趣味の経済学 民主制度の限界   
デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である ウィンストン・チャ−チル
TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいです   アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが経済学の神話に挑戦します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

民主制度の限界
 (1)多数決のパラドックス  ( 2004年5月3日)
 (2)多数派工作が行われると  ( 2004年5月10日)
 (3)多数決による所得再分配  ( 2004年5月17日)
 (4)囚人のジレンマ  ( 2004年5月24日)
 (5)アメリカ軍とパパラッチのジレンマ  ( 2004年5月31日)
 (6)小泉首相と金正日のジレンマ  ( 2004年6月7日)
 (7)進化するゲーム理論  ( 2004年6月14日)
 (8)ソシアル・ジレンマ  ( 2004年6月21日)
 (9)レント・シーキング  ( 2004年6月28日)
 (10)市民運動への淡い期待  ( 2004年7月5日)
 (11)リベラル、アナーキー、リバータリアン  ( 2004年7月12日)
 (12)アナルコ・キャピタリズム、アナルコ・サンディカリズム  ( 2004年7月19日)
 (13)利己的な遺伝子、ミーム  ( 2004年7月26日)
 (14)ミームによって普及する学説  ( 2004年8月2日)
 (15)もっと自由な社会制度はどうだ?  ( 2004年8月9日)
 (16)アナーキズムを経済学する  ( 2004年8月16日)
 (17)最小国家は理想社会ではない  ( 2004年8月23日)
 (18)違った立場から考えてみよう  ( 2004年8月30日)
 (19)人間も自然界の一部と考えると……  ( 2004年9月6日)
 (20)「素人さん、大歓迎」の論法  ( 2004年9月13日)
 (21)もっと平等な社会制度はどうだ?  ( 2004年9月20日)
 (22)「正義論」とはどんな本?  ( 2004年9月27日)
 (23)「正義論」は「先富論」をどう評価するか?  ( 2004年10月4日)
 (24)格差原理に反する社会とは?  ( 2004年10月11日)
 (25)先に豊かになれる国から豊かになる  ( 2004年10月18日)
 (26)いろんな「グローバリゼーション論」  ( 2004年10月25日)
 (27)民主制度とグローバリゼーション ( 2004年11月1日)
 (28)市場における競争と適者生存  ( 2004年11月8日)
 (29)商品価格はどのように決まるのか  ( 2004年11月15日)
 (30)「べき」と「である」の思考傾向  ( 2004年11月22日)
 (31)民主制度の手直し案は?  ( 2004年11月29日)
 (32)「とりあえず、これで行こう」との主義  ( 2004年12月6日)
 (33)民主制度と市場経済の話のまとめ  ( 2004年12月13日)

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

民主制度の限界
(1)多数決のパラドックス
<グー・チョキ・パーの迷走>
アフター・ファイブ、3人の若者が駅で待ち合わせて、食事をすることになった。洋食、中華、和食と趣味が分かれた。3人の好みは次の通り。
例 T 1 位 2 位 3 位
A 君 洋食 中華 和食
B 君 中華 和食 洋食
C 君 和食 洋食 中華

 駅から見ると、「洋食」と「中華」のカンバンが見える。「近くのどちらかにしよう。洋食がいいか?中華がいいか?」。A君は洋食。B君は中華。そこでC君は「本当は和食がいいのだけど、どちらかと言うと洋食だな」と言う。 そこで「洋食」のカンバン目指して行くと、途中に「和食」のカンバンが見える。「和食もそこあるよ。和食と洋食とどちらがいいかな?」。A君は洋食、C君は和食。そこでB君は「和食がいい」と言う。 そこで和食となるのだが、B君は言う「でも本当は中華がいいのになぁ」。そこで中華がいいか?和食がいいか?となると今度はA君が「中華がいい」と言う。そこで中華のカンバンを目指して歩き始めると、A君「でも本当は洋食がいいな」。それに答えてC君「そりゃぁ、中華よりは洋食の方がいいよ」。 こうして何を食べるかの結論が二転三転する。洋食⇒和食⇒中華⇒洋食と迷走しいつまでたっても結論が出ない。こうした場合どうするか?は決まっている。ジャンケンで決めるのが一般的だ。そう、すべての人を平等に扱うのではなくて、誰かに特権を与えることによって結論を出すようにしている。つまり「民主制度」(平等の原則)を否定することによって、問題を解決している、と言える。
<ケネス・J・アロー> 上に書いた例題はケネス・アローの「多数決のパラドックス」として知られている。そこでケネス・アローはどのように言っているのか、その著書から引用しよう。
 本書は上述の問題の形式的側面だけに関係していることをここで強調しておかなければならない。すなわち、一組の既知の個人的嗜好から一つの社会的意思決定様式に移行する手続きで、いくつかの自然な条件を満足するもの、を構成することが形式的に可能であるか否かが問われている。この問題の一つの実例は次に見る周知の「投票のパラドックス」である。 3人の投票者から成る一つの社会があり、3つの異なる社会的行動様式(たとえば、武装解除、冷たい戦争、あるいは熱い戦争)の間での選択を迫られているものと想定しよう。この種の選択は反復して行われねばならないと予想されるが、この3つの選択対象の全部が利用可能であるとは限らない場合があろう。 欲望が一定で価格・所得状況が可能という条件下にある個別消費者の通常の効用分析から類推すると、社会の側での合理的行動は次のことを意味するであろう。すなわち、社会はその集団的専攻にしたがって、その3つの選択対象の順序づけを一定に定めてしまい、次に任意に与えられた状況において実際に利用可能な選択対象の中で、この一覧表の上で最高位にあるものを選択する。この集団的選択階梯表に到達する一つの自然な方法は、 社会の多数が第1の選択対象を第2のそれより選好する場合すなわちこの2つの選択対象だけが利用可能な時の第2のものを制して第1のものを選択する場合には、第1の選択対象が他方より専攻される、と言うことであろう。A,B,Cを3個の選択対象、1,2,3を3人の個人とする。個人1はAをBより、BをCより(したがってAをCより)専攻し、個人2はBをCより、CをAより(したがってBをAより)選好し、個人3はCをAより、AをBより(したがってCをBより)選好すると想定しよう。この時、多数がAをBより選好し、また多数がBをCより選好す。したがって社会はAをBより、またBをCより選好していると言えよう。もし社会が合理的に行動するとみなされるべきならば、AがCより選好されていると言わねばならなくなる。しかし実際には社会の多数はCをAより選好しているのである。このように個人的嗜好から集団的嗜好へ移行するための方法として上に略述したものは、われわれが通常理解している意味での合理性の条件を満足していない。個人的嗜好を集計する別の方法で、社会の側での合理的行動を含意し、他の面でも満足しうるものを見出すことはできるだろうか?
(注)上で概説された決定方法は、いろいろな審議機関で用いるものと本質的には同じであることを付言しておいてもよい。そこでは選択対象の全範囲が次々に2つずつを比較するという形式で決定に登場してくる。本文で叙述された現象は最近の合衆国議会に提出された州教育に対する連邦政府の援助に関する議案の処理の中に純粋な形で見られる。そこでの3つの選択対象は、「いかなる連邦政府の援助もしない」「公立学校のみに連邦政府の援助をする」「公立学校と教区付属学校の療法に連邦政府の援助をする」というものであった。このいわゆる「投票のパラドクス」を最初に指摘したのはE.J.Nanson (Transactions and Proceedings of the Royal Society ofo Vitoria,Vol.19,1882,pp.197-240) のようである。この引用文献について私はニュー・ブラウンズウィック大学の C.P.Wright に負っている。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<大勢になると、どうなるか?> アフター・ファイブ、今度は7人の若者が集まった。7人の好みは次の通り。
例 U 1 位 2 位 3 位
A 君 洋食 中華 和食
B 君 洋食 中華 和食
C 君 洋食 中華 和食
D 君 中華 和食 洋食
E 君 中華 和食 洋食
F 君 和食 中華 洋食
G 君 和食 中華 洋食

 今回はすんなり洋食に決まるかのように思えた。しかし一人が言った「でも洋食はあまり好みではないからなぁ。皆で嫌いなのを言ってみようよ」。そうすると7人中4人が「洋食嫌い」と答えた。 「じゃあ洋食でなければ何がいい?」となると、答えは「中華」。
<それでも投票権平等が原則> 上記2つの例は「多数決は総意を表現するか?」という問いを発している。民主制度では、皆で十分討議し、最終的には多数決で結論を出す、というシステムになっている。ところがその多数決での結論が必ずしも公平でない場合もあるように思えてくる。
 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても、「稼ぎが悪くて、最低の税金しか払っていない人と、オレのように人の何倍もの税金を払って、日本社会に貢献している人間と同じ一票なのか?」と言っても、選挙では同じ一票。これが民主制度の基本。
<アローの社会厚生に関する定理> 「多数決のパラドックス」について調べていくうちに、次のような文章に出会ったので、参考のためここに引用することにした。
2人以上の個人からなる社会が、その構成員の選好に基づいて、3つ以上の選択対象に対する選好順位を構成すると仮定する。このような状況は、立法機関が議題を決める(議員たちが法案の相対的重要性に関して意見を異にしている)とき、あるいは株主の要望に応じてある投資を行なおうとしているときなどに発生する。 求めるべきものは、社会厚生関数 (social welfare function)である。すなわち、個人のあらゆる可能な選好パターンを、社会に対する一つの選好順序に変換するなんらかの方法である。
 ここで、任意の2つの選好対象に対して、各個人は一方を他方より選好するか、またはこれらの間で無差別であると仮定する。すなわち、任意の2つの選好対象は比較可能である。さらに、次のような制約が課せられる。
 制約1 社会を構成する個人の選好に基づき、もし社会厚生関数が、選好対象Pは選好対象Qよりも選好されると主張するならば、また個人の選好のいくつかが変更され、その結果Pが前よりもいっそう望ましくなるが、他の個人の選好は変更されてないとするならば、社会厚生関数は依然として、変更後の選好パターンに対してもPはQより選好されると主張しなければならない。
 制約2 社会厚生関数が、選択対象集合の部分集合Pに対して一定の選好順序を課すとする。もし個人の選好が、Pに属さない選択対象に関して変化するが、Pに属する選択対象に関しては変化市内ならば、社会厚生関数はP内では以前として構成順序を課し続ける。
 制約3 任意の2つの選択対象に対して、社会をして一方を他方よりも選好せしめるなんらかの個人的選好パターンが、つねに存在しなければならない。
 制約4 ある個人と2つの選択対象があって、その個人が一方を選好するとき、社会もその一方を選好し、個人が他方を選好するとき、社会もその他方を選好するようなことは起こり得ない。
 これらの制約の理論的根拠は、社会の意思決定と社会を構成する個人の欲望とを少なくとも大ざっぱに対応づけることにある。たとえば、個人の穿孔にかかわりなく、社会がつねにyよりもxを選好するならば、あるいは社会が選好すべきものを一個人が指令するならば、これはグループ意思決定ではない。
 アローは、これらの条件すべてを満足する社会厚生関数の構築が、不可能であることを証明した。
(「ゲームの理論入門」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『社会的選択と個人的評価』             ケネス・J・アロー 長名寛明訳 日本経済新聞社 1977. 7.25  
『ゲームの理論入門』           モートン・D・デービス 桐谷維・森克美訳 講談社     1973. 9.30
( 2004年5月3日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(2)多数派工作が行われると
<派閥選挙はどうなるか> 政権党で党首の選挙が行われることになった。「国会議員と党員すべてに選挙権を与えると、多数派工作が行われ、一本釣りや利権約束など世間から批判される裏工作が行われる、今回は派閥の代表者に決めてもらおう」となった。 立候補者は4人。派閥は7派閥。各派閥の代表者が候補者に得点を付ける。得点の多かった候補者を党首にする、という選挙制度を採用した。選挙前の下馬評は次の通り。
例 V 3点 2点 1点 0点
 A  小田 徳川 羽柴 明智
 B  明智 小田 徳川 羽柴
 C  羽柴 明智 小田 徳川
 D  小田 徳川 羽柴 明智
 E  明智 小田 徳川 羽柴
 F  羽柴 明智 小田 徳川
 G  小田 徳川 羽柴 明智

 予想得点はこうなった。――
小田候補15点・明智候補10点・羽柴候補9点・徳川候補8点。各派閥は小田党首を念頭に次期内閣への根回しを始めた。ところが投票直前になって小田候補が立候補を辞退した。理由は健康上のこと、と発表された。一部ではPTSDだろう、との噂も流れた。 それはともかく党首に最短距離と思われていた小田候補の辞退により、情勢は一変した。小田候補が抜けた勢力構造は次の通り。
例 W 2点 1点 0点
 A  徳川 羽柴 明智
 B  明智 徳川 羽柴
 C  羽柴 明智 徳川
 D  徳川 羽柴 明智
 E  明智 徳川 羽柴
 F  羽柴 明智 徳川
 G  徳川 羽柴 明智

 この結果各候補の得点はこうなった。徳川候補8点・羽柴候補7点・明智候補6点。これにより徳川党首が誕生した。さらに驚いたことに 明智候補と羽柴候補の順位が逆転した。各派閥の次期内閣への取り組み姿勢がめちゃくちゃになった。一部のマスコミははっきりした証拠もなく、それでも政府批判のリベラル派としての姿勢を貫こうと「徳川派閥の陰謀だ」と報じた。 しかし党内では批判は少ない。「政権党の党首で将来一国の首相になる人物なら、この程度の駆け引きも出来なくてどうする。この程度の政治戦略も考えつかないようなバカ正直に日本の運命を委ねられるか!」 多くの議員の本音はこのようなものだった。「これはマスコミと政権党、リベラルとコンサパティブの違いですね」というのがテレビによく登場する政治評論家の、分かった風な、そして全く内容のない解説だった。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<支持率6割X6割=不支持率64%> 政権党6割、野党4割の議席数の場合、首相は政権党から選出される。ではその人物は政権党で絶対的な支持率なのだろうか?多くの場合いくつかある派閥の代表同士の選挙になり、党内で6割の支持があれば当選する。ということは、全国会議員の36%の支持で当選したことになる。つまり不支持率64%、支持する議員よりも支持しない議員の方が多いということだ。 内閣不信任案が提出されたら、それが可決される可能性を秘めている。こうしたことを考えていく内に、「何かに似ているな」と思うようになった。それは@市場経済での企業同士の自由な競争。A信用の上に築かれている金融システムだ。
@政策の失敗、国会運営上の不手際、閣僚の個人的不始末などにより不信任案が可決される恐れがあるので、議院内閣性では常に緊張感が漂っている(実際は結構だらけているかも知れないが、制度上建前は緊張しているはずだ)。これは業界トップ企業といえどもいつ新規に強力なライバルが参入して来るか分からない。常に緊張している。 「だから良くない」と言う人もいる。「市場経済とは弱肉強食を許す非人間的な社会で、人は本来あった温かい心を失い、共同体が崩れていく」とか「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?」 と言う声があがる。いいことか、悪いことか、その評価は分かれても、緊張感のある社会だ、という点では一致している。こうした点から見ると「議院内閣制」と「市場経済」は似たところがある。
A支える基盤はか細いもので、信用だけでもっている金融システムに似ている。ちょっとした噂に尾鰭がついて取り付け騒ぎになった例もある(1973年12月13日、愛知県 豊川信用金庫の例 ▲)。信用だけでもっている、と言えば、 「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する荻原重秀の答え「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」も思い起こされる。このように民主制度、議院内閣制は市場経済と相性がいいようだ。
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<全会一致の怖ろしさ> 「多数決は総意を表現するか?」という問いに対して、「総意を表現している」とは言えないケースもあるようだ。では「全会一致ならば問題はない」と言えるのだろうか?ところがそうではない。むしろ全会一致で決まったら、そのときの方が問題がありそうだ。
@ 先ず、誰も反対しない案件がなぜ今まで放って置かれたのか?考えてみることだ。もしかしたらあまり人が気付かない大きな欠点があるのかも知れない。もっとも国会議員がさぼっていた、ということも考えられるが。 
A 軍事独裁国家のような超緊張社会で、反対者、違反者には厳しい処罰が加えられる場合。違反者への警戒の目も厳しく、子供の目が警戒する社会は違反者が出にくい。ピオネール、コムソモール、紅衛兵、ポル・ポト時代の少年、地上の楽園、ヒトラー・ユーゲント、これらを見れば分かる。旧ソ連のKGBや、東欧社会主義国の秘密警察なども秩序維持に大きな力を発揮した。こうした社会では臍曲がり、違反者は出にくい。従って投票すれば全会一致とういケースが出やすい。
B 新興宗教団体のように参加者がマインド・コントロールされている社会。この社会でも子供が利用される。例えば紅衛兵「毛沢東の目には、10代から20代はじめの若者が格好の道具と映った。この世代は、熱狂的な毛沢東崇拝と「階級闘争」の思想をたたき込まれて育っている。反抗的で、恐いもの知らずで、正義感が強く、冒険に飢えているといった若者の特質をすべて備えている。しかも無知で、無責任で、操縦はいたって簡単だ」となる。布教活動、市民運動に子供を使うことも多い。
C 投票者が無気力で真剣に考えていない場合。あるいは難しすぎて分からない場合。こうしたケースでは全員投票ではなくて、よく分かっている代理人(国会議員など)に任せた方がいい。それでも政治経済問題で少数派の人々の中には、国会での議決を認めず「国民投票という直接民主主義をとるべきだ」と主張する。あるいは「司法制度も専門家=司法試験合格者だけでなく、市民も裁判に判事として参加すべきだ」との主張も出てくる。
D あまり意味のない議決。例えば「コメは一粒たりとも輸入させない」とか「私たち◎◎市は核兵器廃絶を願っている」などの「核兵器廃絶宣言都市」。一部圧力団体への協力ポーズや、口うるさい市民への人気取りポーズにしか過ぎない。もし多くの都市が「核兵器廃絶宣言都市」を宣言して核兵器がなくなるなら、それは「明日天気になぁれ」と言ったら本当に天気になる、と同じこと。つまり「言霊」になってしまう。もっとも現代日本人で「言霊」を信じている人はとても多いのかもしれない。この点に関しては井沢元彦氏の意見を聞くのがいいのだろう。
 全会一致で決まることの多い社会では、 雑種強勢・一代雑種▲は期待できない。そして、自家不和合性に陥る恐れもある。環境の変化、価値観の変化などに対応できない、進化のない社会だ。いつも臍曲がりがいて、突然変異による変わり者がいる社会の方が健全だと思う。
( 2004年5月10日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(3)多数決による所得再分配
<少数者の権利を奪う多数派工作> 多数決原理による政治は必要なものではあるが、欠陥ももっている。多数決原理は、われわれが暮らしていこうと思うような種類の社会を維持していくために必要である。何しろ、これに代わるべきものと言えば独裁政治になってしまうからである。しかし民主主義は、本章でで示すように、欠陥ももっている。その理由は、民主主義が人々に所得を割当てる方法として使われると、少数派が投票のつど、多数派の決定を甘んじて受け入れるというコンセンサスが破壊されるだろうということである。経済機構の形態と民主政治の有効性とを結びつける力は、民主政治の基本的な弱点を埋め合わせる経済の能力にある。
 このように始まるダン・アッシャーの「民主主義の破産」は、多数決による所得再分配システムでは公正とは言えない状況が起きる、と指摘している。そこで、「民主主義の破産」をベースにTANAKAなりの解釈を加えて、「多数決」と「所得政策」について考えてみることにしよう。
 今、15人の人間からなる社会を想像してみよう。ここではあらゆる決定が投票によって行われる。また厳密な、無制限の多数決原理が行われているものとする。民主的な政府が所得を人々に配分しようとした時どんなことが起こるかを示すために、生産のことは抜きにして、その代わりに天から降るマナのように3億円の国民所得がこの社会に降ってくるものとし、社会はこの3億円を配分するには投票による以外に手がないものとする。また、経済学者がやっているように、人々はすべて欲張りで、パイの中での自分の分け前を最大にするために、当然投票のメカニズムを利用するものとしよう。
 これと似通った社会としては、石油採掘料だけが収入源であるような民主主義国が考えられる。
 まず頭に浮かぶことは、この3億円の所得が「公平」に配分され、各人は全体の15分の1、つまり年々2,000万円を受け取るものとすればどうか、ということだ。
 しかしこの結果は不安定なものになる。投票者の過半数は自分にもっと有利な、別の配分方式を支持すると見られるからで、その意味において不安定になる。ここで万人が限りなく「貧欲」であるという想定を思いでしてみよう。各人が2,000万円を受け取るような配分は、少なくとも8人、つまり過半数の人間の取り分がさらに増えるような別の配分によって阻止されるであろう。
 例えば第1氏から第8氏までは結託して、そのメンバーの間で全所得を8等分するが、結託に加わっていない有権者には何もやらない、という風に定めた法案を支持するだろう。第1氏から第8氏までは1人当たり 3,750万円を得るが、第9氏から第15氏までは何ももらえない。明らかに、この結果は多数派連合のメンバーにとっては好ましいものだ。またこの結果をもたらしたやり方は集団的意思決定のルールの枠内におさまっている。
※                     ※                      ※
 この例では、誰が多数派連合のメンバーになるかわからない。第1氏から第8氏までとしたのはまったく恣意的で、8人の顔ぶれはどうでもよかった。多数派の8人と取り残された少数派の7人との区別は、「男と女」でも「年寄りと若者」でも「キリスト教徒とイスラム教徒」でも「巨人ファンとアンチ巨人」でもよかった。
 このモデルをうまく使うには、人間がきわめて貧欲であると想定する必要はなかった。恐怖を持ち出してもよかった。今一度、各人が2,000万円を得るような「公平な」解決を考えてみよう。「自分はこの解決策に満足して、自分たちの所得を引き上げようとする連合には加わる気持ちはない」としてもよい。他の人もみな自分と同じだ、という確信さえ持てばそうなるだろう。しかし、自分の知らないところで結託が出来つつある、という恐れがあれば自分もその結託に加わる。のけ者になれば所得をすっかり失うからだ。
 第1氏から第8氏までの連合ができたとして、それが安定するかどうかはメンバーの先見の明の程度による。第9氏から第15氏までの立場を考えてみよう。所得がゼロになる位なら、例えば第8氏を引き離し、「3,750万円よりも多く支払うから」と言って、第1氏から第8氏までの連合を分断しにかかるだろう。例えば第8氏に9,000万円を支払うことにして、新しい配分方式を支持する新多数派連合を結成しようとする。この新方式では第1氏から第7氏まではゼロ、第8氏は9,000万円、第9氏から第15氏までは3,000万円を手に入れるわけだ。第8氏がこの申し出を受けるかどうかは、彼がこの後起こることをどう予測するかにかかっている。第2の連合が存続する保証があれば第8氏はこの申し出を受けるに違いない。 何しろこれによって第8氏の所得は大幅に増えるからだ。しかしそうなるとは限らない。第2の連合は第3の連合によって破られる可能性があるからだ。
 第3の連合は第1氏から第7氏までと、あと一人、第9氏から第15氏までのグループの中の誰か(これは誰でもいい)が一緒になったものだ。あるいは、第9氏から第15氏までが、第1氏から第7氏までのグループのうちの誰かを選んで第8氏と置き換えてもよい。
 このグループは誰もが、連合から締め出される位なら少ない分け前でも良いから連合に加わろうとする。実際、人々が所得が増えるならいつでも新しい連合に加わろうと考えている限り、およそ安定した連合などありえないことがわかる。どの連合も新しい連合には敵わない。後者においてはどのメンバーも以前より恵まれた状態になることが可能なのだ。
※                     ※                      ※
 こうした仮定によれば、投票は無限に続き、民主政治は崩壊する。なぜなら、ここにはすぐ次の投票でひっくり返されるこののないような配分方式がないからだ。
 もしも第8氏が以上のプロセスを理解すればいかに多額のものを手依拠油しようと言われても、第9氏から第15氏のグループには加わらないだろう。というのは、第8氏は自分が第2ラウンドで提供されたものはやがて保持できなくなり、自分の変節の最終的な帰結として、今度は自分が参加できるかどうかわからない新たな連合がするか、所得を割り当てるための投票メカニズムがまったく失敗に終わってしまうか、このいずれかであることを知っているからだ。
 そこで第8氏は第9氏から第15氏までの申し出を拒否する。そして投票メカニズムは考えられる唯一の安定した結果をもたらす。すなわち辛うじて多数を占めた連合が全所得をそのメンバー間で分配し、アウトサイダーは何ももらえないという割り当て方式がその安定した結果になる。連合のメンバーの間では所得は平等に分配される。各人は、もし自分だけが高い所得を得ていると、たのメンバーが自分を入れ替える気になるだろう、ということを承知しているからだ。
 こうして一つの結果に到達する。これは驚くべきものであるかもしれないが、およそ魅力的でないことは確実だ。かりに国民所得の割り当てを多数決原理で決定するとして、すべての人は自分の身がどうなるかとは無関係に投票の結果を甘んじて受け入れる用意があるとすれば、半数弱の人々は所得を奪われるというのが唯一の安定した結果になる。
 話はまだ続く。多数決原理による所得の割り当ては、この例のように、魅力的なものではない。だとすると、「誰もが投票の結果を受け入れる」という大前提は正しくないに違いない。少数派は結局自分たちを縛る割り当て方式を拒否する。そして、多数派が少数派をもっと優遇する気を起こすように、あらゆる手段を動員するだろう。このモデルには圧力をかけるためのメカニズムがまだ含まれていないが、それを可能にするモデルの拡張を想像してみるのも難しいことではない。レントシーキングという言葉を使って、市場のメカニズムによらない所得政策を考えてみると、ここでの例――多数決原理による所得政策――の話の続きが見えてくる。 そして、投票を分析しているうちに、多数決原理は泥沼に入り込んでしまう。
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<高額所得者から一般人への所得再分配> 経済学では問題点をハッキリさせるために、単純化されたモデルをよく使う。それは非常に単純化されたもので、「財がリンゴとミカンだけの2財しかないと仮定して考えてみよう」とか「日本が中国との貿易で、ネジを輸出し、ネギを輸入し、これだけの取引をしているとしよう」とか「消費者は自分の判断によって、合理的な消費行動をとる」など、実際にはあり得ない様な状況を仮定する場合もある。このため「経済学者は現実を知らない」と軽蔑する人もいる。そうした、抽象化されたモデルを認めない考え方は、上記の例で言えば、いつまでも多数化工作を考えているうちに話の筋が迷宮入りして、問題点が何であるのか?分からなくなってしまうようなことだ。
 さて上記の例はこうしたモデルであって現実にそのようなことが起こるかどうかはわからない。そこでもう少し実際に起こりそうな状況を想定してみよう。
 日本で次のような税制が提案されたとしよう。「課税所得1億円以上の人には所得税50%を適用。1億円未満の人の税率は20%とする」との所得政策が提案されたとしよう。はたしてこれは可決されるだろうか?
