世界貿易に重い軛(くびき)をかけた。特恵待遇の強化を図ることによって、英帝国の交渉力を強化し、その貿易収支を改善し、また不況下の英国経済には雇用の増加をもたらすものと期待していた。なぜならば、英国経済は、1925年の金本位制の再建にもとづくデフレと、31年の英ポンド平価切り下げ後のインフレに悩んでいたのである。世界経済は、このオタワ会議以降、”自由貿易”に終わりを告げ、保護主義へと転換したのであった。
この頃、日本の輸出先導産業は、1次産品の生糸から工業生産物である綿繊維製品へと移っていた。1932年、綿製品は総輸出の25%にのぼり、生糸の21%を超えた。そして、この日本綿製品の輸出量はそれまでの世界の覇者・英国を凌いで世界1位となった。
日本のすべての繊維品輸出の稼ぎ頭は綿布であった。1932年、その輸出量は20億9千平方ヤードと世界最高を記録した。こうして日本が達成したものこそ、日英間の貿易紛争を尖鋭化させ、それは特に英連邦市場を舞台に演じられることになった。英連邦諸国が公然と対日貿易差別の圧力をかけ始めたのも、この頃のことであった。
(『対日経済封鎖』から)
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<オタワ会議を日本ではどのように見たのか?>
世界不況時にイギリスのとった政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」はその後の世界経済・各国の経済政策に大きな影響を与えた。そのなかでも「オタワ会議」はその後の保護主義への先駆けとして各国政府の政策に大きな影響を与えた。その「オタワ会議」が日本でどのように評価されていたのか?そのあたりから話を進めることにしよう。
<オタワ英帝國経済会議> 英本国政府は1932年7月21日より1ヶ月間カナダ「オタワ市」自治領その他の地方政府を召集し英帝國経済会議を主催して特恵関税協定を始め英帝國内各領の経済的結束を緊密ならしむべき各般の方策を決定したり。蓋し19世紀後半以来事由貿易主義の大施を翳し其の卓越せる工業能力と広大なる植民地の豊富なる天然資源とを基礎として世界通商の覇権を掌握し来れる英本國も欧州大戦後内戦争の疲れに加え外新興工業國の台頭に依り漸次昔日の商権失墜して之が挽回用意ならざるを看取するや茲に其の方針を一変し退いて英帝國内を固むるの方策を樹つるに至れり。
右英本國の新政策は結局英帝国内各地の経済関係を今世紀当初の状態に転廻せんとするものにして換言すれば各植民地をして英本國に対する工業原料等の供給地たらしむると共に右植民地を蚕食せる外國商権を駆逐して是等の地方を専ら英本國品の独占市場たらしむとするものなるか故に大戦以来発達したる植民地の工業状態と右植民地及隣接諸外國間の経済関係とを考察する時は前述新政策の実現に幾多の困難を伴うべきは想像に難からず英本國が欧州大戦の苦杯に顧み國内農業の保護政策を樹立したる事実は植民地との利害関係の調和を一段と困難ならしむるものと思惟せられたり。
前記の事情の下に開催せられたる「オタワ」英帝國経済会議は幾多の新指針を決定し而して右決定は会議後各々実行に移されて爾来3カ年を閲せり「オタワ」会議の開催は唯英帝國内の重大問題たるに止まらず会議の実績如何に依り其の世界経済界に及ぼすべき影響も亦少なからず左に会議開催前後の経済を略述し併せて会議の成果に付考察するところあらんとす。
(『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<英本国ノ貿易状況>
欧州大戦勃発の前年たる1913年度に於ける英本国の貿易状況を概観するに輸入総額7億6千8百7十4萬磅(ポンド)(植民地よりの輸入1億9千百5十2萬磅外国よりの輸入5億5千7百2十2萬磅)。輸出総額6億3千4百8十2萬磅(植民地向け輸出2億8百9十萬2磅外国向け輸出4億2千5百9十萬磅)合計貿易総額14億8百5十6萬磅なり。又欧州大戦後の世界経済繁栄期たる1924年乃至29年の6カ年に於ける貿易状況を見るに此の6カ年間平均の輸入総額12億4千5百7十萬磅(植民地よりの輸入額3億8千3十7萬磅、外国よりの輸入額8億6千5百3十3萬磅)、輸出総額8億6千3十萬磅(植民地向け輸出3億5千2百9萬磅、外国向け輸出5億8百2十1萬磅)、合計貿易総額21億6百萬磅にして輸出入共大戦前に比し著しき発展をなしたり。