趣味の経済学

日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易

自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消

TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します


2009年4月13日更新 
……… は じ め に ………
 明治維新後、「富国強兵政策」を強力に押し進めていった日本、第1次世界大戦後、世界の先進国の仲間入りを果たしたかのように思えた。 しかし、日本、ドイツ、イタリアの3カ国は、先進植民地主義大国の既得権益に阻まれ、さらに新たなブロック経済政策のために自由な貿易からの利益を得ることができなかった。このため先進植民地主義大国に対して新たなブロック経済圏を作るべく、強い影響力を発揮できる植民地を求めて、「日独伊三国軍事同盟」を結び、経済的・軍事的侵略を進めていった。
 このように、日本をはじめとする後進工業国が「追いつき、追い越し作戦」を取っている頃、1992年10月のニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌に対して、イギリスは1932年9月にオタワで会議を開き、イギリス本国とその属領植民地との間で特恵制度によるブロック経済圏を作り上げていった。こうしたイギリスの動きに対応して先進植民地主義諸国は、自由貿易から保護貿易へと政策を転換していった。
 先進工業国の仲間入りをしたかのように思えていた日本は、こうしたブロック経済の動きに対して自由貿易の恩恵が得られないために、日本独自のブロック経済圏を作り上げなければならなかった。先進諸国のブロック経済政策と、中国の対日ボイコット運動により、日本は 「大東亜共栄圏」 なる愚かな幻想を描くことになった。
 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の期間で、日本は保護貿易政策の犠牲者であった。 その犠牲者でまだ先進工業国から見れば弱小後進工業国であった日本があたかも「窮鼠猫をかむ」を狙ったかのような「大東亜戦争」という無謀な賭に出ることになった。このような保護貿易政策の犠牲者であった日本が、21世紀現在、保護貿易の加害者になろうとしている。戦後の荒廃から立ち直れたのも、自由貿易のおかげであったことも忘れてしまったようだ。
 このホームページでは、第1次大戦後から第2次対戦に至る期間に日本がどれほど保護貿易による被害を受けたか、について検証してみることにした。
 「自由貿易こそが国民を豊かにする」 歴史を振り返って見ればこの言葉が正しいことが理解できるはずだ。歴史の過ちを繰り返さないためにも、そしてこれから中進国・先進国の仲間入りをしようとしている国のためにも、自由貿易体制を維持し、貿易による相互利益を享受できるようにすべきだと主張します。


日本を 大東亜戦争 に追い込んだ保護貿易
自給自足を目指す ブロック経済 と呼ばれる地産地消
(1)世界の経済秩序を破壊する日本 既得権を死守しようとする先進植民地主義国  ( 2008年8月25日 )
(2)自由貿易から保護貿易への転換 オタワ会議から広まったブロック経済政策とは  ( 2008年9月1日 )
(3)当時はブロック化をどう評価したか それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる  ( 2008年9月8日 )
(4)日本が選択した「大東亜共栄圏」構想 それ以外に選択肢はなかったのだろうか  ( 2008年9月15日 )
(5)中国貿易の低迷による日本の貿易 日本製品排斥運動で満州が主生命線になる  ( 2008年9月22日 )
(6)英帝国ブロックの日本綿製品排斥運動 世界1の生産を誇った日本綿業への規制  ( 2008年9月29日 )
(7)『時局大熱論集』という強硬意見集 徳富蘇峰、中野正剛、藤原銀次郎などの主張  ( 2008年10月6日 )
(8)米国の日本に対する経済制裁 ボイコット運動とそれに対する日本政府の対応策  ( 2008年10月13日 )
(9)ABDCラインと呼ばれた経済封鎖網 それによる日本国内経済の実態を振り返る  ( 2008年10月20日 )
(10)英連邦諸国などとの貿易戦争 オーストラリア、オランダ、インド、エジプト他  ( 2008年10月27日 )
(11)新天地ラテン・アメリカへの進出 日本の繊維製品と発展途上国産業との摩擦  ( 2008年11月3日 )
(12)米国の貿易規制による石油ショック 勝つ見込みのないエネルギー戦争へ突入  ( 2008年11月10日 )
(13)陸・海軍、御前会議などの動き 無謀な大東亜戦争へと追い込まれて行く過程  ( 2008年11月17日 )
(14)東亜新秩序とそれに対する英米の圧力 日本が考えていた以上の綿密な計画  ( 2008年11月24日 )
(15)保護貿易の反省から生まれたガット 二度と再び日本のような被害国を生むな  ( 2008年12月1日 )
(16)ガットが進化してWTOへ 日本の農業保護関税政策は世界で容認されるのか  ( 2008年12月8日 )
(17)FTAは最恵国待遇に反しないのか? 新たなブロック化の危険性はないのか?  ( 2008年12月15日 )
(18)辛抱強い貿易自由化へのラウンド交渉を 紆余曲折があっても道筋は失わず  ( 2008年12月22日 )
(19)大東亜戦争を本当に反省しているのか 一部衰退産業の保護は袋小路への道  ( 2008年12月29日 )
(20)コメ自由化への関税政策試案 特定の国からの輸入に頼らない農産物の関税化  ( 2009年1月5日 )
(21)グローバルゼーションを基本とした政策 成長痛を恐れぬ農業政策の立案を  ( 2009年1月12日 )
(22)自由貿易こそが国民を豊かにする 地産地消、金融支援、バイアメリカンとは?  ( 2009年4月13日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)世界の経済秩序を破壊する日本
既得権を死守しようとする先進植民地主義国
<出る杭はうたれる日本>  第1世界大戦後、日本は世界経済に大きな影響力を発揮して参入し始めた。これに対して、先進諸国は既得権を脅かす厄介者として、日本への規制を強めていった。 先進諸国の規制と中国の対日ボイコットは日本の経済政策の選択肢を狭める結果となった。こうした歴史的経過については 「池田美智子著『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年」に詳しいので、ここでは、初めに『対日経済封鎖』からの引用文を紹介することにしよう。
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<『対日経済封鎖』「まえがき」から> 本書は、第1次世界大戦と第2次世界大戦とに挟まれた期間(戦間期)の、世界市場における日本の経済成長と通商問題の一断面を扱っている。この主題に関するこうしたアプローチは、今まで日本でも外国でも、また世界史の中でも扱われていない。
 戦間期までには欧米先進諸国の植民地争奪競争はすでに過去のものとなっていた。また世界経済も第1次世界大戦後の反動不況から立ち直りつつあった。戦前の秩序にそのまま復帰することは夢でしかなかった。世界の規制の秩序はその根底から揺らぎ、大きな変革へと胎動しつつあった。そのような歴史的過程の中で、日本は急速に成長し世界市場へ参入し、当時の世界のダイナミックな変革へ、さらに拍車をかけていく。
 当時の日本は、努力の集積の結果、先進の欧米諸国に「追いつき」つつあった相対的経済後発国であった。日本の経済的な「追いつき」は、海外市場への輸出の競争力として現れた。 しかも、東洋の一小国の世界市場への挑戦的参入は、欧米諸国がかつて経験したことのないものであった。特に発展途上国へ工業製品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の登場はその市場への”侵略”と見なされた。 先進諸国のうち世界のその時点での現状維持(スティタスクオ)こそ「正しい」と信じる国の眼には、日本は暗黙裡にその既得権と市場の秩序を破壊する”侵略者”と感じられた。日本は既存の市場の均衡を破り、不当な廉価販売によって先入者たちの富を侵略すると思われた。
 かくて欧米諸国の海外市場とその植民地および属領などは、日本からの輸出品に対して厳しい規制をかけていく。 差別的規制もあった。日本側の対応もあって、それらは当時の国際的諸条件のもとで瞬く間に世界を覆っていく。 当時の日本は特に貿易を規制されては生き延びていけなかった。言い換えれば、日本は勤勉な労働力に頼って、資源の乏しい国土の不利益を国際交易によって代替え、産業化を進展させ、世界市場と共存してきたからとも言える。 日本経済の発展は、日本自身にとっても初めての世界市場への大規模な参入となって現れ、先進諸国をはじめとするほぼ全世界から厳しい通商摩擦の十字砲火の中にさらされた。厳しさを加える対日輸入規制は日本経済に深い影響を与え、波及的な相互作用を促したのである。それはまた国際経済の性質上、決して2国間のみに留まることはできなかった。そのいずれかの国と交易をしている第3国へも波及し、そこでもまた相互反応を生み出し、ひいては保護主義の悪循環を招いた。そして世界貿易は、縮小の渦の中へと陥ったのである。
 世界的な保護主義の嵐が吹きすさぶ中で、日本は追われ追われて、ついには外貨を稼ぐ市場すら探すことができなくなった。それは日本の第2次世界大戦参入をうながす原因の1つとなったのである。 (『対日経済封鎖』から)
<50数年前の保護主義と現代日本の保護主義>   本書に書かれている50数年前の世界史の1面と、その深層に作用するダイナミズムは、今日の世界にも示唆するところが多い。第1に、世界経済の発展は、後発諸国(今日の言葉では発展途上国)の経済発展に伴って展開される経済上の変化を内包していることである。歴史的過程としての産業化による諸国の興隆を振り返ってみよう。英国は産業革命を初めておこした国である。すなわち、その当時英国は世界のどの国よりも経済先進国であった。それに比べフランスは英国よりも経済後進国であり、ドイツはフランスよりもさらに後れていた。また米国も、この意味で英国に比べて経済後進国であったことは言うまでもない。そして日本は、本書で扱っている戦間期の1番終わり頃に世界市場で産業の一部で追いつきつつあった相対的経済後進国であった。
 このような世界の経済発展の歴史を俯瞰すれば、産業革命以降今日までの相対的経済後発諸国の「追いつき」課程の世界的展開が明らかになってくる。この経済後発諸国の「追いつき」課程は、現在も発展途上諸国によって展開されているし、そしてまた将来も続いていくことであろう。相対的経済後発諸国、つまりその時々の発展途上諸国が、先進諸国に経済的に追いついていく過程で、その産業分野における急速な成長力を持って世界市場に進出すれば、通商摩擦が必ずといってよいほど生じてくる。 先進諸国の産業にとってみれば、その既得権益、市場を侵されたくないのである。したがて、発展途上諸国の産業化、つまり「追いつき」が効果的に続く限り通商摩擦は避けられないと言ってよいであろう。このような経済後発諸国が「追いついて」いく歴史的序列を、過去から未来への史的比較という縦軸から転じて、現在という歴史上の一時点をとって、水平的に並び変えてみれば、それは様々に発展段階の異なる先進諸国と発展途上諸国の混じり合った今日の世界経済地図となる。こうして史的比較は、今日の交際的な比較に通ずるところがある。
 ただ付言しておくが、こうした歴史の流れから見た過去の相対的経済後発諸国で今の先進国となった国々は、それぞれがその歴史的時点におれる世界史の中の環境と、国内的に与えられた諸条件のもとで、それぞれに必死に創意と工夫をめぐらして、自国よりも相対的に先進的であった諸国に追いつき、また時には何らかの分野で先進諸国を凌いできたのである。 その国々が現在の先進諸国である。今は先進諸国として発展途上諸国の経済発展を援助している。しかし一方で、それが成功すればするほど国際貿易摩擦は増大していく面があることを認識する必要がある。
 このような経済史的遠近法から、世界の後進諸国の経済発展とそれに伴う通商摩擦という問題を理解することができれば、本書で扱った出来事は50余年前の知られざる史実の探求に尽きるものではない。また日本だけの問題でないことも明らかとなるであろう。 (『対日経済封鎖』から)
<今日の「追いつき競争」を考える>   本書で扱う50数年前のできごとは、当時の先進諸国側にもまた日本側にも思い当たることが多いであろう。現在、日本をも含む先進諸国側としては、発展途上諸国との貿易とそこに生じる通商摩擦に対してどのような態度を採るべきだろうか。 発展途上諸国としてはその問題に対して、どのように自らを育みながらどのような心構えでいくべきなのか。そして、それらの具体的な方法とは……。これらの国々がかつて日本や当時の先進諸国の轍を再び踏むことのないようにと、誰しもが願う。そしてまた、後発国がたとえ「追いつき」に成功しても、それは経済のある一部の分野にほぼ限られている。加えて、「追いついた」後発国は、一般に外交、国際性、国内政治、法律の解釈等々の点では、後進性を深く残したままでいることが多い。このことを世界市場での激しい「追いつき」競争の中で、国際的に多くの競争相手国に理解してこらうことがいかに難しいかは、本書の中で見られるように見本が度々経験している。(中略)
 米国は若く、自国の力が強くなっても、その国内経済政策の動向が世界に及ぼす影響を考えなかった。1929年10月のニューヨークのウォール街の株の暴落、世界金融市場からの米国資本の大量引き上げ、米国議会内のなれ合いによって決まったスムート・ホーレイ法(保護貿易、高率関税で悪名高い)の実施によって、世界経済が大恐慌の渦に巻き込まれ、その後の長期的沈滞へと押し流されるなど考えてもみなかった。こうして本書の対象期間の後半には、世界経済の流れは一変していた。そうした嵐の時代がやってくる寸前に、日本はILO(国際労働機構)の勧告を受け入れて紡績業の深夜労働をやめ(1929年)、金本位制を再建し(1930年)、「大国」の仲間入りができたと喜んでいた。
 そうしてやってきた世界市場の沈静化の中で、どの国も自国内の経済問題の収拾と対応に追われ、他国を顧みることは少なく、保護主義は次第に高まっていくのであった。その中で、近代国家としては若かった日本は貿易の自由を求めていった。そうする以外に日本は生きられなかった面がある。このような世界的流れを背景として本書をひもといていただければ幸いである。
 本書は、現代史の中で日本という1つの国を焦点として、壮大な世界市場を舞台に世界の国々と数々の人々の運命を巻き込んで展開された保護主義と貿易差別の歴史的実験を描いた記録である。その内容は読む人によっては辛く悲しいことかもしれない。しかし深く考えてみれば、私たちはこうしたものを乗り越えるところまで今日来ている。当時、世界各地の市場で日本人が暗濾たる思いで見たであろう夕日は、日本のみならず世界の”自由貿易”の終焉を告げる日没であった。しかし、第2次世界大戦後、人間の本性に根ざす経済行動の1つとして、貿易の自由は不死鳥のごとく蘇った。そしてまた、現在の保護主義と管理貿易の果てに、これから私たちは何を生み出すのであろうか。
 さらに、研究の過程で知ったことであるが、本書の中に登場する米国人の観察者や、東京の英国大使館員の、日本の競争力についての見方が的を射ていることに感銘せざるを得ない。あのような多くの非難と偏見を浴びせられていた時代にあっても、物事を正しく観ている人々はいるものである。この人々の言葉は、まるで今日の日本があることを、あのような時代のなかで既に洞察しているかのようであった。
 本書を組み立てている原資料の多くは、米国のワシントンD・Cの議会資料館と英国の公文書館、東京の外務省資料館の中に、著者が訪ねていって解禁の許しをこう日まで、ひっそりと光の当たる時を待っていたのである。原資料と統計の示すものの解釈は様々と思うが、私にはこれから記すことがその埋もれた史郎からのメッセージのように聞こえた。 (『対日経済封鎖』から)
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<ブラック・サーズデーからの世界大恐慌から経済のブロック化が始まった>  1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出された。その後、一時的に株価は持ち直したかのように見えたが、大きく下落し、これをきっかけに世界恐慌が始まった。世界的な恐慌に対して各国の対処の仕方は様々であったが、基本的には自国の産業を守ろうとする「保護貿易主義」であった。
アメリカ  第1次世界大戦によってヨーロッパ経済は衰退しきっていた。そのヨーロッパに代ってアメリカが世界経済の主導権を握るようになった。ヨーロッパ経済の立ち直り、モータリゼーションの普及などによりアメリカの景気は活気を呈していた。この好景気に対し投機筋の資金が参入し、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。この好景気、しかし実状は生産過剰で需要不足がハッキリすればバブルがはじけるような状況であった。
 そういう状況でのニューヨーク株式市場での株価下落はしかし、その後の事の大きさは予想されていなかった。いくつかの銀行が破綻したがアメリカ政府は有効な対策はとらなかった。このためマネーサプライは減少し不況の傷口を大きくした。共和党のフーヴァー大統は1930年にスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採用した。
 第1次大戦後、国際連盟が設立されたが提案国のアメリカは参加しなかった。アメリカは、第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会への7番目の年次教書演説で「モンロー主義」(「モンロー教書」ともいう)を発表した。このモンロー教書は欧州列強に対する「アメリカ大陸縄張り宣言」であると同時に、ヨーロッパに対する不介入宣言でもあった。つまり、「アメリカ(南北アメリカ大陸)の問題はアメリカに任せろ。口を出すな。その代わり、ヨーロッパの問題には介入しない」という宣言であった。経済はすでにグローバリゼーションが進んでいたが、アメリカは自国の経済だけを考えて政策を実行していた。このため、アメリカの不況はヨーロッパにも広がり世界的な不況=恐慌になっていった。
 1933年大統領に就任した民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は積極的な経済政策であるニューディール政策を実行し大恐慌に対処しようとした。その成果についての評価は2分していて、効果があったか、無かったか、ここでは論じないことにする。イギリスはじめ先進諸国が保護貿易、ブロック経済政策を採用するなかで、アメリカも保護貿易に進むことになった。アメリカは広い土地と、ヨーロッパ諸国から影響されにくい南北アメリカ諸国が近くに存在し、ヨーロッパ諸国がブロック経済清濁を採用することによって、アメリカも実質的なブロック経済政策を採用することになった。
イギリス  イギリスの大恐慌の時代は、「赤い30年代」と表現されるように、資本主義経済に対する不安と、社会主義に対する期待が大きかった。伝えられるソ連経済のニュースをもとに、「ソ連とは違う、デモクラシーでの社会主義経済の実行」を目標とすべきとの考えが広まっていた。
 そうした社会情勢の中で成立したマクドナルド挙国一致内閣は1931年9月211日に金本位制を廃止した。1932年7月21日から8月21日、カナダのオタワでイギリス帝国経済会議を開き、オタワ協定を締結した。(会議に参加したのはイギリス本国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、インド、南ローデシアの植民地) これはイギリス連邦を世界恐慌から救出する方策として、イギリス連邦以外の国の製品に対して高い関税を賦課し、連邦諸国内の製品の関税は低くするという特恵制度をより完備・徹底したのもだった。「イギリス連邦の皆さんは、イギリス連邦で生産されたものを買いましょう」「連邦内の顔の見える生産者のものを買いましょう」「東洋には『地産地消』とか『身土不二』という言葉があります。これを見習いましょう」ということだった。このオタワ会議以降各国はブロック経済に走ることになった。
フランス  第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。
 1929年に始まった世界恐慌、フランスへ波及するのに時間がかかった。1932年頃までは本格的に波及せず、むしろ逆にポンド、ドルの下落を恐れた外資がフランスに大量に流入し、表面的には国際収支は大幅黒字となり、フランスは世界的不景気のなかの「繁栄の小島」と称された時期さえあった。しかし1932年以降生産は大幅に低下し、失業者は増加し、税収入不足から緊縮財政になり、これに対して官公吏を中心とする抵抗が強まった。それに対して政府は有効な政策を打てなかった。悪い政府より無能な政府の方が国民にとって我慢がならないという場合がある。当時のフランス人にとって周囲には「ダイナミック」な独裁国家の発展を見せつけられていただけに苛立ちはなおさら大きかった。
 左からの変革を願うものは当然社会主義、共産主義に目を向けた。当時、恐慌に苦しむ資本主義諸国と対照的に5ヶ年計画により経済建設を着々とおし進めるソ連の姿は、ソ連と共産主義の威信を大衆の目に、またとりわけ当時普及し始めたマスコミに登場する、<マス・インテリ>の目に大きく映らずにおかなかった。(大粛清はまだ始まっていなかった)
 1934年5月、それまでの政策を変更してコミンテルとフランス共産党が反ファシズム戦線のために社会党とも手を結ぶ、となった。1934年7月277日社会党と共産党は統一行動協定を結ぶ。「人民戦線=フロン・ポピュレール(Front populaire)」という言葉はこの年の10月にフランス共産党機関誌「リュマニテ」に使われた
 1936年4−5月の選挙で選挙協力が実を結び、共産党、社会党が躍進した。第一党となった社会党のレオン・ブルムが政権を担当することとなった。内閣は社会党と急進党の連立で、共産党は閣外協力。1936年6月4日夜、ブルムはルブラン大統領に閣僚名簿を提出し、翌5日正午にラジオで国民に呼びかけた。
 1937年6月の社会的激動のショックに新たにスペイン内乱をめぐる国内対立の激化が加わり、有産階級の不安と警戒は高まった。政府に対する信頼は低下し、資金の国外流出と国内退蔵のためフランス銀行の金保有高は9月23日には国防上の必要最低限といわれる500億フランに減少し、国債の売れ行きも悪化した。ついに9月26日、政府は銀行券の自由兌換を停止し、実質的なフラン切り下げを発表した。しかしこの決定はあまりにも遅く、切り下げ幅も不十分で、賃上げ、労働時間短縮の影響もあり、短時間に切り下げの利益は失われ、あとには政府の信用失墜と与党各派の相互非難とインフレを残すばかりとなった。
 政府が期待した本格的経済回復はおこらず、予算赤字の増大の見込みと再軍備費の重圧は再び通貨不安を引き起こした。フラン投機の再熱により為替平衡基金の100億フランは1月末にはすっかり底をついていた。なんらかの処置が必要であった。
 1937年2月13日、物価上昇に対応して賃上げを要求していた公務員に対してラジオ演説でブルムは「休止=ポーズ」を声明した。 公務員の要求に対して強い態度を取ろうとした社会党のブルム政権、しかし5月開催を控えたパリ万博を控え公務員への強い態度はとれなかった。
 フランスでは、イギリスの「赤い30年代」以上にソ連から伝えられる社会主義に大きなあこがれを抱いていた。そして社会党のレオン・ブルムが政権を担うことになった。しかし、経済政策は有効な対策も打てず、政治的には、1936年7月17日からのスペイン内乱に、政府としてなにもできなかった。その後、ブルム内閣は国民の信頼を失い、フランスの政局は不安定なまま第2次対戦を迎えることになる。ちなみに、この1936年に、ケインズの『雇用・利子・および貨幣の一般理論』が発表されている。
ドイツ  1918年11月11日、ドイツの降伏により第1次世界大戦が終結。第1次世界大戦の末期、キールの水兵反乱に端を発したドイツ革命は、1918年12月の第1回全国労兵レーテ大会を開く。これが基礎となり1919年1月19日の選挙の結果としてワイマールに召集された国民議会は、エーベルトを大統領に選出するとともに、社会民主党・中央党・民主党のいわいるワイマール連合内閣を成立させ、1919年7月31日に「世界で最も民主的」と言われたワイマール憲法を採択した。  ワイマール共和国は民主主義の理想を高々と掲げたのだが、現実の政治経済は厳しいものだった。ドイツの降伏を取り決めたベルサイユ条約は、ドイツから全海外領土と本国の13%を奪い、軍備制限とラインラントの占領・非軍事化を行い、さらに莫大な賠償金を課するものであり、その賠償金は1320億マルクにのぼるものであった。このため各地で一揆・反乱・革命が勃発し、経済はハイパー・インフレに襲われ、1923年にはヒトラーのミュンヘン一揆が起きる。こうした時期に外相シュトレーゼマンは国際協調外交を展開し、ドイツ経済の再建と国際的地位の回復に努めた。産業界はドーズ案体制のもとでアメリカから資本を導入し、合理化運動を進めた。  ドーズ案とはアメリカの銀行家 Charles G. Dawes (1865-1951)を長とする賠償委員会が作成した賠償支払計画案。ドーズ委員会はドイツ通貨の安定と財政均衡をはかり、賠償方式を緩和させる一方、ドイツの鉄道、工業施設を担保に、アメリカの資金を導入しドイツ工業の復興をはかる収拾案を作成し、1924年7−8月のロンドン賠償会議で採択調印された。以後、ドイツ経済は立ち直りのきざしが見えた。1925年ドーズはノーベル平和賞を受けた。
 ヒトラーは元ライヒスバンク総裁シャハトに経済政策の全権を与え失業の解消と再軍備を進める。1938年、軍拡景気の局面にはいり、4ヶ年計画が発足し、重化学工業への資本と労働力の集中は一層進む。1938年オーストリア、ズデーデン地方の併合、翌39年3月チェコスロバキア占領といった軍事拡大政策もその成功のため国民からは高い支持を受ける。アウトバーンを疾走するフォルクスワーゲンは国民の夢を膨らませ、生活の不満はユダヤ民族への差別によって解消させる。(もっとも戦時中はVWも軍需産業に集中し、ビートルが国民車として普及するのは戦後になってから)
 ドイツでの大恐慌は国民にはあまり影響を与えず、ヒトラーの国家社会主義は国民生活の向上に実績を上げた。しかし、対外的には新たな「地産地消」を進めるべく「自給自足」の供給地=植民地を積極的に広げるという、侵略政策を押し進めることになった。
イタリア  第一次世界大戦後、混乱していたイタリアではムッソリーニのファシスト党が1922年から政権を担当することになった。1926年にはファシスト党以外の全政党を解散させることで一党独裁制を確立した。1936年7月17日からのスペイン内戦の関してはドイツとともに反乱軍のフランコを支援することになる。
 イタリアは19世紀末からエチオピアを植民地に、と狙っていた。ムッソリーニ政権は1935年1月にフランス外相ピエール・ラヴァルとの間でフランス・イタリア間の連携強化協定を結んだ。英仏の宥和的態度を見ていたムッソリーニはエチオピア侵攻が成功すると確信し、1935年10月3日エチオピアへ侵攻を開始した。国際連盟は11月18日に対イタリア経済制裁を発動したが、ヒトラーはイタリアへ武器や戦略物資援助を続けた。 1936年5月6日イタリア軍は首都アディス・アベバに入城、皇帝ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスに亡命、5月9日にムッソリーニはエチオピア併合を宣言した。
 このエチオピア問題には日本国内で関心を持つ有志がいた。アジア・アフリカに関心を持つ頭山満ら250人の有志は1935年6月4日、エチオピア問題懇談会を設立。満場一致で採択した決議文を、「代表頭山満」の名で、エチオピア外相ヘルイに打電した。「危機に直面せるエチオピア政府及び国民に深厚なる同情の誠意を表す(中略)国際正義、国際平和の見地より円満なる問題の解決を望」。ヘルイからの謝電はその翌日に届いた。「我が政府の名において、余は感激に堪えざる貴電に対し、衷心より感謝の意を表す」。電報のやりとりはその後も続き、エチオピア政府は9月、日本に特派使節を送り込んだ。
 満州事変以降、軍部の影響力が強まり、イタリア、ドイツに急接近していた日本政府は、「満州国」の承認と引き換えに、イタリアのエチオピア併合を黙認。そして頭山満は1938年3月、今度はイタリア使節歓迎国民大会に出席している。
 1926年イタリアはアルバニアを保護国とし、1939年に併合した
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社   1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書     1992. 1.25
( 2008年8月25日 TANAKA1942b )
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(2)自由貿易から保護貿易への転換
オタワ会議から広まったブロック経済政策とは
<イギリスが主催したオタワ会議>  1914年に始まった第1次世界大戦は1918年に終結した。この戦争がそれまでの戦争と違うのは、@非常に多くの国が参戦した。A兵隊だけでなく、一般市民も大きな被害を受けた。ということであった。このためヨーロッパ諸国の産業施設は大きな被害を受け、生産が戦前の水準に達するには時間がかかり、そためにアメリカの生産活動に大きな期待がかかり、アメリカ経済は活気を呈した、その活気に対して多くの投資がなされ、経済活動が実体以上の数字が表示され、まさにバブル状態であった。活発なアメリカの生産活動に対し、ヨーロッパでの生産活動も再建され、需要以上の生産が行われた。
 こうした状況で、1929年10月24日10時25分、ニューヨーク株式市場で、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。これを契機にアメリカが不況になり、この不況はパンデミーのように世界中に広まっていった。その影響、その経済対策は国によって違いはあったが、イギリスの経済政策は多くの国に影響を与えた。その政策とは「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」であった。
 生産活動の主導権はアメリカに移っていた。このため、アメリカの不況は世界に広がることになった。しかし、イギリスの影響力も大きく、その経済政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」がその後の世界経済に大きな影響を与えることになった。
 このうちの「オタワ会議」について、『対日経済封鎖』の関連する部分の文章を引用することにしよう。
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<日英間の貿易紛争とオタワ会議>  英国は1932年のオタワ会議で英連邦内の自治領および植民地と帝国特恵協定を結び、世界貿易に重い軛(くびき)をかけた。特恵待遇の強化を図ることによって、英帝国の交渉力を強化し、その貿易収支を改善し、また不況下の英国経済には雇用の増加をもたらすものと期待していた。なぜならば、英国経済は、1925年の金本位制の再建にもとづくデフレと、31年の英ポンド平価切り下げ後のインフレに悩んでいたのである。世界経済は、このオタワ会議以降、”自由貿易”に終わりを告げ、保護主義へと転換したのであった。
 この頃、日本の輸出先導産業は、1次産品の生糸から工業生産物である綿繊維製品へと移っていた。1932年、綿製品は総輸出の25%にのぼり、生糸の21%を超えた。そして、この日本綿製品の輸出量はそれまでの世界の覇者・英国を凌いで世界1位となった。
 日本のすべての繊維品輸出の稼ぎ頭は綿布であった。1932年、その輸出量は20億9千平方ヤードと世界最高を記録した。こうして日本が達成したものこそ、日英間の貿易紛争を尖鋭化させ、それは特に英連邦市場を舞台に演じられることになった。英連邦諸国が公然と対日貿易差別の圧力をかけ始めたのも、この頃のことであった。 (『対日経済封鎖』から)
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<オタワ会議を日本ではどのように見たのか?>  世界不況時にイギリスのとった政策、「平価切り下げ」「金本位制の廃止」「オタワ会議」はその後の世界経済・各国の経済政策に大きな影響を与えた。そのなかでも「オタワ会議」はその後の保護主義への先駆けとして各国政府の政策に大きな影響を与えた。その「オタワ会議」が日本でどのように評価されていたのか?そのあたりから話を進めることにしよう。
<オタワ英帝國経済会議> 英本国政府は1932年7月21日より1ヶ月間カナダ「オタワ市」自治領その他の地方政府を召集し英帝國経済会議を主催して特恵関税協定を始め英帝國内各領の経済的結束を緊密ならしむべき各般の方策を決定したり。蓋し19世紀後半以来事由貿易主義の大施を翳し其の卓越せる工業能力と広大なる植民地の豊富なる天然資源とを基礎として世界通商の覇権を掌握し来れる英本國も欧州大戦後内戦争の疲れに加え外新興工業國の台頭に依り漸次昔日の商権失墜して之が挽回用意ならざるを看取するや茲に其の方針を一変し退いて英帝國内を固むるの方策を樹つるに至れり。
 右英本國の新政策は結局英帝国内各地の経済関係を今世紀当初の状態に転廻せんとするものにして換言すれば各植民地をして英本國に対する工業原料等の供給地たらしむると共に右植民地を蚕食せる外國商権を駆逐して是等の地方を専ら英本國品の独占市場たらしむとするものなるか故に大戦以来発達したる植民地の工業状態と右植民地及隣接諸外國間の経済関係とを考察する時は前述新政策の実現に幾多の困難を伴うべきは想像に難からず英本國が欧州大戦の苦杯に顧み國内農業の保護政策を樹立したる事実は植民地との利害関係の調和を一段と困難ならしむるものと思惟せられたり。
 前記の事情の下に開催せられたる「オタワ」英帝國経済会議は幾多の新指針を決定し而して右決定は会議後各々実行に移されて爾来3カ年を閲せり「オタワ」会議の開催は唯英帝國内の重大問題たるに止まらず会議の実績如何に依り其の世界経済界に及ぼすべき影響も亦少なからず左に会議開催前後の経済を略述し併せて会議の成果に付考察するところあらんとす。 (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<英本国ノ貿易状況>  欧州大戦勃発の前年たる1913年度に於ける英本国の貿易状況を概観するに輸入総額7億6千8百7十4萬磅(ポンド)(植民地よりの輸入1億9千百5十2萬磅外国よりの輸入5億5千7百2十2萬磅)。輸出総額6億3千4百8十2萬磅(植民地向け輸出2億8百9十萬2磅外国向け輸出4億2千5百9十萬磅)合計貿易総額14億8百5十6萬磅なり。又欧州大戦後の世界経済繁栄期たる1924年乃至29年の6カ年に於ける貿易状況を見るに此の6カ年間平均の輸入総額12億4千5百7十萬磅(植民地よりの輸入額3億8千3十7萬磅、外国よりの輸入額8億6千5百3十3萬磅)、輸出総額8億6千3十萬磅(植民地向け輸出3億5千2百9萬磅、外国向け輸出5億8百2十1萬磅)、合計貿易総額21億6百萬磅にして輸出入共大戦前に比し著しき発展をなしたり。然るに此の英本国の貿易も世界的不況の襲来と共に漸次衰運に傾き「オタワ」会議開催の前年たる1931年に至りては其総額大戦前1913年度の貿易額に達せず殊に其の輸出の方面に於いて著しき減退を示せり、即ち同年度の輸入総額8億6千百2十5萬磅(植民地よりの輸入額2億4千7百4十2萬磅、外国よりの輸入額6億1千4百8十4萬磅)。輸出総額4億5千4百4十9萬磅(植民地向け輸出額1億8千6百7十4萬磅、外国向け輸出額2億6千7百7十5萬磅)、合計貿易総額13億1千5百7十4萬磅にして戦前1913年度の総額より9千2百8十2萬磅の減少を示し、而して此の減少は専ら輸出に於ける1億5千8百十5萬磅の減少を来したるが為輸入に於ては多少の増額を見たるに拘わらず総額に於いて前記の減少を来すに至りたるものにして、換言せば1931年度の貿易内容の著しく悪化せる状況を窺知するに足るべし。今大戦前(1913年)戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年)及世界的不況期(1931年)の3期に於ける英本国貿易状況を次に表に掲ぐ。(表略) (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)
<日本との関係>  本邦と英本国との貿易関係を概観するに英本国に於ける本邦よりの輸入は戦前1913年に於いて4百3十8萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出は14百8十3萬磅(輸出総額の2.3%)、合計貿易総額千9百2十1萬磅にして、また戦後世界経済繁栄期(1924年乃至29年平均)に於ける貿易状況は本邦よりの輸入7百9十9萬磅(輸入総額の0.6%)。本邦向け輸出千6百9十2萬磅(輸出総額の2.0%)。合計貿易総額2千4百9十1萬磅なり。而して此の貿易関係は世界不況の襲来と共に減退し1931年於いては本邦よりの輸入6百9十5萬磅(輸入総額の0.8%)。本邦向け輸出6百3十3萬磅(輸出総額の1.4%)。合計貿易総額千3百2十8萬磅に減少せり。
 是を要するに英本国より看るときは本邦との通商関係は同国の貿易上左迄重きをなすに足らず、また其内容に於いては欧州大戦前長期に亘りり著しき輸出超過の関係に在りたるも戦後世界的不況期に入りてより輸出激減して「オタワ」会議の前年に於いては遂に僅少の輸入超過を示すに至れり。 (『オタワ英帝国経済会議の考察』から)

数字を見やすく表示すると   上記英本国の貿易の数字、これを見やすく表示してみよう。

1913年    輸入総額  7億6,874萬ポンド   輸出総額  6億3,482萬ポンド
         植民地から 1億9,152萬ポンド   植民地向け 2億0,892萬ポンド
         外国から  5億5,722萬ポンド   外国向け  4億2,590萬ポンド
         貿易総額 14億0,856萬ポンド
1924〜29  輸入総額 12億4,570萬ポンド   輸出総額  8億6,030萬ポンド
(平均)     植民地から 3億8,037萬ポンド   植民地向け 3億5,209萬ポンド
         外国から  8億6,533萬ポンド   外国向け  5億0,821萬ポンド
         貿易総額 21億0,600萬ポンド
1931年    輸入総額  8億6,125萬ポンド   輸出総額  4億5,449萬ポンド
         植民地から 2億4,712萬ポンド   植民地向け 1億8,674萬ポンド
         外国から  6億1,484萬ポンド   外国向け  2億6,715萬ポンド
         貿易総額 13億1,574萬ポンド
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<大英帝国経済ブロックのオタワ協定に依る結合>  今日の英帝国経済ブロックの結成は先ずオタワ会議に依り採用せられた特恵関税政策を基礎として為された。オタワ会議は1932年7月21日より8月20日迄開催せられ、英帝国を始め、加奈陀、愛蘭、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアの代表が参加した。会議の議題は開催地たる加奈陀政府は主となって関係諸政府と協議の上之を取纏め7月11日に其の要旨を公表したが内容は次の如きものであった。
(一)一般通商問題 
 (1)一英帝國内の貿易に関係ある通商政策及び関税政策の審議
  (イ)互恵通商主義及び互恵関税主義の承認問題
  (ロ)現行特恵関税及び将来の特恵関税を英帝國内全域に押し及ぼすの問題
  (ハ)外國に興へ居る関税上の利益を英帝國内の他の地方に許興するの問題
  (ニ)特恵税率を享くるに必要なる帝國的要素(Enpire Content)(商品の含有する英帝國的原料及び労力)の割合決定問題
  (ホ)帝國内に於ける輸出奨励金及び不当廉売に対する課税問題
 (2)外國に対する通商政策の審議
  (イ)外國に対して興ふる通商上の利益帝國内特恵との関係問題
  (ロ)英帝國内に於ける地方的特恵関税及び輸入割当制と最恵國約款の解消問題
 (3)英帝國内の協力方法の審議
  現存機関の再検討、産業協力委員会報告書の審査、交通通信問題、規格統一問題
(二)通貨及び金融問題
  英帝國内各種通貨及び貨幣本位の関係の審査、物価の恢復及び為替安定策
(三)特恵関税協定問題

 此等の主要議題に付いては会議に於いて夫々決議及び声明が為されたが、会議の結果成立した事項中最も重要なるは所詮オタワ協定として有名なる英帝國内特恵関税制度に関する次の12個の協定である。
 1、英本國と加奈陀、豪州、新西蘭、南阿連邦、ニュー・ファウランド、印度及び南ローデシアとの間の7個の特恵関税協定
 2、加奈陀と愛蘭、南阿連邦及び南ローデシアの3個の貿易協定
 3、南阿連邦及び愛蘭間の貿易協定、並に南阿連邦間の貿易に関する交換公文
 英帝國内の特恵関係は此の12個の協定に尽きているものではなく、此の外にも英帝國諸邦間の協定や一方的行為に依り相互に又は一方的に特恵税率を興へている場合も存在することに留意して置く必要はある。
(一)オタワ会議に依る協定の中で特に重要なるは英本國と属領諸邦との間に締結せられた協定である。此等協定は英印協定を除くの外凡て有効期間を5箇年とし爾後は6箇月の予告を以て廃棄し得ることとなっていて、(英印協定には一定の有効期間はなく6箇月の予告を以て随時破棄し得ることとなっている)、其の協定内容は各々多少の相違はあるが大体に於いて共通の点が多い。此の協定に依り英本國が属領諸邦に対して与えた特恵は大要次の如きである。
1932年3月1日実施せる輸入関税法に基く従価1割の輸入税並に同法に基く付加関税を帝國内よりの輸入品に対して引続き免除すること。
外国産の小麦、バター、チーズ、果実、果実缶詰、卵及び銅等に対し一定限度迄現行輸入税を引上げ若しくは此等に対して新たなる輸入税を設くること(例へば小麦に関しては1クォーターに付2志、銅に関しては1封度に付き2片と約されている。)
一定の外國産品に対する関税率の引下は同種産品に付重要なる関心を有する英属領の同意なしに行はざること(例へば木材に対する関税率の引下げは加奈陀政府の同意なき限り軽減せず又肉缶詰に対する関税率は豪州政府の同意なき限り軽減せずと云ふが如きである。)
肉類の輸入制限を行ひ英属領(例へば豪州、新西蘭)に有利なる輸入割当を興ふること。
 之に対し属領側から本國に興へた対償は、要するに本國よりの一定輸入品に対する関税上の特恵を維持又は拡大すること並に輸入英國品が生産品の関係に於いて属領製品と合理的競争をなし得ざるが如き高率の保護関税を設けざることの2点である。如何なる種類の英本國品に特恵を興ふるべきかは夫々の協定に明記せられている。
 畢竟するに英本國と属領間の協定は之に依り英本國が各属領より出来る丈け多量の原料及び食糧品を輸入する代わりに、各属領をして英本國工業品に最も都合良き市場たらんとすることにあったのである。
(二)次に同じオタワ会議で出てきた英属領諸邦間の協定は何れも相互に相手側の特に重視する輸出産品に対し特恵を興ふるやうに仕組まれているが(例えば加奈陀の小麦や木材、南阿連邦の果実や玉葱等)、此等協定の有効期間は英本國との協定と同じく5箇年で其後は6箇月の予告を以て廃棄することとなっている。 (『ブロック経済に関する研究』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『オタワ英帝国経済会議の考察』          外務省調査部編纂 日本國際協会   1936. 2.19
『ブロック経済に関する研究』               菅沼秀助 生活社      1939.10.17
( 2008年9月1日 TANAKA1942b )
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(3)当時はブロック化をどう評価したか
それぞれ各地ブロックの特徴を調べてみる
<昭和研究会というシンクタンクの見方>  産業革命を最初に成し遂げたイギリスは世界で最初の工業国であった。しかし決して「地産地消」の国ではなく、日本と同様自由貿易によって成り立っている「貿易立国」でもあった。そして、金本位制度のもと、世界の自由貿易を押し進め、産業面でも、貿易面でも世界経済をリードしていた。第1次世界大戦後、産業面ではアメリカがリードするようになったが、アメリカはモンロー主義政策をとり、世界経済を積極的にリードするという姿勢はとらなかった。このため、イギリスは相変わらず世界経済に大きな影響力を発揮していた。そのイギリスが、金本本位制を放棄し、オタワ会議でブロック経済を押し進めることになり、世界経済は大きく保護主義へと変わり始めた。
 そのオタワ会議、日本では当時どのように捉えていたのだろうか?21世紀の現代の見方は上記のようなものだが、当時の日本ではどのように捉えていたのだろうか?今週はこうした点について扱うことにする。先週は、外務省の文書を取り上げたので、今週は民間の見方を取り上げる。それは昭和研究会という、当時の英知を集めたシンクタンクだ。その『ブロック経済に関する研究』の文章を引用することにしよう。
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『ブロック経済に関する研究』の例言 から  
1、本書は、昭和研究会東亜ブロック経済研究会の成果に成るものである。東亜ブロック経済研究会は、支那事変処理の経済的側面に於ける志向目標を確立せんとする意図を以て、 昭和13年9月関係専門家並評論家14名を以て組織され、本年上半期まで大体隔週1回の会合を以て研究を継続した。
2、同研究会の結論は本書に於て第1章を成す部分である。同研究会は先ず世界ブロック化の大勢を本質的に究明し、その角度より東亜ブロック経済の本質と性格とを理論的に明らかならしめんとする方法を採り、 本年上半期に於いて一応の結論に到達した。之を右研究会の委員長加田哲二氏の執筆を主として煩わし、本書第1章に掲ぐることとしたのである。
3、右結論に至る迄には、世界各ブロック並に東亜ブロックの諸問題につき、会員諸氏並に会員外専門家の研究報告を煩はし、貴重の資料を堆積せしめた。本書第2章以下は、其等のうち公表に支障なき部分を再編集して掲出せるものであるが、第2章並に第4章は湯川盛夫氏、第3章は吉田寛史氏、第5章は千葉秦一氏、第6章は加多哲二氏、第7章は昭和研究会事務局の労作に成る。但し、何れの場合に於いても、その調査方針乃至内容に就いては、同研究会の討議を経て共同研究たるの実質を有し、全般の責任は悉く昭和研究会の負ふ処であることを明記致し度い。
 尚ほ各章末に掲げた「資料」は主として事務局の筆録にかかり、支障なき限りその原報告者乃至典據を明らかにすることとした。
4、昭和研究会は、今回の報告を基礎とし今秋以降新に研究部門を組織して具体的に東亜ブロック経済結成の諸方策にいたるまで研究を進めんとする意図を持つものであるが(その成果を斯の如き形態の於いて公表しうるや否やは予断の限りではない)、不取敢右の如くまでの研究成果を公表するのは、此種研究の水準向上に寄与せんとする趣旨に他ならない。茲に当初以来熱誠なる研究を続けられたる東亜ブロック経済研究会加田委員長並に左記会員諸氏に対し深厚なる謝意を表明するものである。
  猪谷善一氏、姉川武嗣氏、加田哲二氏、金原賢之助氏、高橋亀吉氏、千葉蓁一氏、友岡久雄氏、松井春生氏、三浦鐵太郎氏、山崎靖純氏、吉田寛氏、笠信太郎氏、和田耕作氏、湯川盛夫氏
 (備考)右は当初の会員にて、其後千葉氏は台湾に、猪谷氏は大阪に栄任せられ、本年1月以降新に小林幾太郎氏、樋口弘氏の参加を見た。
  昭和14年10月5日  昭和研究会事務局
(『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の本質と東亜ブロック経済の特質>   ブロック経済政策は、1932年9月のオッタワ会議の結果として、英本國とその属領植民地との間に結ばれた特恵制度による連繋によって、具体化せられたものである。イギリス帝國は、世界恐慌の結果として、金本位制を離脱せざるを得ない状態に置かれ、その救治政策としてブロック政策を考案した。その以後において、諸国は、自國の植民地領域、新しく獲得した領域、または、自國と特殊関係を有する國家との間にブロック関係を創定せんとすることに努力している。これは、まづ貿易政策の上に現れて、特恵関税政策となり、割当政策となっている。現在主として行われているのは、求償貿易政策である。これによって自國産業の必要とするところのものを獲得すると同時に、自國の生産品の販路を獲得せんとするものである。
 かくのごとき意味におけるブロック政策は、恐慌対策として考案されたことは事実であり、現在においても、その意味を最も多く含むものであるが、現段階におけるブロック政策は、その上に戦時経済的意義を、多分に以ている。それはヨーロッパ大戦の経験と近時における國際関係の緊迫化から戦時経済体制を整備せんとする要求とから起こっている。それは次のごとき事情を含んでいる。
 1、自國産業一般の原料を確保すること。
 2、生産品に対する確実な販路を獲得すること。
 3、戦時資材(軍需材料並に食糧)の供給を確保すること。
 4、以上3項に加へて、その領域を国防地帯として用兵の基地と考える場合。
 これらの必要のために、イギリス帝國は、その属領・植民地を一丸として、大英帝國ブロックを形成し、満州事変以後における満州國の成立は、日満議定書、満州開発計画によって、日満のブロックを形成せしめている。資源の貧弱なイタリーは、エチオピア併合によって、イタリー経済に新しい要素を加へている。ドイツのオーストリア併合、ズデーデン地方の合併は、その同民種たるの理由によって行はれたのであるが、これがナチ・ドイツ4カ年計画に対して有する意義は、いまだ巨大な期待をなし得ないものがある、更にチェッコの併合は、大ドイツ國の生存に必要な経済的地域として行はれたことは確実である。いまやドイツは、その東南方政策によって、ポーランド回廊問題の解決、中欧の諸地方、ウクライナへの進出も、既定の方針であるかのごとく見える。これらの諸國の行動は、新しいブロックの形成を目標とするものである。
 ブロック政策は、植民地または、その支配下の半植民地の広大な領域を有する國家が行ふとき、それは消極的な形態を採る。大英帝國ブロックは、その地域において、既に英帝國の主権下に久しく入っている諸領域を包含している。フランスも広大な殖民地との間に特殊的連繋関係の設定を行っている。アメリカ合衆国は、その地理的地位に幸せられて、中南米に多くの半植民地を以ているが、それをアメリカ・ブロックにまで形成せんとしている。ソ連は、その辺境地帯に住んでいる、未発達種族を包含して、広大なソ連ブロックを形成している。これらの諸國は、過去2,3世紀の間に、広大な地域をその領土に収め、これによって、幾多の経済的利益を獲得し来ったのあるが、いまや国際情勢の緊迫化によって、世界のいたるところに一触即発の状態にある戦争を前にしつつ、自國の権益を死守せんとしているのである。これらの諸国はいはゆる「持てる国」であって、その開発に着手していない幾多の資源を持ちながら、これを他の経済的開発にすら委ねることが出来ない諸國である。
 これに対して、ドイツ、イタリーのごときは、いはゆる「持たない國」であって、その領土においても、資源においても貧弱を極めている。日本も亦その人口に比較して領土狭小の故に「持たない國」の中に数えられる。ドイツのごときは、世界戦争以前にまで持っていた諸植民地(英仏蘭等に比すれば、狭小なものであるが)をヴェルサイユ条約によって奪はれ、本國の一部分をも割譲を余儀なくされたのであって、その資源の欠乏は、著しいものがある。イタリーのごときも、大戦の講和会議において、英仏が獅子の分け前を取ったにも拘わらず、何等の領土をも獲得するところがなかった。而して、その有する植民地のごときも、資源貧弱である。これらの「持たない國」は、新しい領域への要求を常に提出しつつつある。その理由は、一面においては、一般産業の発展のためであると同時に、戦時経済体制への整備のためである。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<持てる國と持てない國の對立>   「持てる國」と「持てない國」との對立は、こゝに起こってゐる。
 「持てる國」のブロック政策は、「持たない國」の経済的活動を狭小化する。大英帝國ブロックの形成によって、わが國の受ける打撃のごときが、この適例である。わが國は、インドから綿花を、オーストラリアから羊毛を多額に買い取ってゐるにも拘わらず、イギリスのブロック政策は、わが國の商品に對して、イギリス商品の特恵的取扱によって、對抗してゐるのであった。かくのごとき「持てる國」のブロック政策が「持たない國」の活動を狭小化することが、「持たない國」をして、その活動領域拡大のために、強い要求を提出せしめ、この要求の貫徹を期する上において、軍備の拡大を行ふ理由となるのである。
 従って、世界における諸強國は、各々そのブロックを維持し、またはこれを形成せんと努力をしてゐる。これを解決するために、資源、販路などの「平和的変更」(ピースフル・チェンヂ)が提案せらるゝ一方において、「持てる國」の當局者は、しばしば寸土尺地をも、他に割譲する意思のないことを宣言してゐる。さうだとすれば、この問題の解決は、遂には実力によらざるを得ない。実力によるとすれば、それは経済力によるか、政治力によるかである。しかるに平和的な経済的方法が、高関税障壁、ブロック政策のために採用せらるゝことが、不可能であるとすれば、政治力を用ゆる以外に、方法はないのである。それも、平和的な外交方法によって、「平和的変更」が不可能であるから、政治の要求を体現する他の手段によらねばならぬ。クラウゼウイッツの言ふやうに、「他の手段をもってする政治の延長は戦争である」戦争の必然性は、こゝに確定的である。
 戦争が必然的であるとすれば、戦争當事國は、最も早くその戦備を整へねばならぬ。そのためには資源の供給を確立しなければならぬ。資源供給地域の確保の方向は、先ず最も抵抗力の弱い部分に向はざるを得ない。「持てる國」との密接な関係を持たない地域で、その要求國との接壌地帯が、その目標となることは必然的である。こゝに世界再分割の傾向が発生する。もし「持てる國」が、かゝる状態の不利益を察して、その領土を割譲するか、その自由な処分に任すならば、世界の武力による分割は、免れ得るであらう。
 しかしながら、それが許されない限りにおいて、戦争準備のためのブロック化政策は必然である。この情勢に對応して、「持てる國」のブロック化政策が、進展するものとすれば、相互的にブロックの強化が行はれるに至るであらう。
 かくのごとき傾向は、世界を数個のブロックに分割する結果を招来するであらう。そして、従来のやうな比較的狭小な地域と少数の人口とを有する國家を、減少せしめるか、かくのごとき國家が、その形式上の獨立を維持しながら、強大國のブロックに編入さらるゝに至るかであらう。拡大地域におけるブロック化政策の必然性は、以上のやうな政治経済的要請に基づくものであるが、このブロック化を可能ならし、えた最大の要因は、機械の発展である。生産における機械の応用とその組織の発展と交通機関の異常な発展とである。かゝる技術の発展の結果は、世界を狭小ならしめると同時に、この狭小化した地域において、自由に軍隊を動かし得る程度に、軍隊が機械化したことである。これらの結果は、人間の知恵の現状においては、戦争に導かれるより外にないのである。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<ブロック経済の目的、制約>  経済ブロックは、実際的には世界恐慌の對策として、形成されたものである。而して、この経済ブロックの形成の世界的傾向が、平和的方法で実行し得ない現状が、各國をして、軍備の拡大に赴かしめる必然性のあること、従ってまた戦争の必然性が存在することは、前段述べたところである。かゝる相互に関連した理由によって、ブロックが形成さらるゝとすれば、ブロックの本質はこの条件によって規定せられねばならぬであらう。ブロック経済の理想的本質をもって、ブロック領域内における自給自足にありとするものがある。一國における自給自足を理想的状態としたのは、封建時代においてであった。この時代においては、産業的需要も多種多様でなく、従って産業の必要とする資源のごときも、単純少量で足りたので、この状態の実現は、甚しい困難を伴ふものではなかったし、よしまた自國領域以外の資源を必要とする場合においても、交通機関の不備が、このことを許さなかった状態にあるので、その取得を断念すべき状態にあった。しかるに、近代においては、封建時代における経済様相は、変革せられて、生産規模の発展、交通機関の進歩が、封建時代の不可能または困難を、可能または容易にしたことは事実である。この事実が、また自給自足の状態を不可能にしてゐることも、認識せられねばならぬ。
 かくのごとき結果から、もし理想的な自給自足的ブロックを形成するとすれば、それは全世界を1つのブロックとしなければならない。
 別の言葉でいへば、世界の政治的統一が成し遂げられねばならぬのである。しかしながら、世界の政治的経済的統一のごときは現在のやうな民族主義の思想と実践との濃厚な時代においては、急速に実現し得ないことはいふまでもないことであり、かくのごとき企画を実行に移そうとすれば、全世界との戦争を敢えてしなければならぬ状態が、これを不可能ならしめている。
 一経済ブロックにおいて、比較的多くの資源を獲得し得るものは、大英帝國ブロックであるが、そこでも完全なものでないことはいふまでもない。よし、またブロック内において、資源獲得が不可能であるとしても、多量に生産せらるゝ諸種の商品のブロック内消化が、また問題である。何となれば、現在におけるブロックの構成は、一中樞國家とそれの衛星的領域との連繋であり、衛星的領域は資本主義の未発達状態にある農業的領域であるか、相當に資本主義の発達してゐるところでも、中樞的資本主義國に對して付随的意義しか持たないところの領域である。従って、中樞國家資本主義國が、そのブロック経済領域から自由に資源を獲得し得たにしろ、それによる生産品のすべてを、この領域内だけでしょうかすることは、殆ど不可能であるといひ得るであらう。
 かくて見てくれば、ブロック経済における自給自足性は2つの方面から現在のところ不可能であるといはねばならぬ。
一、現在形成せられ、また形成せられやうとしているブロック経済は、(イ)代駅帝国ブロック、(ロ)北米合衆國ブロック、(ハ)ソ連ブロック、(ニ)フランス・ブロック、(ホ)ドイツ・ブロック、(ヘ)イタリー・グロック、(ト)東亜(日本)ブロックであるが、そのいずれについて見ても、資源的に充分なもの2を以ていない。従って極めて現実的に考へられた経済ブロックにおいては、ブロック内自給自足は不可能である。
 この自給自足性が充分に確立せられ得る望まれるブロックを形成するためには、多大の困難と犠牲を払わなければならぬし、よしまたこれを払ったとしたところで、これが実現の可能性が興へられるか否かは、甚だしい疑問であるといはねばならぬであらう。さうすれば、ブロック経済の自給自足性は、現在においては、問題にならぬといはねばならぬ。
二、第二は、ブロック経済内、殊にその中枢國家領域における大量的生産が、ブロック内において消化し得ないといふ条件である。これはブロックの形成が、従来の植民地的関係の拡大である点から、さう論断せざるを得ない。先進的資本主義國と後進國との連繋、各ブロックによる後進國領域に対する特恵的関係によって、他國の活動を排除しようとする傾向がこれである。
 従って、ブロック経済の設定も、封鎖経済の本質に徹することが出来ない現状にある。即ちブロック経済の設定も、また世界経済的条件の下においてのみ可能だといふことである。此点でブロック経済に対する誤解が修正されねばならぬ。即ち、それは単にブロック内の自給自足を目標とすべきではなく、進んで次の国際分業の原則を再建せんとするところにその積極的意義を認ぬべきである。つまり世界が従来の國組織では狭さを感じ、より広汎なる一定地域にブロックを建設すると共に、これを単位として世界の新融通関係へ到る段階を形成しつつあるものと認むべきである。従って、これは或る程度までエクスクルーシブであると共に、又多分にインクルーシブでなければならない(何をエクスクルードし、何をインクルーシドすべきかが重大な問題である)。又軍備を中心に云へば、ブロック経済は一応戦ふ形の完備を目指すものには違ひはないが、同時に戦う形の中に次の平和への動向を持つものでなければならない。 (『ブロック経済に関する研究』から)
<昭和研究会というシンク・タンク>  上記『ブロック経済に関する研究』の著者菅沼秀助は昭和研究会に属していた。ここではその「昭和研究会」に付いて扱うことにし、『昭和研究会』からの文章を引用することにしよう。
国策研究の開始
  私は、近衛に紹介され、各種の研究会が始まった。初めは部門ごとに専門家を招いて、話を聞くところから始まった。近衛、後藤、蝋山、それに当時大蔵省ににいた井川忠雄と、私が出席した。場所は、近衛と由縁の深い霞山会館であった。弁当はいつも築地の錦水から取り寄せたが、会合のたびに近衛公が出るか、出ないかという問い合わせがあった。出席の時には近衛の弁当だけ、刺身や生ものを止めて煮物に差し替えられるのだ。私は陛下には生ものを差し上げないと聞いていたが、近衛までそうであるとは思っていなかった。また、近衛は自分で財布を持ったことがない、とも聞いた。初めて身分の大きな相違に気がついた。
 会議は蝋山が司会をし、井川と私とが記録をとり、これを蝋山が見たうえで、タイプで数部要録を作って要所に配布した。
 第1回の会合は、昭和8年10月9日の国防・外交の会で、米田実、芦田均、稲原勝治、それに海軍から石川信吾、陸軍から鈴木貞一を招いた。続いて同じ問題で、16日に伊藤正徳の話を聞いた。19日には後藤文夫、阿部重孝、関口泰、田沢義鋪、城戸幡太郎らで教育問題を研究、以後、教育問題研究会は毎週1回開催と決まった。翌20日は社会大衆党の政策を聞く会を開き、麻生久(良方の父君)、加盟貫一郎、井川忠雄らが集まった。以後麻生たちは、週1回後藤事務所にやってきて、すき焼きを囲みながら、社会大衆党の政策を熱心に語った。近衛内閣の成立を見越し、まず後藤の教育をしようとしたものである。さらに22日には、青木得三、土方茂美、河合良成、山室宋文を招いて財政問題の会、25日には支那問題を宮崎竜介、というように10月中に6回の会合を開いた。
 11月に入っても、会合は頻繁に開かれ、外交問題を石井菊次郎、社会経済問題を松岡駒吉、麻生久、河合栄治郎、三輪寿荘、金融問題を新木栄吉、田辺加多丸、加納久朗、荒木光太郎、というように聞いていった。しかしその後、行政機構改革問題を前田多門、菊池慎三、佐々井弘雄、唐沢俊樹を招いて聞いたとき、数日後の読売新聞に佐々が書いた「後藤隆之助主宰するところの研究会に招かれたが、この研究会は近衛公の国策研究会で云々……」という記事が出たので、近衛は以後、政権に野心があると見られるのを警戒して、ごく少数の特別の会合以外は、出席しなくなってしまった。
 その年の12月に入って、時事問題懇この要綱審議と談会を設けたいという名目で案内状を出し、霞山会館で発起人会を開いた。集まったのは次のの人々であった。
 有馬頼寧、河合栄治郎、佐藤寛次、那須皓、蝋山政道、後藤隆之助、井川忠雄、酒井三郎
 これらの人々から推薦があり、さらに次の人々を加えることが決まった。
 新木栄吉、河上丈太郎、松岡駒吉、関口泰、田沢義鋪、田辺加多丸、東畑精一、田島道治
 そして第1回の会合の時に、名称を「昭和研究会」と名付け、国策を総合的に研究すること、毎週1回会合することを決めた。集まった人々の多くは、近衛に近い友人で、いずれ近衛が政権を担当する時がくるので、その時のために政策を用意しておこうという気持ちが強かった。しかし、席上関口泰から、
 「この研究会は特定個人のためにやるのかどうか。ここに集まったものは近衛公と親しい友人が多いけれど、一個人近衛公のために研究するのではなく、激動する内外の情勢から日本を見ると、私たち自身、自分のこととして、日本がどうあるべきかという政策を真剣に検討すべきではないかと思う」
 という発言があって、みんなこれに賛成し、各自が会合のたびに会費を持ち寄って集まることになった。この時は、会費として夕食代2円を集めている。
 何回か会合を続けるうちに、単に時事問題を話し合うというよりは、テーマをしぼって基本的な問題を検討した方がいいということになり、蝋山が「昭和国策要綱」草案をまとめ、これを基にして審議を進めることになった。要綱は、政治外交、金融財政、経済社会、」労働、農村、教育など全般にわたっており、それぞれ項目ごとに審議を重ねた。記録は前と同じ井川と私がとり、蝋山が目を通してタイプに打ったものを、近衛などに配布した。わずかな部数であった。その間、高橋亀吉がアメリカから帰朝した時に、ニューディールの話を聞いたあと、メンバーに加えたりした。国策要綱の審議は、翌年の4月の初めに一応終了した。5月に近衛がアメリカに行った時、蝋山がこれに動向し、この旅行中にまとめることになったが、なかなか脱稿しなかった。この要綱審議と並行して、後藤事務所では、松井春生の「経済参謀本部論」、三浦哲太郎、石橋湛山、山崎靖純による「統制経済について」、大蔵公望の「満州問題」などを次々に聞いた。これらの人びとは、以後、昭和研究会とは有力メンバーになっていったのである。
 なお、農村問題研究会と教育問題研究会とは、この間も毎週1回開かれていた。農村問題研究会は、青年団本部に設けられていたの依存問題研究会を重要問題の1つとして引き継いだ形であったが、委員長後藤文夫が斉藤内閣の農林大臣になったなめ、委員の人びとは研究の成果を農村行政に生かそうとして、熱心に会合を続けた。教育問題研究会も青年団本部時代から引き継がれたものであった。この研究会は、会合を重ねて一応の改革案ができると、名称を教育改革同志会と改め、昭和研究会の別働隊として、実行団体としての運動を進めることになった。
 こうして諸会合を続けているうちに、研究会の動きは世人の噂に上るようになったので、もうこの辺で堂々と正面から打って出てもいいのではないか、という意見が内部から強く出るようになり、みんなはそれに賛成した。今まで研究会は後藤事務所の名のもとに、」できるだけ目立たぬように進めてきた。研究成果や意見書もごく少部数作成して、政府、各階の有力者だけに提案してきた。中には3部くらいしか作らないものもあった。もちろんそういう極秘事項のものはこれからもあるだろうが、大部分は要所要所に広く配布するようにし、事務所も青山から丸の内に出て、名称も個人名でなく、正面切って研究会の名を出すようにすることが決まった。昭和研究会の新展開である。昭和10年の新春を迎えてのことだった。 (『昭和研究会』から)
<尾崎・ゾルゲ事件と尾崎秀実の評価>  『昭和研究会』の中に「尾崎・ゾルゲ事件」を扱った部分がある。オタワ会議とは直接関係はないがあまり知られていないことも書かれているのでここで取り上げることにした。
 第3次近衛内閣がいよいよ終末に近づいたころ、有名な「尾崎・ゾルゲ事件」というのが起こった。この事件で逮捕された尾崎秀実は、これまでにも出てきたように、昭和研究会のメンバーでもあるので、ここで少し触れておこう。
 尾崎秀実については、戦後、軍国主義の滔々(とうとう)たる流れの中で苦闘した革命家としても理想的なイメージが描かれているが、
「われわれの仲間うちでは誰もそう思っていない。要するに、酒は好き、女は好きでね。金に困ったあげく、大したネタでもない新聞社の情報をゾルゲに売っていたのさ」
 と、東京放送の「時事放談」(昭和53年6月25日放送)で、朝日新聞社で尾崎の先輩であった細川隆元が語っていた。対談者の藤原弘達は、高低も否定もしなかったが、そういう意見を初めて聞いたように見えた。
 共産党国際スパイ団ゾルゲ事件の発覚によって、昭和16年10月15日、尾崎が突然検挙されたニュースほど、当時私たちに衝撃を与えたものはなかった。研究会の時だけでなく、平常もいつも親しく接触していた私たちは、半信半疑というよりも、むしろ信じられない事件であった。さっそく昭和研究会の委員であった池田克(大審院刑事局長)や、内務省の先輩である大塚惟精、唐沢俊樹にただしたところでは、「明白な証拠がある。しかし、局部的なもので、他に波及することはない」という答えであった。内容は深く知らされてなかったが、私たちはこれを信ずるほかはなかった。尾崎は昭和塾の講師でもあったので、これをきっかけに昭和塾理事であった大塚の意見によって、結局昭和塾は解散を余儀なくされてしまった。
 この事件は、翌17年の5月、司法省から「国際諜報団事件」として発表された。このスパイ団は、コミンテルン本部から派遣されたリヒアルト・ゾルゲが、宮城与徳、尾崎秀実らを中核として、日本に赤色スパイ団を組織し、多くの機密事項をソ連に流したものであるとされたのであった。
 尾崎は、人なつっこく話好きで、いつも笑みをたたえ、みんなに親しまれ、そして少しく軽かった。声をひそめて、こういう話がsつぞ、と言って、よくこっそり情報を漏らしたりした。私は彼を共産革命家とは思っていなかったが、軽率にしゃべりすぎることと、彼がやっていた研究室に、左翼経歴のある若い人々を集めていることを知って、こういう時勢には言動に気をつけないと危ないな、という予感がなんとなくしていた。
 検挙されたことを聞いて、私たちが集まった時に、これは近衛内閣打倒の軍や反対派の謀略ではないかとか、情報好きと軽さが災いしたのではないかとか、あるいは、確かに不審な行動があった、共産主義者に違いないとか、さまざまな見方があった。当時、壮年団本部におり、のちに読売の論説委員になった市川清敏は、
「これだけ長い間つきあっていて、少しもおかしいと感じさせなかったのは、よほど偉大な人物か、そうでないか2つである。しかし、私には、尾崎君はそんなに医大な人物とは思えない」
 と言っていた。
 もし尾崎が、日本の社会革命のために、情報を提供していたとすれば、彼ほどよい立場にいた者はなかったと言ってよいだろう。彼は近衛内閣の嘱託であり、新聞社や満鉄関係から、刻々動く情報を得ることができた。また昭和研究会のメンバーとして、各研究会の動きを知り、諸官庁の資料を手に入れることができ、日本の対支、対米英、とくに対ソ方針を的確につかむことができた。
 私は、尾崎がある日、目の色を変えてしょうわ研究会の事務所に飛び込んで来た時のことを思い出した。彼は、居合わせた大山と私に、
「漢口を即時たたくべし、漢口は政治、経済はもとより、軍事、交通その他、大陸に残された唯一の大動脈の中心である。もし、この要路を押さえれば、直ちに中国の息の根を止めることができる」
 と言って、原稿用紙数枚の意見書を出し、「これを昭和研究会の名で、内閣や軍に出そうではないか」と熱心に主張した。前に述べた通り、支那事変に対する研究会の根本方針は、事変の不拡大であった。そして、その主唱の中心をなすものは、支那問題研究会であり、尾崎はまたそのメンバーの1人であった。大山と私とは、尾崎の意見の突然の急変に、奇異な思いをした。私たちは佐々を訪ね、尾崎の主張を述べたところ、佐々は「これはとんでもないことだ。おかしいぞ」と、首を傾げた。
 こうして、尾崎は漢口作戦促進を昭和研究会から建言することには失敗したけれども、おそらく他のいろいろのルートを通じて、強力に働きかけたに違いない。研究会では、当時高橋亀吉なども漢口作戦を強調していたので、尾崎だけの意見ではないにしても、その後、軍が漢口作戦に直進したのは、尾崎のこのような働きかけが、ある程度作用したと言っても過言ではあるまい。また、のちに研究会のある会合で彼は「ビルマ・マレー作戦を断行すべきだ」と主張して、石原莞爾が「何を根拠にそんな馬鹿なことを言うか」と激怒した一幕もあった。
 尾崎の女関係は私は知らないが、酒が好きで銀座のバーをよく飲み歩いていたことは、確かだし、そのために金の要ることも、確かであった。しかし、彼が意見書を持ってきた時のことを考えてみると、彼の行動が金ほしさのためだけで深みにはまったと見るのは、酷であるような気がする。
 彼は、支那問題研究会の報告で、
「国民党自身の力は弱いが、外国の勢力、とくにイギリスの支配力が強いので、中国は本質的に反資本主義国にはなり得ない。しかし、資本主義の育成もなかなか困難な国である。そうだとすると、その時に広大なソビエト区域の存在は必ず反帝勢力となって現れる」
 と言っていた。彼の事変に対する態度は「どうもはっきりしないね」と大山と私は首を傾げていた。そういう尾崎の言い方を思い合わせると、彼は資本主義社会が共産主義社会に転換することは必然であり、日本の軍国主義体制が敗れて、中国が共産化し、人民が解放されることは、中国にとっても、日本にとっても、また世界にとっても、大いなる進歩であり、世界人類のためであると考えていたのではないか。彼は行動の基盤をそこに置いていたのではないか。それゆえにまた、ソ連に対して理想的は社会として幻想を描いていたのではなかったか、と思われる。
 そして、その転換のためには、近衛をロボットとして利用するのが最も上策だと、判断していたのではなかったか。しかし、細川や市川の尾崎評もいあり、彼がそこまで考えていたかどうかは、人によって意見も分かれるところであろう。
 なお、尾崎の葬儀は、まことにさびしかった。彼ほど交友の広い者は余りなかったし、また深い交わりの人も多かったと思うが、それらの人々は殆ど顔を見せなかったと。そういう中で、独り後藤隆之助が、尾崎の棺側にあって、参列者一人一人に頭を下げていた。 (『昭和研究会』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ブロック経済に関する研究』               菅沼秀助 生活社      1939.10.17
『昭和研究会』                      酒井三郎 中公文庫     1992. 7.10
( 2008年9月8日 TANAKA1942b )
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(4)日本が選択した「大東亜共栄圏」構想
それ以外に選択肢はなかったのだろうか?
