貿易・資本自由化関連略年表
西暦 昭和 月 出来事
1949(24)12 「外国為替及外国貿易管理法」制定 自動車等重要製品は輸入割当制とし、通産大臣の外貨資金の割当て許可が必要。
1952(27) 8 日本、IMF・世界銀行に加盟
1953(28) 2 NHK、テレビ本放送開始(東京地区)
1955(30) 1 トヨタ自動車工業、トヨペット・クラウンを発表
1955(30) 9 日本、ガットに加盟 この当時の貿易自由化率はわずか16%。
1958(33) 8 日清食品「チキンラーメン」発売(初のインスタント・ラーメン)
1958(33)12 西欧諸国が通貨の交換性を回復し、為替自由化に踏み切る。
1960(35) 6 「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定。当時の貿易自由化率はほぼ40%。
産業界は自由化に不安で、「政府は国際競争に勝つために、関税・輸出女性など具体策を示せ」と要求した。
1960(35)12 合併により石川島播磨重工業発足。
1962(37) 9 輸入自由化品目拡大(自由化率88%)。
1963(38) 2 ガット11条国(国際収支上の理由で輸入制限はできない国)へ移行。
1963(38) 3 「特定産業振興臨時措置法」を閣議決定するが、審議未了廃案。以後2度国会に上程されるがいずれも審議未了廃案。
1964(39) 4 IMF8条国(国際収支の悪化を理由とした為替制限ができない国)へ移行。OECDに加盟。
これに伴い外貨予算制度・外貨資金割当制度廃止。円は交換可能な通貨になった。これを「解放経済体制」と呼んだ。
1964(39) 6 三菱系三重工合併(三菱重工業発足)。
1964(39)10 名神高速道路開業。東海道新幹線営業開始。東京オリンピック開催。
1965(40)10 完成車の自由化。ここまでの自由化は「第一次貿易の自由化」と呼ばれた。(自由化率93%)。
1966(41) 8 日産自動車とプリンス自動車が合併(自動車産業の再編成始まる)
1967(42) 7 第一次資本の自由化(対内直接投資自由化)始まる。
1967(42) 7 雑誌「エコノミスト」で小宮隆太郎教授らは「直接投資は基本的に世界全体としての資源配分を改善し、
経済厚生を高め、望ましいものである」と主張。
1968(43) 4 霞ヶ関ビル完成(初の超高層ビル)
1969(44) 3 第二次資本の自由化。
1969(44) 3 富士・八幡製鉄合併契約書に調印(新日本製鉄の誕生)
1970(45) 9 第三次資本の自由化。
1971(46) 1 この時点での残存輸入制限品目数はまだ80あった。
1971(46) 4 自動車の自由化。
1971(46) 8 第四次資本の自由化。
1971(46) 8 ニクソン・ショック。アメリカ、一律10%の輸入課徴金設定と金・ドルの交換停止を発表。
1971(46)12 スミソニアン体制発足。1ドル=308円の新レート実施。
1973(48) 5 第五次資本の自由化。
1975(50) 4 この時点での残存輸入制限品目数は30に減少。
※ ※ ※
<自由化が先進国仲間入りへのパスポート>
1967年の第一次自由化以降つぎつぎと進んだ自由化、自由化に反対した攘夷論者が懸念した「外国資本による日本経済支配」は起きなかった。むしろ外貨は技術の伝播に貢献した。
それでも反対派は言うかもしれない、「アメリカの多国籍企業は日本企業の乗っ取りを狙っている」「日本に自由化の圧力をかけたアメリカは、逆に産業の空洞化を起こしてしまった」などの意見は、経済学とは関係のない一種の信仰宗教なのでここでは取り上げない。
第一次資本自由化当時、ある座談会で松下幸之助は次のように言っている。「ひとたび外国の会社が日本に工場を建てれば、もはや簡単に本国に持って帰ることはできない。売ろうとしたら、値を安く売らないかんことになる」「外国企業が日本にやってくれば、それはもう日本のもんや、こうなるわけやね(笑)」(「東洋経済」1967年9月28日臨時号)
ケインズは1924年の論文で「外資系企業の進出失敗・撤退は、その事業資産が本来の価値以下で処分されるので、受入国にとって有利」と言っている。
第二の黒船来襲と騒がれた資本自由化であったが、日本の経営者は「官に逆らった経営者」なども登場して、このドラマ「悲劇に終わる」との予想とは逆に、高度成長への体力作りのトレーニングにして乗り切って行った。
日本経済は、グローバル化・開放経済をバネに逞しく育っていった。貿易自由化・資本自由化は先進国への仲間入りのためのパスポートであったと言える。そして日本の産業人の知恵と努力によって日本は先進国の仲間入りを果たしたのだった。