然るに此の英本国の貿易も世界的不況の襲来と共に漸次衰運に傾き「オタワ」会議開催の前年たる1931年に至りては其総額大戦前1913年度の貿易額に達せず殊に其の輸出の方面に於いて著しき減退を示せり、即ち同年度の輸入総額8億6千百2十5萬磅(植民地よりの輸入額2億4千7百4十2萬磅、外国よりの輸入額6億1千4百8十4萬磅)。輸出総額4億5千4百4十9萬磅(植民地向け輸出額1億8千6百7十4萬磅、外国向け輸出額2億6千7百7十5萬磅)、合計貿易総額13億1千5百7十4萬磅にして戦前1913年度の総額より9千2百8十2萬磅の減少を示し、而して此の減少は専ら輸出に於ける1億5千8百十5萬磅の減少を来したるが為輸入に於ては多少の増額を見たるに拘わらず総額に於いて前記の減少を来すに至りたるものにして、換言せば1931年度の貿易内容の著しく悪化せる状況を窺知するに足るべし。今大戦前(1913年)戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年)及世界的不況期(1931年)の3期に於ける英本国貿易状況を次に表に掲ぐ。(表略)
(『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<日本との関係>
本邦と英本国との貿易関係を概観するに英本国に於ける本邦よりの輸入は戦前1913年に於いて4百3十8萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出は14百8十3萬磅(輸出総額の2.3%)、合計貿易総額千9百2十1萬磅にして、また戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年平均)に於ける貿易状況は本邦よりの輸入7百9十9萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出千6百9十2萬磅(輸出総額の2.0%)。合計貿易総額2千4百9十1萬磅なり。而して此の貿易関係は世界不況の襲来と共に減退し1931年於いては本邦よりの輸入6百9十5萬磅(輸入総額の0.8%)。本邦向け輸出6百3十3萬磅(輸出総額の1.4%)。合計貿易総額千3百2十8萬磅に減少せり。
是を要するに英本国より看るときは本邦との通商関係は同国の貿易上左迄重きをなすに足らず、また其内容に於いては欧州大戦前長期に亘りり著しき輸出超過の関係に在りたるも戦後世界的不況期に入りてより輸出激減して「オタワ」会議の前年に於いては遂に僅少の輸入超過を示すに至れり。
(『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
数字を見やすく表示すると
上記英本国の貿易の数字、これを見やすく表示してみよう。
1913年 輸入総額 7億6,874萬ポンド 輸出総額 6億3,482萬ポンド
植民地から 1億9,152萬ポンド 植民地向け 2億0,892萬ポンド
外国から 5億5,722萬ポンド 外国向け 4億2,590萬ポンド
貿易総額 14億0,856萬ポンド
1924〜29 輸入総額 12億4,570萬ポンド 輸出総額 8億6,030萬ポンド
(平均) 植民地から 3億8,037萬ポンド 植民地向け 3億5,209萬ポンド
外国から 8億6,533萬ポンド 外国向け 5億0,821萬ポンド
貿易総額 21億0,600萬ポンド
1931年 輸入総額 8億6,125萬ポンド 輸出総額 4億5,449萬ポンド
植民地から 2億4,712萬ポンド 植民地向け 1億8,674萬ポンド
外国から 6億1,484萬ポンド 外国向け 2億6,715萬ポンド
貿易総額 13億1,574萬ポンド
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<大英帝国経済ブロックのオタワ協定に依る結合>
今日の英帝国経済ブロックの結成は先ずオタワ会議に依り採用せられた特恵関税政策を基礎として為された。オタワ会議は1932年7月21日より8月20日迄開催せられ、英帝国を始め、加奈陀、愛蘭、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアの代表が参加した。会議の議題は開催地たる加奈陀政府は主となって関係諸政府と協議の上之を取纏め7月11日に其の要旨を公表したが内容は次の如きものであった。