  先進諸国が保護主義を強めていったのに対し、日本は、日本独自のブロックを作らなければならなくなった。そこで生まれたのが「大東亜共栄圏」という構想であった。ここでは当時の識者がどのように考え、それをどのように訴えていたかを取り上げることにしよう。
<南方建設対策の意義と問題の重点>  大東亜戦争の完勝を確保するためにも、聖戦目的たる大東亜共栄圏確立のためにも、その扇の要となるものは、南方建設の成否如何であることは改めて絮節するまでもない。ところで、現下謂ふ所の南方建設は、戦時特殊の事情に鑑み、左の如き3段階に之を分けて其の具体的方策を樹てる外ないわけである。
  (1) 軍事占領直後一定期間の作戦期に於ける応急対策
  (2) 右作戦期一巡後の長期戦段階に於ける半恒久対策
  (3) 世界的規模に於いて大東亜共栄圏を本格的に建設し得る段階に於ける恒久対策
 (1) の応急対策に於いては、謂ふ迄もなく当面に於ける先戦目的の達成と云ふことが其の根幹を成すものであるが、(2) の長期戦対策に於いては、作戦目的も依然重大位置を占めざるを得ないが、それ以外に於いて、大東亜共栄圏そのものの建設目的の達成そのものが、併立的に愈々重大考慮を要求するに至るのである。併し、長期戦段階に於いては、一方には戦争状態のため、一方には東亜以外との交易の壮絶のため、共栄圏の建設は未だ其の本来の姿に於いて之を進めることが出来ず、多分に過渡期的性格のものたらざるを得ない。ゴム、錫、砂糖、コプラ、マニラ麻等の戦時過剰産業乃至物資処理対策の如き其の典型的事例である。
 斯様なわけで、大東亜共栄圏建設の本格的対策を施策し、以て東洋民族そのものの物心両面に於ける向上を真に全面的に図り得る段階は之を平和克復後に俟たねばならず、それ迄の過渡期に於いては、作戦要求そのものを何よりも優先せしめ、而かも、戦時非常状態を基礎とする応急的乃至長期戦的共栄圏対策に全力を挙げる外ない次第である。併し乍ら、応急対策乃至半恒久対策は謂う迄もなく、極力恒久対策の線に沿えるものたらしめ、且つ、追い級対策の段階は極力急速に之を長期戦段階のそれに切り替へることが建設対策上肝要である。と共に、以上の段階に於いても、主力を注ぐべき対策の重点や序列は必ず之を総合的に考査することの要がある譯であって、これ等を全体的に考慮せる総合対策を、豫め至急考究確立する措置を講ずることが此際特に必要である。之に処するがために、第1に問題となることは、以上の如き総合的観点よりする南方建設基本対策の一大企画機関創設の急務についてである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<自由通商の崩壊とブロック経済の生成>  前節の如き國際自由通商体制の崩壊に代わって、新たに登場し来れる國際政治経済の新秩序は、所謂ブロック経済である。尤も、それは其の当初から、現在の如き世界の新秩序としての相貌と資性とを具備していたものではなく、発生的には単なる世界恐慌対策として登場し、爾後、世界の新秩序としての資格を漸次加ふるに至ったものである。いま、その経過の一般を一瞥せば、大凡、次の如くである。
(a) 世界恐慌凌駕対策としての「ブロック」経済の生成=消極的経済事由。
 (イ) 自國産業の破滅、失業問題の破局的困難を救ふため、持てる國々が真先になって、自己の政治権力下の販路を、自國乃至自國「ブロック」内産業のために排他的に優先独占する貿易政策を採ったもの。
 (ロ) 為替暴落阻止、其他通貨価値維持の見地より出発して、為替統制、輸入割当等の貿易統制から、「ブロック」経済に進んだもの。
 (ハ) 他國が「ブロック」経済政策を採用せるために、之に刺激せられて受動的に(但し自らに内在せる経済困難凌駕のため)「ブロック」経済政策を採るに至ったもの。
(b) 國際経済戦上の有力なる武器としての「ブロック」経済の発展=積極的経済事由。即ちはじめ専ら世界恐慌凌駕策として発生した「ブロック」経済の本質は、其の後次第に変質し、新たに、自國並びに植民地の総合的輸入力を武器として、求償的にその輸出の確保並びにその積極的増進をも企画せんとする、國際経済戦上の攻撃的体制としての「ブロック」経済の積極的役割が濃厚となるに至った。日英通商戦に於ける英國の経済戦略はその典型である。
(c) 軍事的要求としての「ブロック」経済の生成。
 (イ) 國際関係の緊迫化は、「持たざる國」をして、その國防資源乃至基礎産業資源の自國政治支配圏内に於ける確保と拡大とに之を煽立て、他方、「持てる國」は之を有力なる武器として、資源の自給的、独占的位置を確保すべく、夫々、その「ブロック」陣を強化した。
 (ロ) 欧州大戦の教訓は、國際自由経済の下に於いてすら、既に、戦時必要の原料食料の自給率を平時に於いて備えることの必要を痛感せしめつつあったが、「ブロック」経済化の傾向と通商不安とは、持たざる國をして、右の必要を益々命令的ならしめた。
 (ハ) 加之、國際連盟の経済制裁規定、並びに「持てる國」による経済制裁の度々の恫喝は、「持たざる國」をして軍需資源の自己傘下に於ける確保の必要に、度々油を注ぐ結果を生んだ。
 (ニ) 最後に、前記(b) の如き求償的貿易抗争裡に於いては、基礎的軍事資源をその支配下に有することがその國をきわめて有利なる位置に立たしめるものなることが、実践的に訓へられ、國際経済戦争力の強化の見地からも軍事資源確保のための「ブロック」経済の要求が益々鮮烈化した。
 (ホ) 飛行機、戦車等の近代兵器の発達は、従来の如き狭少なる國境の維持を戦略上不可能にし、ヨリ大なる境界線を必要とするに至った。
 ブロック経済が、今日の如く世界の支配的体制となるに至った経路は、之を大体以上の如く解釈すべきであらう。而して、「ブロック」経済生成の契機となれる以上の諸事由が、如何なる比重を以て組み合わされているかは各「ブロック」によってそれぞれ異なり、一般に、「ブロック」の中軸低国家の最弱点が、その「ブロック」結成の直接的契機として最全面に押出されているが、それらの相違よりして、又、各「ブロック」にはそれぞれの特色乃至性格とも云ふものが表面化されて居る。
 例えば、持てる國の「ブロック」結成の大部分は、先ず、世界恐慌の経済的困難克服策より発して、市場防衛のための貿易対策に重点が置かれ、随って、現状維持を建前とする消極的、保守的特色を帯びるに対し、「持たざる國」の「ブロック」的要請は、斯くの如き市場の消極的防衛よりも寧ろ、資源、並びに市場の積極的拡大確保に向かって集中せられ、その必然的結果として、現状打破を建前とする積極的、攻撃的態勢に傾くが如くである。併し、右の差異は、必ずしも各「ブロック」の本質的差異を示すものではない。蓋し、「持てる國」は既に十分の資源と販路とをその政治支配圏内に持てるが故に、之を要求せず、ただ、その弱点とする経済競争力を政治力を以て補うに汲々たるのであり、之に反し、「持たざる國」は、資源と販路とを、その政治圏内に十分持たざるが故に之を強く要求するにすぎないものであるからである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<序>  民族と階級の問題は今世界が当面しつつある最も大きな課題である。しかも日本は現在支那事変と言ふ日支両民族の抗争のただ中に立って、民族と階級との問題の具体的解決を迫られつつある。東亜はこの今日の世界史の最大の課題に対して今答案を書かんとしている。しかも、それは日支の抗争と言ふ奮き世界秩序の当然の破綻から招来された事変の故に、その解答も、また世界史的な広さと高さとの於いてのみ解決の途を得るものであって、それ以外に解決の方法のない事も明らかに意識されてきた。
 その世界史の課題への答案は、未だ具体的ではないが、構造的にはすでに生まれつつある。「東亜共同体」の理念がそれである。
 筆者は支那事変の発生と共に、事変の基底の深さの故に、その内包する歴史的意思は、やがて東亜共同体への凝固の必然となり、それのみが東亜の解決である事を直感した。そして1ヶ年の余に亙って、そうした見地から事変の発展を検討し続けたのであった。最近において東亜思想、或いは東亜共同体の理念は種々な形で論壇にも、正解にも取り上げられはじめた。しかし、事由主義の基礎の上に、単なる一片の政策論として取り上げられた東亜共同体論の余りに多い事は、むしろ日本の知性の低調を語る以外の何物でもあり得ない。
 民族共同体の理念は、所謂近代国家を形成した19世紀の支配國の世界秩序である國際金融資本秩序、國際共産主義秩序に反立した新世界秩序の建設を目指し、その精神領域においては古き個人主義の諸文化体系に対して、新しき全体生命観に基づく世界観を樹立せんとしているのである。それは現実の生活秩序に対しての、また我々の精神領域に対しても1つの変革を要求しているのである。それは時代の革命を意味している。従ってそれは今日の世界史の課題たる古き秩序の下における矛盾である民族と階級の問題をも従来の方法を越へて同時に解決せんとする生命の意欲を持つものなのである。
 東亜共同体理念は日本の1つの政策ではなく、かつて「アジア的」なる軽蔑の代名詞を冠せられた東亜の地域に生まれつつある新しき民族理念であり、社会理念であり、政治、経済、文化の原理なのである。この理念による新秩序の完成の日は、軽蔑の代名詞「アジア的」なるものを、新しき文化の代名詞として高らかに世界に誇り得る日なのである。
 本書は東亜共同体理念に関する一切の問題を提示したものである。筆者が民族共同体の主張を書き続けた2カ年にわたる所産である。本書に収められた諸論文は、大体雑誌「解剖時代」にその都度掲載されたものである。故に歴史篇の収められた、支那事変の過程に於ける諸分析は悉くその当時のものであるが、ことさら日付を附して、過程的な形のままでここに収録した。それは事変の進展の過程における日支両國民の意識目標の推移と、民族我の自覚とをありのままの形で表現せんとしたからである。そしてそれが如何なる意識段階を経つつ、東亜共同体の理念に凝固されたかを如実に示さんとしたのである。
 時間的余裕の不足の故に、種々不備、不満の点も多いのであるが、問題を一応全部提出して見たいと言う希望が、この書の出版となったのである。
 東亜共同体の理論も哲学も、それは今後の東亜の知性を動員して成し遂げられなければならない問題なのである。支那事変の一応の解決が如何なる形でなされようと、この歴史の意思として表れた民族共同体の理念は自己の歴史性を貫くであらう。
 今後この種の研究が各専門部門から現れる事を期待して、本書が、より高き、より正しきものを生み出す刺激となれば幸甚である。 (『東亜共同体の原理』から)
<自由通商の崩壊とブロック経済の生成>  前節の如き國際自由通商体制の崩壊に代わって、新たに登場し来れる國際政治経済の新秩序は、所謂ブロック経済である。尤も、それは其の当初から、現在の如き世界の新秩序としての相貌と資性とを具備していたものではなく、発生的には単なる世界恐慌対策として登場し、爾後、世界の新秩序としての資格を漸次加ふるに至ったものである。いま、その経過の一般を一瞥せば、大凡、次の如くである。
(a) 世界恐慌凌駕対策としての「ブロック」経済の生成=消極的経済事由。
 (イ) 自國産業の破滅、失業問題の破局的困難を救ふため、持てる國々が真先になって、自己の政治権力下の販路を、自國乃至自國「ブロック」内産業のために排他的に優先独占する貿易政策を採ったもの。
 (ロ) 為替暴落阻止、其他通貨価値維持の見地より出発して、為替統制、輸入割当等の貿易統制から、「ブロック」経済に進んだもの。
 (ハ) 他國が「ブロック」経済政策を採用せるために、之に刺激せられて受動的に(但し自らに内在せる経済困難凌駕のため)「ブロック」経済政策を採るに至ったもの。
(b) 國際経済戦上の有力なる武器としての「ブロック」経済の発展=積極的経済事由。即ちはじめ専ら世界恐慌凌駕策として発生した「ブロック」経済の本質は、其の後次第に変質し、新たに、自國並びに植民地の総合的輸入力を武器として、求償的にその輸出の確保並びにその積極的増進をも企画せんとする、國際経済戦上の攻撃的体制としての「ブロック」経済の積極的役割が濃厚となるに至った。日英通商戦に於ける英國の経済戦略はその典型である。
(c) 軍事的要求としての「ブロック」経済の生成。
 (イ) 國際関係の緊迫化は、「持たざる國」をして、その國防資源乃至基礎産業資源の自國政治支配圏内に於ける確保と拡大とに之を煽立て、他方、「持てる國」は之を有力なる武器として、資源の自給的、独占的位置を確保すべく、夫々、その「ブロック」陣を強化した。
 (ロ) 欧州大戦の教訓は、國際自由経済の下に於いてすら、既に、戦時必要の原料食料の自給率を平時に於いて備えることの必要を痛感せしめつつあったが、「ブロック」経済化の傾向と通商不安とは、持たざる國をして、右の必要を益々命令的ならしめた。
 (ハ) 加之、國際連盟の経済制裁規定、並びに「持てる國」による経済制裁の度々の恫喝は、「持たざる國」をして軍需資源の自己傘下に於ける確保の必要に、度々油を注ぐ結果を生んだ。
 (ニ) 最後に、前記(b) の如き求償的貿易抗争裡に於いては、基礎的軍事資源をその支配下に有することがその國をきわめて有利なる位置に立たしめるものなることが、実践的に訓へられ、國際経済戦争力の強化の見地からも軍事資源確保のための「ブロック」経済の要求が益々鮮烈化した。
 (ホ) 飛行機、戦車等の近代兵器の発達は、従来の如き狭少なる國境の維持を戦略上不可能にし、ヨリ大なる境界線を必要とするに至った。
 ブロック経済が、今日の如く世界の支配的体制となるに至った経路は、之を大体以上の如く解釈すべきであらう。而して、「ブロック」経済生成の契機となれる以上の諸事由が、如何なる比重を以て組み合わされているかは各「ブロック」によってそれぞれ異なり、一般に、「ブロック」の中軸低国家の最弱点が、その「ブロック」結成の直接的契機として最全面に押出されているが、それらの相違よりして、又、各「ブロック」にはそれぞれの特色乃至性格とも云ふものが表面化されて居る。
 例えば、持てる國の「ブロック」結成の大部分は、先ず、世界恐慌の経済的困難克服策より発して、市場防衛のための貿易対策に重点が置かれ、随って、現状維持を建前とする消極的、保守的特色を帯びるに対し、「持たざる國」の「ブロック」的要請は、斯くの如き市場の消極的防衛よりも寧ろ、資源、並びに市場の積極的拡大確保に向かって集中せられ、その必然的結果として、現状打破を建前とする積極的、攻撃的態勢に傾くが如くである。併し、右の差異は、必ずしも各「ブロック」の本質的差異を示すものではない。蓋し、「持てる國」は既に十分の資源と販路とをその政治支配圏内に持てるが故に、之を要求せず、ただ、その弱点とする経済競争力を政治力を以て補うに汲々たるのであり、之に反し、「持たざる國」は、資源と販路とを、その政治圏内に十分持たざるが故に之を強く要求するにすぎないものであるからである。 (高橋亀吉著『共栄圏経済建設論』から)
<大東亜共栄圏 理念空振り日本の大義>  いつの時代も戦争は、理念と大義を必要とした。太平洋戦争も例外ではない。米英は「自由と民主主義」の旗印の下に、「軍国主義」日本を軍事力でたたいた。これに対して、日本が掲げたのが、「大東亜共栄圏」だ。
 開戦時の首相、東条英機の遺族宅に1枚の写真がある。
 参議院1号委員室(当時貴族院)。コの字形の机の中央に軍服の登場が陣取り、両わきに6人、後方に随員。
 「父が逮捕されるまで東京・用賀の私邸に応接間にこの写真が掲げてあった。最も誇らしい晴れ舞台だった」と東条の三男、敏夫。
 撮影日は1943(昭和18)年11月5日か6日。初の「大東亜会議」の光景だ。
 このとき東条が提案し満場一致で採択された「大東亜共同宣言」は、英米の「大西洋憲章」に対抗、日本の大義「大東亜共栄圏」構想を初めて世界に問うものだった。
 日本は真珠湾攻撃の直前まで開戦の名目が立たず苦しんでいた。41年11月2日の段階で天皇から「(戦争の)大義名分をいかに考えるか」と尋ねられた東条が「目下研究中」と返答している。5日の御前会議で「自存自衛」と「大東亜の新秩序建設」を掲げることに決したものの、諸外国には説得力がなかった。
 新たな大義を必要とするほど日本は追い込まれていた。
 遅ればせの宣言だったが、内容をようやくすれば「共存共栄」「独立親和」「文化高揚」「経済繁栄」「世界進運貢献」の「五原則」。
 伊藤隆・政策研究大学院大教授は「植民地解放をいたい、戦後、アジア各国の独立を促した。旧宗主国の英仏、オランダが植民地を取り戻そうとしたとき、これに勝る大義名分がなかったからだ」と話す。名越二荒之助・元高千穂商科大教授も「戦後、バンドン会議でネールらが提唱した平和五原則の先駆け。アジア各国に深い影響を残した」と言う。
 しかし、このとき出席したのは、大半が日本の傀儡政権代表だった。
 中華民国(汪兆銘)の汪行政院院長、「満州国」の張景恵首相、フィリピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース代表の賛成演説は、東条のコピーに近い。
 唯一の正当政府、タイは、ワンワイ・タヤコン殿下を代理出席させ、距離を置いた。
 豪ABC放送は「2人の顕著な欠席者がある。タイのピブン総理と仏印のドクター総督。この両人は、自国民の反日感情、ないし対日非強力の態度を知り、日本の独裁者に対する自信を持ち始めた」と分析した。
 反英闘争の英雄、ボーズは「岡倉覚三(天心)先生、孫逸仙(孫文)先生の夢が実現されんことを」と発言したが、仮政府代表として、共栄圏をインド独立に利用したいとの思惑が先立っていた。
 天心の言葉「アジアは1つ」にもかかわらず、この時期から抗日運動が激しくなる。
 ベトナムのベトミン戦線、フィリピンの人民抗日軍、マレー人民抗日軍、旧満州では関東軍70万人のうち40万人の兵力を東北抗日軍の「討伐」に割いていた。
 日本軍は、この時期、タイ・ビルマ間の泰緬鉄道で現地人に強制労働をさせ数千人が死亡、ジャワの農村では「ロームシャ」狩りを行っていた。理念は高く、現実は泥の中であえいでいた。
 戦況もあやしかった。すでに2月にはガダルカナル島を撤退、戦線は、総崩れの状態。敗走する日本兵の現地調達という名の略奪も激しさを増し、会議当日にはブーゲンビル島が総攻撃された。 (『20世紀 大東亜共栄圏』から)
大東亜共栄圏  日本を盟主にアジア、太平洋に広がる経済圏をつくろうという主張、旧満州に対して「日満一体」、日中戦争期には「東亜新秩序」が叫ばれたが欧州支配下の東南アジアへ「南進」するため植民地解放のスローガンが盛り込まれた。公式の発言としては開戦前年の1940(昭和15)年9月1日、第2次近衛内閣の外相、松岡洋右が記者会見で最初に使用した。 (『20世紀 大東亜共栄圏』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社   1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書     1992. 1.25
( 2008年9月15日 TANAKA1942b )
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(5)中国貿易の低迷による日本の貿易
日本製品排斥運動で満州が生命線になる
 先進諸国が自給自足とブロック経済化を進める中で、日本は狭まる貿易先の代償を中国に求めた。中国から安く資源を買い、工業製品を中国に売り込もうとしていた。その中国で日本製品のボイコット運動が起きた。そボイコット運動によって日本の貿易体制がどのような影響を受けたのか?今週はこうした点について扱うことにする。
<3つの中国市場>  この章の狙いはあくまで中国のボイコット運動の経済的示唆を分析することであって、ボイコットについての政治的判断や見解を述べることではない。中国の国土に日本軍が存在していたがためにボイコット運動が起きたことは十分理解できることだからである。
 中国は当時、日本が最も頼みとする市場の1つであった。1926年以前の20年間、中国は毎年、日本の総輸出の約20%を吸収し、一方、中国からの輸入は日本の総輸入額の約11〜12.5%を占めていた。日本は1918年を除いて毎年、中国貿易に出超を記録し、その額は1920年以降、著増していた。この対中貿易の黒字が、日本の対欧先進工業国との貿易収支の赤字を緩和するうえで役に立った。1926年だけでも、日本の貿易収支は3億2千9百万ドルの赤字であったが、中国貿易の黒字は8千5百万ドルにのぼった。
 しかし、その後、1926年から37年にかけて、日本と中国との貿易は低減の一途をたどるのである。ここで統計を詳しく見る必要上、中国を統計的に3グループに分類した。@中国(狭義)、A関東州、B満州(1931年以後)──の3グループである。なぜなら、後の2つのグループはこの期間を通じて日本の影響が極めて強かったからである。
表 1
年\地域 T
  中国(狭義)  
U
  関東州  
V
  満 州  
W
  中国全土(W=T+U+V)  
X
  その他のアジア諸国  
1926
20.6
4.8
  
25.4
18.8
1929
16.1
5.8
  
21.9
20.7
1931
12.5
5.7
0.9
19.1
34.9
1932
9.1
8.5
1.8
18.1
30.0
1935
5.8
11.9
4.4
22.0
27.9
1937
5.6
12.4
6.8
24.9
26.9
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 中国内の3つのグループを合わせた中国本土に対する日本の輸出が、1926,37年ともに、日本の総輸出のほぼ4分の1のシェアを保っていたことは注目に値する。それは表に見られるように、中国(狭義)向け輸出の衰退を関東州および満州への輸出増大で埋め合わせたからであった。中国(狭義)向け輸出は1931年から年を追う毎に衰えていくが、逆に関東州と満州への輸出は増大している。ことに32年以後、中国(狭義)向け輸出が26年レベルの半分以下、やがて37年には4分の1に激減していく中で、関東州への輸出は32年には26年レベルの倍、やがて3倍へと増加し、満州向けもそれぞれ倍増、6倍増となり、中国(狭義)向けの衰退を相殺したからであった。これが中国全土をまず統計的に3つのグループに分けた理由である。もしこれを、「大蔵省統計」のように中国全土への輸出総計(関東州を含む)のみを辿ることになれば、この章の分析の目的と意義はぼやけたものとなってしまう恐れがあった。
 この表に見るような関東州と満州向けの増大は、実は日本にとっては経済的矛盾の増大を抱え込むようなものであった。輸出増で日本の貿易収支が黒字になっても、決済はドルではなく円で支払われたからである。 (『対日経済封鎖』から)
<対中輸出シェアの低下>  日本の中国全土を除くアジア諸国向け輸出は、1926年の総輸出のうち18.8%のシェアを占めた。それは1931−32年にかけていったん30%まで急上昇し、36年、37年には約27%へと落ちたが、いずれにしても増加した。このアジア向け輸出の増加分は、中国を含まない地域で起こったことに注意しておきたい。
 かくて、1937年の日本の総輸出は、そのうち約25%が中国全土へ、約27%がその他のアジア諸国へ、そして残りの47%がアジア以外の北米大陸、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、中近東等へと振り向けられた。
 中国側の統計にも見られるように、なぜ、日本の総輸出に占める中国(北支・中支・南支という狭義)のシェアが非常に低下したのだろうか。
表 1
年\地域 T
 英 国 
U
 香 港 
V
 日 本 
W
 米 国 
X
 総輸入額 
1926
10.3
11.1
30.0
16.7
1,124
1929
9.4
16.9
25.5
18.2
1,269
1932
11.3
5.5
13.9
25.5
1,634
1935
10.6
1.8
15.1
19.0
919
1937
11.7
1.8
15.7
19.8
953
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 第1の理由は、中国の全世界からの輸入の減少である。表2のコラム5に明らかなように、中国の総輸入額は大幅に低下した。それには2つの理由が考えられる。1つは、1934,35年の中国の銀通貨価値の過大評価を相殺するために輸入品価格が高騰したこと。2つは、1936年の両国の銀本位制からの離脱によって、中国の通貨価格が下落し輸入の減少を招いたことである。
 しかし、中国の輸入は同期間内に、どの国に対しても一律に低下したわけではない。その中でも日本のシェアの低下は目覚ましかった。1926年の30%から37年の15.7%へとほぼ半減した。
 中国輸入市場でシェアが最も低下したのは香港であり、次いで日本であった。逆に、シェアが最も上昇したのは米国で、1937年には20%に近づいた。 (『対日経済封鎖』から)
<香港経由で南支へ輸出>
 1920年代における南支向けの日本の輸出のほぼ80%は、香港経由であったと言われている。1929年に、中国のボイコット運動の鉾先が英国からそれて日本に向けられた時、中国の香港からの輸入は総輸入の17%と逆に高くなった。
 しかし、1932年にはボイコッターたちが香港からの中国向け輸入貨物を検閲し、日本商品の没収を始めるにおよんで、香港のシェアは5.5%へと低下した。
 したがって、その年以後の日本の香港への輸出額を中国への輸出と見なし総計することはことはこ例えばC・F・レーマの場合がそうであるが、正確ではない。彼の統計にほぼ頼れるのは1931年9月以前の、対日ボイコットのための貨物検閲が始まる直前までである。これは、今までの通説には取り上げられなかった点である。 (『対日経済封鎖』から)
<中国の関税政策の影響>
 日本の中国(狭義)向け輸出の低下は、中国政府の関税政策の硬化にも原因があったかも知れない。1931年初め、中国は関税政策を保護主義の手段として採用した。日本の輸出品のほとんどは日用品」として一般品に分類されたため、平均より高い関税がかけられた。しかし日本の統計からは、この関税改訂が日本の中国向け輸出に与えた直接的な影響は少なかったことが読みとれる。関税引き上げはすでに予想されたもので、日本の綿紡各社は中国の日本綿紡産業への投資を増加させていたのである。
 このようにして、中国の新しい関税率は日本の輸出にとってはやや不利なものとなったが、大きくは影響しなかった。
 日本の対中輸出は統計に見られるように、1927年、29年、31年9月の満州事変以降と、ボイコット運動の激しかった年には他の年よりも深く落ち込んでいるのである。したがって、日本の対中輸出激減とボイコット運動とのつながりが、残された問題として浮かび上がってくる。 (『対日経済封鎖』から)
<満州への傾斜>
 日本の中国向け輸出の推移と実態をより詳しく捉えるために、輸出先を北支、中支、南支、満州と地域別に訳、その変化を見たのが表3である。なお、関東州向けの輸出はこの表には含まれていない(原関税統計のまま)。
表 3
年\地域  満 州  北 支   中 支  南 支   総 計
1926 16.1 24.0 53.6 5.0 100
29 18.3 24.7 54.5 0.9 100
32 16.7 48.7 34.6 0.1 100
33 43.0 30.6 25.5 0.1 100
35 45.9 24.0 28.4 1.2 100
37 54.7 20.7 24.1 0.5 100
{資料}大蔵省『日本外国貿易月報』 1926-38年。

 まず南支向け輸出であるが、1926年には最大限のシェアを占めたが対中輸出の5%にしか達しなかった。1929年以後はほとんど無視してよいほどの額になった。
 中支は、この地域だけで1926−29年の間、日本からの中国向け輸出の54−55%を吸収していた。したがって、中支への輸出の大幅な減少は日本にとっては痛手であった。33−37年にかけては約25−28%へと落ち込んだが、漏示、この地域に厳しいボイコットが拡がっていたことに注意すべきである。
 北支は全体の約4分の1のシェアをほぼ保っていた。それはこの地方の比較的穏やかなボイコット運動を反映するものだった。1932年の最初の6ヶ月には、31年9月以降の中・南支におけるつぃに地ボイコットへの反動で、この地域への日本の輸出は活況を呈し、その結果、32年の北支のシェアは48%にも上ったのである。
 満州の対する輸出は1926年には16%を占めていたが、33年以降、それは43%以上のシェアに上昇した。この満州向け輸出で日本は32年以降、毎年貿易収支の黒字を計上し、31年から37年までの間に42億4千万ドルを稼ぎ出した。
 この対満州輸出の激増には問題があった。この地域への純輸出は兌換制のない満州貨幣と円で支払われたから、貿易収支黒字の拡大は日本のたいがい金融の地位を危うくするだけであった。それは日本の外貨の純流出にもつながった。輸出が増大するにつれて輸出国。日本がますます貧しくなるというパターンを示した。日本は外貨を稼ぐことができずに、ただ商品を送りつづけたのである(その多くは満州の経済的基盤の構築と工場建設に使われた)。こうした商品には、日本が外貨を支払って輸入した原料を使っている物も多かった。
 日本は満州にできるだけ多くを輸出し、ボイコット運動のために中支と南支で失った分を少しでも穴埋めしようとしたのであった。日本の軍国主義者mの政策当局者も、ボイコットによってよって失った中支・南支の市場の”代償”として、将来満州から手に入れられるものがあるという考えを推し進めていた。
 それは経済的視点からのみ考えても貧しく誤った着想であった。満州の資源は豊富とはいえず、市場も狭小であった。満州で産出される主なものは大豆と、あまり質の高くない鉄鉱石と石炭等であった。また、日本の工業品の市場としては人工密度も、住民の所得も低く、工業発展もいまだ遠かった。しかし、日本の軍事的政治的、そして経済的な要請(誤った着想)が、この考えをますます推し進めた。時代のこうした”要求”は、日本にとって満州方面は日本の工業製品の輸出と資源の輸入のために、失った中支・南素に代わる市場として働くであろうし、そう機能すべきであるという方向を強めていった。 (『対日経済封鎖』から)
*                      *                      *
 世界各国がブロック経済化を進め、日本もブロック化を進めた。その政策のポイントとなったのが「満州国」建設であった。日本では多くの知識人が「満州国」建設を歓迎した。けれどもそうした「植民地政策」に批判的な立場を貫き通した知識人がいた。「日本中が大本営発表の政策を批判しなかった。日本中が批判精神を忘れてしまった。そんな中で、われわれだけが、あるいは当社だけが、政府に批判的な立場をとることはできなかった」と言うのは「言い訳」「言い逃れ」で、あの時代にあっても精一杯リベラルな立場を貫き通したジャーナリストがいた。満州建設の関して、石橋湛山の記事を引用してみよう。
<満蒙新国家の成立と我国民の対策>
 満蒙に於ける所謂新政権は、東北行政委員会なる名に依って、去17日成立せる旨宣言せられた。続いて此委員会は、旧宣統帝を執政に挙げ、近く満蒙共和国を建設すべしと伝えらるる。記者は斯くて満蒙が幸いに所謂保疆安民の良土と化さば、支那人の為めにも日本人の為めにも、はた又世界人類の為めにも、まことに喜ぶべき事だと慶賀する。何卒其然らんことを切に祈って、已(や)まぬのである。
 併しながら此新国家は、云うまでもなく昨年9月以来の事変の結果として甚だ不自然の経過に依って成立したものである。一言にすれば我軍隊の息がかかり、其保護乃至干渉によって、辛くも生まれ出たる急造の国家である。記者は斯様の国家更にが、俄に其独自の力にて、今後の満蒙を健全に経営し得べしとは信じ得ない。思うに之は、此国家の誕生に多くの努力を払える我軍部及其他の人々の亦素より覚悟せる所であろう。我国民としては、之は甚だ容易ならぬ役目である。併し善にせよ、悪にせよ、既にここまで乗りかかった船なれば、今更棄て去るわけには行かぬ。出来る限りの力を注ぎ、新政権を助け、満蒙を真に保疆安民の楽土たらしめるこそ、避け難き我国民の責務である。さて然からば我国は、如何にして、此責務を果たすべきか。
 先ず第1に提議したきは、出来る限り速やかに新政権に警察乃至軍隊を組織せしめ、、我軍隊をば満蒙の地より(既成の条約にて認めらるる範囲の分は暫く残すも)撤退する事である。或は満蒙新国家の対外国防の為めには、当分日本軍隊の駐屯を要すべしと説く者もないではない。が之は第1に我国軍の権威の為め、第2には満蒙新国家と我国との親善の為め、第3には列国に徒(いたず)らなる疑念の念を抱かしめざる為め、記者の絶対に反対する所である。我国軍は、申すまでもなく陛下の赤子を徴募して、我国家の防衛の為め、組織せる尊き軍隊であって、之を如何に特別の関係に或る満蒙の為めと雖も、苟(いやしく)も外国の国防に使役する如き事は断じて許されざるところである。のみならず満蒙国民と雖も、其国防を日本軍隊が負担し呉れると云えば、難有(ありがた)きが如くなれども、併し其国内の処々に外国軍隊が駐屯することを、素(もと)よち心より喜ぶ筈はない。結局は彼我の間に面白からぬ感情を激発するに到るべきは想像に難くない。また列国が、さらぬだに満蒙新国家の成立を以て、我国の領土的野心に出づと疑える所に、永く我軍隊を満蒙に止むれば、愈よ此疑惑を裏書きする結果となり、ただに我国が外交手にに不利の立場に陥るのみならず、満蒙新国家の国際的関係にも亦甚だ支障を来すであろう。而して斯く我国は軍隊を速やかに撤退する(既成条約に依り認めらるる分も、将来出来る限り撤退したい)代りに、新国家が警察乃至軍隊を組織する為めには、其要求に応じて十分の助力をする。
 第2に、併しながら斯様な助力は、は、決して強制的に之を押し付けてはならぬと記者は提議する。大正4年の例の21箇条──之こそ実に取り返しのつかぬ我対支外交の失敗の歴史であった──の中には支那に政治財政軍事等の顧問共感を押売し、或は警察官庁に日本人の割込を要求し、また一定数量の兵器の供給を日本から仰げと云うが如き、詰らぬ箇条が沢山に存在した。斯う云う事を、最後通牒を叩き付けて強制し、対手が之を承諾したからが何になろう。論より証拠、我国は21箇条に依って、唯だ支那国民の頑強なる排日熱を煽り、彼等を挙って我国に背かしめた事以外、遂に何物も獲なかった(支那人が近年国辱記念日として大騒ぎする5月7日は21箇条の為め日本が最後通牒を支那に発した日であって、5月9日はそれを支那が承諾したる日である)。我国民は深く此歴史省る要がある。満蒙新国家は、今は我国の干渉が激しく、彼等の自治を尊重せざれば、いつかは又必ず我国に反抗しよう。『東京日日新聞』の徳富蘇峰氏は、其国民新聞の古き時代から、最も強烈な対支強硬論者である。が其人すら、最近には保護は宜し、干渉は排すべしと論じておる。最近の事態に深く感ずる所があっての事であろう。
 第3に、然からば如何なる態度で、我国は満蒙新国家に助力すべきかと云うに、記者は1にも親切、2にも親切、3にも親切と提議する。我国の支那通と伝わるる人の間には、或は支那人は他人の親切を仇で返す忘恩の民なりと非難する者がある。通の言であれば、或はそれが真当かも知れぬが、併し記者はそれと同時に又一体我国人中、果たして何れだけ支那国民に親切を尽したる者ありやとも尋ねなければならぬ。我国が安政の開国以来、明治維新を経て、現在あるに至ったまでには、それこそ外国人の恩を蒙ったことが著しく多い。一般的に云えば、日本が今日支那などに向かって文明国顔をしておる其文明は、主として実に欧米から伝えられたものである。更に之を個人と個人の関係で云うなら、今日までの我国運を開拓した優秀なる我人材の少なからざる数は、実に欧米人の指導教育に依って人と成った。精しい事蹟は茲に述ぶる余白も材料もないけれども、記者が今記憶している所だけでも、日本に来ていた欧米人、また日本人が向うに行って世話になった欧米人で、真に日本人を愛し、何うか日本を善い国にしてやろうと云う熱情から、日本人の為めに尽して呉れた人々は少なくない。我国人中、支那に関係を持った人々で果たして左様な親切心を以て支那人の指導教養に努めた者が幾許あろうか。袁世凱の時代、我国には非常に沢山の支那の青年が留学した。また其頃我国の教育者は非常に沢山に支那の学校に教官として招かれた。が其支那から来た青年に向かって、我国の学校、我国の下宿屋、其他多くの人々は、何んな待遇を与えたか、また支那に沢山行った我教師たちは、彼地に於いて、果たして如何なる意気と熱心さを以てまた教育に従事したか。また其後満州等には軍事顧問なども我国から行っていたが、其等の人は、一体何んな態度を支那に対して取っていたか。記者は遺憾ながら其等の中に、真に幾許の親切を支那人の為め、支那の為め、尽くした人あるか知らぬ。多い中には、無論それも絶無とは云えないだろうが、記者は概して云うに日本人には、従来支那に対する親切心は欠けていと考える。そう云う事で、何うして我国が支那から親しみを以て迎えられよう。満蒙新国家に対しても同様だ。実を云うと、我国には、まだ後進国に云うべき独立の文明は存しない(総ての学術が外国語を通さずして学び得ざるは其証拠だ)。従って唯だ文明を吸収するだけなら、満蒙は日本に頼る必要はない。之を補うものは唯親切の力である。いずれ新国家には顧問なども入ることだろう、其人選には此点の考慮が肝要だ。
 第4には、記者は満蒙に大に資本を輸出すべしと提議する。新聞に依るには或は満蒙に大に人を輸出する計画あるやに伝えられるが、若し真当なら、それは恐らく失敗だ。其理由は既に先般記者は論じた。之に反して資本は満蒙の開拓には是非共必要の資料であって、新国家成功の一重点は是にある。而して同時に之は、我国にも利益をもたらす。手始めは、道路鉄道用水路等の建設の為めの資本の供給だ。満蒙には我経済的地盤を築かんとせば、此用意を欠いてはならぬ。*週刊『東洋経済新報』昭和7年2月27日号「社説」(『石橋湛山全集』第8巻 から)
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 日本が我が儘を通せる経済ブロック、その中心は中国であり、満州であった。中国で日本商品の不買運動が起きて、満州の重要性が高まった。そうした中国情勢に対し、日本国内では「日本の植民地」との意識が高かった。石橋湛山のようなジャーナリストは例外で、国の政策でもまるで植民地扱いであった。ここでは、「昭和研究会」をブレーンとして持つ近衛秀麿首相の、昭和12年9月5日、帝国議会での演説を引用することにしよう。
<第72回帝国議会に於ける近衛首相の施政演説> 昨日開院式に当たりまして、時局に関し特に優渥なる、勅語を拝しましたことは、真に驚愕感激の至に堪えません。私は諸君と共に謹んで聖旨を奉載して一意報効の誠を拝し宸襟を安んじ奉り度いと存ずるのであります。
 去る7月7日北支に事変が勃発しまして以来、帝国政府が支那に対して採り来りました根本方針は、飽く迄も支那政府の反省を求めてその誤れる排日政策を放棄せしめ、以て日支両国の国交を根本的に調整せんとするにあるのでありまして、此方針は今日と雖何等変る所がないのであります。只此方針を遂行する手段と致しまして、従来政府は出来る丈事件の拡大する事を防ぎ、局面を限定して事態を収拾すべく努めたのであります。このことは今日迄度々声明致した通りでありまして、諸君も御承知のことと思ふのであります。
 然るに支那側は公正なる帝国政府の真意を了解せざるのみならず、帝国政府の隠忍に乗じて益々毎日抗日の気勢を挙げ、統制無き国民感情の激する所、事態は急速なる悪化を来し、局面は北支のみならず、中支南支にまでも波及するに至ったのであります。隠忍に隠忍を重ねて参りました我政府も、是に於いて従来の如く、消極的且局地的に之を収拾することの不可能なるを認むるに至りまして、遂に断呼として積極的且全面的に支那軍に対して一大打撃を与ふるの止むに立至りました次第であります。
 抑も一国が特定の他の一国を排斥侮辱することは以てその国策となし、国民教育の方針としてかかる思想を幼少なる児童の頭脳にまで注入するが如きことは、古今東西の歴史に於いて未だ類例を見ざる所でありまして、之が招来に於ける結果を考ふる時には、独り日支両国の国交の為のみならず東洋の平和延いては全世界の平和の為に真に寒心に堪えないものがあるのであります。帝国政府としては従来度々支那に対しその態度を更めんことを要求したにも拘わらず少しも顧みるところなく、遂に今次の事態を惹起せしむるに至ったのであります。帝国が断呼一撃を加ふるの決意をなしたることは、独り帝国自衛の為のみならず、正義人道の上より見ましても、極めて当然のことなりと固く信じて疑はぬものであります。東亜の和平なくして東亜国民の幸福なしと信ずるからであります。固より帝国の打撃を加へんとする目標は、かかる誤まれる拝外政策を実行しつつある所の支那政府及軍隊でありまして、帝国は断じて支那国民を敵とするものではないのであります。又支那政府に致しましても、真に能く反省を致し、今後我国と提携して、相共に東洋文化の発達と東洋平和の確立に向かって力を尽さんとする誠意を示すに至りましたならば、帝国としてはそれでも尚之を追求せんとするものではないのであります。
 併ながら今日此際帝国として採るべき手段は、出来る丈速かに支那軍に対して徹底的打撃を加へ、彼をして戦意を喪失せしむる以外にないのであります。尚支那が容易に反省を致さず、飽く迄執拗なる抵抗を続くる場合には、帝国として長期に亘る戦も勿論辞するものではないのであります。唯ふに東洋平和確立の大使命を達成するが為には、尚前途に幾多の難問が横って居るのであって、此難問を突破するが為には、上下一致、堅忍持久の精神を以て邁進するの覚悟を要すると思ふのであります。
 今や我忠勇なる将兵は全支に亘り万難を排し堂々正義の陣を進め、皇軍の威力を中外に宣揚しつつあることは、国民の等しく感謝感激に堪へぬ所であります。又之と同時に全国津々浦々に至るまで銃後の熱誠が湧立ちまして、美はしき挙国一体の実を示しつつあることも、誠に力強く感ずる次第であります。願はくは一時の戦勝に酔ふが如き事なく、この緊張を持続して時限を克服し、終局の目的を達成しなければならぬと思ふのであります。
 政府は茲に時局の急務に応ずる為に必要なる予算案及法律案を帝国議会に提出致して居ります。是等の法律に於て政府は此非常事態に対応する様財政経済の体制を整ふることと致したいのであります。固より之が為財界に無用の衝撃を与ふることは出来る丈之を避くる様十分の注意を払う心算であります。尚事変の経過、外交の事情、財政の計算等に付きましては、夫々主務大臣より申しのべます。
 政府は此重大なる時局に当たり、諸君と共に此国家の大事を翼賛し奉ることを以て誠に光栄とすると同時に、責任の益々重大なることを痛感するのであります。諸君に於かれましても、宜しく政府の意のある所を諒とせられ、慎重御審議の上、協賛を与へられん事を切望する次第であります。(『近衛首相演述集』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『石橋湛山全集』第8巻          石橋湛山全集編纂委員会編 東洋経済新報社  1971.10. 5
『近衛首相演述集』1937.11ー1939.02    厚地盛茂編          1937.11
( 2008年9月22日 TANAKA1942b )
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(6)英帝国ブロックの日本綿製品排斥運動
世界1の生産を誇った日本綿業への規制
  イギリスが、ポンド切り下げ、金本位制廃止、オタワ会議と保護主義を強めていった。そうした保護主義の影響は「日英綿業戦争」として具現化されていった。今週はオタワ協定以降のイギリスの保護貿易主義について扱う。
<日英綿業戦争──排斥される日本商品>  世界恐慌が長期化するとともに、そこからの脱出の道を、経済的勢力圏の形成──つまりブロック経済化に求める傾向があらわれてきた。日本商品は、ダンピングとの批判を受けながら、低為替、低賃金を武器に目覚ましい進出をとげた。そのなかで、とくに綿布市場をめぐっての英国との対立が激化した。 (『昭和経済史』から)
ロンドン経済会議  ブロック経済化の先頭に立ったのは英国であった。昭和7年(1932)7月からオタワで開かれた帝国経済会議で、カナダ、オーストラリア、インドなど英帝国内諸国との特恵関税を協定し、英本国の市場を英帝国内諸国に優先的に解放するとともに、英国の輸出市場を確保するという自給的経済圏の形成をはかった。英帝国内の貿易は、世界貿易の恢復を上回る速さで恢復し、ブロック化は成果をあげたが、半面では、ブロック外の諸国との対立は激化した。すでに、関税のカベを高くし、輸入を直接的に制限することによって国内市場を防衛する経済鎖国主義の風潮が一般化したなかで、英国のブロック経済化の動きは、連鎖反応を引き起こした。
 もちろん、国際金本位制のもとで展開されたような多角的世界貿易の復活への努力がなされなかったわけではない。世界経済の難問、賠償・戦債問題の解決を目指して、昭和7年6が牛にはスイスのローザンヌで賠償会議が開かれ、対米戦債とドイツ賠償の棒引き案とも言うべきローザンヌ協定が成立したが、米国は戦債完済を要求するシャイロット的姿勢を続け、国際協調の足並みはそろわなかった。
 ローザンヌ会議の決議によって、昭和8年6月には、ロンドンで世界経済会議が開催された。世界恐慌からの脱出を目指して、66カ国の首相・大臣クラスの全権が参加し、国際通貨体制の再建と関税戦争の休止を議する予定であった。ところが、開催初日の議長マクドマルド英首相の演説が、対米戦債問題に触れたことから、米国は会議に冷淡になり、フランスが主張した各国為替相場安定のための為替協定に提案に対して、米国は一時的為替協定は枝葉抹節の問題であり、貿易制限の緩和こそ本題であると反発した。
 昭和8年3月、ルーズベルト新大統領就任と同時に、金本位制を停止してニューディール時代に入った米国は、ドルを切り下げてインフレーションによる景気刺激策を展開する自由を保留するために、フランスの固定相場制提案に反対したわけである。
 戦債処理と為替安定の2大問題で行き詰まったロンドン会議は、結局、成果のないままに無期休会となった。第2次大戦前の最後の世界経済会議の決裂のあとは、ブロック経済の時代となった。英国はポンドを軸とするスターリング・ブロック、ドイツは双務精算方式によって東欧・南米諸国を包含した広域経済圏、米国はラテン・アメリカ諸国との互恵通商条約とドル投資によるパン・アメリカニズム(ドル・ブロック)、フランスはフランを中心とした金ブロック、そして、日本は日満ブロックを、それぞれ形成する方向に向かった。
 昭和6年(1931)12月の金輸出再禁以来、円の為替相場は低落を続けたが、7年7月には資金逃避防止法、8年5月には外国為替管理法が施行されて、ようやく低位に安定した。基準相場は、ドルが動揺し始めたためにポンド建てに変更され、1円=1シリング2ペンスを維持する政策が採られた。これは、昭和5年(1930)の対英平均相場と比べて、42%低い水準であった。 (『昭和経済史』から)
輸出、拡大に転ず  この低為替は、日本の輸出を著しく促進させた。世界貿易が縮小傾向にあるなかで、日本の輸出額(旧ドル換算額)は、昭和8年から上昇に転じた。昭和4年を100として、昭和9年の世界貿易額は34であるのに対して、日本の輸出額は51まで回復した。同年の米国の輸出額は25、英国は39,ドイツは31であるから、日本の輸出回復のテンポは異常に速かったと言える。日本商品の進出は、欧米諸国にショックを与え、「経済黄禍論」(イエロー・ペリル)がやかましくなった。黄色人種が為替ダンピング、ソシアル・ダンピングで、市場を荒らしまわるという批判である。
 円相場の低落と同時に、国内物価は上昇したが、国内物価上昇率より為替下落率がはるかに大きかったから、日本商品のたいがい価格は大幅に下落した。井上財政が意図しつつも実現できなかった日本の物価の国際的な割高是正が、高橋財政下に金輸出再禁止による為替低落で達成されることになった。しかも、井上財政と世界恐慌の二重の圧力によって、生産性上昇・賃金引き下げが強行されて精算コストが低減していたところであるから、日本商品の国際競争力はきわめて強力になった。 (『昭和経済史』から)
「ダンピング」批判  これが為替の過度な切り下げによるダンピング、あるいは、異常に低劣な労働条件・低賃金によるソシアル・ダンピングであるかどうかについて、議論は分かれるが、当時においては、問題はすぐれて政治的なものであった。諸外国は、日本をソシアル・ダンピングと批判して、自らの保護政策、日本商品排斥措置を正当化しようとし、日本はダンピングを否定して、いささか古ぼけた自由貿易主義を振りかざして、昭和9年4月には国際労働局のモーレット次長が来日して実地調査を行い、ソシアル・ダンピングの事実はないとの判定を下したが、もとより、日本商品に対する排斥運動は、判定に権威があれば鎮静するという性質のものではなかった。
 日本商品排斥を最も強力に実行したのは、中国を別にすれば英帝国であった。昭和7年(1932)のオタワ会議以来、英本国、インド、カナダ、オーストラリアなどで関税の差別的引き上げが相次いだ。インドは、それまで英国産品が従価25%、その他の国の産品は従価31.25%であった綿布輸入関税を、昭和7年8月に、英国産品は据え置いて、その他国産を50%に引き上げ、さらに、翌8年6月にはその他国産は75%にに引き上げた。これは、日本綿布を目標とした輸入制限措置であり、8年4月には日印通商条約の破棄が通告されていたから、日本のこうむる影響は大きかった。 (『昭和経済史』から)
インド市場争奪戦  かつては英国綿業が独占していたインド市場では、インド綿業の発展と共に自給率が高まり、狭められた輸入品市場には日本綿業が進出して、三国綿業の競争が展開されていた。インドの綿布関税引き上げは、自国綿業保護と同時に英国綿業を擁護する意味を持っていた。英帝国の日本商品排斥のうらには、英国の綿業地帯であるランカシャーやマンチェスターの利害が大きくさようしていたのであり、日英綿業戦争が日英対立の主軸となったのである。昭和7年下期に日本の綿布輸出量は英国を追い越して世界第1位に立ったから、英綿業の焦りは激しかった。
 インドの禁止的な関税引き上げに対して、紡績連合会はインド綿花買い入れ停止を決行し、抗議の意志を示し、日本経済連合会は、英国産業連盟などに綿業競争の調整を呼びかけた。昭和8年9月からシムラ、のちにニューデリーで日印会商が開催され、翌9年1月に日印通商協定綱要の合意が成立し、7月には日印新通商条約が調印された。協定であは、日本綿布輸出をインド綿花輸入とリンクさせて輸出数量を制限するのと引き替えに、綿布関税を従価50%へ引き下げることが定められた。
 日本政府は、日本綿業界の激しい不満を抑えつけるようなかたちでインド側に譲歩し、日印会商をまとめ上げたが、そこには、国際連盟脱退(昭和8年3月)によって孤立化した日本の立場をそれ以上悪化ああせまいとする配慮が働いていた。
 日印会商と平行して、昭和8年9月から日英会商も開催された。日英会商は、まず、民間人による日英綿業競技会のかたちで行われたが、輸出市場協定をめぐって日英綿業代表が激突して物別れとなり、英国は政府間交渉を提起したが、日本政府はこれに応ぜず、結局、会商は決裂した。英国は、昭和9年5月に本国及び植民地の綿布輸入割当制を実施し、日英綿業戦争はさらに激化することとなった。 (『昭和経済史』から)
綿布、生糸を抜く  日本商品排斥にう対して、政府は、一方では日印会商で示したような譲歩的姿勢、輸出の自主的統制策をとると同時に、他方では、「貿易調節及通商擁護法」を制定して、反攻撃的対応策も講じた。昭和9年5月施行の通商擁護法は、日貨排斥国に対して報復的に関税を引き上げたり、輸入を制限する権限を政府に与えた。通商擁護法は、昭和10年7月にカナダ、11年6月にオーストラリアに対して発動された。これは木材・小麦・羊毛などの輸出国で、日本への貿易収支が出超であった両国に対して、ある程度効果があり、通商協定の締結が促進された。
 しかし、ブロック化時代に通商政策が果たし得る機能は限られており、日本商品は、関税生涯を乗り越え、貿易制限の網目をくぐって、いわば実力で世界市場に進出し、経済戦争を激化させた。その先兵は、綿・人絹織物と電球・ゴムぐつ・自転車などの雑貨であり、綿布輸出額は、昭和9年から生糸を抜いて首位を占めた。生糸と綿との主役交代は、欧米の消費市場に依存した輸出から、欧米と世界市場を競い合う輸出への構造的転換を象徴しているが、それは、同時に、欧米との協調から欧米との対決への移行、中国侵略から対英米へのエスカレーションを暗示するものでもあった。 (『昭和経済史』三和良一 から)
英、日本の合理化に感服  近代綿工業の母国英国が、日本綿業に敗北した理由は、賃金率格差よりも生産構造そのものの立ち遅れにあったと言って良い。日本綿業は、昭和4年7月から工業法による深夜業禁止にそなえて、大正末から合理化に全力をあげた。精紡ハイドラフトなどの技術革新を伴う設備増設、自動化とスピードアップ、標準化と科学的管理などが進められ、生産は大幅に高められた。
 老舗の英国綿業は、技術的にも経営的にも確信への対応が鈍く、第1次大戦後、衰退の途をたどっていた。経営者たちは、自動織機の据え付けや2交代就業の導入が、労働組合の反対で進まないと不平をこぼしていたが、ケインズらが説いたカルテル結成による産業組織の改革提案には冷淡であった。昭和初期に来日した英国の綿商人は、東洋紡績四貫島工場を見学して、「こんなに大きな工場でありながら製品の種類はわずかに6種類しかやっていない。英国なら何十種とやっているだろう。これなら、いいものが安くできるのは当然だ」と語ったという。 (『昭和経済史』三和良一 から)
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オタワ協定の変質  エイメリーの考えたように、オタワ協定は帝国統合に向けた重要な第1歩であった。彼は『自伝』で、「一方で自由貿易と、他方での保fご・特恵との間の争点は通商政策の単なる細目ではない。それは本質的に、国民生活についての全面的に異なった2つの哲学の間の対立である」(Amery, My Politicial Life, 1955,Vol.V,P95)と書いている。通商政策は哲学だという主張は魅力的ではある。だが現実には、オタワ協定以降すぐにその変質が始まった。イギリスはオタワ協定以降、33年にはドイツ、デンマーク、アルゼンチン、スウェーデン、ノルウェー、ラトビア、エストニア、フィンランドと、34年にはリトアニア、35年にはポーランドと一連の通商協定を締結している。この結果、こうした一連の2国間協定と帝国特恵との関係がすぐに問題となる。エイメリーにとっては、とくにアルゼンチンとの協定はオタワ協定の前進に対する大きな打撃であった。
 アルゼンチンとの協定でエイメリーが最も問題としたのは、アルゼンチン産食肉の輸入量を一定以上減らす場合には自治領からの食糧輸入も同時に減らすという条項であった。これによって国内農業者が利益 を得ることは確かだが、エイメリーはこの条項がもたらす国農業者と帝国農業者の利害対立を考慮した。この協定は、外国からの輸入を減らせば同時に帝国からの輸入も減らすことになるから、イギリス農業者は自治領の発展を犠牲にすることによってのみ外国との競争から保護される、という構造を定着させるものであった。この協定は、帝国統合の方向とは逆に、自治領と外国を同じに扱うものであった。エイメリーは33年5月の日記に、アルゼンチンとの協定は私を怒り狂わせたと書いた。この協定は、オタワでその基礎が据えられた、帝国協力の原則に対する破壊的な背任行為と理解された。そしてその後の2国間の一連の通商協定は、エイメリーによれば、オタワでの方針のいっそうの発展の可能性を直接ん8い制限し、またオタワで達成された全精神に明らかに反するものであった。