 直接民主主義を主張する人たちの「国民投票」を実施したら、この提案は可決されるだろうと思う。有権者は自分にとって得か?損か?を考える。得だと考える人の方が多ければ可決される。この場合は可決されると思う。では、これが国会で審議されたらどうだろう。採決までに多くの参考人が意見を表明するだろう。そして最終的に採決となる。この場合は「否決」されると思う。 有権者は自分の損得勘定に従って投票する。国会議員は、それでも自分の損得勘定だけでなく、日本国にとってなにが良いか?を考える人もいる。少なくとも、「自分の損得勘定ではなく、日本の社会を考えて投票している」とのポーズはとりたいはずだ。従って、投票の仕方により結果は違ってくる。そして問題によっては直接民主主義――国民投票でない方が公正な結果が得られそうな場合がある、ということだ。
 ところでこの所得税制はどうだろう。上記多数派工作よりは現実的ではあると思う。そしてここでの問題は「累進課税とは公正と言えるか?」でもある。高額所得者から奪って低所得者に与えることの正当性はあるか?ということだ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<嫉妬は平等を求める> 今、3人の人間 A B C からなる社会を考えてみよう。3人が獲得する所得(又は富)は、それぞれ3 2 1 であったとする。これが変化して、4 2 1 となったとすれば、これは状態が「改善」されたことになるのか?それとも悪くなったと言うべきだろうか?
 この変化を簡単に、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )で表すことにしよう。 この社会の外にいる「公平な観察者」(アダム・スミスのいう impartial spectator )なら、これをある種の改善と見るであろう。なぜかと言えば、 B C の状態が現状のままである時、少なくとも1人、この場合は A の状態だけは改善されているのだから、この社会の状態は第三者から見て明らかによくなっている。社会全体の所得(富)も以前より増えている。
 これに対して、平等を何よりも重視する立場を観察者なら、もっとも恵まれない C に同情し、A や B ではなく、まず C の状態が改善されることに関心を示す。この場合は C の状態は改善されず、もっとも恵まれていた A の状態がさらに改善されて、この社会の所得な格差、あるいは「不平等」は一段と拡大されたことになる。そたがって、このような変化は、この社会の改善ではなく改悪である、というふうに主張するであろう。また、C は(おそらく B も)このような意見に同調して、格差の拡大を非難するであろう。当事者のこの非難には、嫉妬の情が含まれている。金持ちの A がますます金持ちになることは我慢できない、というわけだ。「他人の不幸は自分の幸福」という嫉妬の原理からすれば、 A( 3 2 1 )⇒( 2 2 1 )のような変化こそ「改善」になる。B も C も、A が貧しくなったことを愉快とし、満足を覚え、したがって社会は「穏やかな気分」に満たされることであろう。社会の」全所得は 6 から 5 に減ったけれども、格差は縮まり、より平等化したのであるから、この方がよい、というわけなのだ。孔子の「寡(すく)なきを患えず、均しからざるを患う」という言葉も、このような「貧しくても平等な方がよい」という立場を表明したものと言える。
 しかし誰の肩ももたない「第三者的な」観察者は、このようなAのような変化を「改善」だと見るだろうか?嫉妬で足を引っ張り合う愚かな人々の「自己満足」を嗤うのではないだろうか。
 それでは、( 3 2 1 )という状態を、政府が強制的に修正して、B( 3 2 1 )⇒( 2 2 2 )と完全に平等化したとしよう。もとの状態が、能力、努力、運によって決まった「ゲーム」の成績であったとすると、政府が「再分配政策」によって結果を平等化したことになる。C はこのような平等化を歓迎する。A はもちろん不満を唱える。再分配は「ゼロサム・ゲーム」であるから、ある人が追加分をもらって喜ぶ反面、他の人は自分の取り分を削られて怒るという結果になる。現状のままに放置される B は、ここでは「優遇される」C を嫉妬するに違いない。このような平等化を「公平な観察者」はどう評価するだろうか?ややシニカルに、「それがあなたがたの総意なら、やむを得ないでしょう」と言うかもしれない。そしてさらに、 「それにしても、ゲームの結果をあとから政府の手で平等化するのでは、そもそもゲームをした意味はありませんね」という感想を付け加えるかもしれない。
 ところで、この社会の総意という点について、次のようなことが言える。
 今、社会が( 4 1 1 )のような状態になっているとしよう。この社会で「多数決による総意」を決めることにすれば、B と C が平等化に賛成し、A は反対して、結局「恵まれない多数」の言い分が通ることになる。つまり多数の貧者は少数の富者から奪うことによって、自らの状態を改善することができるのだからだ。
 このように、「多数決原理」を採用した再分配が何をもたらすかは、考えてみるとかなり恐ろしいことだ。それは論理的には「多数の貧者による少数の富者の収奪」という帰結をもたらすしかない。これを「民主主義の恐ろしさ」と見るか、それとも「民主主義こそ平等化をもたらす、民主主義万歳!」と自賛するか、これは立場と価値観の違いによって決まる。「公平な観察者」は多分、「このような平等化を追求する民主主義は、社会主義に行き着くほかない」というコメントを残すであろう。
 むしろ不思議なのは、現実の民主主義がこの平等化をそれほど徹底して追求するわけでもなく、「金持ちの収奪」を経て社会主義の道を歩むわけでもない、という事実の方だ。実はここに「民主主義の知恵」がある、と言うべきではないだろうか。民主主義は平等だけを追求して社会主義に至るとは限らず、人々が競争しながら自立して自由をできるだけ保障しようとしている。そして代表者を投票で選ぶ方式の民主主義そのものが、きわめて競争的なシステムと言える。民主主義は、結果をどこまでも平等化すべきだという思想だけに引き回されているわけではない。このように「差別原理」と呼ばれる考え方は必ずしも多くの国民に支持されているわけではない、ということだ。(「経済倫理学のすすめ」から)
 中国では、@( 3 2 1 )⇒( 4 2 1 )の政策をとっている。それに対して、地上の楽園では( 3 2 1 )⇒( 2 1 1 )の政策、ポル・ポト支配のカンボジアでは( 3 2 1 )⇒( 1 1 1 )の政策。中国以外は、どちらも「寡なきを憂えず、均しからざるを憂う」という感情を尊重した政策でジニ係数は低下する。「貧しくとも、周りの皆も同じように貧しいなら、それは平等、ということでとても良いことだ」ということでこの政策を支持する人もいるようだ。
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<累進課税に代わる税制はあるか?> 上に挙げた例は市場のメカニズムによらない所得配分だ。市場のメカニズムゆだねていれば所得格差は生まれる。それを是正するために所得再分配政策をおこなう。その具体的なのが累進課税だ。所得の多い人は税率も高い。つまり、いっぱい稼ぐ人は「累進課税」とよばれる「罰金」を払うことになる。
 収入を基準に課税すると累進課税が採用されやすい。上記2つの例からも、「高額所得者には高い税率を課す」税制は支持されやすい。ある程度の累進制を認めながら新しい税制を考えるとしたら、それは「負の取得税」と「支出額に応じて課税する」消費税になる。 負の取得税に関しては「新春初夢、30年後の日本経済(前)」<新しい所得税法>▲で書いたのでここでは省略して、消費税について触れよう。現在5%の消費税を変更し、消費税10%とし、9%は今まで通りの国の収入とする。1%は国連に贈与し、「発展途上国、最貧国のインフラ整備に使ってもらう」との方針を打ち出すことだ。豊になった日本国民、そろそろ「ノブレスオブリージュ」を意識してもいい頃だと思う。
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<ビルトイン・スタピライザー> 累進課税はしかし上記とは違った観点から見ることができる。そのキーワードは「ビルトイン・スタピライザー」。どういうことか?少し引用しよう。
 現代の主要先進国の経済には、景気変動を和らげる自動安定化装置(ビルトイン・スタピライザー)が組み込まれている。自動安定化装置とは、景気の変動を自動的に抑制する機能のことをいう。
 たとえば、所得税はその税率が累進的であるために、好景気を反映して人々の所得が増加すると、所得税納税額は所得の増加率以上に増加する。したがって、所得から所得税などを控除した可処分所得の増加が抑えられるため、その中から支出される消費の増加も抑制される。これによって総需要が拡大し過ぎて、物価が上昇することをある程度押さえることができる。
 逆に、不況やデフレの時には、累進所得税制の下では、所得税納税額は所得の減少以上に減少する。したがって、可処分所得の減少が抑制されるため、消費の減少も抑制される。 これによって、不況の進行をある程度抑えることができる。
 他方、法人所得は景気の善し悪しによって大きく変動する。しかし、法人税率は比例もしくは段階税率であるので、税引き後の法人所得は税引き前の法人所得のように大きく変動せず、より安定的になる。法人企業の投資は、その収益である税引き後の法人所得が大きくなれば増加し、小さくなれば減少すると考えられる。したがって、好・不況による税引き後の法人所得の変動が和らげられれば、投資は好況期にはその増加率が、不況期にはその減少率が、それぞれ抑えられ、景気の過熱による物価の上昇や、総需要の減少を原因とする不況の進行に歯止めをかけることができる。 (「マクロ経済学を学ぶ」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『民主主義の破産』 ”公正のシステム”は存在するか ダン・アッシャー  竹内靖雄訳 日本経済新聞社 1982. 8.24
『経済倫理学のすすめ』                         竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『マクロ経済学を学ぶ』                        岩田規久男 ちくま新書   1996. 4.20
( 2004年5月17日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(4)囚人のジレンマ
<囚人のジレンマのもともとのストーリーは?> 多数決とか投票制度というと政治学の分野のように思われるが、経済学者が扱う例が多い。厚生経済学とか公共選択の分野に登場する。そしてこうした問題の次にはよく「囚人のジレンマ」が登場する。そこでここでも多くの例にならって「囚人のジレンマ」を扱うことにする。
 囚人のジレンマは、もともとは、ランド研究所のフラッド(M.M.Flood)と(M.Dresher)が行った2人ゲームの実験に、同じランド研究所にいたタッカー(A.W.Tucker)がわかりやすいストーリーを付けたものです。その後、いくつかの変化があり、現在では大体次のようなストーリーが一般的になっています。
 ある強盗事件を起こした2人の容疑者が、軽い窃盗容疑で逮捕され別々に検事の取調を受けています。検事は、強盗事件の方はまだ十分な証拠をつかんでいませんが、窃盗容疑については十分に起訴できる状況にあります。
検事は、2人の容疑者にそれぞれ、強盗事件について「黙秘する」「自白する」の2つの選択があることを伝えます。さらに、次のように伝えたとします。「もし、2人とも強盗事件について黙秘を通せば、窃盗の罪だけでそれぞれ2年の懲役刑を受ける。2人とも自白すれば、強盗の罪でだけでそれぞれ10年の懲役刑を受ける。 もし、1人だけが自白した場合には、自白した方は、「共犯証言」の制度により刑を減じられ1年の懲役刑ですむが、逆に、自白しなかった方は15年のより重い懲役刑に処せられる。そして、このことはもう1人の容疑者にも伝えられている」共犯証言というのは、共犯者の1人が自発的に証言すると減刑されるというアメリカの制度です。
表X 囚人のジレンマの利得行列
A\B 黙 秘 自 白
黙 秘 2年,2年 15年,1年
自 白 1年,15年 10年,10年

 2人の容疑者それぞれに「黙秘する」「自白する」という2つの選択肢があり、自分の選択だけでなく相手の選択によって結果が変わってしまいますから、この状況は2人の容疑者の間のゲーム的状況になっています。別々に取調べられていますから、もちろん相談することはできませんし相手がどのような行動をとったかも分かりません。
 2人の容疑者はいずれも刑に服する期間をできるだけ短くしたいと考えていますから、利得は自分が刑に服する期間で、それをできるだけ短くすることが2人の容疑者の目指すところです。2人の容疑者をA、Bとしますと、利得行列は<例X>のよいに与えられます。
 2人の容疑者にとって刑はできるだけ短いほうが好ましいですから、A、Bともに、「自白する」は「黙秘する」を支配します。したがって、2人の容疑者の合理的な行動はいずれも「自白する」で、合理的な行動の結果2人の刑期はともに10年になります。ともに黙秘していればお互いに2年の刑ですんだのにもかかわらず、それに比べてかなり長い期間刑に服することになってしまいます。
 これが、囚人のジレンマのストーリーです。(「ゲーム理論入門」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<指揮者とチャイコフスキーのジレンマ> 同じ理論でも説明の仕方によってとても親しみやすくなることがある。それは「物語性」があるかどうか?という点にある。「囚人のジレンマ」もこのような話のもって行き方にすると、話が生き生きとして面白くなる。
 スターリン時代、あるソ連のオーケストラ指揮者は演奏会場へ移動する電車の中で、その晩に指揮する曲の楽譜に目を通していた。2人のKGB職員がそれを見つけ、楽譜の中に何か秘密暗号があるのではないかと疑い、彼をスパイとして逮捕した。 彼は単なるチャイコフスキーのバイオリンコンチェルトだと抗議したが受け入れられなかった。監獄での2日目、取調官が入ってきて言った。「全部しゃべった方がいいぞ。あんたの友だちのチャイコフスキーも俺たちに捕まって、もう喋り始めているぜ」
 こうして「囚人のジレンマ」という最も有名な戦略ゲームの話が始まる。論理的な結論まで話を進めてみよう。KGBは名前がチャイコフスキーというだけで逮捕した別の男に対し、指揮者に対するのと同様の尋問を別の部屋でおこなう。もし、この無実である2人ともが尋問に耐えたら、両者とも3年の投獄を命ぜられる
(注1)。もし指揮者が共犯者がいるという嘘の自白をし、チャイコフスキーはなんの自白をしなければ、指揮者は1年の刑(とKGBの感謝状)で済まされ、チャイコフスキーは反抗的であったとして25年の刑になる。反対に、指揮者が自白しないでチャイコフスキーが嘘の自白をすれば、投獄期間は逆になる。また、2人とも自白すれば、両者とも10年の刑となる (注2)。
表Y 指揮者とチャイコフスキーのジレンマ
指揮者\チャイコフスキー 黙 秘 自 白
 黙  秘 3年,3年 25年,1年
 自  白 1年,25年 10年,10年

 (注1)ソ連の刑務所の笑い話。新しく刑務所入りした者が服役中の囚人から質問された。「お前の刑期は何年だ」「10年だ」と答えた。「何をやったんだ」「何もやってねえよ」「それじゃ、手違いがあったんだろうな。何もやってない場合は3年のはずだからな」
 (注2)実際には3653日の禁固となる。「3日間の追加はうるう年のためだ」(ソルジェニーツィンの「イワン・デニソヴィッチの一日より」1962年)
 さてここで指揮者はどう考えるか。チャイコフスキーは自白するか、しないかのどちらかである。彼が自白したことを前提とすると、自分は自白すれば10年、しなければ25年の刑になるから自分は自白した方がよいことになる。チャイコフスキーが自白していないことを前提とすれば、自分は自白すれば1年、しなければ3年の刑になるからやはり自白したほうがよい。したがって指揮者にとって自白することが最善の行動となるのは明らかである。
 KGBのあるジェルジンスキー広場の別の部屋では、チャイコフスキーも同じことを考え、同じ結論に達した。要するに、両者とも自白したのである。後に彼らが収容所で出会い、お互いの話を比べてみたとき、自分たちの失敗に気がついた。2人とも自白しなければ、もっと短い投獄期間で済んだのだ。
 もし尋問される前にお互いが会って話をする機会さえあれば、2人とも自白しないことを申し合わせることができたとも考えられる。しかしながら、早晩このような合意はあまりうまくいかないことがわかるだろう。いったん、彼らが別室に別れて尋問が始まると、相手を裏切って短い禁固で済まそうという自分勝手な考えが魅力を増してくる。彼らが再び収容所で会うとき、やはりお互いの裏切りをかみしめる結果となるだろう。果たして、お互いにとってより良い結果を生むような信頼というものを達成することはできるのだろうか。
 多くの人々、会社、さらには国家までが囚人のジレンマに直面している。生死にかかわる問題である核兵器コントロールについて見てみよう。超大国はお互いに自国は有事に備え核を兵器庫に保持しつつ、相手国が核保有を放棄することが最も良い状態と考えている。相手国が保持して自国が放棄することが最悪の状況である。したがって相手国の出方がどうであれ、自国は核を保有するほうがよい。 しかしながら両国が共同して同時に核を放棄することができれば、両国が保有するばあいより良い状況だと考える点では一致している。問題は意思決定の相互作用であり、両国にとって最終的により良い結果を得るためには、それぞれの国は個別にはより劣る戦略を選択しなければならない。それぞれの国にとって協定を破り密かに核を保有するするのが魅力的である以上、共同してより良い結果を生むことは難しい。もっともこの問題は、最近、ソ連の考え方が核兵器放棄に向かいつつあることで解決の端緒が開かれつつある。
 囚人のジレンマの話は、有用な一般的なポイントを含んでいる。それは大部分の経済的、政治的あるいは社会的なゲームはフットボールやポーカーのような、一方の得点は他方の失点となるゼロサムゲームとは違うといいうことだ。囚人のジレンマのようにともに自白するよりはともに自白しないほうがよいというケースでは、両者の利害が衝突する面と一致する面が同時に存在している。また、経営者と組合の交渉では、一方が低い給与水準を望み、他方が高い水準を望むという点では利害が衝突するが、交渉決裂によりストライキに入れば両者とも損害を被るという点では利害が一致する。 実際このような状況は特殊な状況ではなく、むしろ一般的である。ゲーム理論により、利害関係の衝突と一致のミックスを分析することもできる。ゲームの相手プレーヤーは「敵」と表現されるが、場合によっては敵が味方になることもある。 (「戦略的思考とは何か」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<アインシュタインの比較優位> 経済学には経済学独特の語法があって、これに馴れていないと参考書を読むのが辛くなる。専門の語法ではなく、一般の言葉で書かれていると普通人でもすらすら読むことができる。経済学者は経済問題の宣教師であって欲しい。それには経済学語法ではなく、一般人語法で書かれた経済学専門書があって欲しい。同じ「囚人のジレンマ」を扱っていても、「指揮者とチャイコフスキー」は経済学語法ではないので分かりやすい。 少し前に扱った「比較優位」、これに関して分かりやすい文章があったので、ここに引用することにしよう。
 いま、アインシュタインが彼の弟子といっしょに仕事をしていたとします。仕事は2種類の作業に分けることができ、ひとつは理論的な構造について考える創造的作業、もうひとつは論文をタイプしたり資料を整理したりする補助的作業であるとします。この2つのどちらの作業も、研究上欠かせないものとします。