(一)一般通商問題
(1)一英帝國内の貿易に関係ある通商政策及び関税政策の審議
(イ)互恵通商主義及び互恵関税主義の承認問題
(ロ)現行特恵関税及び将来の特恵関税を英帝國内全域に押し及ぼすの問題
(ハ)外國に興へ居る関税上の利益を英帝國内の他の地方に許興するの問題
(ニ)特恵税率を享くるに必要なる帝國的要素(Enpire Content)(商品の含有する英帝國的原料及び労力)の割合決定問題
(ホ)帝國内に於ける輸出奨励金及び不当廉売に対する課税問題
(2)外國に対する通商政策の審議
(イ)外國に対して興ふる通商上の利益帝國内特恵との関係問題
(ロ)英帝國内に於ける地方的特恵関税及び輸入割当制と最恵國約款の解消問題
(3)英帝國内の協力方法の審議
現存機関の再検討、産業協力委員会報告書の審査、交通通信問題、規格統一問題
(二)通貨及び金融問題
英帝國内各種通貨及び貨幣本位の関係の審査、物価の恢復及び為替安定策
(三)特恵関税協定問題
此等の主要議題に付いては会議に於いて夫々決議及び声明が為されたが、会議の結果成立した事項中最も重要なるは所詮オタワ協定として有名なる英帝國内特恵関税制度に関する次の12個の協定である。
1、英本國と加奈陀、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアとの間の7個の特恵関税協定
2、加奈陀と愛蘭、南阿連邦及び南ローデシアの3個の貿易協定
3、南阿連邦及び愛蘭間の貿易協定、並に南阿連邦間の貿易に関する交換公文
英帝國内の特恵関係は此の12個の協定に尽きているものではなく、此の外にも英帝國諸邦間の協定や一方的行為に依り相互に又は一方的に特恵税率を興へている場合も存在することに留意して置く必要はある。
(一)オタワ会議に依る協定の中で特に重要なるは英本國と属領諸邦との間に締結せられた協定である。此等協定は英印協定を除くの外凡て有効期間を5箇年とし爾後は6箇月の予告を以て廃棄し得ることとなっていて、(英印協定には一定の有効期間はなく6箇月の予告を以て随時破棄し得ることとなっている)、其の協定内容は各々多少の相違はあるが大体に於いて共通の点が多い。此の協定に依り英本國が属領諸邦に対して与えた特恵は大要次の如きである。
1、1932年3月1日実施せる輸入関税法に基く従価1割の輸入税並に同法に基く付加関税を帝國内よりの輸入品に対して引続き免除すること。
2、外国産の小麦、バター、チーズ、果実、果実缶詰、卵及び銅等に対し一定限度迄現行輸入税を引上げ若しくは此等に対して新たなる輸入税を設くること(例へば小麦に関しては1クォーターに付2志、銅に関しては1封度に付き2片と約されている。)
3、一定の外國産品に対する関税率の引下は同種産品に付重要なる関心を有する英属領の同意なしに行はざること(例へば木材に対する関税率の引下げは加奈陀政府の同意なき限り軽減せず又肉缶詰に対する関税率は豪州政府の同意なき限り軽減せずと云ふが如きである。)
4、肉類の輸入制限を行ひ英属領(例へば豪州、新西蘭)に有利なる輸入割当を興ふること。
之に対し属領側から本國に興へた対償は、要するに本國よりの一定輸入品に対する関税上の特恵を維持又は拡大すること並に輸入英國品が生産品の関係に於いて属領製品と合理的競争をなし得ざるが如き高率の保護関税を設けざることの2点である。如何なる種類の英本國品に特恵を興ふるべきかは夫々の協定に明記せられている。
畢竟するに英本國と属領間の協定は之に依り英本國が各属領より出来る丈け多量の原料及び食糧品を輸入する代わりに、各属領をして英本國工業品に最も都合良き市場たらんとすることにあったのである。
(二)次に同じオタワ会議で出てきた英属領諸邦間の協定は何れも相互に相手側の特に重視する輸出産品に対し特恵を興ふるやうに仕組まれているが(例えば加奈陀の小麦や木材、南阿連邦の果実や玉葱等)、此等協定の有効期間は英本國との協定と同じく5箇年で其後は6箇月の予告を以て廃棄することとなっている。
(『ブロック経済に関する研究』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年 池田美智子 日本経済新聞社 1992. 3.25
