民主制度の限界  
デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である ウィンストン・チャ−チル

TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

民主制度の限界
▲ (1)多数決のパラドックス  ( 2004年5月3日)
▲ (2)多数派工作が行われると  ( 2004年5月10日)
▲ (3)多数決による所得再分配  ( 2004年5月17日)
▲ (4)囚人のジレンマ  ( 2004年5月24日)
▲ (5)アメリカ軍とパパラッチのジレンマ  ( 2004年5月31日)
▲ (6)小泉首相と金正日のジレンマ  ( 2004年6月7日)
▲ (7)進化するゲーム理論  ( 2004年6月14日)
▲ (8)ソシアル・ジレンマ  ( 2004年6月21日)
▲ (9)レント・シーキング  ( 2004年6月28日)
▲ (10)市民運動への淡い期待  ( 2004年7月5日)
▲ (11)リベラル、アナーキー、リバータリアン  ( 2004年7月12日)
▲ (12)アナルコ・キャピタリズム、アナルコ・サンディカリズム  ( 2004年7月19日)
▲ (13)利己的な遺伝子、ミーム  ( 2004年7月26日)
▲ (14)ミームによって普及する学説  ( 2004年8月2日)
▲ (15)もっと自由な社会制度はどうだ?  ( 2004年8月9日)
▲ (16)アナーキズムを経済学する  ( 2004年8月16日)
▲ (17)最小国家は理想社会ではない  ( 2004年8月23日)
▲ (18)違った立場から考えてみよう  ( 2004年8月30日)
▲ (19)人間も自然界の一部と考えると……  ( 2004年9月6日)
▲ (20)「素人さん、大歓迎」の論法  ( 2004年9月13日)
▲ (21)もっと平等な社会制度はどうだ?  ( 2004年9月20日)
▲ (22)「正義論」とはどんな本?  ( 2004年9月27日)
▲ (23)「正義論」は「先富論」をどう評価するか?  ( 2004年10月4日)
▲ (24)格差原理に反する社会とは?  ( 2004年10月11日)
▲ (25)先に豊かになれる国から豊かになる  ( 2004年10月18日)
▲ (26)いろんな「グローバリゼーション論」  ( 2004年10月25日)
▲ (27)民主制度とグローバリゼーション ( 2004年11月1日)
▲ (28)市場における競争と適者生存  ( 2004年11月8日)
▲ (29)商品価格はどのように決まるのか  ( 2004年11月15日)
▲ (30)「べき」と「である」の思考傾向  ( 2004年11月22日)
▲ (31)民主制度の手直し案は?  ( 2004年11月29日)
▲ (32)「とりあえず、これで行こう」との主義  ( 2004年12月6日)
▲ (33)民主制度と市場経済の話のまとめ  ( 2004年12月13日)

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

民主制度の限界
(1)多数決のパラドックス
<グー・チョキ・パーの迷走>
アフター・ファイブ、3人の若者が駅で待ち合わせて、食事をすることになった。洋食、中華、和食と趣味が分かれた。3人の好みは次の通り。
例 T 1 位 2 位 3 位
A 君 洋食 中華 和食
B 君 中華 和食 洋食
C 君 和食 洋食 中華

 駅から見ると、「洋食」と「中華」のカンバンが見える。「近くのどちらかにしよう。洋食がいいか?中華がいいか?」。A君は洋食。B君は中華。そこでC君は「本当は和食がいいのだけど、どちらかと言うと洋食だな」と言う。 そこで「洋食」のカンバン目指して行くと、途中に「和食」のカンバンが見える。「和食もそこあるよ。和食と洋食とどちらがいいかな?」。A君は洋食、C君は和食。そこでB君は「和食がいい」と言う。 そこで和食となるのだが、B君は言う「でも本当は中華がいいのになぁ」。そこで中華がいいか?和食がいいか?となると今度はA君が「中華がいい」と言う。そこで中華のカンバンを目指して歩き始めると、A君「でも本当は洋食がいいな」。それに答えてC君「そりゃぁ、中華よりは洋食の方がいいよ」。 こうして何を食べるかの結論が二転三転する。洋食⇒和食⇒中華⇒洋食と迷走しいつまでたっても結論が出ない。こうした場合どうするか?は決まっている。ジャンケンで決めるのが一般的だ。そう、すべての人を平等に扱うのではなくて、誰かに特権を与えることによって結論を出すようにしている。つまり「民主制度」(平等の原則)を否定することによって、問題を解決している、と言える。
<ケネス・J・アロー> 上に書いた例題はケネス・アローの「多数決のパラドックス」として知られている。そこでケネス・アローはどのように言っているのか、その著書から引用しよう。
 本書は上述の問題の形式的側面だけに関係していることをここで強調しておかなければならない。すなわち、一組の既知の個人的嗜好から一つの社会的意思決定様式に移行する手続きで、いくつかの自然な条件を満足するもの、を構成することが形式的に可能であるか否かが問われている。この問題の一つの実例は次に見る周知の「投票のパラドックス」である。 3人の投票者から成る一つの社会があり、3つの異なる社会的行動様式(たとえば、武装解除、冷たい戦争、あるいは熱い戦争)の間での選択を迫られているものと想定しよう。この種の選択は反復して行われねばならないと予想されるが、この3つの選択対象の全部が利用可能であるとは限らない場合があろう。 欲望が一定で価格・所得状況が可能という条件下にある個別消費者の通常の効用分析から類推すると、社会の側での合理的行動は次のことを意味するであろう。すなわち、社会はその集団的専攻にしたがって、その3つの選択対象の順序づけを一定に定めてしまい、次に任意に与えられた状況において実際に利用可能な選択対象の中で、この一覧表の上で最高位にあるものを選択する。この集団的選択階梯表に到達する一つの自然な方法は、 社会の多数が第1の選択対象を第2のそれより選好する場合すなわちこの2つの選択対象だけが利用可能な時の第2のものを制して第1のものを選択する場合には、第1の選択対象が他方より専攻される、と言うことであろう。A,B,Cを3個の選択対象、1,2,3を3人の個人とする。個人1はAをBより、BをCより(したがってAをCより)専攻し、個人2はBをCより、CをAより(したがってBをAより)選好し、個人3はCをAより、AをBより(したがってCをBより)選好すると想定しよう。この時、多数がAをBより選好し、また多数がBをCより選好す。したがって社会はAをBより、またBをCより選好していると言えよう。もし社会が合理的に行動するとみなされるべきならば、AがCより選好されていると言わねばならなくなる。しかし実際には社会の多数はCをAより選好しているのである。このように個人的嗜好から集団的嗜好へ移行するための方法として上に略述したものは、われわれが通常理解している意味での合理性の条件を満足していない。個人的嗜好を集計する別の方法で、社会の側での合理的行動を含意し、他の面でも満足しうるものを見出すことはできるだろうか?
