趣味の経済学                        
グローバリゼーションによって社会は進化する
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します       アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の迷信に挑戦します      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します      If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない        アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
2003年11月3日
グローバリゼーションによって社会は進化する
 (1)第二の黒船来襲と怖れられた資本の自由化  ( 2003年9月15日 )
 (2)ニクソン・ショックの意味  ( 2003年9月22日 )
 (3)アジア通貨危機は経済の「成長痛」  ( 2003年9月29日 )
 (4)ロシアは通貨危機を乗り越えたか  ( 2003年10月6日 )
 (5)東欧の火種、民族紛争  ( 2003年10月13日 )
 (6)天安門事件と白猫黒猫論  ( 2003年10月20日 )
 (7)幕末、金貨の大量流出  ( 2003年10月27日 )
 (8)ねずみ講に揺れたアルバニア  ( 2003年11月3日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

グローバリゼーションによって社会は進化する
(1) 第二の黒船来襲と怖れられた資本の自由化
<豊かになったアジアの消費者が日本のコシヒカリを食べる> 2003年7月9日、テレビ東京WBSでタイで「日本のコメ」が人気を博している、との報道があった。
@山岳民族ラフ族の村、サンサリー村では5年前から地元の精米所であきたこまちを買っている。この地方の料理に合う、と評判がいい。日本と同じように炊き上げて食べる。
Aチェンライの富士農園社長梶八十二氏「10数年前から地元の農家に委託してあきたこまちを栽培しています。この3年で倍くらいになっています」「これからも、中の上クラスなら安定して供給することができます」 ▲富士農園梶」
Bチェンライのパーヤン村では年2回日本米を収穫する。農民は言う「日本米はときどき食べますが、ほとんどは売ります。日本米はタイ米よりずっと高く売れるから」。この村では170軒中40〜50軒が日本米を栽培している。
C日本食ブームで日本米は高くても売れる。バンコクのスーパーで、日本産コシヒカリ2Kg=818バーツ(2,300円)、タイ産コシヒカリ2Kg=108バーツ(300円)、タイ産インディカ米2Kg=50バーツ(150円)程度。これだけ高くても日本産コシヒカリを喜んで買うタイの人が増えている。
D日本米の輸出実績、2001年度=231トン、2002年度=538トン。内74%は台湾への輸出。
 これに対するコメンテーター、フェルドマン氏は次のように言う。
 日本の戦後の政策は水田よりも票田ということが問題だったのですね。票を取るために輸入を制限して、高い補助金を出していた。それによって自民党も他の党も票を取ったのです。けれども90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います。今度は補助金を減らしていかなければならない。財政再建ですね。こういう風に、貿易を自由にして、輸入も輸出もできるようになると、財政再建にもつながる。いいな、と思います。
 この報道とは別に新潟の加茂有機米生産組合はアメリカにコシヒカリを輸出している。木徳はベトナムでコメ生産会社、合弁会社アンジメックス社を設立。かつて農業関係の掲示板にカリフォルニアでのコメ作りに関係している人の書き込みがあった。アジア諸国でも、美味しければ農産物の国籍を問わない豊かな消費者が増えている。このため地産地消・尊農攘夷論など一部の保護貿易論者の期待とは逆に、農産物は国境を越えて大きく動き出し始めた。 かつて貿易自由化・資本自由化に先立ち、「日本の産業はダメになる」「自動車産業はアメリカのビッグ3の下請けになる」などの悲観論が幅を利かした。農業もこれから多くのもっともらしい悲観論が言われるだろう。そのような試練を乗り越えて、日本の農業は工業と同じような物作り大国の一翼を担う、逞しい「先進国型産業」になる。