 いま、アインシュタインは、どちらの作業に関しても弟子よりも有能であったとします。たとえば、能力を仕事のスピードで測れるとして、アインシュタインは創造的作業に関しては弟子の5倍、補助的作業に関しては弟子の2倍のスピードで仕事を完了することができるとしましょう。この場合、アインシュタインは、作業を全部自分でやってしまって、弟子にはなにも任せないほうがよいのでしょうか。また、弟子はこんなに優秀なアインシュタインと一緒に作業するのでは、アインシュタインに搾取されるばかりなので、ひとりで別に研究したほうがよいのでしょうか。
 もちろん、答えはは否です。アインシュタインも弟子も1日24時間という時間的制約に縛られています。したがって、この時間的制約のもとで最大限の成果をあでようと思ったら、両者が協力して分業したほうがよいのです。この場合、アインシュタインは創造的な仕事をさせれば、補助的な仕事の2.5倍の仕事をするのですから、アインシュタインは創造的な仕事に特化し、それを補うため弟子が保持的な仕事を行えばよいのです。
 このような状況のとき、アインシュタインは創造的仕事に「比較優位」があり、弟子は補助的な仕事に比較優位があるといいます。国際貿易における比較優位とは、ここでの2人の人物を国に置き換え、2つの作業を産業に置き換えることでそのままあてはまります。 (「入門 経済学」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ゲーム理論入門』                              武藤滋夫 日本経済新聞社  2001. 1.19
『戦略的思考とは何か』アビナッシュ・ディキシット、バリー・ネイルバフ 菅野隆・嶋津祐一 TBSブリタニカ 1991.10. 4
『入門 経済学』                               伊藤元重 日本評論社    1988. 1. 5
『囚人のジレンマ』フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン松浦俊輔 青土社      1995. 3.10
『はじめてのゲーム理論』                           中山幹夫 有斐閣ブックス  1997. 10
『ゲームの理論入門』チェスから核戦略まで   モートン・D・デービス 桐谷維、森克美訳 講談社      1973. 9.30
( 2004年5月24日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(5)アメリカ軍とパパラッチのジレンマ
<アメリカ軍とイラク情勢> 囚人のジレンマで使った行列式を今日的問題に当てはめて、少し遊んでみよう。世界の政治経済問題でもっとも大きな問題の一つ、イラク問題を考えてみることにする。
例Z 治安安定 社会混乱
米軍撤退  +2 ー1
米軍駐屯  +1 ー2
 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退してもイラク秩序が安定するのが一番いい。
◆ アメリカ軍が撤退して社会が混乱するのはー1。
◆ アメリカ軍駐屯して秩序が安定するのは+1。
◆ アメリカ軍が駐屯しても社会が混乱するのは最悪のー2。
◆ これはアメリカ、イラク、反米勢力などの関係者を除いた、一般的な見方。それぞれの当事者は違った見方をする。
<アメリカ軍とイラク国民のジレンマ>
アメリカ\イラク 親米的 反米的
 米軍撤退  ー1,ー1 ー2,+1
 米軍駐屯  +2,+2 +1,ー2
 この表は次のように読む。
◆ イラク国民が親米的であるときにアメリカ軍が撤退すると、イラク側の協力を生かせないのでアメリカはー1,イラク国民側もー1。
◆ イラク国民が反米的であるときにアメリカ軍が撤退すると、反米勢力の思うつぼなので、アメリカはー2,イラク国民側は+1。
◆ イラク国民が親米的であるときにアメリカ軍が駐屯すると、治安が回復し、アメリカは+2,イラク国民側も+2。
◆ イラク国民が反米的であるときにアメリカ軍が駐屯すると、アメリカ軍駐屯理由が出来て+1,イラク国民側はー2。
◆ この表からは、アメリカ軍は駐屯し、イラク側はそれに協力するのが双方にとって利益がある、となる。ただし、この表のアメリカ駐屯、イラク反米的をー2 +2と考える人もいるかも知れない。 「駐屯するアメリカ軍に被害を与え、国際的な反米勢力を元気つけ、イラク人の自尊心を満足させる」との考えもあるかも知れない。そうすると結論は変わってくる。
<アメリカ軍と反米勢力のジレンマ>
アメリカ\反米勢力 安定協力 徹底抵抗
 米軍撤退  ー1,+2 ー2,ー2
 米軍駐屯  +2,ー1 +1,+1

 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退し反米勢力も治安安定に協力すると「アメリカはいない方がいい」で、アメリカはー1,反米勢力はアメリカがいなくなって秩序が安定したのだから一番理想的なので+2。
◆ アメリカ軍が撤退し反米勢力が社会を混乱させると「アメリカはイラクを見放した、無責任だ」で、アメリカはー2、反米勢力はアメリカがいなくなっても社会が安定しないのだから最悪のー2。
◆ アメリカ軍が駐屯し治安が安定するのは駐屯の効果があるのだからアメリカは+2、反米勢力はアメリカ軍駐屯が正当化されるので面白くないのでー1。
◆ アメリカ軍が駐屯し反米勢力が抵抗するのは、駐屯の意味があるのでアメリカは+1、反米勢力は抵抗の目的があるので+1。
◆ この表からどのような戦略が読みとれるか?アメリカ軍は反米勢力が抵抗した場合は駐屯した方がいい。反米勢力が抵抗を弱めた場合も駐屯した方がいい。そこでアメリカ軍は駐屯する。 反米勢力は、アメリカ軍が撤退するなら社会の安定に協力した方がいいのだが、アメリカ軍が駐屯するなら抵抗した方がいい。このようにどちらの戦略がいいか迷うのだが、アメリカ軍は撤退せず駐屯を続けるので結局は抵抗を続けることになる。そこでアメリカ軍はこのダラーオークションの泥沼から抜け出すのに苦労することになるだろう。
<パパラッチのジレンマ>
例] 治安安定 社会混乱
米軍撤退  ー2 +1
米軍駐屯  ー1 +2

 この表は次のように読む。
◆ アメリカ軍が撤退し、治安が安定すると被写体としてのアメリカ軍はなく、大手ジャーナリズムが活動し、パパラッチの出番がなくなる。平和で笑顔の生活の写真はパパラッチの被写体に似合わない。つまりイラクでは仕事がなくなるのでー2。
◆ アメリカ軍が撤退し、社会が混乱するとアメリカ軍に関する取材はないが、大手の入らない地方での特ダネ写真が撮れるかもしれない、少なくとも悲惨な被写体をファインダーに捉える機会はあるので+1。
◆ アメリカ軍が駐屯し、治安が安定するとアメリカ軍の写真は撮れても、大手も総力を挙げて取材競争になり勝ち目はない。ましてアメリカ軍と現地人との友好的な写真を撮っても、リベラルの多いジャーナリスト社会で名前を売るのは難しいのでー1。
◆ アメリカ軍が駐屯し、社会が混乱すると大手の活動出来ない地区で独占的に取材できる。人質になる危険性はあり、「自己責任」と世論の批判を浴びることになっても、政府は見捨てない。冬山での遭難救助費用に比べれば請求金額は少ない。それは日本の例を見れば明らかだ。外国人記者相手の記者会見で自分を売り込むチャンスもあり+2。
◆ パパラッチは民主制度、市場経済でこそ思う存分仕事をすることができる。独裁国、宗教政治国、社会主義国では働き辛い。「共生」とか「棲み分け」などの言葉を大切に信仰する社会では、蔑まされ肩身が狭い。 言論の自由が保障されている民主制度では、「報道の自由」とか「読者の知る権利」とか「権力側からでない、民衆側、弱者の立場からの報道」との大義名分を掲げ、自分を叱咤する。実は自分の生活費稼ぎであっても、こうした名目のためプライドを満足させる。これはいいことなので、こうしたプライドさえ失ったら、スクープ写真をネタに脅し、タカリに走ることになる。 そして、「こうしたパパラッチが狙っている」という意識が当事者にあれば、「ヤバイことするとパパラッチに撮られる」と思いヤバイことへの抑止力になる。ちょうど「消費者を裏切ってヤバイことすると結局は損するよ」と同じ状況だ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<誰もが合理的な判断をするのか?> 上の行列式はいろんな場合の利得を数字に表現したものだが、それを読んでどのような行動をとるか?つまり本当に自分にとって利益のある行動をとるかどうかは分からない。 経済学では「人々は合理的な判断に基づいて行動する」を前提に話を進めているが、イラン情勢に関しては、イランの人々が普通人の考える「合理的」な判断をするとは限らない。特に「自爆テロ」などは合理的な判断からは生まれて来ない。 それでもこうして書いてみると、立場によって評価が違う。情勢分析、撮るべき戦略にしても、対する相手によって違ってくる。アメリカの公式声明も誰を意識しての発言かによって違ってくる。上に取り上げた行列式を、すべて一つにまとめると立場による評価の違いが鮮明になるのだが、これは皆さんの楽しみ、ということでここでは扱わないことにしよう。興味を持った人はすべてをまとめた行列式を作って見て下さい。イラク問題の複雑さがさらによく分かるでしょう。
 ペンタゴンではこうした行列式を沢山作っているに違いない。アメリカ軍の経費、人的損失、世論、友好国との関係、etc. それならばアマチュアもそうした戦略を「趣味」として考えてみるのも「面白そうだ」との野次馬根性から、取り上げてみた。 しかしこれはアマチュアだから出来ることらしい。プロの経済学者は「ゲームの理論」も詳しいし、世界情勢にも関心があるはずだ。それにもかかわらず、こうした試みが発表されないのは、影響力の大きさと、間違った場合の社会的信用喪失とを考えて慎重になっているのかもしれない。 とは言え、日本に旺盛な「好奇心」と「遊び心」を持ったエコノミストがいないのは、なんともさびしいことだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『徳の起源』他人をおもいやる遺伝子       マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社   2000. 6.14
『囚人のジレンマ』フォン・ノイマンとゲームの理論 ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社   1995. 3.10
( 2004年5月31日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(6)小泉首相と金正日のジレンマ
<拉致家族帰国交渉のナッシュ均衡> 今、日本でゲームの理論を応用して面白いのは、小泉首相の北朝鮮訪問のこと。2004年5月22日の北朝鮮訪問と金正日との交渉、これをゲームの理論で考えてみよう。
 初めに、今回とは違った状況を設定して考えてみる。2004年5月、北京でアジアの安定と経済発展のための国際会議が開かれた。アジア各国の首脳が参加し、日本からも小泉首相が参加した。この会議に珍しく北朝鮮の金正日も参加した。 小泉首相の北京訪問期間は短かったが、中国政府の尽力により両首脳の会談が実現した。短い時間なので十分なやりとりはできず、お互いに主張を述べる程度に終わった。さて、そのような状況で両国はどのようなことを主張又は、約束しただろうか? その戦略を検討してみよう。それぞれ強硬策と融和策の2つ用意してどちらを提示するか?その内容は次の通り。
◆ 日本の強硬策 拉致被害者の家族8人全員を直ちに日本に帰すように。経済援助や人道的援助はこの問題が解決してから話し合うべきだ。
◆ 日本の融和策 25万トンの食料支援と1,000万ドル相当の医療品支援を行いましょう。当然拉致被害者家族の早期帰国を期待してのことです。
◆ 北朝鮮の強硬策 先ずもう一度共和国へ帰して、それから家族で相談すべきだ。わが国に対して世界各国からの支援がある。日本にも期待する。
◆ 北朝鮮の融和策 5人は帰しましょう。ジェンキンス氏は日本へは行きたくないと言っている。小泉総理が直接話してみてはどうでしょう。
表]T 日本と北朝鮮の利得行列
日本\北朝鮮 強 硬 策 融 和 策
 強 硬 策  ー1,−1 +2,ー2
 融 和 策  ー2,+2 +1、+1

 日本としては、食料・医療支援を約束しなくても拉致被害者家族が帰ってくるのが一番望ましい。北朝鮮は拉致被害者家族の問題をそのまま未解決にして、支援が得られればそれが望ましい。 そうした思惑で、この行列式を検討する。自国がどの政策を主張するのが得策か?ゲームの理論専門家を集めて検討する。それをアマチュアエコノミストが推理する。
◆ 日本の読みT 北朝鮮が強硬策に出た場合、日本は強硬策ならー1,融和策ならー2。
◆ 日本の読みU 北朝鮮が融和策に出た場合、日本は強硬策なら+2、融和策なら+1。従って日本は強硬策を採用。
◆ 北朝鮮の読みT 日本が強硬策に出た場合、北朝鮮は強硬策ならー1、融和策ならー2。
◆ 北朝鮮の読みU 日本が融和策に出た場合、北朝鮮は強硬策なら+2、融和策なら+1。従って北朝鮮は強硬策を採用。
 この場合のナッシュ均衡は、日本=強硬策、北朝鮮=強硬策となる。
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<小泉首相の訪朝は儀式だった> 専門家が十分に考えた戦略、しかし現実は両国とも融和策をとった。どうしてだろう?5月22日の短い時間での交渉で状況が変わったのだろうか?それほど両首脳に説得力があったのだろうか?違う!あれは交渉ではなかった。前もって結論は出ていた。これは、日朝両国外務官僚による「繰り返しゲーム」が行われた結果だったに違いない。 その結論を反対勢力に納得させるための儀式が必要だったのだ。「日本の小泉首相がわざわざ金正日将軍様に会いに来た」「会談は金将軍様の主導で進められた」「従ってこの会談の結果は我が共和国にとって利益のあるものである」こうしたことを北朝鮮国民、軍部強硬派にアピールするための「儀式」であって、だから川口外相ではこの「手打ち式」には軽すぎたのだ。
 この小泉訪朝による拉致被害者家族の帰国は官僚のお膳立てで実現した。首脳同士の決断による歴史の転換点では、1962(昭和37)年10月16日〜10月28日の ▲キューバ危機▲。そのときのケネディー大統領とフルシチョフ首相の英断。それと1972(昭和47)年9月25日〜28日、田中首相・大平外相と周恩来首相の会談による日本と中国の国交回復が頭に浮かぶ。 これらに比べれば首脳同士の英断、という点では見劣りがするようだが、国と国の外交交渉はこれでいいのだろう。首脳の個人的な力量に頼っていると、思いつき外交になったり、人気取り政策になったり、外交成果に波が出やすい。これからは事務方の知恵も十分生かした外交も必要になる。
 今回の小泉訪朝は官僚の書いたシナリオに対する手打ち式だった。しかし訪朝前にはそう思われていなかった。だから家族会からは不満が出たし、国会議員のなかにも、あれは金正日ペースの交渉だった、との批判も出る。民主制度を支えるものの一つ、情報公開=グラスノチスがある。ところが小泉訪朝は本当のところは発表されていなかった。だから「もっと時間をかけるべきだった」などの批判が出た。 民主制度の日本ではあるが、外交交渉に関しては秘密裏に進められることによって成果が出ることもある。ところが曽我ひとみさんとジェンキンスさん娘さんとの再会の場については、川口外相や中山内閣官房参与のパフォーマンスを見せようとの思いか、公開されることが多く、そのため、かえってチャチャが入って問題をややこしくしている。
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<ゲームの理論━━瀬戸際戦略> ゲームの理論では「囚人のジレンマ」から、ナッシュ均衡、繰り返しゲーム、ゲームの樹などと話が進んで行く。その先には「脅し」も登場する。そこで話がわき道のそれたついでに「脅し」について一つ経済学的に考えてみよう。
キューバ危機と北朝鮮
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核開発やミサイル実験などは、北東アジア全体の安全保障問題に大きな脅威となっています。これは今後大きく展開する可能性がある問題ですので、本書のような教科書で分析するには適当なテーマではありません。ただ、一連の報道のなかで北朝鮮の行為としてしばしば言及される瀬戸際戦略(brinkmannship)という用語は国際関係問題のみならず、経済現象でもときどき話題になる考え方です。
 瀬戸際政策、あるいは瀬戸際外交というのは、自らの危険も顧みず状況を危機的な水準まで持ち込むことによって相手の譲歩を引き出そうとする政策です。ゲーム理論の教科書でしばしば瀬戸際政策の事例として引用されるのは、1960年代はじめのキューバ危機です。 当時、キューバにミサイル基地をつくろうとしていたソビエト連邦の行為を抑えるため、アメリカのケネディ大統領は最悪の場合には両国間の核戦争にまで発展しかねないような危険があるにもかかわらず、非常に強硬な態度に出ました。結果的にはソビエトが譲歩したので事態は収まりましたが、たしかに一時的に世界は危機に直面していたといってよいでしょう。
 北朝鮮の事例に戻りますが、瀬戸際外交を行うことは、ゲーム理論的な表現を使えば、危機をあおるような行為にコミットすることで、相手側に譲歩せざるをえないような状況をつくっているのです。日米韓が譲歩しなければこの地域でたいへんなことが起こるという脅しで、北朝鮮は相手の譲歩を求めているのです。
 ただこうした瀬戸際政策がつねにうまくいくとはかぎりません。とくに、危機的な状況にまで持っていくことは、為政者の意思とは別のところで起きた突発事故的な動きで破滅的な状況にまでいくこともあるからです。北朝鮮の為政者があくまでも脅しで核実験やミサイル実験を行なっていたとしても、国境などに駐留する兵士の間の突発的な戦闘行為によって戦争が止められない事態にまで発展することだってありえます。また、脅しのつもりで行っていたことが、結果的に相手側の非常に過激な行為を誘発することだってありえます。 国際紛争問題がすべて合理的な行動のなかでコントロールされているわけではありませんので、瀬戸際外交は非常に危険な行為なのです。
(「ミクロ経済学」から)
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<金正日の脅しが効いている> 「我が共和国に対して圧力をかけるとどうなるか?考えたことはありますか?」「今でもわが国の軍部には米帝・日帝の横暴な態度に不満があります。私の力では抑えられなくなるかもしれません」「私の知らないところで第2の李恩恵(田口八重子さん?)が第2の蜂谷真弓=金賢姫(キム・ヒョンヒ)を育てるかもしれませんよ」「工作船を使って日本のヤクザとヤクの取引を始めたり、韓国沿岸に小型潜水艦を徘徊させたり、アフリカあたりの最貧国にミサイルを輸出するかもしれない。世界の警察を任じるアメリカはそのミサイルをとてつもない高額で買い取ることになるでしょう」 「軍人、警官の不満が高まって治安が保たれなくなると、難民が外国へ向かう。豆満江(図們江)を渡って脱北者が中国へ殺到する。渤海湾には日本へ向かうボートピープルが溢れる」「わが共和国に圧力をかけるとこのような暴走が起こるかも知れませんよ。よろしいんですか?」
 リビアが supported state for terrorism (日本語訳・ならず者国家) でなくなった今、金正日体制が存続すべきだとは思っていなくても、金正日のコントロールが効かなくなると怖ろしい。金正日の脅しは効いている。それに対する日本のカードは何か?脅しの材料はあるのか?経済制裁か? 特定船舶入港禁止法で万景峰(マンギョンボン)号の入港を制限するのが脅しになるか?