『オタワ英帝国経済会議の考察』 外務省調査部編纂 日本國際協会 1936. 2.19
『ブロック経済に関する研究』 菅沼秀助 生活社 1939.10.17
( 2008年9月1日 TANAKA1942b )
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(3)当時はブロック化をどう評価したか
それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる
<昭和研究会というシンクタンクの見方>
産業革命を最初に成し遂げたイギリスは世界で最初の工業国であった。しかし決して「地産地消」の国ではなく、日本と同様自由貿易によって成り立っている「貿易立国」でもあった。そして、金本位制度のもと、世界の自由貿易を押し進め、産業面でも、貿易面でも世界経済をリードしていた。第1次世界大戦後、産業面ではアメリカがリードするようになったが、アメリカはモンロー主義政策をとり、世界経済を積極的にリードするという姿勢はとらなかった。このため、イギリスは相変わらず世界経済に大きな影響力を発揮していた。そのイギリスが、金本本位制を放棄し、オタワ会議でブロック経済を押し進めることになり、世界経済は大きく保護主義へと変わり始めた。
そのオタワ会議、日本では当時どのように捉えていたのだろうか?21世紀の現代の見方は上記のようなものだが、当時の日本ではどのように捉えていたのだろうか?今週はこうした点について扱うことにする。先週は、外務省の文書を取り上げたので、今週は民間の見方を取り上げる。それは昭和研究会という、当時の英知を集めたシンクタンクだ。その『ブロック経済に関する研究』の文章を引用することにしよう。
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『ブロック経済に関する研究』の例言 から
1、本書は、昭和研究会東亜ブロック経済研究会の成果に成るものである。東亜ブロック経済研究会は、支那事変処理の経済的側面に於ける志向目標を確立せんとする意図を以て、
昭和13年9月関係専門家並評論家14名を以て組織され、本年上半期まで大体隔週1回の会合を以て研究を継続した。
2、同研究会の結論は本書に於て第1章を成す部分である。同研究会は先ず世界ブロック化の大勢を本質的に究明し、その角度より東亜ブロック経済の本質と性格とを理論的に明らかならしめんとする方法を採り、
本年上半期に於いて一応の結論に到達した。之を右研究会の委員長加田哲二氏の執筆を主として煩わし、本書第1章に掲ぐることとしたのである。
3、右結論に至る迄には、世界各ブロック並に東亜ブロックの諸問題につき、会員諸氏並に会員外専門家の研究報告を煩はし、貴重の資料を堆積せしめた。本書第2章以下は、其等のうち公表に支障なき部分を再編集して掲出せるものであるが、第2章並に第4章は湯川盛夫氏、第3章は吉田寛史氏、第5章は千葉秦一氏、第6章は加多哲二氏、第7章は昭和研究会事務局の労作に成る。但し、何れの場合に於いても、その調査方針乃至内容に就いては、同研究会の討議を経て共同研究たるの実質を有し、全般の責任は悉く昭和研究会の負ふ処であることを明記致し度い。
尚ほ各章末に掲げた「資料」は主として事務局の筆録にかかり、支障なき限りその原報告者乃至典據を明らかにすることとした。
4、昭和研究会は、今回の報告を基礎とし今秋以降新に研究部門を組織して具体的に東亜ブロック経済結成の諸方策にいたるまで研究を進めんとする意図を持つものであるが(その成果を斯の如き形態の於いて公表しうるや否やは予断の限りではない)、不取敢右の如くまでの研究成果を公表するのは、此種研究の水準向上に寄与せんとする趣旨に他ならない。茲に当初以来熱誠なる研究を続けられたる東亜ブロック経済研究会加田委員長並に左記会員諸氏に対し深厚なる謝意を表明するものである。
猪谷善一氏、姉川武嗣氏、加田哲二氏、金原賢之助氏、高橋亀吉氏、千葉蓁一氏、友岡久雄氏、松井春生氏、三浦鐵太郎氏、山崎靖純氏、吉田寛氏、笠信太郎氏、和田耕作氏、湯川盛夫氏
(備考)右は当初の会員にて、其後千葉氏は台湾に、猪谷氏は大阪に栄任せられ、本年1月以降新に小林幾太郎氏、樋口弘氏の参加を見た。
昭和14年10月5日 昭和研究会事務局
(『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の本質と東亜ブロック経済の特質>