<コメ問題から開放経済について考える>   上記文からコメの話にしようかとも思ったが、違った方向へ発展させてみることにした。それはフェルドマン氏のコメントから始まる。
 90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います
 日本がコメを輸入するようになり、輸出も出来るようになった。そしてこれが自由貿易であり、コメが国際商品となっていく。現代社会を「グローバリゼイションの矛盾が顕著に表れている」などど言う、嫌米主義・反市場経済・反開発主義などと言うべき論調がある。「グローバル資本主義はいずれ民衆の健全な努力でこれを修正することになる」などの主張もある。そうなのだろうか?現代社会はそれほどまでに病んでいるのだろうか?民衆・NGO・反政府・反権力の力で軌道修正すべきなのだろうか?コメの輸出・輸入問題から自由貿易・グローバリゼイション・グローバルスタンダード・開放経済などについて考えてみた。一国の経済が世界規模の経済に組み込まれていくことについて考えてみた。
※                   ※                   ※
<ABCDラインから自由貿易へ> 1945(昭和20)年8月、戦争が終わった。(始まったときは「大東亜戦争」と言ったが、終わったときは「太平洋戦争」と呼んだ)。 東京は焼け野原だらけだった。子供はその焼け跡から銅や鉄くずを拾い集め、屑屋へ持っていきいくつかの1円玉と取替え、それを駄菓子やでキャラメルいく粒かと取替え、それがオヤツだった。リヤカーで「魚の配給ですよ」と回ってきたり、家族で外食券食堂へ行くのは贅沢の一つだった。軍需工場では残っていた材料を使ってなべ・やかんなどを作った。しかしそれも材料がある内だけ、使い切ってしまえば操業が止まる。かつての日本領土であった外地から引揚者が帰ってくる。これに関してはドイツ同様苦労話を始めればきりがない。人々の体験談からも、客観的経済状況からも悲惨な状況は反論を待たない。 そんな日本経済がこれ程までに急激な成長を遂げたのは「自由貿易」のおかげだった。ABCDラインで経済封鎖され「大東亜戦争」に突き進んだ大日本帝国、戦後の日本国は自由貿易のおかげで経済成長を遂げた。
 それでも終戦からしばらくは、1ドル=360円の固定相場と、輸入保護政策に守られていた。その日本が貿易自由化・資本自由化と自由化・グローバル化を進めて行った。そうした日本の自由化政策の略年表を作ってみた。
貿易・資本自由化関連略年表  
西暦 昭和 月  出来事
1949(24)12 「外国為替及外国貿易管理法」制定 自動車等重要製品は輸入割当制とし、通産大臣の外貨資金の割当て許可が必要。 
1952(27) 8 日本、IMF・世界銀行に加盟 
1953(28) 2 NHK、テレビ本放送開始(東京地区) 
1955(30) 1 トヨタ自動車工業、トヨペット・クラウンを発表
1955(30) 9 日本、ガットに加盟 この当時の貿易自由化率はわずか16%。
1958(33) 8 日清食品「チキンラーメン」発売(初のインスタント・ラーメン)
1958(33)12 西欧諸国が通貨の交換性を回復し、為替自由化に踏み切る。
1960(35) 6 「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定。当時の貿易自由化率はほぼ40%。
       産業界は自由化に不安で、「政府は国際競争に勝つために、関税・輸出女性など具体策を示せ」と要求した。
1960(35)12 合併により石川島播磨重工業発足。
1962(37) 9 輸入自由化品目拡大(自由化率88%)。 
1963(38) 2 ガット11条国(国際収支上の理由で輸入制限はできない国)へ移行。
1963(38) 3 「特定産業振興臨時措置法」を閣議決定するが、審議未了廃案。以後2度国会に上程されるがいずれも審議未了廃案。
1964(39) 4 IMF8条国(国際収支の悪化を理由とした為替制限ができない国)へ移行。OECDに加盟。
       これに伴い外貨予算制度・外貨資金割当制度廃止。円は交換可能な通貨になった。これを「解放経済体制」と呼んだ。
1964(39) 6 三菱系三重工合併(三菱重工業発足)。
1964(39)10 名神高速道路開業。東海道新幹線営業開始。東京オリンピック開催。