 違う!日本のカードは飴だ。1,000万ドル相当の医療品と25万トンの食糧支援。見たり聞いたりしても飴の甘さは分からない。一口舐めて分かり、一粒舐めてまた欲しくなる。これが日本の北朝鮮に対するカードになる。25万トンの食糧は先ず、軍人、役人、警官に支給されるだろう。庶民や収容所の人間に不満があっても金体制に影響はないが、軍人に不満が高まれば、金体制が瀬戸際に立たされ金正日の脅しが現実味をおびてくる。従って各国の危機管理担当者は支援食糧の行方を注目しながらも、北朝鮮政府を強く追求はしない。 ただし、どのようなゲームでも自分の手の内は相手に悟られないようにする。そこで、こうした政策は公表されることはない。
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<主な参考文献・引用文献>
『ミクロ経済学』 第2版                         伊藤元重 日本経済新聞社  2003.11.25
『「ゲーム理論」の基本がよくわかる本』                  清水武治 PHP研究所   2003.10.17 
『ゲーム理論で勝つ経営』 A.ブランデンバーガー&B.ネイルバフ 嶋津祐一・東田啓作訳 日経ビジネス文庫 2003.12. 1
( 2004年6月7日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(7)進化するゲーム理論
<価格競争のジレンマ、軍拡競争のジレンマ> 「ゲームのプレイヤーが、それぞれが自己利益追求を優先的に戦略を立てると、双方にとっての最良の結果を逃すことになりかねない」というのが囚人のジレンマだ。これが「指揮者とチャイコフスキーのジレンマ」であり「小泉首相と金正日のジレンマ」でもある。 さらに多くの例が考えられる。伊藤元重著「ミクロ経済学 第2版」を参考に考えてみよう。
表 ]T 保護貿易
軍備拡張
価格競争
強硬外交
自白
自由貿易
軍備縮小
価格協調
融和外交
黙秘
保護貿易、軍備拡張、価格競争、強硬外交、自白 ー1,ー1 +2,ー2
自由貿易、軍備縮小、価格協調、融和外交、黙秘 ー2,+2 +1,+1

◆ 囚人同士、指揮者とチャイコフスキー 2人の囚人の場合や、ソ連での指揮者とチャイコフスキーのケース。(4)囚人のジレンマ で扱った損得の数字とは少し違うが基本的には同じ。
◆ 小泉首相と金正日 この場合は官僚による交渉がくり返し行われていた。小泉首相は平壌での儀式に出席のための訪朝だった。
◆ 価格破壊競争 これはきびしい価格競争をしている2つの企業のケース。1つの産業のなかに少数の企業しかいなくて、お互いの行動を読みながら競争を行っている状況を「寡占」と呼ぶ。市場に1社しか供給者がいない「独占」と多数の供給者がいる「完全競争」の中間的な状況だ。 自動車メーカーを考えてもいいし、牛丼でもハンバーガーでもドーナツでもいい。2つの企業には、それぞれ価格を下げてきびしい価格競争を行うということと、価格を高めに設定して価格協調をねらうということの、2つの選択があるとする。
 もし2つの企業がともに価格を低く設定したら、どちらの企業も低い利益しか得られない。表の左上の欄のー1という利得は、このときの企業のそれぞれの利益を表している(もっとも、商品が低価格になるので、消費者の利益は大きくなる)。 もし一方の企業が価格を高めに設定しているとき、他方の企業が低い価格を設定したら、需要のかなりの部分が低い価格を設定した企業に向かうので、高い価格を設定した企業の利得はー2に、低い価格を設定した企業の利益は+2となる。表の左下と右上の欄の利得は、この状況を表している。 この表を表X、表Yと比べると両者は基本的にほとんど同じ構造であることがわかる。囚人のケースの「自白」という裏切り行為がここでの「価格競争」の対応し、協調行為である「黙秘」が「価格協調」に対応する。 「価格協調」は実際の社会では「談合」とか「価格協定=カルテル」になる。この場合企業同士の共通の利益は消費者の不利益になる。囚人のジレンマで言えば、2人の囚人が黙秘することは検察・一般社会にとっての不利益になる。
 囚人のケースと同じように、そして「指揮者とチャイコフスキー」のケースと同じように両企業は価格競争に走ることになる。このHPではあまり詳しく書かなかったが、囚人のジレンマでは多くの場合、結局、相手側を裏切る行為に走ることになり、両者が最大利益を逃すことになる。
◆ 米ソ軍拡競争 冷戦時代のアメリカとソ連を考えてみよう。両国にとって、軍備拡大するか、軍縮をするかの選択があるとしよう。両国が軍備拡大をすれば、両国の相対的軍事優位性は変わらないが、軍備の経済的負担のため、利得はー1という低い水準になる。 これに対して、もし両国とも軍縮をすれば、相対的な軍事優位性は変わらないが、軍縮のための経済的負担が低下するので、利得は+2と高い水準になる。
 もし一方が軍備縮小をしたとき、相手国が軍備拡張すれば、軍備バランスが崩れる。そのとき軍縮をした国は軍事優位性を失うためにー2という低い水準になるが、軍備拡大した国は利得を+2まで高めることができる。この例を「囚人のジレンマ」に対応させるなら、「軍拡」が「自白」に対応し、「軍縮」が「黙秘」に対応する。 このように、軍縮レースにおいても、他の例と同じように、ゲームの結果、各国は軍備拡張に走ることになる。ほんとうは、両国が同時に軍縮を行えばよいのだが、なかなかうまくいかない。ここでも囚人のジレンマが起こっている。
◆ WTO反対 「WTOの進める自由貿易は先進国の利益を拡大するだけで、発展途上国や最貧国の利益にはならない。むしろ、第3世界の国々の犠牲のもとにアメリカなど一部の先進国が利益を貯め込んでいる」との主張がある。WTO総会に抗議デモを行ったグループなど、「自由貿易反対」を叫ぶグループがいる。 先進諸国では自国の農業保護のために自由貿易に批判的な人がいる。農業関係者とその支持を受けている政治家、その周りにいる評論家、学者だ。たとえ保護貿易が自国に利益があるとしても、その利得はー1。すべての国が自由貿易になれば、すべての国が+1。この問題を考える場合は第1次世界大戦後、イギリス、アメリカなど戦勝国が保護貿易に走り、後発植民地主義国のドイツ、イタリア、日本が自給自足のため、自給地を広げようと軍事侵略を進めて行ったことを忘れてはならない。 この問題に関しては次のような表現もあるので、「つきあい方の科学」から引用しよう。
 協調関係の基本問題の好例として、2国間の貿易で関税障壁のある場合を考えてみよう。自由貿易は互いに利点があるので、障壁がない方が双方とも都合がよい。だが、一方の国だけしか障壁を撤廃しなかった場合には、撤廃した方だけが一方的に経済的打撃を被るはめになる。実際、相手が撤廃しようとするまいと、自国の障壁はあった方が得なのである。 したがって、どちらの国も障壁を撤廃しようとしなくなる。これは、両国が協調して撤廃した場合に比べて、ともに不利な事態に甘んじることになる。
(ただしこれは生産者側の見方。消費者にとっては障壁がない方がいい。そして総合的に判断しても自国の経済にとっては障壁を撤廃した方がいい。TANAKA1942bはこのように自由貿易を主張します)
 こうした問題は、それぞれが別々に自分の利益を追求すると、かえって両方とも損をしてしまう場合に生じる。この種の事情を抱えた状況はゴマンとあるが、それらをすっきりと理解するために、細かい部分にとらわれずに、共通点を反映した場面設定が欲しいところである。幸い、有名な「囚人のジレンマ」ゲームがうまく利用できる。 (「つきあい方の科学」から)
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<進化的に安定な戦略> ゲームの理論は政治・経済の分野だけでなく、生物学・進化論の分野でも使われている。同一種の個体同士が戦う場合がある。自分のテリトリーを守ろうとしたり、ハーレムを守ろうとしたり、あるいは目の前のエサをめぐって争うこともあるだろう。この場合も「強硬策」と「融和策」がある。徹底的に戦う姿勢を見せるか、あるいは諦めるか利益を半分づつにしようとするかだ。「戦えば勝つかも知れないが、自分も傷つくに違いない」「それでも相手が戦おうとするのは勝つ自信があるからなのだろう」 このように考え、独り言を言うことになるだろう。
 このひとりごとの例は、理論的にいえば、戦うべきか否かの決断に先立って、無意識かもしれないが複雑な「損得計算」がなされていることを示している。たしかに勝っても得をする場合もあるが、いつでも戦いにみあうだけの利益があるとは限らない。同様に、戦いの間、その戦いをエスカレートさせるか鎮めるかという戦術的決断には、それぞれ損得があり、それは原則的には分析可能なものであろう。このことは長い間エソロジストたちに漠然と認識されていたが、この発想を自信をもってはっきりと表現するに至ったのは、一般にはエソロジストとみなされていないJ・メイナード=スミスの力が必要であった。 彼は、G・R・プライスとG・A・パーカーとの共同研究で、ゲームの理論とよばれる数学の一分野を利用した。彼らのみごとな理論は、数学記号を使わずに言葉で表現することができる。ただし厳密さの点でいくぶん犠牲を払わねばならないが。
 メイナード=スミスが提唱している重要な概念は、
進化的に安定な戦略(evolutionarily stable strategy)と呼ばれるもので、もとをたどればW・D・ハミルトンとR・H・マッカーサーの着想である。「戦略」というのはあらかじめプログラムされている行動指針である。戦略の一例をあげよう。 (「利己的な遺伝子」から)
 このように進化論でもゲームの理論が使われているのだが、この文章の続き、「戦略」については「利己的な遺伝子」からの引用では長くなるので別の文献から引用しよう。
表]U
本人\相手 攻撃的 平和的
攻撃的 0,0 3,1
平和的 1,3 2,2

 動物社会は多数の個体からなり、各個体は遺伝によって、「攻撃的」タイプ、ないし「平和的」タイプに属しています。動物たちは森の中をうろつき、ときどき他の個体と出会います。これを抽象化して、数学的には単位時間内に他の個体のいずれかと等確率で出会うと仮定します。このような形で動物たちが出会う状況を(一様な)ランダム・マッチングと呼びます。
 ランダム・マッチングの下で、あるときある2匹が出会うと、表]Uにしたがって利得が決まると考えましょう。この利得は、プレーヤーたちの満足度というよりは、動物界における適応度(繁殖力)を示していると解釈します。例えば自分が「攻撃的」で相手が「平和的」の場合、本人の適応度は3になります(相手の適応度は表を読みかえて1となります)。たとえば、平和的な個体が平和的な個体とたまたま出会ったときは、両方とも適応度は2ですが、平和的な個体が攻撃的な個体と出会うと、平和的な個体は攻撃的な個体に力づくで獲物を奪われるので、平和的な個体の適応度(=1)は攻撃的な個体の適応度(=3)よりも低く設定してあります。 一方、攻撃的な個体どうしが出会うと、戦いの果てに生き延びる可能性は両方とも小さくなるので、適応度(=0)は低くなります。
 自身の適応度が相対的に高い個体ほど、自分の子孫をより多く増やすことができると仮定しましょう。このようなプロセスは「自然淘汰」と呼ばれます。自然淘汰の結果、どのような状態が生じるでしょうか。「平和的」タイプばかりいる状況は、攻撃的な個体にとって理想の環境です。実際、その時の個体の適応度はおよそ3です。 一方、平和的な個体が出会う相手もほとんど平和的なので、彼らの適応度はおよそ2です。その結果、しだいに「攻撃的」な個体が増えていくでしょう。しかし、「攻撃的」タイプばかりいる状況では、出会うと必ずお互いに傷つけあってしまうため(適応度は0)、みんな死に絶えてしまいます。ですから、ある程度攻撃的な個体が増えてくると、それ以上は増えにくくなるでしょう。それでは、どの程度増えると安定するのでしょうか。
 実は、表]Uの例では、「攻撃的な個体」が半分、「平和的な個体」が半分という分布が
進化的に安定であると言えます。この状態での両者の平和的な適応度は共に 1.5 になります(「平和的」:2X0.5+1X0.5、「攻撃的」:3X0.5+0X0.5)。ここから「攻撃的」が51%に増えると「平和的」の適応度が「攻撃的」のそれを上回る(「平和的」:1.49、「攻撃的」:1.47)ので、「攻撃的」の個体は減るでしょう。また「平和的」が51%に増えると「攻撃的」の適応度が上回る(「平和的」:1.51、「攻撃的」:1.53)のため、「攻撃的」な個体の数は増えるでしょう。 つまり、自然淘汰を通じてもとの分布に戻る圧力が働いているから、安定していると言えるのです。
 以上の分析は、生物学者メイナード・スミスとプライスによる
進化論的ゲーム理論の基礎をなすものです。進化論的ゲーム理論は生物界におけるゲーム的状況の分析に貢献しました。上記の議論で個体が思考する必要のないことに今一度注目してください。個体が合理的に思考しなくても、社会全体を眺めてみると意味のある結果をはじき出せること、それが進化論的ゲーム理論の魅力です。 (「ミクロ経済学」戦略的アプローチ から)
 アンドリュー・ブラウンはその著書「ダーウィン・ウォーズ 遺伝子はいかにして利己的な神となったか」をジョージ・プライスの自殺というドラマ仕立ての場面から筆を起こしている。この著者はプライス、ハミルトンそしてリチャード・ドーキンスとスティーブン・ジェイ・グールドについて独特の見方を展開している。
 「攻撃的」と「平和的」に関しては、マッド・リドレーがその著書「徳の起源」の中で「タカとハトの違い」という表現で、同じ立場から取り上げている。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『ミクロ経済学』 第2版                             伊藤元重 日本評論社   2003.11.25
『つきあい方の科学』 バクテリアから国際関係まで   ロバート・アクセルロッド 松田裕之訳 ミネルヴァ書房 1998. 5.20
『利己的な遺伝子』     リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店  1991. 2.28
『ミクロ経済学』 戦略的アプローチ                   梶井厚志・松井彰彦 日本評論社   2000. 2.25
『ダーウィン・ウォーズ』            アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松眞紀訳 青土社     2001. 5.15
『ダーウィン以来』 進化論への招待   スティーブン・ジェイ・グールド 浦本昌紀・寺田鴻訳 早川書房    1995. 9.30
『徳の起源』 他人をおもいやる遺伝子      マット・リドレー 岸由二監修/古川奈々子訳 翔泳社     2000. 6.14
( 2004年6月14日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(8)ソシアル・ジレンマ
<鳩ばかりでなく鷹もいる社会> ランダム・マッチングの下で鳩ばかりだったらどのような社会になるだろうか?とても平和な社会が予想される?そうだろうか?その社会に鷹が1羽入って来たらどうなる?ライバルがいないので鷹はやりたい放題。それを知って他からカラスやコンドルやハゲタカまでが侵入してくる。 どんどん鷹は増えてくる。平和だった鳩の社会はガラッと変わる。そしてある程度鷹が増えると、鷹同士が戦い、増えるのが止まる。ある程度の比率になったとき、バランスがとれ、パレート最適に似た状態になる。
 こうした考え方を人間社会に当てはめて考えてみる。「話せば分かる善意の人ばかりの社会」と考えると、社会制度が実現不可能な空想社会主義社会になる。社会問題を評して「人々の考え方が変わらなければならない」と言うのは、人々をマインドコントロール(洗脳)して、「平和的な鳩ばかり、価値観の同じ人ばかりの社会にしよう」と言うのに等しい。 「人々の考え方が変わらなければ」と言うのは、「私は正しい判断ができるが、国民の多くは判断力がない」との思い上がった態度なのだ。そして、鳩だけの社会はとても不安定で、少数の鷹に牛耳られて、デモクラシーそれ自体が破壊されてしまう。このような鳩だけの社会は雑種交配もなければ、F1ハイブリッドが生まれることもなく、雑種強勢は期待できず、自家不和合性に陥る恐れがある。 全会一致で物事が決まる社会はこうした意味でも歓迎すべき社会ではない。しょっちゅう右や左から批判と不満が出る社会、それが健全で、内部からの破壊活動や外部からの脅威に対して強い社会になる。
 ということは、右や左からいつも批判されているからといって、「良くない社会」とは言えない、ということだ。 こうした民主制度の下で一部のマスコミは、右や左からの批判を取り上げて政府を批判したり、危機感を煽ったりする。新聞も週刊誌もテレビ局も経営母体は株式会社だから利益追求は当然のこと。情報を印刷した紙(新聞、週刊誌、単行本)を沢山売らなければ社員へのボーナスが出せない。視聴率をとらなければクライアントから広告料がとれない。読者、視聴者、消費者はそうした仕組みを承知のうえで、マスコミの政府批判、社会評論、危機扇情を冷静に判断する。 このため一部の評論家は「これだけマスコミで取り上げているのに、国民はこの危機的状況を理解しない」「いま日本は、半世紀(ないし1世紀)に一度あるかないかと言っていいほど、大きな歴史の曲がり角を曲がりつつあるところだろうと思う」と危機感を煽る。かつて「贅沢は敵だ」と大本営が宣伝したとき、「贅沢は素敵だ」と後ろを向いて、ペロッと舌を出して言っていた日本国民、けっこう豊かなセンスがあって、このシブトサが日本の民主制度を支えているのだ。
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<すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点> ある政策のために政府与党が100億円の予算を付けようとした。これに対して野党は「10億円が適当だ」と言う。この場合予算はどうなるだろうか?100億円と10億円の間で政府案に近い70億円程度なら、与党も野党も納得するかも知れない。仮に70億円で予算が成立すれば、この70億円とは誰が主張したのだろうか?与党は100億円、10億円、どちらの主張でもない。 つまり誰も主張しない政策が実行されることになる。
 もしも100億円の予算が付けば、マスコミは「与党は独裁政治を行っている」「反対党、少数意見を聞こうとしない」と批判する。そうでありながら、この場合のような妥協策を採っていると「政府は公約を実行しない。すべてに中途半端な不徹底な政策しか実行しない」と批判する。 「全会一致で決まることの多い社会は不健全だ」とするならば、このような妥協案が採択されることは多くなる。常に両側からに批判者を抱え、不徹底な政策が実行されることになる。こうして、両側からに批判者に加えて、原理主義者からの批判も多くなる。「政府の政策は長期的な展望がない」「場当たり的な対応をしている」との批判が出る。しかし、こうした批判が出ない場合は、反対党、少数意見を全く無視した場合で、つまり独裁政治を行った場合になる。
 民主制度とは「すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点を求める制度だ」と言うのが適当な表現と言える。こうした曖昧な制度に不満を持つ人は多かった。そのために独裁者を選んだ事もある。強力なリーダーを待ち望んだことも、リーダーに多くの権限を与えすぎた事もある。一神教宗教のような単一倫理で国を運営しようとする場合もある。キリスト教、ユダヤ教、イスラム、マルキシズム、どれも一神教だ。それに対して日本には「八百万(やおよろず)の神」がいる。 「常に異端者がいる方が健全な社会だ」と考える制度は、日本のような一神教でない、絶対神のいない社会にこそ適している。デモクラシーは西洋から入ってきた制度だが「日本の社会に相性の言い制度」と言えるようだ。
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<ソシアル・ジレンマに対し功利主義的に対処する> 絶対神がいない社会では何をもって基本倫理とするか?聖書やコーランや資本論ではない何か?それは、それぞれの国で決めた憲法であり、その決め方は国民が選んだ制度による。そうした場合の倫理基準は、アダム・スミスの言う「公平な観察者はどう見るか?」となる。人それぞれ好きな宗教を信じ、好きな主義を主張し、それを認めながら全体でどうするか?結局多数決になる。 それはちょうど、市場で価格が形成されるのと似ている。時には「プライス・メーカー」がいる場合もあるが、基本的には「プライス・テーカー」が多く、いろいろな思惑がぶつかり合いながら決まっていく。それぞれの個人がそれぞれの将来像をもっていても、結局将来は「予想」でしかない。「政府はビジョンを示すべきだ」と言っても、それは政府のビジョンであって、必ずそうなる、とか、必ずそうする、とは言えない。 それは株価の予想と同じ。だれの予想が当たるかはわからない。
 民主制度とはこうした不確定要素が多く、将来は「予想」でしかないので、「もっとハッキリした将来像をもてる社会がいい」との意見も出るだろう。「何か、もっとハッキリした社会。それを見つけるために今の社会を壊すべきだ」との過激な意見も、表現の自由が認められる「民主制度」では主張することが認められている。 民主制度では民主制度を破壊する主張を表現することすら認められている。
 では民主制度に代わる、よりよき制度はあるのか?そしてそのためには暴力革命も正当化されるのだろうか?倫理とか正義という言葉は主観的・感情的なものであり、人によって立場によってその基準が違ってくる。そこで「感情」の問題を「勘定」の問題に置き換えて考えてみる。こうした経済学的手法とゲーム理論を組み合わせて論じているのに、ゴードン・タロック著「ソシアル・ジレンマ」がある。 「暴力革命はそれに参加する人にとってどれほどの利益と不利益があるのか?」「社会にとって暴力革命による社会がよくなることの利益と、そのためのコストとのバランスはどうなるか?」という面から論じている。つまり「暴力革命の損得勘定はどうなるか?」ということをゲームの理論を使って経済学している。
 ここでは、「紛争への資源投下が個人の立場からしばしば合理的ではあるけれども、社会の立場からは、まったくの浪費に導くこと」「他人からの移転を獲得するために、資源を投下することは、強盗、詐欺、謀略、法律制定の裏工作(レントシーキング)、戦争、デモ、暴力革命、あるいは、これらの行為に対する防衛といった形態をとるにしても、個人が、少なくとも一部の資源をこのような行動に投下するのは、通常は合理的と言える」「これがソシアル・ジレンマである」 「こうしたソシアル・ジレンマ、法に反する所得移転の裏工作、国際紛争、などを制御する効果的な手段は存在しない」このように話を進めて、最後の部分で次のように言っている。
 啓蒙主義の最も強い教義の一つは、人間の制度の完全性への信仰である。非常に多くの制度は、いつも、不完全な部分をある程度残しているというのが本書の主張である。それは単に、われわれが最善を尽くしたとしても、われわれの夢からほど遠いということを意味するものである。真実はわれわれを解放させてくれないが、それはわれわれの効率性を改善してくれる。もし、われわれがユートピアを求めることを放棄し、より謙虚な改良の追求に進めば、われわれは、真の改善を期待できる。 ユートピアを信じ続け、それがあたかも存在しうるかのように振る舞うことが意味することは、もっと現実的な世界観によって獲得しうるよりも、ずっとわずかしか手にしないであろうというということである。他の多くの領域におけるように、ここでも、最善を求めるのは改善の敵である。われわれが「紛争から解放される世界」という夢を捨て、紛争を理解し、制御する方向に向かうならば、われわれは、完全ではないけれども、それでも改善となるような世界を達成するであろう。 (「ソシアル・ジレンマ」 から)
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<民主制度と相性のいい市場経済> 民主制度と市場経済は似ているし、相性がいい。政治制度にもいろいろあるが、その中でもデモクラシー=民主制度は市場経済と相性がいい。民主制度で計画経済を進めようとすると無理がある。計画経済を進めるには大きな権力を持った政府が必要になる。計画経済では個人の政治的、経済的自由をある程度制限しないと進められない。 選挙での一人一票、という制度は市場経済での消費者の権利と似ている。では経済成長と政治制度の関係はどうだろうか?民主制度でなければ経済成長は望めないのだろうか?あるいは、民主制度になれば経済は成長するのだろうか?これは発展途上国、最貧国の経済を考えるとき問題になる。イラクは民主制度を採用すれば経済成長するか?中国は共産党独裁をやめて民主的な政治制度にすれば、更に経済は成長するのだろうか? ミャンマーが軍事独裁をやめて、アウンサンスーチー女史グループに政権を移譲したら、国民の生活は豊かになるのだろうか?