 一連の2国間協定の最後にくるのが38年の英米通商協定であった。この協定によって、小麦や木材は免税品目となりアメリカからの輸入に関税がかからなくなった。したがって、オタワ協定で与えられたこれらの品目に対する帝国特恵はアメリカに関してはなくなった。このためイギリス市場への輸出品目の点でアメリカと競合したカナダにとっての損失は大きかったが、それを補うものとしてこの協定の締結と同時に米・カナダ通商協定が結ばれ、カナダはアメリカ市場へのアクセスを獲得した。オタワ協定以前は、カナダの貿易相手国はアメリカが大きな比重を占めていた(29年には、輸入ではアメリカが69%、イギリスが15%、輸出ではアメリカが43%、イギリスが25%)。オタワ協定後はわずかずつではあるがイギリスの比重が増しつつあった(37年には、輸入ではアメリカが61%、イギリスが18%。輸出ではアメリカが36%、イギリスが40%)。だが、米・カナダ通商協定以降この傾向は再び反転した。英米通商協定をイギリスに受け入れさせたアメリカの意図がオタワ体制の打破であったことは間違いない。M.ベロフの研究が言うように、この協定は「オタワ特恵体制からの退却の始まり」(Max Beloff,Dream of Commonwealth 1921-42,1989,p.198)であった。
 エイメリーは『ワシントン借款協定』(The Washington Loan Agreements,1946)という著作で、英米通商協定について「それは帝国特恵をさらに一層削減し、制限した」と書いた。この協定によって、イギリスは民間部門での購入がなく政府が独占的に輸入する財について、新たに帝国特恵を与えたり、帝国内諸国と互恵的な協定を締結したりしないと約束した。さらにエイメリーによれば、」英米通商協定の重大な問題点は「イギリス政府が最恵国条項原則を全面的に受け入れた」(pp.93-4)ことであった。帝国特恵は当然に、帝国外に対する最恵国条項の適用を免除しなければ維持できないものであるが、それが崩されはじめたのである。
 英米通商協定は、それまでのイギリスがイニシアティブを握った一連の通商協定とは違って、余剰農産物に対する市場を求めるアメリカの圧力にイギリスが応じたものであった。イギリスが高尚に応じた理由は、36年のドイツ軍ラインラント進駐、オーストリアのドイツ国家宣言がもたらしたヨーロッパ情勢の緊迫化であった。イギリスは対米関係の改善とアメリカからの援助の必要に迫られていた。こうした英米関係強化の必要性は対独開戦と供に一挙に表面化する。
 対米関係改善の必要性が増した背景にはイギリスの国際収支の悪化があった。オタワ協定以降のイギリスの対帝国貿易の弘津は上昇していた。しかし、オタワ以降の最も特徴的な点はイギリスの対帝国貿易が黒字から大幅な赤字に転落したことである。
 特恵関税制度は帝国諸国からのイギリスへの輸出を増大させたが、イギリスからの帝国諸国への輸出を減少させた。マーシャルが、イギリスの産業上の主導権喪失にもかかわらず後進国との有利な公益条件の利益 を主張し得た背景には、第1次大戦前の多角的貿易決済機構が存在した。そしてその中心をなしたのは、インドを初めとする対アジア・アフリカ市場での大きな貿易黒字であった。だがその対インド貿易も、30年代中葉にはイギリスの入超に変化した。対インド輸出の中軸をなしたマンチェスターの綿織物輸出量は、インドの輸入代替工業化の進展によって大幅に落ち込み、第1次大戦中に国産量がイギリスからの輸入量を凌駕していた、そして30年代にはイギリス綿織物はインド市場で日本との厳しい競争に直面していた。 (『自由と保護』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『昭和経済史』上                   有沢広巳監修 日本経済新聞社  1994. 3.11
『自由と保護』イギリス通商政策論史            服部正治 ナカニシヤ出版  1999. 4.30
( 2008年9月29日 TANAKA1942b )
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(7)『時局大熱論集』という強硬意見集
徳富蘇峰、中野正剛、藤原銀次郎などの主張
  世界がブロック経済へと進む中で、日本の与論はどのようなものだったのだろうか?ここでは、国際連盟を脱退し、日本が孤立化していくとき、それでも強硬意見を主張した人々がいた、その意見を引用することにしよう。『時局大熱論集』と題された本から、いくつかを引用することにした。
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<序=現代編集局> 亜細亜は亜細亜の亜細亜だ。──明白なる此の真理が、ジュネーブに於いては、ふみにじられて居る。国を肇めて茫々3千年、日本は、世界の眼を1つに集めつつ、孤立して、今、東海の濱に立つことになった。これを非常時と言はずして、いかんぞや。
 9千万の同胞、非常の秋(とき)に当たっては、自から又非常の決意を要するは、素より其の処。吾等がここに『時局大熱論集』を纂輯して、江湖に送る所以も亦ここにある。
 前篇みな緊要なる当面の問題のみにして言々迸るところは即ち奉公の至誠、而もその内容は豊富凱切、徒らに大声疾呼するものと選を異にし、真に国民をして往くべき道を指示するもの、従って繙き従って読むに及んで、肚皮裏自ら熱血の昂騰するを覚えるであらう。
 今や時局重大、全国民待望の裡に此の書を天下に公にするに際し、われらは斯界の諸権威が、小誌の為めに特別なる御援助を賜った事に対して、満腔と感謝と深甚なる敬意を表するものである。 昭和8年4月 現代編輯局 (『時局大熱論集』序 から)
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<精神日本の樹立=徳富猪一郎=蘇峰>  ◇最悪状態の中にある孤立◇ 吾人は余りにも呑気である。余りにも無頓着である。我が四境を見廻すに、維新以来今日の如き状態は、未だ一日も存在したことはない。日露戦争以前から、世界戦争以後に至るまで、約20年間は、兎も角も日英同盟なるものがあって、英国と提携していた。その以前は孤立であったが、何れの国とも別段葛藤もなく、只だ明治20年以後、露国とはそろそろ衝突の気分はあったが、自余の諸国とは、何れも友好の関係であった。
 謂はば味方も無き代わりに、敵は愚か、仮想敵なるものさへも、殆どなかった。然るに今日は如何。同盟国は薬にもしたくもない。一旦緩急の時に、我国に向かって、好意的局外中立を為すものさへも、只今の処では見当たらない。極言すれば、日本は決して孤立ばかりではない。孤立ならば先ず仕合わせだ。けど共その実は列国の敵意とは云はぬが、少なく共不好意の真中に取り囲まれている。(勿論列国民の中には、我国に好意を有する者もあるが)(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
◇支那と日本◇ その中に1国や2国は心から日本が悪しかれと思うほどでもあるまいが、それにしても決して具体的に同情を表するほどのものはいない。まして日本と相接する隣国は如何。日露戦争当時に於いては、支那は全く我が国が与国であった。今日では明言しても差支あるまいが、満州は愚か、支那本土に於いても、日本の為に多大の便宜を提供している。天津などからは、遠慮会釈なく、我軍の為めに、戦時禁制品を積出していた。
 英国は同盟国であれば、申迄もなく、米国の如きも、戦争の峠を越す迄は、先ず日本の同情が7分であって、露国が3分であった。然るに今日に於いては、その支那が遺憾ながら、正面の日本の相手となっている。
 吾人は直接支那に向かって、互に宣戦を布告していないが、その実は両国の関係は、交戦国の関係以上に緊張している。これは双方ともに困ったことである。けれ共今日となっては致方なき現状である。近くば熱河の問題にて、方に干戈(かんくわ)を以て相見えんとしている(既に相見えつつある)。(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
◇日米の現状◇ 翻って太平洋を隔てたる米国を見れば、形勢甚だ不穏である。実を云へば、昨年の初め(昭和7年)上海事件が開展したる際には、米国の国論は殆ど我に向って、熱狂せんばかりに、敵愾心を鬱積せしめ、方(まさ)に炸裂せんとするの一時に際して、漸く再び沈静に赴いた。今後と雖も実に吾人にとっては、米国の与論なるものは、危険千万である。何となればそは街頭の人気次第、風向き次第で如何様にも動くものであるからだ。
 而して米国はその殆ど全艦隊を、太平洋に集中し、盛んに演習をやっており、来年7月迄は大西洋艦隊も、依然太平洋に碇泊することになったから、謂はば無期限に米国の海軍は、太平洋に於いて戦闘準備をしているものと思はなければならぬ。
 戦闘準備をしているから、直に戦争が起こるとは云い兼ねるが、如何なる呑気な者とても、此の現状を眼の前に、見せつけられては、恐怖とは云わぬが、危険を感せずにはいられない。(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
◇八方暗剣殺険◇ 以上述べ来つたる如く、日本はその隣国支那、米国、露国の間に挟って、何れの方を見ても、所謂る暗剣殺で、此が光明である。此が平和である。。此が安心であると思はれる方角は、何れに向かっても、見出されない。これ乃ち即今の現状だ。
しかのみならずジュネーブに於ける国際連盟では我が全権委員は勿論、それを後援する国民の努力と熱心も、大方ならなかったが、それは何等相手方には手応へがなく、石仏に向かって念仏や祈願をかけたも同様にて、謂はば心労損のくたびれ儲けという通りで、本文を起稿する今日(昭和8年2月16日)までは、未だ何とも確定しないが、どうせ連盟を脱退するか、脱退しなくとも、脱退同様の立場に立つか、何れにしても甚だ芳しからぬ状態であることは、苟くも日本がこれ迄の国策を放棄せざる間は、此の現状が持続さらるるものと、覚悟せなければなるまい。然り到底今日の処、脱退の外は致し方あるまいと思う。(果然脱退することとなった)。
 予は決して殊更に悲観の材料を、四方八方から集め来って、我が同胞に、余計な心配をかけんと欲するものではない。けれ共世の中に危険を危険として、承知している間は、その危険に対する方策も出て来るが、危険を危険とせずに、これを看過するに於いては、これより更に大なる危険はない。
 甚だ不愉快なる話であるが、吾人は自ら欺かず、自ら誤魔化さず、自ら気休め文句を唄はずして、事実をありのままに正視して、その対策を考究せねばならぬと思ふ。(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
◇理想第一◇ 抑々国防の第1線は精神的国防にあり、国家の保全は精神的保全にあり、国家を樹立するには、先ず国民の精神的樹立より先なるは無し。凡そ国民が大いなる運動を世界ぬ向かって為すには、単純なる物質的本能の作用のみでない、此に大なる理想があって、それによって動き、それによって進むものである。
 近く維新回天の事業の如きも、正しくその通りである。我等の先祖は、決して物欲のためのみに動いたのではない。尊皇愛国の精神によって動いたのである。
 吾人も此の国家を維持し、此の国家の力を世界に向かって発揮するには、又た大なる理想の下に働かなければならない。理想無くしては終始を一貫したる大運動は、出来得るものではない。(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
◇取るに非らず輿ふるにあり◇ 吾人が此際特に注意するのは、今日大陸に於ける、我が帝国に運動は、全く東洋自治の手始めで、足利乱世時代の和冦とは、断然その同期も、その目的も異にしていることだ。和冦は内に溢るる力を外に向かって発したるまでのことにて、力を伸す結果は外を荒らすこととなった。けれ共今日の我が大陸政策は、取らんと欲する為ではなく、輿へんと欲する為である。
 大陸には秩序がない。故に秩序を輿へる。平和がない。故に平和を輿へる。安寧がない。故に安寧を輿へる。文化がない。ゆえに文化を輿へる。産業がない。故に産業を輿へる。教育がない。故に教育を輿へる。総て吾人の為す所は、取るに非らず、輿へるに存す。輿へるの結果は、期せずして、或いは取るべきものもあらう。けれ共それは目的ではなく、結果である。
 取らんが為に輿ふるではなくして、輿へたる結果が我に幸福をもたらすものである。
 兎も角、国際正義の要は、国家正義の上に立ち、国家正義の要は国民正義の上に立ち、国民正義の要は、国民各個人正義の上にたたなければならぬ。徒らに個人主義を高調するは、只弱肉強食の結果となる。統制主義も亦た、その結果は統制期間を食物とすることとなる。如何なる法律制度も、若し日本が精神的に自ら改善せざる限りは、無用徒労である。
 かかるが故に吾人は何よりも先ず今日精神日本の樹立を高調する。(昭和8年2月20日稿)(『時局大熱論集』徳富蘇峰 から)
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<敢然として我往かん=国民同盟総務=中野正剛>   諸君
 私は、我が日本帝国が即時国際連盟を脱退せんことを要求し、名誉の孤立を要求し、而して此孤立を覚悟してのみ日本の前途に大なる光明を呈するものたるを確信するものであります。
 諸君、我が日本国民は既に一昨年9月18日以来国際連盟の脱退と名誉の孤立を覚悟して居るのであります。之を躊躇し、今迄有耶無耶の態度に低迷して居ったのは、我が日本の政治か即ち各政党の最高支配階級と財界の一角に蠢動する如何はしい老朽巨頭のみであったと信じます。我が日本は孤立に耐ゆるのみならず、孤立を以て世界の文運に貢献する十二分の備へと力を持って居ります。我が日本に欠くる所のものは、真に国民の前途を開拓し、日本国の前途を確立する政治家がいないことであります。此の日本には孤立に耐ふる総ての素材が備はって居るにも拘わらず、欠けたるものは大先輩連中の度胸と経済とだけであります。
 諸君、先般来連盟の空気稍々悪化すると見れば経済界は忽ち大動揺を来たし、而して株式取引所の中止の見苦しき醜態を繰り返して居るのであります。何故狼狽するかと訊けば連盟の空気が悪化して日本が孤立すれば、経済的にも産業的にも大打撃を受けねばならぬと憐れな泣声を出す輩があるのであります。
 諸君、最近の経済学に依りますと経済力として一番大切なものは、人間の力であります。今日の世界経済は物が足らないで困って居るのでなくして、物が有り余って困って居るのであります。唯、此の物を利用し、運用し、一般国民の為に之を善用する所の経済機構、政治機構の動きがないのが世界の悩みであります。而して吾々は9千万の国民を持って居る、この9千万の国民たるや、学問をすれば世界一流の頭脳の持ち主であり、科学に傾倒すれば独逸人を凌駕する頭脳を持って居る。喧嘩も強ければ反省力もある。英国人よりは熱情的であり、仏蘭西人、伊太利亜人よりはネバリが強い。戦争をすれば世界無比の精鋭である。働かせれば殆ど休養もなく、衣食住の困苦欠乏に堪えて働き得る所の無比の国民である。此の世界に類のない9千万国民の決意は牢乎として固い。是だけあれば、何にも要らぬ筈である。混じりけのない、純正無類の兄弟が、これ丈揃って居れば、之こそ絶大の経済力であり国力であります。経済的自然資源を利用する総ての権利は牢乎たる決意を有する実力ある国民の掌中に帰すべきものであれば、後は何も要らない筈である。
 然る上に日本は又決して物質に乏しいとはいえないのみか無類の天恵を受けて居る。我が日本国は決して小さいとは言へない。世界を見渡すと、我が国ほどの天恵を有する国はそんなに沢山はない。我が日本の、千島、樺太、琉球、台湾、朝鮮、それから隣邦満州国、それに一寸手を伸ばせば沿海州、是だけの大陸を控えて居れば、亜細亜経済ブロックを形成するのに何の不足もない。
 況や一衣帯水の向かふには支那4百余州がある。その支那の地形たる西北は山を負ひて漸次に高く、東南は段々に低くなって海に臨んで居る。故に河水は自然に東南に向かって流れ、所謂東流の水となって居ります。即ち自然の地形上支那内地の豊富なる自然は此の流れに従って送り出されなければならぬ。其の送り出される所は日本からは呼べば応える日本海、支那海の向ふ岸であります。即ち支那の沿岸地方に集積し来れる物貨は、之を支那の他の地方に送るより日本に送る方が便利である。そこで支那の自然資源は日本の手中に落ち来るべきは是は経済上、地理上自然の原則であります。然らば9千万の国民が此の日本国に依り満州を控へ、沿海州を控へ、支那を控へ、もう一つ南洋諸島を控へて此の東洋に蟠居する時、世界の何処にこれより有利なる地形を備へて居る国がありませうか。
 何故日本の政治家たちが、我が日本は土地狭小なり、我が日本は資源に乏しいと云う風に自ら小さくなるやうな馬鹿げた考えを抱くのであるのか。事実を認識せざるの甚だしきものであります。大英帝国の発展膨張時代には彼は眼前に欧州大陸を控へて居るが、海峡によりその煩累を避くることが出来、遙かにエジプトを控へ、阿弗利加を控へ、南洋諸島を控へ、宛かも世界の中央に居るが如き地の利を占めて居たのが、彼が欧州列国に1歩先んじて、世界的大帝国を建設した理由の1つであります。
 今日の日本は実に当年の英国より遙かに有利なる地位にあります。英国の対岸欧州大陸は既に発達老熟した所でありますが、日本の対岸亜細亜大陸は未開の宝庫でありまして、将来日本の為無限に原料及市場を提供するものであります。而して日本の西北一面の海は日本制海権内の泉水のやうなものであり、南洋及西太平洋一面も亦、如何に控へ目に見ても日本海軍の制海権下にあり、如何なる際にも此等大地域の資源を確保し得るものであります。日本は是だけの活力を持って居る、是だけの先天的要素を持って居る。而して此の優秀なる国民は此の大資源の上にズンズン発達して来た。此の自然の発展に対しては、通路を開いてゆかなければならぬ。(『時局大熱論集』中野正剛 から)
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<経済封鎖何するものぞ=貴族院議員・王子製紙社長=藤原銀次郎>   日本はいよいよ連盟を脱退した。匪賊討伐のために日本軍が熱河に進出して、万里の長城の外で止まれば、大した問題はないと思ふが、若しも所謂騎虎の勢いで日本軍が天津、北平に進出することになるとか、或いは天津、北平に於ける支那の兵隊、若くは支那の人民が天津、北平に於ける日本の駐屯軍に対して敵意を表して、攻撃に出るとか、或いは日本の居留地を掠奪するとか、若くは上海方面の支那軍が日本軍に向かって攻撃するやうなことが仮にあったとするならば、戦争の範囲は満州熱河に止まらずして、北支那に及び、大規模の戦争とならぬと保障出来ない。
 其結果は欧米各国と日本との国際問題は益々難しくなって来て、或いは日本は経済封鎖をもって圧迫されることになるかも知れない。今の国際上の関係から言えば、イギリスにしても、アメリカにしても其他各国は無論のこと、日本に対し武力を用いて経済封鎖をするとか、戦争を覚悟して日本を圧迫するが如き愚を敢えてする国はないと思ふ。併しさういふことはないと確信するけれども、若し万々一あったとしたならば、吾々日本国民としてどうしたらよいか、今から対策を研究して置くといふことは決して無駄ではないと思ふ。
 併しながら仮に長い間日本が経済的に完全に封鎖されたとしても、吾々日本の国民は経済的に英米に断じて屈服するものではないといふことを確信する。一例を挙げて言へば、今日、日本では総ての物資が英米から輸入されなければならぬといふやうな物は殆どない。皆日本で出来る。戦争に必要な軍需品も出来れば、其外工業の材料として居る物も総て日本で出来る。然るに若るに日本がさういふ運命に際会すれば、日本は敢然として支那を経済封鎖してしまふのみならず、武力を用ひて支那に於いて日本は自由勝手に活動が出来る。満州は無論我国と協同動作をとり、北支那は日本の武力で、我国の領土同様な活動が出来るのである。山東省亦然り、それから揚子江沿岸から南支那に至っても、寧ろ日本から諸外国との交通を遮断してしまふ。斯くて我が国は武力で自由行動を執ることが出来るから、欧米人が今支那と取引して居る何十億といふ大きな商売は全部遮断されてしまふ。而して欧米に代って日本が支那と商売をするといふことになるから、吾々が英米の方で失った商売は支那で取り返すことが出来る。即ち日本として商売上から言っても決して非常な打撃ではない。打撃はない。打撃は打撃であるけれども、決して絶望的なものではない。懸念せらるる色々の原料品はかくして殆どあり余る程支那から供給を受けることが出来るし、又日本の製造品を支那人に供給するから日本の商売も相当発達するのである。さうすれば、日本は国内の商売と日本と支那と満州との3カ国の商売に依って各国と対立し、立派に自立して行けるから、経済封鎖を何年継続されても閉口することは少しもないと思ふ。何と言っても支那と日本との間は距離も近いし、今の日本の海軍の力を以てすれば、欧羅巴各国を封鎖するといふことはさう難しいことではないと思ふ。これに反して欧羅巴各国が日本を封鎖するといふことは非常に困難がある。今の日本の海軍力に対して英米の海軍力を挙げて来ても日本を経済封鎖することは中々困難だと思ふ。今日の世界の形成から見て、英米の全体の海軍力を挙げて1年、2年、3年も日本海軍と対抗することは到底不可能なことであると思ふ。斯く想像すれば、」日本が支那を経済封鎖して自由行動を執ることに余程可能性がある。私は其点から考へて見ても、経済封鎖の如きは断じて恐るるに足らぬと思ふ。
 又新聞紙上に依ると、若しフランスなどは従来日本に対して非常に好意を寄せて居った国であるけれども、そのフランスが日本に対して反対的態度を執り、形勢が変わって来たといふのは欧羅巴の形勢が変わったことに由るであろう。又今日社会党の勢力の内閣が組織せられたりその他の事情で非常にフランスの外交方針が変化を見せて来たといふことも聞いて居る。フランスの実情は何れにしても、若しフランスが反日的態度を執るといふことが明白になって来たならば、日本も何もフランスに好意を寄せている必要はない。よろしく、支那を経済封鎖すると同時に仏領印度の経済封鎖を断行すべきである。これも日本の駆逐艦を2,3隻も派し、始終妨害しさへすれば容易に目的を達し得る。日本から見れば、台湾に根拠を置く駆逐艦を派遣して仏領印度を封鎖し、又台湾に帰って来るといふ方法をとれば、訳なく出来るのであえる。
 然しながら、我々は決して諸外国に対して非平和的な政策を採ることを主張するものではない。若し日本が連盟を脱退したが為に各国が挙って、日本に対して敵対行動を執るといふやうな場合があるならば、吾々も黙って自滅する訳には行かぬから、国家存立の為には多少の積極的態度を執ることも已むを得ないと思ふ。東洋のことは東洋で自給自足をなし、決して欧羅巴、アメリカに出て行かなくても、日本は決して経済的に屈従するものではない。経済的には完全にやって行けるものであると思ふ。故に経済封鎖などは断じて恐るるに足らないのである。
 然からば日本の商品を経済的に封鎖もしないし、日本と国交の断絶もせず、戦争もしないで、唯定石的手段で各国が申し合わせて日本のボイコットをするといふやうな政策を採ったらどうかといふ問題である。これは例えばアメリカが日本の生糸を買はない。或いは重税を課するやうな政策を採ったとしたならば、日本は──無論地方の農民は非常な打撃を蒙るであらう。併しながらさういふ場合があったならばアメリカの南部に綿に重税を課せばよい。するとアメリカの綿製造業者は非常に困難するばかりでなく、アメリカの南部の綿の産地の農民が非常に困って来る。丁度日本の養蚕地方の人が受けると同様な苦しみを受けるから苦しみは相対的である。若しイギリスが日本の商品のボイコットをすれば、吾々は豪州の羊毛を買はない、印度の綿を買はないやうにすることも出来る。故にボイコットは後同様のものであって、向ふがやればこっちもやるから、さういふことは能く能く考へれば出来ないことである。又そんなことを恐れる必要もない。何故ならば出来ないことを無理に行っても、すぐ支障を来すことは直ぐ判るからである。若しこれに反して無法なことをやって来たならば、こっちも無法で対抗することになる故に、決して長続きしないと思ふ。私はボイコットなど少しも恐るるに足らぬと思ふ。
 それからボイコットに依って平和的態度を装ひ、実質的には殆ど敵対行為をする精神を以て日本に臨んで来たならば、其時は日本も敢然として自ら自発的に支那の経済封鎖をしてしまったらよいではないか。即ち支那と欧羅巴との通商関係を日本の武力で断絶してしまふ。さうすると向ふでは否でも応でも戦争するか、さもなければ非友誼的なことを止めて、日本との真実の友好関係を恢復することになると思ふ。こうなれば日本も最後まで実力に依って決定するのであるから、欧米各国から挑戦さるるならば、その時こそ日本は重大決意をなして、総てを徹底的に断行すれば宜しいのである。
 斯く観じ来れば、彼の経済的の封鎖、或いはボイコットといふやうなことに対して矢張り我もまた経済的にこれに対抗する工夫が次ぎから次と続出して来る。向ふがこの手を出れば、こちらはこの手で行くといふやうな幾らでも手段はあるから、一寸も心配なくやって行けると思ふ。併しこれは吾々の腹の中の考えであって、実際に於いてはさういう手段を用ひずして、唯連盟は脱退したけれども、経済封鎖も起こらぬやうに、又ボイコットも起こらぬやうにし、吾々がこれに対して対抗手段を講ずるやうな必要のないやうに、従って日本から進んで支那に経済封鎖を断行することなく平和の裡に円満に解決することを希望するのである。唯万々一の場合のことを今想像して研究と準備をなし一旦緩急に直面した際狼狽することなく一路所信に邁進したいと思ふのである。 (『時局大熱論集』藤原銀次郎 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『時局大熱論集』                大日本雄弁会講談社 1933. 4. 1
( 2008年10月6日 TANAKA1942b )
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(8)米国の日本に対する経済制裁
ボイコット運動とそれに対する日本政府の対応策
<英米による経済制裁の危機と日本の対応=『日本外交の危機認識』>  1937(昭和12)年7月7日、蘆溝橋での日中両軍の衝突をきっかけとして、日本は中国大陸における軍事的行動に次第にのめり込んでいった。当時「支那事変」と呼ばれたこの問題を解決するための有効な手段を発見できないまま、日本はより大規模な「大東亜戦争」へと突き進んでいくことになる。その過程で始終日本の政府当局を悩ませたのは、イギリス、そしておそらくはアメリカが極東における日本の軍事行動を阻止するために一連の経済制裁措置に出てくるのではないかという不安であった。当時、日本の行動を軍事力をもって阻止する能力も意思もなかったイギリスやアメリカにとって、行使し得る最も有効な手段と思われたものは経済的圧力であった。英米両国およびその支配下にあった「南方」諸地域の市場と資源に依存するところの大きかった日本にとって、それは 最も弱い部分を突かれることであった。
 日本の外交当局者がこの問題を十分意識していたことは、1938年11月近衛文麿首相が東亜新秩序の声明を発表して間もない頃、外相に就任したばかりの有田八郎が在東京アメリカ合衆国大使館のユージン・ドゥーマンに語った次のような言葉が、最も雄弁に物語っている。そこで有田は「古い友人」に対する気兼ねのなさと母国語で話せるという気楽さから、きわめて率直に本心を語っている。すなわち有田は、アメリカ合衆国およびイギリス帝国は広大な領域と富を擁していて「すべての目的から見てほとんど自足的であり、ましてや効果的な国防システムを維持するのに必要な経済資源とマンパワーとを有していることは言をまたない。したがって彼らは他国が彼らに制裁を加えようとしても全く無頓着でいることができる」、それに比べて日本の立場は全く異なるとして、次のように述べている。
 日本はかなりの人口を持っているがその領土は限られ資源は乏しい。さきほど国際連盟は憲章第16条を援用してイタリアに経済制裁を加えようとして失敗した。自分は連盟が動揺な行動を日本に対してとることをもはや恐れる必要はないと考える。しかしながら、連盟の内外には対日経済制裁の可能性について議論することを好む有力な国がいくつかある。幸い、これまでのところはかかる考えに沿った具体的な計画が正式には提案されるに至っていないが、彼らが本気にかつ共同してそのような行動に出てくるかも知れないということは、我国の懸念するところである。
 これは言うまでもなく、東亜新秩序建設の正当性の論理であるが、皮肉なことに、支那事変の開始以来、対日経済制裁の実行について幾多の逡巡を重ねていたワシントンが、日米通商航海条約の廃棄通告を含む強硬措置の採用へ向けて一歩を進める契機となったのは、東亜新秩序に関する近衛声明やここに引用した有田の言明であった。つまり、アメリカはこれを彼らの唱えてきた「門戸開放」原則に対する真正面からの挑戦と受け取ったのである。もちろんこの後も、日米間の全面的衝突に至るまでには、ワシントンと東京の双方に探り合いと駆け引きが繰り返されたのであるが、1938年11月に両国が最終的衝突へ向けてエスカレーションの階段を1つ上がったことは間違いがない。 (『日本外交の危機認識』から)
<アメリカへの圧力としての3国同盟>  近衛首相と松岡洋右外相が、あえて3国同盟の締結に踏み切ったのは、ドイツ、イタリアさらにソ連をも味方に引き入れ、4国の圧力でメリカを妥協せしめて日中戦争を終結させ、大東亜共栄圏の建設を認めさせようという構想からでしたが、しかし同年秋から、独ソ関係は冷たくなり、4国協力どころではなくなってくる。そこで松岡は昭和16(1941)年の4月ヨーロッパを訪問して日ソ中立条約を締結するが、その留守のあいだにアメリカと話をつけて日中戦争を解決したいという意図を持つ一部の軍人や民間人の手で準備された日米交渉が始まる。ところが、交渉が行き悩むうちに、ドイツとソ連の関係は決定的に悪化し、昭和16年6月にドイツ軍はソ連に侵入する。これで3国同盟締結当時の構想は覆ってしまったのです。
 陸海軍と政府の間では、ソ連を撃つか、それとも南方に進出するかという議論が展開されて、最終的にはソ連が崩壊寸前になったら侵入するが、とりあえずは、南部仏印に基地を要求して、陸海軍を進出させることに決まる、それがその7月でした。
 日本が南部仏印に進駐したときにアメリカは痛烈な報復として、日本に対する石油輸出を全面的に禁止し、日本の在米資産の凍結──一切の資金を使えないようにするという措置に出た。これは実質的に、経済面での国交断絶を意味していた。そのとき、陸海軍の判断は急速に対米開戦に傾いていきました。
 当時の日本にとって最大の石油供給国はアメリカであった。当時、日本の石油保有量は、昭和16年の10月の段階で840万キロリットルであった。今昔の感に耐えない話ですが、現在の日本はずいぶん石油を節約しているけれども、なお年間2億キロリットル以上の原油を輸入している。840万キロリットルはそのほぼ2週間分に過ぎない。しかし、それだけが、虎の子の石油ストックだったのです。
 日本の陸海軍が作戦するためには、840万キロリットルは2年分にしか当たらない。平時でも、石油はもちろん必要なので、今後輸出禁止が続けられるならば、2年後には連合艦隊も張り子の虎になってしまう。飛行機も飛べなくなるし、開戦するのなら今だというのが、当時の陸海軍の、作戦担当者の思想でした。
 9月6日の御前会議で、10月上旬になっても交渉妥結の「目途ナキ場合」は開戦を決意すると決定される。交渉が進まないままに10月上旬がきたとき、近衛首相は対米開戦の決断がつかず、昭和16年の10月、御前会議の」決定を楯にとった東条陸相と対決して、1月退陣を余儀なくされた。
 このとき、いざとなれば、陸軍を抑えて戦争を回避することもできる人物として木戸幸一内大臣が推した東条陸相が首相となり、天皇の命令で9月6日の御前会議決定を白紙にかえして、戦争か否かの検討が大本営政府連絡会議で行われた。その最終決定のための御前会議において、鈴木貞一企画院総裁(陸軍中将)の説明した内容の要点は次のようでした。
 日本が英米と開戦しても、戦争経済をまかなっていけるかが問題である。第1に日本が南方の資源地帯を染料することができたとして、「民需用として」──「民需」というのは陸海軍が作戦用に使う以外のすべてを含む、物資を運ぶ船の意味ですが、最低399万トンの船が確保できれば、昭和16年度物動計画程度の物資は維持できるだろう。
 それから第2に、戦争になれば船舶は被害を受けるが、それが年間100─80万トン程度ですめば、国内で60万トン程度の造船力があるから、なんとか300万トンの線を維持できるだろう。そのためには、ぜひ船舶のために鋼材を30万トン確保してほしい。
 そして米なども、タイ、仏印あたりから入ってくるので間に合うだろう。もし蘭印が手に入れば、ニッケル、錫、アルミニウム原料であるボーキサイト、生ゴムなど、当時の貴重な物資が大量に手に入る。
 石油の問題については、南方作戦をした場合、石油は1年目には85万キロリットル、2年目には260万キロリットル、3年目には530万キロリットルぐらいは入手できるだろう。それを現在の保有量840万キロリットルに加えて見通しを作れば、第2年目の末には保有量がギリギリに減ってしまうが、3年目からはむしろ需給関係が好転して、余裕が出ると述べている。
 したがって、危険とはいえ、戦争経済は維持できるというのが、企画院の判断でした。他方、戦争をしない場合の見通しは次の通りです。円ブロック内で自給できる物資は別として、英米ブロックに依存する物資は、入手しにくくなるだろう。一番困るのは液体燃料──石油です。人造石油工業──石炭液化のことですが、その建設に力を尽くしても、必要量はまかなえない。軍備や生産拡充にも支障をきたす。その間、アメリカは自由に戦備を拡充できるから差が開いてしまってもう戦争はできなくなる。戦争するならば今だというのが当時の経済面からみた開戦の判断であったと言ってよいだろうと思います。 (中村隆英『昭和経済史』から)
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<日米貿易の趨勢>  1926年から37年の間に、日本の対米貿易には瞠目すべき変化が現れた。輸出が余りにも急激に減退したのである。それは日本の多くの養蚕農民にとっては、例年続いていた豊作への期待が、あたかも一夜の暴風雨によって洗い流されてしまったかのようであった。それまで日本経済の発展を支え続けてきた対米出超は、極めて短期間に大幅な入超へと転じた。これによって日本の貿易収支は急速に悪化したのである。
 本章では、現代経済学の手法によって、この対米貿易収支の赤字転落の原因を追及しようと企てた。この問題へのこうした視角からのアプローチは、日本の内外で今まで試みられたことがなかったものである。当時の米国の保護主義と日本貿易の赤字転落の諸要因との関連であれば、原因追及の家庭で明らかにされるであろう。
貿易不均衡を生み出した背景  まず、当時の日米経済関係を一瞥してみよう。
 1858年の開港以来、日本の貿易の対米依存度は着実に深まり、しかも肝心なことは、その貿易収支が年々大幅な出超をもたらしたことであった。発展途上国として恒常的な経常収支の入超に悩まされ続けた日本にとっては、米国こそ最も頼りになる海外市場であった。
 1926年から29年の間に、日本の輸出総額の年平均42%は米国に出荷された。その間、年平均9,400万ドルが対米貿易黒字額であり、これは対米輸出額の年平均23%にあたる。
 これに対して、1932年から34年にかけての日本の年平均対米輸出額は、それ以前の4年間の平均額のわずか40%へと低下した。もちろん、輸入額も減少したが、同期間の年間平均水準の57%までしか低下しなかったのである。輸出入額の開きが大き過ぎた。32年から34年の間、年平均輸出額は1億9,600万ドル、輸入額は2億8,000万ドルと、驚くべき大幅な赤字を記録した。
 当時の貿易収支不均衡をもたらしたものとして、おおよそ3つの要因が考えられる。
 第1は、日本綿工業の発展につれて米綿依存度が高まったことである。1932年から33年の間に日本綿工業の生産および輸出額は英国を凌ぎ、世界第1位となったのであるから、米綿輸入額はそれだけ増加した。35年の日本の米綿輸入額は米国からの輸入総額の345.5%にのぼった。
 第2に要因は、1935年から36年にかけて顕著になった日本の第4次経済成長であった。原綿輸入額に加えて、工業用資材および原料への需要が増加し、石油、天然ガス、工業原料用パルプ、鉄鋼屑、アルミニウム、精錬銅等の輸入増が主な内容である。対米輸入額の原綿以外の主な内訳は、金属および金属製品(機械類は除く)の19.37%、粗石油、ガソリン、天然ガスぴょび燃料油の12.4%、機械および車両の10%、木材および紙類の5.7%、化学製品および関連製品の3.3%等であり、これらで輸入総額のほぼ半分であった。
 第3に、1937年の日中戦争開始後は戦争用資材の輸入が増加した。これに比べて29年以降は、食料品、タバコの葉、材木類、ゴムタイヤ、硫酸アンモニア、錫延板、鋼材等の輸入が減少した。しかし、こうしたものの減少額は以上の3要素による輸入増を相殺するほどではなかった。
 以上のようにして、とりわけ1934年以降、日本の対米貿易収支は急速に悪化し、日本の貿易収支の入超額を従来よりほぼ倍増させた。
 日本の総輸出中にしめる米国の比率ははは1926年の42%から34年の18%へと急激に減少し、その後いくらかの改善はみられたものの旧に復することはなかった。1937年まで20%に留まった。
知識人グループのボイコット運動=米大統領への訴え    米国でも1920年代末から対日ボイコット運動はあった。日本生糸を原料とした服や靴下を身につけまいという運動である。それが1930年大初頭の「バイ・アメリカン」(米国製品の優先的購入)運動でさらに支持された。しかし、対日ボイコット運動が全米規模で国民の注意を引いたのは、満州事変以後のことである。
 1931年度のノーベル平和賞受賞者であるコロンビア大学総長、ニコラス・B・バトラー博士は、満州事変勃発後、彼が所長を務める<20世紀基金>の中に「対日経済制裁委員会」を組織し、その委員の調査結果に基づいて対日ボイコットを宣言した。「日本生糸のボイコットを実施するだけで、日本の3百万農家から養蚕収入を奪うことが出来る。それは日本経済にとっては測り知れない損害である。もっとも、我々の方も犠牲を強いられる。30万人の絹の靴下製造業者と絹布製造業者の職を奪うことになるが……」と。
 また、ナーバード大学総長のローレンス・A・ロウレル博士をはじめ、前国防長官ニュートン・デ・ベーカー氏、全米の大学の教授や報道関係者からなるグループは、米国大統領と議会に対して対日貿易取引の禁止を訴えた。当時、国際連盟内部では日本の対中武力行使を阻止すべしとの議論があり、その動きに呼応したものであった。
 1932年2月20日、米国内の殆どの新聞が、この知識人グループの米大統領への訴えを取り上げ掲載した。プリンストン大学の多数の教授とロックフェラー財団の全委員が「日本との経済断行声明書」に署名したが、この識者グループの声明文はほとんどの新聞、雑誌で報道され、同年2月末までに署名参加者は5千人にのぼった。この運動は広がり、その後数ヶ月間にわたって世間の目を引くことになった。 (『対日経済封鎖』から)
対日制裁をめぐる賛否両論    米国内では日本に対するボイコット運動について賛否両論が渦巻いていた。賛成派の方がやや優勢であった。米国の知識人たちは、対日経済制裁を国際世論の動きの一環として訴えた。対日制裁によって満州の危機を回避し、日中両国の衝突を阻止する効果があると、彼らは信じていた。具体的には、国際連盟決議の第16条に述べられたもの以上の制限条件で対日ボイコットを規定し、それが日本にとって脅威をもたらすようにすべきであると主張した。こうした彼らは中国における米国の対日軍事行動よりは経済制裁の方を選んだのであった。対日ボイコットに反対したグループもあったが、その声は弱かった。対日交易禁止による制裁では生ぬるいとする強硬派も存在した。
 対日ボイコットに疑念を抱いていた人々には、武器、金融、生産原料、食料品のどの項目を優先すべきか、決定するのは不可能に近いとの見方もあった。それ故、部分的にせよボイコットがいったん動き出せば、なし崩し的に全面的な交易禁止へと発展する傾向があり、そうなると、それは日本経済の特殊な脆弱性を直撃することになり、その結果、日米間の戦争の脅威を生み出す可能性もある、と強調した。また、交易禁止は日本人を絶望の淵に追い込み、戦争へと駆り立て、それによって中国内の状況を悪化させると憂慮した人々もいた。例えば、日本が交易禁止への報復手段として中国における米国の利権を侵害すれば、それを引き金に逆に日米戦争を引き起こすかも知れない というのであった。
 当時、日本は米綿生産高の12%、輸出高の40%を輸入しており、米国の綿生産者の与えるボイコット運動の影響は甚大だった。彼らは現在の世界市況のもとでは、日本に代わるべき新しい買い手を見つけることはことは容易ではないと述べていた。
 米国の政府と議会は、この時点での対日交易禁止は極めて懲罰的な色彩が濃いと判断し、対日経済制裁の訴えを退けている。しかし、対日経済制裁というアイディアは、後にまた採り上げられ、1040年には米政府自身の手で実施されたことは承知の事実である。 (『対日経済封鎖』から)
<生糸輸出の崩壊=最大の輸出市場としての米国>  なぜ生糸輸出にこだわるのかといえば、それには3つの理由がある。
 第1は、日本の輸出額に占める生糸の大きな割合である。1920年代までは生糸は日本の輸出の稼ぎ頭であった。もっとも20世紀に入って以来、輸出総額に占めるその相対的重要度は減少傾向を辿ってはいた。というのも、日本の工業化の進展につれて他の輸出品が増加してきたからである。
 1920年代には生糸はまだ日本の輸出総額の36%を保っていた。それが30年代には急速に低下し、35年には15.5%、37年には12.8%と、20年代の3分の1に減ってしまった。生糸が日本経済に占める位置は特殊なものであった。天然資源に乏しい日本経済にとって、輸出の増加はほとんど常に原料材輸入の増加を伴っていたが、生糸の輸出増だけは例外的に輸入原料の増加を必要としなかったからである。
 この生糸の輸出にとって米国がどれほど大切な市場であったかは論を待たない。
 1926年から29年までの間に日本生糸の約85%は一次産品のまま世界市場に輸出された。残りの約15%の大部分は国内で消費され、ほんのわずかが輸出向け工業製品として加工された。当時の日本生糸は工業用原料として輸出されており、そのほぼ98%を米国が輸入していた。前述したように、1926年までの間、対米輸出の83%近くを奇異とが占めていたのである。
 第2は、養蚕業が日本の農民の生活に密着していたことである。開港後、何百万もの農家にとって養蚕は一番大事な副収入であった。かつかつの生活をしていた当時の一般農民にとっては、養蚕収入は地代と税の重圧を幾分かは和らげたのである。忍耐強さとデリケートな技能を要する養蚕であるが、この仕事に農家の婦女子が従事した。日本の農民は、長い伝統のある養蚕と糸繰りの技能とを洗練させ、細やかな改良を加えてきた。そして20世紀への変わり目までに、日本の生糸は質、価格の両面で中国を凌駕し、生糸の輸出大国となっていた。
 日本生糸への需要は海外で着実に増加し続けた。しかし、生糸の生産増はゆっくりとしたものであった。桑の葉で飼う蚕は、注意深く世話をしなければならなかった。その仕事は専ら農家の婦女子に委ねられ、永い時間を要した。日本では繭の生産は1年に1回であったから、海外需要が引き続き上昇しても生産量はそれに追いつかず、長期的には恒常的に生糸価格は押し上げれられてきた。これは特に日本が米国生糸市場での独占的供給者となっていたからである。先にも述べたように、生糸輸出は日本に外貨をもたらし、工業化に欠くべからざる機会・技術および原料の輸入を可能にし、日本の経済発展を支えてきたのであった。この養蚕業は、全国221万養蚕農家の重要な収入源であった。
 日本の農家にとっては、桑を摘み蚕を養育する時間は労働費としては計上されていなかった。もともとが只働きの家内労働であった。日本の生糸輸出が未曾有の額に達した1929年でさえも、日本の養蚕農家の懐には、蚕種(蚕の卵)等の費用を差し引いた後にはほんの少しの収入しか残らなかった。
 ところが、1930年に生糸の輸出額は大幅に低下した。32年にはニューヨーク市場で生糸取引価格が下落し、最高品質の繭の市価はその生産費の6割にしか達しなかったとも言われる。このため1932年秋までに1,300万人の農民、すなわち日本農民の40%が養蚕で大打撃を被り、破産者が続出した。広く養蚕が営まれていた長野、群馬、栃木、茨城、福島の各県では特に打撃が大きかった。こうした農村地帯では折からの干魃も加わって、自殺者や様々な悲劇が生まれた。例えば『朝日新聞』によると、1932年秋に長野県では約20万人の小学児童が昼の弁当を学校に以て来られなかったという。
 これに対して政府は、1929年から31年にかけて貧困に打ちのめされた蚕糸農民救済策を実施した。しかし、幾多の救済策も焼け石に水であった。1927年の大不作以来、農業部門はすでに深い恐慌の中にあったからである。そこに加えられた養蚕農家への打撃は、状態を一層困難なものにした。例えば、自作農及び小地主層の懐具合は左前になってしまった。その中には村の指導者や大正デモクラシーを政治的信念の一部に持った人々も交じっていた。また、養蚕不況による打撃は農民層の分解をも促した。土地を失い飢えた人々は工業労働力の予備軍となったのである。したがって、生糸輸出の不振は、当時の日本経済を大きく支配していた農業の再編成を強いることになった。
 第3に、生糸輸出の崩壊は日本社会の既存の価値体系の方向を転換させたことである。農民の飢えとその窮状から脱出したいとの思いは、すでに勢力を増しつつあった軍国主義者と中国大陸への拡大主義者の野望を、全国的な関心を呼びさますまでに拡大させる方向に力を添えたのであった。デモクラシーを標榜する歴代内閣の打った農村救済策は何ら成果をあげられず、自由・民主的政党は勢力を失いつつあった。こうした状況が国民の眼を国内問題からそらせ、国境の外へ、特に中国での戦勝の可能性へと向けさせようとする勢力の台頭に拍車をかけた。そして、日本には農業が基本であり、農村を救い国を救うためには、大陸への拡大方針を採る必要があると信じ込んでいく感情が、全国を覆うほどになっていった。
 1930年代前半には、軍国主義と大陸への拡大主義者はまず大衆に」影響を与え、次いで内閣を操縦し、ついには国の行方を把握する権力を掌握した。米穀向け輸出の不振、特に生糸輸出の壊滅的打撃は、農業恐慌を深刻化させることによって、こうした結末を確かなものにさせたのである。 (『対日経済封鎖』から)
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<大恐慌期における貿易政策転換の中核的推進主体>  アメリカは、第2次世界大戦終了後に資本主義世界の中で経済力において圧倒的地位を占め、世界的自由貿易体制の中軸国として現れてくるが、その歴史を振り返って見ると、保護貿易国家を任じてきた期間の方がはるかに長い。すなわち、1826年関税法の制定によって初めて保護関税が導入されて以来、1846−61年および1913−22念の両期間に低率関税期が存在したとはいえ、大恐慌期の最中にあたる1934年に互恵通商協定法が制定されるまで、基本的には高率保護関税政策が維持されてきたのである。
 ハル国務長官の唱道のもとで「合衆国産品の国外市場を拡張する」目的をもって、各国と通商協定の締結を図るために大統領に対し現行関税率の50%までの変更権を認めた1934年互恵通商協定法は、アメリカ貿易政策史上において画期的意味を持つものであった。すなわち、同法の制定によって従来のような議会の専権に基づく自主関税1本槍の政策が改められ、初めて行政協定に基づく協定関税が本格的に導入されたのである。ここにおいて高率保護関税の維持を前提とした報復関税賦課の威嚇による輸出拡大策が破棄され、相手国から譲歩を獲得するために輸入関税面でみずからも譲歩するという、いわば輸入の拡大を伴う輸出拡大策が導入された。さらに、同法には1922年関税法317条を契機として1923年に導入をみていた無条件最恵国待遇の原則が条文として明記され、同法に基づく通商協定には同原則が適用されることとなり、アメリカは自由貿易化の方向を鮮明に打ち出してくる。そして互恵通商政策の展開=各国との通商協定の締結をみるなかで、高率関税体制は最終的に崩壊への道を辿っていくのである。したがって同法の制定は、伝統的な保護貿易政策から自由貿易政策への180度の方向転換の起点をなすとともに、第2次世界大戦後に成立をみたアメリカを中心とする世界的自由貿易体制の形成に向かう萌芽が孕まれた起点としても位置づけられよう。
 互恵通商政策について、内外の研究史ではほとんど政策史ないし政治史レベルにおける論及に限られており、その支持基盤と政策指向自体に関して詳しく論じられたことはなかった。ここでいう支持基盤とは、主要産業諸部門のうちにあって、貿易政策の転換を下から推進した有力企業や業界団体を指す。大恐慌による過剰生産と失業問題、農業問題に直面するなかで、これらの利害関係者は、このことの関連において貿易問題に対していかなる立場を示していたのか、この点を究明することは、政策転換の歴史的特質の解明にとって不可欠の前提をなすものと思われる。本章では、貿易政策転換をめぐる実業界の動きに焦点があてられる。とくに、大量生産と大量販売を統合してアメリカの巨大な生産力を最も典型的に体現しながら最大の産業にして最大の輸出産業に成長した自動車産業の立場はどうであったのか、まず当該産業こそが貿易政策転換の中核的推進主体をなす位置にあったことを認識したうえで、この点を互恵通商政策の導入・実施・継続をめぐって斯業の同業者団体である「全国自動車商業会議所(Automobile Manufacturers Association と改名)」から国務省に送られた書簡・文書の所論に即して実証的に明らかにし、ここにみられるビジネス側の論理を軸心に据えて大恐慌期アメリカにおける貿易政策転換の歴史的特質について若干の論点を提示したい。 (『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』から)
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<米英の協同と日独の同盟>  日独伊3国は、1940年9月、同盟条約を締結した。それに反して、米英は、開戦の日まで形式的にはこのような同盟関係にはなかった。しかし、米英が緊密な協同関係にあったことは事実である。
 そこで太平洋戦争は、日米の戦争であるとともに、米英華国群との戦いでもあった。もちろん戦争の主役を果たしたのは日本と米国であったし、戦争への過程は日米交渉を中心としていたから、太平洋戦争は日米関係を主体に研究すべきである。しかし一方、国家群の戦争という観点から考察する必要もあろう。戦争の遂行はもとより、戦争にいたる道程すなわち戦争の計画準備も日米交渉も、みな連合対連合の戦争という見地に立って検討しなければならない。とくに、両国家群形成の本質を比較すること、および両国家群間の対立を考察することは、太平洋戦争の原因を検討するため重要な意義を持つものと考える。極言すれば、この2つの協同が、戦争を誘発し、戦争を不可避にしたと言えるからである。 (『太平洋戦争前夜の日米関係』から)
<日本における米英不可分論> 第2次近衛内閣は昭和15年7月22日に成立した。そして閣議は7月26日「基本国策要綱」を、連絡会議は7月27日「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。新政策は「情況により南方に対して武力行使することがある」とした。そのような状況下で、軍は南方作戦の研究準備を進めることになった。そして参謀本部は、南方地域における兵要地理の現地調査、軍事情報の収集、作戦計画の研究等を開始した。そして当時、戦争相手を蘭1国にするか、不可分な英蘭2国にするかなどが問題であった。たとえば8月16日、対南方綜合作戦に関する陸海軍間の打ち合わせが初めて水交社で行われたが、南方に武力を行使する場合、米英分離は不可能であろうか、蘭1国に限定することができる」だろうか、ということが議論されたという。また、当時、島村参謀らの主張により香港攻撃が計画されていたことや、大谷光瑞、小磯国昭らの蘭印との武力交渉説なども、一種の可分論であったと言えよう。
 その後昭和16年頃になると、統帥部とくに海軍の思想は、次第に米英不可分論に統一されるようになった。2月10日参謀本部第20班長有末大佐は、軍令部大野大佐に「対南方施策要綱」の骨子を示した。これに対して大野大佐は即座に、対南方武力行使はすなわち対米武力行使であり、米英の分離は不可能であると強調したという。次に2月17日、軍令部は文書を以て米英不可分その他の申し入れをした。さらに3月20日、軍令部の小野田中佐は参謀本部に、海軍として好機に投じる対南方武力行使は小売りしていない、また南方への武力行使はすなわち米国との武力行使になるという見解を述べたのである。
 一方、当時主張されたシンガポール攻撃論は、米英可分の構想の上に立っていたようである。2月、大島大使に対してワイゼッカーは、次のような理由でシンガポール攻撃を促した。
 (1) シンガポールに対する奇襲は、英帝国主義の中核に対する決定的打撃を意味する。
 (2) 作戦の迅速性は米国を戦争に介入させないだろう。米国は軍備を欠いているので、危険を冒すことはしない。
 (3) 平和ができる前に、極東において新秩序を作ることが日本の利益である。
 この第2の理由の中には、明らかに米英可分の考えがある。松岡のシンガポール攻撃論もこの種の考え方に基づいたものであったであろう。
 しかしとにかく昭和16年春には、米英付加文論について、陸海統帥部では一応の結論が出ていたのである。しかし可分論は開戦まで再三議論に上がっている。たとえば10月になると可分論が再燃した。種村はこれについて、「海軍省が震源地のようでその真意をつかみにくいが、陸軍省内にも一部にその空気がるようだ」と書いている。たとえば10月6日陸海軍務局長会議において、岡海軍軍務局長は、比島をやらずに戦争をやる方法を考えようではないかと発言したという。また11月24日の連絡会議の検討要目にも、
 八、戦争相手を蘭のみ又は英蘭のみに限定し得るや
 という条項がある。これらは、最後の時まで米英可分、不可分が問題であったことを示している。鈴木企画院総裁は筆者に、当時たしかにこのような議論があったと述べた。このような日本における米英可分、不可分の論争には、希望と現実との混同がある。可分論は事実というより、希望的な観測というべきであった。米英を分離して戦いたい、目標は南方の物資とくに石油である。比島に触らずに真っ直ぐ行けぬか、ということであったのである。このような希望には、米英を敵に廻しては勝味が少ないという打算が、底流していたことはもちろんであろう。 (『太平洋戦争前夜の日米関係』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『日本外交の危機認識』               近代日本研究会 山川出版社    1985.10.30
『昭和経済史』                      中村隆英 岩波書店     1986. 2.14
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』         鹿野忠生 南窓社      2004. 2.15
『太平洋戦争前夜の日米関係』               奥村房夫 芙蓉書房出版   1995. 1.20