(注)上で概説された決定方法は、いろいろな審議機関で用いるものと本質的には同じであることを付言しておいてもよい。そこでは選択対象の全範囲が次々に2つずつを比較するという形式で決定に登場してくる。本文で叙述された現象は最近の合衆国議会に提出された州教育に対する連邦政府の援助に関する議案の処理の中に純粋な形で見られる。そこでの3つの選択対象は、「いかなる連邦政府の援助もしない」「公立学校のみに連邦政府の援助をする」「公立学校と教区付属学校の療法に連邦政府の援助をする」というものであった。このいわゆる「投票のパラドクス」を最初に指摘したのはE.J.Nanson (Transactions and Proceedings of the Royal Society ofo Vitoria,Vol.19,1882,pp.197-240) のようである。この引用文献について私はニュー・ブラウンズウィック大学の C.P.Wright に負っている。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<大勢になると、どうなるか?> アフター・ファイブ、今度は7人の若者が集まった。7人の好みは次の通り。
例 U 1 位 2 位 3 位
A 君 洋食 中華 和食
B 君 洋食 中華 和食
C 君 洋食 中華 和食
D 君 中華 和食 洋食
E 君 中華 和食 洋食
F 君 和食 中華 洋食
G 君 和食 中華 洋食

 今回はすんなり洋食に決まるかのように思えた。しかし一人が言った「でも洋食はあまり好みではないからなぁ。皆で嫌いなのを言ってみようよ」。そうすると7人中4人が「洋食嫌い」と答えた。 「じゃあ洋食でなければ何がいい?」となると、答えは「中華」。
<それでも投票権平等が原則> 上記2つの例は「多数決は総意を表現するか?」という問いを発している。民主制度では、皆で十分討議し、最終的には多数決で結論を出す、というシステムになっている。ところがその多数決での結論が必ずしも公平でない場合もあるように思えてくる。
 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても、「稼ぎが悪くて、最低の税金しか払っていない人と、オレのように人の何倍もの税金を払って、日本社会に貢献している人間と同じ一票なのか?」と言っても、選挙では同じ一票。これが民主制度の基本。
<アローの社会厚生に関する定理> 「多数決のパラドックス」について調べていくうちに、次のような文章に出会ったので、参考のためここに引用することにした。
2人以上の個人からなる社会が、その構成員の選好に基づいて、3つ以上の選択対象に対する選好順位を構成すると仮定する。このような状況は、立法機関が議題を決める(議員たちが法案の相対的重要性に関して意見を異にしている)とき、あるいは株主の要望に応じてある投資を行なおうとしているときなどに発生する。 求めるべきものは、社会厚生関数 (social welfare function)である。すなわち、個人のあらゆる可能な選好パターンを、社会に対する一つの選好順序に変換するなんらかの方法である。
 ここで、任意の2つの選好対象に対して、各個人は一方を他方より選好するか、またはこれらの間で無差別であると仮定する。すなわち、任意の2つの選好対象は比較可能である。さらに、次のような制約が課せられる。
 制約1 社会を構成する個人の選好に基づき、もし社会厚生関数が、選好対象Pは選好対象Qよりも選好されると主張するならば、また個人の選好のいくつかが変更され、その結果Pが前よりもいっそう望ましくなるが、他の個人の選好は変更されてないとするならば、社会厚生関数は依然として、変更後の選好パターンに対してもPはQより選好されると主張しなければならない。
 制約2 社会厚生関数が、選択対象集合の部分集合Pに対して一定の選好順序を課すとする。もし個人の選好が、Pに属さない選択対象に関して変化するが、Pに属する選択対象に関しては変化市内ならば、社会厚生関数はP内では以前として構成順序を課し続ける。
 制約3 任意の2つの選択対象に対して、社会をして一方を他方よりも選好せしめるなんらかの個人的選好パターンが、つねに存在しなければならない。
 制約4 ある個人と2つの選択対象があって、その個人が一方を選好するとき、社会もその一方を選好し、個人が他方を選好するとき、社会もその他方を選好するようなことは起こり得ない。
 これらの制約の理論的根拠は、社会の意思決定と社会を構成する個人の欲望とを少なくとも大ざっぱに対応づけることにある。たとえば、個人の穿孔にかかわりなく、社会がつねにyよりもxを選好するならば、あるいは社会が選好すべきものを一個人が指令するならば、これはグループ意思決定ではない。
 アローは、これらの条件すべてを満足する社会厚生関数の構築が、不可能であることを証明した。
(「ゲームの理論入門」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『社会的選択と個人的評価』             ケネス・J・アロー 長名寛明訳 日本経済新聞社 1977. 7.25  
『ゲームの理論入門』           モートン・D・デービス 桐谷維・森克美訳 講談社     1973. 9.30
( 2004年5月3日 TANAKA1942b )
民主制度の限界
(2)多数派工作が行われると
<派閥選挙はどうなるか> 政権党で党首の選挙が行われることになった。「国会議員と党員すべてに選挙権を与えると、多数派工作が行われ、一本釣りや利権約束など世間から批判される裏工作が行われる、今回は派閥の代表者に決めてもらおう」となった。 立候補者は4人。派閥は7派閥。各派閥の代表者が候補者に得点を付ける。得点の多かった候補者を党首にする、という選挙制度を採用した。選挙前の下馬評は次の通り。
例 V 3点 2点 1点 0点
 A  小田 徳川 羽柴 明智
 B  明智 小田 徳川 羽柴
 C  羽柴 明智 小田 徳川
 D  小田 徳川 羽柴 明智
 E  明智 小田 徳川 羽柴
 F  羽柴 明智 小田 徳川
 G  小田 徳川 羽柴 明智

 予想得点はこうなった。――
小田候補15点・明智候補10点・羽柴候補9点・徳川候補8点。各派閥は小田党首を念頭に次期内閣への根回しを始めた。ところが投票直前になって小田候補が立候補を辞退した。理由は健康上のこと、と発表された。一部ではPTSDだろう、との噂も流れた。 それはともかく党首に最短距離と思われていた小田候補の辞退により、情勢は一変した。小田候補が抜けた勢力構造は次の通り。
例 W 2点 1点 0点
 A  徳川 羽柴 明智
 B  明智 徳川 羽柴
 C  羽柴 明智 徳川
 D  徳川 羽柴 明智
 E  明智 徳川 羽柴
 F  羽柴 明智 徳川
 G  徳川 羽柴 明智