※ ※ ※
<主な参考文献・引用文献>
『昭和経済史』 中 有沢広己 日経文庫 1994. 3.11
新訂『現代日本経済史年表』 矢部洋三・古賀義弘・渡辺広明・飯島正義 日本経済評論社 2001. 4.10
『20世紀の日本6 高度成長』 吉川洋 読売新聞社 1997. 4. 9
( 2003年9月15日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(2) ニクソン・ショックの意味
<ドル防衛策> 第2次大戦後、アメリカを中心とする自由主義国家では、金と交換ができるドルを中心とした各国通貨の交換率を定め、ドルを国際決済として使うIMF体制をつくった。1930年代の世界大恐慌後、世界各国は金と自国通貨との交換をやめ、金本位制を放棄した。しかし管理通貨制度は十分には信頼されてはいなかった。
「できれば金本位制がいい。しかし、それが難しいなら管理通貨制度でもしようがない」という考え方が主流だった。そこで各国は管理通貨制度にして、アメリカだけは諸外国政府との間で、金1オンス35ドルで交換する、との制度で間接的に金本位制度を保った。
1944年7月、連合国44カ国が、米国のニューハンプシャー州ブレトンウッズに集まり、第2次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議が開かれ、国際通貨基金(IMF)協定などが結ばれた。その結果、国際通貨制度の再構築や、安定した為替レートに基づいた自由貿易に関する取り決めが行われた。この体制をブレトンウッズ体制または、IMF体制という。
この制度は、1960年代半ばまでは世界経済の安定的拡大に役立ったが、1960年代にはドルに対する信頼性が低下し、この体制自体もその信頼性に疑問が持たれるようになった。アメリカは、ベトナム戦争など軍事費の膨張、多国籍企業の海外投資でドルがアメリカ国内から流出し、1971年7月にはドル短期債務が450億ドルにも膨れ上がり、他方、金の保有量が102億ドルにまで減少した。
こうした状況で、1971年8月15日ニクソン大統領はドル防衛の「新経済政策」を発表した。この新経済政策は、
(1) 金とドルの交換停止による金の流出防止。(2) 10%の輸入課徴金の賦課 を主な内容としていた。
金ドル交換停止によってドル売り投機が必至な情勢になった。これに対して、欧州諸国の外為市場は閉鎖され、その後は変動相場制に移行した。日本では、日銀当局が1ドル360円を守るためドル買支えを続け、28日に変動相場制に移行するまでに40億ドルを抱え込んだ。この2週間の間に大手商社・銀行などの大企業は通貨投機にはしり、約2000億円の利益を得た。
ニクソン・ショック関連略年表
西暦 昭和 月 日 出来事
1944(19) 7. 1 ブレトンウッズ体制(IMF体制)発足
1970(45) 6.24 日米繊維交渉で合意に達せず、双方が遺憾を表した共同声明を発表
1970(45) 7.16 西独、公定歩合引下げ(7.5%→7%, 11.18-6.5%, 12.3-6%)
1971(46) 5. 9 西独・オランダ、変動為替相場制移行を決定
1971(46) 8. 9 欧州為替市場でドル売り殺到、金・マルク相場が最高値記録
1971(46) 8.15 ニクソン米大統領、金・ドル交換停止などを含むドル防衛策発表 ニクソン・ショック
1971(46) 8.16 東京外為市場、ドル売り殺到。欧州為替市場、混乱回避のため22日まで閉鎖
1971(46) 8.19 東京外為市場、ドル売り殺到で一時機能マヒ
1971(46) 8.23 欧州各外為市場を再開し変動相場制へ移行
1971(46) 8.28 政府、円の変動相場制移行を実施
1971(46) 9.27 IMF・世銀年次総会、通貨調整で結論でず
1971(46)11.15 米商務省、1-9月の国際収支赤字230億ドルをこしたと発表
1971(46)12.18 10カ国蔵相会議、固定相場制への復帰を決定。スミソニアン体制発足
1971(46)12.20 政府、1ドル308円に円切り上げ(日欧の外為市場閉鎖)。米、10%の輸入課徴金を撤廃
1971(46)12.26 米、北ベトナム爆撃再開
1972(47) 1. 3 日米繊維政府間協定調印
1972(47) 6.23 英、変動為替相場制に移行(欧州各国外為市場閉鎖)
1973(48) 2. 2 日欧外為市場でドル売り激化、各国中央銀行ドルを買い支え
1973(48) 2.10 欧州通貨危機のため東京外為市場閉鎖(2.12英仏も閉鎖)
1973(48) 2.12 ニクソン米大統領、ドル10%切り下げ、緊急輸入制限措置などを発表