1965(40)10 完成車の自由化。ここまでの自由化は「第一次貿易の自由化」と呼ばれた。(自由化率93%)。
1966(41) 8 日産自動車とプリンス自動車が合併(自動車産業の再編成始まる)
1967(42) 7 第一次資本の自由化(対内直接投資自由化)始まる。
1967(42) 7 雑誌「エコノミスト」で小宮隆太郎教授らは「直接投資は基本的に世界全体としての資源配分を改善し、
       経済厚生を高め、望ましいものである」と主張。
1968(43) 4 霞ヶ関ビル完成(初の超高層ビル)
1969(44) 3 第二次資本の自由化。
1969(44) 3 富士・八幡製鉄合併契約書に調印(新日本製鉄の誕生)
1970(45) 9 第三次資本の自由化。 
1971(46) 1 この時点での残存輸入制限品目数はまだ80あった。
1971(46) 4 自動車の自由化。
1971(46) 8 第四次資本の自由化。
1971(46) 8 ニクソン・ショック。アメリカ、一律10%の輸入課徴金設定と金・ドルの交換停止を発表。
1971(46)12 スミソニアン体制発足。1ドル=308円の新レート実施。
1973(48) 5 第五次資本の自由化。
1975(50) 4 この時点での残存輸入制限品目数は30に減少。
※                   ※                   ※
<自由化が先進国仲間入りへのパスポート> 1967年の第一次自由化以降つぎつぎと進んだ自由化、自由化に反対した攘夷論者が懸念した「外国資本による日本経済支配」は起きなかった。むしろ外貨は技術の伝播に貢献した。 それでも反対派は言うかもしれない、「アメリカの多国籍企業は日本企業の乗っ取りを狙っている」「日本に自由化の圧力をかけたアメリカは、逆に産業の空洞化を起こしてしまった」などの意見は、経済学とは関係のない一種の信仰宗教なのでここでは取り上げない。
 第一次資本自由化当時、ある座談会で松下幸之助は次のように言っている。「ひとたび外国の会社が日本に工場を建てれば、もはや簡単に本国に持って帰ることはできない。売ろうとしたら、値を安く売らないかんことになる」「外国企業が日本にやってくれば、それはもう日本のもんや、こうなるわけやね(笑)」(「東洋経済」1967年9月28日臨時号) ケインズは1924年の論文で「外資系企業の進出失敗・撤退は、その事業資産が本来の価値以下で処分されるので、受入国にとって有利」と言っている。
 第二の黒船来襲と騒がれた資本自由化であったが、日本の経営者は「官に逆らった経営者」なども登場して、このドラマ「悲劇に終わる」との予想とは逆に、高度成長への体力作りのトレーニングにして乗り切って行った。 日本経済は、グローバル化・開放経済をバネに逞しく育っていった。貿易自由化・資本自由化は先進国への仲間入りのためのパスポートであったと言える。そして日本の産業人の知恵と努力によって日本は先進国の仲間入りを果たしたのだった。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『昭和経済史』 中             有沢広己              日経文庫        1994. 3.11
新訂『現代日本経済史年表』       矢部洋三・古賀義弘・渡辺広明・飯島正義 日本経済評論社     2001. 4.10
『20世紀の日本6 高度成長』       吉川洋               読売新聞社       1997. 4. 9 
( 2003年9月15日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(2) ニクソン・ショックの意味
<ドル防衛策> 第2次大戦後、アメリカを中心とする自由主義国家では、金と交換ができるドルを中心とした各国通貨の交換率を定め、ドルを国際決済として使うIMF体制をつくった。1930年代の世界大恐慌後、世界各国は金と自国通貨との交換をやめ、金本位制を放棄した。しかし管理通貨制度は十分には信頼されてはいなかった。 「できれば金本位制がいい。しかし、それが難しいなら管理通貨制度でもしようがない」という考え方が主流だった。そこで各国は管理通貨制度にして、アメリカだけは諸外国政府との間で、金1オンス35ドルで交換する、との制度で間接的に金本位制度を保った。