 この結果各候補の得点はこうなった。徳川候補8点・羽柴候補7点・明智候補6点。これにより徳川党首が誕生した。さらに驚いたことに 明智候補と羽柴候補の順位が逆転した。各派閥の次期内閣への取り組み姿勢がめちゃくちゃになった。一部のマスコミははっきりした証拠もなく、それでも政府批判のリベラル派としての姿勢を貫こうと「徳川派閥の陰謀だ」と報じた。 しかし党内では批判は少ない。「政権党の党首で将来一国の首相になる人物なら、この程度の駆け引きも出来なくてどうする。この程度の政治戦略も考えつかないようなバカ正直に日本の運命を委ねられるか!」 多くの議員の本音はこのようなものだった。「これはマスコミと政権党、リベラルとコンサパティブの違いですね」というのがテレビによく登場する政治評論家の、分かった風な、そして全く内容のない解説だった。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<支持率6割X6割=不支持率64%> 政権党6割、野党4割の議席数の場合、首相は政権党から選出される。ではその人物は政権党で絶対的な支持率なのだろうか?多くの場合いくつかある派閥の代表同士の選挙になり、党内で6割の支持があれば当選する。ということは、全国会議員の36%の支持で当選したことになる。つまり不支持率64%、支持する議員よりも支持しない議員の方が多いということだ。 内閣不信任案が提出されたら、それが可決される可能性を秘めている。こうしたことを考えていく内に、「何かに似ているな」と思うようになった。それは@市場経済での企業同士の自由な競争。A信用の上に築かれている金融システムだ。
@政策の失敗、国会運営上の不手際、閣僚の個人的不始末などにより不信任案が可決される恐れがあるので、議院内閣性では常に緊張感が漂っている(実際は結構だらけているかも知れないが、制度上建前は緊張しているはずだ)。これは業界トップ企業といえどもいつ新規に強力なライバルが参入して来るか分からない。常に緊張している。 「だから良くない」と言う人もいる。「市場経済とは弱肉強食を許す非人間的な社会で、人は本来あった温かい心を失い、共同体が崩れていく」とか「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?」 と言う声があがる。いいことか、悪いことか、その評価は分かれても、緊張感のある社会だ、という点では一致している。こうした点から見ると「議院内閣制」と「市場経済」は似たところがある。
A支える基盤はか細いもので、信用だけでもっている金融システムに似ている。ちょっとした噂に尾鰭がついて取り付け騒ぎになった例もある(1973年12月13日、愛知県 豊川信用金庫の例 ▲)。信用だけでもっている、と言えば、 「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する荻原重秀の答え「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」も思い起こされる。このように民主制度、議院内閣制は市場経済と相性がいいようだ。
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<全会一致の怖ろしさ> 「多数決は総意を表現するか?」という問いに対して、「総意を表現している」とは言えないケースもあるようだ。では「全会一致ならば問題はない」と言えるのだろうか?ところがそうではない。むしろ全会一致で決まったら、そのときの方が問題がありそうだ。
@ 先ず、誰も反対しない案件がなぜ今まで放って置かれたのか?考えてみることだ。もしかしたらあまり人が気付かない大きな欠点があるのかも知れない。もっとも国会議員がさぼっていた、ということも考えられるが。 
A 軍事独裁国家のような超緊張社会で、反対者、違反者には厳しい処罰が加えられる場合。違反者への警戒の目も厳しく、子供の目が警戒する社会は違反者が出にくい。ピオネール、コムソモール、紅衛兵、ポル・ポト時代の少年、地上の楽園、ヒトラー・ユーゲント、これらを見れば分かる。旧ソ連のKGBや、東欧社会主義国の秘密警察なども秩序維持に大きな力を発揮した。こうした社会では臍曲がり、違反者は出にくい。従って投票すれば全会一致とういケースが出やすい。
B 新興宗教団体のように参加者がマインド・コントロールされている社会。この社会でも子供が利用される。例えば紅衛兵「毛沢東の目には、10代から20代はじめの若者が格好の道具と映った。この世代は、熱狂的な毛沢東崇拝と「階級闘争」の思想をたたき込まれて育っている。反抗的で、恐いもの知らずで、正義感が強く、冒険に飢えているといった若者の特質をすべて備えている。しかも無知で、無責任で、操縦はいたって簡単だ」となる。布教活動、市民運動に子供を使うことも多い。
C 投票者が無気力で真剣に考えていない場合。あるいは難しすぎて分からない場合。こうしたケースでは全員投票ではなくて、よく分かっている代理人(国会議員など)に任せた方がいい。それでも政治経済問題で少数派の人々の中には、国会での議決を認めず「国民投票という直接民主主義をとるべきだ」と主張する。あるいは「司法制度も専門家=司法試験合格者だけでなく、市民も裁判に判事として参加すべきだ」との主張も出てくる。
D あまり意味のない議決。例えば「コメは一粒たりとも輸入させない」とか「私たち◎◎市は核兵器廃絶を願っている」などの「核兵器廃絶宣言都市」。一部圧力団体への協力ポーズや、口うるさい市民への人気取りポーズにしか過ぎない。もし多くの都市が「核兵器廃絶宣言都市」を宣言して核兵器がなくなるなら、それは「明日天気になぁれ」と言ったら本当に天気になる、と同じこと。つまり「言霊」になってしまう。もっとも現代日本人で「言霊」を信じている人はとても多いのかもしれない。この点に関しては井沢元彦氏の意見を聞くのがいいのだろう。
 全会一致で決まることの多い社会では、 雑種強勢・一代雑種▲は期待できない。そして、自家不和合性に陥る恐れもある。環境の変化、価値観の変化などに対応できない、進化のない社会だ。いつも臍曲がりがいて、突然変異による変わり者がいる社会の方が健全だと思う。
( 2004年5月10日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(3)多数決による所得再分配
<少数者の権利を奪う多数派工作> 多数決原理による政治は必要なものではあるが、欠陥ももっている。多数決原理は、われわれが暮らしていこうと思うような種類の社会を維持していくために必要である。何しろ、これに代わるべきものと言えば独裁政治になってしまうからである。しかし民主主義は、本章でで示すように、欠陥ももっている。その理由は、民主主義が人々に所得を割当てる方法として使われると、少数派が投票のつど、多数派の決定を甘んじて受け入れるというコンセンサスが破壊されるだろうということである。経済機構の形態と民主政治の有効性とを結びつける力は、民主政治の基本的な弱点を埋め合わせる経済の能力にある。
 このように始まるダン・アッシャーの「民主主義の破産」は、多数決による所得再分配システムでは公正とは言えない状況が起きる、と指摘している。そこで、「民主主義の破産」をベースにTANAKAなりの解釈を加えて、「多数決」と「所得政策」について考えてみることにしよう。
 今、15人の人間からなる社会を想像してみよう。ここではあらゆる決定が投票によって行われる。また厳密な、無制限の多数決原理が行われているものとする。民主的な政府が所得を人々に配分しようとした時どんなことが起こるかを示すために、生産のことは抜きにして、その代わりに天から降るマナのように3億円の国民所得がこの社会に降ってくるものとし、社会はこの3億円を配分するには投票による以外に手がないものとする。また、経済学者がやっているように、人々はすべて欲張りで、パイの中での自分の分け前を最大にするために、当然投票のメカニズムを利用するものとしよう。