( 2008年10月13日 TANAKA1942b )
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(9)ABDCラインと呼ばれた経済封鎖網
それによる日本国内経済の実態を振り返る
 ABDCラインという言葉がある。諸外国が連繋して対日経済封鎖を行った、ということを象徴的に表現する言葉として使われる。その実態はどのようなものだったのだろうか?今週は日本に対する経済封鎖政策を「ABDCライン」という言葉で表現して扱うことにした。
<ABCD包囲陣>  昭和16年(1941年)7月25日、米国が在米日本資産の凍結を行い、英国、オランダがこれにならった前後から、日本の軍と政府、そして報道機関は「ABCD包囲陣」による経済的圧迫を高唱するようになった。
 このAはAmericaのA、BはbritainのB、CはChinaのC、DはDutchのD、すなわち、米、英、中、蘭(オランダ)の諸国が共同戦線を張って日本を経済的に封じ込めて、日本の必要とする石油・鉱石・くず鉄・機械・食糧の供給の道を断つとともに、仏印(ベトナム)・ビルマ・中国南部・西部のいわゆる「援蒋ルート」を通じて米・英等の諸国が中国(当時、日本の軍や政府が「蒋介石政権」と称していた国民政府)に対して重要物資を補給する態勢をとっているというわけである。(『昭和経済史』上から)
南進への傾斜
   米・英・蘭の諸国による日本資産凍結措置は直接的には、同年6月日本軍が軍事基地の設定と米・英・蘭諸国による中国援助態勢に対するけん制を目的とする「南部仏印」(南ベトナム)進駐(6月25日決定)に対する報復であったが、昭和16年7月2日、「御前会議」は「自存自衛上南方要域ニ対スル各般ノ施策ヲ促進」し、「対米英戦ヲ辞セズ」とした「情勢ノ推移に伴フ帝国国策要綱」を決定した。
 そこでここに至るまでの対米英蘭関係の推移を一瞥しておこう。南中国の沿岸を封鎖したり、タイと仏印との国境紛争を調停し、東南アジアへの影響力強化をはかる一方、この年4月、日独伊3国軍事同盟のデモンストレーションのため松岡洋右外相はシベリア経由で渡欧し、その帰路モスクワでスターリン首相との間に日ソ中立条約を調印したが、6月22日の独ソ開戦以降、対ソ開戦論を主張しはじめた松岡外相を更迭するため近衛首相はいったん総辞職して7月18日第3次内閣を組織した(後任外相は豊田貞次郎海軍大将)。 また日本は同年4月以来ワシントンにおいて「日米交渉」を開始して外交的孤立を回避しようとしtrはいたが、すでに大勢は軍を中心として「開戦」、具体的には南方資源の奪取を目指す「南進」、すなわち対米・英・蘭開戦に大きく傾いていたのであって、 「ABCD包囲陣」論は、「自存自衛上」「やむにやまれず」新たな大戦争を始めるための伏線であり、米・英・中・蘭諸国に対する国民の敵がい心をあおる世論操作でもあった。
 またこの間、蘭印(現インドネシア)からの、石油・ボーキサイト・ニッケル鉱・くず鉄・工業塩・マンガン鉱・生ゴム・クロム銑鉄・すず・米等の対日輸出をめぐって昭和15年9月からバタビア(現ジャカルタ)で開かれていた日蘭経済交渉(日本政府代表として当初小林一三商工省を派遣)も、オランダ側の強硬態度により翌年6月決裂し、同7月オランダ側は日蘭石油民間協定を停止した。米・英・蘭等の諸国による対日経済制裁は急速に強められ、冒頭において述べた昭和16年7月の米・英・蘭の3国による日本資産の凍結、さらに同年8月の米国の対日石油輸出完全停止措置となったのである。(『昭和経済史』上から)
日本貿易の「三環説」  日本がなぜ「ABCD包囲陣」を新たな戦争開始の理由にしたかと言えば、列国の対中国援助の問題の他に、米・英・蘭およびこれらの国の植民地からの物資補給が、日本にとってまさに軍需生産を含む戦争能力維持にとってのアキレスけんであり、また米・英・蘭の3国がその点をねらって経済制裁を加えたからである。
 そこで、われわれは日本の対外経済関係の歴史にさかのぼってみる必要がある。日本は明治維新以来、産業・交通等の近代化のため、また日露戦争の戦費調達等のため英米両国をはじめ欧米諸国から資金の提供を受け、先進諸国から技術の導入を行ったが、貿易の面でも独自の構造が形成された。 これについては名和統一教授が英国の女流日本研究家フレダ・アトレー女史の分析を援用して提唱した「三環説論」が有名である。 すなわちその「第1環節」は、生糸の輸出と綿花・石油・機械・くず鉄の輸入を内容とする対米貿易、「第2環節」は綿布・繊維品・雑貨の輸出と鉄・アルミニウム原料等の重工業原料・ゴム・羊毛・綿花の輸入を内容とする対英帝国貿易、 「第3環節」は工業製品・機械等の輸出、農産物食糧・鉱業原料の輸入を内容とするいわゆる「日満支ブロック」(戦前の表現による)である。
 このような貿易構造は産業構造を反映するものであり、また産業構造を制約してもいた。日本の産業は、米国に生糸・絹織物・中国・英植民地等に繊維・雑貨等を輸出し、これらによって得た外貨をもって綿花を米国・中国その他アジア地域から農産物食料等を中国その他のアジア地域から、石油を米国・蘭印等から、鉱石類を中国・英植民地等から、機械・化学工業製品等を欧州諸国等から輸入することによって成り立っていたのである。 そしてしかも日本の貿易は地域的には対米英圏(米国およびあじあにおける米英圏。英本国は含まれない)貿易は日本の貿易総額中43.9%(輸出34.8%、輸入55.8%)を占めており、品目でも日本の軍事力と軍需生産にとって不可欠である石油・機械・くず鉄・諸工業原料をこれら地域からの輸入に決定的に依存していたのである(これらのほか、資本と技術の側面でも米国に対する依存度が高かった)。 (『昭和経済史』上から)
巨額の外貨不足  この時期の貿易を外貨決済を必要としない円ブロック貿易と、外貨決済が必要な第3国貿易とに大別して、それぞれの地域に対する貿易収支をまとめた表が示すように、円ブロックに対しては出超だが、第3国に対しては連年大幅は入超を重ねていた。しかも、円ブロック向け輸出は外貨獲得にならないから、これによって第3国からの入超を埋めることはできず、巨額の外貨不足に陥ってしまった。
 また表は、当時の日本がいかに米英など第3国との貿易に依存していたかを物語る。軍需品の輸入は決定的に第3国依存であり、円ブロックからの輸入は食品・雑品などで総額も第3国の3分の1程度にすぎない。第3国への輸出品は繊維以外に見るべきものがなく、その繊維原料の輸入すら主に第3国に依存してこれでは戦時経済の振興とともに、ますます外貨不足が激化することは避けられない。勢い民需品の輸入は制限され、国内で生産された民需品も輸出できるものは外貨獲得のためすべて第3国への輸出に回し、円ブロックへの輸出も制限して国内の民需品消費を極端に圧縮し、統制をますます強めていくという日中戦争期の戦時経済は、その基礎にこのような貿易構造と、産業構造をもっていたのである。(『昭和経済史』上から)
ストックの蕩尽  要するに、すでに述べたように日本は戦略物資の海外依存度が極端に高く、しかも日中戦争による予想外の消耗のため過去のストックを蕩尽していまったうえ米・英・蘭諸国の経済制裁によってアキレスけんを切られ、対中国戦争の継続すら、すなわちいわば歩行すら困難な状況に陥ってしまったのである。しかも前記の「援蒋ルート」の設定、米国(昭和14年、軍用機発動機購入用の対中国借款供与と交戦国に対する武器輸出を可能にした中立法の改正を行い、昭和15年以来4回にわたり中国に対し借款を行い、さらに昭和16年武器貸与法を制定)、英国(昭和14年中国に対する法幣安定借款を行ったが、15年にも対中国借款を行った)の対中国援助も積極化したこともあり、(この他ソ連も対中国借款を行った)日本の軍と政府の焦慮はいやが上にもつのり、米英側はまた日本のこの痛点を衝き続けたのである。
 かくて日本は一方で和戦をかけて「日米交渉」を開始するとともに、他方ではABCD包囲陣の重圧を国民に強調して米・英・蘭、とくに米国に対する敵がい心を高めるキャンペーンを開始したのである。 (『昭和経済史』上(安藤良雄、原朗)から)
<ぜいたくは敵だ>背広、カメラ、貴金属   「ぜいたくは敵だ!」という標語は、のちの「欲しがりません勝までは」とならんで、日本の戦争経済における代表的なキャッチフレーズである。それはまた、日本人みんなにとって、戦争が他人事でなくなったことを示す象徴的な言葉でもあった。
 「カラスの鳴かない日はあっても、統制法規の出されない日はない」。「日華事変」3年目に入った日本経済は、やや大げさに言うとそんな状態だった。事変の長期化と第2次欧州大戦の勃発によって、経済統制は随所で破綻をきたし、これを取り繕うために、また新たな統制の網を張り巡らさなければならなかった。欧州戦開始直後に出された価格等統制令は、”9.18クーデター”と呼ばれるほど強引なものだったが、それでも物価の上昇を押さえ込むことはできなかった。
 このいわゆる9.18価格ストップ令の公布後まもなく設定された行程価格は、コメ、たばこ、絹織物をはじめ多くのものが9.18の水準を超え、またヤミ取引や買いだめ、売り惜しみが横行して、政府の低物価政策は重大な危機に直面するにいたった。物価の根強い上昇傾向は、基本的に軍事費を中心とする財政膨張によるものであり、こうした根源を断たない限り、単なる権力的規制によってこれを押さえることは到底不可能だったのである。
 にもかかわらず、政府がとった方針は、物資の生産、配給、消費統制を一層強化することであった。そして統制は生活必需品にまで及び、昭和14年(1939)12月の木炭からはじまって、昭和15年10月ごろまでに繊維製品、コメ、麦、砂糖、マッチ、練炭、大豆等に配給統制が実施された。しかし、統制が強化されればされるほどヤミ取引もまた激増し、国民生活のすみずみにまで及んでいった。 (『昭和経済史』上(前田靖幸)から)
*                      *                      *
<もう1つの”C”カナダ>   ABDCラインと言えば普通は、AはAmericaのA、BはbritainのB、CはChinaのC、DはDutchのD、すなわち、米、英、中、蘭(オランダ)の諸国が共同戦線を張って日本を経済的に封じ込めて、日本の必要とする石油・鉱石・くず鉄・機械・食糧の供給の道を断つとともに、仏印(ベトナム)・ビルマ・中国南部・西部のいわゆる「援蒋ルート」を通じて米・英等の諸国が中国(当時、日本の軍や政府が「蒋介石政権」と称していた国民政府)に対して重要物資を補給する態勢をとっているというわけである。
 ここでは”C”に関して、中国ではなくカナダを扱うことにしよう。「対日経済封鎖」と題すれば、カナダを無視することはできない。英連邦諸国の一員として、日本に対してどのような経済政策を採ったのか、その辺りを扱ってみよう。
<英連邦市場における対日貿易差別>   英国は1932年のオタワ会議で英連邦内の自治領および植民地と帝国特恵協定を結び、世界貿易に重いくびきをかけた。特恵待遇の強化を図ることによって、英帝国の交渉力を強化し、その貿易収支を改善し、また不況下の英国経済には雇用の増加をもたらすものと期待した。なぜならば、英国経済は、1925年の金本位制の再建に基づくデフレと、31年の英ポンド平価切り下げ後のインフレに悩んでいたのである。世界経済はこのオタワ会議以降、”自由貿易”に終わりを告げ、保護主義へと転換したのであった。
 この頃、日本の輸出先導産業は、1次産品の生糸から工業生産物である綿繊維製品へと移っていた。1932年、綿製品は総輸出の25%にのぼり、生糸の21%を超えた。そして、この日本綿製品の輸出量はそれまでの世界の総輸出の覇者・英国を凌いで世界1位となった。
 日本のすべての繊維品輸出の稼ぎ頭は綿布であった。1932年、その輸出量は20億9,000万平方ヤードと世界最高を記録した。こうして日本が達成したものこそ、日英間の貿易紛争を尖鋭化させ、それは特に英連邦市場を舞台に演じられることになった。英連邦諸国が公然と対日貿易差別の圧力をかけ始めたのも、この頃のことであった。(『対日経済封鎖』から)
<カナダとの関税戦争>   英連邦領のカナダは1846年、英国から関税自主権を獲得し、1906年の日加通商条約によって、日本との貿易を開始した。1911年、日本は日英通商条約によって関税自主権を回復するが、この条約が1906年の日加通商条約に基づく日加経済関係を規定することとなった。この日英条約は一般的にいって、日米通商条約よりも詳細な条項を整えていた。例えば、1924年の米国の対日移民法にあるような人種差別を、カナダがすることを許さないような細かな規定を持っていた。
 1910年代から30年代にかけて、カナダの対日貿易政策には3つの特徴があった。第1に、一般的に友好的であり、貿易拡大を望んでいた。第2に、その政策は、自由党政権下の自由貿易と保守党政権下の保護主義との間を揺れ動いていた。こうした動揺は関税改訂に直接的な影響を及ぼした。第3に、1920年代の半ばからカナダは、米国やその他諸国よりも宗主国と英連邦諸国に有利な県税改訂を行っていた。
 カナダの対英連邦および対米貿易を合算すると、」1913年から37年までの間、輸入の87%、輸出の78%を下回ることはなかった。この両地域以外の輸出入に占めるシェアはいわばその余りに過ぎなかった。日加貿易も、その”余り”のまたほんの一部分で、1913年から25年までの間にはカナダのそれぞれ0.4%を占めるだけであった。 (『対日経済封鎖』から)
<新政権の関税改訂>   さて、第1次大戦後、英連邦と米国という大きな市場に恵まれてカナダの貿易の伸びは目覚ましかった。1929年には10年前の2.4倍になった。この伸び率は、同期間の日本貿易の4.4倍に次いで世界第2位の高率であった。日加貿易はこうした2国間の貿易拡大とともに増大した。しかし、カナダの対日貿易はこの最盛期でも総輸出額の2.7%、総輸入の2.3%にしか過ぎなかった。
 日本は最恵国待遇のお蔭で、1929年まではカナダと友好的関係を持ち続けた。1922年、仏加互恵条約が締結されてから、この条約にもとづいた関税引き下げが日本製品に対しても適用された。イタリア、ベルギー、オランダ等5カ国も同じ恩恵を受けた。
 この好条件に支えられて、日本の主な対加輸出品である生糸、絹繊維品、陶磁器、および茶にかけられた関税率は、平均よりも低かった。日本製品への関税率は、米国を含む英連邦以外の諸国の商品にかけられた中程度の関税よりも低率にする、という特別な合意があったからである。したがって、例えば日本製絹布への関税は、米国製絹布に対してよりも低かったから、カナダ市場では日本絹布は強い競争力を持っていた。カナダに輸入されていた米国絹布は日本生糸を原料として生産されていたので、その点でも日本絹布の方が優位であった。
 1926年、カナダの自由党政権は第1次大戦以後の高関税を見直し、引き下げに踏み切った。それは英連邦との連繋を強化することが狙いだった。カナダのとって帝国特権を強化するには2つの方法があった。1つは、英国と英連邦諸国からの輸入品の関税引き下げであり、もう1つは、英連邦以外の国への関税引き上げであった。時のカナダ政府は貿易の自由化と拡大を意図して、関税引き下げ政策を選択したわけである。(『対日経済封鎖』から)
  1930年9月、保守政権に変わったカナダは、貿易上の難問題の緩和を図るため新たな貿易政策を打ち出した。その狙いは帝国特恵低関税の優位性を強くする(関税率格差を大きくする)ことにあった。新政権は、英連邦以外の諸国から輸入された130品目以上の商品の関税を引き上げるとともに、英連邦に対して帝国特恵の一段の強化を約束した。1922年の仏加互恵協定に含まれていなかった多くの日本商品への関税は、この引き上げの対象となった。
 この関税の改訂には2つの目的があった。第1は輸入に際してダンピングを防止することであった。第2は、国際連盟非加盟国からの輸入はいつでも禁止できる権利を保留することであった。これは、ドイツとソヴィエト連邦からの輸入を制限するためのものであると説明された。
 カナダ政府は政治経済上の目標により1歩近づくため、1930年11月、630品目にわたる非英連邦諸国産品への関税引き上げを実施した。こうして一般関税率は引き上げられることになった。
 同時に、カナダ政府は次の3点に関して新関税法を制定した。
 (1) カナダ製品と「類似する」輸入品には特別従価税を課すこと。
 (2) 帝国特恵と一般関税率の差を大きくするためにダンピング関税をかけること(これによって、日本製品は重大な影響を蒙ることとなった。)
 (3) 帝国特恵関税は帝国法令によっていつでも引き下げられること。
 この関税改訂は1931年7月から実施され、非英連邦諸国、なかでも日本にとって厳しいものとなった。
 1932年のオタワ会議以降、カナダは非英連邦諸国に対して225品目の一般関税と80品目の中位関税を引き上げる一方、英連邦内の諸地域、例えばオーストラリアやニュージーランド、南阿からの輸入品30品目から50品目に対して、英連邦内特恵低関税を与えた。
 主な輸出品がこの関税引き上げの対象となった日本は、カナダに対して、帝国特恵を英連邦諸国に与えることは、日英通商条約および日加通商条約の最恵国待遇条項とは相容れないと抗議した。こてに対してカナダ政府は、それらは何ら矛盾するものではないと応酬した。(『対日経済封鎖』から)
<日本は差別の”標的”とされたか>   最後に、まだ残っている疑問が1つある。カナダが独自の政府公定為替レートによって輸入品に税関評価を行ったことは、差別待遇であったかどうかという点である。というのは、日本側の政府資料にしばしば述べられているように、カナダ政府の基準(対金カナダ為替の下落率よりも5%以上下落した通貨国)に該当する18カ国のうち、適用されたのは6カ国からの輸入品だけだったからである。
 しかも、問題になるのは日本はその6カ国の中で他の5カ国以上の差別待遇を受けたかどうか。それは日本側の資料が繰り返し主張していることであるが、その記述には信憑性があるのかどうか。
 次のような結果をもたらした牽引に遡って考えれば、結論は2つの点で肯定的である。
 第1に、公定為替レートを適用された6カ国の中では、日本からの輸入額がその他の5カ国の総輸入額よりも大きかった。したがって、カナダの税関評価とそれに基づく2つのダンピング関税は他の5カ国の製品よりも、日本製品により広範囲に、より頻繁にかかる結果となった。
 第2に、日本商品に対する税関評価とそれに伴う極端な2種類のダンピング関税はカナダ側から始まったことである。日加関税戦争は明らかにカナダの方から生じてきた。
 しかしながら、カナダが日本を差別待遇の”標的”にしたかどうかは曖昧である。
 この点はカナダの税関の処置の特殊性にも由来している。輸入品が港に陸揚げされると、税関吏たちは時にはダンピング防止関税をかけたが、これらについて政府高官は何らの決定や命令も下さなかったばかりか、ダンピング防止税に関する規約も規則も明文化されていなかった。手引き書や確立した命令の数が少なければ少ないほど、ダンピング防止課税の件数は増加する傾向にあった。直接輸入品を扱う官吏たちはそうした規則・命令がないので、関税処置を恣意的に行ったからである。
 米国の関税に関する専門家W・Aシーヴェイ氏は次のようなことを指摘している。カナダの関税制度は機械的にかかる性質のものであったために、大西洋側の他地域と比べてより頻繁にダンピング防止関税がかけられやすかった。日本からの輸入品の額は他の5カ国の総計よりも多く、また数量も多かったから、カナダのダンピング防止関税は自動的に日本商品に最も重くかかった。こうしたカナダ関税制度の傾向は、日本商品への関税にも明らかにあてはまる。したがって、これは1部はカナダ関税制度の性格にも由来していた。(『対日経済封鎖』から)
<通商交渉における日本の当惑と未経験>   本節を終えるにあたって、余りにも長い時間が投じ、無為に過ぎてしまったことに胸を打たれる。日本は驚くべきカナダの貿易障壁、一方的に禁止的な高率関税障壁のもとに、実に4年もの間置かれていたのである。1990年代の初めに生きる私たちの眼から見れば、ある経済分野で国際競争力を身につけ、輸出が伸びている発展途上国(当時の日本)が他の分野、すなわち国際政治と外交の面でもまた、経済分野と同じような能力を持っていたと思うことは悲劇的な誤りであった。当時の日本人が、経済のダイナミックな発展過程で次々と生じて来る貿易上の全く新しい問題を処理していくには、ある経済分野での生産技術と生産力で追いつくよりも、一層長い時間を要した。
 こうした貿易問題を処理しやすい方向へ向け、話し合いで解決させていくためには、日本の代表たちがもっと国際政治経済と法律の実際の取扱方について知っておく必要があった。特に、彼らは明文化されてはいないが、国際間では一般的に実施されていたこと、また習慣および死文書となった事柄を知らなかった。経済環境が急速に変貌する過程で、こうした習慣や慣例、それらの実際の扱い方は変わったし、変わり続けていたのである。
 こうした問題に踏み込んでいく代わりに、日本側の文書はただ先進国カナダのとった措置を非難し、嘆くにとどまっていた。それらの公文書の中には、カナダが税関評価をし、ダンピング諸関税をかけたことは、1911年の日英通商条約の中の最恵国待遇(MFN)条項に明白に違反すると記されていた。当時の後発国である祖国のために問題を取り扱った人々は、彼らの個人的能力や長年の経験や年齢などにかかわらず、その若い国自体の経験の少なさを一般的に反映していた。
 例えば、日本の公文書に示されたものは日本人たちの当惑である。カナダが1922年に、日本からの輸入品に最恵国(MFN)待遇で関税率を引き下げたが、それは英連邦の帝国特恵待遇の効力外であるとしたこと、そしてこの最恵国待遇の好意的な解釈は1930年代初めに突然断絶し、英連邦帝国特恵の名のもとに日本商品に対して差別的な税関評価をし、輸入禁止的な諸関税をかけてこた。これは日本側の理解を超えるものだった。そしてカナダ政府は、税関評価およびそれに続く高率諸関税の日本商品への適用は、最恵国待遇条項とは何ら矛盾しないと繰り返し言明した。しかし、日本側には同じ最恵国待遇の下で前回とは、全く相反する差別が今回実施されていることが納得できなかった。彼らは帝国特恵が最恵国待遇と両立できない理由も見つけられず、ただ最恵国待遇条項の原則について大真面目に議論するだけだった。
 J・ヴィナーによれば、すでに1920年代に帝国特恵の適用と最恵国待遇とが一般的に両立していた。30年代には最恵国待遇条項の有無にかかわらず、帝国特恵を提要する例が一般的となっていた。日本側がこのことを知らなかったのは明らかである。そして、条約の元の原則の解釈に留まっていた。
 当時の日本が、今日の発展途上諸国のように、西欧に追いつこうと努力する共鳴国を持っていなかったことも孤立する要因の1つであった。そのため、他の途上国と共にグループをつくり、欠けていた国際貿易の知識を分かち合うことも、獲得することも、数を増やして声を大にすることも出来なかった。日本は、西欧にやっと追いつきかけた唯一の国であった。こう考えると、当時の日本が受けてきた貿易差別は、西欧に追いつこうとした途上国のパイオニアとして支払われなければならなかった代償であったかも知れない。
 後日、1976年の東京ラウンドのガット(関税貿易一般協定)規則は、関税をかける目的で輸入品に在官評価価格をつけることは違反であるとした。税関での輸入品の価格は、取引価格でなければならないということである。しかし、1986年になっても、この税関評価制度を採用している国(例えば韓国)があったことはよく知られている。
 また今日では、ダンピングが見つかった場合には、ダンピング防止関税の額はダンピングした分だけであり、その額は取引価格の2分の1以上になってはならないこともガットで定められている。1969年、カナダ政府はその歴史上初めて、国内産業保護のための関税を実施する前に、輸入によって受ける実質的な「損害」や脅威について証明するようガットから要請されたのである。 (『対日経済封鎖』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『昭和経済史』上                   有沢広巳監修 日本経済新聞社  1994. 3.11
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社   1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書     1992. 1.25
( 2008年10月20日 TANAKA1942b )
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(10)英連邦諸国などとの貿易戦争
オーストラリア、オランダ、インド、エジプト他
  今週は第1次大戦後にオーストラリア、オランダ、インド、エジプなどの国々が日本との貿易に対してどのような政策を採ったかを扱う。これらの国々は英国の影響下にあった。日本とは必ずしも友好的な国であったとは言えない。と言ってもここで扱うように初めから敵対的であったわけではない。日本が国際連盟を脱退したことがきっかにになっている。ということは、日本が諸外国と友好的に交際するにはどうすれば良いのか分かっていなかった、ということになる。日本が国際連盟脱退という種を撒いたのだが、それが貿易に大きな影響を与え、日本に対する貿易差別を正当化する口実を与え、結果として日本が保護貿易の被害国になっていくことになった。今週はこうした事情を扱うことにする。国際連盟脱退という政治的な面の評価はここでは行わず、専ら経済面、それも貿易という観点から扱うことにする。
<カナダより高率の関税=オーストラリア>  1926年から37年の間、オーストラリアの世界経済に占める地位は輸入で2%、輸出で1.5〜2.3%である。
 1921年、オーストラリア政府は、戦後の国内経済の好況を維持させるため関税改訂を行った。その中で日本に関するものは次の2点であった。
 第1は、英連邦特恵関税を適用する二重関税制度を創出したことである。第1次大戦中に始まったオーストラリアへの英国の投資を引き続き促進した。この英国の対外投資は年間430万〜580万米ドルに達し、1918年から29年の間にオーストラリア貿易額をほぼ倍増させた。
 第2は、国内幼弱産業を保護するための関税引き上げであった。もっとも、第1点との絡みで、英国に対しては国内産業の保護はそれほど厳しくはなかった。
 この結果、オーストラリアの関税のかけ方は3つに分類された。税率の高い方から順に書くと次のようである。
 (1) 一般関税。非連邦外国一般にかかる。
 (2) 中級関税。英連邦内自治領と植民地およびオーストラリアと貿易協定を結んでいる国の商品にかかる。
 (3) 英連邦特恵関税。英国および英連邦内からの特定の輸入品にかかる。
 したがって、英連邦からの産物を除くほとんど全ての輸入品に一般関税がかかった。一般関税とと途中級関税とでは、5%から15%の従価税率の開きがあった。さらに、中級関税と英連邦特恵関税との間には、やはり同じ幅の従価税率の違いがあった。したがって、英連邦特恵関税は一般関税よりも10〜30%低かった。
 日本にとっては、かたくなに保護主義を取り続けるオーストラリアは難しい交渉相手であった。一般的に日本商品にかけるオーストラリアの関税はカナダよりも高率であった。カナダは1922年から30年までは日本に友好的で日本商品には少なくとも最恵国待遇の中級税をかけていた。
 オーストラリア政府は1926年、非英連邦諸国の80品目に対する関税を引き下げた。29年にも再び52品目の関税引き下げが実施された。これは、関税諮問法にもとづいて設立された関税審議会の推薦による7ものであった。しかし、この期間に日本の主な輸出品目の関税が引き下げられることはなかった。 (『対日経済封鎖』から)
<日豪貿易不均衡の要因>  日本の輸出に占めるオーストラリアのシェアは1926年で2.5%であった。1934年には9%まで成長した。オーストラリアの保護主義が強まると、日本の対豪輸出は37%には4.4%へと低落した。
 オーストラリアにとって、日本のシェアは小さかった。1929年は3.5%、32年には少し増えて4.4%、そして35年にはまた低下して3%となった。
 貿易収支は常にオーストラリア側に有利であった。1935年まで日本の対豪輸出額は年々拡大していたが、赤字は累積するばかりであった。貿易収支赤字は26年の3,600万ドル、29年4,000万ドル、そして35年には、日本側の輸入は輸出の3倍はあった。
 対豪貿易不均衡の原因は専ら両国の商品構成にあった。日本は輸出に必要な原料品としての羊毛と屑鉄の輸入を増加させた。その他に食料品もあった。それに対して、日本の主要輸出品は繊維製品であった。
 第2の要因は、オーストラリア側の財政と経常収支の赤字に起因する強い貿易規制であった。加えて1932年以降、非英連邦諸国からの輸入品に対する一律特恵関税との格差を強化するため高い関税をかけることになったから、日本の貿易赤字はますます拡大した。 (『対日経済封鎖』から)
<蘭印をめぐるオランダとの確執>  1928年から37年の間に、日本の輸出の72%はアジア向けに出荷されたが、重要なことは、そのアジア向け輸出の88.5%が工業製品であったことである。この比率は、同期間に日本から全世界に出荷された工業製品が総輸出額の36%であったことと比べると、際立って高いことがわかる。生糸輸出の回復に望みがなくかった後には、工業製品の輸出こそが、資源の乏しい日本の経済発展を推進するための戦略的なカギを握っていた。蘭領東インドは、1931年以前の中国と33年までの英領インドに次いで当時の日本の工業製品輸出に重大な役割を果たした市場であった。 (『対日経済封鎖』から)
<目覚ましい蘭領東インドへの輸出>  日本と蘭領東インドとの貿易は、1912年の日蘭通商条約の締結によって幕を開けた。この条約の最恵国待遇条項にもとづいて、すでに1872年に結ばれていた英蘭「スマトラ」条約にもとづく特権が日本からの輸入品にも適用された。オランダはこの植民地に対して何ら帝国の特恵権を主張していなかった。1924年までは日本製品はオランダ製品と同率の5%の従価税をかけられただけであった。
 日本と蘭領インドとの貿易について考慮しなければならないのは次の4点である。
 (1) 日本からの輸出は急速に伸び、特に工業製品の成長が著しかった。
 (2) 同時に、この地から日本向け輸出は極めて少額であった。したがって、1926年から37年の間に貿易収支はほとんど常に日本側に有利であった。
 (3) ところが、このオランダの植民地は1933年から日本商品に対して極端な差別を加えた。
 (4) この対日差別の底には、オランダ本国が、英国が金本位制を離脱した後も金本位制に固執し続け、オランダ」通貨とその植民地通貨を国際的に過大評価し続けたことがあった。
 以上の点についてこれから順を追って見ていくことにする。
表 オランダ領東インドの主要国からの輸入額シェア  (単位:%)
年\国 オランダ 日 本 英 国 米 国 ドイツ
1926 33.3 1.6 17.5 2.1 6.6
29 19.7 10.6 10.8 12.1 10.7
32 15.8 21.3 9.6 9.6 7.7
37 19.1 25.4 10.3 10.2 8.5
[資料] 外務省、前掲書、1039-40頁 
 最初に、表に示された日本の輸出の急速な成長ぶりである。統計の数字はオランダ領東インド側のもので、総輸入額に対する主要諸国のシェアである。日本側の統計による総輸出に占める蘭領東インドのシェアは、1928年の3.7%から33年の8.5%へ増加し、同年がピークであった。
 日本からのオランダ領東インド向け輸出は、ヨーロッパからの船荷が低減した第1次大戦中に増加し始めた。貿易開始後、20年間にオランダ領東インドへの日本の輸出は急増した。日本のシェアは、表のように1913年の1.6%から32年の21.3%へと拡大し、オランダ本国に対抗する最強の競争国となった。
 その間、オランダ本国からの輸入は1913年の33.3%から32年の15.8%へと半減以下となった。32年までに日本はオランダ領東インドへの最大の輸出国となった。
 自由貿易時代の1924年に、オランダ本国政府はこの植民地の関税を改訂した。大部分の輸入商品には12%の一律関税を、残りのものには関税10%をかけた。しかし、これは高率関税ではなかった。この関税改訂にもかかわらず日本からの輸出は伸び続けた。
 1932年に至るオランダ領東インド市場への日本からの輸出増は、明らかに他の交易諸国、特にオランダ本国と英国を犠牲にしたものであった。前掲表に見られるように、日本のシェアの上昇と対照的にオランダと英国の地位は低下した。オランダ領東インドは小さい市場ではあったが、日本は常に輸出超過を享受していた。 (『対日経済封鎖』から)
<宗主国の地位の低下>  日本のオランダ領東インドからの輸入は少なかった。1913年にはこの植民地からの輸入は日本の総輸入額の5.1%であったが次第に低下し、29年には3.5%となった。オランダの日本商品に対する差別が最も激しくなった1937年には、懸命に日本への輸入を増やしてやっと4.1%になった。日本の主な輸入商品は次のとおりであった。
 (a) 砂糖
 (b) 石油
 (c) ゴム
 これらの商品の日本向け輸出の停滞とは対照的に、他の主要国向け輸出は伸びていた。米国向け輸出は急増し、オランダ領東インド輸出中のシェアは、1913年の2.2%から37年には18.7%にものぼった。同期間にシンガポールへの輸出がオランダ本国に次いで2番目の高額にのぼったが、37年にはマラヤが最大の輸入国となった。
 オランダ本国は英国が1931年に金本位制を離脱した後も、それに固執していた。1933年6月に米国議会はドルの平価切り下げを決め、7月にはロンドン国際経済会議が決裂した。その間、オランダはフランス、スイス、ベルギー、イタリアおよびポーランドと共に、金ブロックの一員であることを宣言した。だが、オランダの通貨ギルダーの対外価値は過大評価されていた。このため、オランダ領東インドからの主な輸出品である砂糖、石油、鉛、それにゴムの価格は、国際的に割高となった。日本がオランダ領東インドから輸入する商品類は、価格弾力性が高かったから他の外国品に代替され、日本が輸入を増やすことは難しかった。後になってオランダ政府は、金本位制を維持することは同国の国際金融市場での地位を悪化させるだけであると悟るのである。
 1930〜31年末までの間、日本もオランダも金本位制の下にあり、日本の100円は114ギルダーから122ギルダーの間を上下していた。日本が金本位制を離脱すると円為替は急速に下落し、100円は1932年に約70ギルダーとなり、33年にはほぼ50ギルダーとなった。円が下落するにつれて日本の対オランダ領東インド貿易収支の出超額は増大した。1930年の約300万ドルから32年の1,600万ドル、そして33年の2,600万ドルへと伸びた。日本側の統計では、1933年にオランダ領東インドのシェアは、輸出は6.5%と最高レベルに達し、一方、輸入はわずか2%に留まった。
 オランダ政府としては、外貨準備の涸渇を避けるために自由貿易を捨てざるをえなくなっていた。さもなければ、金本位制も維持できない状況に立ち至っていたからである。かくて同政府は、輸入制限のための法令と訓令とを立て続けに発するようになるのである。 (『対日経済封鎖』から)
<日本商品に厳しい輸入規制>  1033年6月に立法化された緊急輸入制限法は、オランダ製品に関税特権を与えるもので、9月から実施された。この法律にもとづいてオランダ政府は、輸入品が輸入量または額のいずれかで一定水準を超えた時には、政府訓令によって輸入を禁止できるようになった。この措置は、海外諸国の通貨切り下げによる損害から国内産業を保護するためのものであると説明された。
 そして、この緊急輸入制限法にもとづいてセメント、ビールおよび繊維製品の輸入規制訓令が発せられた。次いでその他の製品にも次々と輸入規制が発動された。
 [セメント] 同年9月、セメントの輸入制限令が出された。その月のうちに日本とオーストラリアの生産者は、セメント輸出の自主規制について私的相互協定を結んだ。これは今日の輸出自主規制(VER)に相当するものであった。
 [ビール] 国内のビール醸造業者を保護するため、輸入数量を割り当てるビールの輸入規制が12月に行われた。割り当て数量は1932年の各国別輸入量にもとづいていた。日本のビールの輸入は33年になって急造したのであったから割り当て量は低く抑えられた。
 [繊維製品] 1934年2月、「綿製品緊急輸入制限」と未晒し綿布「緊急輸入制限」の訓令が発動された。この結果、オランダは繊維製品の輸入に大きな割当量を獲得することになった。 オランダ当局は、繊維製品の各国への輸入割当は平等に行われたと説明したが、輸入は許可制になっており、許可が与えられる貿易会社はヨーロッパの商業組合の会員でなければならなかった。この最後の条件にかなう視角を持った日本の輸入業者は、三井物産を筆頭としてわずか3社であり、許可を受けた業者への輸入割当量は1930年の輸入高によって決まられた。日本の繊維製品輸出はビールの場合と同様に、この基礎年度(1930年度)より後に成長していたため、こうした輸入許可制度は日本からの輸入抑制に強力に働いたのである。
 日本の商社の人たちはこの問題をオランダ当局に訴え出たが、オランダ側は重要ではない規則の数カ所を訂正しただけであった。すまわち、「オランダ領東インドに長期間居住していた外人に対しては、適切な輸入割当をする事が加納である。ただし、次の諸条件を満たしていなければならない。第1に、当局は特別委員会の会員に諮問する。第2に、委員が申込人をその品物の輸入業者であると認めた時に、委員会はその承認をもらうために経済担当長官に提出する。第3に、新しい適切な量の輸入割当を与える前に、現在の輸入業者の利害を考慮する。第4に、日本人ディーラーに与える輸入の割当総量は、その商品の各年の日本からの総輸入の25%以内である」。「しかし、第5に、輸入制限を受けている商品の新輸入業者はヨーロッパの商工組合のメンバーに9限定される」というものであった。
 このように、厳しい規制条件には本質的には何の変更はなかった。
 こうして、日本のディーラーは輸入数量を抑えられたため、オランダ領東インド市場への日本商品の輸出は低減 し、オランダの貿易商社が最大の利益を得ることになった。 (『対日経済封鎖』から)
<エジプト、中近東諸国との貿易=暫定協定下のエジプトとの貿易>   1923年に英国から独立したエジプトは新憲法を発布した。日本はエジプトとの間に条約を締結していなかったので、交易は容易なものではなかった。例えばエジプトは1884年のギリシャとの通商条約で、ギリシャからの輸入品には従価8%の低関税を課したが、通商条約のない日本との煙草には高関税が課せられ、エジプト向けの輸出は消滅していった。
 1930年にエジプトは新関税法を創設し、条約を結んでいない国からの輸入品への関税は、条約国の品目に課す関税の2倍という複関税を採った。
 当初、日本は領事権と通商権の両方について最恵国待遇(MFN)を含む条約を締結しようと望んでいた。しかし、これは難しかった。日本からの輸入品は差別待遇を受け、輸出は停滞した。1930年3月、日本は通商上の最恵国待遇を保障するだけの暫定協定を結んだ。
 エジプトの輸入に占める日本のシェアは、1926年には1.6%という些細なものであった。それに対して英国は21.8%であった。他にはフランス、ドイツ、イタリア、米国、ベルギーおよびルーマニアが主な国々であった。1937年に日本はシェアを4%へと伸ばした。ドイツは11%、イタリアは8.6%、米国は5.6%とシェアを拡大したのに対し、英国は21.2%と現状維持にとどまった。しかし、このシェアの絶対的大きさからみても、英国は独立後のエジプト経済に大きな影響を与えていた。
 日本のエジプトからの輸入も少なく、1926年にエジプトの総輸出高の3.8%であった。それも37年 までは6.1%まで伸びたが、英国の30.9%には及びもつかなかった。エジプトにとって英国は最大の輸出先であった。 (『対日経済封鎖』から)
<対日通商取り決め破棄で国論二分>   英国に通商使節団を派遣した後、エジプト政府は1935年7月18日、互恵最恵国待遇を含む1930年締結の日本との通商暫定取り決めを破棄すると発表した。その結果、日本との通商取り決めに則って3ヶ月の猶予期間の後、日本綿布と人絹布に対する為替補償関税の40%付加を実施するとした。(中略)
 エジプト政府は、通商取り決めの破棄通告から生じうる両国間の関係悪化をできるだけ避けたいと望んでいた。そして、国内の反政府世論に一歩譲って、破棄通告にもとづく3ヶ月の猶予期間の終わりに、新しく恒久的な根拠にもとづき将来の日本とエジプトの取引に役立つ新協定について交渉することを明らかにした。
 エジプト政府は、3ヶ月後の破棄までの猶予期間中の日本商品の輸入については、最近3年間の平均輸入高を基に許可するとした。それ以上の輸入には高率関税が課された。これによって日本とエジプトの貿易収支を均衡させ、またエジプトの繊維製造業者を保護することが目的であると発表した。(中略)
 1936,37両年の貿易収支は、付加関税と日本側の輸入増加によって今やエジプト側に有利となった。エジプト関税の統計によると、36年の日本綿製品の輸入減は、チェコスロバキア、ベルギー、英国からの輸入増によってほぼ埋められていた。
 1937年以降、日本のエジプトとの貿易収支は大幅な赤字となった。エジプトのようになるかに遠くの国との、また比較的規模の小さい交易では珍しいことであった。 (『対日経済封鎖』から)
<中近東、アフリカ諸国の対日差別の実態>   パレスチナおよびシリアと日本との交易もエジプトの場合と似ていた。日本が国際連盟から脱退したために、日本からの輸入の成長を抑える差別措置がとれるようになったとしている。こうした諸国からみれば、」連盟からの脱退は行き過ぎた 行動であった。それによって、日本は国際政治上も通商上も、対等の立場から差別待遇を受けるものへと地位を転落させたと、パレスチナおよびシリアからの報告書が次のように記している。
 「以上が、ベイルートとエルサレムにおけるシリアおよびパレスチナ商人たちが関連する大国の高官に今回頼み込んでいる理由である。シリアとレバノンでは、フランスの代表者が関税の大幅引き下げを決定したばかりであったが、日本製品にかける最低率の関税をそのまま維持すれば、日本の進出はシリア繊維業界にとって最大の脅威となる。エルサレムでも同じような恐れと反応を占めしている」
 イラクも全く同じ状況であった。バグダット政府とトルコ駐在日本事務官との間で、両国間の通商条約に関して重要な交渉が行われた。
 イラクは、外国に与えた石油採掘権から豊かな収入を得ていたが、開発の可能性について急速に目覚め、必要品の輸入が増加しつつあった。日本はこのような海お初の兆しと情勢の変化をいち早く見抜いていた国の1つであって、イラクへの輸出は急増した。これに対しイラク政府は、日本は些かの穀類以外にも貿易収支を均衡するためにもっとイラクから輸入すべきであると主張した。
 この時までには、すでに中近東諸国全般に日本の自由な市場拡大を抑えるための一連の国内幼弱産業保護政策がとられていたのである。
 中近東とアフリカ諸国は、日本が国際連盟を脱退したことによって差別待遇を受けるのは当然とし、幼弱産業を保護するために堂々と日本の貿易に対する差別措置を手を携えて採用した。
 パリの米国大使館からの報告の覚書には、以上の事情を次のように記している。
 「日本が国際連盟の一員に留まる限り、すべての加盟国とおなじく、条項に記されている通りの関税と通商取扱上の平等を保証されていた。防衛的意味でのいかなる差別措置をとられる可能性もなく、また実際そうすることも出来なかった。しかし現状は、法的にも実際的にも、もはや一変してしまった」
 これらの発展途上国の人々は、日本の国際連盟脱退を対日貿易差別を正当化するものとして利用した。それはこの地域の人々にすれば自分たち自身のためであり、国のためでもあった。日本よりも後発性の強かったこれら発展途上国と日本との間の繊維工業における技術水準格差の狭さと生産力の大きさもまた、こうした国の国内産業への脅威を日本がもたらしたことになり、反日的に働いたのであった。そうした国々の市場に日本商品が──小さい技術上の格差をもって──流入し、民族精神を目覚めさしたとも言えるのである。 (『対日経済封鎖』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
( 2008年10月27日 TANAKA1942b )
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(11)新天地ラテン・アメリカへの進出
日本の繊維製品と発展途上国産業との摩擦
 今週はラテン・アメリカと日本との貿易関係について扱う。世界恐慌の影響で、諸外国は保護貿易主義を採るようになった。国内産業を守るために、高率関税を採用したり、特定の商品に数量規制を設けたり、特定の国と排他的な互恵条約を結んだりと、各国政府は知恵を絞って保護主義を貫き通した。日本は、四面楚歌の様な状況であった。そうした状況でラテン・アメリカは新たな輸出先として期待された。そうしたラテン・アメリカ実際はどうなったのだろうか?『対日経済封鎖』から、ラテン・アメリカの状況について扱うことにする。
<ラテン・アメリカ>   日本は少しでも貿易摩擦の生じる可能性の少ない国々を探した。そしてラテン・アメリカこそこそ新手であると期待したのである。そこでは、大英帝国内の市場で日本人がなめた貿易障壁の辛酸を避けることが出来るかも知れないし、またうまくいけば、その辛酸を一部埋め合わせることができるとの願いもあった。
 その期待は実現した。より自由なラテン・アメリカ市場で、日本の輸出の伸びは目覚ましかった。そこでの日本の輸出の急速な成長は、まず、新しい海外市場を見つけたいとの努力の賜物であり、日本産業の生産力の向上にもよっていた。しかも、それはラテン・アメリカの人々の要望にも沿うものだった。
 日本の商品がラテン・アメリカの人々の極めて強い需要を引き出した要因は、価格の安さであり、所得の低いラテン・アメリカの人々の好みと必要にちょうど見合っていたからであった。この点に関して、2つの異なった見方が明らかにされている。1つは「もし、すべての日本商品をこの地から締め出したとしても、その代わりに高価な米国製品が売れることはない」という見方である。
 もう1つは、「ラテン・アメリカ市場に日本製品が急速に浸透したのは、ただ廉価なためだけである」というものである。
 以下、ラテン・アメリカ市場では日本製品の価格づけがどのように作用したか。また、価格の安さだけが日本製品の輸出成長の原因であったかどうかを検討してみる。
 日本が中国、米国および大英帝国内の諸市場への輸出減少を経験してから、ラテン・アメリカ向けの船荷は増加した。日本のラテン・アメリカ向け輸出は1935年にピークを迎えるが、その成長も、日本の商品輸入に対する厳しい規制と差別待遇によって短命に終わった。(『対日経済封鎖』から)
<2国間貿易均衡制度の導入>   1934年に日本の輸出業者は、ラテン・アメリカ諸国が日本商品への輸入規制を始めるであろうことを見越して、早くもそのための対策を練り、ラテン・アメリカ諸国への経済使節団の派遣などを後援した。
 また同年、日本の外務省と商工省はラテン・アメリカ諸国への輸出手数料を財源の1つとして、この地域からの輸入に奨励金を与えることを決定した。
 しかし、このように儲けの大きいラテン・アメリカ市場に対する日本工業製品の輸出ドライブに突然くびきがかけられた。ラテン・アメリカ諸国の貿易収支が急激に悪化する懸念が増加したからである。ラテン・アメリカ諸国には貿易赤字の増大を支払う余裕がなかったため、日本に対して輸入数量を割り当て、関税を引き上げ、また種々の規制を実施した。
 ラテン・アメリカ市場で、西欧の既得権益グループおよび国内生産者と日本との間で貿易摩擦の対象となった商品は、ごく一部の工業品目に集中していた。それは綿および化学の繊維製品、電球、ピンセットのような医療器具、化学器具などであった。
 ラテン・アメリカ諸国はすでに保護主義を採用して、財政ならびに貿易収支の赤字の緩和に努力していた。まずチリが最初に2国間貿易均衡制度──日本からの輸入品は日本への輸出額で支払わなければならないこと──を実施した。ペルー、コロンビア、メキシコがこれに続いた。米国とより緊密な連繋を保つこれらの国には、日本と新しい貿易関係を築きたいという気持ちはそれほど強くなかった。それはこれらの国の歴史的地理的位置を考えても分かることである。(『対日経済封鎖』から)
<もう1つの貿易摩擦>   ラテン・アメリカ諸国民に「日本のダンピングの汚なさ」を信じ込ませたのは、米国とヨーロッパの輸出業者であるという報告がある。1935年5月16日付の『中外商業』は米国の商人がラテン・アメリカ市場への日本の輸出を妨げる運動を煽っていると、次のように報じている。
 (1) 日本商品の輸入が着々と増加しているため、米国人実業家と製造業者グループは、ラテン・アメリカ諸国における彼らの利益がやがて損なわれることを恐れている。したがって、この地域への日本商品の流入を妨げようとする動きが始まった。
 (2) 米政府は、せかいけいざいの大恐慌からの脱出をはかるため、貿易障壁の撤廃を検討する国際会議の開催を提案したと伝えられている。米国とラテン・アメリカ諸国との間に互恵協定が実施され、双方にとってすべて有益な展開となっている。私たちは、米国とラテン・アメリカ諸国との間益が日本の貿易に与える影響に調査するつもりである。
 この記事はラテン・アメリカ市場における日本と先進諸国との競争におみ目を奪われて、もう1つの摩擦を見落としていた。実はラテン・アメリカでは日本は2つの貿易摩擦に直面していた。日本の工業製品は米英等の先進工業国の製品に代替しつつあったが、それに加えて、この地の品質の低い幼弱産業とも競合していたのである。
 アルゼンチンとブラジルの対日姿勢は、他のラテン・アメリカ諸国民のものとは少し違っていた。アルゼンチンと日本との交易品目は、両国の経済発展に伴って次第に相互補完的な構造になってきていた。また、ブラジルには多くの日本人移民がいた。しかし、この両国も、日本からの輸入の成長が危険水域に近づいたとみて規制を強化した点では、この地域の一般的な趨勢の例外ではなかった。
 このように、ラテン・アメリカ諸国はこぞって日本製品に輸入規制を加えたが、多くの消費者が日本商品を購買していたため日本商品の販売量はしばらくの間は伸びていた。しかし、やがてそれも減少に転じていったのである。(『対日経済封鎖』から)
<ペルーの幼弱産業と日本製品>   1916年から1934年までの毎年、日本はペルーとの貿易で外貨を稼いでいる。しかし、黒字額はわずかであった。1934年 の最高の黒字額でも2,500万ドルである。サービス部門でも、同時期の収支は日本に決定的に有利であった。それはすべての貨物は日本の貨物船で運び、それを取り扱う人々も主として日本の商業利権の支配下にあったからである。
 1933年以降、ペルーにはあらゆる種類の日本の工業製品が競争にもならないような低価格でなだれ込んできた。
 日本からの輸入品は主に綿製品であり、1929−37年の間にその額はペルーの日本からの輸入額の50%以上に達した。反対に日本への輸出はわずかのペルー綿だけである(同年のペルーの原綿輸出高のわずか1.44%である)。34年だけは例外で、ペルーのレテシア騒動のために鉄砲と武器弾薬を輸入した。その支払いとして多量のガソリンを日本に輸出し、対日輸出額の中で鉱物資源のシェアが急増した。
 日本商品との競争が激しくなるにつれて、国内の製造業者の抗議が拡がり、ペルーの新聞紙上では、繊維品輸入について手厳しい日本攻撃が続くようになる。
 ペルー近代産業の根幹である繊維工業が日本からの輸入の影響を受けていた。この産業に従事する人々が、彼らの存亡を賭けて輸入削減を政府に訴え、最も激しい抗議行動を繰り広げていた。ペルー国民産業協会は、過去7年間の日本の綿製品輸入の急増ぶりを示す統計と図入りの説明書を配布した。米英の製品もまた、日本との競争のために厳しい脅威にさらされていた。(中略)
 1933年以来、日本とペルーとの貿易額は相当増加したが、周囲が心配したほどには、日本のペルー総輸入額中のシェアは目覚ましい増加をみせなかった。1937年まで日本はペルーにとって小さな交8益国に留まっていた。1916年から32年までの間、日本のシェアは1.7%から2%にも及んでいなかった。輸入割当の実施以前の34年に6%に上昇し、それがピークであった。日本のシェアは、綿製品への輸入割当のためためた1935年には5.2%に減じ、36年には4%へとさらに減少した。この間、日本とは対照的に米国、ドイツ、アルゼンチンからの輸入が増加した。
 ペルーへの輸出国の中で、米国のシェアは1935年にはペルーの総輸入額の33%と前年比で6.5%も上回った。しかし、同年にシェアが最も増加したのはドイツであった。ドイツのシェア拡大は1934年以来のこPとで、それはおよそペルーとの求償貿易(バーター制)とペルー綿のドイツへの輸出増のためであった。ペルー市場では、米英にとってドイツは日本よりも強力なライバルであった。
 ペルー市場での日本とドイツのシェア拡大によって、最も打撃を受けたのが英国であった。第1次対戦前、英国のペルーへの輸出額は全体の26%から30%以上であった。それは現在のちょうど倍であり、ペルーの輸入国の第1位の座を占めていた。(『対日経済封鎖』から)
<なぜ日本が差別の標的に>   ここで、なぜ日本が差別の標的になったかを問わなければならないであろう。
 1935、36の両年、日本はペルーへの輸出増加を図るためには、輸入を増加させなければならなくなった。しかし、日本の努力は実りが薄かった。この2年間は、ペルーからの輸入を増やしても、その分だけペルーとの貿易収支が悪化しただけであった。日本綿製品へのペルーの輸入制限割当量を増加させることはできなかった。1937年、両国の貿易収支は均衡した。日本側が入超に同意しても──それが長く続くはずもなかったが──その後、ペルーとの貿易は拡大しなかった。このようにしてペルーの日本に対する輸入削減は効果的に実現された。両国の貿易は34年水準よりも低落してしまった。
 先ほどの問いを繰り返してみよう。なぜペルーは日本を差別の標的としたのか。綿製品部門に狙いを定めたペルーの対日差別待遇は、ちょうどペルー綿工業が豊富なペルー綿花を原料として、同国の工業化への先導産業として離陸しようとした歴史的時期にあたっていた。しかし、日本は主に繊維部門で極めて国際競争力が強かっただけである。綿工業で技術的には日本がペルーにほんの一歩先んじていただけであった。それゆえこの時期のペルーは、まだ日本を含む工業化の進んだ国から、綿製品を輸入していたとも言える。
 それでは、なぜ綿工業の創出が発展途上国の工業をしばしば先導することとなるのであろうか。いうまでもなく綿工業は、英国の産業革命を先導した産業であり、近代産業の中では時代を経た産業である。ただ、労働集約型で技術発展の余地が狭くなっているだけに、発展途上国が機械を購入し、技術の移転を受けるのが比較的容易である。しかも、その生産物は生活に必要な消費財であるから、価格が適当でさえあれば、いつでも国内需要がある。この産業を創設するためには投下資金も比較的少なくてすむ。このような点から、発展途上国の人々が輸入の代替を考えて工業化を図る際の先導産業として綿工業が取り上げられることが多い。
 したがって、ペルー市場で国内幼弱産業保護のために日本は差別される地位にあった。ペルーは、国内綿製品の質が日本製品と大差なく、競争できると知って誕生したばかりの自国綿産業の保護政策を協力に押し進めた。日本綿製品とペルー製品との差は、大まかに言えば後者が単位当たり費用が高かっただけであった。