ブロック経済政策は、1932年9月のオッタワ会議の結果として、英本國とその属領植民地との間に結ばれた特恵制度による連繋によって、具体化せられたものである。イギリス帝國は、世界恐慌の結果として、金本位制を離脱せざるを得ない状態に置かれ、その救治政策としてブロック政策を考案した。その以後において、諸国は、自國の植民地領域、新しく獲得した領域、または、自國と特殊関係を有する國家との間にブロック関係を創定せんとすることに努力している。これは、まづ貿易政策の上に現れて、特恵関税政策となり、割当政策となっている。現在主として行われているのは、求償貿易政策である。これによって自國産業の必要とするところのものを獲得すると同時に、自國の生産品の販路を獲得せんとするものである。
かくのごとき意味におけるブロック政策は、恐慌対策として考案されたことは事実であり、現在においても、その意味を最も多く含むものであるが、現段階におけるブロック政策は、その上に戦時経済的意義を、多分に以ている。それはヨーロッパ大戦の経験と近時における國際関係の緊迫化から戦時経済体制を整備せんとする要求とから起こっている。それは次のごとき事情を含んでいる。
1、自國産業一般の原料を確保すること。
2、生産品に対する確実な販路を獲得すること。
3、戦時資材(軍需材料並に食糧)の供給を確保すること。
4、以上3項に加へて、その領域を国防地帯として用兵の基地と考える場合。
これらの必要のために、イギリス帝國は、その属領・植民地を一丸として、大英帝國ブロックを形成し、満州事変以後における満州國の成立は、日満議定書、満州開発計画によって、日満のブロックを形成せしめている。資源の貧弱なイタリーは、エチオピア併合によって、イタリー経済に新しい要素を加へている。ドイツのオーストリア併合、ズデーデン地方の合併は、その同民種たるの理由によって行はれたのであるが、これがナチ・ドイツ4カ年計画に対して有する意義は、いまだ巨大な期待をなし得ないものがある、更にチェッコの併合は、大ドイツ國の生存に必要な経済的地域として行はれたことは確実である。いまやドイツは、その東南方政策によって、ポーランド回廊問題の解決、中欧の諸地方、ウクライナへの進出も、既定の方針であるかのごとく見える。これらの諸國の行動は、新しいブロックの形成を目標とするものである。
ブロック政策は、植民地または、その支配下の半植民地の広大な領域を有する國家が行ふとき、それは消極的な形態を採る。大英帝國ブロックは、その地域において、既に英帝國の主権下に久しく入っている諸領域を包含している。フランスも広大な殖民地との間に特殊的連繋関係の設定を行っている。アメリカ合衆国は、その地理的地位に幸せられて、中南米に多くの半植民地を以ているが、それをアメリカ・ブロックにまで形成せんとしている。ソ連は、その辺境地帯に住んでいる、未発達種族を包含して、広大なソ連ブロックを形成している。これらの諸國は、過去2,3世紀の間に、広大な地域をその領土に収め、これによって、幾多の経済的利益を獲得し来ったのあるが、いまや国際情勢の緊迫化によって、世界のいたるところに一触即発の状態にある戦争を前にしつつ、自國の権益を死守せんとしているのである。これらの諸国はいはゆる「持てる国」であって、その開発に着手していない幾多の資源を持ちながら、これを他の経済的開発にすら委ねることが出来ない諸國である。
これに対して、ドイツ、イタリーのごときは、いはゆる「持たない國」であって、その領土においても、資源においても貧弱を極めている。日本も亦その人口に比較して領土狭小の故に「持たない國」の中に数えられる。ドイツのごときは、世界戦争以前にまで持っていた諸植民地(英仏蘭等に比すれば、狭小なものであるが)をヴェルサイユ条約によって奪はれ、本國の一部分をも割譲を余儀なくされたのであって、その資源の欠乏は、著しいものがある。イタリーのごときも、大戦の講和会議において、英仏が獅子の分け前を取ったにも拘わらず、何等の領土をも獲得するところがなかった。而して、その有する植民地のごときも、資源貧弱である。これらの「持たない國」は、新しい領域への要求を常に提出しつつつある。その理由は、一面においては、一般産業の発展のためであると同時に、戦時経済体制への整備のためである。
(『ブロック経済に関する研究』から)