 1989(平成1)年6月4日未明、天安門前広場に集まったデモ隊を人民解放軍が武力鎮圧。中国政府は事件で319人が死亡と発表。これを「天安門事件 」と言う。 後に、ケ小平はカーター元大統領に対して次のように語り、自らの民主化に対する考え方を示している。
 「人々はよく民主をアメリカと関連させるが、われわれは貴国の丸写しはしない。理解していただけると思う。もし中国で多党選挙や三権分立を行えば、必ず混乱になる。中国の主要な目標は発展であり、貧困から脱却することだ。これの前提は政治局面の安定なのである」
 もし、あの時点で趙紫陽が民主化を認めたら、共産党以外の政党が認められたら、これほど急激な市場経済化は進まなかった。「市場経済は弱肉強食だ」「福祉政策を充実させるため政府は所得政策を行うべきだ」などが主張され、「改革・解放は大胆に進めるべきだ」が支持されなかったろう。「たとえ貧しくとも、皆が同じで、格差が少なければそれがいい」が主張され、これほど急激に豊になることはなかった。未だに遅れたアジアの象徴であったに違いない。
 シンガポールは建国以来リー・クアンユーの人民行動党が政権を担い、それは独裁と言えるものだ。そして韓国、軍事政権=朴政権時代に経済は大きく成長した。アジアではフィリピンとインドが比較的民主的な国家と見られるが、両国とも経済面で他のアジア諸国と比べると見劣りがする。むしろ「開発独裁」と言われる制度の方が経済は成長してきた。民主制度は経済成長にとっては、必ずしも最適の社会システムではない場合もあるようだ。 そして、このように多くの欠点を持ちながら、それでも、デモクラシーが「今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と言えるように、市場経済も多くの欠点を持っているけれども、「今まで存在したいかなる経済制度よりもましな制度」であり、「市場経済とは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、資源の最適配分と、人々の働く意欲を刺激するするための功利的な制度なのである」とも言える。
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<デモクラシーと経済成長>  ハイチやソマリアにも民主主義が必要だと聞けば、なんの異論もないように思うが、はたしてそうだろうか。政治の自由度が増せば、経済の自由度も増し(私有財産権が確立され、自由市場が発達し)、経済成長に拍車がかかるだろうか?生活水準がどれほど低くても、民主的な制度は確立できると言いうるのだろうか?歴史を振り返ってみれば、たとえ不快であるにせよ、こうした疑問に対する答えはかなりはっきりしている。国民の政治的権利が拡張しても、経済成長に大きな影響はない。逆に、広い意味での生活水準が上がってくると、政治の自由度が増してくることが多い。 貧しい国で芽生えた民主主義は、長続きしないことが多く、外部から押しつけられた場合はとくにそうだ。
 民主化が経済成長に与える影響は、よくわかっていない。ミルトン・フリードマン(『資本主義と自由』)など、政治と経済の自由は相互にプラスの影響を与えると主張する人たちもいる。政治的な権利が拡張すると、すなわち民主化が進むと、経済的な権利が確立され、経済成長が刺激されるという見方である。
 しかし、民主主義には、経済成長を阻害する性質があることも、しばしば指摘されている。民主主義においては、富める者から貧しい者に所得を再分配する社会政策を、多くに人が求める傾向がある。累進課税、土地改革、福祉政策などがそうだ。そうした政策が望ましい場合もあるが、最高税率の引き上げなど、歪んだ政策がとられれば、投資や勤労の意欲が損なわれ、経済成長が抑えられることは避けられない。
 代表制民主主義にはもう一つ、経済成長を損なう性質がある。それは、農民、環境保護団体、軍需産業、身体障害者などの特別利益団体が強い政治力を持つことである。こうした団体は、自分たちの利益になるような政策をとるよう政府に圧力をかける。政府が圧力に屈すると、経済に歪みが生じ、経済成長が阻害され、結局、そのしわ寄せは弱者にいく。(中略)
 民主主義と経済成長には関係があるという点では、大方の意見は一致しているが、民主化が経済成長にプラスになるかマイナスになるかについては、意見が分かれる。プラス、マイナス両方の影響があるとして、どちらの影響の方が大きいかは、学問的に結論は出ていない。したがって、どちらの影響の方が大きいかを考えるには、過去の実例をみる以外にはない。
(「経済学の正しい使用法」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『ソシアル・ジレンマ』 秩序と紛争の経済学    ゴードン・タロック 宇田川璋仁他訳 秀潤社     1980. 2. 1
『経済学の正しい使用法』ー政府は経済に手を出すなー ロバート・J・バロー 仁平和夫訳 日本経済新聞社 1997. 7.14 
( 2004年6月21日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(9)レント・シーキング
<レントシーキングという概念> デモクラシーは完全無欠の主義ではない。多数決でさえ必ずしも「総意を表現している」とは言えない場合もある。「民主的な政治制度にしたら、経済は成長するのか?」と言うと必ずしもそうとは言えない。「開発独裁」と言われる、アジアで試みられた制度の方が効率的かもしれない。 民主制度になったからと言って、ソシアル・ジレンマがなくなるわけでもない。しかも民主制度では「レントシーキング」と言われるやっかいな問題が生じる。国会議員が有権者の意見を聞き、利益を守ろうとすれば、「レントシーキング」がなくなることはない。そこで、ここでは「レントシーキング」について考えてみることにする。
 レントシーキングという概念は、アン・クリューガーの「レントシーキング社会の政治経済学」American Economic Review, 1974年、June論文に遡る。
 「自動車排出ガス規制……マスキー法案が上程されたとき、日本の会社はエンジニアを雇ったが、アメリカでは、法律家を雇った。……アメリカの巨大化学会社デュポンの社長は、長い間エンジニアでしたが、現在では法律家です。 そして、アメリカの企業のトップは、現在、ますます、この手の人に──効率を上げることのできる人にではなく、マヌーバーの専門家、レントシーカーによって占められるようになっています。アメリカの弁護士の数は増加し続け、人口一人当たり弁護士の数は世界一でしょう。これはアメリカ経済のパフォーマンス低下の根本的な原因である」として、タロックは、アメリカの現状を嘆き次のように続けて言う。
 「東洋工業の経営が危うくなったとき、日本株式会社は何もしなかった。ところが、アメリカ政府はクライスラーに多大な援助をしています。アメリカの企業や産業は政治的手段に訴えて、自分たちの利益を守ってもらっています。日本車の輸入規制を求めて成功もしています。……もし、政府に頼って利益が上がるようなら、誰がコストダウンと効率化を考えるでしょう。レントシーキング社会には、経済成長も経済発展もない」と。
 しかし、それでも、タロックは、アメリカは、イギリスと比較すればまだまだずっとマシであるといい、日本は、レントシーキング社会から最も遠い社会であると言ったのだった。……1980年のことである。(中略)
 先の引用は1980年にゴードン・タロックが日本で行った講演内容の一部である。タロックはレントシーキングと言う概念を創作し、アン・クリューガーが名付けたレントシーキングという言葉がミスリーディングだと不満をもらしつつ、この言葉をテクニカルタームとして定着させ世界に警告を発した人である。
(「入門公共選択」から)
 「日本株式会社」という言葉を使う人がいる。日本では役所と産業界が一体になって経済を運営している、との認識からだ。しかし、上の文章からは逆のことが読みとれる。アメリカの経済学者は、「アメリカでは日本以上に政府が企業の経営にタッチしていた例がある」と言う。日本の経済学者は、日本経済は見ているが、アメリカ経済には目が向かないようだ。自虐的になっているのか、あるいは視野狭窄になっている。 「日本株式会社」という見方に対する批判も見あたらない。エコノミスト業界に雑種強勢は期待できないのだろうか?自家不和合性に陥っているのかもしれない。
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<国会議員は圧力団体に弱い> 「サルは木から落ちてもサルだが、国会議員は選挙に落ちたらタダの人」。選挙に落ちないためには有権者のご機嫌をとらなければならない。ちょうどサプライサイド=供給者=メーカーや中間業者や小売業者がディマンドサイド=消費者=お客様=神様のご機嫌をとるのと同じようにだ。ではどのようにご機嫌をとるのか? 「交通違反をしました。先生の力で警察の書類をもみ消して下さい」「上の息子が就職なのです。先生の力で上場会社へ入社出来るようにして下さい」「先生は国立大学に影響力があると聞いています。そこで勉強したいと言う若者がいます。先生の力を貸して下さい」「隣町との境の川に橋があると、おらが町が豊になる」「町の繁栄のために公民館や図書館があるといい」。このような件に応えることから、業界団体の利益に結びつく法律の制定まで、幅広く有権者の利益拡大に尽くすことになる。 中国からの長ネギの輸入が急増し、「日本の農業が危機に瀕する。食糧自給率を向上させるためにも輸入制限をすべきだ」との声が聞こえてくると、関係省庁へ働きかけ、輸入制限処置を行う。これによって消費者が安いネギを購入するチャンスを奪い、代わりに農家の利益を守ろうとする。かつてアメリカでは日本からの急増する自動車輸入に対して、アメリカ政府に働きかけ、日本の自主規制を勝ち取った。 それはアメリカの消費者が安い日本製の乗用車を買う機会を犠牲にしての政策だった。日本の農家は安く、良い物を生産する代わりに国会議員・政府に働きかけることによって利潤をあげることができる。アメリカの自動車メーカー=ビッグ3は、消費者に気に入って貰う乗用車を開発する代わりに、政府に働きかけて利益を確保しようとする。このように市場での競争に勝ち、利益を上げるのではなく、政府に働きかけ法律や、行政指導によって自分たちの利益を確保しようとする行為を「レントシーキング」と言う。 こうしたレントシーキングが効果を上げる場合、ほとんどの場合消費者利益は犠牲になっている。少数の業界人が大きな利益を得て、多数の消費者がそれぞれ少しずつの不利益を被る。少数の業界人は大きな利益のために力を入れて行政側を動かそうとする。これに対して消費者は小さな不利益なので黙って見過ごす。両方を計算すると、社会全体には不利益の方が大きいのだが、業界人は強引に押し通してしまう。 利益を受ける業界人が多いと、一人当たりの利益は小さくなるので、むしろ利益を受ける業界人が少ない問題の方が、熱心にレントシーキングに力を注ぐ。そしてごく少数者のために多くの消費者の利益が犠牲になる。それでも「豊かな多数を守るのではなく、少数の弱者こそ守るべきだ」との主張も聞こえてくる。
 民主制度のもとではこのように少数の利益のために、多数者の利益が犠牲になることがある。国会議員には常にレントシーキングの働きかけがあり、時には利益供与の裏約束があることさえある。こうしたレントシーキングを批判する人は多い。ジェイムス・ブキャナンをはじめとする「公共選択論=Pubulic Choise Theory」を研究するグループは厳しくレントシーキングを批判する。特にその裏工作が国の予算に影響することを懸念し、予算がレントシーキングによってあまりにも大きくならないように、「憲法で予算作成の規範を決めるべきだ」とさえ主張する。
 しかし、レントシーキングという政策をゆがめる力をなくすことはできない。ソシアル・ジレンマがなくならない、と同じように民主制度でレントーシーキングが皆無になることはない。選挙によって国会議員を選ぶ制度である以上、立候補者は有権者の声を聞かなければならない。もしも「有権者はいろいろ要求するが、国家のためには有権者の声も無視するべきだ」と言って、有権者の要求と反対のことをしたら、選挙で落選するだろうし、国会議員が有権者の考えと反対の政策を実行したら、代議員制民主制度は機能しなくなる。
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<対策は、なるべく市場のメカニズムに委ねること> 利益団体や業界人は自分たちに有利なように予算を獲得しようとし、各省庁に働きかける。このため予算は膨張する方向へ圧力を受ける。国家予算はたとえ赤字であっても膨張しようとする。これを押しとどめるにはどうしたらいいか?J・M・ブキャナンの答えが、「憲法で予算の膨張率を制限する」だ。たとえば、「国家予算の拡大率は前年比8%以内とする」という憲法の条文を作るべきだ、との主張になる。こうした点に関して TANAKA1942b は「日本版財政赤字の政治経済学」▲で、次のように書いた。
 日本版財政赤字の政治経済学(Democracy in Deficit)の結論は、「借金をするときは返済計画を立ててからにしましょう」という極めて常識的なものだ。30兆円の国債を発行するなら「国債償還のために、3年後から 7年間にわたって消費税を 3%アップして 8%とする」のような返済・増税計画を発表すべきだ。「そんなに借金して、消費税アップしてまで景気対策する必要はない」との意見もあるだろうし、「それでも対策が必要だ」と国民が言うなら対策は実行することになる。それが民主制度であり、その結果の責任は国民が負うことになる。
 民主制度が完全無欠な制度ではないのと同じように。市場経済も完全無欠などではない。しかし、もっともっと市場のメカニズムを利用する方法はある。「企業・市場・法そして消費者」で書いたように、企業のヤバイ行為を規制する力も持っている。 ネギやシイタケが一時的に輸入量が増大したからと言って、緊急輸入制限などしないこと。日本製の乗用車の輸入が急増しても、アメリカ政府は市場の動きを見つめるだけでいい。そのように政府の態度は変わっていけば、レントシーキングによる政策のゆがみは少なくなるだろう。このように TANAKA1942b は考えていても、国会議員・圧力団体は規制緩和に対して抵抗勢力として働き、レントシーキングが働きやすい政治環境を維持しようとする。公務員は常に収賄の対象として狙われることになる。各省庁は役所の裁量権を拡大し天下り先を作る。このように民主制度には、公正な政策実行を脅かす力が常に働いていて、この民主制度の弱点はなくならない。
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<族議員=抵抗勢力> 「骨太の経済政策」「構造改革なくして成長なし」と小泉首相が旗を振っても、抵抗勢力は独自の動きをする。既得権を持ったグループ、業界人などの利権代弁者である族議員は、その既得権を守ろうとする。道路公団の民営化を唱えても、公団であるが故の既得権に甘んじているグループは抵抗する。公団であるために採算が取れなくても道路は建設される。これにより建築、土木、道路会社は仕事が確保される。このため業界は国会議員、行政当局に働きかける。このレントシーキングが効をとおし、道路公団の民営化は難航する。郵政の民営化も同じように抵抗する力が強い。 農産物の関税率引き下げ、自由化は日本だけではなくEUも抵抗するのでWTOでも国内関係者のレントシーキングは成果をあげる。
 では利益団体のどのような要求ならば、レントシーキングを認めるべきか?それに答える明確な基準はない。人によって基準は違う。贈収賄などの法律に触れることは基準があっても、倫理的なものはない。市場で消費者に気に入られて利益を上げる方法と、国会議員や行政当局に働きかけるレントシーキングによる利益確保とが並行して行われる。 ということで、民主制度では「族議員」はなくならない。そして国家公務員の天下りもなくなることはない。
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<多数派が少数派を支配する多数決> 今週のテーマ「レントシーキング」はJ・M・ブキャナンを中心とする「公共選択= Public Choice」と呼ばれるグループが扱っているテーマだ。そこでこのシリーズの第1回で扱った「多数決」、これについてブキャナンはどのように言っているのか?見つけ出したので、ここに引用しよう。
 多数決投票制の基本原理は単純なものです。すなわち、多数派が少数派を支配するということです。定義からして、対称性をもった結果はあり得ないということです。どんな対称性をもった結果も、支配権を握る連合の形成にかかわらず、非対称性の結果に支配されてしまうということです。
 あるものを3人で分けるという単純多数決ルールを考えてみましょう。対称性のある解の場合には、3分の1ずつみんなで分け合うということになるわけです。お気づきかと思いますが、この解というのは多数決によって支配されるということです。つまり、偶然に多数派連合を形成した2人が全部とるという解が最終的に支配するというわけです。したがって、対称性をもった解もしくは価格を分配するという考え方は、多数派連合から提示されることは絶対にないわけです。
(「行きづまる民主主義」から)
<チャーチルのことば> ブキャナンはデモクラシーについて、チャーチルの言葉を引用して、このシリーズ「民主制度の限界」の見方と同じことを言っている。
 ウィンストン・チャーチル( W.Churchill)のつぎの有名なことばを思い出します。「もちろん、民主主義はこれまで時々試みられた別の形態を除いて、あらゆる政府の形態のなかで最悪のものである」民主主義はとてもうまく機能するものではありませんから、それ以上にうまく機能する別の政府形態を工夫できればけっこうなことです。しかし残念ながら、それ以上にましなものは見当たりません。これまで考えられたほかの制度のほとんどはもっと悪いといえます。 (「行きづまる民主主義」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『経済学の考え方』──ブキャナン経済学のエッセンス       J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10
『公と私の経済学』──ブキャナン経済学のエッセンス       J.M.ブキャナン 田中清和訳 多賀出版    1991. 7.10 
『自由の限界』──人間と制度の経済学              J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 秀潤社     1977. 7.15
『公共選択の理論』──合意の経済理論  J.M.ブキャナン、ゴードン・タロック 宇田川璋仁監訳 東洋経済新報社 1979.12.20 
『レントシーキングの経済理論』   ロバート・トリトン、ロジャー・コングレトン 加藤寛監訳 勁草書房    2002. 7.15
『コンスティテューショナル・エコノミックス』          J.M.ブキャナン 加藤寛監訳 有斐閣     1992.12.10
『赤字財政の政治経済学』          J.M.ブキャナン、R.E.ワグナー 深沢実、菊池威訳 文眞堂     1979. 4.25 
『財政赤字の公共選択論』     J.M.ブキャナン、C.K.ローリー、R.D.トリソン 加藤寛監訳 文眞堂     1990.11.10
『入門公共選択』──政治の経済学                         加藤寛編 三嶺書房    1999. 1.25
『ハンドブック 公共選択の展望』 第V巻       D.C.ミューラー 関谷登、大岩雄次郎訳 多賀出版    2001. 9.15
『行きづまる民主主義』 公共選択の主張T        J.M.ブキャナン、G.タロック 加藤寛 勁草書房    1998. 6.20
( 2004年6月28日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(10)市民運動への淡い期待
<ユートピアを持ちたい人たち> これまで見てきたように、民主制度と市場経済の組合せは多くの不具合を持つ制度だ。特に将来に対するバラ色のビジョンがない。 政治的には右と左の妥協点を探していくことになり、経済的には市場のメカニズムにその将来を委ねることになる。誰かが先頭に立って旗を振って「皆こちらへ進んでいこう」と号令をかけても、結局は市場での妥協点に進むことになる。どのような結論が出ても必ず右か左に不満を持つ人が出る。不満が出ないようにするには何もしないことだ。
 社会主義・共産主義・マルクス主義は労働者が権力を握ることによって、政治的・経済的平等が達せられると考え、それに向かって進む。一神教の宗教は、信者が同じ価値観を持っているので、目指す理想社会は全員同じになる。軍事独裁国家では非常事態宣言を出して、反政府的な発言を禁止するので外部には聞こえてこない。 新興宗教やそれに似た、文化的・宗教的価値観の同じ人たち少数グループの社会では、タカのいないハトだけの社会で外部からの攪乱に弱いので閉鎖的な社会になり、一般にはその存在は知られない。 ある個人がすばらしいビジョンだと思って発表しても、雑多な価値観が共存する民主制度では、本人が期待したほど歓迎されない。現在の社会に不満があったり、危機感を持つ者にしてみると「国民は危機意識がない」「太平の世に浮かれている」との意識から「自分は現状を正しく認識するが、一般人はそれがない」と思い上がったりする。 そうした人たちを含め、民主制度を変えようとか、修正しようとか、あるいはその中で違った道を模索しようとする。民主制度と市場経済の欠点は素人でも指摘できる。このため多くの人がこの制度を批判し、「制度を変えるべきだ」と主張したり、「デモクラシーを補う制度」を試みてきた。今週はこうした面に目を向けてみよう。
<「市民が主体になって政治・経済を改革することができる」と考える人たち> 民主制度とは「すべての人が不満を持ちつつ、「まぁしょうがないか」と我慢する妥協点を求める制度だ」と言うのが適当な表現と言える。そうなると、不満を持つ人たちは「政府の政策ではダメだ。自分たちで変えよう」と政府とは違った事を始める。 「市民が主体になって政治・経済を改革することができる」と考える人たちが出てくる。それにはコストがかかる。そのコストを負担できる豊かな人たちが「市民運動」を始める。こうした市民運動は豊かな社会で始まり、発展途上国では社会が大きく変化するのに対して、市民運動は起きにくい。そこで先進国の人の中から途上国で活動する人が出てくる。環境問題、男女差別問題、大東亜戦争の戦争責任問題などが取り上げられる。
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<フェア・トレード> 現在中国ではケ小平の方針通り「先に豊になれる者から豊になる」(先富論)が採用されている。これを批判する評論家もいるだろうが、世界経済は?と見ると「先に豊になれる国から豊になる」仕組みになっている。多くの国では「先に豊になれる企業から豊になる」制度になっている。これに批判的な人の中から「途上国、最貧国を支援しよう」との運動が起きてくる。その一つが「フェアトレード」だ。 発展途上国側からの主張としての「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」を尊重しようとして、途上国からの第一次産物を安定価格で購入しようとの動きになる。例えばココア豆を市場価格以上で輸入し、「フェアトレード商品」として一般商品より高く消費者に買って貰ったりする。そうすることによりコートジボアール、ガーナなどの生産者を支援しようとの運動になる。 もっとも2003年3月31日に「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」▲(1)ココア豆から民芸品まで」としてこのホームページで取り上げたとき、ココア豆の国際価格は高かった。またチョコレートの価格はココア豆よりもミルクや砂糖の価格に影響されるとの情報もあった。つまり、ココア豆を高く買ってもチョコレートの価格にはあまり影響はない、ということだ。 とすると「フェアトレードでココア豆を高く買っているので、このチョコレートは幾分高めです」とは言えなくなる。
 実際にどの程度最貧国の生産者を支援するかは疑問だが、その考え方「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」はすばらしいし、最貧国支援に関心を持つのは良いことだし、もう少し考えれば「フェアトレードを進めるのは自由貿易が大切で、保護貿易は邪魔することになる」という事が分かってくるはずだ。 そうすれば「自由貿易は先進国の利益にはなるが、途上国には何も利益がない」とのWTO反対の根拠のなさが分かってくる。
<重債務国の債務帳消し> 先に豊になれる国から豊になり、その他の国は少し遅れて豊になるはずだった。しかしその他の国も外国からの資金導入がないと産業は発展しない。経済が発展するためには投資が必要だ。そこで豊かな国からの投資を仰いだが、思惑道理には経済が発展せず、借り入れ負債の返済が重荷になってきた。そこで「先進国からの債務を帳消しにすべきだ」との声があがった。ジュビリー2000がその代表格になる。重債務国の債務は公的資金はパリクラブで、民間資金はロンドンクラブで話し合われている。 重債務国の債務帳消しとは、「この国はもう主権国家として債務を返済する能力がなくなった。破産国家として、債務を帳消しにしよう」との主張であり、「この人は返済能力のないので、破産者として扱いましょう」と言うようなことだ。これでは重債務国のプライドが傷つけられることになる。 「恵んでくれなくていい、トレードをしてほしい。自ら力をつけて立たなければ、この国は変わらない」との方が賢い態度だと思う。
 このホームページでは「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」の<債権放棄=破産宣告>▲で書いたように、 重債務最貧国(HIPCs=Heavily Indebted Poorest Countries)の債務を帳消しにすると、民間金融機関はモラトリアム、デフォルト、不良債権化を恐れて融資しなくなる。それでも融資すれば、株主訴訟を起こされるか、もしかすると特別背任容疑で起訴されるかも知れない。 そしてアマチュア歴史家は「歴史に学びなさい。松平定信の棄捐令▲(きえんれい)の結果がどうなったかを」と警告する。
[棄捐令(きえんれい)] 江戸時代、幕府や諸藩が家臣団の財政窮乏を救うため、高利貸商人の札差に一方的に命じた借金帳消し・軽減令。寛政改革の一環として1789(寛政1)年9月に発布された。(中略)松平定信ら当時の幕閣はこの改革で1784年以前の札差借財はすべて帳消し(棄捐)、89年夏までの残余は年6%の年賦返済とし、以後の新規借り入れは年利18%を12%と引き下げさした。棄捐となった札差債権は118万両余に達し、旗本らの債務は一挙に軽減されたが新規の金融を拒否され、かえって恐慌状態に陥るほどであった(平凡社 大百科事典から)。どなたか勇気ある人は日本の歴史を教えてあげてください。
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<地域通貨>これについては 「地域通貨は金融経済学の最適教材か? 」▲で書いた。「ポール・クルグマン=ベビーシッター券」でも分かるように、地域通貨を主催していれば金融経済学の勉強になる。少なくとも「地域通貨にはインフレはない」とは言わなくなる。 さらにハイエクの「貨幣発行自由化論」など読めば、さらに貨幣論に強くなる。ある程度の知識を蓄えて「ヴェルグルの労働証明書」を考えると、さらに金融経済学が面白くなる。国民経済に与える影響は考える必要はない。それよりも「金融経済学の最適教材」と考えて取り組む方が良いだろう。「貨幣発行自由化論」として捉えると「ハイエク」▲が参考になり、あるいはディビッド・フリードマンの「貨幣のための市場」も参考になると思われるので、その一部を引用しよう。
 代替的な貨幣制度についての議論は通常、いかなる種類の貨幣を我々は持つべきか──金貨か、金貨に兌換可能な紙幣か、あるいは他の紙幣に兌換可能な紙幣か──という問題に焦点を合わせる。しかしこれは誤りだと私は考える。最も重要な問題は、貨幣がどうやって作られるではなく、誰によって作られるかなのである。(中略)
 最も単純な私的貨幣制度は、多くの民間企業によって作られる商品貨幣である。各企業は、標準的な重量の鋳貨を鋳造し、それらを売る。消費者は、重量不足の鋳貨を作り始めた企業から乗り換えることができるので、こういった詐欺の可能性はまれ──もしくは少なくとも政府が鋳造する場合よりもまれ──である。このような制度は、中世の競争的な国際通貨に非常によく似ている。それらは政府によって作られたが、そのほとんどは貨幣を作る政府のコントロールの及ばない消費者に売却された。貨幣を作る政府は、商人たちに自国の貨幣を利用させるため、民間企業のように競争した。そうするための明らかな方法は、貨幣の品質を維持することだった。
(「自由のためのメカニズム」から)
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<地産地消> 「自分の住む土地の四里(約16キロメートル)四方でとれた旬のものを正しく食べることを理想としよう」「なるべく地元で取れた農産物を食べましょう」という考えの「地産地消」はこのホームページでは 「身土不二」や「地産地消」について▲ で書いた。これを「反グローバル運動」と考え、勢い込んでいる人もいるかも知れない。しかし、農家が大きな市場を求めて事業拡大しようとすると、この運動は邪魔になる。結果的には、地産地消の運動は農業の活性化に水を差すことになる。「消費者は食品の安全性に無関心である」とか「味も栄養も変わらないのに、見かけの良い、形の整った野菜を買おうとする」「消費者教育が必要だ」と言う。 消費者=神様を教育しようと、仏に説法のようなことを考える思い上がった生産者ばかりになったら、農業は産業として衰退する。消費者を大切にしない産業(三菱自動車のように消費者を裏切ってヤバイことをする企業)は衰退する。 消費者の贅沢、グルメならば筋は通っている。豊になった消費者の贅沢と捉えておこう。
 地産地消に似た考え方として「株式会社の農業参入反対」がある。これに関して、次のような考えがあったので引用しよう。
 要するに株式会社(少なくとも、現行日本法上の)は、「魂も肉体もない」権利の主体としての存在の代表であり、自然人の魂と肉体が持つが故の「叫び」から、会社の意思決定・業務執行が完全に絶縁されている法人の典型である。このことは、ある株式会社の支配的株主(または株主群)は株式会社であり、そして、株主(群)たる株式会社についても同様であって、支配的株主の系統をどこまで辿っていっても自然人は見出せない、という巨大株式会社について、まさに典型的に当てはまる。
 以上に述べたとおり株式会社の基本的性格を踏まえて考えると、株式会社は、「生き物産業」の事業主体または農用地の所有者として最もふさわしくない法人であると思われる。
(「農業は「株式会社」に適するか」から)
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<ロッジデールの精神> 「市場経済は競争社会、弱肉強食の社会」と捉え、そうではない「もっと信頼関係を大切にした社会を」と考えて、「ロッジデールの精神を生かそう」との運動がある。生活協同組合運動や農業協同組合がそれだ。 1844年12月、マンチェスター郊外のロッジデールでロッジデール公正開拓者組合が創立された。それは「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を合い言葉に公平な商売を行う小売店だった。組合員28人が金を出し合って小麦粉、バター、オートミール、蝋燭、砂糖の5品目ではあったが、公正な商売を始めた、当時は産業革命の真っ盛りのときで、現代では考えられない位でたらめな商売が行われていた。 ロバート・オーウェンの思想を実現しようとしたこの協同組合運動はその後、生活協同組合、農業共同組合へと発展していった。現在でもこの協同組合では「ロッジデールの精神を生かそう」がスローガンになっている。
 産業革命初期にはでたらめな商売が行われていた。つまり交換の正義が守られていなかった。そこでロッジデール公正開拓者組合は存在意義があった。現在ではその心配はなくなっている。また農協の購買部のように共同購入で安く買える、という特典もあまりメリットはなくなっている。民間企業であっても共同組合であっても、人件費をはじめとする取引費用はそれほど変わりはない。ということで農協・生協どちらもこれからはそれなりの特色を出して行かないと経営は難しくなる。 競争社会に批判的であっても、他の商売相手との競争は避けられない。それなりの経営努力は必要になる。そうでないと農協は経営不振になり、「農協はいずれ、単なる農家の親睦団体になるのか?」▲が現実味をおびてくる。
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<食糧自給率向上> 世界主要国の食糧自給率(1998年)%=フランス 139、アメリカ 132、ドイツ 97、イギリス 77、スイス 59、日本 41。
日本の食料自給率(2001年度)%=コメ95(うち主食用100)、小麦11、ばれいしょ80、大豆5(うち食用26)、野菜82、肉類53(牛肉36、豚肉55、鶏肉64)、砂糖類32、供給熱量総合食料自給率40.