 さらに、日本が繊維製品で国際的レベルに達した時には、古くから英米の繊維産業と取引を営んでいたペルーの人々は、縮小しつつあったペルーの輸入繊維市場で、彼らの昔からの取り分をどうしても守ろうとしていたのであった。(『対日経済封鎖』から)
<メキシコ市場の鋭い観察者──米国>  日本はメキシコにも輸出していた。1932年と33年の日本の輸出を観察していた米国の副領事は、日本がいかにメキシコの産業に脅威を与えているかについてワシントンに報告している。
 「日本からの輸出品は南ソノラの都市でも売られていた。その中には歯ブラシ、ガラス製ブレスレット、鉛筆の芯、安い時計など目新しい品も含まれ、日本人はこうした格安の商品を着払いで売っている。日本人のセールスマンは指示された場所に品物を届けている」
 日本商品の質について、米国領事館への情報提供者は次のように述べている。「日本のブラシ類は見かけは安物だが、良く使える。このブラシ類は古いタイプのありきたりのもので、モダンな米国製ブラシを模倣しようなどという意図はないようだ。こうしたブラシ類には生産国の表示はなく、メキシコ製品に似た名前がついている。例えば、「プロ・メキシコ(メキシコびいき)」という熟語を廉そうするような「プロメクス」という名がつけてあった」。こうして日本の輸出製品が増えていくのであった。(『対日経済封鎖』から)
<メキシコの繊維産業保護>  1934年5月、米国の別の外交官がワシントンに報告書を送っている。「世界市場で、日本は米・英にとって予期せざる敵であると言われてきた。今や日本はメキシコ市場でも競争を繰り広げている。しかし、日本がメキシコの繊維産業の存在を脅かすほどには日本綿製品の輸入が増加するとはおもわれない」と、1934年には日本からの輸入について楽観視する人々もいた。それと違って、それを苦々しく思うもいた。メキシコで米国人とメキシコ人が日本の競争力についてどのように観じていたかを次の文章が示している。「日本はその生活水準の低さのため、工業製品の生産費が安いのである」この報告者によれば、日本は何ら技術の改良に負うことなく、製造業者が労働者を搾取しており、日本人の生活水準の低さかr5あのみ生産費が安くなると述べている。したがって、日本の競争は不公正である、とこの人は記したのである。
 歴史的にメキシコは高関税に反対してきた。それは高関税がメキシコ人の生活費を圧迫する傾向があるからであった。しかし、メキシコ政府は今や自国の産業が日本人の手で潰されるのを放っておくわけにはいかなくなっている。(『対日経済封鎖』から)
<日本の競争力の源泉>  メキシコと日本の関係を見る上で次ぎの3点は興味を引くものではないかと思う。これらは別の米国人外交官がワシントンのハル国務長官に宛てた報告書から採ったものである。
 第1に彼は、米国人と競争しようとする日本人の努力を米国人のそれと比較した。米国人に比べて日本人とドイツ人は、ラテン・アメリカの人々の要求と気まぐれを満足させようと努力をしているようにみえる。日本人は、例えばレジスターの表示にメキシコ人が好みそうな色彩とか目印などを使うのが重要であると強調している。
 第2は、(この報告書によれば)殆どのメキシコ人は反日的であるが、日本製品は他の外国製品と比べて安く、この点がメキシコ人の日本への偏見を凌駕していた。一例をあげれば、日本製の医療器具や科学器具はかなりの低価格である。日本のピンセットは1ダース2.75ドルであり、米国製は1個につき1.75ドルである。この価格差(632%から772%も米国製が高い)が他の商品にも保たれている。もっとも、1935年にはこうした手術用器具の日本からの輸入はまだ目立つほどの量ではなかったが。
 第3に、日本人は利益を長期的観点から見ていると、この外交官は述べた。日本人の興味深い特徴は、医療器具などをどのような寸法、形またはタイプのものでもメキシコ人医師の要望通りに製作することである。こうした対応が商売を離れてのものであることは明らかである。何故ならば、こういうことをすれば生産費が嵩み、利益が少なくなることは目に見えているのに、日本人はデザインと政策で優れたものを作るために、世界中から新しいアイデアを受け入れようと思っている。この政策は、日本が短期間に製造業と商業で目覚ましい地位に達した重要な要素の1つであったことは疑う余地がない。
 以上は卓越した観察である。それは今日でも通じる。日本企業が長期的観点から投資決定を下すのに対し、米国では短期的な利潤率にもとづいて行うことにも当てはまる。後者はしばしば年毎の利潤対資本の比率を考慮しなければならない。それがその会社の期待株価の影響し、したがってその株式に対する株主の人気に影響するからである。もしその年の利益率が落ちれば、その会社の経営者は職を失うかみおしれない。このことが長期的観点からの決断を下すことを妨げている。(『対日経済封鎖』から)
<アルゼンチン──資源輸入のための代替国>  1932年以降、日本商品のアルゼンチン市場への進出が目立ってきた。その要因の1つは、第X章のカナダのところで詳しく触れた米国のスムート・ホーレイ法による、アルゼンチンの一次産品に対する輸入b制限である。この米国の厳しい輸入制限政策に反発してアルゼンチンは、日本をも含む東洋諸国からの輸入を増加する政策に転換した。
 日本とアルゼンチンとの貿易は双方に利点があった。日本は工業品、特に繊維製品と安い電球とを輸出し、アルゼンチンからは羊毛、食料品、鉱産物などを輸入するようになった。両国の貿易は商品の構成面で補完性を強めていった。
 こうして日本のアルゼンチン向け輸出は急速に成長した。そして、1935年の最高時にはアルゼンチン総輸入額の4.1%を占めた。しかし、それはすぐに減少に向かって36年には3.4%となった。(『対日経済封鎖』から)
<アルゼンチン──英国輸入業者の陳情>  英国の繊維類に利害関係のある人々は、アルゼンチン政府が外国製品のダンピングから英国繊維製品を保護するように期待した。時事、或る全治9ん政府は英国製品を保護していたが、その一方で日本と何らかの協定を結ぶための交渉もしていた。
 1926年から37年の間に、米国からアルゼンチン繊維製品市場への輸出は6%から1%へと低下している。大抵の米国繊維製品は日本の物より遙かに高価であったが、品質が良かったから、日本の繊維製品は米国製品とは実際には競争にならなかった。それ故に、日米の競争は大して重要ではない分野に限られていた。繊維品の中で比較的大事な商品は綿と伸縮性ゴムの織物で作った製品であったが、その輸入額は極めて小さかった。
 日本製品の輸入が異常な速さで伸びていたため、英国輸入業者は差別措置がとられるものと期待していた。日本からの輸入額の80%以上がレイヨン糸、綿およびゴム糸を混ぜて織った綿繊維製品であった。アルゼンチンの総輸入に占める日本のシェアは32年の5%から32年の14%へと躍進し、対アルゼンチン輸出国の第6位から第3位となった。この日本の輸出の上昇は英国とイタリアのシェアを食ったものであった。
 英国の輸入業者は会合を開いて、とどまることを知らぬ日本綿布の輸入増を抑える解決策を求めた。彼らは、日本人は英国の繊維製品を模倣したものであるから、日本からの輸入に制限措置をとるべきであると主張した。さらに、制限は、英領植民地で実施されている輸入割当制度に類似した割当制限に基づくものにすべきであるとした。また彼らは、英国の上等な柄物の綿布をそっくり真似た日本製品に対してアルゼンチンの法律に訴える道を探っていた。もしこれらの案で、英国繊維貿易の適切な保護に失敗した時には、英国大使館に駆け込んでアルゼンチンからの肉類の輸入をさらに制限してアルゼンチンを脅し、極端な措置を採るように要請する案を練った。 (『対日経済封鎖』から)
<日本商品の輸入に差別的外貨割当>  アルゼンチン政府は1934年6月に日本と協定を結んだ。その結果、日本側に多少の改善がもたらされた。協定によれば、アルゼンチン外貨管理委員会は、日本がアルゼンチンから輸入した額の90%を日本からの輸入枠として割り当てた。また、25%のプレミアムを支払えば、外貨を自由市場で買うこともできた。それでもこの協定は両国間の貿易を促進させた。
 1935年1月、日本商品の輸入は外貨統制によって規制されていた。アルゼンチン政府の輸入外貨割当では、日本と競争している国は25%も余分な割当量を得ていると信じられていた。その分だけ日本よりもそれらの国からの輸入に有利であった。単純にいえば、日本が競争に勝つためには、価格を25%以上も相手国の製品より安くしなけらばならなかった。それでも日本の競争相手国の人々は、かりに外貨管理が廃止された時には日本が繊維品輸出を相当伸ばすであろうし、おそらくアルゼンチン市場で第1位の供給者となるであろうと心配していた。英国とアルゼンチンとの間の、いわゆるロカ協定は、アルゼンチンが外貨管理を廃止した場合には日本繊維品の輸入割当を実施するという義務をアルゼンチンに確約させていたとい言われている。
 東京では日本輸出協会が1935年度向けに次のようなアルゼンチンからの輸入促進策を考え出していた。最初の1,200万円相当の日本からアルゼンチン向けの輸出額から、日本政府がその4%の金額を差し引き、その資金をアルゼンチンとオーストラリア(この国と日本は深刻な貿易戦争になるであろうと思われていた)の羊毛価格差を埋めるための基金にまとめた。例えばオーストラリア羊毛を100キロにつき10.5ペソで購入しようとしていた日本商人は、この基金の助成のおかげで11ペソのアルゼンチン羊毛を買うことができた。1,200万円を超える日本のアルゼンチンへの輸出額の600万円分に対して日本政府が6%を差し引いた。さらにそれを超える次の600万円の輸出額からは8%を差し引いて基金に積んだ。
 1936年のアルゼンチン政府の日本品輸入に対する外貨割当は308万4,000ペソで、35年の日本のアルゼンチン向け船荷高の12.5%に過ぎなかった。 (『対日経済封鎖』から)
<輸出の自主規制>  日本は1935年、アルゼンチン向けの競争力の強い製品について輸出自主規制(VER)、すなわち”自主”という名を借りた管理輸出の協定を結び、アルゼンチンの製造業者と輸入業者、また日本の生産者と輸出業者の利益を確保した。この協定は、アルゼンチン側からの日本品に対する外貨割当量を拡大し、それまで米国およびたの外国から買い入れていた商品類について取引上の特典を与えるという約束のもとに結ばれたものであった。(中略)
 日本の輸出統計によればアルゼンチンのシェアは1926年には総輸出の0.3%、29年には3.9%へと増加し、35年には8.1%とピークに達し、37年には6%へ低下し、翌年さらに減少した。
 一方、アルゼンチンからの輸入をみると日本は1937年に1.2%のシェアを持ち、アルゼンチンの輸入先としては12番目であった。この日本の輸入不振は、日本の産業が、アルゼンチン政府側の厳しい輸入規制に素早く対応して輸入増を果たすことができなかったからである。しかしその後、日本の輸入は着実に増加した。
 1937年にアルゼンチンを秘かに訪れた日本の使節団は、アルゼンチン産品の日本への一定量の輸入増かを申し入れたが、アルゼンチン側からは好意的な交易待遇を獲得できなかった。(『対日経済封鎖』から)
<ラテン・アメリカ諸国の対日貿易管理>  1935年5月には日本はラテン・アメリカ諸国で貿易管理の下にあった。以下は日本に対する輸入規制をまとめたものである。
 (1) コロンビア 1931年にラテン・アメリカ諸国で貿易管理を適用。34年10月に日本との通商条約を廃棄。35年5月以降は日本からの輸入を29年水準の3分の1に制限し、同年11月以降は厳しい2国間貿易均衡制度を適用。他方、コロンビア政府は米国および他の諸国と関税引き下げ通商条約を締結した。
 (2) エクワドル 1934年5月以来、日本の綿布、絹、レイヨンおよびニット製品の輸入を一時禁止。
 (3) サルバドル 1934年6月に綿製品関税の引き上げ、日本製品に対して最高率の関税を通用。
 (4) ハイチ 1934年8月から日本製品への関税引き上げを実施。
 (5) キューバ 1934年9月から関税引き上げ、また35年1月に日本との通商条約を破棄。
 (6) ペルー 1934年10月、日本との通商条約を破棄。
 (7) アルゼンチン 外国為替管理、税関評価制度、輸出自主規制を引き続き実施。
 (8) ウルグアイ 1934年11月から日本品に対する輸入規制と外国為替管理を実施。
 (9) チリ 特に1934年末以降、日本品に対する関税引き上げ、また厳格な2国間貿易均衡制度を適用。
 (10) グアテマラ 1935年2月以来、日本品に対して最高率の関税を適用。
 このように、日本の輸出業者にとって、もはや日本の輸出がラテン・アメリカ市場で大きく伸びることはないと思わざるを得なかった。(中略)
 日本側では、米国向け輸出を生糸に頼った時代はとっくに過ぎ去り、1930年以降、日本工業製品の対米輸出は低迷していた。日本が最高品質の原料(例えば、日本としては1番競争力の強い綿工業のための米綿)、先端的な工業設備、そして武器を輸入しなければならない限り、ラテン・アメリカとの貿易を通じて米国との貿易収支の赤字を減少させる以外に方法がなくなっていた。しかし、残念なことにラテン・アメリカ諸国は発展途上国によくあるように国際収支文ダウに苦しんでいた。個々のラテン・アメリカの国はもはやそれ以上の赤字を増やす余裕がなかった。なぜなら、日本の急速な輸出の成長が始まる以前から貿易収支は常に日本に有利であった。また、ラテン・アメリカ諸国は、日本と今さら強い関係を結ぶよりも米国およびヨーロッパ諸国との間に歴史的にも地理的にもより密接な関係を持っていたからである。(『対日経済封鎖』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
( 2008年11月3日 TANAKA1942b )
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(12)米国の貿易規制による石油ショック
勝つ見込みのないエネルギー戦争へ突入
 今週は石油をテーマに扱う。各国が保護主義に傾き、自由貿易で経済を発展させてきた日本が、その発展を阻害され始めたのは、@輸出が不振になった、A石油の輸入が止まった、のが大きな2点であった。石油の輸入が困難になったことに関しては、@アメリカからの輸入が止まった。A東南アジアからの輸入が困難になった、の2点がポイントであった。今週は、アメリカからbの輸入に関し手を中心に扱う。
<はじめに>  太平洋戦争開戦の契機は、米国の「石油禁輸」によって、日本が世界で最初の「石油危機」に直面したことである。この「石油禁輸」を受けた当時の日本の石油自給率は、わずか8%、石油の80%は米国から輸入していた。米国は世界最大の石油生産国・輸出国であり、原油生産量は日本の740倍もあった。日本は航空機用の高性能ガソリンの生産技術でも、米国に大きく立ち遅れていた。当時の日本の政策決定集団は、何を根拠に「軍事・工業の超大国であった米国と戦争して生存が可能」と、考えたのであろうか。彼らは宗主国オランダがドイツ軍に占領されて、政治的に空白化していた南方の石油供給源を日本が押さえることによって、「自存自衛の体制」の確立は可能であると判断したのである。
 この本では、
 ・なぜ、米国は日本に「石油禁輸」を行ったのか
 ・日本はこの「石油禁輸」にどのように対応したのか
 ・日本は本当に石油が足りなかったのか
 ・海軍は戦争に反対であったのか
 ・南方の石油は日本に輸送されたのか
 ・「自存自衛の体制」は確立されたのか
 ・人造石油は役に立ったのか
 ・戦争終盤の国内産業はどうであったのか
 などの観点から、世界で最初の「石油危機」の発生とその過程を追ってみた。この「石油危機」は、米国の対日経済制裁によって発生した一国限定の危機であった。経済制裁は過去も現在も外交政策・手段の重要なカードの1つであり、その実施は軍事的な衝突直前の「経済戦争」である。
 この「経済戦争」に対処したのは、当時、統帥権を背景に圧倒的な政治力を保有していた郡部であった。陸海軍には戦闘・兵科の専門家がいたが、国際政治・経済・地政学的な知識・経験を有する専門家はほとんどいなかった。米国の「石油禁輸」が行われる5日前の『大本営機密日誌』には、「戦争指導半は資産の凍結を石油の禁輸とは思わず、米国はせざるべしと判断す」と、いまから見ると驚くほどの楽観的な記述がある。
 しかし、これは楽観的というよりも、当時の軍部は、国際政治・経済に対する概念の把握が米国とまったく異なり、別次元の判断を行っていたのである。つまり、「南進しても経済制裁はない」「南部仏印(フランス領インドシナ)進駐までは米国は黙認する」と思っていたのである。そのため、それまで段階的に強化されていた米国の対日経済制裁と南進を結びつけて、英米の警告である「資産凍結」から「石油禁輸」へと続く「経済戦争」のカードの意味が読めなかったのである。周到に準備された経済戦争を、最終段階までを含めた警告と思わなかったのでのでのであ、「経済戦争」に対する基本概念の理解がなかったということである。米国の「石油禁輸」の報に、陸会議の海軍省部の官僚・幕僚たちが呆然・愕然としたことはこのことを何よりも如実に表している。
 太平洋戦争開戦後、日本は緒戦においては準備不足の連合国を攻撃して占領地域を拡大するが、半年を待たず本格的な攻勢に転じた米国の国力に直面する。
 米国は、「日本を海上から封鎖して国内資源を枯渇させ工業生産力を崩壊させる」との明確な戦略を保有していた。この米国の戦略は、「総力戦」の本質と無資源国である島国日本の実態を正確に把握したものであった。日本は南方の油田は占領したものの、その石油を本土に送る輸送路(オイルロード)の維持ができなかった。また、空襲によって、原油を石油製品にする国内の精油所は壊滅した。
 昭和20(1945)年8月の敗戦時には、日本の石油備蓄は完全に払拭して、国内経済は残り数ヶ月で完全に機能不全に陥る状況であった。そこには、世界で最初の「石油危機」の回避に失敗した国の姿があった。 (『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』から)
<東海道を木炭自動車が走る>   昭和12(1937)年7月に日華事変が勃発した。唐突に戦争が始まって政府が最初に考えたのは、ガソリンの消費を抑えることであった。事変開始4ヶ月後の昭和12年11月には、早くも行政指導による石油の「第1次消費規制」が行われている。特に、ガソリンについての規制は細かく、大都市でのタクシーの流しの禁止、バスと乗用車のガソリン使用の1割節約、自家用車の使用制限、官公庁用自動車ガソリンへのアルコール混入(5%)、木炭自動車の使用促進など、車の使い方が次々に打ち出された。「戦争開始、即、ガソリンの節約」は当時の日本が置かれた状況を的確に表していた。
 木炭自動車の導入は比較的早く、昭和5(1930)年6月には「代用燃料自動車普及会」と「全国薪炭連合会」が、大イベント「木炭自動車による東京──大阪間の走行会」を主催した。木炭自動車普及のプロモーションが目的であった。この走行会では、第1日目の午前に東京を出発した木炭自動車は3日目の午前中に大阪に到着している。このときの走行距離は640キロ、所要時間は29時間50分、使用した木炭量は135キログラムであったとの記録が残っている。これらの数値が正しいとすれば、木炭1キログラム当たりの走行距は5キロ、全行程の平均時速は22キロとなる。このスピードは、毎年、正月に開催される「東京箱根大学駅伝競走」の往復(218キロ)平均速度20キロを上回っている。当時の東海道が自動車道路として整備されていなかったことを考えると、木炭ガス使用の自動車の性能はかなり高い水準であった。
 木炭自動車の東海道走行会が行われた同じ年の10月、東海道線の東京と神戸の間を特急「燕」が運転を開始した。「燕」は蒸気機関車(Dー51)に牽引されて、それまでの 特急「富士」の東京ー大阪間の所要時間を2時間も短縮した8時間20分で走った。「燕」の平均時速は67.5キロであった。
 この年、木炭自動車で箱根峠を越える走行試験が行われた。東京から箱根を経由して三島までの間(片道125キロ)を数回、往復して走行データを得るのが目的であった。「陸軍自動車学校」の三木吉平技師が開発した「陸軍三木式木炭ガス発生装置」を取り付けたトラック4台が、1000キロの距離を走った。試験結果は良好で、木炭自動車は急な坂の続く箱根の道を時速10〜15キロで登ることができた。また、平坦な道路では時速35〜40キロで走って、ほとんどガソリン自動車と変わらなかった。燃料を比較するとガソリン1リットルに対して木炭1キログラムで、ほぼ同一の走行が可能であることを示した。平坦地での木炭1キログラム当たりの走行距離は4キロ前後であった。当時のガソリンの価格は1ガロン(3.79リットル)が40銭、木炭の価格は1貫(3.75キログラム)が14銭であった。 (『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』から)
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<開戦の引き金となった石油禁輸>  承知のように、日本が対米開戦を最終的に決意したのは、昭和16年11月26日、中国・仏印から全面撤兵してすべてを満州事変以前の状態に戻せという強硬なハル・ノートが野村吉三郎駐米大使(1887〜1964)に手交され、翌27日の大本営政府連絡会議でハル・ノートを最終通告と結論したからである。開戦の正式決定が行われたのは、12月1日の御前会議である。武力発動は、12月8日未明の心事湾攻撃をもって開始された。
 もちろん、戦争準備はすでに着々と進められていた。事実上の対米開戦に傾いたのは、それから遡ること4ヶ月前の昭和16年8月1日アメリカが石油の対日全面禁輸措置をとったのが契機である。石油の対日全面禁輸は、7月24日、日本軍の南部仏印進駐を南方作戦第1歩と受け取ったアメリカが、間髪を入れずに在米日本資産の凍結(7月25日)とともに講じた報復措置であった。これまでにも、中国大陸への侵攻拡大や日独伊3国同盟の締結など日本の軍事的・外交的行動がアメリカ側を狙撃した場合、そのつど石油輸出を段階的に制限してきた。その内容は、石油の輸出許可制、高級揮発油、石油採取装置、石油精製装置の輸出禁止などであった。しかし、切り札となる原油、重油の輸出が停まったわけではなかった。
 日本の対米石油依存度は、昭和10年には全輸入量の67%(231万キロリットル)、12年 74%(352万キロリットル)、14年90%(445万キロリットル)とむしろ年々高まってきていた(「大本営海軍部」1)。石油は日本経済の”アキレス腱”であった。アメリカはそれを十分承知していたからこそ、日本の膨張主義に対し石油を経済制裁の手段にして警告を発してきたのである。しかし、当時の日本の指導層の国際感覚は鈍く、南部仏印進駐がそれほど厳しい経済報復を受けようとは全く良そうもしていなかった。石油全面禁輸は、まさの青天の霹靂であった。
 一番ショックを受けたのは海軍である。石油がなくては、軍艦は動かせないし、飛行機は飛ばなくなる。連合艦隊は、何もしていなくても1日1万トンの油を消費していたのであるから、その打撃は致命的であった。かくして、海軍内部は、アメリカの代わる石油供給先を確保するための南進論、言い換えれば早期開戦論が一挙に大勢を制することになる。永野修身(1880〜1947)海軍軍令部総長は、昭和16年7月31日、「このままでは、2年の貯蔵量を有するのみ。戦争となれば1年半にて消費し尽くすことになるをもって、むしろこの際打って出るのほかなし」(城戸幸一日記)と上奏している。
 対米開戦の場合、主役となるのは海軍である。主戦論の陸軍と違って、海軍はこれまで日米国力の格差を合理的に判断して、」対米開戦には慎重であった。その海軍が開戦もやむなしと決断したのであるから、このあとはひたすら開戦への準備が急がれることとなった。
 9月6日の御前会議は、「帝国国策遂行要領」を採択し、「帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米(英、蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ、概ネ10月下旬ヲ目途トシ戦争準備を完整ス」との重大な決定を行った。この時の御前会議のために用意した「帝国国策遂行要領ニ関スル御前会議ニ於ケル質疑応答資料」(参謀本部)の中に、「戦争準備ヲ10月下旬目途トセル理由如何」というのがある。これに対する答えは「目下ニ於ケル帝国国力及戦力ノ隘路カ油ナルハ多言ヲ要セス。而シテ帝国ハ目下貯油ヲ逐次消費シツツアリテ、此ノ儘ノ姿勢ニテ推移スルトシテモ其ノ自給力ハ今後多クモ2年ヲ出テス」となっている。石油禁輸後、在庫を食いつぶす一方でジリ貧状態にあった当時の軍部の焦燥ぶりが行間に滲み出ている。(産業の昭和史『石油』 から)
<開戦直前の燃料準備>   その後、対米交渉継続を主張する近衛文麿(1891-1945)首相と、開戦を唱える東条英機(1884-1948)陸相とが対立し、第3次近衛内閣は総辞職した。10月18日、東条内閣が成立したが、9月6日の御前会議の決定に対し再検討を加えた結果、11月5日、この年3回目(1回目は7月2日)の御前会議を開き、戦争を決意する「帝国国策要領」を正式に可決した。会議の主題は、わが国の物的国力の判断であった。とりわけ、和戦決定のカギを握っていたのは石油であった。(中略)
 日本の戦争遂行計画は絶対不可欠な石油を南方作戦の成功により所要量を確保する前提で組み立てられていた。その南方作戦について、杉山元(1880-1945)陸軍参謀総長は、「我に絶対的確算ありと信じております」と11月4日の軍事参議院会議で自信たっぷりに報告している。(産業の昭和史『石油』 から)
<原油生産740倍の米国と戦う?>   これまでの昭和史研究の中であまり私的されていないことだが、昭和14(1939)年、航空機ガソリン製造を目標に設立された「東亜燃料工業」は、オクタン価100のガソリンのために、米国からフードリー触媒分離法の導入交渉を行っていた。皮肉にも、この年に発動された米国のモラル・エンバーゴのよって、交渉が中断され、高性能ガソリンの製造は閉ざされてしまったのである。この技術導入の中止は、そのあと、日本の航空機の高性能運用に大きな影響を与えたことになる。
 日本が太平洋戦争に向かう契機になった石油について、日米の数値比較をすると、原油生産量は米国の日産384万バレルに対して、日本はわずか日産5200バレルであった。米国は日本の740倍の原油を生産していた。これは米国のはんにちぶんの原油生産量が日本の1年分の生産量に相当する。石油製品の精製能力も、日本の日産9万バレルに対して、米国は日産466万バレルと52倍であった。この精製能力の中でも、米国はオクタン価100の航空機用の高性能ガソリンの生産が日産5万8,000バレル規模であったのに対して、日本はオクタン価87のガソリン製造にようやく到達した段階であった。量だてでなく製品の質の差も大きかった。
 このオクタン価の高低差はエンジンの出力に大きく影響した。高性能ガソリンは気化ガソリンの妨爆性(耐ノッキング)を高めたもので、オクタン価は添加剤であるイソオクタンの容積比率が数値で表されていた。当時、日本の陸海軍が使用していた航空機用ガソリンのオクタン価は87前後、米国は100であった。これによる出力差は約10%以上ある。戦闘機のエンジン出力が1,000馬力程度で大型エンジンを保有していない日本の陸海軍にとって、高性能ガソリンはエンジン出力上昇のために必要な最重要物資であった。日本海軍の偵察機「彩雲」は時速610キロの海軍最速機であったが、戦後、米軍が高性能ガソリンと潤滑油を使用して飛行試験をした際、時速695キロを記録している。ガソリンのオクタン価によって14%の速力増となっている。現在の自動車用ハイオクタンガソリンのオクタン価は98〜100で、当時の高性能ガソリンが日常生活で使用されていることになる。{注}日本陸軍の最速機は100式司令偵察機、時速630キロ。
 昭和3(1928)年に設立された「日本揮発油」は、米国UPO社の石油精製プロセスの特許使用権を得ていた。同社の斡旋でオクタン価92のガソリン製造プラントの実施権を得るために、米国に派遣された陸海軍の交渉団は、昭和14年のモラル・エンバーゴの発動により交渉を打ち切られた。逆恨み的ではあるが、この打ち切りは、陸海軍の対米強硬派を勢いづけることになる。
 米国では高性能ガソリンとはオクタン価100を意味していたが、日本がオクタン価87の航空用ガソリンの製造に成功したのは昭和11(1936)年であった。研究継続の結果、昭和13年、「海軍燃料廠」は98式水添装置を開発してオクタン価92の航空機用ガソリンの製造に成功した。さらに、オクタン価87用に開発されていた96式水添装置を応用して、オクタン価100のガソリン製造技術の開発にも試験的に成功した。
 しかし、日本では、高温高圧下での水素添加工程に使用する特殊クローム鋼の製造技術がなく、商業的生産段階には達しなかった。日本の総合的技術力の後進性がこの面でも現れていた。
 高性能ガソリンの技術導入を封じられた日本の陸海軍は、懸命に技術開発を行い、太平洋戦争の後半には、陸海軍の航空機はオクタン価91の航空機用ガソリンを使用することが可能になった。太平洋戦争中、日本の最優秀戦闘機と言われた陸軍の4式戦闘機(疾風)はオクタン価91のガソリンと水メタノール噴射装置の組み合わせで、オクタン価100相当のエンジン性能(時速624キロ)を出していた。
 米国の重要物資の禁輸への対応として、備蓄、輸入増加政策がとられた。特に優先度の低い物資の輸入を抑え、重要物資の輸入が促進された。日銀の金準備を流用して行う規定計画以外の特別輸入(限度額2億円)が、昭和14(1939)年度から実施されて、繰り上げ輸入も行われた。この結果、昭和15年のボーキサイトの輸入は、昭和11年比11.3倍、昭和16年のニッケルの輸入は、同20.4倍、」鉄鉱石は、同1.43倍と増加している。石油の輸入量は、昭和12年が665万キロリットルでピークにとなり、昭和13年は639万キロリットル、昭和14年は493万キロリットル、昭和15年は591万キロリットルであった。この輸入量は、米国の石油禁輸を受けたshぷわ16年には136万キロリットルと、対昭和12年比で20%に激減する。
 米国からの石油輸入は、昭和16年8月4日にサンフランシスコ港を出航し横浜に向かった龍田丸(1万6,955総トン)に搭載された潤滑油、ドラム缶約1,600本分(約320キロリットル)が最後となった。 (『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『石油』産業の昭和史                    岡部彰 日本経済評論社  1986.11.25
『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』           岩間敏 朝日新書     2007. 7.30
( 2008年11月10日 TANAKA1942b )
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(13)陸・海軍、御前会議などの動き
無謀な大東亜戦争へと追い込まれて行く過程
 このホームページでは、保護貿易によりどれほど日本経済が苦しみ、無謀な大東亜戦争に追い込まれたか、という経済の面を扱うのだが、今週は少し趣を変えて日本の軍部、御前会議などを扱うことにした。
<天皇の苛立ち>  1941(昭和16)年も初秋の時節を迎え、9月10日には『信濃毎日新聞』などの主筆を務め、一貫して反軍部の健筆を振ってきた桐生悠々が死去する。さらに10月15日には、著名な中国問題評論家で近衛文麿のブレーンとしても活躍した尾崎秀実が国際スパイの疑惑で検挙される事件が発生した。いわゆるゾルゲ事件である。
 軍部の横暴に意義を唱え続けた桐生の死去、帝国主義戦争の停止と日中ソの連繋の実現に奮闘した尾崎の検挙(1944年11月7日刑死)は、日本がいよいよ日米開戦に向かって拍車がかかり始めた時期と重なった。この2人の運命も、どこか日本の先行きを暗示するものだった。
 さて、末次大将と階段した同日(1942年9月5日)、近衛首相は翌日に迫った御前会議に提出する「帝国国策遂行要領」の案分をを天皇に内奏した。その暴騰には、「帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完遂す」と記されていた。事実上、日米交渉の期限を後1ヶ月とし、妥協の見込みがなければ対英米戦を決定し、10月下旬には戦争に踏み切るとしたものだ。
 この時点でも日米双方が何らかの妥協点を見出せないことから、交渉妥結を期待して1ヶ月の猶予を設定しても意味ある選択とは言えなかった。それは実際のところ、開戦準備のための時間稼ぎ以上のものではなかった。
 この案文は統帥部が作成したものだが、これから後1ヶ月を経ても妥協の余地は期待できないことを前提として作成された文案に等しく、事実上開戦決定を明らかにしたものだった。これにはさすがに天皇も不安にかられ、すぐに永野・杉山両総長を呼び出し、案文の内容について、「何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける」との感想を漏らしていた(『平和への努力』)。
 この席上、天皇は永野総長に日米開戦となった場合に、「絶対に勝てるのか(大声にて)」と下問した。永野は、「絶対とは申しかねます。而して勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申しかねます」と答えた(『杉山メモ』上巻)。天皇は絶対に勝利する戦争を欲したのであり、そのための確実な勝利への展望を両総長から聞きたかった。だが、永野のどちらともつかない曖昧な返答に大声で、「ああ分かった」と明らかな苛立ちの様子を見せた((同前)。
 9月6日に開催された御前会議では予定通り「帝国国策遂行要領」を決定し、これで正式に日本の対米開戦を決定することになった。だからといって、この後一気に開戦に突き進むのではなく、陸軍省筋では武藤章軍務局長が、海軍では及川古志郎海軍大臣などが、依然として開戦への不安を拭い斬れない天皇の意向に配慮を見せながら、開戦には慎重な姿勢を崩していなかった。
 その一方で、服部卓四郎参謀本部作戦課長や石川信吾海軍省軍務局第2課長ら、早期開戦を説く強硬派からの突き上げが激しくなっていき、これら強硬派が中心となって天皇の開戦決意を迫る計画を進めていく。 (『日本海軍の終戦工作』 から)
<開戦論に傾斜する天皇>  日米交渉が大詰めを迎えた段階で、日米開戦に向けた海軍の決意がどのようなものであったかは、『杉山メモ』をはじめとして、多くの史料により確かめることができる。そうした史料の記録と一部重複するが、「高木惣吉史料」収録の記録を以下に引用しておく。
 「政界諸事情」に収められた「無題 9月5日(内奏)及9月6日(御前会議)概況」(昭和16年9月8日)には、日米開戦を決定づけた昭和天皇と杉山参謀総長との下問と上奏の内容が、次のように記されている。少し長いが書き出しておく。
 二、御上より
 (ロ)「愈々(いよいよ)開戦となりたる場合作戦上の勝算ありや」
  杉山総長「勝算あり」
  御上「支那事変勃発の際陸軍は僅か3D[3個師団]を以て一撃を与うれば直(ただち)に和平となるとのことを聞けり、杉山は当時陸相の職にあり……」
  杉山総長「支那は地域広大出口入り口多くして作戦上の困難以外に多く……」
  御上「夫等については其都度注意したるにあらずや、杉山は虚言を申すや」
 三、杉山総長より
  「御容しを得まして永野より奏上申上たきことあり、発言の御容しを乞い奉る」
  御上「宜しい」
  杉山総長「在来兵に100パーセント勝算ありというが如きことなし、孫子曰く独乙とセルビアと戦うが如き場合はともかく苟も相近似する国家間の戦は決して成算を万期することは難し、但し茲に病人ありて放置すれば死すること確実なるも手術すれば七分は助かる見込みありと医師の診断ありとすれば手術をなさざるべからず、而して其の結果若し死亡することありとせば夫は已むを得ざる天命と観する外なかるべし、今日の事態は将に然り、……若し徒らに時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強いらるるも最早如何ともなすこと能わざるなり」
  御上「よし解った」(御気を和げり)
  近衛総理「明日の議題を変更致しますが如何取計らいましょうか」
  御上「変更に及ばず」
 以上の天皇や永野の発言については幾多の史料で有名なものであり、また天皇の杉山への不信感を表明した件(くだり)として盛んに引用されてきた。しかし、この天皇発言の真意をもう少し注意深く分析する必要がある。
 とくに永野の発言への天皇の反応は、天皇自身の開戦決意、あるいは日米開戦への展望を考慮するとき、重要な意味を持つ。従来の解釈は、開戦決定に天皇自身は不安を抱いていたが、杉山と永野という陸海両軍令機関の最高責任者である両総長の強硬論をやむなく呑んだというものだ。(『日本海軍の終戦工作』 から)
<「四方の海みなはらからと思う世に」 帝国国策遂行要領──第6回御前会議>   1941年(昭和16)9月6日午前10時から、第6回御前会議が開かれた。議題は「帝国国策遂行要領」である。出席者は、総理大臣近衛文麿、外務大臣豊田貞次郎、内務大臣田辺治通、大蔵大臣小倉正恒、陸軍大臣東条英機、海軍大臣及川古志郎、参謀総長杉山元、軍令部総長永野修身、参謀次長塚田攻、軍令部次長伊藤整一、枢密院議長原嘉道、内閣書記官富田健治、陸軍省軍務局長武藤章、海軍省軍務局長岡敬純、企画院総裁・国務大臣鈴木貞一の15人であった。
 政府から国策決定に重要な役割をもつ主要閣僚、陸海軍の統帥部から総長・次長、憲法上の天皇の諮詢(しじゅん)機関である枢密院から議長がこの御前会議の構成員として参加し、それに会議の幹事役として内閣書記官長と陸海軍の軍務局長が列席していた。
 議題の「帝国国策遂行要領」の全文は以下のとおりである。
 帝国は原価の急迫せる情勢特に米、英、蘭等各国の執れる対日攻勢、「ソ」聯の情勢及帝国国力の弾撥性等に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に拠り遂行す。
 一、帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途として戦争準備を完遂す。
 二、帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。
   対米(英)交渉に於いて帝国の達成すべき最少限度の要求事項竝に之に関聯し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。
 三、前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す。
 対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米「ソ」の対日聯号戦線を結成せしめざるに勉む。
 この場合、第2項に書かれている外交交渉で実現しようとする「別紙」の内容が最大の問題であるが、それはひとまず措く。この御前会議で主として問題になったのは、第1項と第2項の優先順位であった。杉山参謀総長の『メモ』に御前会議での質疑応答が記載されている(以下会議等での発言筆記は引用にあたって原文の感じをかなにするなど読みやすくするために手を加えた)。
 質問および意見の開陳は原枢密院議長が行い、近衛総理が訪米してルーズベルト米大統領と会談して厚相を妥結させたいという決意を支持したあと、次のように述べた。
 国民は日米関係をながめ最悪の場合に至らずやと思い、これにいたらざるを願っている。自分はこの前の会議の時に対英米戦を辞せずとありしがゆえに、できるだけ外交をやるよう希望しおけり。現在政府の考えもそのようであり、両総長の考えも同じようだ。しかし外向的手段だめとなれば好むと好まざるとにかかわらず最悪の場合戦争となるだろう。而してこれは適当な時に決意するを要する。そこで戦争準備をやるのであると諒解する。
 次に案文中の一、二、三、を一瞥すると、自存自衛のために戦争準備と外交とを併行し、また開戦の決意等のことがある。戦争準備もやむを得ないが、できるならば外交によってやってみようと見られるふしもある。すなわち戦争が主で外交が従であるあかの如く見えるが、自分は外交手段を取っているあいだずっと今日から宣そう準備をするという趣旨であると思う。すなわち今日は何処までも外交的打開に勉め、それで行かぬ時は戦争をやらなければならぬとの意と思う。戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力して万やむおえない時に戦争をするものと解釈する。
 これに対して及川海軍大臣が答弁した。
 書いた気持ちと原議長と同一であります。
 帝国政府としては事実において日米交渉は今日まで勉めているところである。現在の事態に直面しやむなき時は辞せざる決意をもってやるということを取り上げて書いたのである。第1項の戦争準備と第2項の外交とは軽重なし。而して第3項の目途なき場合の戦争の決意まで行うというのである。しかしこれを決意するのは廟議で允裁をいただくことになる。重ねていえば書き表した趣旨は原議長と同様にて出来うる限り外交交渉をやる。
 また近衛首相が訪米を決意したのはさような観点であると思う。
 これに対して原議長が再び発言した。
 お話により本案の趣旨は明らかとなれり。
 本案は政府統帥部の連絡会議で定まりし事ゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと同じと信じて自分は安心いたしました。尚近衛首相が訪米の際には主旨として宣そう準備をやっておくが、できるだけ外交をやるという考えで、なんとかして外交により国交調整をやるという気持ちが必要である。どうか本案の御裁定になったら首相の訪米使命に適するように、かつ日米最悪の事態を免るるよう御協力を願う。
 『杉山メモ』には「最後に特に陛下より御言葉あり」として、別紙に「御前会議の席上、原議長の質問に対して及川海軍大臣の答弁あり、其後」と、昭和天皇が直接に発した質問の内容を記録している。
 私から事重大だから両統帥部長に質問する。
 先刻原がこんこん述べたのに対し両統帥部長は一言も答弁しなかったがどうか。
 きわめて重大なことなりしに統帥部長の意志表示なかりしは自分は遺憾に思う。私は毎日、明治天皇御製の
 四方の海、皆同胞と思う代(まま)に などあだ波の立騒ぐらむ
 を拝誦している。
 どうか。
 この天皇じきじきの質問に対し、永野軍令部長が「まったく原議長の言った主旨と同じ考えでありまして、御説明の時にも本文に二度この旨を言っております。原議長がわかったと言われましたので改めて申し上げませんでした」と答弁し、杉山参謀総長も「永野総長の申しましたのと全然同じでございます」と答弁した。(『御前会議』 から)
<8月6日の御前会議についての天皇の言葉>   9月6日の御前会議の顛末について天皇は次のように語っている。
 9月5日午後5時頃近衛が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると以外にも第1に宣そうの決意、第2に対米交渉の継続、第3に10月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなっている。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった
 私は軍が其様に出師(すいし)準備を進めているとは思って居なかった。近衛はそれでは、両総長を呼んで納得の行く迄尋ねたら、と云うので、急に両人を呼んで、近衛も同席して1時間許り話した。この事は朝日新聞の近衛の手記に書いてある事が大体正確で、この時も近衛は、案の第1と第2との順序と取替える事は絶対に不可能ですと云った。
 翌日の会議の席上で、原枢密院議長の質問に対し及川が第1と第2は軽重の順序を表しているのではないと説明したが之は詭弁だと思う。然し近衛も、5日の晩は一晩考えたらしく翌朝会議の前、木戸の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で事を進める様論して貰い度いとの事であった。それで私は予め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ、之も近衛の手記に詳しく出て居る。
 しかし、天皇が「大体正確」と評価している近衛の手記には、「私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云って承知しなかった」という趣旨の天皇の発言は記録されていない。(『御前会議』 から)
<15回の御前会議>   御前会議が全部で何回開かれ、それぞれの御前会議はいつ、何を議題として開かれたかを明らかにしておこう(年は西暦の下2桁)。
  回   年・月・日  議 題                 内 閣
 第1回  38. 1.11 支那事変処理根本方針         第1次近衛内閣
 第2回  40. 9.19 日独伊3国同盟条約          第2次近衛内閣
 第4回  40.11.13 支那事変処理要綱に関する件ほか    第2次近衛内閣
 第5回  41. 7. 2 情勢の推移に伴う帝国国策要綱     第2次近衛内閣
 第6回  41. 9. 6 帝国国策遂行要領           第3次近衛内閣
 第7回  41.11. 5 帝国国策遂行要領              東条内閣
 第8回  41.12. 1 対米英蘭改選の件              東条内閣
 第9回  42.12.21 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針    東条内閣
 第10回 43. 5.31 大東亜攻略指導大綱             東条内閣
 第11回 43. 9.30 今後採るべき戦争指導の大綱ほか       東条内閣
 御前最高戦争指導会議
 第1回  44. 8.19 今後採るべき戦争指導の大綱ほか       小磯内閣
 第2回  45. 6. 8 今後採るべき戦争指導の基本大綱       小磯内閣
 第3回  45. 8. 9 国体維持を条件にポツダム宣言受諾      鈴木内閣
 第4回  45. 8.14 ポツダム宣言受諾              鈴木内閣
 御前会議という名称でひらかれた会議が合計11回、大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議と名を改めた後、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称でひらかれた御前会議が4回、つごう15回の御前会議がひらかれている。(『御前会議』 から)
*                      *                      *
<近衛手記から>   近衛は、日本の敗戦後なお、3国同盟の締結は当時の国際情勢の下に於いては、やむを得ない妥当の政策であったとしている。近衛手記はこれを説明している。
 ドイツとソ聯とは親善関係にあり、欧州の殆ど全部はドイツの掌握に帰し、イギリスは窮境にあり、アメリカは未だ参戦せず、かかる状勢の下に於いてドイツと結び、更にドイツを介してソ聯と結び、日独ソの連繋を実現して英米に対する我国の地歩を強固ならしぬることは、支那事変処理に有効なるのみならず、これによりて対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。従って昭和15年秋の状勢の下 に於いて、ドイツと結びしことは親英米論者のいふ如く、必ずしも我国に採りて危険なりとは考へられぬ。之を強いて危険なりといふは感情論である。
 と書いている。併し、以上に叙述した同盟成立の経過に照らし、果たしてこの時期に於ける同盟の締結が妥当な政策であったかは頗る疑問である。独ソは不可侵条約によって表面親善の観を呈していたが、実は当時既にポーランド問題やバルト諸国をめぐって悪化の途を辿っており、ドイツの対英上陸作戦も漸く困難を加え、スターマーの渡日が日本を対米英牽制に利用せんとする打開の策であったことは前述の通りであり、またアメリカ未だ参戦せずとはいえ、アメリカの対英援助は益々真剣となり、いよいよ戦備を整え事実上参戦の態勢にあったといえる。かかる反面の事実を見れば、近衛は確かに状勢判断を誤ったものと言う外なく、而もスターマーの言に依存してソ連との国交調整を後回しにしたことは明らかに重大な手落ちであったと言わなければなるない。のみならず、同盟の2大目標たるアメリカの参戦防止も対ソ国交の調整も完全に外れた。その必然的結果として日華事変の解決、南方への進出、東亜新秩序の建設が相共に総崩れとなり、日本を日米開戦に引きずり込んだことを想えば、3国同盟の締結が国家百年の計を誤ること、如何に甚しかったかが分かる。
 更に遡って、3国同盟の締結は、同盟の前身とも言うべき日独防共協定強化の段階に於いて既に大きな無理があった。軍殊に陸軍はドイツを崇拝する考え方から次第に英仏をも含む世界対象の無条件軍事同盟をドイツと結ばんとする態度となり、これに同調しない平沼、阿部、米内の各内閣に強力な圧迫を加え、遂にこれ等の内閣を相次いで打倒しつつ、強引に3国同盟をつくり上げてしまったのである。kの間、陸軍が如何にして国家の政治や外交に干渉して行ったかの経路は特に注目に値する。また、陛下を始め対米関係を顧慮して内心同盟に深い危惧を抱きながら、海軍や枢密顧問官、その他の諸閣僚は結局反対を貫き得なかった弱気、或いはこれ等の間に立って定見なく国策を指導することなくして陸軍に引きずられた近衛総理の態度も、深く反省しなければならぬところである。
 松岡外相は、3国同盟がスターマーの着京以来、僅か20日に足らずして締結された快速外交を自賛して「所謂慎重審議に名を借りて礦日弥久」することは「皇運を扶翼」する所以でないと称したと言われるが、我々はむしろ「疾風迅雷にも似たる痛快さを以て3国同盟を締結した第2次近衛内閣が、果たして皇運を扶翼し、積極的に国運を開拓したと言い得るか」と反問した有田外相の言葉を、多少の反対論もあるが、是認せざるを得ない。あの強情我が儘な松岡が、1941年12月8日、日米開戦の報に驚いて駆けつけた斎藤良衛に、病床から涙を呑みながら語ったと言われる次の懺悔は、遂に3国同盟の失敗を自認したばかりでなく、平和のためと思って結んだ同盟が、実は日本を戦争に追いやる決定的な第1歩であったことを告白したものであり、3国同盟研究の最後に掲げる言葉として意義深いものがあると思う。
 3国同盟締結は僕一生の不覚だ。此の同盟によってアメリカを牽制し、その参戦を思い止まらせ、日ソ両国の国交を調整し、以て平和を維持し、我国を泰山の安きに置こうとしたのだが、私のこの真剣な試みは、遂に何等実を結ばなかったばかりか、今度のようなことに立ち至って終わった。誠に遺憾千万だが、皆僕の不敏浅慮の致すところ、国家の将来誠に憂慮に堪えざるものがある。之を思うと、死んでも死に切れない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない。君にまで片棒を担がせたが、誠に済まない。(『太平洋戦争原因論』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『日本海軍の終戦工作』アジア太平洋戦争の再検討       綾瀬厚 中公新書     1996. 6.15
『御前会議』昭和天皇十五回の聖断            大江志乃夫 中公新書     1991. 2.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年11月17日 TANAKA1942b )
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(14)東亜新秩序とそれに対する英米の圧力
日本が考えていた以上の綿密な計画  
 今週は日本が中国をはじめアジアへ進出する口実である「東亜新秩序」ということと、その日本のアジア侵略を阻止しようとする英米の対日政策について取り上げることにする。英米の対日政策は十分な計画で進められていた。日本の性gふ・軍関係者の見通しは非常に甘かった。そのような点についていくつかの文献から引用することにした。
<大東亜新秩序建設の意義>  今や我が国は放題な戦線において皇威を発揚すると共に、日独伊枢軸を窺ふ第3国の攻撃に備へ、進んでは大東亜新秩序の建設を目指して万全の方策を樹てつつあるのである。即ち、昭和15年8月1日に発表せられた基本国策要綱にはその策定の要旨が大要次の如く述べられている。
 世界は今や歴史的一大転機に際会し、数個の国家群の生成発展を貴重とする政治・経済・文化の創成を見んとして居り、皇国も亦有史以来の大試練に直面している。この秋に当り、真に筆国の大精神に基づく皇国の国是を完遂せんとすれば、この世界的発展の必然的動向を把握し、庶政全般に亙って速やかに根本的刷新を加え、万難を排し、国防国家体制の寛政に邁進することがことがことが刻下喫緊の要務であると。
 更にその根本方針についても該要綱中に明らかに示されるが、それによれば、皇国の国是は「八紘を一宇とする筆国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを根本とし、先ず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことにある。
 これが為には、内には先づ国内の政治・経済・文化の諸態勢を整備して新事態に即応すべき不抜の国家体制を確立し、外には既に皇国の指導の下に道議国家としての成長を見た満州国並びに更正支那と提携して東亜の天地を欧米の侵害より防衛し、日満支相携へて政治・経済・文化の各般に亙り互助連環の関係を樹立し、大東亜共栄圏内に国際正義の確立、共同防共の達成、経済結合の実現、新文化の創造を期し、更に進んで圏外との関係を是正し、志を同じうする第3国との間に道議的国際関係を樹立し、以て世界新秩序の確立に邁進することを要する。
 かくの如き世界新秩序の根底たるべき大東亜の新秩序は、言ふまでもなく欧米の経済及び文化と全く絶縁する意味ではなく、東亜の自主的な正確を明らかにすることによって、東西相互の尊敬と信頼とを基調とする提携協力を緊密ならしめ、進んで世界新文化の建設に貢献しようとするのである。
 併しながらこの大東亜新秩序建設の前提条件となるものは、既に述べたように、内にあっては国家体制の整備、国力の充実による指導国家としての実力の  であり、外に対しては支那事変の完遂、即ち日支紛争の原因たる東亜積年の禍根の除去である。而して支那事変たるや単に日支両国の関係のみに起因するものではなく、支那と欧米諸国及びソ連との間の錯雑した関係が支那を混乱に陥れた結果に外ならない。従って真に大東亜新秩序建設の精神を理解せんが為には、従来支那が如何に欧米諸国の侵略の犠牲となり、共産主義の魔手に踊らされ、徒らに欧米と結んで日支の提携を破壊し、以て自らの独立と平和とを脅かされ混乱を続け、常に東亜の天地に禍乱の因を作って板かを知る必要がある。(『大東亜新秩序建設の意義』興亜教育参考資料第1輯 から)
*                      *                      *
<米国の経済戦争への道のり>  米国が枢軸国に対する道義的禁輸から選別的禁輸へ、さらに全面的禁輸の政策に猛攻転換を試みるきっかけになったのは、ドイツの開始した40年春の北欧や西方に対する電撃作戦とフランスの崩壊、孤立化した英国の存在をかけた戦いであった。米国は英国の強い要請と自国の安全保障の観点から、重大な政策転換に迫られた。同年7月初めには、輸出統制法が導入され、大統領の権限を代行する輸出統制官の制度が発足した。