1973(48) 2.14 東京外為市場再開し、円は変動相場制に移行(2.15 1ドル264円で出発)
1973(48) 2.22 欧州自由金市場で金価格88-902ドルを記録
1973(48) 3. 1 EC諸国でドル売り進行、通貨不安再燃(3.2-3.18欧州各国外為市場再閉鎖、日本も)
1973(48) 3.11 EC緊急蔵相会議、6カ国の共同変動相場制決定(3.19実施、IMF体制の崩壊)
1973(48) 5.14 ロンドン金市場の金自由価格100ドルに急騰(5.21-112.5ドルの史上最高)
1973(48)10.10 OPEC、10.15から原油引上げ発表。第1次石油ショック始まる
※ ※ ※
<M・フリードマンの見解>世界の金融市場を混乱に陥れたニクソン・ショック、しかし、このことを適切に解説したエコノミストはいなかった。そのような当時、ミルトン・フリードマンは、シカゴ・マーカンタイル取引所(The Chicago Mercantile Exchage=CME)の要請によりわずか数ページの短い論文「通貨フューチャーズ・マーケットの必要性について」(The Need for Futeres Markets in Currencies)を発表した。
これはCMEが通貨先物取引の必要性を説いたもので、後にCMEの幹部は「あの論文は我々の考えていたことに理論的な裏付けを与えるものであった。あの論文がなければ、この通貨先物取引の概念は現実のものにはならなかったであろう」と言っている。この論文はニクソン・ショックから僅か4ヶ月後の1971年12月20日の発表されたもので、この中でニクソン・ショックについて考えを書いている。要点は次のとおり。
1971年8月15日、ニクソン大統領は金・ドルの交換停止を行ったが、それは1968年初めに金の二重価格制を採用したときに現実にはすでに発生していた変化を公式に認めたということにすぎない」「今後どのような通貨体制ができるのか━━ドル本位制を続けるのか、またはそれに代わる国際通貨体制が新たに出現するのか━━誰にもわからない」として、さらに「ブレトン・ウッズ協定はすでに死んだ」「中央銀行は公定為替レートの設定を今後も行う場合でも、変動幅を相当広げることを許容するであろう」
「公定為替レートはより束縛がなくなり、これまでと較べてより僅かな圧力で変更されるであろう」
ミルトン・フリードマンでさえこの程度のことしか言っていない。今ならアマチュア・エコノミストでも「なぜ変動相場制がいいのか」その理由を、自信を持って説明できる。それほど当時としては、どのように理解していいかわからない、ショッキングな出来事だった。変化を怖れる指導者にはとても決断できなかったろうし、日本に多くいるような抵抗勢力はこれを容認しなかったであろう。そんな大きなショックを乗越えて世界の金融経済は発展して行く。このショックもまたグローバリジェーションのひとつであった。
<ドルは世界の成長通貨>金本位制や固定相場制よりも管理通貨制度と変動相場制の組合せがいいことは、当然のことなのでここではくどくは説明しない。ここでは金・ドル交換停止と変動相場制移行を「成長通貨」をキーワードに一つの考えを展開してみようと思う。
一国の経済が成長してくると、それに伴って通貨流通量も多くなる必要がある。これを成長通貨と言う。日本では「成長通貨は公債の日銀買いオペにより供給する」ことになっている。市場から民間銀行を通して国債を買う。これにより日銀口座残高(ハイパワード・マネー)が増加し、通貨流通量(マネー・サプライ)が増加する。これは一国内での経済成長と通貨流通量の関係だ。では世界経済ではどうなるか?世界の通貨は米ドル。この米ドルが世界貿易の決済に使われる。従って世界経済が成長すればそれに伴って通貨流通量(米ドル)の増加が必要となる。
日本国内では日銀の買いオペによって成長通貨を供給する、世界経済では世界市場に米ドルを供給することになる。日本は管理通貨制度なので、政府・日銀の信用があればいくらでも通貨を供給することができる。しかしアメリカは各国政府・中央銀行から要請があれば持ち込まれた米ドルに対して金を提供しなければならない。つまり日本国内では管理通貨制度であり、アメリカ国内でも管理通貨制度になっているが、世界経済では米ドルの金本位制になっていた。戦後世界経済は大きく成長し、それに伴い成長通貨も必要になったが、米ドルの発行量はアメリカが保有する金の量に制約された。
つまり金・ドル交換を保証するかぎり世界通貨である米ドルの発行量も制約を受けた。