<持てる國と持てない國の對立>
「持てる國」と「持てない國」との對立は、こゝに起こってゐる。
「持てる國」のブロック政策は、「持たない國」の経済的活動を狭小化する。大英帝國ブロックの形成によって、わが國の受ける打撃のごときが、この適例である。わが國は、インドから綿花を、オーストラリアから羊毛を多額に買い取ってゐるにも拘わらず、イギリスのブロック政策は、わが國の商品に對して、イギリス商品の特恵的取扱によって、對抗してゐるのであった。かくのごとき「持てる國」のブロック政策が「持たない國」の活動を狭小化することが、「持たない國」をして、その活動領域拡大のために、強い要求を提出せしめ、この要求の貫徹を期する上において、軍備の拡大を行ふ理由となるのである。
従って、世界における諸強國は、各々そのブロックを維持し、またはこれを形成せんと努力をしてゐる。これを解決するために、資源、販路などの「平和的変更」(ピースフル・チェンヂ)が提案せらるゝ一方において、「持てる國」の當局者は、しばしば寸土尺地をも、他に割譲する意思のないことを宣言してゐる。さうだとすれば、この問題の解決は、遂には実力によらざるを得ない。実力によるとすれば、それは経済力によるか、政治力によるかである。しかるに平和的な経済的方法が、高関税障壁、ブロック政策のために採用せらるゝことが、不可能であるとすれば、政治力を用ゆる以外に、方法はないのである。それも、平和的な外交方法によって、「平和的変更」が不可能であるから、政治の要求を体現する他の手段によらねばならぬ。クラウゼウイッツの言ふやうに、「他の手段をもってする政治の延長は戦争である」戦争の必然性は、こゝに確定的である。
戦争が必然的であるとすれば、戦争當事國は、最も早くその戦備を整へねばならぬ。そのためには資源の供給を確立しなければならぬ。資源供給地域の確保の方向は、先ず最も抵抗力の弱い部分に向はざるを得ない。「持てる國」との密接な関係を持たない地域で、その要求國との接壌地帯が、その目標となることは必然的である。こゝに世界再分割の傾向が発生する。もし「持てる國」が、かゝる状態の不利益を察して、その領土を割譲するか、その自由な処分に任すならば、世界の武力による分割は、免れ得るであらう。
しかしながら、それが許されない限りにおいて、戦争準備のためのブロック化政策は必然である。この情勢に對応して、「持てる國」のブロック化政策が、進展するものとすれば、相互的にブロックの強化が行はれるに至るであらう。
かくのごとき傾向は、世界を数個のブロックに分割する結果を招来するであらう。そして、従来のやうな比較的狭小な地域と少数の人口とを有する國家を、減少せしめるか、かくのごとき國家が、その形式上の獨立を維持しながら、強大國のブロックに編入さらるゝに至るかであらう。拡大地域におけるブロック化政策の必然性は、以上のやうな政治経済的要請に基づくものであるが、このブロック化を可能ならし、えた最大の要因は、機械の発展である。生産における機械の応用とその組織の発展と交通機関の異常な発展とである。かゝる技術の発展の結果は、世界を狭小ならしめると同時に、この狭小化した地域において、自由に軍隊を動かし得る程度に、軍隊が機械化したことである。これらの結果は、人間の知恵の現状においては、戦争に導かれるより外にないのである。
(『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の目的、制約>
経済ブロックは、実際的には世界恐慌の對策として、形成されたものである。而して、この経済ブロックの形成の世界的傾向が、平和的方法で実行し得ない現状が、各國をして、軍備の拡大に赴かしめる必然性のあること、従ってまた戦争の必然性が存在することは、前段述べたところである。かゝる相互に関連した理由によって、ブロックが形成さらるゝとすれば、ブロックの本質はこの条件によって規定せられねばならぬであらう。ブロック経済の理想的本質をもって、ブロック領域内における自給自足にありとするものがある。一國における自給自足を理想的状態としたのは、封建時代においてであった。この時代においては、産業的需要も多種多様でなく、従って産業の必要とする資源のごときも、単純少量で足りたので、この状態の実現は、甚しい困難を伴ふものではなかったし、よしまた自國領域以外の資源を必要とする場合においても、交通機関の不備が、このことを許さなかった状態にあるので、その取得を断念すべき状態にあった。しかるに、近代においては、封建時代における経済様相は、変革せられて、生産規模の発展、交通機関の進歩が、封建時代の不可能または困難を、可能または容易にしたことは事実である。この事実が、また自給自足の状態を不可能にしてゐることも、認識せられねばならぬ。