 輸出統制官の制度は、米国の安全保障強化の必要と、中立国であった米国が経済戦争の政策を公然と打ち出せなかった政治的ギャップを埋めるための一時的な性格を持つことになった。輸出統制官は戦争一歩手前の特殊な働きをする政府機関と解釈され、経済戦争への突入に備えることになった。その意味で戦争を否定しながら、戦争のための準備をする機関であった。
 さらに同年9月における日独伊3国による軍事同盟条約の署名は、英国の経済戦争に米国が主体的な役割を果たしていく決定的な道筋をつけたことになった。米国の輸出統制官とその組織は、輸出統制の業務を進めるにあたり、英国がドイツとの経済戦争で積み重ねてきた判断の基準を適用することになった。英国の交戦国であるドイツとイタリア、及び、敵性国家とされた日本は、米国にとっても重要な輸出品目の目的地として資格に欠けると判断された。
 米国では、41年1月末までに、経済戦争の原則は明確にされ、そのための計画が進められた。経済戦争に関する認識では、それは戦争の一形態であり、攻撃的な面と防衛的な面を有するものであった。攻撃的な面では、敵国の力を制限し、弱め、あるいは破壊するための、生産から富みの分配に至るまでのあらゆる種類の経済活動を含むものであった。そのような経済活動全体が、敵国の戦闘部隊の敗北につながり、また軍事行動を継続する意思を失わせることに結びつくと想定された。また防衛的な面では、自国の国力を保護・増大させ、正常な国民生活を維持することが目指された。
 41年夏、日本の南部仏印への軍事進出に対応してとられた在米資金の凍結、石油の全面的禁輸は、敵性国家の力をそぐための最も攻撃的な手段となった。また同年7月31日に行われたベルリン・ローマ・東京の枢軸3国に対する経済戦争強化の大統領宣言は、対日経済戦争宣言とも言えるものであった。同日には、経済戦争に備えたホワイトハウスの組織改編が行われ、副大統領を議長とした経済防衛会議が発足し、輸出統制官とその組織は経済防衛会議の指揮下に入った。米英両国連帯の包括的な対日経済戦争が、経済防衛というかたちで軍事作戦に先行して実現することになった。 (『対日経済戦争』から)
<経済戦争の形態>  米英両国の日本など枢軸国に対して行われた経済戦争の形態は、8つに大別することができる。これは経済戦争一般にあてはめることができるものである。
 第1は、経済戦争を遂行するための法律整備と行政上の規制活動である。利敵行為は厳しく禁じられ、また輸出入規制と船舶輸送の規制が行われた。輸出規制と輸入規制については、特定の重要物資の数量制限から、すべての物資に全面的な禁止まで、多様な手段がある。
 第2は、利敵行為に対する機密情報の収集である。政府は、自国や味方の国々における利敵行為の疑いのある企業や組織、個人はむろんのこと、中立国における利敵行為のリストを作成し、絶えざる監視の下に、彼らの活動に規制を加えた。リストには公表、非公表の区別はあるが、彼らのブラックリストとして知られるものであった。
 第3は、中立国から戦争遂行に必要な重要資源の供給を確実に受け取ることである。特定の重要物資の獲得を目的とした中立国に対する戦時貿易交渉は、外交的説得から軍事圧力に至るまでの手段によって行われた。
 第4は、第3の目的の裏返しであり、中立国の重要物資が相手国に供給されないようにすることであった。中立国が敵国に対して特定の重要物資を輸出してきた歴史がある場合には、その数量を規制するための高唱が行われた。中立国が味方に有利であり、敵に制約を与える自主的な輸出割当計画、あるいは強制的な割当計画を実施し、そのために輸出許可制度をとることが望ましかった。
 第5は、最恵国待遇を取り消すことである。通商航海条約の破棄など、相互主義に基づく貿易上の便宜をいっさい認めず、通商上の立場を不利にさせることであった。
 第6は、敵国、あるいは敵国の支配地域の政府が自国に有する資金を凍結することである。資金凍結に加え、国際金融市場へのアクセスの禁止により一切の国際経済関係から切断されることが目的とされる。それには主要な連合国ばかりではなく中立国の協力もまた必要とされた。
 第7は、公海、もしくは封鎖線で、交戦国へ戦時禁制品が持ち込まれないように海軍力を使って臨検し、強制的な阻止行動をとることである。
 第8は、封鎖あるいは経済活動破壊のための軍事行動であり、経済戦争の手段であると共に、軍事作戦行動の一環であった。航海上の敵国の船舶輸送への攻撃、重要物資の生産・貯蔵・流通の拠点攻撃などが含まれる。
 以上8つの形態のうち、開戦前の対日経済戦争は41年7月末から8を除いて実施された。また1についても交戦状態に入る以前は、国際法や国内法による敵国としての位置づけが困難であるため一定の限度のあるものであった。しかし、日本軍の南部仏印進駐を契機にした対日石油禁輸は、大統領権限に基づいて徹底したものとなった。
 米政府の内部資料からうかがえることは、対日経済戦争の発動や石油の全面禁輸については、ルーズベルト大統領の作為的な指導という特徴はみられず、米政府内部のハト派とタカ派が接近し、官僚組織あげての行政敵対応となっていたという点である。 (『対日経済戦争』から)
<英国の経済戦争への道のり>  日本に対する経済圧力の必要性が英国で検討されたのは、31年に満州事変が発生し、国際連盟を軸として日本にペナルティを科そうとする潮流が次第に満ち始めることになった時期である。日本が中国における米欧諸国の経済活動に制約を加えているとして、差別政策への報復手段としても経済制裁の政策の適用が討議された。そして具体的な計画が練られたのは、37年7月盧溝橋事件に端を発した日本の対中戦争が本格的に進展したときであった。
 これらの討議から常に引き出された結論は、日本に対する経済圧力の成功はいつに米国の協力にかかっているということであった。この基本的な判断は、その後確固不動のものとなり変わらなかった。37年10月の英産業諜報センター報告書は、「日本の備蓄が枯渇したあと、英帝国や連合国、及びその影響下にある地域からの原料資源の供給がなければ、日本の経済は立ち行かなくなる。ただし米国の効果的な協力がなければ、対日ボイコットの手段はその目的を達成しない」とした。
 英帝国の安全保障を検討する帝国防衛委員会は、37年12月末、対日経済圧力を行使するための明確な計画を準備することは、ドイツに対する同種の計画を準備することより優先的に行わなければならないという指令を下したが、このため対独経済圧力の具体的計画を作成するための作業は一時中断されたが、38年3月に復活している。対独戦争時の経済戦争計画に水をさすかたちで、対日経済圧力の計画準備を優先させようとした指令の意味するところについては、いくつかの背景が考えられなければならない。
 まず国際情勢を考えると、英国ではドイツとの緊張が37年の前半を通じて継続したとはいえ、38年3月のオーストリアのドイツによる強制併合や9月のミュンヘン危機の前であり、ドイツとの関係が緊張感を帯びていたとは必ずしも言えないことである。これに対して日本は南京攻略作戦を行い、中国人虐殺のいわゆる南京事件が世界に報道され、英米のも大きな衝撃を与えた時期であった。しかしそれ以上に、対日経済圧力を成功させるためには米国の協力が必要であり、またドイツとの全面戦争に米国の協力を引き出す上でも、対日経済圧力の具体策を早く描き出す必要があったと見ることができる。
 対日・対独どちらの具体案にしても、戦争遂行に欠かせない重要物資の備蓄状況を洗い出し、戦時禁制品のリストを作成しなければならなかった。またこれら敵性国家と交易を行っている中立国の経済関係を調査し、交易規制のための外交的説得に乗り出したり、説得不能の場合には、さまざまな圧力をかけることを計画する必要があった。とくにアジア太平洋では、英仏蘭の植民地や米国の影響力圏が入り込んでおり、さらにオーストラリアやカナダなど大英帝国内の事実上の独立国の経済関係も考慮しなければならないので、対日圧力をかける上での調整活動はきわめて複雑な道のりが予想された。
 対日経済圧力と対独経済圧力が並行して検討され、戦時における経済戦争の具体案がそれぞれ策定されたのは、ほとんど同じ時期であった。日本のそれは38年2月、ドイツのそれは同年7月である。対日計画はかなり精巧にまとめられたもの、対独計画は一応その時点で完成されたものであた。対日経済圧力は道義的禁輸政策と呼ばれる段階にとどまっていた。
 しかし、40年9月に日独伊3国の軍事同盟が成立したことは、枢軸国に対する英国の経済戦争と米国の経済圧力を結びつける重要な役割を果たすことになった。日独伊が軍事同盟で結ばれたその2ヶ月ほど前の7月に、米国で国防強化の目的で導入された輸出統制管理官の制度は、3国同盟によって日本に経済的な圧力を経済戦争同様にかけていくことのできる刺激的な第1歩となったのである。米国で経済戦争を行うにあたってのメカニズムが動き始めたことについての、日本の政軍指導者の反応はみられなかった。 (『対日経済戦争』から)
<大恐慌期における貿易政策転換の中核的推進主体>  アメリカは、第2次世界大戦終了後に資本主義世界の中で経済力において圧倒的地位を占め、世界的自由貿易体制の中軸国として現れてくるが、その歴史を振り返って見ると、保護貿易国家を任じてきた期間の方がはるかに長い。すなわち、1826年関税法の制定によって初めて保護関税が導入されて以来、1846−61年および1913−22念の両期間に低率関税期が存在したとはいえ、大恐慌期の最中にあたる1934年に互恵通商協定法が制定されるまで、基本的には高率保護関税政策が維持されてきたのである。
 ハル国務長官の唱道のもとで「合衆国産品の国外市場を拡張する」目的をもって、各国と通商協定の締結を図るために大統領に対し現行関税率の50%までの変更権を認めた1934年互恵通商協定法は、アメリカ貿易政策史上に「おいて画期的意味を持つものであった。そなわち、同法の制定によって従来のような議会の専権に基づく自主関税1本槍の政策が改められ、初めて行政協定に基づく協定関税が本格的に導入されたのである。ここにおいて高率保護関税の維持を前提とした報復関税賦課の威嚇による輸出拡大策が破棄され、相手国から譲歩を獲得するために輸入関税面でみずからも譲歩するという、いわば輸入の拡大を伴う輸出拡大策が導入された。さらに、同法には1922年関税法317条を契機として1923年に導入をみていた無条件最恵国待遇の原則が条文として明記され、同法に基づく通商協定には同原則が適用されることとなり、あめりかは自由貿易化の方向を鮮明に打ち出してくる。そして互恵通商政策の展開=各国との通商協定の締結をみるなかで、高率関税体制は最終的に崩壊への道を辿っていくのである。したがって同法の制定は、伝統的な保護貿易政策から自由貿易政策への180度の方向転換の起点をなすちともに、第2次世界大戦後に成立をみたアメリカを中心とする世界 的自由貿易体制の形成に向かう萌芽が孕まれた起点としても位置づけられよう。
 互恵通商政策について、内外の研究史ではほとんど政策史ないし政治史レベル における論及に限られており、その指示基盤と政策志向自体に関して詳しく論じられたことはなかった。ここでいう支持基盤とは、主要産業諸部門のうちにあって、貿易政策の転換を下から推進した有力企業や業界団体を指す。大恐慌による過剰生産と失業問題、農業問題に直面するなかで、これらの利害関係者は、このこととの関連において貿易問題に対していかなる立場を示していたのか、この点を究明することは、政策転換の歴史的特質の解明にとって不可欠の前提をなすものと思われる。本章では、貿易政策転換をめぐる実業界の動きに焦点があてられる。とくに、大量生産と大量販売を統合してアメリカの巨大な生産力を最も典型的に体現しながら最大の産業にして最大の輸出産業に成長した自動車産業の立場はどうであったのか、まず当該産業こそが貿易政策転換の中核的推進主体をなす位置にあったことを認識したうえで、この点を互恵通商政策の導入・実施・継続をめぐって斯業の同業者団体である「全国自動車商業会議所(Automobile Manufacturers Association と改名)から国務省に送られた書簡・文書の所論に即して実証的に明らかにし、ここにみられるビジネス側の論理を軸心に据えて大恐慌期アメリカにおける貿易政策転換の歴史的特質について若干の論点を提示したい。 (『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』から)
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<アメリカの対日経済圧迫>  アメリカの対日圧迫は、日華事変の進展に伴い次第に強化される機運にあったが、その目的は、1つには援蒋目的から発したものであり、他の1つは日本の南進を阻止せんがためであった。アメリカの対日圧迫は国際連盟によって明確に表現された。連盟は昭和13年2月2日ならびに5月初旬、対日決議案を採択し、9月には日本に対し連盟規約第16条の経済制裁条項を適用することに決定した。これらの措置に対して日本は、10月3日連盟に対する一切の強力を停止し、ついで昭和13年12月2日には、遂に国際連盟を脱退することとなったのである。
 これよりさき、日華事変は、華北から華中へ、さらに華南へと拡大し、10月27日の武鑑三鎮の完全占領によって、米英権益の大部分は日本軍の占領下に置かれることになった。日本政府が昭和13年11月3日に行った東亜新秩序建設の声明(近衛声明)および、「日本は東亜において、真の国際主義に基づく新秩序建設に全力を挙げている。東亜の天地に新たなる状勢が展開しつつある際、事変前の事態に適用ありたる過去の観念ないし原則をもって、現在および今後の事態を律することは当を得ない」との有田外相の門戸開放主義修正の必要を要求せる通告は、米英諸国をいたく刺激した。イギリスはこれに対し、昭和14年1月15日付の対日通牒を日本に寄せたが、アメリカにおいてはイギリスよりも早く、昭和13年12月31日、既存の門戸開放原則を無視して打ち立てられたる中国の新秩序を承認し難いとの対日通牒を公表したことにより、日米関係は従来の如き個々の権益侵害を中心課題とした「懸案交渉」の域を超えて、「主義原則に関する対立」に立ち至ることになったのである。
 空爆問題、在華米人権問題により悪化の一途を辿っていたアメリカの対日感情は、一層拍車をかけられることになり、従来の対華援助はさらの一歩進めて、積極的対日牽制の態勢をとることとなった。すなわち、従来実現されていなかった総額2,500万ドルにのぼるアメリカの対支借款が、昭和13年12月15日、アメリカ復興金融会社社長G・Sジョーンズ氏により発表され、ついで昭和14年1月14日には、航空機並びに部分品の事実上の対日禁輸が実行されることになったのである。これは昭和13年7月以来の国務省当局の航空機製造業者への対日航空機輸出の道義的禁止勧告の結果を具体的に公表することによって、対日供給者を威嚇し目的を達成せんとしたものだった。すなわち、当時の新聞報道によれば、昭和14年1月9日に発表された軍需品統制強化の議会への年次報告の中で、非戦闘員を爆撃する国に対する飛行機並びに部分品の輸出を歓迎しないと云う国務省の方針は、唯一の例外を除き、民間業者の協力を得た旨を述べ、さらに14日に至りその例外とはコネチカット州のユナイテッド・エアクラフト会社であることを公表した。これに対しユナイテッド・エアクラフト会社は、同19日声明を発し、自己の弁明と、今後の国務省方針への協力を誓ったのである。
 これと相前後してしょうわ14年2月7日国務省当局は、1924年の外国への投資に関する外交文書を公表し、日本勝者に対する投資には国務省は反対であり、就中、中国の経済開発にtsめにする対日投資はこれを阻止する方針であると発表した。かくの如く次第にアメリカが対日経済圧迫を歩を進めている間も、日華事変は進展し、日本空軍の重慶、その他の都市への空爆に対し、アメリカ側から抗議が提出されていたが、昭和14年7月10日ハル国務長官は堀内対しと会見し、アメリカは日華事変に直接介入する意志はないが、アメリカとしては、在華米権益の尊重、在留米国民の生命財産の安全を要望するものである旨を希望し、在留米国民の生命、財産を擁護する上からも重慶爆撃に対し、日本の注意を喚起するとの意見を表明した。これらの状勢のの反映としてアメリカ国内のおいては、上院外交委員長ピットマン氏の「9カ国条約違反に対する貿易制限決議案」、シェンバッハ上院議員の同主旨の提案、7月18日には共和党上院議員ヴァンデンバーグ氏による「日米通商漸く廃案」の提案などがなされた。
 また、中国に関しては昭和14年6月14日に日本陸軍による天津英租界の封鎖から端を発した日英東京会談が行われた。アメリカ政府がこの日英会談を単に日英間の問題であるにとどまらず中国に利害を有する総ての国の問題として重視していたことは当時の新聞論調に明らかである。これがイギリス側の一応の譲歩によって妥結に近づき、また同じ頃日本軍による珠江の封鎖(7月26日)が発表されるや、アメリカ政府は同日午後10時突如として1911年締結された日米通商航海条約の破棄を発表した。これはアメリカ政府が日本に対する牽制の法的障害を除去し、極東の今後の新情勢に処して随時、合法的に対日制限をなし得ることにより、日本の今後の動きに警告を与えたものと解せられる。その後昭和15年1月26日を以て条約は満了し、新条約の締結の可能性もなく、日米関係は全く無条約時代に入ることとなったのである。(『太平洋戦争原因論』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『大東亜新秩序建設の意義』           文部省教育調査部  文部省教育調査部 1941.11.20
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版 2002. 8.15
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年11月24日 TANAKA1942b )
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(15)保護貿易の反省から生まれたガット
二度と再び日本のような被害国を生むな
 自由貿易体制のもとで経済成長を遂げていた日本が、保護貿易政策のために経済成長のための外的環境が変わったことにより、大東亜経済圏建設という無謀な幻想に惑わされることになっていく。こうしたことへの反省で、戦後自由貿易を推進するガットが創設されることになった。今週はこの「ガット」について扱うことにする。
<歴史的仮説とクレオパトラ>  人間の歴史には、さまざまな仮説を立てて試みるに価するものがある。しかし歴史の時間を遡行して、すでに起きてしまった事実を取り替えることはできない。ここでガットがなかったらと考えてみることは、古代エジプトのクレオパトラがそれほど美しくなかったら、世界史を変えるほどの恋いに陥る人も現れなかったかもしれない等という仮説とは違った意味をもっている。
 ガット(関税貿易一般協定)は今では空気のように、在ることが当然とも感じられるが、それがなかったら、今日の世界の経済発展と貿易はどうなっていたかと考えてみることは可能であるばかりか有益である。それは、空想の中で仮説を立てるのではない。現代史の中でガットがなかった第2次世界大戦のすぐ前の頃に、世界の貿易と通商に実際に起こったことを、私たちは歴史的に憲章することができるからである。
 歴史や経済学を含む社会科学は、自然科学と違って通常は実験を繰り返せない学問である。しかしガットが存在しなかった時代については、史実を見ればよい。ほんの60年前の世界的保護主義の嵐の中で、日本を焦点としてほぼ世界中が実施してしまった壮大な、苛酷な歴史的実験の跡を見ることができる。(『ガットからWTOへ』から)
<ガットなき時代の対日貿易差別>  第1次世界大戦が終わって第2次世界大戦が始まるまでの機関は、「戦間期」と呼ばれ、世界的に平和な時代であったと言われる。だがよく見れば、この時代は、その時まで世界を支配していた大きな流れが変わっていく、ダイナミックな期間であった。それなでの世界秩序の中心的役割を担っていた大英帝国の枠組みが弛み、その力の相対的衰えと伴に、世界のリーダーシップが米国へと移っていった。いわゆる「覇権」の交替期であった。つまりヨーロッパ中心であったそれまでの世界の秩序が、大きく崩れつつ先は見えてこない過渡期であった。当時日本は、ちょうど今日のNIESのように欧米の先進国に「追いつこう」と努力していた発展途上国の1つであった。
 当時の日本は、1つの産業の分野(特に繊維工業)で発展し、世界市場に参入し、先進諸国にチャレンジしていた。そうした世界市場での競争を通じて、それまでの世界の覇者英国を、綿工業の分野で「追い上げ」た。それのよって、若い日本はそれとは意識していなかったが、英国を中心とした旧世界秩序の破壊に拍車をかけ、世界の新しい時代への移行に影響していった。1929年、米国に世界大恐慌が始まった。それが世界中に波及し深まった1933年ころに、世界貿易は、1926年水準の約3分の1に低下した。世界大恐慌の中で各国は自国の救済に必死となり、保護主義は世界を覆って激しくなった。しだいに日本は通商の世界的保護主義の対象となり、十字砲火を浴びせられていった。昭和元年(1926年)から12年間(1937年まで)のことである。
 なぜ日本が保護主義の標的となったのか。その原因の中には、世界経済が大恐慌の底に沈んでいくなかで日本経済の回復力は速く、1937年までに輸出が1926年水準の95パーセントまでも回復したことがあった。同年の世界貿易の回復力44パーセントと比べて、その速さが分かる。輸出回復の過程で、日本は世界中から激しい通商規制と差別の対象となった。その事実は、当時の日本の貿易摩擦の様子を海外市場別に振り返ってみれば明らかになる。
 先ず中国は、当時の日本にとって輸出入とも25パーセント以上を占める良い市場であった。それが、日本の中国への「21箇条の要求」を、時に中央政府が受諾して以来、日本製品のボイコット──商品の不買運動──が燃え上がった。
 特に満州事変以後は、この運動は中国全土に広がり、厳しい貿易障害となった。その結果、日本はボイコット運動の激しかった地域、とりわけ豊かな中部と南部の中国市場を失った。そのため日本は、発展を続ける国内産業の生産品の市場とその原料市場を、世界中にますます広く求めていくようになった。(『ガットからWTOへ』から)
<日本が震え上がった対米輸出の凋落>  1926−29年に、米国向け輸出は日本の総輸出の42パーセントを占め、年間平均94万ドルの黒字を稼いだ。この輸出は1937年までに輸出額は20パーセントと半減し、対米輸出依存度の高かった日本を震撼させた。凋落の要因の1つは、対米輸出の82−83パーセントを稼いでいた1次産品生糸の米国市場の崩壊であった。
 しかしそれを補うべき工業製品の輸出も、他の地域への輸出と比べてまことに思わしくなかった。その要因の1つに米国の対日通商政策がある。ニューディールの一般的な対外政策は、悪名高き1929年のスムート・ホウレイ保護関税法による通商規制を緩和させる方向にあった。しかしその流れとは反対に、対日関税は重くなった。
 また日本からの工業製品に対しての、当時の米国の重量税も、低価格の工業製品を多量に輸出して伸びていた後進国日本にとっては、高い実質関税となった。そもそも、関税には従価税と重量税の2通りがある。従価税は輸入価格に対して、たとえば30パーセントをかける。これに対して重量税は、輸入量に対してかける。実例を挙げれば、1934年に米国が日本製鉛筆(登録商標以外のスタンプのある安いもの)にかけた関税は、従価税25パーセントと重量税が1グロス(12ダース、144本)につき50セントを加えた複合関税であった。従価税は、どの国の製品に対しても平等な一律関税である。しかし重量税は、質では先進諸国の製品と太刀打ちできず、安い単価の品数で輸出を稼ぐ後進国(途上国)の製品に対しては、単価が安く数量が多いほど実質的に高関税率となる。先にあげた鉛筆の実例で日本は、英国製やドイツ製品と競合していた。従価税に換算した実質関税率は、この製品一般(英・独・日)に対して180パーセントであったが、日本製品には実に288パーセントの高関税となた。そして37年までにこの品目の日本製鉛筆の輸出は皆無と、惨敗した。
 また白熱光電球の輸入には、一律に20パーセントの従価税がかかった。しかし日本製には、さらに30パーセントのダンピング関税がつけ加えられた。したがって日本製品には50パーセントの関税となった。こうしたダンピング関税は、当時の米国の通商統計を見れば、稀なことが分かる。どうして日本製品にだけこのような重い関税をかけることができたのか。
 当時の米国と日本が結んでいた通商協定は、条件付き最恵国待遇(MFN)の条項を含んでいた。米国は1922年以降、多くの国々との間の通商条約を条件付きから、無条件最恵国待遇条項を含むものに変えていった。しかし11カ国に対しては条件付き最恵国待遇のままにとどまっていた。日本はその条件付き通商条約グループの中にあった。日本が条件付き最恵国待遇のままにとどまっている限り、通商上、他の諸国と平等に扱ってもらえない、つまり差別が生じてくる。
 最恵国待遇の条件付きと無条件とは、どこが違うか、米国はフランクリン・ルーズベルト政権のもとで、1934年以降、ハル国務長官が関税緩和と貿易拡大政策に乗りだした。多くの交易相手国と新しい通商協定を結び、関税を引き下げた。たとえば米国と英国との間の通商協定は無条件の最恵国待遇であった。そのために米英通商協定によって引き下げられた新関税率は、米国または英国と無条件最恵国待遇条項を含む通商協定を結んでいたいかなる国(第3国)の貿易にも、、同率の関税引き下げ優遇待遇がそのまま無条件に適用された。たとえばカナダでも、その他のどの第3国へでも、米国か英国と無条件最恵国待遇を持っている国には、関税引き下げが波及した。しかし日本は、米国ともカナダとも条件付き最恵国待遇しか持っていなかったため、当時の米国の通商政策の流れであった関税引き下げの恩恵には、いっさい与るすべもなかった。
 この間に、米国の対日通商政策はかえって厳しくなった。そればかりかその後、世界の各地で対日輸入規制と差別は激しさを増していった。
 今、ここに、ガットの無差別主義の原則が最もよく現れているものがある。その1つは、ガット加盟国には当時日本が受けた差別の根元である条件付き最恵国待遇が存在しないこと。ガット加盟国に提供されるのは、すべて無条件最恵国待遇である。これは大きな進歩である。現在ではそれが当然なので、特に無条件と記す必要がない。
 第2次大戦前の話に戻れば、当時、英国は力の相対的衰えを憂慮し、いまひとたびかつての栄光を取り戻したいと願った。それには英帝国連邦の結束を強化するために、帝国内交易の拡大を図り、帝国特恵の強化を要請した。
 帝国特恵とは帝国領域内の貿易は特に低関税とし、域外との交易には高関税を課して、関税格差を作り出すものである。領域内の関税が域外品の関税よりも安いときには、他の条件が同じならば──たとえば関税格差を相殺する、ずっと安い価格で輸出してくる域外の国が現れない限り──関税格差による保護のために、帝国領域内の貿易は相対的に拡大に向かうであろう。
 こうして帝国領域内の貿易を活発にし、その拡大を通じて英国経済の活性化を図ろうとした。ここまで見てくれば、これは現在のEUや米国が率いるNAFTAの域外関税格差の問題に、ひとまず通じるところがある。両者とも域内の関税を自由化し、その貿易拡大を通じて、経済の活性化を図っているからである。(『ガットからWTOへ』から)
<貿易戦争回避のために設立されたガット>  第2次対戦前の1930年代、米国が経済不況による失業者増大対策としてとった貿易政策が原因となって貿易戦争が起こった。この貿易戦争が引き金となって世界中に不況が広がり、これが第2次世界大戦の遠因になったのであった。ガットは、この貿易政策上のあやまちを反省した米英主導のもとに、終戦直後の1948年に殺率された。以下、その経緯を追ってみよう。
 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が暴落し、米国経済は恐慌状態に陥った。株券が紙切れのようになって資産を失った米国人の中に自殺者が多く出た。資産の減少は消費を停滞させ、生産を減少させた。終身雇用のような長期的雇用制度を採らない米国では、生産削減は即失業者の増大につながる。失業者が街に溢れ、その救済が最大の政治的課題となった。
 そこで輸入を抑えて、それなで輸入してきた物を国産にすれば、失業を減らせるのではないかとの考え方が浮上し、米国議会で支持されるようになった。翌30年、米国議会はホーレー・スムート法と呼ばれた新法を通過させて、輸入品に対する関税を大幅に引き上げた。その結果、米国市場に輸出の大部分を依存している隣国カナダがまず打撃を受け、カナダで失業者が増加した。そこで報復としてカナダも関税を引き上げたのであった。米・加の関税引き上げで輸出が減少した日本と欧州各国も、連鎖的に関税引き上げに走った。
 新法による米国の政策はまったくの失敗に終わった。自国の政策が貿易相手国の与える悪影響とそれに対する相手国の報復を考慮に入れない独り善がりの政策が成功するはずがない。貿易相手国からの輸入を減らすと、その国への輸出が減ることは国際貿易の通例である。さらに貿易相手国が報復t9おして関税を引き上げると、輸出減少に拍車がかかる。その結果、米国自身の1934年の輸出額が不況以前の約3分の1にまで減少し、輸入額をかなり下回ってしまった。全世界の貿易も同様に約3分の1にまで落ち込んだ。このようにして、米国に始まった不況が世界中に広がり、世界の大不況を招いたのであった。
 のちに上記の関税引き上げ競争が「貿易戦争」と呼ばれ、輸入を抑制して輸入先の国に失業者を出させ、自国の失業者を減らそうとする政策が「隣国窮乏化政策」と呼ばれるようになった。このようなばかげた政策は、戦前の苦い経験から今ではまったく考慮されないかと言うとそうでもない。米国のブキャナン氏は、このような政策を95年の共和党の大統領候補指名戦で提案し、かなりの米国市民の支持を得た。
 それでは当時の日本経済はどういう状況であったろうか。日本は第2次大戦前にも驚異的な経済成長を遂げ、激しく欧米諸国に叩かれていた。その間の経緯は、かつてガット事務局の経済分析官、東海大学教授などを歴任された池田美智子博士(池田右二大使夫人)が書かれた『対日経済封鎖』に詳しい。
 池田さんは言う。「当時の日本は努力の集積の結果、先進の欧米諸国に追いつきつつある相対的後進国であった。日本の経済的追いつきは海外市場への輸出の京背負う力として現れた。……特に発展途上国へ工業品を輸出していた先進諸国にとっては、日本の東条はその市場への侵略と見なされた。……暗黙裡に日本はその既得権益と市場の秩序を破壊する侵略者と感じられた。……欧米諸国とその植民地などは、日本からの輸出を厳しく規制し、差別的規制もあった。日本の対中政策に対する反発もあって、日本の対米輸出と対中国本土への輸出は、対日規制と日本品ボイコットの影響で1926年と37年の間にそれぞれ4分の1に激減した」
 「しかし、日本はインド(英領)、インドネシア(蘭領)、英国、満州およびアフリカ諸国への輸出増で補った。日本は折角苦労して獲得した新市場でも圧迫を受け、そのためますます満州の資源と市場への依存度を深めていった。これが対中戦争開戦前の状況であった」
 また日本は、米英蘭による対日石油輸出禁止が直接の原因となって開戦を決意した。
 第2次大戦は、つまるところ経済不況の中で、主要国が資源と市場の争奪戦を演じた帰結であったと言えよう。戦勝国米英は、このようなことが繰り返されると、世界大戦が度々起こることが避けられないという認識するに至った。第1次大戦後の敗戦国ドイツに対する苛酷な戦後処理が、ヒットラーの台頭と第2次大戦を招いたという反省も戦勝国側にあった。
 そこで、世界各国が無差別・自由に資源と市場を入手できれば相争う必要がなくなり、世界大戦の反復が避けられると考えたようである。このような経緯で、無差別待遇と自由貿易を基本理念とする国際機関ガットが作られたのであった。
 この基本理念が、経過期間をおいてであったが、敗戦国にも無差別に適用されたことは、日独両国にとって過去の歴史に前例を見ない思わぬ恩恵であったと言えよう。特に日本にとって、歴史上はじめての敗戦の結果が寛大なものとなり、第2次大戦後に経済躍進を遂げることができたのは、ガットの存在に負うところが大きい。このように世界の将来を見通してガット体制を構築することを提唱した英国の経済学者ケインズ氏や米国のホワイト氏、彼らを支持してその提唱を実現させた人々の恩恵を、幸運な国日本は忘れたはならないであろう。(『ガット29年の現場から』から)
<日本経済の発展に不可欠であったガット>  日本は1955年に米国の後押しでガットに加入することができた。しかし、すべてのガット加盟国がただちに日本にガット待遇を与える(すなわち他のガット加盟国に与えている最恵国待遇を日本にも与えて、対日差別待遇を撤廃するする)というわけにはいかなかった。英、仏、蘭、豪、南アなどの第2次大戦の相手国がガット35条を適用して日本にガット待遇を与えることを拒否したからである。当初ガットに加盟していた34カ国中の14カ国が、日本に対して第35条を適用した。英、仏、蘭、は後に独立することになる植民地を投じ多く抱えていたから、日本は世界の多くの市場で貿易上の差別待遇に苦しんでいたことになる。
 当時の日本では、対日差別待遇を許すガット35条の適用を撤回してもらうことが国民的悲願であった。新聞が連日それを書き立て、多くの日本人がそれに関心を寄せていたからである。戦後行われた対日戦犯裁判で日本の立場に理解を示してくれたインドが、他国に先駆けて1958年に第35条の対日適用を撤回した。日本の辛抱強い2国間交渉の結果、英、仏、蘭などの主要国が65年までにそれを撤回し、残りの適用国の大部分(独立して第35条の適用を旧宗主国から継承した開発途上国が多い)も75年までに撤回した。こうして懸案の対日差別待遇が徐々に撤廃され、日本貿易発展のための外的環境が次第に整っていった。
 64年には経済協力開発機構(OECD)に加盟して先進国の仲間入りをした日本は、池田勇人首相が指導力を発揮して、当時OECDが推進していた輸入の数量制限(IQ)の撤廃を工業品について積極的に押し進めた。日本はガットの交渉で関税引き下げも進めた結果、工業品に対しての貿易自由化が進んだ。それに対応して日本の工業が努力した結果、その体質が強化され、日本の工業品の競争力が増していった。こうして日本経済発展のための内的環境も整っていったのであった。(『ガット29年の現場から』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
( 2008年12月1日 TANAKA1942b )
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(16)ガットが進化してWTOへ
日本の農業保護関税政策は世界で容認されるのか
 保護貿易の反省から生まれたガットは「とりあえずの組織」であった。自由貿易体制を維持・管理するには不十分はものであったが、ウルグアイ・ラウンドを通して充実したものへと変わっていった。今週は「ガットが進化してWTOへ」と題して、ガットとWTOについて扱う。
<ガット/WTOの原則とコメの関税化>  WTOがガットから受け継いだ最も重要な原則は無差別待遇である。この原則は、車の両輪のように最恵国待遇と内国民待遇という2つの待遇によって適用されてされてされて最恵国待遇とは、関税や輸出入規制を外国に適用するにあたって、いずれかの国に与えた最も良い条件を全てのWTOメンバーに与え、国によって差別しないということである。内国民待遇とは、内国税(酒税、一般消費税などの間接税)と国内規制を適用するにあたって、事項と同じ待遇を外国に与え、内外無差別に取り扱うということである。したがって、国内産業を保護するために内国税を使って外国品を差別することはできない。たとえば、他の類似の酒と比べて異常に安い焼酎に対する酒税は国内産品優遇となっており、内国税で外国産品を実質的に差別するものであるという裁定をWTOは96年に下した。
 次に重要な原則は、関税による保護の原則である。すでに述べたように、WTOの機能の1つは市場経済を推進することである。市場経済の利点は、」生産と消費が市場価格の動きによって自動的に調節されることに」ある。たとえば、供給不足または需要の伸びのため、ある物の価格が上がれば、生産者はその物の生産を増加させ、消費者はその物の買い付けを控える。逆に、供給過剰または滋養減退のためにその物の価格が下がれば、生産が減り、消費が伸びる。このように、市場経済においては需要と供給がスムーズに均衡し、ムダがない。英国の経済学者アダム・スミスはこれを「神の見えざる手の動き」と言った。
 共産主義の中央計画経済では、物の生産が中央政府の計画によって決められていた。物の需給バランスが計画通りにいくことは少ないから、中央政府は年次計画を絶えず修正しなければならない。しかし、それを「人間の手」で行うのであるから、時間がかかるうえに不正確で、大きな経済上のムダを避けられない。計画経済はそのために失敗し、放棄された。市場経済と言えども問題が多く、規律をもって運用されなければならないが、基本的には計画経済よりも優れていることは、東西冷戦体制の崩壊に至る最近の歴史が証明した。
 市場経済を基本理念とするWTOは、輸出入の数量を制限することを原則的に禁止している。輸入の数量制限は、中央政府の計画によって輸入の数量を固定し、国内市場を世界市場の動向から剥離してしまう。このような絶対的保護を受けた産業は、合理化努力を怠って競争から離脱し、国の重荷になることが多い。そのため、WTOは数量制限に代えて関税を産業保護の正当な手段として認めている。関税からの収入は国庫に入るが、輸入制限の場合は輸入割当を受けた者に不労所得を与え、それが利権の種となり、政治汚職の温床になる。甘い汁を吸えなくなるので、数量制限による保護を関税に保護に変えることに反対する政治家が多い。
 ウルグアイ・ラウンドの交渉では、ガットを法的に強化するために、が十の原則と合致しない措置を廃止し、すべて合致した措置に変える交渉が行われた。日韓のコメの輸入制限以外のガットの原則に反する措置については、「WTO協定」の発効と同時に、あるいは一定の猶予期間をおいて、すべて廃止することが合意された。たとえば、米国は農産物の輸入制限について無期限のウェーバー(ガットの義務からの免除)を取得していたが、このウェーバーを96年末に失効させ、農産物の輸入制限をすべて関税による保護に変える、すなわち関税化することに合意した。
 日本と韓国のコメについても、ガット違反の輸入制限を合法的な関税に変える、つまりコメの保護を関税化する案が、最初は米国から、のちには貿易交渉委員会議長であるダンケル事務局長から提出された。ダンケル案は米国案と比べるとはるかに寛大で、日・韓の事情をよく考慮しており、農政の停滞を打破して農業を活性化させることに使えるものであった。しかし、農協の利権を守ろうとする政治化の意向に従って、日本政府がコメの統制を継続することに固執し、最後まで関税化に反対したことはすでに述べた。
 それではウルグアイ・ラウンド交渉全体を失敗させることになる。最終的には、問題の解決を6年間猶予する妥協案が出され、それを細川首相が受諾したことも既に述べた通りである。この案によれば、6年の経過期間の初年度(95年)に日本はコメを40万トン輸入し、徐々にそれを増やして6年後(2000年)には80万トン輸入しなければならない。もし、ダンケル案を日本が受け入れていたとすると、コメの輸入は初年度に30万トン、最終年度に60万トンか、それを若干上回る程度で済んだものと推定される。
 最終妥協案は、国内の消費者はもちろん、農民の利益にもならないものであったが、農協の既得権を延命させる役割を果たした。日本国内では、関税化が農業を崩壊させるという誤った宣伝が行われたが、話は逆であった。農家の後継者がほとんどいない現状を打破して農業を守るためには、思い切った農政の改革が不可欠であることが明らかである。たとえば、規模の拡大と経営の合理化を強力に推し進めなければならないと思われる。そのようにして初めて日本の農業が活性化し、若者に対する魅力を取り戻し、農家存続の基盤が得られるであろう。関税化が日本の農業に刺激を与え、必要な改革を促進する効果を持つことが期待されたが、その猶予が日本農業の再生を遅らせるのではないかと懸念される。
 日本に許されたコメ関税化の遅延についての合意は、WTO発効後6年目(すなわち2000年)に再交渉することが条件とされている。この再交渉において関税化を拒否すれば、日本の農業がきわめてふりな状況におかれる可能性が高い。非合法な輸入の数量制限を続けるためには、輸出国が要求する大きな輸入枠を受け入れるしかなく、関税化した方がコメの輸入が少なくて済むと見込めるからである。
 私が92年にガット事務局があるスイスのジュネーブから帰国して驚いたことは、コメをはじめとする農産物の交渉について一方的な宣伝が広く信じられており、誤解が充満していたことである。その1つは「輸入食糧にはポスト・ハーベスト(収穫後)の農薬が多く使われているから、輸入しない方がいい」という農協の宣伝で、この考え方は消費者にも広く浸透していたようである。ところでガット第20条は、ガットのルールからの例外の1つとして「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」をあげている。それによれば、有害食品については、一般に許されない措置(たとえば輸入の禁止や数量制限)を採ることができる。ただし、この規定を適用するためには「その措置が国別の差別となったり、偽装された輸入制限にならないこと」という条件を満たさなければならない。この規定の適用について輸出入国が争ったり不満を残す場合が多く、貿易摩擦の1原因になってきた。そのためウルグアイ・ラウンドで、この問題をできるだけ客観的、科学的に処理する手続きを定める「衛生および植物検疫に関する協定」が採択された。
 したがって、輸入食糧に使われたポスト・ハーベストの農薬の問題があれば、それはガット第20条とこの新協定に規定に従って処理すればよい。また、この協定に規定に不満があれば、次のラウンドの交渉でその改善を求めるべきである。衛生問題は一般の輸入制度の問題とは別個に取り扱わなければならず、この2つの問題を混同してはならない。一般の輸入制度は、WTOの原則とルールに従わなければならず、輸入の禁止や数量制限ができないことは言うまでもない。(『ガット29年の現場から』から)
<世界の貿易・経済制度とガットまたWTO>  庶民の生活に関係するガットとWTO  世界および世界各国の将来を考えるとき、制度の選択が重要課題となる。制度がよければ、その制度の下での個人や法人の努力が報われるが、制度が悪ければ個人や法人がいかに努力しても無駄が多く、成果が上がらない。歴史の経験によって、良い制度は続けられ、悪い制度は放棄されてきた。
 この世の中には、政治・経済・法律・社会・文化などについて諸々の制度がある。ガットとWTOは主に貿易・経済に関係している。その活動は一般庶民の生活に深く関係していて、生産者にとっては商品やサービスの国際競争力に影響しており、消費者にとっては物品やサービスの質と価格に影響している。これらのことは、どの程度国が貿易を自由化し、管理しているかに関係することが多い。例えば、安くて安全な食料品を消費者に提供するには、各国が食料品の輸入についてどのような貿易政策をとっているか、あるいは国境でどのように貿易を管理しているかに依存している。
 ガットとWTOは本来貿易機関であるが、貿易問題を解決しようとすれば、国内経済制度の改善が必要になる場合が増えてきた。そのためガットとWTOは次第に国内経済問題に関連したルールを作ることが多くなってきた。特に、新分野のサービス貿易や知的財産保護の関係にそれが多い。
 また、輸入制限や関税のような誰の眼にも明らかな貿易障害が少なくなるにつれて、ガットとWTOが主宰してきた貿易交渉の範囲も次第に広がってきた。保険衛生措置のように十分検討しなければ貿易障害であるかどうか分からない措置にも近年注意が向けられてきた。現在問題とされる非関税貿易障害(関税以外の貿易障害)には保険などの厚生関係が多い。
 初期の交渉では関税が主要な地位を占めていたが、ガットとWTOの管轄範囲が拡大するにつれて関税の地位が次第に低下した。しかし、関税がWTOで中心的な地位を占めていることには変わりがない。(『WTOとFTA』から)
市場経済を推進するガットとWTO ガットとWTOは市場経済を推進しており、市場経済国以外を原則として加盟させていない。長い間米国とソ連は異なる経済制度の下で対立してきた。しかし、ソ連が計画経済を放棄して東西冷戦が終わり、市場経済が計画経済に優れていることが証明された。今では大部分の共産圏諸国が「計画経済」に代わり、「市場経済」を採用すると言明している。また、これらの共産圏諸国は制度改革を促進するために、市場経済国の国際機関であるガットまたはWTOに加入を申請した。2001年12月に中国がWTOに加入し、経済が躍進した。また、ロシアやヴェトナムなども市場経済化およびWTO加入交渉を進めながら、WTOに加入できるように制度改革を進めている。
 ガットとWTOは政治と間益することをできるだけ避けてきたが、間接的には政治と関係している。専制君主や独裁政治家も、よい政治をした時期があったと言われることがあるが、長期間権力を握っていると国民を犠牲にした独善的行動に走りがちであることを、歴史は証明している。政治体制はその時代や国民性などによって多少異なっているが、情報社会においては国民に主権がある民主主義が独裁政治に優っていることが明らかである。しかし、民主主義にも運用上の問題が多く、日本には反省すべき点が多い。
 世界には、未だ貿易よりも政治が重要で、WTOへの加入を表明していない北朝鮮、イラク、イラン、アフガニスタンなどがある。これらの国々にとっても、徐々に経済を市場経済化し政治を民主化していくのが、究極的な問題の平和的解決法であると考えられる。改革は危険と困難を伴うが、それが遅れれれば遅れるほど国民がその結果に苦しみ、指導者にとって危険が増す。
 経済が市場経済化されれば、政治も次第に民主化されてくる。WTOのよい点はWTO加入に市場経済化が要求されるが、政治上の改革は当事国に任せることである。各国の政治事情は異なっていて、国の秩序を守りながら国内制度の改革を進める必要がある。
 例えば、巨大な国土と人口を抱える中国では国家の統治が難しい。現政権は経済で市場経済化を進めながら、政治上は共産党独裁を続けている。しかし、市場経済化も政治の民主化が進まなければ効果が少ない。中国は2003年3月に新しい指導者と交代したが、新指導者は皆教条主義的な政治家ではなく、実務家であると伝えられている。看板は同じでも中身は次第に変わってきた。(『WTOとFTA』から)
グローバル化への対策 世界経済がグローバル化したと言われているが、世界経済が国際化し、さらに一歩を進めて一体化してきたのは、主としてコンピュータや航空機運送などが普及し、世界の通信と交通が飛躍的に発達したためであった。しかしそれだけではない。ガットとWTOが多角的ぶすすmねてきた貿易自由化のみならず一部の国が進めてきたFTAによる貿易・経済の自由化も世界各国の相互依存関係を深め、グローバル化に貢献した。
 グローバル化した世界経済で成功するためには、複雑な多文化・多民族を理解し、それぞれに肝要であることが必要となってきた。また、世界語となった英語を使うことが貿易・経済をはじめとする社会において相互のコミュニケーションのために必要となってきた。
 グローバル化時代は時の流れによって訪れたもので、グローバル化の反対を唱えても問題が解決するわけではない。しかし、WTOは今やグローバル化が問題を伴っているという事実を認識し、グローバル化した世界の貿易問題に対処しなければならない。例えば、グローバル化の波に乗れない開発途上国の問題がWTOで登場してきている。それは疎外化(marginalization)と呼ばれている。
 グローバル化対策が実行できるかどうかは、多角的貿易交渉に参加する国々の働きにかかっている。その意味で、WTOにおける日本の行動が注目される。(『WTOとFTA』から)
制度改善を進めるガットとWTOの交渉 世界政府は未だ誕生していないが、貿易・経済に関する限り、WTOが拘束的な国際ルールを導入して世界における貿易・経済制度の調和化に貢献している。WTO加盟各国の法律が国際ルールに従って整備され、法律の実施に安定性と予見性があることをWTOが求めてい0る。法律の解釈が国内で統一されておらず、裁量の余地が大きい人治主義にはWTO上問題が多い。ガットとWTOでは加盟国が法治主義を採用していることを前提としてきた。
 大国は、その支持があってはじめて国際ルールができるといった面もあるが、一方的に自国の決定を他国に押しつけることがある。ある国が国内の政治事情を反映して国際ルールに違反した措置を取れば、それから損害をうけた他の加盟国がWTOの紛争解決手続きを使ってその措置の是正を求めることができる。それはWTO上の権利と考えられており、WTOに加入していれば小国でも行使することができる。例えば、コスタリカは中米の小国であるが、繊維問題についてガットに提訴し、米国に勝訴した。そのため多くの開発途上国にとってWTOの価値が上がってきたと言われる。
 ガットまたはWTOに提訴しダンピング防止税やセーフガード措置bを使う加盟国が近年増えてきた。強力な軍事力あるいは経済力を背景として一方的措置をとる国があっても、貿易面においてその国は加盟国の1つである。いずれの加盟国も国際ルールの枠からはみ出した行動をとれば、被害を受けた国はWTOに提訴することができる。提訴すればその措置が撤回されるか、直ちに撤回されなくても、制裁するか代償を受け取ることができる。
 日本を含むWTO加盟国の貿易・経済制度は、WTO加盟国が合意してできた国際貿易ルールの枠内にあり、優れた貿易・政界制度に基づいている。しかし、ルールは一旦できると、やがては古くて実状に合わなくなり、欠陥が露呈する。ラウンド貿易交渉の度に、既存の国際ルールを改定して、新ルールを導入するのはそのためである。したがって、WTO加盟国は、国際ルールの交渉を他人任せにしておけない。その結果が各国内の貿易・経済制度に影響するからである。(『WTOとFTA』から)
<世界貿易機関(WTO)の設立>  ガットとWTOの違い ウルグアイ・ラウンド交渉は、個別分野についてルールを新たに作ったり、強化するほかに、それらルールを包み込む枠組みであるガットを一新するという大きな成果を達成した。
 ガットを家にたとえれば、、昔からその中にある家具を新調したでかでなく、新たな機能をもった家具を買い入れ、家自体も新築したということになる。それでな、ガットと、ウルグアイ・ラウンド交渉の結果、新たに設立sだれることになる世界貿易機関は、どのように違うのであろうか。
 第1に、ガットは正式な国際機関ではない。これを聞いて、疑問に感じる方もいるかも知れない。ガットには、理事会もあり、事務局長も置いており、たの国際機関となんら違いはないように見えるかも知れないが、ガットは、国際連合や経済協力機構(OECD)のように国際約束(条約や協定)に基づいて設立された国際機関ではない。それではガットは何かと言えば、その名称(関税および貿易に関する一般協定)が示すように、協定の名称である。
 もともと、第2次大戦後、安定した国際経済体制を築くため、金融面である国際通貨基金(IMF)、世界銀行と並んで貿易面の柱となるべき国際貿易機関(ITO)を設立する構想があり、ガットに定められるルールは、もともとITO憲章の一部を構成するものであった。
 しかし、、ITOの主唱国である」アメリカで議会がITOの設立に反対し、当時のトルーマン大統領はITO憲章の議会提出を断念せざるを得なかった。また、アメリカの動きを見たヨーロッパ各国もITO憲章への参加を拒否したため、結局ITOは発足しなかった。
 このように、ITO設立は実現すなかったが、戦後の国在経済体制を支える何らかの貿易ルールが必要であるとの認識から、ITO憲章起草に参加した各国は、関税交渉の結果を記載した譲許表(税率表)と、その効力を確保するために必要な規定などをITO憲章から抜き出して、ガットを作成し、「暫定的」なものとして適用することにした。
 「暫定的」という言葉には、将来、ガットおよびこれを管理する国債期間が正式に発足するまで、とりあえず必要なルールを適用するという意味が込められていたが、結局、ガットは正式に発効せず、「とりあえず」適用されているという状態が40年以上続いていた。
 このように、ガットが暫定的に適用されていることと同様、」組織面でも暫定的な状態が続いていた。ガットは国際機関を設立する協定ではなく、むしろ、各国間の「契約」としての正確を持つものであり、ガットを運用するために必要な組織的事項については、とりあえず、ガット25条に規定される「締約国の協同行動」に基づいて決定されることになった。ガットの「理事会」も、このような決定によって設置されたものである。また、ガットにも事務局長がおり、事務局はあるが、ガットには機構についての規定が置かれていないので、ガット事務局長や事務局はガットの規定に基づく存在ではない。
 これらは、1949年のガットと国際貿易機関中間委員会(ICITO,ITOが設立されるまでの機関の事務を執行するためのもの)との間の取り決めに基づいて設置されたものである。
 他方、ガットを運用するための国際機関を設立する努力が、これまで行われなかったわけではない。55年には「貿易協力機構(OTC)の関する協定」が作成され、この協定にはミニITOとも言うべく、期間の任務、権限などの他、総会、執行委員会、事務局、予算および分担金、地位(特権、免除等)が規定されていた。しかし、この協定も、ITO憲章と同様、発効することなく、歴史的文書として終わることになってしまった。
 ウルグアイ・ラウンドでは、このように40年以上の長さにわたって「とりあえず」の存在であったガットの組織を、より強固な基盤の立つWTOに一新することとなった。これによって、名実ともに多角的自由貿易体制を管理するための組織が寛政するのであり、過去40年の経緯を振り返れば、WTOの設立はウルグアイ・ラウンドに参加したガット締約国、さらには自由貿易にとって非常に重要なせいかであると言えよう。
 ガットとWTOの違いの第2は、前者がモノの貿易についてのみ規律するのに対し、後者はサービス貿易、知的所有権、貿易関連投資措置といったウルグアイ・ラウンド交渉の新分野も規律するということである。国際経済をとりまく環境の変化に伴い、サービス貿易などの重要性が大きくなったことにより、従来のガットのルールのみでは、多角的自由貿易体制を効果的に維持・強化することはできない。ウルグアイ・ラウンド交渉で、新分野についてのルールが作られ、これを運用する組織が確立したことは、大いに意義のあるとと言える。(『ウルグアイ・ラウンド』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『WTOとFTA』 日本の制度上の問題           高瀬保 東信堂      2003.11.10
『ウルグアイ・ラウンド』            溝口道郎・松尾正洋 NHKブックス  1994. 7.25
( 2008年12月8日 TANAKA1942b )
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(17)FTAは最恵国待遇に反しないのか?
新たなブロック化の危険性はないのか?