世界の成長通貨である米ドルは、世界市場にどのような方法で供給されるのだろうか?中央銀行の買いオペで供給されるのは一国内でのこと。アメリカから米ドルが世界市場に供給されるということは、アメリカの経常(貿易)収支が赤字になるということだ。もしアメリカが貿易黒字になると、アメリカの生産物が世界に提供され、米ドルがアメリカに戻ってくる。世界市場にはアメリカ製品が溢れ、米ドルはアメリカに戻って世界市場では通貨不足になる。世界市場は通貨不足でデフレ、不況になる。アメリカが貿易赤字を出すと、世界各国の生産物がアメリカに集まり、米ドルが市場にばらまかれる。世界市場では通貨が多くなり、市場では活発な取引が行われ世界経済は期待通りの成長が進む。
このようにアメリカが貿易赤字を出すこと、これが世界の成長通貨を供給する方法となる。これらの事柄が理解できると、金1オンス=35ドルのブレトンウッズ体制の矛盾に気がつく。世界経済が成長するには成長通貨である米ドルが供給されなければならない。アメリカが米ドルを発行するには金保有の裏付けが必要。そのためにアメリカは経常収支黒字でなければ金保有量を増やすことができない。このためアメリカはせっせと貿易黒字を貯めることに専念する。そうすると世界市場から米ドルがアメリカに舞い戻って、米ドル不足となる。成長通貨は供給されず、逆に通貨流通量は減っていく。アメリカが貿易赤字になれば金保有量は増えず米ドルは増刷できない。アメリカが貿易黒字になれば世界市場から米ドルがアメリカに戻ってしまい、通貨流通量は減ってしまう。
ブレトンウッズ体制とはこのような矛盾を抱えながら四半世紀あまりも続いていた、そして、そのことに対しての経済学者・エコノミストからの批判はなかった。
ニクソン・ショックによって世界経済が成長するための世界通貨制度の仕組みができた、と言っていいだろう。ショックは大きく、日本の金融当局は外為市場でドル買いを続け、そのために多くの税金を浪費することになった。もっともそれと同じ程度、日本企業は外為市場で利益を得たので、日本全体で見るとあまり変化はないのかもしれない。国民の税金が、政府→日銀→外為市場→日本企業と移っただけだったのかもしれない。それはともかくミルトン・フリードマンでさえあの程度しか言えなかったニクソン・ショック、今になって振り返れば、それを機会に世界経済の成長への道筋ができた、と言うことができる。
※ ※ ※
<主な参考文献・引用文献>
『ザ・シカゴ マーケット』 河村幹夫 東京布井出版 1984. 9.10
新訂『現代日本経済史年表』 矢部洋三・古賀義弘・渡辺広明・飯島正義 日本経済評論社 2001. 4.10
( 2003年9月22日 TANAKA1942b )
補足
2003年10月23日テレビ東京WBSでロバート・マンデル教授が言った、「ドルが世界の基軸通貨である限り、アメリカは借金をし続けることになる」と。アメリカの経常収支の赤字を懸念する向きも多い。しかしアメリカが経常収支赤字でドルを世界市場にばらまいているお陰で、世界経済の成長通貨が供給されている、という側面も忘れてはならない。ちなみに「円をアジアの基軸通貨に」との主張もあるが、これは「円をアジアの基軸通貨にするために、日本は貿易赤字を出し、アジアに日本の通貨=円を供給しよう」との主張になる。この人たちは「日本は輸出を促進すべきだ」と言っているのか?それとも「赤字を出して、アジアに円を供給しよう」と言っているのか?多分自分の言っている矛盾に気づいていないのだろう。
もう一つ、コメンテータのこんな発言があった、「これから日本は規制緩和で内需拡大すべきだすね」と。規制緩和は、企業間の競争を促進し、生産性を高めることと、「お客様は神様です」を徹底させることに効果があるが、内需拡大の効果は分からない。不用意な発言であった。(2003.10.24)
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(3) アジア通貨危機は経済の「成長痛」
<タイのバーツ危機が発端となった>
それは1997年7月2日にタイがそれまでの主要通貨によるバスケット方式を改め、変動制に移行し、これをうけてバーツが暴落したことから始まった。タイでの通貨暴落は周辺諸国に波及した。フィリピン・マレーシア・インドネシアなどでは、通貨が暴落し、外資が急速に流出し、為替相場下落による対外債務増大、大幅な信用収縮、不良債権の増大と経済の深刻な停滞をもたらした。
韓国では、財閥を中心とする産業構造及び金融部門の脆弱さが表面化し、海外からの投資資金の回収が加速して、11月ウオンが急落した。香港でも投機筋による株式市場と為替市場の同時攻撃を受けた。
ポール・クルーグマンが1994年に「幻のアジア経済」を発表し、アジア地域の高度成長にに疑問を投げかけた。アジアでは生産性の向上はなく、単に外部からの資金の投入によって経済が拡大しているだけで、いずれ成長は止まる、とうのが論旨だった。日本では渡辺利夫がそれに反論して、アジア経済は確実に成長している、と主張した。マスコミは、ヘッジファンドを非難すると同時に悲観論を多く報道した。