 これと似通った社会としては、石油採掘料だけが収入源であるような民主主義国が考えられる。
 まず頭に浮かぶことは、この3億円の所得が「公平」に配分され、各人は全体の15分の1、つまり年々2,000万円を受け取るものとすればどうか、ということだ。
 しかしこの結果は不安定なものになる。投票者の過半数は自分にもっと有利な、別の配分方式を支持すると見られるからで、その意味において不安定になる。ここで万人が限りなく「貧欲」であるという想定を思いでしてみよう。各人が2,000万円を受け取るような配分は、少なくとも8人、つまり過半数の人間の取り分がさらに増えるような別の配分によって阻止されるであろう。
 例えば第1氏から第8氏までは結託して、そのメンバーの間で全所得を8等分するが、結託に加わっていない有権者には何もやらない、という風に定めた法案を支持するだろう。第1氏から第8氏までは1人当たり 3,750万円を得るが、第9氏から第15氏までは何ももらえない。明らかに、この結果は多数派連合のメンバーにとっては好ましいものだ。またこの結果をもたらしたやり方は集団的意思決定のルールの枠内におさまっている。
※                     ※                      ※
 この例では、誰が多数派連合のメンバーになるかわからない。第1氏から第8氏までとしたのはまったく恣意的で、8人の顔ぶれはどうでもよかった。多数派の8人と取り残された少数派の7人との区別は、「男と女」でも「年寄りと若者」でも「キリスト教徒とイスラム教徒」でも「巨人ファンとアンチ巨人」でもよかった。
 このモデルをうまく使うには、人間がきわめて貧欲であると想定する必要はなかった。恐怖を持ち出してもよかった。今一度、各人が2,000万円を得るような「公平な」解決を考えてみよう。「自分はこの解決策に満足して、自分たちの所得を引き上げようとする連合には加わる気持ちはない」としてもよい。他の人もみな自分と同じだ、という確信さえ持てばそうなるだろう。しかし、自分の知らないところで結託が出来つつある、という恐れがあれば自分もその結託に加わる。のけ者になれば所得をすっかり失うからだ。
 第1氏から第8氏までの連合ができたとして、それが安定するかどうかはメンバーの先見の明の程度による。第9氏から第15氏までの立場を考えてみよう。所得がゼロになる位なら、例えば第8氏を引き離し、「3,750万円よりも多く支払うから」と言って、第1氏から第8氏までの連合を分断しにかかるだろう。例えば第8氏に9,000万円を支払うことにして、新しい配分方式を支持する新多数派連合を結成しようとする。この新方式では第1氏から第7氏まではゼロ、第8氏は9,000万円、第9氏から第15氏までは3,000万円を手に入れるわけだ。第8氏がこの申し出を受けるかどうかは、彼がこの後起こることをどう予測するかにかかっている。第2の連合が存続する保証があれば第8氏はこの申し出を受けるに違いない。 何しろこれによって第8氏の所得は大幅に増えるからだ。しかしそうなるとは限らない。第2の連合は第3の連合によって破られる可能性があるからだ。
 第3の連合は第1氏から第7氏までと、あと一人、第9氏から第15氏までのグループの中の誰か(これは誰でもいい)が一緒になったものだ。あるいは、第9氏から第15氏までが、第1氏から第7氏までのグループのうちの誰かを選んで第8氏と置き換えてもよい。
 このグループは誰もが、連合から締め出される位なら少ない分け前でも良いから連合に加わろうとする。実際、人々が所得が増えるならいつでも新しい連合に加わろうと考えている限り、およそ安定した連合などありえないことがわかる。どの連合も新しい連合には敵わない。後者においてはどのメンバーも以前より恵まれた状態になることが可能なのだ。
※                     ※                      ※
 こうした仮定によれば、投票は無限に続き、民主政治は崩壊する。なぜなら、ここにはすぐ次の投票でひっくり返されるこののないような配分方式がないからだ。
 もしも第8氏が以上のプロセスを理解すればいかに多額のものを手依拠油しようと言われても、第9氏から第15氏のグループには加わらないだろう。というのは、第8氏は自分が第2ラウンドで提供されたものはやがて保持できなくなり、自分の変節の最終的な帰結として、今度は自分が参加できるかどうかわからない新たな連合がするか、所得を割り当てるための投票メカニズムがまったく失敗に終わってしまうか、このいずれかであることを知っているからだ。
 そこで第8氏は第9氏から第15氏までの申し出を拒否する。そして投票メカニズムは考えられる唯一の安定した結果をもたらす。すなわち辛うじて多数を占めた連合が全所得をそのメンバー間で分配し、アウトサイダーは何ももらえないという割り当て方式がその安定した結果になる。連合のメンバーの間では所得は平等に分配される。各人は、もし自分だけが高い所得を得ていると、たのメンバーが自分を入れ替える気になるだろう、ということを承知しているからだ。
 こうして一つの結果に到達する。これは驚くべきものであるかもしれないが、およそ魅力的でないことは確実だ。かりに国民所得の割り当てを多数決原理で決定するとして、すべての人は自分の身がどうなるかとは無関係に投票の結果を甘んじて受け入れる用意があるとすれば、半数弱の人々は所得を奪われるというのが唯一の安定した結果になる。
 話はまだ続く。多数決原理による所得の割り当ては、この例のように、魅力的なものではない。だとすると、「誰もが投票の結果を受け入れる」という大前提は正しくないに違いない。少数派は結局自分たちを縛る割り当て方式を拒否する。そして、多数派が少数派をもっと優遇する気を起こすように、あらゆる手段を動員するだろう。このモデルには圧力をかけるためのメカニズムがまだ含まれていないが、それを可能にするモデルの拡張を想像してみるのも難しいことではない。レントシーキングという言葉を使って、市場のメカニズムによらない所得政策を考えてみると、ここでの例――多数決原理による所得政策――の話の続きが見えてくる。 そして、投票を分析しているうちに、多数決原理は泥沼に入り込んでしまう。
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<高額所得者から一般人への所得再分配> 経済学では問題点をハッキリさせるために、単純化されたモデルをよく使う。それは非常に単純化されたもので、「財がリンゴとミカンだけの2財しかないと仮定して考えてみよう」とか「日本が中国との貿易で、ネジを輸出し、ネギを輸入し、これだけの取引をしているとしよう」とか「消費者は自分の判断によって、合理的な消費行動をとる」など、実際にはあり得ない様な状況を仮定する場合もある。このため「経済学者は現実を知らない」と軽蔑する人もいる。そうした、抽象化されたモデルを認めない考え方は、上記の例で言えば、いつまでも多数化工作を考えているうちに話の筋が迷宮入りして、問題点が何であるのか?分からなくなってしまうようなことだ。
 さて上記の例はこうしたモデルであって現実にそのようなことが起こるかどうかはわからない。そこでもう少し実際に起こりそうな状況を想定してみよう。
 日本で次のような税制が提案されたとしよう。「課税所得1億円以上の人には所得税50%を適用。1億円未満の人の税率は20%とする」との所得政策が提案されたとしよう。はたしてこれは可決されるだろうか?