 1944年7月、連合国44カ国が、米国のニューハンプシャー州ブレトンウッズに集まり、第2次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議が開かれ、国際通貨基金(IMF)協定などが結ばれた。その結果、国際通貨制度の再構築や、安定した為替レートに基づいた自由貿易に関する取り決めが行われた。この体制をブレトンウッズ体制または、IMF体制という。
 この制度は、1960年代半ばまでは世界経済の安定的拡大に役立ったが、1960年代にはドルに対する信頼性が低下し、この体制自体もその信頼性に疑問が持たれるようになった。アメリカは、ベトナム戦争など軍事費の膨張、多国籍企業の海外投資でドルがアメリカ国内から流出し、1971年7月にはドル短期債務が450億ドルにも膨れ上がり、他方、金の保有量が102億ドルにまで減少した。 こうした状況で、1971年8月15日ニクソン大統領はドル防衛の「新経済政策」を発表した。この新経済政策は、
(1) 金とドルの交換停止による金の流出防止。(2) 10%の輸入課徴金の賦課 を主な内容としていた。
 金ドル交換停止によってドル売り投機が必至な情勢になった。これに対して、欧州諸国の外為市場は閉鎖され、その後は変動相場制に移行した。日本では、日銀当局が1ドル360円を守るためドル買支えを続け、28日に変動相場制に移行するまでに40億ドルを抱え込んだ。この2週間の間に大手商社・銀行などの大企業は通貨投機にはしり、約2000億円の利益を得た。
ニクソン・ショック関連略年表  
西暦 昭和 月 日  出来事
1944(19) 7. 1 ブレトンウッズ体制(IMF体制)発足
1970(45) 6.24 日米繊維交渉で合意に達せず、双方が遺憾を表した共同声明を発表
1970(45) 7.16 西独、公定歩合引下げ(7.5%→7%, 11.18-6.5%, 12.3-6%)
1971(46) 5. 9 西独・オランダ、変動為替相場制移行を決定 
1971(46) 8. 9 欧州為替市場でドル売り殺到、金・マルク相場が最高値記録 
1971(46) 8.15 ニクソン米大統領、金・ドル交換停止などを含むドル防衛策発表 ニクソン・ショック
1971(46) 8.16 東京外為市場、ドル売り殺到。欧州為替市場、混乱回避のため22日まで閉鎖  
1971(46) 8.19 東京外為市場、ドル売り殺到で一時機能マヒ 
1971(46) 8.23 欧州各外為市場を再開し変動相場制へ移行 
1971(46) 8.28 政府、円の変動相場制移行を実施 
1971(46) 9.27 IMF・世銀年次総会、通貨調整で結論でず 
1971(46)11.15 米商務省、1-9月の国際収支赤字230億ドルをこしたと発表 
1971(46)12.18 10カ国蔵相会議、固定相場制への復帰を決定。スミソニアン体制発足 
1971(46)12.20 政府、1ドル308円に円切り上げ(日欧の外為市場閉鎖)。米、10%の輸入課徴金を撤廃 
1971(46)12.26 米、北ベトナム爆撃再開 
1972(47) 1. 3 日米繊維政府間協定調印 
1972(47) 6.23 英、変動為替相場制に移行(欧州各国外為市場閉鎖) 
1973(48) 2. 2 日欧外為市場でドル売り激化、各国中央銀行ドルを買い支え 
1973(48) 2.10 欧州通貨危機のため東京外為市場閉鎖(2.12英仏も閉鎖) 
1973(48) 2.12 ニクソン米大統領、ドル10%切り下げ、緊急輸入制限措置などを発表 
1973(48) 2.14 東京外為市場再開し、円は変動相場制に移行(2.15 1ドル264円で出発) 
1973(48) 2.22 欧州自由金市場で金価格88-902ドルを記録 
1973(48) 3. 1 EC諸国でドル売り進行、通貨不安再燃(3.2-3.18欧州各国外為市場再閉鎖、日本も) 
1973(48) 3.11 EC緊急蔵相会議、6カ国の共同変動相場制決定(3.19実施、IMF体制の崩壊) 
1973(48) 5.14 ロンドン金市場の金自由価格100ドルに急騰(5.21-112.5ドルの史上最高) 
1973(48)10.10 OPEC、10.15から原油引上げ発表。第1次石油ショック始まる 
※                   ※                   ※