しかし6年経った今、アジア経済は確実に成長しているのがわかる。アジア諸国が、世界経済の中で、政府管理のドル・ペック為替制度からごく普通の、世界スタンダードの変動相場制に移行する過程での、そして大人になる過程での「成長痛」だったことがわかる。
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アジア通貨危機関連略年表
西暦 平成 月 日 出来事
1993( 5) 3. バンコクのオフショア市場としてBIBF(Bangkoko International Banking Facility)創設
1997( 9) 7. 2 タイ政府バーツの変動相場制移行を決定 アジア通貨危機
1997( 9) 7.11 フィリピン政府、ペソの為替取引バンドを撤廃
1997( 9) 7.11 インドネシア、ルピアの為替変動幅を上下4%から6%に拡大
1997( 9) 7.18 フィリピン、IMF拡大信用供与の制限延長および信用拡大を受けることを決定
1997( 9) 8. 5 タイ、通貨危機の構造改革策作成。IMFに支援要請
1997( 9) 8.11 タイにIMFなどから160億ドルの融資決定
1997( 9) 8.14 インドネシア、ルピアの為替変動幅制限を廃止、事実上の変動相場制移行
1997( 9)10. 8 インドネシア、IMFなどに支援要請
1997( 9)10.31 インドネシアにIMFなどから230億ドルの資金支援を発表
1997( 9)11.17 日本で北海道拓殖銀行、都市銀行初の経営破綻
1997( 9)11.19 韓国、金融市場安定のため17兆5000億ウオンの公的資金導入と、ウオンの変動幅を2.25%から10%に拡大
1997( 9)11.24 日本で山一証券、自主廃業(負債総額約3兆5000億円、簿外債務2648億円)
1997( 9)12. 3 韓国、IMFなどから570億ドルの支援を受けることを決定
1997( 9)12.16 韓国、変動相場制に移行
1998(10) 1. 6 インドネシア、ルピア下落。1ドル=1万ルピアを割る
1998(10) 1.15 IMF、インドネシアと経済改革で合意
1998(10) 5.21 スハルト・インドネシア大統領辞任。32年間の独裁体制崩壊
1998(10) 8.17 ロシア、ルーブル切り下げ
1998(10) 9. 2 マレーシア、固定相場制、資本流出規制実施
1998(10) 9.24 ヘッジファンドLTCM経営危機表面化(欧米金融機関支援35億ドル)
1998(10)10.23 政府、長銀の一時国有化を閣議決定(2000.3.1 長期系銀行の終焉)
1998(10)10.30 G7、ヘッジファンドなどの短期資本に対する問題に懸念を緊急表明
1999(11) 1. 1 EU11か国、単一通貨ユーロを導入する通貨統合、開始
1998(11) 1.15 IMF、インドネシアと経済改革で合意
※ ※ ※
<ドルペックという為替政策の限界>
タイの為替政策は米ドルを中心とした、通貨バスケット制をとっていた。しかしドルのウエイトが大きく、現実にはドルペック制であった。一国の対外経済規模が小さく政府・中央銀行がコントロールできる内は問題ないが、経済規模が大きくなると、政府のコントロールが効かなくなる。
こうなったら政府が管理しようとするのではなく、市場のメカニズムに任せた方がいい。経済のファンダメンタルや将来に対する期待によって市場は変化する。この市場の変化が、常に微調整をする働きをし、大きな乱高下を未然に押さえる。
タイではBIBFが創設され、金融面で世界に窓口を開くことになった。オフショアであるから政府のコントロールはきかない。政府のコントロールのきかない資金が多くあり、それでいて政府がコントロールしてこそ成り立つ金融制度を残していた。そこ通貨危機を危機を招いた根本原因だったと思う。
経済規模が大きくなるに従い、それに対応した金融制度も変化しなくてはならない。金本位制→通貨管理制度、固定相場制→変動相場制、保護貿易→自由貿易、政府が管理する為替制度→市場に任せる為替制度。
アジア経済が成長し、投資もしやすくなった。ところが投資先は少なかった。行き先のない資金は日本と同じように不動産に向かった。設備投資と違って不動産投資は新たな付加価値創造は行わない。通貨が増大することによってインフレが起こるか?あるいはバブルがはじけるか?だった。もし不動産以外に投資先があったら?そしてそれが新たな付加価値を生み出すとしたら?