かくのごとき結果から、もし理想的な自給自足的ブロックを形成するとすれば、それは全世界を1つのブロックとしなければならない。
別の言葉でいへば、世界の政治的統一が成し遂げられねばならぬのである。しかしながら、世界の政治的経済的統一のごときは現在のやうな民族主義の思想と実践との濃厚な時代においては、急速に実現し得ないことはいふまでもないことであり、かくのごとき企画を実行に移そうとすれば、全世界との戦争を敢えてしなければならぬ状態が、これを不可能ならしめている。
一経済ブロックにおいて、比較的多くの資源を獲得し得るものは、大英帝國ブロックであるが、そこでも完全なものでないことはいふまでもない。よし、またブロック内において、資源獲得が不可能であるとしても、多量に生産せらるゝ諸種の商品のブロック内消化が、また問題である。何となれば、現在におけるブロックの構成は、一中樞國家とそれの衛星的領域との連繋であり、衛星的領域は資本主義の未発達状態にある農業的領域であるか、相當に資本主義の発達してゐるところでも、中樞的資本主義國に對して付随的意義しか持たないところの領域である。従って、中樞國家資本主義國が、そのブロック経済領域から自由に資源を獲得し得たにしろ、それによる生産品のすべてを、この領域内だけでしょうかすることは、殆ど不可能であるといひ得るであらう。
かくて見てくれば、ブロック経済における自給自足性は2つの方面から現在のところ不可能であるといはねばならぬ。
一、現在形成せられ、また形成せられやうとしているブロック経済は、(イ)代駅帝国ブロック、(ロ)北米合衆國ブロック、(ハ)ソ連ブロック、(ニ)フランス・ブロック、(ホ)ドイツ・ブロック、(ヘ)イタリー・グロック、(ト)東亜(日本)ブロックであるが、そのいずれについて見ても、資源的に充分なもの2を以ていない。従って極めて現実的に考へられた経済ブロックにおいては、ブロック内自給自足は不可能である。
この自給自足性が充分に確立せられ得る望まれるブロックを形成するためには、多大の困難と犠牲を払わなければならぬし、よしまたこれを払ったとしたところで、これが実現の可能性が興へられるか否かは、甚だしい疑問であるといはねばならぬであらう。さうすれば、ブロック経済の自給自足性は、現在においては、問題にならぬといはねばならぬ。
二、第二は、ブロック経済内、殊にその中枢國家領域における大量的生産が、ブロック内において消化し得ないといふ条件である。これはブロックの形成が、従来の植民地的関係の拡大である点から、さう論断せざるを得ない。先進的資本主義國と後進國との連繋、各ブロックによる後進國領域に対する特恵的関係によって、他國の活動を排除しようとする傾向がこれである。
従って、ブロック経済の設定も、封鎖経済の本質に徹することが出来ない現状にある。即ちブロック経済の設定も、また世界経済的条件の下においてのみ可能だといふことである。此点でブロック経済に対する誤解が修正されねばならぬ。即ち、それは単にブロック内の自給自足を目標とすべきではなく、進んで次の国際分業の原則を再建せんとするところにその積極的意義を認ぬべきである。つまり世界が従来の國組織では狭さを感じ、より広汎なる一定地域にブロックを建設すると共に、これを単位として世界の新融通関係へ到る段階を形成しつつあるものと認むべきである。従って、これは或る程度までエクスクルーシブであると共に、又多分にインクルーシブでなければならない(何をエクスクルードし、何をインクルーシドすべきかが重大な問題である)。又軍備を中心に云へば、ブロック経済は一応戦ふ形の完備を目指すものには違ひはないが、同時に戦う形の中に次の平和への動向を持つものでなければならない。
(『ブロック経済に関する研究』から)
<昭和研究会というシンク・タンク>
上記『ブロック経済に関する研究』の著者菅沼秀助は昭和研究会に属していた。ここではその「昭和研究会」に付いて扱うことにし、『昭和研究会』からの文章を引用することにしよう。