GATTやWTOでの交渉が難航する一方、個別の国々が協定を結ぶFTAが多く見られるようになった。確かに御別での国々の自由貿易は進むのだが、その一方で最恵国待遇の精神に反することになる。協定を結んだ国は自由化の恩恵を享受できるが、逆に協定外の国にとっては差別待遇となる。貿易自由化を促進する一歩となるのか?それとも一種のブロック経済となるのか?今週はこうしたことで、FTAを扱うことにした。
<FTAが創る日本とアジアの未来>  日本は、他国と繋がりがなければ維持できない国であることを我々は改めて認識しなければなりません。食料は約6割を、そしてエネルギーについては水力を除き、ほぼ全量を海外からの輸入に頼っています。つまり、原材料、エネルギーなどを輸入し、それを加工し、付加価値をつけ、自動車、電気製品などを輸出し、外貨を稼がなければ、日本は生きていけないのです。
 一方、世界を見ると、グローバリゼーションが急速に進展しています。まず、貿易、金融、企業ルール、製品標準などが国際的に統一されつつあります。いままで中央政府の仕事は、「国内の政策の調整」であったものが、「国際ルールの作成において日本に有利なルールをいかに創るか」に変化しつつあります。しかしながら、銀行の自己資本規制、企業会計ルール、通信・ソフトウェアの国際規格、貿易ルールなどの策定において、日本は十分な主張を行えていない状況にあります。
 また、中国をはじめとしたアジア各国・地域が本格的に国際市場経済に参入することが、国際経済に大きな変化をもたらしています。日本においても中国が米国を抜がいて最大の貿易相手国になり、東アジアとの貿易・投資関係の比率もますます高まっています。
 日本としては、こうした国際的な経済環境の変化を踏まえて、21世紀の国家像、およびその工程図を作ることが求められています。年金問題、財政赤字問題でもすでに見られるように場当たり的な、その場をやり過ごせばいいといった官僚的な対応では必ず破綻します。わずか数年で職場を変わる官僚に長期的な政策の戦略を任せることはやってはいけないと考えます。日本の10年、20年後の姿と言うものは、やはり「政治」の場で示されるべきであると考えています。
 本書は、2004年の1月に大学の研究者を辞め、参議院議員となった藤末健三と2004年まで米国、イギリスの研究所で研究そ重ねてきた小池政就が、変遷する国際通商体制と新しいアジアおよび日本の姿を示すことを目的に書いたものです。
 日本を取り巻く世界では政治・経済・文化等を多くの分野において、これまでの体制や常識だけでは対応が困難な状況が拡大しています。その一方で国内に目を向けると、損後から続く旧来の体制から抜け出すどころか、日本の内政・経済は沈滞ムードに包まれ、加速する少子高齢化、経済成熟化による需要の停滞、拡大する財政赤字といった将来への不安は悪化する一方です。更に、膨らむ将来不安は国民のチャレンジ精神を削ぎ、国全体を内向きで守りの姿勢へと向かわせてしまっています。
 しかしながら、日本はもはや鎖国をすることは不可能であることを再認識しなければなりません。今、門を閉じ、狭し家の中に引きこもることはできないのです。日本に求められるのは旧来の体制や成功体験を守る消極的な姿勢ではなく、国境を超えたオープンでフェアは社会を自らが創造し、その中で共に競い合っていくために自己改革するという、「フロンティア」の精神なの」です。
 アジアや世界の国々との経済統合が進み、企業や人の交流、投資の活性化、知識の移動がより一層進展することが予想される中で、日本が為すべきことは、現政府が取り組んでいるような内向きで閉鎖的な構造改革ではなく、近隣諸国との関係を考慮した「開放的な構造改革」であるべきです。このような新しい経済連繋の時代が始まった今こそ、日本が失った自信とアジアからの信頼を取り戻すチャンスなのです。地域に開く形で国内改革を実現することは、歴史上初めての日本の自主的な開国・改革政策であるとともに、アジア太平洋諸国との関係強化という大きな意味を持つことにもなります。それには、関税の撤廃を超えた、投資・人の交流・経済協力・金融制度などの広い分野における「解放政策を通じた国内改革」が急務なのです。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<グローバル化は現代が初めてではない>  グローバル化の波が押し寄せたのは現代が初めてではない。1820年代から第1次世界大戦の前までの約1世紀にわたり、第1次グローバリゼーションが到来している。この間グローバリゼーションを押し進めたのは、輸送費の劇的な低下と、イギリスをはじめとする自由貿易体制の確立と維持がもたらした関税障害の低下などである。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<19世紀における輸送/通信の進歩>  19世紀における輸送・通信に関する技術確信の進歩は、大陸間の商業取引範囲の大幅な拡大をもたらした。1838年に蒸気力のみによる大西洋横断を皮切りに、蒸気船という輸送の技術確信が奢侈品以外の一般財や工業化に必要な原材料の大陸間取引を可能にし、輸送コストの急速な低下は大陸間取引の拡大を後押しした。船舶に古くからよる輸送コストは1870年代半ばから1900年代には半分にまで低下している。通信についてもモールス方式の電信の実用化、海底ケーブルの敷設により、瞬時に大陸間で情報を伝えることが可能になった。また原材料の輸出国は貿易で得た収入を輸出先である先進諸国からの工業製品の調達に充てることにより、自由貿易体制は地域の拡大だけでなく貿易量も高まっていった。1870年から1914年までの間に、世界の経済生産が年率2.7%増であった一方で、貿易量はこれを超える年率3.5%の高水準で伸びている。この間の世界貿易に占める先進国ー途上国間の貿易のシェアは過半数を超えており、産業別でも食料や原材料などの占める割合が高かった。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<自由貿易体制の始まり>  制度面のおいては18世紀以前まではヨーロッパを中心に保護主義的重商政策が行われていたが、まずイギリスが自由貿易の推進へと転換し、相手国の自由化レベルによらない一方的な貿易自由化を実施し始めた。国内において急激に資本家が台頭し、彼らの間でアダム・スミスによる自由貿易の思想的基盤が広まり、市場の拡大に伴う規模の利益を求めて自由貿易推進を首長し始めるようになったのである。拡大する国際貿易においては、しばしば民間のイニシアティブによって基準や規則の一致を図ろうという動きが見られたが、一方で政府主導の国際協定レベルでの自由貿易体制の構築も行われた。イギリスとフランスは対オランダ政策の一環として長く貿易産業に対して保護主義的な重商主義政策をとってきたが、1860年に英仏通商条約が締結され、フランスはイギリス綿製品・鉄製品・陶器の輸入を解禁し、イギリスはフランスのぶどう酒・酢・オリーブ油の輸入を容認した。この英仏通商条約の締結が端緒となり、英仏両国は主要な欧州諸国と立て続けに同様な通商条約を締結し、関税が引き下げられ欧州における自由貿易ネットワークが構築されたのである。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<不況の拡大と保護主義への転換>  しかし、このような自由貿易の動きは19世紀後半の不況を境に徐々に停滞し始め、ヨーロッパ大陸諸国は再び保護主義政策へ転換するようになった。また、この時期の米国の通商政策は、他の西欧諸国よりも更に保護主義的な政策をとっており、高関税、条件付き最恵国待遇、「公正」原則の強さ、低い貿易依存度といった特徴が見られた。イギリス国内でも、保護貿易を行っている国々に対して自由暴政で臨むのは不公正であるとする議論も出てきた。ドイツや米国の工業化や高関税政策に伴い、自国輸出がが原始する一方で、輸入が徐々に増加していったのである。世界が保護主義に向かう中イギリスもやがて第1次大戦後には転換していくことになる。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<より複雑になる国際通商体制>  1980年代になると、これまでのGATT体制での多国間による自由貿易交渉の難航や、ECの市場統合の深化をきっかけとして、地域経済連帯構想が相次いで打ち出されるようになった。更に、冷戦という枠組みが崩れ新たな世界秩序を模索する中で、同様の歴史的な背景をもち文化的・社会的なつながりを持っている国々や地域でまとまる動きが加速してきた。この結果、安全保障面で大きな転換が起こったばかりでなく、現実の通商秩序においても、GATTルールとNAFTA(北米自由貿易協定)等の地域内通商取り決め、更に2国間での自由貿易協定も並立した複雑なな対せが広がっている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<戦前のブロック経済との違い>  ここで戦前のブロック経済と異なるのは、障壁を高めて域外国を排除するのではなく、域外へのハードルは高めずに域内の関税や非関税障壁撤廃によって貿易の促進と投資の増大を目指す点である。世界全体における自由貿易体制の機軸はGATTに基づくWTO体制であり、、各地域間協定は圏内の経済活性化と団結を深めるだけでなく、WTO交渉において発言力を強めよく拡大した世界経済の中でルール形成に貢献していこうという思惑がある。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<自由貿易協定(FTA)の急増>  また、新しい動きとしては2国・地域間における自由貿易協定(FTA)が急増していることが挙げられる。特に1990年代後半以降にFTAの締結が急増しているのは、WTOでの合意形成の難航から自由貿易の利益を関係国間で先取りしようとする国々が出てきたことや、この新しい潮流に乗り遅れることによって表出してきた経済的不利益を取り戻そうといった理由が大きい。また米国のように、FTAを通して相手国に民主化を浸透させる等の政治的戦略の一環として推進する例もある。最近のFTAは、関税の撤廃等だけでなく、人の移動や労働制度などWTOにおいてさえ新しい分野にまで協定の対象が拡大している。拡大する一方で、経済学者の間では、WTOを通じた多角的自由化の理念が維持できるかどうかという大きなポイントについて、問題提起もなされており、今後の両者の強調が課題となってきている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
<地域間を繁げる試みも始まっている>  別の新たな動きとしては、地域連繋の動きが活発化する中で、距離的に遠く離れた地域と地域を繋げる試みも見られる。例えば、アジア太平洋経済協力(APEC)、アジア欧州会合(ASEM)、EUとメルコスールの連合協定などがある。また、近年直接投資を通じ企業の国境を越えた活動が一層進展する中で、民間ビジネスレベルでも地域を越えた連携が見られる。その代表的なものとしては、欧米の多国籍企業間の動きとして近年影響力を増している大西洋ビジネスダイアログ(TABD)が挙げられる。欧米を中心としたこれらの動きは、先端産業などの分野で欧米の地位が相対的に低下したことへの危機感から来ている。最近の成長産業では、技術開発や設備投資の面で規模の経済が拡大しており、これらの産業を活性化するためには、市場の拡大と国際分業体制の推進による資源配分の効率化が不可欠になってきているのである。世界的規模での自由経済市場が実現されてない現状においては、当面、密接な貿易パートナーとの間で統一的な市場を形成するとともに分業体制を進めることが、産業活性化のために必要だと捉えられている。(『FTAが創る日本とアジアの未来』から)
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<3国協同研究による日中韓FTAの意義> 東アジアを取り巻く自由貿易協定(FTA)の状況  「チェスよりも将棋が好きでも、ほかの人がチェスをしていればそれに応じるしかない」、「たとえ、意に沿わないルールでも世界が其れを採用しているのであれば追従するしかない」、その制度に多少の問題があっても、日本が自由貿易協定(FTA)を推進しなくてはならない第1の理由はまさにここにあると言えよう。
 2000年代初頭、GDPで世界トップ30の国々で、いかなるFTAも結んでいなかった国は、日本、中国、韓国のみであった。北東アジアは、FTAに関する限り、後進地域であったと言えよう。しかし、こうした状況は近年大きく変化している。中国は近隣諸国と積極的にFTA締結に動き、日本との交渉が頓挫している韓国はアメリカとの締結に至った。オーストラリアやASEAN諸国も中国などと交渉を行っている。こうした、FTA締結に向けた中国・韓国政府の積極的な姿勢への転換は、日本政府の姿勢を大幅に修正させたのである。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
FTAの利点と問題点  日本政府がFTA締結に向けて積極的な姿勢に転換したのは、単に近隣諸国の動きに追随したためだけではない。こうした変化の背景には、いくつかの理由が挙げられる。
 第1の理由として、世界の自由貿易体制を推進してきたGATT=WTO体制の変化が挙げられよう。WTO体制の世界中への新党とそもに、交渉に参加する国が増え、かつ、より多くの分野での交渉が求められることとなり、交渉により多くの時間がかかるようになった。そうした中でより速く自由化の成果をあげるためには、近隣諸国や友好国とのFTAを同時に進めていった方が好ましいと考える国が増えたのである。
 第2には、情報化の進展、輸送コストの低下、途上国や新興国の産業発展などを背景に、国境を越えた国際的な分業が拡大したことで、世界の貿易構造が変化し、近隣諸国との貿易・投資の従調整が高まってきたことである。東アジアでは日本、韓国、台湾などの工業国から東南アジア諸国や中国に向けて高度な部品や資本財が輸出され、そこで最終製品に組み立てられて欧米に輸出する貿易が拡大している。このような域内での分業の展開と域内貿易の拡大が、域内での経済連携の強化の必要性を高めている。
 第3に、新興工業国や発展途上国の自由化を促す手段としての、FTAが注目されてきたことでことである。WTOの下でも、自由化交渉は 進められているが、先進工業国に比べ途上国の貿易障壁は依然として高くなっていら。アメリカにとってのメキシコ、日本にとっての東南アジア諸国など、FTAは、地域の貿易自由化のスピードを速める上で有効な手段であるとみられている。また、途上国の側にも、自由化交渉を進めることが経済発展に繋がるという見方が広がっている。世界になかでは、貿易障壁を下げることで大きな経済圏をつくり、中国のような大きな市場に対抗しようとする意図を持つASEANのような国々もあり、看過できない状況である。
 一方で、多国間での自由化を目指すWTOでの交渉とは異なり、特定の国の間でのみ行うFTAには様々な理由から貿易のゆがみをもたらす可能性があると指摘される。古くから多くの研究者によって議論されていたように、FTAはその名の通り自由貿易を実現するというのではなく、特定の国との間の貿易障壁は撤廃しても、その他の国には差別的な対応をとるということでもある。その結果FTAの導入が、「貿易創造効果」と呼ばれる貿易拡大の利益をもたらす一方で、「貿易転換効果」と呼ばれる貿易のゆがみを産み、FTAの当事国でさえも、経済的な損失をもたらす懸念も払拭できない。また、FTAでは、加盟国経由で第3国の商品が無税で入って来ることを阻止するため、FTA加盟国内で実質的に生産されたものであることを証明する「原産地表示」が義務づけられる。例えば、シンガポールから日本に向けて船積みされた商品でも、それが中国のような日本とのFTA非締結国でその大部分が加工されたものであれば、シンガポールを原産国とはせずに中国製品として扱われて関税の課税対象となる。したがって、複数の2カ国間FTAは、関税手続きを複雑化させ、やがては「スパゲッティ・ボウル現象」と呼ばれるような世界全体の自由貿易の機能低下をもたらすことは容易に想像できよう。加えて、主要国が地域経済連携のレベルで自由化交渉が止まり、多国間の貿易自由化実現への building block(積み石)ではなく、過去区間の自由化を抑制する stumbling block(躓き石)になる状況も考えられる。このようなFTAの鋼材は、現在も多くの研究者の間で議論されている。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
日中韓FTAの推進の意義  東アジアにおけるFTAの締結の動きをみると、日中韓は、ASEAN全体および各国に対して、それぞれ個別に自由貿易協定を締結しており、一体としてのASEAN+1が3つ併存する方向へ向かっている。しかし、東アジアにおいて、名目GDPで90%、人口規模で7割をしめる日中韓3国の存在は非常に大きく、また、近隣国であるこの3国は貿易・投資面において密接に結びついている。特に、日韓両国の製造業は、ASEAN諸国と中国に生産拠点の移転を進め、生産のネットワークを形成しつつあり、東アジア全体のFTAは、こうした広域の自由貿易地域の形成をを促すものである。したがって日中韓FTAを先送りすることは東アジアにおいても大きな経済的な利益を逸することになりかねない。
 一方で、日中韓FTAの実現への道のりは、決して平坦ではなく、日中韓各国の構造調整コストは政権に対する政治的なリスクをもたらすであろう。特に、センシティブ部門である農業への影響を優先する日本政府の姿勢は日中韓FTA締結に大きな障害となることが予想される。しかし、現在、国内の農業部門の担い手は高齢者で占められている状況を考えれば、少子高齢化が進む中で、農業部門の存在は小さくなりはするものの、拡大するとは考えにくい。米国の繊維産業で見られるように、地遺産集団ほど集団内の結束力が強いため、政治的な影響力を高めようとするインセンティブがさらに高まる懸念も払拭できないが、行き過ぎた産業保護には国民的コンセンサスを得ることが難しいことも事実である。
 現在まで、中国はWTO加盟による自由化のコミットメントとして、財の輸入関税率低減だけでなく、投資やサービス貿易などで自由化措置の実施を進めている。しかしながら中国との経済統合の実質的な利益を享受するには、財の輸入関税の引き下げだけでだけでだけ直接投資を促進する必要がある。特に、日本からの直接投資が拡大するに伴い、その保護が重要性を増している現状では、日本政府が中国に対してFTAによる財の輸入関税撤廃・低減よりも投資協定の締結を選考させようとしている姿勢は打倒な政策的な判断として受け入れられよう。しかし、投資の邦語は貿易自由化と補完的な意味を持つことから、投資協定だけでなく、サービス貿易自由化、地底財産権保護、エネルギー・環境協力など範囲を拡大して、幅広い自由化措置を盛り込んでいくことも検討に価しよう。それにより、3国間の貿易投資関係がさらに促進・深化すればFTAによる関税撤廃・低減の実現に向けての経済的な要請や政治的な機運も増してくるであろう。
 日中韓3国の経済連携の強化のメリットは、日中韓3国だけでなく、東アジア全体にも及ぶ。日本が、地域貿易協定の締結に向けた世界的な潮流からこれ以上遅れないためにも、また、東アジア全体の経済的な便益向上の機会を逸しないためにも、政府は、首相の強いリーダーシップのもとで日中韓FTA交渉の具体化の検討を開始すべきであろう。(『日中韓FTA』伊藤元重 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『FTAが創る日本とアジアの未来』       藤末健三・小池政就 オープンナレッジ 2005.12.20
『日中韓FTA』その意義と課題 阿部一知・浦田秀次郎・綜合開発機構 日本経済評論社  2008. 2. 5
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
『ガットからWTOへ』 貿易摩擦の現代史        池田美智子 ちくま新書    1996. 8.20
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版 2002. 8.15
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社    1953. 6. 1
( 2008年12月15日 TANAKA1942b )
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(18)辛抱強い貿易自由化へのラウンド交渉を
紆余曲折があっても道筋は失わず
 第2次大戦後、戦前の保護貿易主義への反省からガットが生まれた。これが発展してWTOになった。ガットの交渉では困難な問題が多く、交渉が行き詰まることも多く、余り進展はなかったかのような報道もあった。しかし、少しずつではあってもガットの交渉は進展していた。振り返って見れば多くの成果が確認できる。今週はこうした点について扱うことにする。
<農業交渉の実質妥結> 1993年12月14日午前3時すぎ、異例の未明の閣議で、日本政府は関税化の特例措置を含む農業協定案の受け入れを決断した。その直後、細川首相は記者会見を行い、日本にとって自由貿易体制が死活的に重要であることを強調し、この決断は苦悩に満ちたギリギリの決断であると直接国民に語りかけた。一方、外務省からジュネーブの日本政府代表部に、農業協定案を受け入れるとの訓令が大至急電報で出され、これを受け取ったジュネーブの遠藤大使は、ただちにサザーランド・ガット事務局長に面会し、この決断を伝えた。サザーランド事務局長は、この面談の後、ただちに記者会見を行い、細川首相の決断を評価し、これがウルグアイ・ラウンドの妥協に大きく貢献すると確信すると表明した。
 12月15日、貿易交渉委員会(TNC)では、ウルグアイ・ラウンドの実質妥協を宣言する槌がサザーランド事務局長によって振り下ろされた。(『ウルグアイ・ラウンド』 から)
<農業交渉の歴史的意義> 日本にとってコメ問題は、ウルグアイ・ラウンドにおける最も困難な問題であったと言っても過言ではない。農業分野は、ウルグアイ・ラウンドの数多い分野の1つであり、「ウルグアイ・ラウンド・イコール・農業(または、コメ)」との捉え方は、ウルグアイ・ラウンドの本質を見誤ることになるが、その一方で、農業問題が、日本のみならず、他の交渉参加国にとっても重要かつ困難な問題だったこのも事実である。
 ウルグアイ・ラウンド農業協定の前文冒頭に、「農業貿易の改革の過程を開始するための基礎を確立することを決定し」とあるとおり、農業交渉は、それまで不十分な形でしかガットに取り込まれていなかった農業貿易を改革することを目指して行われた。
 ウルグアイ・ラウンド以前の農業貿易は、輸入制限が広範に行われ、また、輸出補助金については有効な規律がないというように、工業品と比べて、より弱い規律の下にあった。これは農業生産が天候などの事前条件に影響されて豊凶の変動が起こりやすいことや、輸入制限や輸出補助金のような農業貿易についてのさまざまな措置が国内農業政策の反映であって、工業品以上に国内の社会的、政治的要因に深く根ざしていると考えられていたことによるものである。
 ウルグアイ・ラウンド以前は、農業貿易の規律が鉱工業品貿易の規律に比べて弱いことが、「当たり前」のように考えられていたのである。
 ウルグアイ・ラウンド農業交渉は、この「当たり前」のことを改革しようとしたのであり、当然、各国とも困難な問題を抱えつつ交渉に臨むことになった。日本はコメ問題に代表される多くの問題を抱え、EC、特にフランスは、国内農業関係者によるウルグアイ・ラウンド合意への激烈な抵抗に直面し、アメリカも、ウェーバーによって保護されていた産品の生産者からの圧力を受けていた。
 このように、農業交渉は、容易に各国の国内政治問題に転化しうるものであり、交渉は困難を極めた。ウルグアイ・ラウンドが当初の交渉期間である4年を大幅に超え、3年余りにわたる「延長戦」を強いられた主な理由は、農業問題をめぐる各国間の対立がなかなか解決できなかったことが大きな要因であると言える。
 さまざまな紆余曲折を経て、93年12月15日の貿易交渉委員会で採択された農業協定は、前文および21条と5つの付属書により構成され、輸入制限などすべての非関税措置を原則として関税化するとともに、従来、国内農業s3栄作の範疇に入るものとして考えられてきた国内支持(国内補助金)およびこれと密接な関係を有する輸出補助金を削減することを規定している。
 この協定によって、これまで「当たり前」と考えられてきた農業分野の保護に対して、規律がかけられるようになったのであり、その歴史的意義は大きいと言えよう。(『ウルグアイ・ラウンド』 から)
<日本の思惑>   日本は、アメリカと並んで、ウルグアイ・ラウンドを終始推進し、積極的に参加したが、農業分野においては一貫して守勢に立たされてきた。これは、日本では、農業分野の国際競争力が低く、輸入制限などによる保護が行われている一方で、輸出利益は皆無に等しく、輸出者として交渉相手国の市場開放を迫るというような「攻め」の交渉ができなかったこともあるが、より根本的には、農業問題、なかんずくコメ問題が国内政治込んだ意と直結し、いわゆる「条件闘争」を行うことが許されなかったことも大きな原因である。たとえば、1991年12月に提示された最終合意文書案によって包括関税化の原則が提示された後、この提案の是非についてさえも議論を行いにくいという雰囲気があった。
 このような状況の下で、日本政府代表団は、包括関税化の回避を図ることを絶対的な方針として、外交努力を展開した。
 93年12月に、包括的関税化について鋭く対立する各国の意見を踏まえ、いわゆる「ドゥニ調整案」が提示されることになる。(『ウルグアイ・ラウンド』 から)
<世界経済の活性化>   ウルグアイ・ラウンド交渉による市場アクセスの改善と貿易ルールの強化は、第1に、貿易と投資の増大と、世界経済の活性化をもたらすことになろう。
 まず、市場アクセスについて言えば、ウルグアイ・ラウンド交渉は、農産品、非農産品(鉱工業品および林・水産品)のいずれについても非常に野心的なパッケージを達成した。
 非農産品に関しては、日本、アメリカ、カナダおよびEUは、医薬品についてはWTO協定発効時に、建設機械、医療機器、鉄鋼、ビール、家具、農業機械、蒸留酒(ウィスキーおよびブランデー)については一定期間後に関税をゼロにし、化学品について各国一律の低率とすることとした。これに加えて、日本によるエレクトロニクス、紙・パルプ、科学機器、玩具の関税撤廃などがパッケージに含まれている。鉱工業品についての平均関税引き下げ率は、日本が61%、アメリカ、EUは30%台となっている。
 また、農産品については、原則としてすべての輸入制限品目を関税化し、品目ごとに裁定15%、すべての品目を通じて平均で36%の関税引き下げを行うことになった。(開発途上国ぬいついては、最低10%、平均24%)。
 このような市場アクセスの改善は、貿易量を増大させると共に、内外価格差の縮小による実質所得の上昇をもたらすこととなろう。ガット事務局の試算によれば、ウルグアイ・ラウンド交渉の市場アクセスの成果が実施されることにより、2005年までに世界の所得が年間2350億ドル押し上げられることになる。
 このようにウルグアイ・ラウンドは、これまでのラウンド交渉が主として扱ってくた市場アクセス分野でも大きな成果をあげた。 (『ウルグアイ・ラウンド』 から)
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<ガット主催の貿易交渉> ガットは第2次大戦後、8回の関税・貿易交渉を主催してきた。最初の5回の交渉は関税交渉と呼ばれ、主として工業品の関税が引き下げられた。ガットのルールを追加・改定する交渉も同時に行われた。参加国の数は22−34と少なく、交渉期間も1−2年とその後の交渉と比べて短かった。
 第6回以後は交渉規模が著しく拡大して長期間の交渉となり、貿易交渉と呼ばれるようになった。第6回はケネディ・ラウンド貿易交渉(1964−67年、46カ国参加)、第7回は東京ラウンド貿易交渉(1973−79年、99カ国参加)、第8回はウルグアイ・ラウンド貿易交渉(1986−94年、117カ国参加)と呼ばれた。ラウンドとは、一定期間内に行われる一連の多国間交渉をまとめて言うのに使い、ボクシングのラウンドと似ている。
 第6回の交渉がケネディ・ラウンドと呼ばれたのは、当時のケネディ大統領が米国議会から大幅な関税引き下げその他の貿易自由化を交渉する権限を獲得し、米国が主唱して交渉が始まったからである。その頃欧州経済協同体(EEC)が作られ、欧州域内貿易の関税が徐々に撤廃されることになった。これは関税同盟に関するガットのルールに従って行われた合法的なものであるが、日米などの域外諸国からの対欧州輸出は関税がなくなる域内の貿易と比べて不利になる。その影響を軽減するためにはEECが域外諸国からの輸入にかける関税を交渉で引き下げるしかない。このためケネディ・ラウンドでは、工業品の関税率を原則として2分の1に下げるという思い切った一括交渉が行われた。
 第7回の交渉は東京ラウンドと呼ばれた。この交渉を始める決定が東京で開催されたガット総会で行われたからである。しかし、理由はそれだけではない。当時、日本では貿易赤字国から黒字国に変わり、貿易収支の出超が急速に伸びていた。他方、第2次大戦後圧倒的な経済力を誇ってきた米国の経済力がが相対に低下していた。そこで、余裕ができた日本が米国に代わって世界の貿易自由化(関税の引き下げ、輸入制限の撤廃、規制の撤廃ばど)を押し進める牽引車の役を務めることを世界が期待したのであった。
 しかし、当時の日本人はこの転換期において頭を切り換えることができなかった。交渉開始直後に起こった第1次石油ショックの影響を心配したこともあって、譲歩は少ない方が良いとする保守的は交渉姿勢から脱皮することができず、世界の期待に応えられなかった。その後、貿易黒字が累積し続けたが、この姿勢が大きく変わることはなかった。輸入企業は、不要な規制が一員である内外価格差の恩恵を受けてぬくぬくと儲け、消費者がその犠牲となった。高い生活費は高い賃金を必要とし、日本産業の競争力にも悪影響を与えた。
 他方、輸出企業は1985年のプラザ合意をきっかけに急速に進んだ円高のために、人員整理などの合理化によって競争力を保とうとすればするほど、出超が増え円高が進むという悪循環の中で苦闘しまければならなかった。ついには、生き残りをかけて不採算事業を外国に移すという選択を迫られ、産業の空洞化が進行した。その過程で投資先への日本からの資本財輸出が増え、円高をさらに進める一因となった。このようなジレンマから抜け出るために、日本企業は旧来の颯爽と行動のパターンを転換することを迫られた。(『ガット29年の現場』 から)
<ガット最後の交渉となったウルグアイ・ラウンド>   第8回目でガット最後の交渉となったウルグアイ・ラウンドは、いろいろな意味で画期的な交渉であった。この交渉を行う決定は、農業国ウルグアイの避暑地プンタ・エステで開催された閣僚会議で採択された。この地が選ばれたのは、それまで7回のガット交渉で、農産物についての貿易自由化が進まず、農産物の貿易が停滞していたからである。
 工業国を利するばかりで、輸出を農業に依存するウルグアイのような開発途上国の利益を軽視し続ければ、ガットの中立性と存在意義が疑われることになる。ウルグアイ・ラウンドでは15の分野で交渉が行われたが、どれかの分野で交渉が失敗すれば、全体の交渉をご破算にするというオール・オア・ナッシングの包括的交渉方式があらかじめ合意された。困難が良そうされた農業と繊維品の交渉をなんとしてでも成功させなければならないとするガット加盟国閣僚の決意を反映した決定であった。ガットの農業交渉の進渉を妨げてきたのは主にEEC(欧州経済共同体、後に欧州連合となる)と日本であって、その動向に世界の注目が集まった。
 ウルグアイ・ラウンド交渉は8年近くかかったが、その成否を決めたのはやはり農業交渉であった。米国とEU(欧州連合)が米国のブレアハウスでEUの農業補助金の削減について合意に達してからは、日韓のコメについての交渉が最後の難問となった。ガットのルールに違反する輸入制限をきわめて高い関税による保護に変え、万一輸入が急増したときはさらに関税を大幅に引き上げることができるという寛大なダンケル関税化案を日本が拒否し続け、韓国もそれに同調した。そこでウルグアイ・ラウンド全体の失敗を避けるために、関税化を6年に限って猶予する妥協案がやむなく提示され、米国大統領の交渉権限切れる93年12月15日ぎりぎりの前日に、それを時の細川首相が受諾した。その政権を賭けた英断を称えたい。
 日本はその反映の基礎となったガット体制を自ら破壊しかねない自殺的交渉を続けてきたが、こうしてウルグアイ・ラウンドを失敗させ、ガット体制を衰弱させるという戦後最大の経済危機がかろうじて回避された。
 ウルグアイ・ラウンドというとコメを頭に描くほど、日本ではコメの問題に関心が片寄りがちであったが、この交渉は世界の貿易・経済社会の姿を基本的に変えるほどの大きな影響を持つものであった。
 ウルグアイ・ラウンドの交渉中、共産主義の計画経済がうまくいかないことが誰の目にも明らかになり、北朝鮮(挑戦民主主義人民共和国)を除く旧共産主義国がこぞって市場経済国に移行することを決定したことも大きかった。ガットは市場経済を前提とした国際機関である。そこで、中国、ロシア、ベトナムをはじめとするこれらの国々が現在、ウルグアイ・ラウンドの結果ガットを継承して設立された世界貿易機関(WTO)に加入する交渉を行っている。96年12月現在、WTOのメンバーの数は128であるが、150を超える日は遠くない。
 WTOは貿易機関であるから、国連と違って、独立国のみならず香港および台湾のような通商関係に自治権を有する独立した関税地域も別個のメンバーになれる。香港はすでに別個のWTOメンバーであって、英国から中国へ返還された後もそれを変えないことが、すでに中国と英国の間で約束されている。1998年末に開催される第2回WTO閣僚会議までに、中国はWTOに加盟できる可能性がある。台湾は中国のWTO加入直後にWTOに加入することになろう。(『ガット29年の現場』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ウルグアイ・ラウンド』            溝口道郎・松尾正洋 NHKブックス  1994. 7.25
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書     1997. 4.25 
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社  1992. 3.25
( 2008年12月22日 TANAKA1942b )
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(19)大東亜戦争を本当に反省しているのか
一部衰退産業の保護は袋小路への道
 1929年、アメリカから始まった世界大不況。この対策として世界各国が保護主義に走り、ブロック経済を形成し、保護貿易、高関税、条件付き最恵国待遇などの政策を採用した。この影響で日本をはじめドイツ、イタリアなどの新興工業国は先進工業国のブロックの隙間を求めて、新たなブロック作りに専念した。このことが第2次世界大戦へと突き進んでいったのであった。戦後はその反省からガット、WTOが創設された。戦争で荒廃した日本産業も自由貿易のお陰で奇跡的な成長を記録することになった。その自由貿易を保証したガットであったが、日本は積極的に自由貿易を推進したとは思われない。特に農業の自由化に対しては消極的と言うよりも、保護主義を主張している。
 世界が不況になると各国は保護主義を政策に取り入れようとする。こうした現状で、もう1度ガット、WTOについて考えて見ようと思う。今週はこうしたことで、今までの繰り返しも含めてガット、WTOを扱うことにした。
<ウルグアイ・ラウンドからガットへ>  ウルグアイ・ラウンド交渉はガット(関税および貿易に関する一般協定)の場で7年あまり続けられていたが、1993年末、ようやく妥結し、94年4月1日、モロッコのマラケシュで日本の他110の国・地域が最終文書に署名した。この後、各国が受諾すれば協定は1995年に発効の予定である。多くの国が長い不況に喘いでいる世界経済にとって、これは一大朗報である。戦後の世界経済の急速な成長と繁栄は自由貿易に負うところが大きい。それだけに、先進国、開発途上国を問わず、共通の利益となる。また冷戦後の世界政治においては経済力が重要な要素となると言われるだけに、ラウンドの結果、日本をはじめ各国が具体的にどのような影響を受けるかは、政治的にも興味深い。
 ウルグアイ・ラウンドの結果、1948年に発足したガットは完全に生まれ変わることになる。家で言えば改築と言うより新築であり、日本の歴史で言えば明治維新に匹敵する変貌である。どのように変わったかは、後で詳述するが、主な点を挙げてみよう。
 第1に、従来のガットのルールはモノの貿易にしか適用されなかったが、今後はサービス、特許や商標権などのいわゆる「目に見えないもの」の貿易にも適用されるようになる。
 第2に、農産物や繊維品の貿易はモノの一部であるから、当然、従来からガットの対象となっていたが、実際はガットで一種の「聖域」として特別扱いとなっていた。先進国の国内産業保護の犠牲となっていたのである。ところがラウンドの結果、繊維は徐々に自由化され、農業もガットの厳しい規制を受けることとなった。
 第3に、国家間の紛争解決のためのガットの手続きなど、いくつかのガットのルールが強化された。
 そして第4に、ガットは世界貿易機構(WTO・World Trade Organization)という新組織に生まれ変わった。
 よく知られるように、現在のガットは元来ITO憲章(1948年作成)が発効するまでの暫定的なものとして生まれ、国際機関として整備されていないが、今回初めて法人格を持つ国際機関となる。
 よくガットはわかりにくいと言われる。1つには用語が難解なのである。私(溝口道郎)が初めてガットの仕事に携わったのはケネディ・ラウンドのときであったが、KRと言われて、KRがケネディ・ラウンドを意味するという簡単なことを理解するまで暫時戸惑った。同様にTRは東京ラウンド、URはウルグアイ・ラウンドなのである。
 また、貿易紛争や貿易交渉が技術的で地味なこともある。ある日、ジュネーブでのガットの会議で長時間、果物の関税について技術的な議論が続いた際、ロング・ガット事務局長は突如マイクを取り、君たち専門家は些細なことをくどくどと論じているが、もっと天下国家の議論ができないか、と叱ったことがある。
 2代目事務局長のロングはスイスの外交官出身の人で、大変帰属的であった。そこへいくと、初代事務局長のウインダム・ホワイトはイギリスの政治か出身で、権謀術数を弄し、密室の取引を好んだ。1967年5月、当時の宮沢経済企画庁長官ら各国代表と穀物協定を中心とするケネディ・ラウンドの実質合意を凄腕でまとめ上げたときは得意満面であった。ホワイトは事務局長退任後、国際金融投機に失敗し、不幸な晩年を送った。ついでに記すと、3代目事務局長はやはりスイス出身の元政治家で、1度だけお会いしている。非常にフェアで、開発途上国の代表にも評価されている由である。
 ガットは国際貿易を律するルールであると同時に貿易問題を討議し、紛争を解決するフォーラムでもあるという二重の性格をもっていることも、わかりにくい理由の1つであろう。その上、ガットは国際法体系の一部であるので、どうしても国内法体系に比べて理解しにくい面がある。たとえば、国なり政府からみて、ガットの役割りをどのように評価するかという問題について国により見方がまちまちであるし、同じ国でも時代により変遷する。
 日本が良い例で、ガットに加入した1955年から20年ぐらいはガットの力を非常に高く評価した。日本はガットの「圧力」(実は欧米先進国の圧力が背後にあるのだが)を受けて関税を下げ、輸入汗威厳品目を減らし、工業品の輸出を奨励するための優遇税制を廃止した。日本の新聞やラジオもガットの動きを大きく報道した。
 戦後の日本では国際連合も非常に高く評価され、一時は外交3原則の1つとして「国連中心外交」が謳われた。これを聞いたフランスの外相が「ほほう、」国連が週末や休日で閉まっているときはどうするの?」と笑ったという話を聞いたことがある。ガットや国連は戦後のドイツでも高く評価された由である。やはり日本やドイツのような敗戦国は国際社会に早く復帰したいという願望から国際機関の優等生になろうと努力したのかも知れない。
 逆に70年代や80年代の日本では、前の反動としてガットの力についての冷たい見方が一部に出てきたと思う。1971年にニクソン大統領がいわゆるニクソン・ショックの一環として輸入課徴金を導入したこともガットの権威を傷つけた。また日本の農産品の輸入制限について、ガットの圧力が高まるにつれて、日本では、アメリカが多くの農産品の輸入を制限しながら、ガットのウェーバー(義務免除)をとっていることを良いことに素知らぬ顔をする身勝手さに対して批判が高まった。
 同様にヨーロッパ共同体(EC)が共通農業政策(CAP)の名の下に可変課徴金(レビー)を導入して生きない農業を手厚く保護し、増産で余剰となった穀物・酪農品の補助金をたすけて世界市場に垂れ流す身勝手さに対しても不満が高まった。私に言わせると、ECが農産物輸入品にかけているレビーはガット違反の匂いが濃厚であるが、60年代はじめにガットでCAPの審査があったとき、ケネディ政権は反共の砦としてECを育成したいという政治的・戦略的考慮を優先させ、レビーを認めてしまった。アメリカは後になってこれを後悔し、70年代のガットでは作業部会まで設けてCAPの合法性を問題にしたが、もう後の祭りであった。
 もっと古い話になるが、日本のガット加入の際もヨーロッパの多くの国はガット35条を日本に対して援用した。35条を援用すれば、新しく加入した国とはガット関係が生じない、すなわち最恵国待遇を与える必要はなく、差別を続けることができる。35条を援用しなかったアメリカなども日本の繊維品や雑貨の輸出攻撃を受けて困惑し、「市場攪乱」という新しい概念を持ち出し、日本やアジアの新興工業国は市場攪乱を興しているから、その輸出品に対してはガットの一般原則の例外として扱い、差別的な輸入制限をしてよい、称した。この「変な理論」が根底となって、その後の綿製品長期取り決め(LTA)や綿、毛、および化合繊を対象とする多角的繊維取り決め(MFA)ができた。繊維の分野は長年ガットで特別扱いされていたわけで、ウルグアイ・ラウンドでようやくそのガットへの統合の目途がついたことは前に述べた通りである。
 このような歴史から、ガットでは大国の横暴がまかり通り、道理は地に墜ちているかのにも見える。しかし、これは行き過ぎた見方である。
 現にウルグアイ・ラウンドでは農業貿易の自由化について画期的な合意ができた。これはケアンズ・グループに結集した農業輸出国の力によるっことはもちろんであるが、欧米の国内事情も大いに影響した。たとえば、ECの域内でイギリスなどはCAPの下での輸出補助金を整理しないとECの予算がどんどん食われてしまう、という観点からラウンドの機会にCAPを大改革することを支持した。繊維については、高級品を除いて、先進国はもはや開発途上国と競争できないことがはっきりした。むしろサービスや知的所有権などの分野で途上国から市場開放の約束を取り付ける代価として、繊維品に対する輸入制限は徐々に撤廃することを約束することが得策である、という考慮が働いたと思われる。
 このように見てくると、ガットの動きは常に国際政治の動向と密接に関連し、それに連動していると言えよう。しかし、だからと言ってガット自体の持つ力を過小評価することは誤りである。今度のラウンドで農業や繊維の分野で前向きの合意ができたことは素晴らしいことである。
 ニクソンの輸入課徴金にしても、ガットで緊急会議を開き、各国がアメリカを強く批判したので、アメリカは比較的短期間でこれを撤廃せざるを得なかった。自由な貿易を通じて経済を発展させるというガットbの基本原則は世界中の人々にアピールする。だからこそ、ガットの加盟国はどんどん増え、中国やロシアも早期加入を希望している。国際政治の面でも軍縮はとても実現するまいと言われていたが、米ソの核軍縮は成立した。同じように貿易の面でもラウンドで貿易障壁の大幅な”軍縮”が合意されたことは、究極的には世界中の人々の意志と願望に沿っているからであろう。先進国の多くが不景気に悩まされているときに合意ができたことは特に意義深い。この勢いが維持され、各国の国内手続きが順調に進み、ラウンドの結果が1日も早く実施されることを期待したい。
 ガットはラウンドが行われる度に、特にウルグアイ・ラウンドの発効と共に再生し、面目を一新する。したがって、今後のガットを理解するにはウルグアイ・ラウンドの主な結果と残された問題を理解することが早道である。(『ウルグアイ・ラウンド』 から)
<異なる規制が錯綜し円滑な貿易に障害をもたらす、スパゲティボウル現象>  FTAごとに異なる規則が適用されることになると規則が複雑に絡み合ったスパゲティボウル現象と呼ばれる状態に陥り、円滑な貿易に障害をもたらしてしまう。例えばFTAごとに異なる原産地規則が採用されることによって、運営上必要な原産地証明書の発効などの行政コストがその規則の種類ごとに必要になり、過大になってしまうという懸念がある。またFTAは関税同盟とは異なり域外への関税や通商政策は各国異なることからも、たとえ同じFTA圏内だとしても国境を越える度に、前述のような痛感手続きが必要となる。このような影響を生み出してしまうのは各FTAに自由化程度の低い場合に見られるのであるが、FTAの場合はガットの規定においても一部例外を設けることが認められていたり、途上国には優遇措置が与えられていたりすることからも今後問題が拡大する可能性は残る。(『FTAが創る日本とアジアの未来』 から)
<少数国間取り決めで求められる公平性の確保>   一方、FTAは小数国間での取り決めであるため、紛争処理や遵守の徹底などの取り締まりに関して加盟国間での政治力が影響するケースもあり得る。ASEAN全体に先立って中国とFTAを締結したタイにおいても当初中国側が協定通り遵守せずに苦労したという経緯もある。FTAの負の側面として双方の力関係がはっきりと出てしまうこと、お互いに誠実な対応が強く求められるという点があり、紛争処理を明確にしておかないと相互交流の深化という本来の目的を外れ、かえって関係が悪化する。特に多くのFTA協定では、WTOの紛争処理と同協定の紛争手続きは並行で進められないとあり、日・メキシコFTAで定められているような第3者の仲介人も含めた仲裁裁判の公平さが求められるのである。(『FTAが創る日本とアジアの未来』 から)
<WTO停滞へ拍車を掛ける可能性も>   最後に、世界の潮流がWTOからFTAに移ることによって、WTOへの関心が減少してしまうのではないか、という懸念もある。各国は表向きはFTAをあくまでWTOの補完であるととのスタンスを取ってはいるが、体制を見ても人材の数や質から言って明らかにFTAにシフトしているようである。韓国は外交通商省にFTA局を新設し交渉体制を強化しつつあり、日本や米国の通商担当局も多くの人員をWTOからFTAに投入している。このような動きがWTOに取り組む余裕を低下させ、いざWTOの多角的交渉(ラウンド)が動き出す際になっても各国の体制や準備が整わずに結局交渉が停滞してしまったりという循環は避けなくてはならない。(『FTAが創る日本とアジアの未来』 から)
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 「第1次大戦後、日本は保護主義の犠牲者であった」というのが、このホームページの主張だ。そして、戦後の自由貿易の恩恵によって現在の豊かな経済がある。それでありながら、ガット、WTOの貿易交渉で必ずしも自由貿易を用語する立場ではなかった。戦前の保護主義の犠牲者であったことを忘れている。そうした主張で筆を進めてきた。今週は、もう一度ガット、WTOを理解するための文章を掲載しようと思った。そこで、ガット事務局に勤務していた人の文章を取り上げることにした。
<WTOとFTAに対する日本の対応>   本書を書いた背景には次の事情がある。
 (1) ガットが主催して開催されたウルグアイ・ラウンドの農業関係交渉において、日本は国際関係を無視し、日本の国益をも無視する行動をとった。日本政府は農業について最終的には譲歩したが、交渉経過が極端に悪く、そのため世界の不評を買った。日本が貿易国であるにも拘わらず、ガットを純分理解していなかったことが一因になっていたのではないかと考えられる。著者はガット事務局の職員としてその間の事情を見てきたが、このような一見理解に苦しむようなことを日本政府が行っているのを見て残念でならなかった。
 (2) 1999年末に米国のシアトル市で開催された第3回WTO閣僚会議は、世界から集まったNGO(非政府組織)などによるグローバル化反対のデモに襲われた。新しいラウンド貿易交渉の開始を意図した閣僚会議であったが、種々の理由から交渉開始を決定することができず、WTOに対する批判だけが集まった。WTOの貿易・経済に対する影響力が明らかになり、加盟国が増えて問題が複雑化したことも一因として考えられる。そのためWTOの役割について広い理解が望まれる。
 (3) 近年中国と台湾がWTOに加入して、WTOに対する関心が増したが、市場経済を推進しているWTOの役割と日本が為すべきことが十分理解されていることが望ましい。
 (4) 日本がFTA(自由貿易協定)の締結をアジアなどで推進する利点と注意点について、より良い理解が望ましい。
 (5) 日本は今大きな転換期に遭遇しており、日本が何を改革すべきかが広く理解される必要がある。特に制度上の改革をWTOの貿易交渉を契機として推進しなければならない。それには日本国民の幅広い理解が必要である。日本人が今まで美徳や習慣としてきたことでも、現在では自分が損するだけで国際社会と交際交渉では通用しないものがある。
 日本人は一旦問題の所在を理解すると実行が早い。本書はガットとWTOの一般的理解を進めると同時に、現在必要とされている制度改革の実行を容易にする事を期待したい。そのため、ニュースになるような表面的事象を詳しく解説することを避け、長期的傾向や根本問題を示すよう努めた。
 本書は次のような事柄を取り扱っている。ガットとWTO(世界貿易機構)の下で世界にどのような貿易・経済制度が受け入れられてきたか、日本の国際交渉体制が世界と食い違っており、どのような制度改善が日本に必要か、アジアなどでFTA(自由貿易協定)が近年推進されているのは何故か、WTOの下で現在行われている貿易交渉はどの分野を含み、何を目指しているか。
 WTO(世界貿易機構-World Trade Organization)は、第2次大戦後に設立されたガット(関税と貿易に関する一般協定)の後を継いで1995年に設立された国際機関である。ガット同様多角的貿易交渉を行う場であって、多くの分野において貿易の自由化を行うと共に、貿易上の国際ルールを定め、国際貿易紛争を国際ルールに基づいて数多く解決してきた。多角的貿易交渉の結果は、加盟国の間で無差別に適用される。例えば、交渉の結果、歩くにがある品目の関税率を下げたとすると、その品目の全加盟国からの輸入に、下がった関税率が適用される。
 「多角的貿易交渉」とは、種々の分野で多数の国が一緒に集まって貿易問題を交渉することを言う。
 WTOは他の国際機関と異なる特色を多く以ていて、国内の制度を改革する助けにもなっている。WTOの特色はガットの特色と同じであるが、WTOの方が管轄分野が広い。
 FTAとは自由貿易地域(free-trade areas)または自由貿易協定(free-trade agreements)を意味する。自由貿易地域は国際ルール(ガット第24条)で認められた経済統合の一種で、2国間や複数国間の貿易・経済交渉で取り上げられることが多くなってきた。
 日本はガットとWTOの体制を尊重し、多角的貿易交渉一辺倒であったが、最近になって重層的貿易政策に転換した。つまり、WTOで多角的貿易自由化を進めると共に、アジア諸国などとFTAを締結し、地域的に貿易自由化を進める交渉を行っている。
 WTOは現在大規模な多角的貿易交渉を行っているが、その結果が世界の貿易と経済を改善することになる。この交渉は、思い切った閣内体制の改革を実行する機会を参加国に与えている。言い換えれば、国内制度については発想の転換がなければ、貿易交渉自体が成功せず、日本のためにもならない。
 本書はどの国が開発途上国となっているかについてその実態 を紹介し、開発途上国から見たWTOとは何かについて考察を加えた。
 今回WTOが主催する貿易交渉は「ドーハ開発アジェンダ」と正式に命名された。WTOに加盟する開発途上国が増加すると共に、従来のガットに対する批判勢力が大きくなってきたからである。本州ではこの交渉を「現行のラウンド交渉」と呼んでいる。
 本書の末尾にある「エピソード」は本文脱稿後における世界と日本における出来事を考慮して作成することになっている。この「まえがき」と一緒にお読み下さると幸甚である。
 著者は1963年からガット事務局に29年間勤務した。長期的観点から見ると、ガットを擁護することが、結局は母国日本のためにもなっており、中立的なたちばで多角的国際交渉の仲介を行ってきた。また、大蔵省(現財務省)関税局とガット事務局で国際交渉を数多く経験し、各国の交渉姿勢についてその得失を考えてきた。
 1992年にガットを退職してからは、東海大学法学部に10年間国際経済法担当教授として勤務した。現在は、2003年4月青山学院大学に新設された「WTO研究センター」の客員教授をしている。センターはWTOについて政・官・産・学の間の協力を推進するなどの仕事をしている。また、著者は内閣府なでで委員を務め、日本が当面している国際問題の解決に当たっている。今後もWTOに関するサポーターでの1人でありたいと考えている。(『WTOとFTA』 から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ウルグアイ・ラウンド』            溝口道郎・松尾正洋 NHKブックス  1994. 7.25
『FTAが創る日本とアジアの未来』       藤末健三・小池政就 オープンナレッジ 2005.12.20
『WTOとFTA』 日本の制度上の問題点          高瀬保 東信堂      2003.11.10
( 2008年12月29日 TANAKA1942b )
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(20)コメ自由化への試案
特定の国からの輸入に頼らない関税政策
<農業交渉の実質妥結>  1993年12月14日午前3時すぎ、異例の未明の閣議で、日本政府は関税化の特例措置を含む農業協定案の受け入れを決断した。そのお直後、細川首相は記者会見を行い、日本にとって自由貿易体制が死活的に重要であることを強調し、この決断は苦悩に満ちたギリギリの決断であると直接国民に語りかけた。一方、外務省からジュネーブの日本政府代表部に、農業協定案を受け入れるとの訓令が大至急電報で出され、これを受け取ったジュネーブの遠藤大使は、ただちにサザーランド・ガット事務局長に面会し、この決断を伝えた。サザーランド事務局長は、この面談の後、ただちに記者会見を行い、細川首相の決断を評価し、これがウルグアイ・ラウンドの妥協に大きく貢献すると確信すると表明した。
 12月15日、貿易交渉委員会(TNC)では、ウルグアイ・ラウンドの実質妥協を宣言する槌がサザーランド事務局長によって振り下ろされた。(『ウルグアイ・ラウンド』 から)
「1粒たりともコメは輸入させない」と言い切っていたコメ問題、上記の様な状況でウルグアイ・ラウンド交渉を妥結させた。ガットの基本方針は、輸入量を制限するのではなく、関税化を行って、徐々に関税率を高めて、自由化への開始への余裕期間を設ける方式だ。日本のコメ輸入に関する妥協案はこれに反する。しかし、それでもいつまでもウルグアイ・ラウンド交渉を妥結させずに続けていれば、貿易自由化への悪影響がある。そこで、こうした例外的な妥協案を作った。けれども、現在になってみると結果的には関税化の方がコメ保護の立場にとって有利であったと言われている。がむしゃらに「1粒たりともコメは輸入させない」と維持を張っていたが、結果的には、輸入量を制限するのではなく、関税化を進める、というガットの精神を理解していなかったばかりでなく、コメを輸入から守ろうとする保護主義の立場からも、関税化を選ばず輸入量を制限する政策は間違っていた。
 コメ輸入の自由化にはどのような政策を良いのだろうか?TANAKAがこのホームページで主張しているのは、「関税化」だ。当初高い関税を掛け、徐々に低くしていく、という「関税化」だ。具体的にどのような方法か、以前に書いた方法をここに再び登場させることにしよう。
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<コメ関税化の工夫> コメの安定供給には供給地と流通経路を多くすることだ。自給率を高めることは安定供給にはならない。一国に頼らず多くの国から安定的に輸入できるように、コメの輸入を自由化し、その上で関税率を工夫する。TANAKA1942bが提案する試案は国別の輸入実績を基に関税率を決めようというものだ。
 まず米の輸入を関税化する。例えば、平成19年度(平成19年4月〜平成20年3月)までは全ての国からの輸入関税を500%とする。以後、
 平成20年度(平成20年4月〜平成21年3月)までは400%とする
 平成21年度(平成21年4月〜平成22年3月)までは300%とする
 平成22年度(平成22年4月〜平成23年3月)までは200%とする
 平成23年度(平成23年4月〜平成24年3月)までは100%とする
 平成24年度からは、前年の輸入実績によって国別に決められる。つまり、ある国からの、平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が、全輸入量の何%かによって決まる。
 A国からの平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が、全輸入量の50%だったとすると、 平成24年度の関税率は50%、
 B国からの平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が、全輸入量の30%だったとすると、 平成24年度の関税率は30%、
 C国からの平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が、全輸入量の10%だったとすると、 平成24年度の関税率は10%、
 D国からの平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が、全輸入量の3%だったとすると、 平成24年度の関税率は3%、
 E国からの平成23年1月〜平成23年12月の輸入実績が0であると、平成24年度の関税率は0%、とする。
 平成24年度米輸入に関して、A国は50%の関税がかけられ、D国には関税がかけられない。当然輸入業者は関税率の低い国から輸入しようとする。それによって平成24年度の輸入は前年とは違ってくる。 A国からに輸入が減り、C国からの輸入が増え、D国からの輸入されるかも知れない。そしてA国からの輸入が35%になったとすると、平成25年度A国からの輸入関税率は35%になる。 D国からの輸入が開始され10%の輸入があれば、平成25年度D国からの輸入関税率は10%になる。
 このようにして毎年関税率を調整することによって、特定の国からの輸入に頼ることがなくなる。
 日本市場へコメを売り込もうとしている代表はアメリカ・カリフォルニアのコメ生産者だろう。アリフォルニア米は日本産のジャポニカと比較しても味は劣らない。 生産コストは安いし、日本の農家にとっては脅威に違いない。けれども、このような関税制度を採用すれば、日本市場でプライス・メーカーにはなれない。 アメリカの農家に独占される恐れはない。中国・オーストラリア・タイなどの他に、ベトナムをはじめアジア諸国の中から日本にコメを輸出しようとする国が出てくるに違いない。 生産地・生産国が多くなることによってリスクが分散される。天候・気候などの影響による、日本国内での価格変動がヘッジされる。 食料安保とはこうした対策を練ることだ。
 ところでこのような関税率、国別に税率が違うのは最恵国条約に反することになる。いずれはこうした制度は廃止して関税率は一律にするのがいい。一律にしても供給が不安定になることはないだろうが、今は自由化反対の声が大きいのでこうした関税率を採用するのがいい。日本の市場が開放されコメの貿易量が多くなれば、つまり世界のコメ市場の取扱量が多くなれば、このような特別な関税率を適応しなくても安心だということが理解されるであろう。
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<価格安定には先物取引を> リスク分散と言えば価格安定のための先物取引が考えられる。ここでは国内のコメの取引について書いてみよう。 以前に<農家はプットを生かそう=江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな><キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?><帳合取引所はカジノなのか?>として書いた。 先物取引と書いたが、厳密に言えば「先渡し取引=Forward」であって「先物取引=Futures」とは少し違う。 江戸時代大坂堂島で行われていた「帳合い取引」とは「先物取引=Futures」で、現代の「日経先物取引」のような、現物を扱わない取引だった。これについては<大坂堂島米会所>を参考のこと。
<農家はプットを生かそう 江戸時代の大阪堂島の商人に負けるな>  今様米帳合取引所ができて、さあコメ作り農家はどのようにこのマネーゲームに参加するのだろうか?需要と供給のバランスをとること、価格の安定が主要な目的だ。それならば生産者米価の安定にも役立つのだろう。そうでなかったらコメ作り農家には必要ない無用の長物になる。この文はコメ作り農家がどのようにこの「今様米帳合取引所」を活用するか?の具体的な試案を提言するものである。コメ作り農家=田中さん、毎年農協を通してコメ1俵=60Kgを400口、すなわち24トン出荷していた。価格は1俵=60Kgで1万5千円。売上代金は 600万円。 コメも市場経済の荒波にもまれ始め「自己責任」の名の下に、自分で市場に出荷する時代になってしまった。「米価は農水省と全中あたりで決めてくれるのがいい」と考えていた田中さん、もう政府は何も決めてくれなくなってしまった。すべて「市場」に任せる、 と言う無責任ぶり。と怒りを露わにしても、結局自分で何とかしなければならなくなった。遠い海の向こうからもコメがやってくる時代になってしまった。生産者米価は幾らになるか分からない。秋になってみないと分からない。大方の予想は1万4千円から1万6千円だと言う。「その位の予想なら俺だって言えるよ」と文句を言っても、とにかく大損をしないようにしたい。大儲けはできなくても、大損はしたくない。そこでインターネットを使って、米帳合取引所のことを研究した。そしていくつかの戦略を立ててみた。これからその戦略について検討することにしよう。
<与件> コメ1俵=60Kgを1単位=1枚と表現する。田中さんは400枚売るつもり。田中さんの予想は1枚1万5千円。 いくつかの戦略を計画し、米価が1万3千円、1万4千円、1万5千円、1万6千円、1万7千円、の場合田中さんの収入を計算する。
<第1の戦略>  全て現物取引にする。この場合、米価が
13,000円の場合は 520万円。
14,000円の場合は 560万円。
15,000円の場合は 600万円。
16,000円の場合は 640万円。
17,000円の場合は 680万円。
<第2の戦略>  春に200枚=200俵(60Kgx200=12トン)を14,500円で先渡しで売っておく。14,500円x200=2,900,000円。 残り200枚は秋に現物取引する。この場合の収入はどうなるか?米価が
13,000円の場合、先渡し分2,900,000円。現物取引分13,000円X200=2,600,000円。両方で5,500,000円。
14,000円の場合、先渡し分2,900,000円。現物取引分14,000円X200=2,800,000円。両方で5,700,000円。
15,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分15,000円X200=3,000,000円。両方で5,900,000円。
16,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分16,000円X200=3,200,000円。両方で6,100,000円。
17,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分17,000円X200=3,400,000円。両方で6,300,000円。
<第3の戦略>  200枚を14,500円で先渡し売り。100枚を14,200円でプットを買っておく。(14,200円で売る権利を買っておく)この場合の手数料=プレミアムを10万円と仮定する。
13,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分1,300,000円。プットを行使して1,320,000円。全部で5,520,000円。
14,000円の場合。先渡し分2,900,000円。現物取引分1,400,000円。プットを行使して1,320,000円。全部で5,620,000円。
15,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分2,900,000円(手数料10万円)全部で5,800,000円。
16,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分3,100,000円(手数料10万円)全部で6,000,000円。
17,000円の場合。先渡し分2,900,000円。プットを行使せず現物取引分3,300,000円(手数料10万円)全部で6,200,000円。
<各戦略の検討>
   米価 13,000円  14,000円  15,000円  16,000円  17,000円  高低差
第1の戦略 520万円  560万円  600万円  640万円  680万円  160万円
第2の戦略 550万円  570万円  590万円  610万円  630万円  80万円
第3の戦略 552万円  562万円  580万円  600万円  620万円  68万円
<第1の戦略>  2001年現在日本での取引はこのケース。現先もオプションもできない。従って政府の関与が少なくなり、市場のメカニズムに任せるようになると、価格変動が大きくなる。全中が価格操作しようとこのマネーゲームに参加してきても、市場が大きくなれば相対的な影響力が小さくなり、無駄な抵抗で終わるだろう。後には市場介入に対する非難だけが残る。
<第2の戦略>  江戸時代大阪堂島のコメ商人が世界に先駆けて生み出した制度=米帳合い取引はこのケースよりも抽象的。日経225の取引が江戸時代の帳合い取引に相当する。コメの先物取引は江戸時代から少しづつ変化しながらも続き、統制経済の時代になくなった。 今はその統制経済のままの姿が残り、先渡し取引も先物取引も行わない、単なる現物取引だけの現在の制度を改革しようとしない。全農は「先物取引は生産農家にメリットはない」と主張する。コメの価格安定化よりも、日本の文化、ダム効果、環境保全、地域社会の要の方が大切のようだ。それも生産者以外の傍観者が言うなら分かるが、生産者も収入の安定よりもそれ以外の効果を重視するようだ。収入の安定が考慮されないなら、若い人の農業志望者が減るのは当然だ。尊農攘夷論者よりも、江戸時代の大阪商人の方が市場のメカニズムを効果的に活用していたようだ。
<第3の戦略>  21世紀の農家は最低この程度の戦略は採るようになるだろう。個々の農家にとって戦略選択が難しくても、コメ集荷業者がおすすめプランを作成するだろうからだ。農協の隙間を縫って参入する業者のウリは手数料の安さと付帯サービスになり、積極的に農家の相談役になろうとする。当然こうした市場のメカニズムに対する知識も十分身につけて参入するはずだ。せいぜい利用するのがいい。通常はコメ作り農家にとって消費者がお客様・神様だがこの場合は、コメ集荷業者にとってコメ作り農家がお客様・神様だ。うんと我が儘を言うがいい。これでやっと江戸時代の経済よりも進化したことになる。
<リスクの分散>  食糧の安定供給には「供給地を多くする」「流通経路を多くする」と主張してきた。つまり「リスクを分散する」ということだ。この今様米帳合取引も価格の変動というリスクを分散させようとの意図で運営される。「農業は工業と違って天候に左右される。」だから自給してリスクを一カ所で管理するか?それとも分散させるか?で考えは違ってくる。リスクを一カ所で管理するのがいいか?分散させるのがいいか?インターネットを利用している人なら答えは簡単。「パソコン通信がいいか?」「WWW インターネットがいいか?」好奇心の旺盛な人にはこの違いを研究して頂きましょう。そうするとコメの供給地を日本だけに限定して自給する制度と、日本だけでなく多くの国を供給地としてリスクを分散させる制度、この違いとそっくりなことに気づくはずだ。
 パソコン通信型のコメ経済は、供給地を管理しやすい日本だけにする、流通経路を農協だけにする、米取引を現物取引だけにする、そしてリスク負担は政府が負うという名目で、国民の税金に反映させる。つまりこれは統制経済を続行させようとの考えなのだ。人はそれを「社会主義経済」とか「国家独占資本主義」とか、あるいは「設計主義」と呼ぶようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『国内農産物の先物取引』リスク管理手法としての可能性   農林中金総合研究所 家の光協会  2001. 4. 1
『ふしぎの植物学』身近な緑の知恵と仕事                田中修 中公新書   2003. 7.25
( 2009年1月5日 TANAKA1942b )
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(21)グローバリゼーションを基本とした政策
成長痛を恐れぬ農業政策の立案を
  先週は農産物の先物取引について書いた。天候・気候など予測できない人間のコントロールできないこよに依って生産量が変動し、生産者価格が乱高下するような商品に関しては「先物取引」「先渡し取引」などが有効な場合が多い。農産物もこうした「先物取引」「先渡し取引」を利用することによって生産者価格・消費者価格の乱高下を少なくするできる。しかし農業関係者はこうした取引を望んでいない。と言っても農家はモノを言わない。農協が「農家の声」として発言しているに過ぎない。そこで農協の考えを引用しよう。農林中金総合研究所が書いた『国内農産物の先物取引』からの引用だ。
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<農林中金総研は先物取引に否定的> 国内農産物の価格変動リスクを緩和するには、農産物の先物取引が有効である、というのがTANAKAの主張なのだが、農協関係者はそのようには見ていない。では、どのように考えているのか、農林中金総合研究所がまとめた『国内農産物の先物取引』の最初の部分と最後の部分から引用しよう。
<価格変動リスクを回避する先物取引> 商品先物取引、農産物先物取引の用語は新聞等で時折見かけるようにはなったが、まだまだ一般大衆にとっての馴染みは薄い。先物取引という言葉にいくぶんかのいかがわしさを嗅ぎ取るむきがあることも事実である。 しかしながら、現在、我が国には東京穀物商品取引所をはじめとして7つもの商品取引所が存在するとともに、1999年度の出来高は8865万枚、106兆円に及んでいる。商品別の出来高をみると、貴金属の39.8%に次いで農産物が27.5%をも占めている。 したがって、先物取引についての好き嫌いはさておいて、先物取引の実態についての性格な認識と基礎的な知識をもっておくことが必要な時代が到来しつつあるわけで、本書のねらいも、まさにここにある。
 先物取引は現物先物取引、現金決済取引、指数先物取引、オプション取引の4つもの取引形態があるが、要は市場を通じて価格変動リスクを低コストで他者に移転する仕組みが中心であり、ヘッジ機能を有しているところに最大の特徴があるということができる。 あわせて先物取引は人工的・抽象的につくられた派生的取引であるものの、一般の現物取引抜きにしては存在し得ないものであるとともに、現物の受け渡しに対する関心の有無とは関係なく価格変動リスクを負って利益を上げることを目的とする投資家が多数存在することによって成り立っていることも踏まえておくことが必要であろう。
 ところで、現在の先物取引の原型は1848年のシカゴ商品取引所の設立によって開始されている。収穫期に暴落、端境期に高騰する穀物価格の変動に悩まされていた関係者が、業者間で事前に販売契約を結んで価格を安定させるために考え出したのが、この先物取引なのである。
 我が国での先物取引は大坂堂島(江戸時代)の米会所に端を発し、こでが世界で最初の先物取引であると言われいる。1893年には取引所法が公布されされて米穀、綿糸、綿花、蚕糸、砂糖など各種の商品取引所が全国各地に設けられたが、戦後の1950年に新しい商品取引所法が制定公布され、その後数次にわたる改正を経て今日に至っている。 直近の98年の商品取引所法改正では鶏卵、ブロイラー等が新規に上場されるようになるとろもに、2000年5月には非遺伝子組み換え大豆の上場も開始されている。 また、業務規制の緩和、委託手数料の自由化等が促進されるなど自由化・市場化の流れに対応して体制整備がはかられてきた。 (『国内農産物の先物取引』はじめの部分から)
<先物の可能性と将来展望> 我が国においても、WTO体制下において農政が保護政策から市場重視へと転換しており、直接所得補償政策とは別途に、市場におけるリスク管理の導入が必要となるであろう。 ところが、現実には先物市場どころか現物市場さえも十分に整備されていない。コメでさえも現物市場の形成は未成熟段階であり、乳製品については緒についたばかりである。 また、野菜など卸売市場経由の流通にしても、市場外取引が増えてきており、その役割は低下している。いずれにしても、先物市場の指標となる現物価格の形成が求められる。
 さらに、我が国の場合には、小規模・兼業の生産者が大半であり、個人が自らリスクをとるとは考えにくい。また、そのようなやり方が効果的であるとは考えられない。 したがって、日本の場合には既存の農協系統の共販を含めた、より効率的かつ効果的な手法が求められる。本書では基本的には生産者を念頭において調査を進めてくたが、流通業者や加工業者等のニーズを含めて、さらなる検討が必要であろう。
 当初、農産物の先物取引の調査を始めたとき、生産者側からみて、リスク管理の一環として先物取引が利用される可能性があるのかという問題意識をもっていた。 その後、調査を進める過程で、農産物の生産・流通機構、価格決定方式、農家の零細性等から判断して、現状では生産者のリスク管理のための先物取引の役割は限定されるという認識に至った。
 しかしながら、生産者のリスク管理という観点に立てば、現在導入が検討されている直接所得補償制度を含めた総合的な対応策が必要であり、先物取引についても、市場における価格変動リスクを多少なりとも緩和するという観点から、リスク管理の一手法として位置づけて改善していくことが重要であると考える。 (『国内農産物の先物取引』終わりの部分から)
 この本では、はじめの部分で、先物取引が価格変動リスク回避に有効であるかのように書き出して、最後の結論では「先物取引は有効ではないので、直接所得補償制度を採用すべき」と言って、先物取引に否定的な態度を取っている。 柔らかい言い方で、反対派を刺激ししないように気を配りながら、反市場経済的な姿勢をとっている。江戸時代の大坂堂島の米商人たちよりも市場のメカニズムに不信感を表している。
 ところで、どのような穀物を例に取って検討しているのか?と言うと、「ブロイラー」「鶏卵」「ジャガイモ」を例に取って検討し、輸入穀物として、「トウモロコシ」「コーヒー生豆」を例に取って検討している。 この本でも指摘しているのだが、先物取引に適した穀物とは、@品質が均等で大量取引に適していること、A価格変動が激しい商品であること、B十分な市場規模があること、C現物取引における独占・寡占がないこと、が要件となる。 しかし、「ブロイラー」「鶏卵」「ジャガイモ」は先物取引に適した商品とは言えない。先物取引に不適な商品を取り上げて「先物取引は価格変動リスク回避に不適である」と結論づけている。 「リスク管理手法としての可能性」を検討すると言いながら、実は「先物取引よりも直接所得補償制度を」と訴えることを主眼として書かれている。この本を読んだ読者は「先物取引は農産物取引に不適だ」と思い込んでしまう。 江戸時代、大坂堂島で米先物取引を始めた大坂商人を見習う必要があると感じた。
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<自家不和合性を予防する工夫> 「土の匂いのしない、ど素人」の意見を積極的に聞くことが自家不和合性を予防することになる。植物の中にはそうした予防システムが組み込まれているものがある。 前にも<自家不和合性と雑種強勢 >として取り上げたのだが、ここの話題にも関係あるので、再度書くことにしよう。
<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。  (『ふしぎの植物学』から)
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<自由化が先進国仲間入りへのパスポート> 1967年の第一次自由化以降つぎつぎと進んだ自由化、自由化に反対した攘夷論者が懸念した「外国資本による日本経済支配」は起きなかった。むしろ外貨は技術の伝播に貢献した。 それでも反対派は言うかもしれない、「アメリカの多国籍企業は日本企業の乗っ取りを狙っている」「日本に自由化の圧力をかけたアメリカは、逆に産業の空洞化を起こしてしまった」などの意見は、経済学とは関係のない一種の新興宗教なのでここでは取り上げない。
 第一次資本自由化当時、ある座談会で松下幸之助は次のように言っている。「ひとたび外国の会社が日本に工場を建てれば、もはや簡単に本国に持って帰ることはできない。売ろうとしたら、値を安く売らないかんことになる」「外国企業が日本にやってくれば、それはもう日本のもんや、こうなるわけやね(笑)」(「東洋経済」1967年9月28日臨時号) ケインズは1924年の論文で「外資系企業の進出失敗・撤退は、その事業資産が本来の価値以下で処分されるので、受入国にとって有利」と言っている。
 第二の黒船来襲と騒がれた資本自由化であったが、日本の経営者は「官に逆らった経営者」なども登場して、このドラマ「悲劇に終わる」との予想とは逆に、高度成長への体力作りのトレーニングにして乗り切って行った。 日本経済は、グローバル化・開放経済をバネに逞しく育っていった。貿易自由化・資本自由化は先進国への仲間入りのためのパスポートであったと言える。そして日本の産業人の知恵と努力によって日本は先進国の仲間入りを果たしたのだった。
<成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる>
現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
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<農地売買の自由化を> ポイントは農地売買を自由化することだ。規制を撤廃し、誰でも農地を買うことができるようにすること。農地売買を自由化すると、多くの人が買い手として登場する。買い手が多くなれば売買価格は上昇する。 「自分こそがこの土地を一番有効に活用する自信がある」「この土地から維持分が一番利益を上げる自信がある」という人・または企業が一番高い価格を提示する。そして土地は有効に活用されるに違いない。 その企業が購入して採算不良になりなったら、土地を放ったらかしにするのではなく、一刻も早く売って現金を手にしようとするだろう。「企業が買うと、事業がうまくいかなったとき、土地が手入れされずに荒れてしまう」との懸念はハズレ。 利益追求の企業が折角買った土地を放っておく手はない。次に買ったものは、最初の者ほどでないにしても、土地を有効に使う自信があって購入する。こうして、土地売買を自由化することによって農地は有効に利用される。
 土地を売った農家にも大きなメリットがある。高く売れればそれを元手に新規事業を始めることもできるし、あるいは老後の蓄えとして貯蓄するのもいい。
 売らなくても、それを担保に多くの資金が借りられるのだから運転資金にしても良いし、設備投資に活用しても良い。
 こうして農村部に現金を多く持つ者が誕生する。それは農村部のマネーサプライが増大するということ。インフレ・ターゲットを主張するエコノミストをはじめとするリフレ派エコノミストがその理論の根拠にしているのが「貨幣数量説」、つまり、「デフレスパイラル時に通貨流通量が増えれば景気は回復する」との主張になる。 このように農村部の通貨流通量が増えるのは農村部の経済活性化に有効なのだが、「乏しきを憂えず、等しからざるを嘆き悲しむ」人たちは「格差が拡大した」と嫉妬心丸出しで非難するかも知れない。 そのような反対者がいても、土地売買自由化によって農村部では「先に豊になれる者から豊になる社会」へと進化していくに違いない。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『国内農産物の先物取引』リスク管理手法としての可能性   農林中金総合研究所 家の光協会  2001. 4. 1
『ふしぎの植物学』身近な緑の知恵と仕事                田中修 中公新書   2003. 7.25
( 2009年1月12日 TANAKA1942b )
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(22)自由貿易こそが国民を豊かにする
地産地消、金融支援、バイアメリカンとは?