 直接民主主義を主張する人たちの「国民投票」を実施したら、この提案は可決されるだろうと思う。有権者は自分にとって得か?損か?を考える。得だと考える人の方が多ければ可決される。この場合は可決されると思う。では、これが国会で審議されたらどうだろう。採決までに多くの参考人が意見を表明するだろう。そして最終的に採決となる。この場合は「否決」されると思う。 有権者は自分の損得勘定に従って投票する。国会議員は、それでも自分の損得勘定だけでなく、日本国にとってなにが良いか?を考える人もいる。少なくとも、「自分の損得勘定ではなく、日本の社会を考えて投票している」とのポーズはとりたいはずだ。従って、投票の仕方により結果は違ってくる。そして問題によっては直接民主主義――国民投票でない方が公正な結果が得られそうな場合がある、ということだ。
 ところでこの所得税制はどうだろう。上記多数派工作よりは現実的ではあると思う。そしてここでの問題は「累進課税とは公正と言えるか?」でもある。高額所得者から奪って低所得者に与えることの正当性はあるか?ということだ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<嫉妬は平等を求める> 今、3人の人間 A B C からなる社会を考えてみよう。3人が獲得する所得(又は富)は、それぞれ3 2 1 であったとする。これが変化して、4 2 1 となったとすれば、これは状態が「改善」されたことになるのか?それとも悪くなったと言うべきだろうか?
 この変化を簡単に、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )で表すことにしよう。 この社会の外にいる「公平な観察者」(アダム・スミスのいう impartial spectator )なら、これをある種の改善と見るであろう。なぜかと言えば、 B C の状態が現状のままである時、少なくとも1人、この場合は A の状態だけは改善されているのだから、この社会の状態は第三者から見て明らかによくなっている。社会全体の所得(富)も以前より増えている。
 これに対して、平等を何よりも重視する立場を観察者なら、もっとも恵まれない C に同情し、A や B ではなく、まず C の状態が改善されることに関心を示す。この場合は C の状態は改善されず、もっとも恵まれていた A の状態がさらに改善されて、この社会の所得な格差、あるいは「不平等」は一段と拡大されたことになる。そたがって、このような変化は、この社会の改善ではなく改悪である、というふうに主張するであろう。また、C は(おそらく B も)このような意見に同調して、格差の拡大を非難するであろう。当事者のこの非難には、嫉妬の情が含まれている。金持ちの A がますます金持ちになることは我慢できない、というわけだ。「他人の不幸は自分の幸福」という嫉妬の原理からすれば、 A( 3 2 1 )⇒( 2 2 1 )のような変化こそ「改善」になる。B も C も、A が貧しくなったことを愉快とし、満足を覚え、したがって社会は「穏やかな気分」に満たされることであろう。社会の」全所得は 6 から 5 に減ったけれども、格差は縮まり、より平等化したのであるから、この方がよい、というわけなのだ。孔子の「寡(すく)なきを患えず、均しからざるを患う」という言葉も、このような「貧しくても平等な方がよい」という立場を表明したものと言える。
 しかし誰の肩ももたない「第三者的な」観察者は、このようなAのような変化を「改善」だと見るだろうか?嫉妬で足を引っ張り合う愚かな人々の「自己満足」を嗤うのではないだろうか。
 それでは、( 3 2 1 )という状態を、政府が強制的に修正して、B( 3 2 1 )⇒( 2 2 2 )と完全に平等化したとしよう。もとの状態が、能力、努力、運によって決まった「ゲーム」の成績であったとすると、政府が「再分配政策」によって結果を平等化したことになる。C はこのような平等化を歓迎する。A はもちろん不満を唱える。再分配は「ゼロサム・ゲーム」であるから、ある人が追加分をもらって喜ぶ反面、他の人は自分の取り分を削られて怒るという結果になる。現状のままに放置される B は、ここでは「優遇される」C を嫉妬するに違いない。このような平等化を「公平な観察者」はどう評価するだろうか?ややシニカルに、「それがあなたがたの総意なら、やむを得ないでしょう」と言うかもしれない。そしてさらに、 「それにしても、ゲームの結果をあとから政府の手で平等化するのでは、そもそもゲームをした意味はありませんね」という感想を付け加えるかもしれない。
 ところで、この社会の総意という点について、次のようなことが言える。
 今、社会が( 4 1 1 )のような状態になっているとしよう。この社会で「多数決による総意」を決めることにすれば、B と C が平等化に賛成し、A は反対して、結局「恵まれない多数」の言い分が通ることになる。つまり多数の貧者は少数の富者から奪うことによって、自らの状態を改善することができるのだからだ。
 このように、「多数決原理」を採用した再分配が何をもたらすかは、考えてみるとかなり恐ろしいことだ。それは論理的には「多数の貧者による少数の富者の収奪」という帰結をもたらすしかない。これを「民主主義の恐ろしさ」と見るか、それとも「民主主義こそ平等化をもたらす、民主主義万歳!」と自賛するか、これは立場と価値観の違いによって決まる。「公平な観察者」は多分、「このような平等化を追求する民主主義は、社会主義に行き着くほかない」というコメントを残すであろう。
 むしろ不思議なのは、現実の民主主義がこの平等化をそれほど徹底して追求するわけでもなく、「金持ちの収奪」を経て社会主義の道を歩むわけでもない、という事実の方だ。実はここに「民主主義の知恵」がある、と言うべきではないだろうか。民主主義は平等だけを追求して社会主義に至るとは限らず、人々が競争しながら自立して自由をできるだけ保障しようとしている。そして代表者を投票で選ぶ方式の民主主義そのものが、きわめて競争的なシステムと言える。民主主義は、結果をどこまでも平等化すべきだという思想だけに引き回されているわけではない。このように「差別原理」と呼ばれる考え方は必ずしも多くの国民に支持されているわけではない、ということだ。(「経済倫理学のすすめ」から)
 中国では、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )の政策をとっている。それに対して、地上の楽園では( 3 2 1 )⇒( 2 1 1 )の政策、ポル・ポト支配のカンボジアでは( 3 2 1 )⇒( 1 1 1 )の政策。中国以外は、どちらも「寡なきを憂えず、均しからざるを憂う」という感情を尊重した政策でジニ係数は低下する。「貧しくとも、周りの皆も同じように貧しいなら、それは平等、ということでとても良いことだ」ということでこの政策を支持する人もいるようだ。
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<累進課税に代わる税制はあるか?> 上に挙げた例は市場のメカニズムによらない所得配分だ。市場のメカニズムゆだねていれば所得格差は生まれる。それを是正するために所得再分配政策をおこなう。その具体的なのが累進課税だ。所得の多い人は税率も高い。つまり、いっぱい稼ぐ人は「累進課税」とよばれる「罰金」を払うことになる。