 上記の数字から「自給率向上」が叫ばれる。海外から食料を輸入している、この農地面積は日本国内の農地面積の2.3倍になる。つまり、日本が食料自給率100%を達成するには、現状の2.3倍の農地が必要になる、つまり農地面積を3.3倍にしなければならない、となる。 日本列島では4,000万人弱の人口しか養えない、つまり鎖国をしていた江戸時代の人口しか養えない、ということになる。日本の食料自給率が低いのは、「食料生産が減ったからではなく、食糧生産が増えないのに、人口が増えたから」なのだ。食料生産よりも生産性の高い工業製品を輸出して、その代金で食料を買うことが出来たため、 日本列島で養いうる人口よりも多くの人々が生活出来るようになったのだ。100%を達成するには?@海外の農地1,200haを日本の領土とするか?A人口を4,000万人弱に減らすか、B一日三食ではなく一食で我慢するか?C農家が農業生産性を3.3倍にするか?だ。
 食糧自給率40%とは、計画経済でなった数字ではなく、市場のメカニズム、民主制度のもとでなったもので、国民が合理的な行動をとった結果なのだ。もっともだからこそ、これを「合成の誤謬」と表現する人もいるかも知れないが……
 食糧自給率に関しては「もう「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ」▲および「自給自足の神話」▲で扱ったので、そちらを参照のこと。 食糧自給率の問題は食糧の安定供給とも関係があり、国際市場に委ねると価格が不安定になる、との考えがある。食糧価格は市場のメカニズムに委ねてはいけない、との考えだが、それは江戸時代の大坂商人よりも市場経済を理解していない。 江戸時代には「大坂堂島米会所」▲というコメの先物市場が機能していた。それを現代風にアレンジすれば 「キャベツ帳合取引所はいかがでしょうか?」▲となる。
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<反戦運動> 厭戦気分の高かったのは第1次大戦後のフランスだった。その厭戦気分がナチスの台頭を許してしまった。「フランス政治の混乱」▲および「フランスの厭戦感情」▲で書いたように、「とにかく戦争はイヤだ」がヒットラー、ムッソリーニ、フランコ、関東軍の暴走を助長した。 ゲーム理論的進化論の立場に立つと、「ハトばかりの国民がタカの進出を食い止められなかった」ということだった。場合によっては 「国家は人を殺さねばならぬ」▲ときがあるし、武力行使が有効な解決方法と考えられる場合もある。 イラク問題に関しては立場によって捉え方が違ってくる。「アメリカ軍とパパラッチのジレンマ」▲を参照のこと。外交問題としての瀬戸際外交については<補足>▲および<ゲームの理論━━瀬戸際戦略>▲および 「小泉首相と金正日のジレンマ」▲を参照のこと。 また「憲法9条を守れ」と主張するならば、自衛隊をなくした後の「日本の安全保障」▲をどうするのか?例えば「在日国連平和維持軍」▲のような答えを用意すべきだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『農業は「株式会社」に適するか』                         宮崎俊行 慶応義塾大学出版 2001. 4.20
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内 D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房     2003.11.25
( 2004年7月5日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(11)リベラル、アナーキー、リバータリアン
<デモクラシーをどう評価するか?> このホームページでの「デモクラシー」の捉え方は、タイトルの下に引用した2人=チャーチルとハイエクの表現に代表されるように「不完全な制度だが、これに勝る制度はない」との考えで、こうした態度を「功利主義」と呼ぶ人もいるようだ。 世の中には本当に色々な考え方があって、こうした「功利主義」とは全く違った立場の人たちもいて、民主制度をどのように見ているのだろうか?が気になるところだ。そこで視野狭窄にならないようにと、いろんな意見を聞いてみることにした。リベラル、アナーキー、リバータリアン等という言葉から連想される考え方も取り上げてみることにした。
<チョムスキーのデモクラシー論> アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは「9・11 アメリカに報復する資格はない!」のような主張でブッシュ政権を批判している。その主張には、日本でも共鳴する人も多いようで、多くの著書が出版され売れている。 ここでは、チョムスキーがデモクラシーをどのように評価しているか?対談形式で書かれた著書から引用しよう。
 チョムスキーさん、「民主主義は、人間がこれまで見出した社会体制のなかでいちばん欠点の少ないものだ」という見方には賛成なさいますか。
 最良のシステムです。「いちばん欠点の少ない」ではなくて。あのマハートマ・ガンジーが言ったという、有名なセリフがあるでしょう。あるとき、西洋文明をどう思いますかと訊かれて、ガンディーがこう答えたというのです。「ああ、それはよい着想かもしれませんね、ひとつ、 ほんとうにそういうものを創りだしてみたらいかがですか……」。民主主義についてもこれと同じことが言えそうです。西洋文明と同じように、民主主義というものは一応は存在しているけれども、まだその公約した目標のすべてを実現してはいません。 民主主義を広めようとする民衆と、なんとかそれを抑えようとするエリートのあいだに戦いがくり広げられています。企業の力の増大と{最近の}通商条約は、民主主義を抑えようとする狙いをもっています。
 でも、民主主義が最良のシステムだとしますと……。
 民主主義ということばの意味次第です。すべては。いわば公式見解といってよい理論がありましてね。これはヨーロッパよりも米国で広まっていますが、それによると民主主義とは、ひとびとが役者でなくて観客として参加するシステムであるというんですね。ひとびとは定期的に投票箱に一票を投じて、指導者層のなかから、自分たちの導き手を選出する権利をもっている。 投票が終わると、ひとびとは自分の家に帰ってめいめいの仕事に戻り、ものを消費し、テレビを観て料理を作り、ひとつとくに大切なこととして、人に迷惑をかけないようにする。そういった存在とみなされているわけです。これが、民主主義なのです。
 それにひびが入るときの[権力側の]反応がおもしろいですね。たとえば、1975年に三極委員会が公刊した最初の研究書、『民主主義の危機』という本は、ヨーロッパで話題になりましたか。どうも、こういう調査研究が出ると、ヨーロッパよりも米国のほうがはるかに活発な反応を示すような気がします。
 そうしますと、チョムスキーさんは、ヨーロッパは無気力・無関心であるというふうにご覧になっているわけでしょうか。
 ヨーロッパのひとは、ヨーロッパに政治・社会問題に積極的に取り組む知識人がいると思っていらっしゃるようですが、何人かの例外を除くと、現実はかなり違います。 いままでの社会の進歩は、知識人のもたらしたものなどではなくて、なによりも民衆のパワーがもたらしたもの、多くの場合、労働者階級の組織がもたらしたものです。
 実際、60年代には、世界中ほとんどいたるところ──ヨーロッパ、米国、日本など──で、大きな反体制運動が起こりました。リベラルな(米語のリベラルです)エリートたち、そして社会民主党系のエリートたちは、この動静に不安を覚えました。三極委員会が生まれたのは、こういう情勢を背景としてのことだったのです。この委員会のメンバーは、いま言ったようなエリートで構成されているのです。 つまり、米、日、欧の企業の大物経営者、政策決定に参与する立場のひとたち、そして、知識人です。彼ら自身は国際協調主義のリベラリズムのなかで、「第三の道」の信奉者の立場を自認しています。(中略)
 ヨーロッパで「緑の党」のような政党が出現しているのを評価なさいますか。 
 評価すべきかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。ナチスのことを考えてみてください。ナチスもやはり環境問題を気にかけていましたよ。国家社会主義のなかには、非常に顕著なエコロジー的思潮が存在していたのです。その結果はあまり幸福なものではなかったわけですが……
「緑の党」が今後どういう方向へ向かうかは、市民が監視の目を離さず見守り続けるかどうかにかかってくるでしょう。
 労働組合というものをいまでも信じていらっしゃいますか。
 原則的には、信じています。労働組合は、民主主義の発展にとって決定的な役割を演じましたし、貧しいひとたちが団結して集団として行動しうるまれな場所のひとつです。だいたい、それだからこそ、支配者層とメディアが狙いをつけているのです。
 米国の労働組合は活発なのでしょうか。
 ここ数年ずっと、組合は攻撃を浴び続けています。組合への加入者はぐっと落ち込み、賃金労働者全体の15パーセントにまで減少しました。しかしいまはすっかり安定をとり戻して、再出発の機運がみられるといったところです。
 社会階級の観念はいまでも妥当なものだとお考えでしょうか。
 社会は進歩しましたが、しかしそういう基本的概念は依然として有効です。たしかに社会構造や階級構造が変化したのは事実です。けれども、いくつかのグループが独占している利益とか、さまざまの支配の上下関係、社会的な階層構造や「政策」決定における上意下達の構造などは少しも変わらず、旧態依然たるものがあります。そうしたものが階級闘争を生むのです。 (「チョムスキー、世界を語る」から)
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<ジョン・ロールズの正義論> 功利主義を批判する代表格がこのジョン・ロールズだ。その考えに影響されて、アメリカではアファーマティブ・アクション(affirmative action )と言われる差別撤廃処置=弱者保護の法律がいくつか成立している。そのジョン・ロールズだが、民主制度についてどのように言っているのか?「正義論」からは適当な引用部分が見つからないので、他の人が書いたものから引用することにした。
 ロールズは2つの理由から。「公正としての正義」という彼の理論を提起している。第1に、それが意図しているのは、ジェレミー・ベンサム(1748-1832)の時代以来、政治的自由主義者の間では支配的な道徳哲学であり続けた功利主義とは別の選択肢となりうる体系的理論であることである。ロールズの考えでは、過去の自由主義者は、主として怠慢から功利主義へと向かった。なぜなら道徳に関するその他の体系的な説明は存在しなかったからである。 しかしロールズの考えでは、功利主義は、多くの理由から、自由主義の政治的見解とはうまく一致しない。
 (1)功利主義は、政治的自由に不安定な正当化を与えるものでしかない。なぜなら功利主義が、全体の福祉を最大化するために自由の削減を求めたり認めたりするような状況を、特に非常事態というわけでもなくても考えることができるからである。
 (2)われわれが社会正義という問題について考える場合に行う推論は、功利主義的な正義のものであるとは思われない。 たとえば、功利主義者は、奴隷制が不正義であるのは、奴隷所有者が得る利益が奴隷が被る不利益と釣り合わないからである、と論じる。しかしわれわれは、奴隷所有者が奴隷制から得る利益がいかなるものであっても、それはいわば道徳的に不適切であるのだと考える。つまり奴隷所有者が奴隷制が施行されていることから得る利益は、いかなる点でも、功利主義者がほのめかしているような奴隷制の不正義を軽減するものではないのである。
 (3)功利主義は、論争の余地の多い哲学理論であるため、われわれが暮らしているような社会、つまりその成員の道徳的、哲学的、宗教的見解に大きな相違がある社会においては、実際問題として正義の問題を解決するための基礎となることはできない。端的に言えば、ロールズは自由主義者が抱いている政治的見解と彼らが伝統的に信奉してきた道徳的・哲学的見解のあいだには不一致があると考えているのである。彼が望んでいるのは、功利主義に頼ることは必要なことでも魅力的なことでもないと感じられるような理論を提供することである。
 ロールズが正義の理論を提起する第2の基本的な理由は、現代の立憲民主政体のなかで、哲学的であっても実践的な方法で、平和と友好を促進するためである。彼の理論は2つの方法でそのことを果たすよう意図されている。
 (A)それは、自由の要求と平等の要求を比較考量して処理しなければならない論争の余地ある問題について、市民相互の間に同意を作り出す助けとなることを期待されている。市民間の基本的なレベルの同意を発見することが目指されているのである。
 (B)それは、政治秩序がいかに市民の道徳的人格に完全に合致したものであるかを示すことによって、個々の市民にとってその秩序が合理的なものであるようにすることが期待されている。 市民の自分自身についての構想と彼らが参加する社会の構造との間に明確な関連性を作り出すことによって、そうした課題を果たすことが目指されているのである。ロールズは、こうした目的の両方を「調停」型と呼んでいる。平和と友好を達成することは、市民と市民との間の調停を成し遂げることであり、政治秩序を合理的なものにすることは、市民と国家の間の調停を成し遂げることなのである。
(「岐路に立つ自由主義」ジョン・ロールズの自由主義 マイケル・パカラック から)
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<ノージックの最小国家論> プルードン、バクーニン、クロポトキンと続き、マルクス、エンゲルスの共産主義と労働者階級の主導権を争っていたアナーキズム。しかし現代ではかつての勢いは感じられない。一部の人たちはロッジデールの現代版を目指して協同組合運動に走り、多くは運動からは遠ざかりアナーキスト、リバータリアンとして文章の中に生きている。 そうした状況で、「徹底的に個人の自由を尊重しよう」との考えでは、「アナーキー・国家・ユートピア( Anarchy,State,and Utopia)」を書いたロバート・ノージックがよく知られている。 そこで「アナーキー・国家・ユートピア」の「序」から一部引用しよう。
 諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること──が仮にあるとすれば、それ──は何か、という問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当性(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。最小国家は、正当であると同時に魅力的である。ここには、注目されてしかるべき2つの主張が含意されている。即ち、国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置をしようすることができない。 (「アナーキー・国家・ユートピア」から)
 このような考えで書かれた「アナーキー・国家・ユートピア」を、1991年に出版された「ノージック」と題された本で、ジョナサン・ウルフは次のように紹介している。
 最近20年間近く、分析的政治哲学の論争は2つの大いに対照的な著作によって支配されてきた。ジョン・ロールズの『正義論』とロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』がそれである。ロールズは1971年に、リベラルな平等主義の一形態の弁護を提出し、ノージックは1974年に、自由尊重主義[libertarianism.「自由市場主義」とも訳される]──自由市場、絶対的所有権、「最小国家」──を弁護して論じた。 ロールズとノージックの両方に応えて、膨大な量の批判的文献が生まれた。しかしロールズとは違って、ノージックはアカデミックな政治哲学者の中にほとんど追従者を得なかった。それにもかかわらず実際政治においては、この10年ばかり、ロールズが弁護した左翼福祉主義からの離脱の動きが見られた。ノージックの方が今日の政治的精神に近いように思われる。
 この2つの著書は、内容だけでなくスタイルにおいても著しく異なっている。ロールズが読みやすい著作家だと言う人はめったにいない。そして『正義論』は入念な、限定だらけの仕方で書かれ、おかげでロールズ自身認めているように「ページ数だけでなく内容も膨大な本」になっている。『アナーキー・国家・ユートピア』は、これに対して意図的に「けばけばしく」挑発的である。ノージックはいつも鮮やかな例や記憶に残る表現を発見するように思われる。 彼が宣言する目的の一部は読者を動揺させることにある。読者の気分に従って、『アナーキー・国家・ユートピア』はしばしば愉快にも不愉快にもなりうる。だがそれは読者を引きつけずにはおかない。 (「ノージック」から)
 ではそのノージックはデモクラシーをどのように評価しているのだろうか?その質問に対してピッタリの答えが見つからないが、ノージックの著作から、チャーチルやハイエクとは違った政治・経済観を引き出してみよう。
 ノージックは、いわゆる夜警国家を積極的に正当化して、現代の福祉国家や社会主義国家を批判する。ノージックは、道徳的に正当化できる国家は「暴力・盗み・詐欺からの保護や契約執行などに任務が限定された」国家だけであり、福祉国家や社会主義国家は「特定のことを行うように強制されない」という人々の権利を侵害していて、道徳的に正当化できない、とされる。 
 (1) ノージックはまず、「そもそも何らかの国家が存在しなければならないのか?」という問題を取り上げる。この問題は「国家はいかに組織されるべきか?」という問題に先行するものであり、この問題設定がノージックの議論の大きな特色の一つになっている。そしてそのノージックの考えは次のようなものだ。個人は「同意なくして生命・身体・財産を侵害されない権利」をもっている。この権利を守るために「私的な権利保護協会」を作り、これに費用を払って権利の保護・実行を委託する。この「私的な権利保護協会」が独占的な権利を持ったとき、これを「最小国家(minimal state)」と呼ぶ「夜警国家」となる。
 (2) 次にノージックは、正当化された最小国家以上のの機能持つ「拡大国家(extensive state)」が正当化されるかどうかを論ずる。ノージックは、この拡大国家が所得再分配する権限を否定する。ジョン・ロールズの格差原理による所得再分配は、国家が強制的に個人の財産を奪うもので「強制労働とかわるところがなく」、社会的弱者の救済は、「国家が強制的に行うべきではなく、個人の自発的な行為に委ねられるべきだ」と主張する。 (「現代の法哲学者たち」から)
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<ノージックとロールズ> ロールズは「正しい社会には2つの正義原理が適応される」と主張し、それを次のように定式化した。
第1原理 各人は、すべての人の同様な自由の体系と平等な基本的自由の全体系を最大限度までもつ平等な権利を有するべきである。
第2原理 社会的、経済的不平等は、それらが次の両者であるように取り決められるべきである。
 (a) 最も恵まれない人の便益を最大化すること。 
 (b) 公平な機会の均等という条件の下で、すべての人に解放されている職務や地位に付随していること。
 第1原理──自由原理──は第2原理に対して「辞書的優先性」をもつとされる。経済的正義の問題に目を向ける前に、この原理が満たされなければならない、という意味だ。言い替えれば、(深刻な欠乏という条件下に置かれているのではない限り)経済的満足の増大のために人々の基本的自由を削除することは正当化されない。 第2原理(b)は、「格差原理」として知られている。ロールズの中心的主張は、もし人々が直接的あるいは間接的に、自分に有利なような偏見を与えるような事柄──知的レベル、社会的地位、人種、性別、等々──について無知であったら、これらの2原理が自らの社会を規制することを選ぶだろう、というものだ。このようにして、この2原理は社会を組織するための不偏的な、そしてまた公正な基礎を提供することになる。
 ロールズにとって正義の問題は、社会を「相互利益のための協働事業」と見なすところから生じてくる。人々が協働するとき、彼らは新たな義務を引き受ける。同時に、協働なしには不可能だったものを作り出すことにより、新たな利益を生み出す。分配の正義とは、こうした社会的生産物とそれがもたらす負担の公正な分配の問題である、とロールズは指摘する。さらにロールズは言う。不平等は許容できる。しかしそれは全生産量を大きくするのにそれが役立つ場合だけに限られる。例えば、生産性向上が見込まれる場合だ。 不平等が存在してよいのは、それが全体の利益に照らして許される場合に限られる。したがって、最も暮らし向きの悪い人々の状況を、向上させる場合に限り、不平等は許される。これがロールズの主張だ。
 ノージックはどのように言っているか?@格差が社会制度から起こると考えるなら、「犯罪から起こるコストを、犯人に帰さずに社会全体に拡散させることになる」と批判する。つまり自己責任を強調するわけだ。 A人生のスタートにおいて資産は平等であるべきだ、とのロールズの主張を批判する。何かに対して権利をもつためには、それが功績に応じたものである必要はない。「社会的運の偶然性」を拭い去ろうとすべき根拠はない、と言い切る。Bロールズの格差原理は各個人の個性を侵害する、と主張する。恵まれない人のために、として他の人の資産を強制的に税金として集めるのは、個人の人格や個性を認めないことに等しい、と批判する。この批判は「ロールズは人格の別個性を重視しない点で、ロールズが批判する功利主義者と同じ過ちを犯している」という批判になる。 (「ノージック」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『9.11 アメリカに報復する資格はない』          ノーム・チョムスキー 山崎淳訳 文芸春秋社   2002. 9.10
『チョムスキー、世界を語る』 ノーム・チョムスキー、D.ロベール、V.ザラコヴィッツ 田桐正彦訳 トランスビュー 2002.10. 5
『正義論』                          ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『ロールズ「正義論」とその批判者たち』    Ch・クカサス Ph・ペティット 山田八千代ほか訳 勁草書房    1996.10.14
『アナーキー・国家・ユートピア』               ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1992. 8. 6
『ノージック 所有・正義・最小国家』        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
( 2004年7月12日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(12)アナルコ・キャピタリズム、アナルコ・サンディカリズム
<アナルコ・キャピタリズム> リバータリアンとしてここではデイヴィッド・フリードマンを登場させよう。父ミルトン・フリードマン譲りの自由主義者が若いとき書いた著作からの引用だ。
 本書の大部分は1967年から初版刊行の1973年の間に書かれた。時々誰かが、通常はオンラインで、私にこう質問する。私は今でも本書の主張を信じているのか?それとも私は若いころの極端な見解を捨てたのか? それに対する答えは、「私はそれらの見解を捨ててはいない、もっともいくつかのケースについてはそれを深化させたと考えたいが」というものだ。
 私の政治的見解は自然で自明なものと思われる──私にとっては。私の見解を奇妙だと考える人々もいる。私の見解が奇妙である理由の大部分は、政治的弁論の中で十分におなじみのいくつかの言明を、その自然な結論にまでつきつめているという点にある。
 多くの人々が信じていると自称しているように、私も自分自身の行き方を決める権利──自分自身の仕方で地獄に行く権利──を持っていると信じている。左翼の多くの人々のように、私はすべての検閲は廃止されるべきだと結論する。またドラッグ──マリファナ、ヘロイン、あるいはいかさま医者のがん治療剤──を禁止するすべての法律は廃止されるべきである。 自動車にシートベルトを取り付けるよう要求する法律もそうである。