<日本は第1次世界大戦後、保護主義の犠牲者であった> このホームページの主旨は「第1次世界大戦後、日本は保護主義の犠牲者であった。その実態を振り返ってみよう」ということだ。最初に下記のようなコメントを書いた。今回はこのホームページのまとめなのでもう1度ここに掲載することにした。
 明治維新後、「富国強兵政策」を強力に押し進めていった日本。第1次世界大戦後、世界の先進国の仲間入りを果たしたかのように思えた。 しかし、日本、ドイツ、イタリアの3カ国は、先進植民地主義大国の既得権益に阻まれ、さらに新たなブロック経済政策のために自由な貿易からの利益を得ることができなかった。このため先進植民地主義大国に対して新たなブロック経済圏を作るべく、強い影響力を発揮できる植民地を求めて、「日独伊三国軍事同盟」を結び、経済的・軍事的侵略を進めていった。
 このように、日本をはじめとする後進工業国が「追いつき、追い越し作戦」を取っている頃、1992年10月のニューヨーク株式市場の暴落から始まった世界恐慌に対して、イギリスは1932年9月にオタワで会議を開き、イギリス本国とその属領植民地との間で特恵制度によるブロック経済圏を作り上げていった。こうしたイギリスの動きに対応して先進植民地主義諸国は、自由貿易から保護貿易へと政策を転換していった。
 先進工業国の仲間入りをしたかのように思えていた日本は、こうしたブロック経済の動きに対して自由貿易の恩恵が得られないために、日本独自のブロック経済圏を作り上げなければならなかった。先進諸国のブロック経済政策と、中国の対日ボイコット運動により、日本は 「大東亜共栄圏」 なる愚かな幻想を描くことになった。
 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の期間で、日本は保護貿易政策の犠牲者であった。 その犠牲者でまだ先進工業国から見れば弱小後進工業国であった日本があたかも「窮鼠猫をかむ」を狙ったかのような「大東亜戦争」という無謀な賭に出ることになった。このような保護貿易政策の犠牲者であった日本が、21世紀現在、保護貿易の加害者になろうとしている。戦後の荒廃から立ち直れたのも、自由貿易のおかげであったことも忘れてしまったようだ。
 このホームページでは、第1次大戦後から第2次対戦に至る期間に日本がどれほど保護貿易による被害を受けたか、について検証してみることにした。
 「自由貿易こそが国民を豊かにする」  歴史を振り返って見ればこの言葉が正しいことが理解できるはずだ。歴史の過ちを繰り返さないためにも、そしてこれから中進国・先進国の仲間入りをしようとしている国のためにも、自由貿易体制を維持し、貿易による相互利益を享受できるようにすべきだと主張する。
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<金融危機による保護主義の台頭> 2008年、アメリカのサブプライム問題から発生した金融不安が世界中に広がり、世界的な金融不安を引き起こしている。かつて市場経済を押し進める主張をしていた人も「資本主義はなぜ自壊したのか」と「グローバル資本主義との訣別宣言」をしたりして、マスコミではもっぱら市場原理主義批判が主流になっている。政治の世界でも「構造改革」に批判的な人が表立って発言するようになった。
 先進国では金融機関を守ること、自国の産業を守ることが政府の大きな政策目標になってきている。こうした動きは「保護主義」の台頭に結びつくので、各国は互いに他国の「保護主義的な政策」に批判的な発言をして、保護主義の台頭を牽制している。「保護主義的な政策には反対だ」と主張はするが、国内の圧力団体、業界、など有権者の声は無視できない。ビッグ3をはじめ自動車産業は破綻させるわけにはいかない。公的資金を注入したり、自国の自動車購入に対して購入者へ補助金を支給したりと、金融機関だけでなく消費拡大のために税金を投入している。なかには関税を引き上げて外国からの輸入を制限したりする国も現れた。
 先進国を中心に政府の金融関係者が集まって「保護主義反対」を宣言している。対外的には「保護主義反対」であり。国内向けには「景気対策」「自国の産業保護」となっている。
 アメリカ政府が、ビッグ3を守ろうと資金援助を行うことは「外国の自動車産業から自国の自動車産業を守ろう」ということだから、一種の保護主義ではある。しかしビッグ3の1つでも破綻すればその影響でアメリカ経済がさらに悪化し、それが世界中に影響し、ヨーロッパ諸国、日本、アジア諸国など世界中の経済に悪影響を与える。ビッグ3を守ろうということは、「保護主義」ではあるが、これを認めないと世界中の経済に悪影響を与える。したがって、「保護主義反対」を主張しながらも、ビッグ3救済に反対する諸国の政府はない。
<世界貿易量9%減 戦後最大の下落>  新聞は次のように報道している。「世界貿易機関(WTO)は3月23日、09年の世界の貿易量が実質ベースで前年比約9%減となり、第2次世界大戦後で最大の落ち込みになるとの見通しを発表した。昨年秋の金融危機の深まりで世界各地の経済が一斉に減速したため。世界貿易は過去30年間一貫して拡大してきたが、09年は一転する」「保護主義の広がりがさらに貿易の足かせになりかねないため、ラミー事務局長は『各国政府は保護主義的措置で状況を悪化させることを避けなければならない』と訴えた」
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<「経済戦略会議」で「構造改革」の急先鋒の学者の懺悔> 小渕内閣で「経済戦略会議」の議長代理を務め、構造改革の提案を多くまとめた中谷巌氏が『資本主義はなぜ自壊したのか』ー「日本」再生への提言ー と題する本を2008年12月に出版した。まず「まえがき」を引用してみよう。
 世界経済は大不況の局面に入った。この混乱が収束するにはおそらく数年にもわたる調整が必要になるだろう。
 しかし、もっと本質的な問題がある。グローバル資本主義の本質とは何かという問題である。それを明確に理解しない限り、我々は将来、何度でも今回と同じ間違いをしでかすに違いないからである。
 グローバル資本主義は、世界経済活動の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本主義が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長される。
 21世紀世界は、グローバル資本主義という「モンスター」にもっと大きな自由を与えるべきか、それともその行動に一定の歯止めをかけるべきなのか。
 当然のことながら、新自由主義勢力はより大きな「自由」を求める。グローバル資本が自らを増殖させるための最大の栄養源だからである。しかし、さらなる「自由」を手のしたものは、まさにその「自由」によって身を滅ぼす。結局のところ、規律によって制御されない「自由」の拡大は、資本主義そのものを自壊させることになるだろう。
 一時、日本を風靡した「改革なきして成長なし」というスローガンは、財政投融資制度にくさびを打ち込むなど、大きな成果を上げたが、他方、新自由主義のの行き過ぎから来る日本社会の変化をもたらしたように思われる。たとえば、この20年間における「貧困率」の急激な上昇は日本社会にさまざまな歪みをもたらした。あるいは、救急難民や異常犯罪の増加もその「負の効果」に入るかもしれない。
 「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる改革は改革の名に価しない。
 かつては筆者もその「改革」の一翼を担った経歴を持つ。その意味で本書は自戒の念を込めて書かれた「懺悔の書」でもある。まだ十分な懺悔はできていないかもしれないが、世界の情勢が状勢だけに、黙っていることができなくなった。そこで今回、思い切って私の拙い思いを本書の形で上梓させていただくことにした。是非とも、大方のご叱正をお願いしたいと思う。(以下略) (『資本主義はなぜ自壊したのか』から)
 グローバル資本主義の本質的欠陥として次の文章がある。
グローバル資本主義の本質的欠陥とは、ざっと挙げるだけででも次のようなものがある。
 1.世界金融経済の大きな不安要素となる。
 2.格差拡大を生む「格差拡大機能」を内包し、その結果。健全な「中流階層の消失」という社会の2極化現象を生み出す。
 3.地球環境汚染を加速させ、グローバルな食品汚染の連鎖の遠因となっている。
 次に一部日本語の使い方として気になったところがあったので書き出してみた。
融合したことのあったと記しておられる。(248P)
あなたはどう思うだろうか。(324P)
お考えになるだろうか。(324P)
 「おられる」とは「おります」という謙譲語を丁寧に言っているのであって、相手に対しての敬語とは言えない。敬語ならば「記していらっしゃいます」「記していらっしゃる」、普通に言うなら「記している」。どちらも決して相手に対して失礼ではない。自分のことならば「私は記しております」「私は記しています」となる。
 あなたが直ぐそこにいるのか?遠くにいるのか?目の前の相手に対しては「どう考えますか?」、遠くにいる人ならば「一般の人はどう思うだろうか」と言うのが自然だ。
 著者はブータンとキューバを「反グローバル資本主義」として高く評価している。それならば、エンベル・ホジャ時代の「地産地消の国」、アルバニアも高く評価することになるだろう。もっともアルバニアを訪問してもシグリミ の存在には気づかないだろうし、たとえ気づいても無視することになるだろう。シグリミに関しては <シグリミと呼ばれる秘密警察>▲を参照して下さい。
 ある分野でそれなりに成功すると、宗教家に転じる人がいる。学者であったり、経営者であったり、作家であったり。それなりに成功した人なので、親身になって忠告する人が出てこない。開かれた社会ではなく、閉鎖的な社会ではその社会のドンに反抗するには勇気がいる。反論しにくい説をもって登場し、新しい「教祖」になる人もいる。教祖になれない人は、教祖の側にいて、教祖の威光でもって自分の身を守ろうとして、教祖を持ち上げる。ただし他の人が同じ様なことを言っていて、特別新しい説を持たない人は宗教家であっても教祖にはなれない。こういう人は教祖と違って厳しい批判を浴びることも少ないので、ストレスの溜まらない楽な生き方と言える。悠々自適の隠居生活として年を取ってからの生活として適しているかも知れない。
 中谷巌氏の著書は、 <競争は市場の活力>▲として引用しているので、ここでもう1度引用してみよう。とても分かりやすい文章で、『資本主義はなぜ自壊したのか』よりも説得力があります。
<競争は市場の活力>
競争はなぜ必要なのか 「市場競争はなぜ必要なのか」と聞かれれば、大部分の読者は「そんなことは当然だ。今更議論する必要もないのではないか。競争がなければ、人々は現状に安住し、技術革新も起こらない」と答えるのではないだろうか。
 実際、このことは歴史的に証明されている。例えば、市場メカニズムを否定した社会主義諸国の多くは破綻し、市場経済に移行し始めた。また、日本の産業を見渡しても、早い時期から国際的な競争をしなければならなかった自動車やエレクトロニクス産業は国際的にも強い競争力を誇っているのに対して、建設、流通、農業、薬品など、規制や保護などに依存してきた産業の競争力は総じて弱い。 大学などの知識創造分野でも、多くが当局の規制下にあったため、十分なインセンティブがなく、根本的な改革が必要になっている。
 しかし、一般論として市場競争は肯定しても、具体論になると、市場競争に対する拒否反応は非常に強いのも現実である。競争は「弱肉強食」を容認することであり、それは共存共栄の理想社会を目指す人間社会にとって望ましくないという考え方である。このような考え方からは、競争制限への強い主張が出てくることになる。
 厳しい競争にさらされている企業が生き残りをかけ、雇用に手をつけるという段階になると、競争は善だと考えている人でも、そのようなリストラは好ましくないと考えるかもしれない。多くの企業は、このような世論に配慮し、雇用調整の手をゆるめ、結局はぬるま湯的なリストラ策でお茶を濁してしまう。その結果、企業業績が長期にわたって低迷することになる。
 また、銀行が、借金を返せなくなった企業向けの不良債権を放棄する例が増えている。これは、「競争に敗れた効率の悪い企業は市場から退出する」という市場競争の大原則からの逸脱である。競争に敗れた企業を救済し、市場から退出させないという「反競争的」イデオロギーが日本社会では非常に強い。このことが実は、非効率な分野に資本や人材を押しとどめ、日本経済全体の効率性を損なう結果になっている可能性が大きいのである。
 市場競争は必要だという一般論には賛成でも、個別具体的案件になってくると、多くの人は「反競争的」な解決策(救済策)に頼ろうとする。このような市場競争を巡る人々の矛盾した対応に対して、我々はどう考えるべきなのか。以下で。この点を論理的に明らかにしていきたい。
規制と保護は「野生動物をペット化する檻」 野性の動物を捕まえてきて、ペットとして飼いならすことを考えてみよう。動物は死に物狂いでえさを探す必要はなくなり、楽な生活ができるようになる。しかし、鎖でつながれたり、檻の中で生活しなければならず、自由に野山を駆け回れない。やがて筋肉がなえ、俊敏性など本来的能力がなきなっていくだろう。そして、この動物は厳しい自然の中では生活できずに、鎖や檻という「規制」を好むようになり、本来の動物としてのすばらしさを失うことになるだろう。
 市場競争を野性の動物界に例えることが適切かどうか分からないが、競争のエッセンスはとらえられるのではないだろうか。市場競争にさらされている企業は常に新製品を開発しコストを引き下げ、顧客の満足を得る努力をしないと生きていけない。だから、あらゆる知恵を動員して、マーケットでの生き残りを図ろうとする。その結果、こうした企業は変革に向けたダイナミズムを持ち続けることができる。他方、規制と保護で飼いならされた企業は、ペット化した動物と同じことで。競争市場に出ていくことを怖がり、何かと規制が撤廃されないようにと政治家に働きかける。 規制緩和をはじめとした競争促進政策に対する業界の抵抗が強いのは、競争で勝ち残るだけの自身を喪失しているからにほかならない。
 規制が温存されると、ますます競争する能力が落ち、人材や資本を無駄遣いすることになる。こういう規制や保護の対象になる産業が多ければ多いほど、国全体としての経済効率が低下する。
 このような現実世界から離れて、すべての分野で競争的な市場が成立している状態を考えてみよう。経済学ではこういう状態を「完全競争」と呼ぶが、完全競争のもとでは、どの企業も市場に対して支配力を持たない。また、他企業よりも非効率でコストの高い企業は存続できない。
 企業が生き残るためには、努力によって、経営コストを他の競争力のある企業と少なくとも同じレベルにまで引き下げる必要がある。従って、完全競争下では、非効率な企業は淘汰され、効率の良い企業だけが生き残ることができるので、資本や労働力も無駄に配分されることがなくなる。
 もっと言えば、競争下にある企業は技術革新の能力についても常に競争してういる。他企業に負けないように新製品を出し、コストを削減するための絶えざる努力をしないと、いつ市場から退出させられるかわからないからである。(中略)
競争がない国立大学で何が起こったか 競争がない世界ではどのようなことが起こるのか。そのことを端的に示す一つの例が、日本の国立大学である。
 国立大学の最大の問題は「インセンティブの欠如」という問題だ。大学における研究や教育のパフォーマンスが悪くても、国が講座数など固定化された基準で財政支援しているため、「倒産」の危険がなく、研究水準の向上や教育サービスの充実に向けたインセンティブが機能しない。
 このことは個々の教官についても同様である。実際、頑張ってすばらしい業績をあげた研究者も、何もしないで長年論文を書いたこともない人も殊遇は変わらない。教育に情熱を傾け、学生たちから尊敬され人気の高い先生も、十年来の講義ノートを棒読みにして生徒に見向きもされない先生も同じ待遇である。これでは研究や教育の水準向上は見込めない。
 もちろん、教育者のやる気は金銭的な待遇だけに左右されるわけではない。現在のシステムでも研究や教育に情熱を燃やしている人はいる。だが、残念ながら、それは全体のごく一部に過ぎない。だからこそ、何らかの評価とそれに連動した処遇の仕組みが教育機関にも必要なのである。
 教育の場に競争原理を導入することには批判的な意見が多いが、学校を活性化するのに一定の成果を上げる可能性は十分にある。大学については2000年4月に第三者評価機関である大学評価・学位授与機構が発足した。第三者による評価制度がスタートしたこと自体は大いに評価すべきだ。研究や教育の質をどうやって測るかという根本的問題はあるが、それが困難だからという理由であきらめていては、事態は何も改善しないだろう。
 重要なのは、国立と私立の区別をなくし(国立大学の民営化)、第三者機関による評価をもとに、教育・研究の予算配分を決定するという競争的仕組みの導入である。国立大学であるというだけで、自動的に膨大な予算が割り当てられるという仕組みを廃止し、私立大学でもパフォーマンスが良ければ国からの支援が期待できるような予算配分を実行するのである。
 もちろん、大学を完全に市場競争にゆだねてしまうことは不可能である。基礎研究のように民間企業では十分にできない研究には、国が予算を付けなければならないし、特定分野の振興のために政治的な配慮も必要になるかもしれない。
 このような配慮をすることと、教育の場に可能な限り競争原理を持ち込むことは矛盾しない。いずれにせよ、競争が欠如したところにダイナミックな発展はないからである。
「効率」あっての「公正」 競争は弱肉強食の世界を生み出すから反対という「反競争」イデオロギーにたいしては、どのような答えが可能だろうか。
 競争が淘汰を生むことは自明であるが、淘汰される企業や失業の憂き目にあう労働者に同情しない人はむしろ少ない。しかし、目の前で苦しむ企業や労働者を救済するために競争を否定すれば、経済社会全体の停滞を生み出す。このミクロ的視点からくる「同情論」とマクロ的視点からくる「停滞論」という対立はどのような論理で解消できるであろうか。
 この点について経済学の世界では、50年近く前に1つの理論的解決を得ている。これはノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授が証明した「厚生経済学の基本定理」として知られている。この理論のポイントは「社会全体の厚生水準を最大化するためには、まず競争原理の貫徹により経済効率を最大限に引き上げ(国内総生産を最大にする)、その後、望ましい所得分配を実現するための所得再分配政策を実行せよ」ということである。
 つまり、倒産や失業を恐れて競争を制限するのではなく、徹底的に競争原理に従って経済効率を引き上げ、経済のパイを最大にすることを優先する。その上で、競争の結果発生した所得分配の不平等を、社会保障政策、税政などの所得再分配政策によって是正すれば、社会にとって最適な資源配分が実現するということである。
 ここでは考え方の順序が重要である。弱者救済のための競争制限から入るのではなく、効率を最大にするために競争原理の貫徹から入る。その後に、最大化されたパイを活用して、競争の結果生じた不平等を社会政策によって是正する、という順序である。このような観点から見ると、日本の経済政策の最大の欠点は、「救済」(競争制限)から入るケースが非常に多かったという点である。
 「総論賛成・各論反対」や、痛みを恐れて規制緩和などの競争政策を先送りするという日本政府のこれまでの取り組みは、その典型例である。改革に伴う痛みを恐れた先送り政策で景気が回復しないことは、90年代の日本経済の長期停滞が証明している。小泉純一郎首相は「構造改革なくして景気回復なし」という考えを打ち出し、多くの支持を得た。 郵政事業の民営化など競争原理の貫徹から始めないと、日本経済を本格的に立ち直らせることはできないという市場競争に対する正しい認識が、ようやく日本でも根づき始めたことを示しているかもしれない。 (「やさしい経済学」から <競争は市場の活力>)
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<保護主義と、自由貿易=グローバリゼーションの違い> このホームページでは保護主義によっていかに日本が苦しみ、結果として「大東亜戦争」に追い込められていったか、その過程を振り返り、「2度とこのような保護主義を行ってはいけない」、との主旨で書き進んできた。現在の経済情勢を見ると、金融危機から自国の金融機関、鉱工業を守ろうと政府が経済活動にレフェリーとしてだけでなく、プレーヤーとして参加するという一種の保護主義が台頭し始めた。そして、この不況により資本主義・市場経済に見切りをつけるべきだ、との主張も出始めた。その主張はさらに「グローバル資本主義」という言葉を生み出し、不況、金融危機、格差拡大、自然環境破壊などをひっくるめて、その原因を「グローバル資本主義」に負わしている。
 自由貿易は資金が世界を流動することを容認している。1997年のアジア通貨危機も、ブローバリゼーションが原因なのではなく、不完全な資金の自由化が原因であった、というのがTANAKAの見方だ。これに関しては <アジア通貨危機は経済の「成長痛」>▲を参照して下さい。。市場経済とは多くの経済指標の変化を、政府がコントロールするのではなく、なるべく市場の動きに任そう、という考え方だ。為替の変化も、株価も、市場が変化を敏感に感じ取り、微調整するだろう、との考え方だ。1997年のアジア通貨危機は為替の変化を市場に任せず、政府がコントロールしようとしたことが失敗の原因だ。つまり資本市場を開放したのが間違いなのではなく、政府がレフェリーからプレーヤーになったことが間違いであったのだ。
 グローバル資本主義は人々を「金、かね、カネ」となんでも金に換算し、心の大切さを失わせる、と非難する。国民が株も為替も投機・投資に関心も知識も無かったから、アルバニアのねずみ講事件が起きた。銀行預金の意味もわからず、国民も政府役人もねずみ講を見抜けなくて、大きな被害を生みだしてしまった。「子供が成長するとき、大人の醜い社会を見せないように過保護で育てるのが良い」との考え方を同じだ。ねずみ講に揺れたアルバニアに関しては<ねずみ講に揺れたアルバニア>▲および<地産地消の国アルバニア>▲を参照して下さい。
 ジニ計数を引用して、「日本では格差が拡大している」との主張がある。ではどうしたら良いのか?その答えの1つは所得税の累進制を強化することだ。このことに関しては今まで経済学者からの指摘はなかったように思う。『資本主義はなぜ自壊したのか』では珍しくこのことが少し取り上げられている。しかし、具体的にどのようにフラットにすべきかなど、説得力ある主張は書かれていない。TANAKAの見方は、長い時間かかってのこのようにフラットになってきた、ということは日本の国民はフラットにすることを容認してきた、それほどまでにして格差を是正すべきだ、とは考えていなかったと理解すべきだ、ということだ。
 ジニ係数に関しては次のページに引用したのでそちらを参照して下さい。 <日本の所得分配は平等とは言えない>▲ <「正義論」は「先富論」をどう評価するか?>▲
 日本の所得税の累進制がどのように変わってきたかは <実際の税率はどうなっているか?>▲を参照してください。長い時間かかってこのように変化してきた、ということは国民がその変化=累進制のフラット化を容認してきた、ということだ。「それを容認してきた国民は正しい判断ができていない」と言うことは「私は、経済を正しく理解できるが、多くの国民はそれができない。従って経済問題を国民の多数決で決めるのは間違っている」と言うことになり「国民は政治・経済を正しく理解することができない。従って我々エリートが党を組織し、その前衛党が国政を担当すべきだ」との考えになる。
<格差拡大がすべて悪いわけではない> 格差拡大を非難する人はジニ係数を持ち出して自説を主張する。ジニ係数については書いたので、「格差」について少し違った面からの話をしよう。それは<格差拡大がすべて悪いわけではない>と言うことだ。これについては、 <嫉妬は平等を求める> ▲として書いたのでここでもう1度引用することにしよう。
 今、3人の人間 A B C からなる社会を考えてみよう。3人が獲得する所得(又は富)は、それぞれ3 2 1 であったとする。これが変化して、4 2 1 となったとすれば、これは状態が「改善」されたことになるのか?それとも悪くなったと言うべきだろうか?
 この変化を簡単に、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )で表すことにしよう。
この社会の外にいる「公平な観察者」(アダム・スミスのいう impartial spectator )なら、これをある種の改善と見るであろう。なぜかと言えば、 B C の状態が現状のままである時、少なくとも1人、この場合は A の状態だけは改善されているのだから、この社会の状態は第三者から見て明らかによくなっている。社会全体の所得(富)も以前より増えている。
 これに対して、平等を何よりも重視する立場を観察者なら、もっとも恵まれない C に同情し、A や B ではなく、まず C の状態が改善されることに関心を示す。この場合は C の状態は改善されず、もっとも恵まれていた A の状態がさらに改善されて、この社会の所得な格差、あるいは「不平等」は一段と拡大されたことになる。そたがって、このような変化は、この社会の改善ではなく改悪である、というふうに主張するであろう。また、C は(おそらく B も)このような意見に同調して、格差の拡大を非難するであろう。当事者のこの非難には、嫉妬の情が含まれている。金持ちの A がますます金持ちになることは我慢できない、というわけだ。「他人の不幸は自分の幸福」という嫉妬の原理からすれば、 A( 3 2 1 )⇒( 2 2 1 )のような変化こそ「改善」になる。B も C も、A が貧しくなったことを愉快とし、満足を覚え、したがって社会は「穏やかな気分」に満たされることであろう。社会の」全所得は 6 から 5 に減ったけれども、格差は縮まり、より平等化したのであるから、この方がよい、というわけなのだ。孔子の「寡(すく)なきを患えず、均しからざるを患う」という言葉も、このような「貧しくても平等な方がよい」という立場を表明したものと言える。
 しかし誰の肩ももたない「第三者的な」観察者は、このようなAのような変化を「改善」だと見るだろうか?嫉妬で足を引っ張り合う愚かな人々の「自己満足」を嗤うのではないだろうか。
 それでは、( 3 2 1 )という状態を、政府が強制的に修正して、B( 3 2 1 )⇒( 2 2 2 )と完全に平等化したとしよう。もとの状態が、能力、努力、運によって決まった「ゲーム」の成績であったとすると、政府が「再分配政策」によって結果を平等化したことになる。C はこのような平等化を歓迎する。A はもちろん不満を唱える。再分配は「ゼロサム・ゲーム」であるから、ある人が追加分をもらって喜ぶ反面、他の人は自分の取り分を削られて怒るという結果になる。現状のままに放置される B は、ここでは「優遇される」C を嫉妬するに違いない。このような平等化を「公平な観察者」はどう評価するだろうか?ややシニカルに、「それがあなたがたの総意なら、やむを得ないでしょう」と言うかもしれない。そしてさらに、 「それにしても、ゲームの結果をあとから政府の手で平等化するのでは、そもそもゲームをした意味はありませんね」という感想を付け加えるかもしれない。
 ところで、この社会の総意という点について、次のようなことが言える。
 今、社会が( 4 1 1 )のような状態になっているとしよう。この社会で「多数決による総意」を決めることにすれば、B と C が平等化に賛成し、A は反対して、結局「恵まれない多数」の言い分が通ることになる。つまり多数の貧者は少数の富者から奪うことによって、自らの状態を改善することができるのだからだ。
 このように、「多数決原理」を採用した再分配が何をもたらすかは、考えてみるとかなり恐ろしいことだ。それは論理的には「多数の貧者による少数の富者の収奪」という帰結をもたらすしかない。これを「民主主義の恐ろしさ」と見るか、それとも「民主主義こそ平等化をもたらす、民主主義万歳!」と自賛するか、これは立場と価値観の違いによって決まる。「公平な観察者」は多分、「このような平等化を追求する民主主義は、社会主義に行き着くほかない」というコメントを残すであろう。
 むしろ不思議なのは、現実の民主主義がこの平等化をそれほど徹底して追求するわけでもなく、「金持ちの収奪」を経て社会主義の道を歩むわけでもない、という事実の方だ。実はここに「民主主義の知恵」がある、と言うべきではないだろうか。民主主義は平等だけを追求して社会主義に至るとは限らず、人々が競争しながら自立して自由をできるだけ保障しようとしている。そして代表者を投票で選ぶ方式の民主主義そのものが、きわめて競争的なシステムと言える。民主主義は、結果をどこまでも平等化すべきだという思想だけに引き回されているわけではない。このように「差別原理」と呼ばれる考え方は必ずしも多くの国民に支持されているわけではない、ということだ。(「経済倫理学のすすめ」から)
 自分の考えを主張するために、反対のことを抽象的な言葉で、全てをひっくるめて批判するのは冷静な議論に似合わない。「先に豊かになれる者から豊かになる」これが自然で、「すべての人が平等に豊かになる」社会は想像できないし、それを目指す政策も考えられない。もっとも「格差のない社会こそ正義だ」との考えは、まるで宗教のように信じられてはいるようだ。これに関しては<「正義論」とはどんな本?> ▲を参照して下さい。
<グローバリゼーションの参考文献> 今までブローバリゼーションに関してはホームページでいくつか取り上げてきた。参考にした文献の一部を下記に列挙したので参考にして下さい。
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』  ジョセフ・E・スティグリッツ 鈴木主税訳 徳間書店    2002. 5.31 
『グローバリズムという妄想』               ジョン・グレイ 石塚雅彦訳 日本経済新聞社 1999. 6.25  
『徹底討論 グローバリゼーション 賛成/反対』 S・ジョージVSM・ウルフ 杉村昌昭訳 作品社     2002.11.20 
『それでもグローバリズムだけが世界を救う』  チャールズ・レッドビーター 山本暎子訳 ダイヤモンド社 2003.10.30
『レクサスとオリーブの木』       トーマス・フリードマン 東江一紀・服部清美訳 草思社     2000. 2.25
『裸の経済学』                  チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社 2003. 4.23
『グローバル経済の本質』 国境を越えるヒト・モノ・カネが経済を変える    伊藤元重 ダイヤモンド社 2003. 5. 9

 これらの本に関しては<いろんな「グローバリゼーション論」>▲に書いたのでそちらを参照して下さい。
<ヨーロッパの通貨統合=「ユーロ」こそグローバリゼーションの象徴>  グローバリゼーションを非難する人は「グローバリゼーションとはアメリカが自国の基準を世界に押しつけることだ」と主張する。「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」であり、アメリカ憎くけりゃ、金融危機も、格差拡大も、自然破壊も、すべてアメリカ主導のグローバリゼーションに依ることだ、となる。アメリカの経済学者でシカゴ派とか新自由主義者とかマネタリストと呼ばれる人の中には、ヨーロッパの通貨統合はうまくいかないだろう、と批判する人もいる。抽象的な言葉でレッテルを貼り非難するのは論理的な議論には相応しくない。経済学者の論法ではなく、宗教家の論法だ。
*                      *                      *
<地産地消、金融支援、バイアメリカン> 
 第1次世界大戦後の世界大不況時に各国がブロック経済政策をとって、これが結果的に日本やドイツ・イタリアを新たな植民地主義へと追い込み、第2次世界大戦へと突き進むことになった。戦後、この経験の反省から「自由貿易」を守るべく世界各国が協力し合うことになり、ガットが生まれた。「自由貿易こそが国民を豊かにする」は経済の常識になった。しかしこの常識も一般論としては認められながら、具体的な政策となると保護主義的な政策・意見が見受けられる。
地産地消食品汚染・産地偽造などから地産地消が叫ばれている。さらに国産品愛用と言うと、「それは保護主義だ」と反論がありそうなので、日本の農業関係者が地産地消を叫び、これに評論家・文化人が同調する。地産地消は保護貿易主義なのだが、これには触れずに、言葉の響きの良さもあって、はやり言葉になっている。
金融支援世界的不況から、政府が民間の金融機関を支援することが当然のように思われている。銀行や証券会社に税金を投入し、破綻を防ぐ。
 「つまり、倒産や失業を恐れて競争を制限するのではなく、徹底的に競争原理に従って経済効率を引き上げ、経済のパイを最大にすることを優先する。その上で、競争の結果発生した所得分配の不平等を、社会保障政策、税政などの所得再分配政策によって是正すれば、社会にとって最適な資源配分が実現するということである」「競争に敗れた効率の悪い企業は市場から退出する」という市場競争の大原則からの逸脱である。競争に敗れた企業を救済し、市場から退出させないという「反競争的」イデオロギーが日本社会では非常に強い。このことが実は、非効率な分野に資本や人材を押しとどめ、日本経済全体の効率性を損なう結果になっている可能性が大きいのである」
 この様な考え方にたてば、政府の金融機関・ビッグスリー支援は保護主義であることは明らかだ。しかしだからと言って、アメリカの保護主義を否定するとさらに景気は悪化するだろう、として批判はし難い。
バイアメリカン アメリカの「国産品愛用運動」については諸国の反対が強い。しかしアメリカは、連邦政府とは別に州政府が多くの権限を持っていて、アメリカ政府は「バイアメリカン」を協力に押し進めることはしなくても州政府が「バイアメリカン」ならぬ「私たちの州で生産された商品を買いましょう」との政策を実行する場合がある。
<『資本主義は江戸で生まれた』> 現在の世相を「金、かね、カネ」に毒された時代だ、との批判は一般に受け入れやすい。そして江戸時代の人々は貨幣と関係のない生活をしていた、と、分かった風な言い方をする。
 現代流にいえば「地産地消」の生活をしている中世の人々にとっては、貨幣などは、滅多に必要がなかった。税金や地代は農産物や労働力で納めていたし、生活に必要な物資は自前で作るか、おたがいに融通しあえばよかった。本当に貨幣が必要だったのは、たとえば遠い中近東やアジアから来た珍しい物産を、時折訪れてくる行商人から買うときくらいであったわけで、「交易」も「貨幣」も非日常の出来事であったいうのが彼(ポランニー)の指摘である。
 経済学では「価格は多くの人たちが参加する日常的な市場取引の中で需要と供給がバランスするように決定される」と説くわけだが、そもそもそうしたマーケットそのものが近代以前には特異な現象であって、日常的にはもとんど存在しなかった。私たちは古代エジプトやバビロニア、あるいは随や唐といった古代にも、現代流のにぎやかなマーケットがあったかのように考えてしまいがちだが、それは現代の常識を過去に遡って当てはめているだけにすぎないというのが、経済人類学者たるポランニーの指摘なのである。
 これは言われてみれば当然なことで、たとえば江戸時代の農民たちを考えてみても、彼らはほとんど貨幣とは関係のない生活を送っていたに違いない。現代日本でさえ、人里離れた田舎暮らしをしている人たちの中には、ほとんど現金を使う必要がない生活を営んでいるケースがあるが、近代資本主義が成立する以前の農村部では、現金でモノを売ったり買ったりする必要はほとんどなかったのである。
 たしかに江戸時代、大坂などでは米会所があってコメの先物取引なども行われてはいたが、そうした商業活動は全体から見ればひじょうに限られたものであった。商業活動の行われていた都会があった一方で、貨幣や交易とは無縁な農村社会もあったのが江戸時代の日本であり、地方の農民まで現金を使うようになったのは明治以後、つまりポランニーの言うように、近代資本主義が成立してからの話である。
 日本の場合は、明治になって地租改正が行われた。この結果、それまで物納だった地代を今度は税金として、貨幣で国家に納めることになったから、農村でも貨幣が必要になってきたという事情がある。それ以前の農村には、貨幣はほとんど存在しなかったし、したがって貨幣を媒介とする交易もなかったというわけで。(『資本主義はなぜ自壊したのか』から)
 『資本主義は江戸で生まれた』と題する本がある通り、江戸時代は想像以上に資本主義経済であった。農村部でも貨幣・銭は流通していた。「コメを生産していた農村部では、そのコメを消費していたので、自給自足の生活だった」との考えは間違っている。江戸時代の農村部では、コメ・農産物の生産だけでなく、綿・生糸・織物・雑貨などの生産を行う工場地域でもあった。百姓とは100の職業を持っている、と考えると分かりやすい。
 戦国時代、百姓が作ったコメは年貢として納め、残ったコメだけでは生活できなかった。年貢として集めたコメを領主は「城を造る。作業に参加すればコメを与える」と、年貢として集めたコメを百姓に城造りの労賃として与えた。江戸時代になり、城を造ることもなくなると、領主(大名)はコメを現金・現銀に替えるため大坂堂島の米会所へ運んだ。ここで西日本のコメが売買され、そのコメを百姓が銭を払って購入することになった。
 都市部の武士は給料をコメで貰い、それを売って銭を手に入れていた。こうして貨幣(現金・現銀・銭)は農村部でも都市部でも流通していた。「江戸時代の百姓は食料(コメ)を自給自足していた」というには、少し補足が必要で、貨幣の流通が無視できない存在であった。
 江戸時代多くの人が「お伊勢参り」に行っていた。ハッキリした統計はないが、もしかしたら百姓は一生に1度は「お伊勢参り」に行っていたかも知れない。その費用は、「講」などに銭を積み立てていた。その総額は大変多額なもので、旅は長いもので、自宅を空けて旅に出ていた日数は、現代人が海外旅行をするよりも長かったに違いない。途中の宿泊代、伊勢神宮での諸費用は銭で払っていた。それだけ多額の銭を扱っていたのが江戸時代の百姓であった。決して貨幣とは縁遠い生活をしていたわけではない。江戸時代の旅に関しては <世界一旅行好きな江戸庶民>▲を参照して下さい。
 「現代は「金・かね・カネ」の世の中で、江戸時代は貨幣もあまり流通していなくて、現代とはまったく違っていた」とは、事実を検証せず、思いこみで書いていることになる。経済学者の態度ではない。
<マネー・ゲームの愚> 貨幣とは単なる記号、シンボルであり、取引における道具(ツール)にすぎないのに、その貨幣があたかも商品のごとく市場で売り買いできるとするのは、まさに虚妄に他ならない。現代流に言うならば、まさにそれは「マネー・ゲーム」に他ならず、実態の伴わない投機そのもbのであるというわけだ。
 それでも資本主義経済の初期においては、まだ貨幣は金に裏打ちされていた。つまり、それぞれの国が発行できる紙幣は、その国が保有している金の総額と対応していて、紙幣を銀行に持っていけば、あそれに相当する価値の金を手にすることができたわけである。これを金兌換制度、金本位制と言う。
 もちろん、この金にしても土地と同じく自然のもの、限られた資源であって、これを取引することは大きな矛盾を伴いかねないわけだが、しかし、それでもまだ金本位制が機能しているうちは、貨幣が独り歩きすることに対しては一定の制約条件になっていたと言えるであろう。
 ところが資本主義という「悪魔の碾き臼」が回転しはじめるようになると、こうした金本位制では対応しきれなくなってしまった。20世紀初頭、第1次大戦の直後には金本位制を一時的にせよ停止する国家が次々と現れてきた。膨れ上がった戦費を支払ううえで、金との兌換を維持することが不可能になったからである。それでもいったんは金本位制は立て直されたのだが、今度はアメリカ発の大恐慌によって、ふたたび金本位制は停止されるわけである。
 こうやって見ていけば、大恐慌に続いて起こった第2次世界大戦とは、大恐慌に陥った世界経済を再編するための戦いであったとも定義できるわけだが、戦前の反省を踏まえて大戦後には金本位制の理念を採用したIMF(国際通貨基金)体制が作られることになった。
 しかし、このIMF体制も長くは続かなかった。1971年にアメリカが金との兌換を停止したことをきっかけに、各国が自由に貨幣を発行できる管理通貨制度に移行してしまったからである。
 かくして貨幣はもはや金の裏打ちさえもない、実体のないシンボルになってしまっているわけだが、そのシンボル、あるいは記号をめぐってのマネー・ゲームが繰り広げられるようになった。ことに20世紀末に金融工学が実用化されるようになると、ますます為替取引、証券取引は複雑怪奇なものになっていった。
 そして挙げ句の果てには「サブプライム・ローン」などといういかがわしい商品までが作られるようになり、ついにはアメリカ発の金融恐慌が起きるようになったというわけだ。貧しい人たちに言葉巧みに不動産ローンを貸し付け、それを小口に分割するというのは、まさに「悪魔の知恵」に他ならない。近代人は貨幣を商品化することで、まさにパンドラの箱を開いてしまったのである。 (『資本主義はなぜ自壊したのか』から)
 「貨幣は金などに裏打ちされた額だけ発行すべきだ」との考えは、金本位制時代の考えで、現代では政府の金保有額に関係なく貨幣を発行する。この制度を「管理通貨制度」と言う。元禄時代に荻原重秀が貨幣改鋳を提案したとき時の老中土屋数直の反対「邪(よこしま)なるわざ」として葬られたが、後に重秀のそれまでの仕事ぶりから柳沢吉保・将軍綱吉の信頼もあって実施されることになった。重秀は次のように言っている。「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」つまり重秀は管理通貨制度を考えていた、と思われる。これらについては、 <荻原重秀の貨幣改鋳と管理通貨制度>▲<荻原秀重の貨幣改鋳という悪政か?──成長通貨の供給による経済の成長を促進した面も>▲を参照して下さい。江戸時代のマネー・ゲームに関しては <虎市米相場>▲を参照して下さい。大坂庶民がコメ先物取引に夢中になっていたのが印象的です。
 金本位制度では、金の保有量・産出量によって貨幣の発行額が変わるので、金を産出しない国は貨幣が発行できないことになる。経済が成長して、成長通貨が必要になっても通貨を発行することができな。政府が通貨流通量をコントロールして景気対策を行おうとしてもできない。15兆円の経済対策は不可能だ。金本位制を主張するということは、政府は景気をコントロールしなくても良い、との考え方になる。市場原理主義よりも政府の関与の少ない、「自由放任経済主義」を主張して言ることになる。当然銀行の「信用創造」「トランスミッションメカニズム」は銀行が金を保有しない限り不可能だ。新興宗教の信者ならともかく、金融経済を少しでも理解している人は、金本位制度が良いなどとは言わない。銀行の信用創造の仕組みに関しては <信用創造プロセスから検討する>▲を参照して下さい。
 アメリカが金兌換を止めたことに関しては<ニクソン・ショックの意味>▲を参照して下さい。
 国立大学の最大の問題は「インセンティブの欠如」という問題だ。大学における研究や教育のパフォーマンスが悪くても、国が講座数など固定化された基準で財政支援しているため、「倒産」の危険がなく、研究水準の向上や教育サービスの充実に向けたインセンティブが機能しない。
 このことは個々の教官についても同様である。実際、頑張ってすばらしい業績をあげた研究者も、何もしないで長年論文を書いたこともない人も待遇は変わらない。教育に情熱を傾け、学生たちから尊敬され人気の高い先生も、十年来の講義ノートを棒読みにして生徒に見向きもされない先生も同じ待遇である。これでは研究や教育の水準向上は見込めない。
 もちろん、教育者のやる気は金銭的な待遇だけに左右されるわけではない。現在のシステムでも研究や教育に情熱を燃やしている人はいる。だが、残念ながら、それは全体のごく一部に過ぎない。だからこそ、何らかの評価とそれに連動した処遇の仕組みが教育機関にも必要なのである。
 このような競争・批判のない社会は年を取ってからの隠居生活には適しているのだろう。
<グローバル資本主義の悪役は誰だ?>  
 世界経済は大不況の局面に入った。この混乱が収束するにはおそらく数年にもわたる調整が必要になるだろう。
 しかし、もっと本質的な問題がある。グローバル資本主義の本質とは何かという問題である。それを明確に理解しない限り、我々は将来、何度でも今回と同じ間違いをしでかすに違いないからである。
 グローバル資本主義は、世界経済活動の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本主義が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長される。
 21世紀世界は、グローバル資本主義という「モンスター」にもっと大きな自由を与えるべきか、それともその行動に一定の歯止めをかけるべきなのか。
 グローバル資本主義という「モンスター」、この日本での悪役はだれだろうか?グローバル企業のトヨタ、ホンダ、スズキ、ソニー、パナソニック、シャープ、三菱東京UFJ、みずほ、三井住友、野村証券、そしてそこで働く会社人間、シンクタンクを含む関連会社とその社員なのか?世界中に顧客を開拓している抜群の技術力を誇る日本の中小企業なのか?どうもピンとこない。小泉・竹中路線の「改革なくし成長なし」を圧倒的に支持し格差拡大政策を支持した日本の有権者なのか?グローバル資本主義という「モンスター」が有権者の心の中に入り込んで、構造改革という格差拡大政策を推し進めた、と主張するのだろうか?それこそが民主制度の本質的な欠陥である「愚衆政治」の典型だ、とするとこうなる。
 「日本のみなさん、悔い改め、懺悔しなさい。そうすれば救われます。グローバル資本主義という「モンスター」を押し進め、あるいはそこからの恩恵を受けている企業からは辞職し、反グローバル資本主義の職場で働きなさい。ブータン、キューバ、地産地消の国=アルバニアを見習いなさい、グローバル資本主義という「モンスター」に毒されていない社会もあるのです。心の中のグローバル資本主義という「モンスター」を追い出し、反省し、懺悔しなさい。国民にあまりにも多くの自由を与えた結果起きた「愚衆政治」の典型です。悔い改め懺悔しなさい。そうすれば救われるでしょう。……世界人類が平和でありますように」
 経済学者を止めて宗教家に転じるの個人の自由だ。しかし経済学に興味のある者としては、経済学者のなれの果ては見たくない。隠居生活するならば、せめて公の場には出てきて欲しくなかった。
<新興宗教の信者は視野狭窄でも良い>  しかし、経済学者はそれでは困る。専門分野以外にも関心を持って知識を吸収しないと説得力ある説は主張できない。江戸時代の貨幣制度・百姓の銭に対する必要度、あるいは「死刑制度」、「明治時代初期の金融制度」、「消費者運動」、「アルバニア」、「大坂堂島米会所」、「政治哲学」、「戦後ヨーロッパの経済」、「地域通貨」、「コメ自由化問題」、「農産物の品種改良」、「フェアトレード」、「憲法改定問題」と視野を広げることに依って、「経済」が見えてくる。
 宗教は違う。信じることができれば、経済問題に強い興味をいだかなくても困ることはない。自分の心が平穏ならば、それで十分。
 仮想敵国を作り上げ、それを非難することによって社会をまとめようとする手法は多く行われたきた。これに関しては<自給自足というアンチユートピア 『1984年』を中心に考える >▲を参照して下さい。「日本軍国主義復活反対」や「アメリカ帝国主義反対」も同じ発想だ。
<デモクラシー=民主制度では「保護主義」はなくならない>  民主制度で国会議員は選挙で選ばれる。もしも選挙民の利権を無視した政策を国会で主張すれば、次の選挙で支持が得られず、落選する。議員の支持者は「世界経済のためなら自分たちの利益に反した政策でも支持する」などと言うことはない。「世界全体のことも大切だけれども、私たちの利益を大切に考えて欲しい」と言う。「自由貿易も大切だが、私たちの産業を守って欲しい。たとえ保護主義と非難されても、そうでなければ次の選挙で投票しないよ」と圧力をかける。
 民主制度に代わるより良き制度がない以上、「保護主義」はなくならない。だからこそ「保護主義」に走るとどのような事態が起きたか知っておく必要がある。選挙民、圧力団体を無視することはできない、けれどもそれが行き過ぎれば大きな不幸が待っている。「合成の誤謬」のようなことだと理解しておくことが必要だ。
 「資本主義は最悪の経済体制である。これまで人類が経験した他のすべての経済体制を除いては」との表現もあるが、TANAKAは次のように表現する。こちらの方が分かりやすいと思う。「デモクラシー=民主制度(資本主義)とはひどい政治(経済)制度である。しかし、今まで存在したいかなる政治(経済)制度よりもましな制度である」。この違いはデモクラシー=民主制度(資本主義)に好感を持っているか、不信感・嫌悪感を持っているかの違いだろう。
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<主な参考文献・引用文献>
『対日経済封鎖』日本を追いつめた12年         池田美智子 日本経済新聞社   1992. 3.25
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社    1989.10.20
『経済制裁』日本はそれに耐えられるか          宮川眞喜雄 中公新書      1992. 1.25
『あの戦争は何だったのか』大人のための歴史教科書     保阪正康 新潮新書      2005. 7.20
『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』           岩間敏 朝日新書      2007. 7.30
『王道楽土の戦争』戦前・戦中篇               吉田司 NHKブック    2005.11.30 
『昭和経済史』上                   有沢広巳監修 日本経済新聞社   1994. 3.11
『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』         鹿野忠生 南窓社       2004. 2.15
『ブロック経済に関する研究』               菅沼秀助 生活社       1939.10.17
『オタワ英帝国経済会議の考察』          外務省調査部編纂 日本國際協会    1936. 2.19
『昭和研究会』                      酒井三郎 中公文庫      1992. 7.10
『ABCDラインの陰謀』仕掛けられた大東亜戦争      清水惣七 新人物往来社    1989.10.20
『石橋湛山全集』第8巻          石橋湛山全集編纂委員会編 東洋経済新報社   1971.10. 5
『近衛首相演述集』1937.11ー1939.02    厚地盛茂編           1937.11
『昭和経済史』上                   有沢広巳監修 日本経済新聞社   1994. 3.11
『自由と保護』イギリス通商政策論史            服部正治 ナカニシヤ出版   1999. 4.30
『時局大熱論集』                          大日本雄弁会講談社 1933. 4. 1
『日本外交の危機認識』               近代日本研究会 山川出版社     1985.10.30
『昭和経済史』                      中村隆英 岩波書店      1986. 2.14
『アメリカによる現代世界経済秩序の形成』         鹿野忠生 南窓社       2004. 2.15
『太平洋戦争前夜の日米関係』               奥村房夫 芙蓉書房出版    1995. 1.20
『石油』産業の昭和史                    岡部彰 日本経済評論社   1986.11.25
『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』           岩間敏 朝日新書      2007. 7.30
『日本海軍の終戦工作』アジア太平洋戦争の再検討       綾瀬厚 中公新書      1996. 6.15
『御前会議』昭和天皇十五回の聖断            大江志乃夫 中公新書      1991. 2.25
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社     1953. 6. 1
『大東亜新秩序建設の意義』            文部省教育調査部 文部省教育調査部  1941.11.20
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版  2002. 8.15
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社     1953. 6. 1
『ガットからWTOへ』貿易摩擦の現代史         池田美智子 ちくま新書     1996. 8.20
『ガット29年の現場から』                 高瀬保 中公新書      1997. 4.25 
『WTOとFTA』日本の制度上の問題            高瀬保 東信堂       2003.11.10
『ウルグアイ・ラウンド』            溝口道郎・松尾正洋 NHKブックス   1994. 7.25
『FTAが創る日本とアジアの未来』       藤末健三・小池政就 オープンナレッジ  2005.12.20
『日中韓FTA』その意義と課題 阿部一知・浦田秀次郎・綜合開発機構 日本経済評論社   2008. 2. 5
『対日経済戦争』1939−1941            土井泰彦 中央公論事業出版  2002. 8.15
『太平洋戦争原因論』                日本外交学会編 新聞月鑑社     1953. 6. 1
『国内農産物の先物取引』            農林中金総合研究所 家の光協会     2001. 4. 1
『ふしぎの植物学』身近な緑の知恵と仕事           田中修 中公新書      2003. 7.25
『資本主義はなぜ自壊したのか』ー「日本」再生への提言ー   中谷巌 集英社       2008.12.20
『経済倫理学のすすめ』                  竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
『資本主義は江戸で生まれた』               鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
『勘定奉行荻原重秀の生涯』新井白石が嫉妬した天才経済官僚村井淳志著 集英社新書     2007. 3.21 
『世界SF全集』『1984年』  ジョージ・オーウェル 新庄哲夫訳 早川書房      1968.10.20
『われら』               ザミャーチン 川端香男里訳 岩波文庫      1992. 1.16
『1985年』         アントニイ・バージェス 中村保男訳 サンリオ      1979. 8. 5
『1985年』           ジェルジ・ダロス 野村美紀子訳 拓殖書房      1984.10.20
( 2009年4月13日 TANAKA1942b )
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