 収入を基準に課税すると累進課税が採用されやすい。上記2つの例からも、「高額所得者には高い税率を課す」税制は支持されやすい。ある程度の累進制を認めながら新しい税制を考えるとしたら、それは「負の取得税」と「支出額に応じて課税する」消費税になる。 負の取得税に関しては「新春初夢、30年後の日本経済(前)」<新しい所得税法>▲で書いたのでここでは省略して、消費税について触れよう。現在5%の消費税を変更し、消費税10%とし、9%は今まで通りの国の収入とする。1%は国連に贈与し、「発展途上国、最貧国のインフラ整備に使ってもらう」との方針を打ち出すことだ。豊になった日本国民、そろそろ「ノブレスオブリージュ」を意識してもいい頃だと思う。
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<ビルトイン・スタピライザー> 累進課税はしかし上記とは違った観点から見ることができる。そのキーワードは「ビルトイン・スタピライザー」。どういうことか?少し引用しよう。
 現代の主要先進国の経済には、景気変動を和らげる自動安定化装置(ビルトイン・スタピライザー)が組み込まれている。自動安定化装置とは、景気の変動を自動的に抑制する機能のことをいう。
 たとえば、所得税はその税率が累進的であるために、好景気を反映して人々の所得が増加すると、所得税納税額は所得の増加率以上に増加する。したがって、所得から所得税などを控除した可処分所得の増加が抑えられるため、その中から支出される消費の増加も抑制される。これによって総需要が拡大し過ぎて、物価が上昇することをある程度押さえることができる。
 逆に、不況やデフレの時には、累進所得税制の下では、所得税納税額は所得の減少以上に減少する。したがって、可処分所得の減少が抑制されるため、消費の減少も抑制される。 これによって、不況の進行をある程度抑えることができる。
 他方、法人所得は景気の善し悪しによって大きく変動する。しかし、法人税率は比例もしくは段階税率であるので、税引き後の法人所得は税引き前の法人所得のように大きく変動せず、より安定的になる。法人企業の投資は、その収益である税引き後の法人所得が大きくなれば増加し、小さくなれば減少すると考えられる。したがって、好・不況による税引き後の法人所得の変動が和らげられれば、投資は好況期にはその増加率が、不況期にはその減少率が、それぞれ抑えられ、景気の過熱による物価の上昇や、総需要の減少を原因とする不況の進行に歯止めをかけることができる。 (「マクロ経済学を学ぶ」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『民主主義の破産』 ”公正のシステム”は存在するか ダン・アッシャー  竹内靖雄訳 日本経済新聞社 1982. 8.24
『経済倫理学のすすめ』                         竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『マクロ経済学を学ぶ』                        岩田規久男 ちくま新書   1996. 4.20
( 2004年5月17日 TANAKA1942b )
民主制度の限界
(4)囚人のジレンマ
<囚人のジレンマのもともとのストーリーは?> 多数決とか投票制度というと政治学の分野のように思われるが、経済学者が扱う例が多い。厚生経済学とか公共選択の分野に登場する。そしてこうした問題の次にはよく「囚人のジレンマ」が登場する。そこでここでも多くの例にならって「囚人のジレンマ」を扱うことにする。
 囚人のジレンマは、もともとは、ランド研究所のフラッド(M.M.Flood)と(M.Dresher)が行った2人ゲームの実験に、同じランド研究所にいたタッカー(A.W.Tucker)がわかりやすいストーリーを付けたものです。その後、いくつかの変化があり、現在では大体次のようなストーリーが一般的になっています。
 ある強盗事件を起こした2人の容疑者が、軽い窃盗容疑で逮捕され別々に検事の取調を受けています。検事は、強盗事件の方はまだ十分な証拠をつかんでいませんが、窃盗容疑については十分に起訴できる状況にあります。
検事は、2人の容疑者にそれぞれ、強盗事件について「黙秘する」「自白する」の2つの選択があることを伝えます。さらに、次のように伝えたとします。「もし、2人とも強盗事件について黙秘を通せば、窃盗の罪だけでそれぞれ2年の懲役刑を受ける。2人とも自白すれば、強盗の罪でだけでそれぞれ10年の懲役刑を受ける。 もし、1人だけが自白した場合には、自白した方は、「共犯証言」の制度により刑を減じられ1年の懲役刑ですむが、逆に、自白しなかった方は15年のより重い懲役刑に処せられる。そして、このことはもう1人の容疑者にも伝えられている」共犯証言というのは、共犯者の1人が自発的に証言すると減刑されるというアメリカの制度です。
表X 囚人のジレンマの利得行列
A\B 黙 秘 自 白
黙 秘 2年,2年 15年,1年
自 白 1年,15年 10年,10年

 2人の容疑者それぞれに「黙秘する」「自白する」という2つの選択肢があり、自分の選択だけでなく相手の選択によって結果が変わってしまいますから、この状況は2人の容疑者の間のゲーム的状況になっています。別々に取調べられていますから、もちろん相談することはできませんし相手がどのような行動をとったかも分かりません。
 2人の容疑者はいずれも刑に服する期間をできるだけ短くしたいと考えていますから、利得は自分が刑に服する期間で、それをできるだけ短くすることが2人の容疑者の目指すところです。2人の容疑者をA、Bとしますと、利得行列は<例X>のよいに与えられます。
 2人の容疑者にとって刑はできるだけ短いほうが好ましいですから、A、Bともに、「自白する」は「黙秘する」を支配します。したがって、2人の容疑者の合理的な行動はいずれも「自白する」で、合理的な行動の結果2人の刑期はともに10年になります。ともに黙秘していればお互いに2年の刑ですんだのにもかかわらず、それに比べてかなり長い期間刑に服することになってしまいます。
 これが、囚人のジレンマのストーリーです。(「ゲーム理論入門」から)
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<指揮者とチャイコフスキーのジレンマ> 同じ理論でも説明の仕方によってとても親しみやすくなることがある。それは「物語性」があるかどうか?という点にある。「囚人のジレンマ」もこのような話のもって行き方にすると、話が生き生きとして面白くなる。
 スターリン時代、あるソ連のオーケストラ指揮者は演奏会場へ移動する電車の中で、その晩に指揮する曲の楽譜に目を通していた。2人のKGB職員がそれを見つけ、楽譜の中に何か秘密暗号があるのではないかと疑い、彼をスパイとして逮捕した。 彼は単なるチャイコフスキーのバイオリンコンチェルトだと抗議したが受け入れられなかった。監獄での2日目、取調官が入ってきて言った。「全部しゃべった方がいいぞ。あんたの友だちのチャイコフスキーも俺たちに捕まって、もう喋り始めているぜ」
 こうして「囚人のジレンマ」という最も有名な戦略ゲームの話が始まる。論理的な結論まで話を進めてみよう。KGBは名前がチャイコフスキーというだけで逮捕した別の男に対し、指揮者に対するのと同様の尋問を別の部屋でおこなう。もし、この無実である2人ともが尋問に耐えたら、両者とも3年の投獄を命ぜられる (注1)。もし指揮者が共犯者がいるという嘘の自白をし、チャイコフスキーはなんの自白をしなければ、指揮者は1年の刑(とKGBの感謝状)で済まされ、チャイコフスキーは反抗的であったとして25年の刑になる。反対に、指揮者が自白しないでチャイコフスキーが嘘の自白をすれば、投獄期間は逆になる。また、2人とも自白すれば、両者とも10年の刑となる (注2)。
表Y 指揮者とチャイコフスキーのジレンマ
指揮者\チャイコフスキー 黙 秘 自 白
 黙  秘 3年,3年 25年,1年