 私の生活をコントロールする権利は、私が欲しいものをすべてただで持てるという権利を含まない。私がそれをできるためには、私が手に入れるものの代金を誰か別の人に支払わせるしかない。良質の右翼人士と同様、私は納税者から強制的に取り上げた金銭を使って貧しい人々を支援する福祉プログラムに反対する。
 私はまた関税や補助金やローン保障や都市再開発や農産物価格補助──要するに、しばしば貧しい納税者から強制的に取り上げた金銭を使って、しばしば金持ちである貧しくない人々を支援する、はるかに一層多数のプログラムのすべて──にも反対する。
 私はアダム・スミス型のリベラルである。あるいは現代アメリカの用語法によれば、ゴールドウォーター型の保守派である。ただし私はレッセフェールへの傾倒をゴールドウォーターよりも徹底させている──それがどの程度かは、以下の本文で明らかになるだろう。私は時々自分をゴールドウォーター型アナキストと呼ぶ。
学校を売却する 
今年最も注目を集めたなぞなぞ──公立学校はどこがアメリカ郵政公社と似ているか?答え──両方とも非効率的で、年を追うごとに費用がかさむものであり、果てしなく続く不満のタネであるが、それについてはいまだ何もなされていない。要するに、それは典型的な政府独占である。郵政公社は法的独占である。つまり、第1種郵便物を営利目的で配達することは誰にもできない。公立学校は州や地方政府からの資金による独占である。 助成金を受けていない私立学校が公立学校と競うためには、単に優れているだけではなく、その顧客たちが自分たちの負担した金額をあきらめるほど優れていなければならない。
 簡単な解決方法が存在している。それは、政府が学校を助成する代わりに教育費を助成するというものである。これは、バウチャー・システムによって簡単に遂行することができるだろう。このシステムでは、各学校が州から授業料バウチャーを受け取る。そして、このバウチャーは公立であれ、私立であれ、宗教系学校であっても、基準を満たす、すべての学校で引き換えることができる。 バウチャーの値段は州が支出する一人当たりの教育費に相当する。公立学校システムは、生徒からバウチャー形式で得られる収入によって運営していかなければならない。私立学校や宗教系学校は、追加の授業料や慈善募金、教会の収入でバウチャーを補うこともできる。
 こうして、学校システムは本来の競争へと開かれることのなるだろう。より低いコストでよりよい教育を提供する方法を見出した教育企業家が金を稼ぎ事業を拡大する。他方、私立学校だけでなく公立学校もその競争相手となり、事業の改善を図るか廃校する必要も出てくるだろう。このような企業家は、優秀な教師を捜し出してそれに見合う報酬を支払う、最も高いインセンティブを有している。さまざまな教授法が試みられ、失敗したものは消滅し、成功したものは模倣されるだろう。
(「自由のためのメカニズム」から)
 教育バウチャーについては多くの経済学者が推奨している。その割に基本的な事柄ばかりで、具体的なものがあまりなかった、と思いつつ少し書いてみた。 新春初夢、30年後の日本経済の中で <教育予算の内容が変わり、学生・生徒獲得競争が始まった>及び<教育の民営化が進む>▲をお読み下さい。この教育バウチャーが取り上げられると、一緒に「負の取得税」が取り上げられる事が多い。これに関しては <新しい所得税法>▲を読んでみてください。
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<アナルコ・サンディカリスム> 20世紀初頭にフランスからスペインに入ってきたアナルコ・サンディカリスムは、1911年に全国労働者連合(CNT)を結成した。紆余曲折はありながらもスペインでは根強い支持を得ていた。しかし1936年7月17日、モロッコでフランコが反乱を起こした事から始まったスペイン内戦(<フランコのスペイン>▲<スペイン戦争>を参照)で、一時的に共存していたアナーキストとコミュニストがその後離反し、モスクワ、コミンテルの支持を受けた共産党からも攻撃を受け、1937年8月頃から守勢に立たされ始めた。この反フランコ側の主導権争いは陣営内の結束を弱め、CNTにとっては戦争とともに革命をも失う原因となった。その後フランコ時代を通じてCNTは完全に力を失った。 両大戦間フランスではアナーキストよりも共産党の影響力があった。大きなゼネストを決行し1936年6月4日、社会党のレオン・ブルムを首相とする人民戦線内閣を誕生させた(共産党は閣外協力)<人民戦線内閣の誕生>▲。1934年10月からフランス共産党の機関誌、リュマニテが使い始めた「人民戦線=フロンポピュレール(Front populaire)」がこの時代のキーワードとなる。 このような赤く燃えた時代も、ナチズム▲、ファシズム、スターリニズムで冷やされソ連をはじめとする社会主義崩壊に伴って遠い昔の出来事のように思われてきた。
 アナルコ・サンディカリズムは昔からある土着の思想で、「放っておくと消え去るのでボランティアで保護しよう」との呼びかけがありそうな、ちょうど消え去りそうな古典芸能のように思われた。ところがどっこい、このアナルコ・サンディカリズムは現代でも生きている。 1977年10月、ペトリカメラが倒産した。ユニークな普及型一眼レフカメラはそれなりの評価を得ていたし、国内よりも海外でも好評を得ていた。しかしユニークなメカニズム故に無理も多く、故障も多かった。倒産後、労働組合は倒産を認めず、自主操業を開始した。経営者がいなくとも、労働者が自主的に運営すれば経営的にやっていけると考えた。 経営者性悪説をとって「経営者は不当な利益を得ている。そのムダをなくせばやっていける」と考えた。しかし経営破綻は「経営者性悪説」では説明がつかなかった。一時マスコミで好意的に取り上げられたが、時と共に忘れ去られていった。
 埼玉県大宮市でカメラの大西が倒産した。店の労働組合員が店を続けようとした。馴染みの客が応援して、テレビにも取り上げられ、うまくいくかのように思われた。しかし、ペトリカメラ同様長くは続かなかった。悪意もなく、人を差別したり、搾取しなければやっていけるだろう、との素人感覚もお遊び程度なら実害はない。しかし、その幻想も家族の生活に関係してくると全くの無害、とは言えなくなってくる。
 ハートが赤く燃える20代、リベラリストの中には「資本主義体制にあっても労働者が主体になって経済を動かすことができる」との幻想をを抱く者が出てくる。ところが30歳過ぎてからも幻想を抱く人が出てくる。30歳前にリベラリストであれば、リベラリズムの限界を知っていたはずだ。30歳前にリベラルでなかったために、リベラリズムの限界も民主制度の限界も分からずに過ごしてきて、30歳過ぎてから社会主義に憧れた人が間違えを起こす。頭がないことが問題だが、30歳前にリベラルでなかったことも原因だろう。 30歳前にリベラルでなかった者が、収入が多く豊になって、社会の矛盾にやっと気づき、市民運動を始める。ハートが熱く燃えたこともなければ、頭もない。同じ感覚、同じ価値観、同じ宗教観を持つ者が、「外部社会に影響を与えずに、自分たちだけで楽しむ運動」であれば、外部の人はこれを無視すればいい。しかし、「社会に貢献している」と思い上がって、外部社会に影響を与え始めると問題が起き始める。
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<宗教に救いを求める人たち> 一般人とは違った価値観で、閉鎖的な社会の中で生活する宗教が、豊かな先進国でも話題になることがある。特にカルト集団と言われる宗教団体の中には集団自殺をしたり、オウム真理教のような事件を起こしたり、民主制度の中にあって理解しにくい行動を起こすことがある。 そのいくつかをピックアップしてみた。
1978年11月18日、南米ガイアナでジム・ジョーンズ( Jim Jones)を教祖とするカルト集団、人民寺院(Peoples Temple)の信者914人が青酸カリを使って集団自殺をした。
1993年4月19日には、デビッド・コレシュ(本名バーノン・ハウエルVernon Wayne Howell)を教祖とする、カルト集団ブランチ・ダビディアンの信者ら77人(87人との説もあり)が、FBIとの銃撃戦の末、焼身自殺をした。
1997年にカリフォルニア州サンディエゴでは、カルト集団組織ヘブンズ・ゲートの信者ら39人が集団自殺している。この教団の教義は「ヘール・ボップ彗星とともに地球に接近する宇宙船に乗り込み、別世界で再生する」だった。
1994年(平成6年)6月27日松本サリン事件、1995年(平成7年)3月20日地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)6月7日松本智津夫逮捕。オウム真理教については多くのホームページで扱っているので、ここではこれ以上詳しいことは扱わないことにしよう。
 上記の教団はマスコミでも取り上げられ、世間に知られているが、一般人の感覚とは違う価値観をもった宗教団体は多い。特別な価値観をもった少数者の集団の中に入ると、精神的に安心するのだろう。宗教団体だけでなく、産業界でも他の産業とは違った価値観があったり、閉鎖的な業界になったりすることがある。 談合が異常ではない土木・建築業界、外国の資本を拒否するマスコミ業界、土の匂いのしない人たちの意見は聞かない農業界、あるいは素人さんとはまるで違う価値観を持つ怖いお兄さんたちの集団、などなど……世間一般とは違った価値観の中で暮らしていると、なかなかそこから抜け出せない。そうした自分の態度を正当化するには「グローバリズム反対」とか「F1ハイブリッド、GMO反対。在来種を守ろう」を唱えることになる。 民主制度ではこうした団体が存在することも否定しないし、「少数者の権利を守れ」と擁護する人権派も出てくることがある。民主制度は、その制度を否定する発言の自由も保証し、実害が出ない限りそうした集団の活動も制限しない。先に挙げた「ハトとタカの社会」を例に取れば、構成員の多くはハトであっても、その社会の中にはタカもいるし、カラスもスズメもコンドルももしかしたら始祖鳥に似た鳥もいるかも知れない。 少なくとも「話せば分かる善意の人たちばかりの社会」ではない。このような雑多な価値観が混在している社会なので、「人々が心を一つにして」などとは望むべきではないし、「人々の価値観が変わらなければ解決しない」などとは言わないことだ。もしろ雑多な価値観が混在しているから、F1ハイブリッドや雑種強勢などが期待でき、自家不和合性の恐れもない、と喜ぶべきだろう。
 「いまや世界一の黒字国・債権大国にのし上がった日本。しかし、ここで暮らす私たちにとって、そのような生活感は乏しい。それどころか海外からは閉鎖的で黒字をかせぐ異質の国と映って、叩かれ続けている。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?」このような感想がある。上記宗教団体の信者はこのような感想をどのように感じるのだろうか?そうして、このような信者を抱える社会では、こうした自虐的な感想はどのように受け取られるのだろうか? あるいは、イラクの人たちは?アフリカの最貧国の人たちは?あるいはアジアでアジアの兄貴分日本を見習って、高度成長へ向かっている人たちはどのような感想を持つのだろうか?このような自虐的な感想を書いて出版するということは、「日本は平和で、豊かな社会なのだ」と思う。
 このホームページでは以前、<百姓一揆は命がけの暴動なのか?>▲<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動>と題して「百姓一揆は無責任な子供たちの散発的なかんしゃくのようなもの」とか「子供のいやいやとしか映らないような一揆があったらしい」と書いた。
 江戸時代百姓一揆が数多く起きている。このことから「幕府の悪政・圧政にたいして各地で農民が立ち上がった」「一揆を起こす百姓は常に正しく、かつ歴史の進歩を体現する。他方これを弾圧する封建的領主階級は歴史の大勢に逆らう反動勢力」と言う歴史の見方、いかにも尤もらしいのだが、それでいいのかな?
 同じ時代ヨーロッパ、イギリスでの農民反乱や大衆運動、1810年代イギリスのイングランド中部、北部の紡績・織布業地帯で起きた一連の工場打ち壊し運動、ラッダイト運動などに比べれば、「百姓一揆は無責任な子供たちの散発的なかんしゃくのようなもの」と感じたのはヨーロッパ人だけの感覚だろうか?
 江戸の同時代人にも、子供のいやいやとしか映らないような一揆があったらしい。1812(文化9)年に近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を残している。「コノ時格別ノ凶歳ト云フニモアラス、民ノ窮モ未ダ甚シカラス、只何トナク人気サワキタチタルナリ」(広瀬淡窓「懐旧楼筆記」)
<マインド・ウィルス=ミーム> 上記<宗教に救いを求める人たち>を普通とはちょっと違った立場からみると、こういう見方もある。リチャード・ドーキンスがその著書「利己的な遺伝子 (The Selfish Gene)1976 」で使い始めた「ミーム (meme)」という概念を使って、リチャード・ブロディがカルト集団について書いているので、その一部を引用しよう。
 1978年ガイアナの小さな村で、深い結びつきをもった人々の集団(訳注:カルト集団ピープルズ・テンプルの913人)が、ある目的でシアン化物と精神安定剤とフラボレイドの混合物を飲んで自殺した。彼らは少なくとも死ぬということは知っていた。そのほかに何を考えていたかということについては推測するしかない。
 彼らは来世でいまよりもはるかにすばらしい報いが待っていると分かっていたのだろうか。彼はリーダーであるジム・ジョーンズの命令に従うことが義務であると信じていたのだろうか。彼らは信仰を続ければすべてが良い方向に動くと信じていたのだろうか。少なくとも、彼らが信じていたことが彼らを傷つけたことは明らかである。彼らは本能から毒を飲んだのではない。彼らは死の結末へ導くミームのプログラムに従ったのである。
 なぜペプシは何百万ドルも使ってコマーシャルを流し、「アーハ?」と際限なくくり返しながら製品を飲む人たちを映しつづけるのだろうか。なぜ風変わりな話が「都会の伝説」として永遠に語りつがれるのだろうか。なぜチェーンレターが世界中を渡り歩き、およそ止まることのないように見えるのだろうか。
 これらの疑問に対する答えは、すべてマインド・ウィルスに関連している。心は細胞やコンピューターと同じように、ウィルスが生存できる条件をすべて備えている。実際、すばやいコミュニケーションと情報アクセスを持つ私たちの社会は、マインド・ウィルスによって魅力ある宿主として日々向上している。 (「ミーム 心を操るウィルス」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『自由のためのメカニズム』 アナルコ・キャピタリズムへの道案内  D.フリードマン 森村進他訳 勁草書房    2003.11.25
『岐路に立つ自由主義』 C.ウルフ、J.ヒッティンガー編 菊池理夫、石川晃司、有賀誠、向山恭一訳 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『現代の法哲学者たち』                               長尾龍一 日本評論社   1987. 8.10
『ミーム 心を操るウィルス』                 リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『利己的な遺伝子』                   リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋    1991. 2.28
( 2004年7月19日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(13)利己的な遺伝子、ミーム
<ミームというウィルスは広まるか?> 先週カルト集団の関して「ミーム」という言葉を使ってみた。「ミームとは心のウィルスである」とは実に適切な表現ではある。しかし確かに当を得ているのだが、それだけでは十分な説明にはなっていない。 かつて物理学で「光は波か?粒子か?」が問題になった時期があった。19世紀初頭には「光が波であるらしい」と思われた。そして、その波を伝えるのに、地球上には光を媒体する物質があると考え、それを「エーテル」と名付けた。 実際にエーテルの存在を確かめた訳ではないが、エーテルがあるとして光の伝達を説明しようとした。これは19世紀後半にマイケルソン・モーレーの実験によってエーテルの存在は否定された。さらにアインシュタインの「光量子仮説」と「特殊相対性理論」によって新たな光の特性が説明されることになった。 さて、このエーテルはこうしてその存在が否定されるのだが、その存在が確かめられなくても、存在するとして仮説を立てることはある。この「ミーム」もそのように考えるといい。つまり、ミームが存在するとは証明できないが、存在すると仮定することによって推論が進めやすくなる。
 動物・植物が進化するのは個体の利己主義ではなくて種の利己主義だ、とは個の利己主義、種の利己主義▲で書いた。「種の利己主義」がすなわち「利己的な遺伝子」と表現される。 このミームという概念は今後、人間社会の学術・芸術・習慣・ファッション・消費行動・政治学・経済学など多くの研究分野で利用されるだろう。ちょうど少し前に扱った「ゲーム理論」のように、この「ミーム」も多方面で利用されるに違いない。TANAKAも政治・経済の分野で使っていこうと思う。
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<「利己的な遺伝子」から> 実際に存在するものを説明するには、実物を見せればいい。あるいは「◎◎へ行けば見ることが出来るよ」と言えばいい。しかしミームにはそうした説明は通用しない。そこでいくつかの説明の仕方を用意することになる。先ずはドーキンス。 その著書「利己的な遺伝子」で初めて「ミーム」という言葉が出て来たページから引用しよう。
 そもそも遺伝子の特性とは何なのだろうか。自己複製子だというのがその答えである。すべての生物は自己複製を行う実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である。 自己複製を行う実体としてわれわれの惑星に勢力を張ったのが、たまたま、遺伝子、つまりDNA分子だったというわけだ。しかし、他の物がその実体となるこのもありえよう。かりにそのようなものが存在し、他のある種の諸条件が満たされれば、それがある種の進化過程の基礎になることはほとんど必然的であろう。
 別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方の世界へ出かける必要があるのだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである。私たちはそれと現に鼻をつき合わせているので。それはまだ未発達な状態にあり、依然としてその原始スープの中に不器用に漂っている。 しかしそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子は、はるか後方に遅れてあえいでいるありさまである。
 新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語根をとれば<mimeme>ということになるが、私のほしいのは、<ジーン(遺伝子)>という言葉と発音の似ている単音節の単語だ。そこで、上記のギリシャ語を<ミーム(meme)>と縮めてしまうことにする。 私の友人の古典学者諸子にはご寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、ミームという単語は<記憶(memory)>、あるいはこれに相当するフランス語の<meme>という単語にかけることができるということだろう。なお、この単語は「クリーム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい。楽曲や、思想、標語、衣服の様式、壺の作り方、あるいはアーチの建造法などいずれもミームの例である。 (「利己的な遺伝子」から)
<リチャード・ドーキンスが書いた「序文」から> 次に引用するのは「ミーム・マシーンとしての私」にドーキンスが序文を書いているので、そこから引用しよう。
 われわれが無意識のうちに他人、とくに両親、両親に準じる役割を果たしている人間、あるいは崇拝している人物を真似するという事実は、誰でもよく知っている。しかし、模倣が、人間の心やヒトの脳の爆発的な膨張の進化、さらには意識的な自己とされているものの進化をさえ説明する重大な理論の基盤になりうるというのは、本当なのだろうか。 模倣がわれわれの祖先をほかのすべての生物から隔てる鍵だったということはありえるのだろうか。私は決してそう考えたことはなかったが、本書におけるスーザン・ブラックモアは、人をじりじりさせるほど強力な論証をおこなっている。
 模倣は、子供がほかのどこかの言語でもなく自分の国の言語を学ぶ手段である。それは、人々が他人の親よりも自分の親により似たしゃべり方をする理由であり、地方によって異なるアクセントがあり、長い時間のうちに異なる言語が存在するようになる理由である。それは、宗教が各世代ごとに新たに選ばれることなく家系を通じて持続する理由である。少なくともそこには、遺伝子の世代から世代への垂直的な伝達や、 ウィルスにおける遺伝子の水平的な伝達と表面的な相似(アイロニー)がある。この相似が実りあるものであるかどうかという問題に予断を下さずに、もし、言葉、思想、信仰、癖、ファッションの伝達において遺伝子に相当する役割を果たしているかもしれない実体について、いやしくも語ろうと望むのであれば、それに名前があった方がいいだろう。この言葉が造成された1976年以来、しだいに多くの人々がこの遺伝子の相似物に対して「ミーム」という名前を受け入れるようになってきた。 (「ミーム・マシーンとしての私」のリチャード・ドーキンスが書いた「序文」から)
<ネットで見つけた分かりやすい説明> ウィキペディア▲では次のように説明している。 ミーム(meme)とは、文化が「変異」「遺伝(伝達)」し「選択(淘汰)」される様子を進化になぞらえたとき、遺伝子に相当する仮想の主体である。例として災害時に飛び交うデマ、流行語、ファッション、言語など、すべてミームとして捉えることができる。 ミームは、「進化論というアルゴリズムに支配される遺伝子」というパラダイムの、文化への適用という形で提案された。「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス 1976)で始めてこの語が用いられ、定着した。ドーキンスは「ミーム」という語を文化伝達や模倣の単位という概念を意味する名詞として作り出した。模倣を意味するギリシャ語の語根 mimeme から遺伝子 gene に発音を似せてミーム meme としたという。以降、進化論・遺伝学で培われた手法を用いて文化をより客観的に分析するための手段として有用性が検討されている。
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<自己複製子としてのミーム> 何かが自己複製子とみなされるためには、それは変異、淘汰、および保持(すなわち遺伝)に基づく進化的アルゴリズムを維持しなければならない。ミームはまちがいなく異変を伴っており──物語が2度まったく正確に同じに語られることはまずないし、2つの建物が絶対的に同じということもないし、あらゆる会話は独特である──、ミームが伝えられていくとき、そのコピーがつねに完璧ということはない。心理学者として、フレデリック・バートレット卿は1930年代に、物語が伝えられるたびに少しずつ潤色され、あるいは細部が忘れられていくことを示している。 ミーム的な淘汰も存在する──ある種のミームは関心をとらえ、忠実に記憶されてほかの人間に伝えわたされるのに対して、まったくコピーされることのないミームもある。そして、ミームが伝えわたされていくとき、そのミームのなかの思想や行動の一部が保持されている──模倣あるいはコピーあるいはお手本による学習と呼ぶためには、もとのミームの何かが保持されていなければならない。したがってミームは、ドーキンスの自己複製子の概念およびデネットの進化的アルゴリズムに完璧に適合する。
 単純な物語を実例として考察してみよう。電子レンジのなかのプードルの話を耳にしたことがおありだろうか?その物語によれば、一人のアメリカ婦人はいつもプードルの体を洗ったあとそれをオーブンで乾かしていたという。彼女がブランドものの新しい電子レンジを手に入れたとき、同じことして、哀れにそのイヌに、痛ましい不慮の死をもたらすことになった。そこで彼女は「このオーブンでプードルを乾かしてはいけない」という警告をしていなかったという理由でメーカーを訴えた──そして勝訴したのだ!