タイのバブルの膨らみ方は違っていたであろう。2001年4月30日に「タイ米を買うことは タイに迷惑か?」▲ で書いたように、たとえば、日本のコネ不作のとき、日本国民がコメ自由化を決断していたら、タイでの海外からの投資資金は農業産業へも向かっただろう。農業が投資資金を吸収し新たな機関産業になった可能性がある。
※ ※ ※
<ショックを乗越えてアジアは発展する>
アジア通貨危機とはなんだったのか?当時はいろんな人がかなり無責任なことも言った。マスコミはセンセーショナルに、悲観的に書きたてた。ヘッジファンドへの八つ当たりもあった。今振り返ると「大人になるための試練」だった。植民地から独立し、開発独裁を進め、政府主導の経済政策で、民間は政策の枠の中で、経済成長を進めてきた。民間の力がつけてきて、グローバル経済のなかで一人前の行動をとろうとしてきた。
世界の基準は自己責任。政府の保護は小さい。そうしたスタンダードの世界で固定相場制は日本の護送船団方式と同じ産業保護政策だった。大きなショックではあったけれど、これを乗り切ってアジアは自由貿易・自由経済社会の一人前として参加することになった。
政府がコントロールすることのできないBIBFの存在がアジア通貨危機の原因を作ったのだが、これからは市場のメカニズムにコントロールを任すことになる。嫌米感情と反資本主義感情とが一緒になって、それに隠れコミュニストが加わって、グローバルゼーションを批判する。社会制度が時代の変化に対応しようとして大きく変化するとき、歪が出たり、痛みを感じる人が出ることがある。
それでも社会は進化・発展していく。アジア通貨危機とは社会・経済が発展していく過程での「成長痛」だったのだと思う。アジア経済の成人式でもあった、と捉えるのが正解なのではないだろうか。
※ ※ ※
<主な参考文献・引用文献>
『アジア金融危機』 高橋琢磨・関志雄・佐野鉄司 東洋経済新報社 1994. 8. 6
『グローバルマネー』 益田安良 日本評論社 2000. 6.20
( 2003年9月29日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(4) ロシアは通貨危機を乗り越えたか
<社会主義から資本主義へ>
1991年12月、ソ連は解体し、70年に及んだ社会主義の歴史の幕を下ろした。ソ連を構成していた15の構成共和国はそれぞれ主権国家として独立した。
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が進めてきたペレストロイカ(経済建て直し)とグラスノスチ(情報公開=民主化)のスローガンは、欧米自由主義国では評判がよかったが、足下のソ連では賛否両論、思い通りには進展しなかった。
改革が足踏みしている1991年8月、モスクワで共産党保守派によるクーデターが起きた。このクーデターを鎮圧したエリツィンがゴルバチョフに替わり権力を握るようになった。ソ連の権力構造が揺らいでいる間に、バルト3国が独立し、ウクライナとベラルーシの独立宣言が相次ぎ、ソ連の解体は既成事実となった。
1991年12月、ソ連は解体しCIS(Comomonwealth of Independent States=独立国家共同体)が発足した。このときから旧ソ連の共和国は独立し、自力で市場経済への道を歩むことになった。それはイバラの道だった。
1992年初から始まった、改革派ガイダール内閣の自由化政策はIMFの支持は受けていたが、国内の抵抗勢力の力は強く、また年間2510%にもぼる物価上昇のため、国民に支持を失い挫折した。このインフレは通貨流通量の増大というより、国家が独占的に決めていた価格を市場のメカニズムに委ねたことにより、無理に低く押さえられていた価格が、自然な価格になった、ということだった。
国内では抵抗勢力や裏社会の経済力が強く、国外では旧ソ連のCISの中で破綻寸前の国が出てきた。アルメニア、グルジア、キルギスタン、モルドバ、タジキスタンは多額の債務を抱えることになった。