 自  白 1年,25年 10年,10年

 (注1)ソ連の刑務所の笑い話。新しく刑務所入りした者が服役中の囚人から質問された。「お前の刑期は何年だ」「10年だ」と答えた。「何をやったんだ」「何もやってねえよ」「それじゃ、手違いがあったんだろうな。何もやってない場合は3年のはずだからな」
 (注2)実際には3653日の禁固となる。「3日間の追加はうるう年のためだ」(ソルジェニーツィンの「イワン・デニソヴィッチの一日より」1962年)
 さてここで指揮者はどう考えるか。チャイコフスキーは自白するか、しないかのどちらかである。彼が自白したことを前提とすると、自分は自白すれば10年、しなければ25年の刑になるから自分は自白した方がよいことになる。チャイコフスキーが自白していないことを前提とすれば、自分は自白すれば1年、しなければ3年の刑になるからやはり自白したほうがよい。したがって指揮者にとって自白することが最善の行動となるのは明らかである。
 KGBのあるジェルジンスキー広場の別の部屋では、チャイコフスキーも同じことを考え、同じ結論に達した。要するに、両者とも自白したのである。後に彼らが収容所で出会い、お互いの話を比べてみたとき、自分たちの失敗に気がついた。2人とも自白しなければ、もっと短い投獄期間で済んだのだ。
 もし尋問される前にお互いが会って話をする機会さえあれば、2人とも自白しないことを申し合わせることができたとも考えられる。しかしながら、早晩このような合意はあまりうまくいかないことがわかるだろう。いったん、彼らが別室に別れて尋問が始まると、相手を裏切って短い禁固で済まそうという自分勝手な考えが魅力を増してくる。彼らが再び収容所で会うとき、やはりお互いの裏切りをかみしめる結果となるだろう。果たして、お互いにとってより良い結果を生むような信頼というものを達成することはできるのだろうか。
 多くの人々、会社、さらには国家までが囚人のジレンマに直面している。生死にかかわる問題である核兵器コントロールについて見てみよう。超大国はお互いに自国は有事に備え核を兵器庫に保持しつつ、相手国が核保有を放棄することが最も良い状態と考えている。相手国が保持して自国が放棄することが最悪の状況である。したがって相手国の出方がどうであれ、自国は核を保有するほうがよい。 しかしながら両国が共同して同時に核を放棄することができれば、両国が保有するばあいより良い状況だと考える点では一致している。問題は意思決定の相互作用であり、両国にとって最終的により良い結果を得るためには、それぞれの国は個別にはより劣る戦略を選択しなければならない。それぞれの国にとって協定を破り密かに核を保有するするのが魅力的である以上、共同してより良い結果を生むことは難しい。もっともこの問題は、最近、ソ連の考え方が核兵器放棄に向かいつつあることで解決の端緒が開かれつつある。
 囚人のジレンマの話は、有用な一般的なポイントを含んでいる。それは大部分の経済的、政治的あるいは社会的なゲームはフットボールやポーカーのような、一方の得点は他方の失点となるゼロサムゲームとは違うといいうことだ。囚人のジレンマのようにともに自白するよりはともに自白しないほうがよいというケースでは、両者の利害が衝突する面と一致する面が同時に存在している。また、経営者と組合の交渉では、一方が低い給与水準を望み、他方が高い水準を望むという点では利害が衝突するが、交渉決裂によりストライキに入れば両者とも損害を被るという点では利害が一致する。 実際このような状況は特殊な状況ではなく、むしろ一般的である。ゲーム理論により、利害関係の衝突と一致のミックスを分析することもできる。ゲームの相手プレーヤーは「敵」と表現されるが、場合によっては敵が味方になることもある。 (「戦略的思考とは何か」から)
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<アインシュタインの比較優位> 経済学には経済学独特の語法があって、これに馴れていないと参考書を読むのが辛くなる。専門の語法ではなく、一般の言葉で書かれていると普通人でもすらすら読むことができる。経済学者は経済問題の宣教師であって欲しい。それには経済学語法ではなく、一般人語法で書かれた経済学専門書があって欲しい。同じ「囚人のジレンマ」を扱っていても、「指揮者とチャイコフスキー」は経済学語法ではないので分かりやすい。 少し前に扱った「比較優位」、これに関して分かりやすい文章があったので、ここに引用することにしよう。
 いま、アインシュタインが彼の弟子といっしょに仕事をしていたとします。仕事は2種類の作業に分けることができ、ひとつは理論的な構造について考える創造的作業、もうひとつは論文をタイプしたり資料を整理したりする補助的作業であるとします。この2つのどちらの作業も、研究上欠かせないものとします。
 いま、アインシュタインは、どちらの作業に関しても弟子よりも有能であったとします。たとえば、能力を仕事のスピードで測れるとして、アインシュタインは創造的作業に関しては弟子の5倍、補助的作業に関しては弟子の2倍のスピードで仕事を完了することができるとしましょう。この場合、アインシュタインは、作業を全部自分でやってしまって、弟子にはなにも任せないほうがよいのでしょうか。また、弟子はこんなに優秀なアインシュタインと一緒に作業するのでは、アインシュタインに搾取されるばかりなので、ひとりで別に研究したほうがよいのでしょうか。
 もちろん、答えはは否です。アインシュタインも弟子も1日24時間という時間的制約に縛られています。したがって、この時間的制約のもとで最大限の成果をあでようと思ったら、両者が協力して分業したほうがよいのです。この場合、アインシュタインは創造的な仕事をさせれば、補助的な仕事の2.5倍の仕事をするのですから、アインシュタインは創造的な仕事に特化し、それを補うため弟子が保持的な仕事を行えばよいのです。
 このような状況のとき、アインシュタインは創造的仕事に「比較優位」があり、弟子は補助的な仕事に比較優位があるといいます。国際貿易における比較優位とは、ここでの2人の人物を国に置き換え、2つの作業を産業に置き換えることでそのままあてはまります。 (「入門 経済学」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ゲーム理論入門』                              武藤滋夫 日本経済新聞社  2001. 1.19
『戦略的思考とは何か』アビナッシュ・ディキシット、バリー・ネイルバフ 菅野隆・嶋津祐一 TBSブリタニカ 1991.10. 4
『入門 経済学』                               伊藤元重 日本評論社    1988. 1. 5
『囚人のジレンマ』フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン松浦俊輔 青土社      1995. 3.10
『はじめてのゲーム理論』                           中山幹夫 有斐閣ブックス  1997. 10
『ゲームの理論入門』チェスから核戦略まで   モートン・D・デービス 桐谷維、森克美訳 講談社      1973. 9.30
( 2004年5月24日 TANAKA1942b )
民主制度の限界
(5)アメリカ軍とパパラッチのジレンマ
<アメリカ軍とイラク情勢> 囚人のジレンマで使った行列式を今日的問題に当てはめて、少し遊んでみよう。世界の政治経済問題でもっとも大きな問題の一つ、イラク問題を考えてみることにする。
例Z 治安安定 社会混乱
米軍撤退  +2 ー1
米軍駐屯  +1 ー2