 この話はあまりにも広く知れ渡っていて、何百万というイギリス人が耳にしている──しかし、「レンジのなかのネコ」や「レンジのなかのチワワ」といった別のバージョンを聞いているかも知れない。たぶんアメリカでも。この婦人がニューヨーク出身だったりカンザスシティ出身だったりする、同じようなバージョンがあるかも知れない。これは「都市伝説」の一例で、それが事実であるか否かにかかわりなく、独自の価値または重要性をそなえた生命を帯びるのである。この話はたぶん事実ではないだろうが、真実であることは必ずしも成功するミームの基準とはならない。ミームは拡まることができるのであれば、拡まっていくだろう。
 このたぐいの話は明らかに受け継がれたものである──何百万人が偶然に同じ物語をつくりあげるということはありえないし、話の筋書きが少しずつ変わっていくその変化の仕方を使って、どこでこの話が始まり、どのようにして拡まったかを示すこともできる。そこには明らかに変異がある──元の話がどれか認識できたとしても、誰もが同じバージョンを聞いたわけではない。最後に、そこには淘汰がある──何百万人という人間が何百万という物語を語っているが、その大部分は完全に忘れ去られ、ごくごく少数のものだけが都市伝説の地位を獲得する。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
 上記文章を読んで、いかがでしょうか?理解できますか?「ミーム」という概念を受け入れますか?リベラルとコンサパティブ、右翼と左翼、経済学でも多くの違った立場・主義主張がある。そしてその間に立つ壁はちょっとやそっとでは乗り越えられない事が多い。こうした場合「センスの違い」と片づけるのがいいようだ。人さまざま、説得したり、マインドコントロールしようとしても出来ない、結局「センスの違い」で片づけるしかない場合がある。 「ミーム」を理解できるかどうか?「ミーム」という概念を使いこなすかどうか?人さまざま、受け入れない人もいるかもしれない。「それはそれでしょうがない」と諦めて、それでも話は進めていくことにしよう。
<心のウィルス> ドーキンスは、宗教やカルト──コピーさせるためのあらゆる巧妙な手口を用いて膨大な数の人々のあいだに拡まり、それに感染した人々に悲惨な結果をもたらしうる──のようなミーム複合体に適用するために『心のウィルス』という言葉を造語した。子供たちのゲームや熱狂は伝染病のごとく拡まるが、ドーキンスは、世慣れた大人が簡単に拒絶できるような「心の伝染病」に子供は抵抗力がないのではないか、と述べている。彼は化学のような有益なミーム複合体をウィルス的なものから区別しようと試みた──この問題については、のちに立ち戻るつもりである。
 このテーマは、リチャード・ブロディの『心のウィルス』やアーロン・リンチの『思想の伝説』などのミーム学に関する一般向けの本で取り上げられてきた。この2書はいずれもミームが社会にどのようにして拡がっていくかについて多数の実例を提供しており、またより危険で有害な種類のミームを重視している。今や、ウィルスという概念が、生物学、コンピューター・プログラム、および人間の心という3つの世界すべてに適用できることがわかった。その理由は、これら3つのシステムがいずれも自己複製子を含んでおり、そのなかで役に立たず利己的な自己複製子を特別に「ウィルス」と呼んでいるということである。 (「ミーム・マシーンとしての私」から)
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<新しいパラダイムの誕生> 科学者にとって、自分の考えを一般の人に説明するのはいつも容易ではない。科学は色々な考えを人為的に選択したものである。その選択は科学の性質上、人間の根底にある感情によってではなく、その考えがいかに有用なものであるかを厳密にテストすることによって行われる。したがって新しい科学のアイデアは、はじめは人々に誤って捉えられる傾向があり、いつもおきまりの反応を受ける。1859年にチャールズ・ダーウィンが最初に自然淘汰に関する説を発表したとき、一般人からの反応にはいくつかの段階があった。これらの段階は、革新的なアイディアが人々に受け入れられるまでに、いつも通らなければならないもののようである。その段階とは、つぎのようなものである。
 1 無視と自己満足
 2 あざけり
 3 批判
 4 受け入れ
 私たちの心というものは、どうもそれ自身どのように働いているのかをよく理解できるようには作られていないようでたとえば、あなたが最初にこの本を読んだときに、頭が混乱したり悩んだり急につまらなくなったり、といった症状に陥るかもしれない。あるいは、怒りの感情がこみ上げて来るといったことさえあるかも知れない。 ばかばかしいと思うかもしれないが、こうした感情や症状は、マインド・ウィルスによる実際の防御機能なのである。ウィルスは私たちの心の中で盗みとった部分を守るように進化してきた。そして、その部分を洗い清めようとすると、すぐさま反撃して来るのである。 本書を読むうちにこうした心の反応を感じたとしても、心配はいらない。この本を読み終えれば、そうした反撃は消え去ってしまうだろう。そうなればあなたは自分の未来、さらには人類の未来に対して、強力な武器を持つことになるのだ。 (「ミーム 心を操るウィルス」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』                 リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋   1991. 2.28
『ミーム 心を操るウィルス』               リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社    1981. 1.20
『ミーム・マシーンとしての私』   スーザン・ブラックモア R.ドーキンス序文 垂水雄二訳 草思社    2000. 7.18 
( 2004年7月26日 TANAKA1942b )
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民主制度の限界
(14)ミームによって普及する学説
<新しい学説はどのように受け入れられていくか?> リチャード・ブロディは<新しいパラダイムの誕生>と題して新しい学説が受け入れられる過程を書いている。アマチュア・エコノミストは新しい学説に出会うと戸惑ってしまう。 今までに蓄積した自分の知識では判断できない場合がある。図書館で本を借りてくる。書名にひかれて借りてくるのだが、読んでもよく分からない。新しい考えらしいが、受け入れて良いものか?あるいは「トンデモ本」なのか? こうした場合、その本を含めて似たような本を借りてくる。専門的な言葉で書かれているか?一般人にも分かる言葉で書かれているか?それを判断する。 新しい考えを発表する。これは、先ず専門家に判断して貰うことだ。そのために専門用語を使い、その学問業界の語法で書く。認められ評価が定まると一般人にも分かるように、普通の言葉で書く。 専門家に認められない場合は一般人向けの本は書かない。このように考えていくと、分かりやすい文章で書かれた本は、一般人向けの本であり、専門家もその考えを認めている、と考えられる。
 このシリーズ「民主制度の限界」で「ゲームの理論」と「ミーム」を取り上げた。どちらも分かりやす文章で書かれている。著者が読者に向かって「私の考えをどうぞ理解して下さい」と言っているようだ。その態度は「お客様は神様です」に似ている。 囚人のジレンマも決して分かりにくい話ではないけれど、「指揮者とチャイコフスキー」になるとさらに面白くなる。 比較優位説も<アインシュタインの比較優位>▲になると著者の、読者に分かって貰おうとする、その熱意が感じられ、好感が持てる。
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<アマルティア・センの多数決のパラドックス> 社会を構成する個人の数をnとしよう。nは当然正の整数だが、本書全体を通じて2≦n<+∞が成立することを仮定する。N:={1,2,.,.,n}は社会構成全体の集合である。また、この社会が直面する可能性がある選択肢の集合をX とする。X を構成する個々の選択肢はx,y,z,.,.,.などで表して、本書全体を通じて3≦#X <+∞が成立することを仮定する。ただし、#X は集合X に含まれる要素の個数である。
 ここで注意を要する点は、集合X に含まれる選択肢は、必ずしも現実に選択できる《実行可能な選択肢(feasiblealternatives)》とは限らないという事実である。例えば、ある時点で行われる選挙で社会が直面する可能性がある選択肢の集合は、被選挙権をもつ人々と全体から構成される。これに対して実行可能な選択肢の集合は、立候補を表明する一部の人々から構成されるに過ぎない。 また、希少価値を有効に活用して社会的に最善な資源配分を達成しようとすれば、実行可能な選択肢の集合は、この社会に賦存する本源的な生産要素、蓄積された物的・知的資本などの制約のもとで実現可能な資源配分に限定されざるをえない。実行可能な選択肢の集合を特に明示的に表す必要がある場合には、X と区別してS,T などの記号を用いることにする。
 さて、社会を構成する人々は、それぞれの個性的な観点と利害に根差して、社会的な選択肢に対する個人的な選好をもっているはずである。ある個人iN の個人的選好は、社会が直面する可能性がある選択肢の集合X の上で定義される選好関係Ri によって表現される。その定義は簡単であり、任意の二つの社会的選択肢x,yX に対して、個人i にとってxy と少なくとも同程度に望ましいとき、そしてそのときにのみ、xRiy という論理関係──《二項関係(binary relation)》──が成立するといえばよい。 選好関係Ri に対して、本書は首尾一貫して以下の三つの《合理性(rationality)》の公理が満足されることを要求することにしたい。 (「経済学と倫理学」から
<分かろうと努力しない人は分からなくてもいいよ> 上に引用した文章は、<グー・チョキ・パーの迷走>▲で書いた、多数決のパラドックスに関するアマルティア・センの考えを書いた文章だ。 「多数決のパラドックス」とか「アローの一般不可能性定理」とか言われる、この考え方、もう十分に一般にも理解されているのだから専門用語を使う必要はないと思う。むしろ「素人さん、お断り」のカンバンのように思えてくる。こういう状況だと「ミーム」は繁殖しにくいだろうと思う。
 日本にはいろいろな所に小さな集団がある。宗教団体だったり、業界団体だったり、趣味の会だったり、市民運動だったり、ネットの掲示板の仲間だったり。そこには独特のルールがあって、独特の価値観、倫理観が支配する。独自性が強ければ強いほど団結は強くなり、排他性も強くなる。 新しくそこに参入するのを拒み、そこから抜け出すのも阻害する。しかし「その中から出ない」と心に決めれば、そこは安住の地になる。 素人さんとは違う仁義の切り方をする、怖いお兄さんたちの集団も、一度入ってしまうとそこが安住の地になってしまう。オウム真理教のように脱退させない集団もある。「土の匂いがしない」とよそ者の意見を聞かない。「農業は多面的機能が大切だ」と言って、儲かる農業を否定する。「農業は儲かりません。若い人が参入しても苦労するだけですよ。私たちも競争相手が参入しない方がいいのです。補助金は既得権者である私たちだけが頂きます」。
 参入しようとする者が、力のない者、組みしやすい者ならばいいが手強い相手だと強力に抵抗する。「コメ自由化」を叫んでも影響力のないアマチュアなら無視すればいいが、影響力のある人やそれなりの社会的地位のある人だと、周囲に働きかけて足を引っ張る。既得権者のメンツを潰す規制緩和には、抵抗力の強さを発揮する。 ときにはマスコミ業界に働きかけ論文・評論などの発表・出版の機会を狭めたりする。身近な例では、ネットの掲示板がある。気のあった仲間同士で楽しくおしゃべりを楽しんでいる掲示板、そこの考え方と違った、レベルの高い投書があると、無視したり揚げ足を取ったりして退場して貰うことも見受けられる。 外部社会に影響をあたえず、参加者が楽しむ組織・グループ・運動ならば問題はない。 <縄暖簾の経済学>▲で書いたように、インターネットは<現代人向けストレス解消の治療院>なのだから。 しかし、その運動が外部社会に働きかけて来ると摩擦が起きてくる。つまり<プライベートとパブリック>▲の区別が必要なのだ。
 日本は少子化が進む。今後学生はあまり増えない。先生の職場もリストラが進むに違いない。既得権を持つ者としては、なるべく若い競争相手が参入しないでくれた方がいい。 「教育は特殊な職業である。成果主義は馴染まない」「農業は特殊な産業である。利益追求主義になってはいけない。他の産業のように消費者主導になると自給率が下がってしまう。消費者教育が必要だ」「中小零細企業が多く、地元の産業・景気に大きな影響力持つ土木・建設業を潰してはいけない。そのためには談合も必要である」
 教育も普通の産業と理解されるようになるだろう。金を払ってくれるお客様は神様だ。「受験料・授業料を払ってくれる生徒様は神様です」となるだろう。 <教育の民営化が進む>▲では次のように書いた。 授業の内容も変わった。「学生は勉強すべきだし、授業についてこられない学生は中退してもらって結構」という理論は通らない。先生の給料を出してくれる学生に向かって、そんなことは言えない。メーカーが「我が社の製品が気に入らないなら、買ってくれなくても結構」等とは言わない。自社製品を買ってくれたお客様は大切にして、これからもお得意さまであるように、知恵を絞る。神様はどの大学がいいか?どの先生が分かりやすく教えてくれるか?当然評価する。評価する神様は学生だけではない。卒業生を受け入れる企業も採点評価する。その評価を報道するメディアも幾種類かでき、それぞれが売り上げを競っている。  英会話教室は懇切丁寧に教え、力をつけさす。教え方の悪い教室は不人気になり、生徒が減り、先生の給料が出せなくなる。大学も金を払ってくれる学生を大切にする。授業についていけない学生がいる、ということは教え方が悪いからであり、大学の恥だ、となってきた。
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<ビル・ゲイツの脅迫観念> 「市場経済は弱肉強食の社会だ」その通り。産業界では、今トップにいる企業も「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」という恐怖心をもっている。独占禁止法で規制しなくても、トップ企業がちょっと油断をしていれば業界再編成が起きてくる。あのマイクロソフトにしてもそうだ。いつ強力なライバルが出現するか分からない。そのような緊張感をうまく表現した文章があったので引用することにした。
 マイクロソフトのストックオプションによって得られる伝説の富とはうらはらに、給与は比較的穏当だ。ソフトウェア開発担当者の初任給は、年俸およそ8万ドルで、ビル・ゲイツの給与はわずか36万9000ドル──他のワシントン州の社長と比べてもそれほど変わらない。マイクロソフトは、サラダが終わると次はデザートになるようなところである。
 マイクロソフト社会は、小さな田舎町のように、地元の重要な事件で年代を数える(小さな町とは違い、事件とは、電子メールの文書だ)。長年いる社員は、マイクロソフトのけちを決定づけた瞬間は、1993年の「小エビとウィンナー」文書だと教えてくれる。テクノロジー担当筆頭重役のネーサン・マイアヴォルドが、「このところウィンナーよりも小エビの方が多くなった」という感想を述べると、人事部長のマイク・マレーが、その高めの軽食に現れる愚かな浪費に反対する文書を出した。 マイクロソフトでは、小エビはIBMのことであり、ローマの没落のことであり、軟弱になった他の大組織すべてのことだった。マイクロソフト創立25年を記念する「インサイド・アウト」という豪華本は、この企業価値体系の一面を完璧にとらえている。
 このことを忘れてしまう危険があるので一言すれば、時代に先駆けるこつは、「太る」ではない。「ハングリーである」ことだ。創造力は、幾分かの制限なしには現れない。だから資源の賢い使い方は、マイクロソフト創業以来の事業の伝統なのだ。正直なところ、その当時は他に選択はなかったが。しかしそれは、今でもわれわれの習慣に残っている。理由は単純だ。自分の才覚で生きるのではなく、富みにあぐらをかくようになれば、鋭さも失う危険があるのだ。
 この出版物は、さらに簡潔なモットーを掲げている。「過剰は成功をダメにする」。
 外部の人には、この軟弱になることへの心配は、マイクロソフト文化の中でもいちばん説明しにくい部類に入る。マイクロソフトを率いるこの人のお気に入りの主題は、昔も今も崩壊するという予感だ。「われわれが間違った決定をすれば、この25年にわたって築き上げてきたすべてが過去の歴史になりかねない」と、ビル・ゲイツは創立25周年記念式典で警告している。著書の「思考スピードの経営」(大原進訳、日本経済新聞社)では、「いつか、意欲のある新興企業がマイクロソフトを業界から追い出すだろう」と書いている。
 これはゲイツの個人的な脅迫観念ではない。スティーブ・バルマーを見てみよう。「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」。ジェフ・レイクスは「消費者のニーズとテクノロジーの進歩についていくための改革を続けなければ、いつでも、誰からでも、この座を追われるかもしれない」。マイクロソフトは自惚れ屋かもしれないが、その自惚れのいちばんの対象は、自信過剰がないことだ。外部の人はこの論法を本気にしない。マイクロソフトは巨大な風船だ。誰かがそこに穴をあけても空気が抜けるまでには長い時間がかかる。 ただ、歴史的に見れば、ゲイツもバルマーも絶対正しい。会社が業界のトップでいられる期間は短い。技術革新によって生きる会社は、技術革新によって死ぬのだ。 (「ビル・ゲイツの面接試験」から)
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<宗教も自由市場によって栄える> 先々週カルト集団のことを取り上げた。宗教も色々あって、カルト集団だけが目立つが、昔からの宗教や新興宗教などその種類は沢山ある。カルト集団が話題になると「規制を強化せよ」との声が聞こえてきそうだ。しかし宗教は個人が自主的に選択すべきもので、なるべく規制はない方がいい。どの宗教を選ぶかは「自己責任」であるべきだ。そうした「宗教」と「市場」との関係についてゲーリー・ベッカーが書いているのでここに引用しよう。
 宗教右翼が世に訴える力を強めつつあることに対して、不安を覚える人々が多い。しかしさまざまな宗教が信者の獲得をめぐって競争する環境下に置かれ、どの宗教も国家から特別の取り扱いを受けることのないかぎり、心配することはないと私は考えている。
 競争的な環境の下では、再生派キリスト教徒であれ正統派ユダヤ教徒であれ原理主義イスラム教徒であれ、その他のグループであれ、それらの宗教は、主流の宗教に比べて人びとの精神的・倫理的欲求によりよく応えないかぎり、信者をひきつけることはできない。大方の人びとは、たとえ困難な環境下で育った場合であっても、各個人に自己のライフスタイルを決める力は備わっていると考えている。 彼らは、自らの行為に責任を持ちたいという自分たちの欲求を、宗教教義があらためたいという人びとの欲求を重視してこなかったために、より伝統的な教義を持つ原理主義グループに信者を奪われつつある。家族の崩壊やポルノグラフィ、権威に対する尊敬の欠如を、先頭に立って攻撃してきたのも原理主義者である。
 宗教に関するオープンな”市場”を立場としている国々が、米国などいくつかある。さまざまな流派や宗派が、精神面での指導やそのほかの呼びかけを通じて信者獲得競争を行っている。通常の商品の場合と同じように、競争は宗教にも有益である。なぜなら独占的な地位を占めているときより、競争の圧力があるときのほうが、宗教グループはどうすれば人びとの欲求をよりよく満たせるかを学ばざるを得ないからだ。
 競争が宗教的組織の行動に効果をおよぼすことは、200年前に「国富論 (The Wealth of Nations) 」のなかの目立たない章において、アダム・スミスが言及している。国家から特別な地位を与えられたおかげで英国国教会が英国人の欲求に対して無頓着になったことを、彼はかなりの証拠をもって論証している。また、教会指導者の怠慢と無関心をなくす唯一の方法は、特権を取り去って英国国教会をより新しい宗教との競争下におくことだと説得的に論じている。
 南米においては、カトリック教会は強大な独占的地位を失いつつあり、代わって原理主義派プロテスタントが急速に成長しつつある。その原因は、あまりにも多くのカトリック教僧侶が政治的目標にのみ関心を集中させ、人びとの精神的欲求を無視してきたことにある。第二次大戦前、日本政府は神道を補助し、他の宗教を差別した。戦後、神道の保護は廃止され、現在は何百という新しい宗教が活発に活動している。これらの宗教グループは、神道ではどう見ても満足させられなかった精神的欲求に呼びかける力を備えたのである。
 かつて共産主義国であった東欧や旧ソ連邦の現状ほど、宗教の競争上の魅力というものをよりよく示す現代の例はない。75年ものあいだソ連邦では、教会を閉鎖し宗教指導者を投獄することにより、共産主義への抵抗を弱める努力をした。共産主義は実質的に、非宗教的思想によって独占的地位を確立することを目指したのである。にもかからわず共産主義崩壊後、宗教は隆盛している。インタビューを受けたロシア人の22%以上が、自分は以前は無神論者だったけれども今は神を信じると答えている。 6000以上ものロシア正教の教会や修道院が再興し、他の宗教組織も信者の獲得活動をはじめている。
 これらの事例が示唆するところは、自由主義的な宗教グループも厳格な宗教グループも、公平な土壌で信者獲得をめぐって競争するとき、双方がともにいっそう活発で精力的になるということである。健全な競争を実現するには、どの宗教組織も国家から特別な保護や特権を受けないという、宗教信条のオープンな市場が欠かせない。 (「ベッカー教授の経済学ではこう考える」宗教も自由市場によって栄える(1996)から)
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<経済思想はセンスの違い> 今週は「ミーム」から始まって、「素人さん、お断り」とか教育産業の未来、だとか「ビル・ゲイツの脅迫観念」「宗教も自由市場によって栄える」などと話題が転々とした。書いている本人はそれなりに一本筋を通したつもりではあるけれど、多分これらについて「話題がバラバラで支離滅裂だ」「いちいち気に入らない考えを書いている」と感じた人もいるだろうし、あるいは逆に「どの考えも確かにその通りだ」と言う人もいるだろう。 「経済学は科学なのか?」と言うと神学論争になりそうなので、ここでは触れないことにするが、「真実は一つ」という捉え方はできない。「10人のエコノミストがいると、11の経済政策が提言される」などと言われる。また、論争しても結局は「考え方の違い」で終わることもある。相手を論破出来ないという事は、考え方の違い、センスの違い、ということになる。 実体経済をどのように評価して、それに対する政策を提言するか?もとになる考え方の違い、「センスの違い」という要素が大きいような気がする。「民主制度の限界」で取り扱っている問題、「TANAKAの見方は一つの見方であって、全く違う見方もある」という前提で、このシリーズを読んで下さい。
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<主な参考文献・引用文献>
『ミーム 心を操るウィルス』               リチャード・ブロディ 森弘之訳 講談社     1981. 1.20
『アマルティア・セン 経済学と倫理学』               鈴木興太郎、後藤玲子 実業出版    2001. 9.26
『ビル・ゲイツの面接試験』           ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     2003. 7.15
『ベッカー教授の経済学ではこう考える』 G.S.ベッカー G.N.ベッカー 鞍谷雅敏・岡田滋行訳 東洋経済新報社 1998. 9.17
( 2004年8月2日 TANAKA1942b )
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