ソ連が解体された後、ロシア・CISの改革は歪んで遅れ、それが ロシア金融危機という象徴的な出来事になって表面化した。
ロシア通貨危機関連略年表
西暦 平成 月 日 出来事
1985(60) 3.11 ソ連共産党書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任
1990( 2) 3.15 臨時人民代議員大会でゴルバチョフが初代大統領に選出、就任。
1990( 2) 6. 3 天安門事件、天安門前広場に集まった民主化要求の学生・市民に対して戒厳令を発令してい中国た政府が人民解放軍を動員し、これを鎮圧
1990( 2)11. 9 ベルリンの壁崩壊、日だけで数万人の市民が西側へわたった。
1991( 3) 8.19 保守派のヤナーエフ副大統領を中心とする非常事態国家委員会がクーデターを起こす
1991( 3)12. 8 ロシア・ウクライナ・ベラルーシ3国は、ソ連邦の消滅と「独立国家共同体」の創設を宣言(アルマアタ宣言)し、他の共和国もこれに追従
1991( 3)12.21 ソ連11共和国、CIS創設協定調印 ソ連69年の歴史に幕
1992( 4) 7. 1 ロシア中央銀行はCIS各国中央銀行のコルレス勘定に貸(借)越限度を設定し、貿易決済ルーブルをロシア中央銀行の管理下に置いた。
1993( 5) 4.16 IMFはロシアに体制転換融資(Systemic Transformation Facility=STF)の導入を決定
1993( 5) 7.22 ロシア中央銀行は新ロシア・ルーブル券(新券)の発行と、旧ソ連ルーブル券(旧券)のロシア国内での流通停止を発表。
1998(10) 1. 1 デノミネーション(1,000分の1)
1998(10) 3.13 チェルノムイルジン内閣解任後、4月30日キリエンコ内閣成立まで政治不安で再びロシア金融不安が始まる
1998(10) 5.28 エリツィン大統領、アメリカ、ドイツ、フランス首脳と電話会談で援助を要請
1998(10) 8.17 ロシア政府、通貨ルーブルの大幅切り下げ、国債償還の停止、民間対外債務の支払停止、という緊急対策を発表 ロシア金融危機
1998(10) 8.23 キリエンコ首相解任され、チェルノムイルジン内閣誕生
1998(10) 8.26 中央銀行は米ドル売り市場介入停止と外貨取引所のルーブル取引一時停止を発表
1998(10) 9.10 チェルノムイルジン首相解任され、プリマコフ内閣誕生
1999(11) 4.28 IMFは約45億ドルの融資内諾を内示
1999(11) 5.12 プリマコフ首相解任され、ステパシン内閣誕生
1999(11) 7.19 ステパシン内閣、IMFとの合意「99年新経済政策」を承認
1999(11) 7.28 IMFは総額約45億ドルの融資を承認、第1回融資約6.4億ドルを実行
1999(11) 8. 9 ステパシン首相解任され、プーチン内閣誕生
1999(11)12. 6 IMFカムデシュ専務理事は、ロシア政府が99年新経済政策で約束した一部が実行されない、として12月7日予定の融資を停止
1999(11)12.31 プーチン大統領代行に
2000(12) 5. 7 プーチン大統領誕生
2002(14)10.23 チェチェン共和国の武装勢力がモスクワの劇場を占拠、ロシア当局は特殊部隊による救出作戦を強行し、犯人40人余を射殺。人質と市民129人が死亡。
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<1998年8月17日>
ロシア政府は、通貨ルーブルの大幅切り下げ、国債償還の停止(モラトリアム)、民間対外債務の支払停止(デフォルト)、という緊急対策を発表した。ルーブル変動幅は1米ドル=5.3〜7.1ルーブルから6.0〜9.5ルーブルに約25%切下げられたが、その後の数日間にルーブル相場は10%以上も下落した。