 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退してもイラク秩序が安定するのが一番いい。
◆ アメリカ軍が撤退して社会が混乱するのはー1。
◆ アメリカ軍駐屯して秩序が安定するのは+1。
◆ アメリカ軍が駐屯しても社会が混乱するのは最悪のー2。
◆ これはアメリカ、イラク、反米勢力などの関係者を除いた、一般的な見方。それぞれの当事者は違った見方をする。
<アメリカ軍とイラク国民のジレンマ>
アメリカ\イラク 親米的 反米的
 米軍撤退  ー1,ー1 ー2,+1
 米軍駐屯  +2,+2 +1,ー2
 この表は次のように読む。
◆ イラク国民が親米的であるときにアメリカ軍が撤退すると、イラク側の協力を生かせないのでアメリカはー1,イラク国民側もー1。
◆ イラク国民が反米的であるときにアメリカ軍が撤退すると、反米勢力の思うつぼなので、アメリカはー2,イラク国民側は+1。
◆ イラク国民が親米的であるときにアメリカ軍が駐屯すると、治安が回復し、アメリカは+2,イラク国民側も+2。
◆ イラク国民が反米的であるときにアメリカ軍が駐屯すると、アメリカ軍駐屯理由が出来て+1,イラク国民側はー2。
◆ この表からは、アメリカ軍は駐屯し、イラク側はそれに協力するのが双方にとって利益がある、となる。ただし、この表のアメリカ駐屯、イラク反米的をー2 +2と考える人もいるかも知れない。 「駐屯するアメリカ軍に被害を与え、国際的な反米勢力を元気つけ、イラク人の自尊心を満足させる」との考えもあるかも知れない。そうすると結論は変わってくる。
<アメリカ軍と反米勢力のジレンマ>
アメリカ\反米勢力 安定協力 徹底抵抗
 米軍撤退  ー1,+2 ー2,ー2
 米軍駐屯  +2,ー1 +1,+1

 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退し反米勢力も治安安定に協力すると「アメリカはいない方がいい」で、アメリカはー1,反米勢力はアメリカがいなくなって秩序が安定したのだから一番理想的なので+2。
◆ アメリカ軍が撤退し反米勢力が社会を混乱させると「アメリカはイラクを見放した、無責任だ」で、アメリカはー2、反米勢力はアメリカがいなくなっても社会が安定しないのだから最悪のー2。
◆ アメリカ軍が駐屯し治安が安定するのは駐屯の効果があるのだからアメリカは+2、反米勢力はアメリカ軍駐屯が正当化されるので面白くないのでー1。
◆ アメリカ軍が駐屯し反米勢力が抵抗するのは、駐屯の意味があるのでアメリカは+1、反米勢力は抵抗の目的があるので+1。
◆ この表からどのような戦略が読みとれるか?アメリカ軍は反米勢力が抵抗した場合は駐屯した方がいい。反米勢力が抵抗を弱めた場合も駐屯した方がいい。そこでアメリカ軍は駐屯する。 反米勢力は、アメリカ軍が撤退するなら社会の安定に協力した方がいいのだが、アメリカ軍が駐屯するなら抵抗した方がいい。このようにどちらの戦略がいいか迷うのだが、アメリカ軍は撤退せず駐屯を続けるので結局は抵抗を続けることになる。そこでアメリカ軍はこのダラーオークションの泥沼から抜け出すのに苦労することになるだろう。
<パパラッチのジレンマ>
例] 治安安定 社会混乱
米軍撤退  ー2 +1
米軍駐屯  ー1 +2

 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退し、治安が安定すると被写体としてのアメリカ軍はなく、大手ジャーナリズムが活動し、パパラッチの出番がなくなる。平和で笑顔の生活の写真はパパラッチの被写体に似合わない。つまりイラクでは仕事がなくなるのでー2。
◆ アメリカ軍が撤退し、社会が混乱するとアメリカ軍に関する取材はないが、大手の入らない地方での特ダネ写真が撮れるかもしれない、少なくとも悲惨な被写体をファインダーに捉える機会はあるので+1。
◆ アメリカ軍が駐屯し、治安が安定するとアメリカ軍の写真は撮れても、大手も総力を挙げて取材競争になり勝ち目はない。ましてアメリカ軍と現地人との友好的な写真を撮っても、リベラルの多いジャーナリスト社会で名前を売るのは難しいのでー1。
◆ アメリカ軍が駐屯し、社会が混乱すると大手の活動出来ない地区で独占的に取材できる。人質になる危険性はあり、「自己責任」と世論の批判を浴びることになっても、政府は見捨てない。冬山での遭難救助費用に比べれば請求金額は少ない。それは日本の例を見れば明らかだ。外国人記者相手の記者会見で自分を売り込むチャンスもあり+2。
◆ パパラッチは民主制度、市場経済でこそ思う存分仕事をすることができる。独裁国、宗教政治国、社会主義国では働き辛い。「共生」とか「棲み分け」などの言葉を大切に信仰する社会では、蔑まされ肩身が狭い。 言論の自由が保障されている民主制度では、「報道の自由」とか「読者の知る権利」とか「権力側からでない、民衆側、弱者の立場からの報道」との大義名分を掲げ、自分を叱咤する。実は自分の生活費稼ぎであっても、こうした名目のためプライドを満足させる。これはいいことなので、こうしたプライドさえ失ったら、スクープ写真をネタに脅し、タカリに走ることになる。 そして、「こうしたパパラッチが狙っている」という意識が当事者にあれば、「ヤバイことするとパパラッチに撮られる」と思いヤバイことへの抑止力になる。ちょうど「消費者を裏切ってヤバイことすると結局は損するよ」と同じ状況だ。
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<誰もが合理的な判断をするのか?> 上の行列式はいろんな場合の利得を数字に表現したものだが、それを読んでどのような行動をとるか?つまり本当に自分にとって利益のある行動をとるかどうかは分からない。 経済学では「人々は合理的な判断に基づいて行動する」を前提に話を進めているが、イラン情勢に関しては、イランの人々が普通人の考える「合理的」な判断をするとは限らない。特に「自爆テロ」などは合理的な判断からは生まれて来ない。 それでもこうして書いてみると、立場によって評価が違う。情勢分析、撮るべき戦略にしても、対する相手によって違ってくる。アメリカの公式声明も誰を意識しての発言かによって違ってくる。上に取り上げた行列式を、すべて一つにまとめると立場による評価の違いが鮮明になるのだが、これは皆さんの楽しみ、ということでここでは扱わないことにしよう。興味を持った人はすべてをまとめた行列式を作って見て下さい。イラク問題の複雑さがさらによく分かるでしょう。
 ペンタゴンではこうした行列式を沢山作っているに違いない。アメリカ軍の経費、人的損失、世論、友好国との関係、etc. それならばアマチュアもそうした戦略を「趣味」として考えてみるのも「面白そうだ」との野次馬根性から、取り上げてみた。 しかしこれはアマチュアだから出来ることらしい。プロの経済学者は「ゲームの理論」も詳しいし、世界情勢にも関心があるはずだ。それにもかかわらず、こうした試みが発表されないのは、影響力の大きさと、間違った場合の社会的信用喪失とを考えて慎重になっているのかもしれない。 とは言え、日本に旺盛な「好奇心」と「遊び心」を持ったエコノミストがいないのは、なんともさびしいことだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『徳の起源』他人をおもいやる遺伝子       マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社   2000. 6.14
『囚人のジレンマ』フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社   1995. 3.10
  ( 2004年5月31日 TANAKA1942b )