株価も下落し、ロシア政府のドル建てユーロ債券利回りも上昇した。外国投資家の大量ルーブル売りに、中央銀行は再び大規模な米ドル売り市場介入をしたため、外貨準備はさらに現象した。8月26日、中央銀行は米ドル売り市場介入停止と外貨取引所のルーブル取引一時停止を発表したため、銀行間取引市場でルーブル相場が急落し、1米ドル=10〜12ルーブルになった。
8月末には銀行預金払い戻しが殺到し、払い戻し停止銀行も現れ、中央銀行はいくつかの大銀行の認可を取り消した。9月2日、中央銀行はルーブルの変動相場制移行を決定した。9月中旬、プリマコフ新首相の議会承認で金融市場は安定したが、ルーブルは8月初めより約60%低い1米ドル=約15ルーブルに下落した。中央銀行は、国家の預金保証があるズベルバンクへの預金譲渡を商業銀行に指令し、弱体銀行に預金払い戻し資金の貸し出しを始めた。
<今度はヘッジファンドがやられる>
1997年のアジア通貨危機、ヘッジファンドの攻撃が原因だとの主張があったが、ロシア通貨危機ではヘッジファンドがやられた。この年9月に入ると米大手ヘッジファンドはじめ投資銀行、証券会社その他多数の投資家のロシア国債投資の巨額の損失の発生が相次いで表面化した。
例えば最大手のヘッジファンド、ジョージ・ソロス氏のクオンタム・ファンドが20億ドルの損失、タイガー・マネジメントが6億ドルの損失、バンカーズ・トラストはじめ大手米銀の多数が軒並み各2〜3億ドルの損失、証券大手のソロモン・スイス・バーニーが13億ドルの損失を出したことなどが報じられた。しかし最大のショックは米最大のヘッジファンド、ロング・ターム・キャピタル・マネージメント(LTCM)が巨額の損失を出し(20億ドルともいわれるが金額不明)
経営危機に陥ったことと、米系大手金融機関が合計で144〜300億ドルの巨額の推定損失を出したという各種の報道であった。特にLTCMについては倒産必至の状況に追い込まれたため、市場への連鎖反応を懸念したニューヨーク連銀は9月下旬急遽米欧金融機関債権団による、LTCMに36億ドルの救済融資シンジケートを組織し倒産を食い止めたといわれる。
ノーベル経済学賞受賞者を経営スタッフにしたヘッジファンド、しかしそのコンピュータにロシア金融危機はプログラムされていなかった。今振り返ればリスク管理が甘かったと言える。タイのバーツを攻撃してアジア通貨危機に追い込んだと言われるヘッジファンド、今度は通貨危機によって倒産の危機に追い込まれたのだった。
<プーチンでもっているロシア>
金融危機以後のロシアはルーブル安で輸出が有利になり、IMFからの融資もあり、経済は順調に成長しているかの様に見える。しかし輸出は石油など地下資源の輸出であり、アセアン・中国のような「世界の工場」を目指しているのではない。原油価格が低迷すれば経常収支も赤字に転じるおそれがある。国内の産業は社会主義時代の国営工場からあまり進歩していない。
IMFからの融資もマネー・ロンダリングの疑惑も表面化して、一部実行されないケースも出ている。民主的な市場経済とは言えない面もあり、政治的にも民主勢力は育っていない。現在ロシアはプーチン大統領でもっているようだ。大統領に権力が集中し、反対勢力が弱い。そのため政治的には安定しているように見えている。市場経済が発展していくには権力集中ではなくて、分権でなければ伸びない。「官に逆らう経営者」が出てきてこそ、市場経済は発展していく。
ロシアはようやく社会主義を捨て、市場経済を受け入れようとしている段階だ。その過程で起きた金融危機、それでも市場経済への道のりが厳しいことがわかっただけでも、学ぶことは多かったはずだ。社会主義経済というグロテスクな経済から、普通の市場経済へ移行する課程での成長痛だったと考えると理解しやすいことだろう。
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<主な参考文献・引用文献>
最新『ロシア経済入門』 大島梓・小川和男 日本評論社 2000. 9.10
『ロシア・CIS経済ハンドブック』 小川和男・岡田邦生 全日出版 2002. 2.10
『ロシア 市場経済化の10年』 白鳥正明 東洋書店 2002. 6.15
( 2003年10月6日 TANAKA1942b )