<M・フリードマンの見解>世界の金融市場を混乱に陥れたニクソン・ショック、しかし、このことを適切に解説したエコノミストはいなかった。そのような当時、ミルトン・フリードマンは、シカゴ・マーカンタイル取引所(The Chicago Mercantile Exchage=CME)の要請によりわずか数ページの短い論文「通貨フューチャーズ・マーケットの必要性について」(The Need for Futeres Markets in Currencies)を発表した。 これはCMEが通貨先物取引の必要性を説いたもので、後にCMEの幹部は「あの論文は我々の考えていたことに理論的な裏付けを与えるものであった。あの論文がなければ、この通貨先物取引の概念は現実のものにはならなかったであろう」と言っている。この論文はニクソン・ショックから僅か4ヶ月後の1971年12月20日の発表されたもので、この中でニクソン・ショックについて考えを書いている。要点は次のとおり。
 1971年8月15日、ニクソン大統領は金・ドルの交換停止を行ったが、それは1968年初めに金の二重価格制を採用したときに現実にはすでに発生していた変化を公式に認めたということにすぎない」「今後どのような通貨体制ができるのか━━ドル本位制を続けるのか、またはそれに代わる国際通貨体制が新たに出現するのか━━誰にもわからない」として、さらに「ブレトン・ウッズ協定はすでに死んだ」「中央銀行は公定為替レートの設定を今後も行う場合でも、変動幅を相当広げることを許容するであろう」 「公定為替レートはより束縛がなくなり、これまでと較べてより僅かな圧力で変更されるであろう」
 ミルトン・フリードマンでさえこの程度のことしか言っていない。今ならアマチュア・エコノミストでも「なぜ変動相場制がいいのか」その理由を、自信を持って説明できる。それほど当時としては、どのように理解していいかわからない、ショッキングな出来事だった。変化を怖れる指導者にはとても決断できなかったろうし、日本に多くいるような抵抗勢力はこれを容認しなかったであろう。そんな大きなショックを乗越えて世界の金融経済は発展して行く。このショックもまたグローバリジェーションのひとつであった。
<ドルは世界の成長通貨>金本位制や固定相場制よりも管理通貨制度と変動相場制の組合せがいいことは、当然のことなのでここではくどくは説明しない。ここでは金・ドル交換停止と変動相場制移行を「成長通貨」をキーワードに一つの考えを展開してみようと思う。 一国の経済が成長してくると、それに伴って通貨流通量も多くなる必要がある。これを成長通貨と言う。日本では「成長通貨は公債の日銀買いオペにより供給する」ことになっている。市場から民間銀行を通して国債を買う。これにより日銀口座残高(ハイパワード・マネー)が増加し、通貨流通量(マネー・サプライ)が増加する。これは一国内での経済成長と通貨流通量の関係だ。では世界経済ではどうなるか?世界の通貨は米ドル。この米ドルが世界貿易の決済に使われる。従って世界経済が成長すればそれに伴って通貨流通量(米ドル)の増加が必要となる。 日本国内では日銀の買いオペによって成長通貨を供給する、世界経済では世界市場に米ドルを供給することになる。日本は管理通貨制度なので、政府・日銀の信用があればいくらでも通貨を供給することができる。しかしアメリカは各国政府・中央銀行から要請があれば持ち込まれた米ドルに対して金を提供しなければならない。つまり日本国内では管理通貨制度であり、アメリカ国内でも管理通貨制度になっているが、世界経済では米ドルの金本位制になっていた。戦後世界経済は大きく成長し、それに伴い成長通貨も必要になったが、米ドルの発行量はアメリカが保有する金の量に制約された。 つまり金・ドル交換を保証するかぎり世界通貨である米ドルの発行量も制約を受けた。
 世界の成長通貨である米ドルは、世界市場にどのような方法で供給されるのだろうか?中央銀行の買いオペで供給されるのは一国内でのこと。アメリカから米ドルが世界市場に供給されるということは、アメリカの経常(貿易)収支が赤字になるということだ。もしアメリカが貿易黒字になると、アメリカの生産物が世界に提供され、米ドルがアメリカに戻ってくる。世界市場にはアメリカ製品が溢れ、米ドルはアメリカに戻って世界市場では通貨不足になる。世界市場は通貨不足でデフレ、不況になる。アメリカが貿易赤字を出すと、世界各国の生産物がアメリカに集まり、米ドルが市場にばらまかれる。世界市場では通貨が多くなり、市場では活発な取引が行われ世界経済は期待通りの成長が進む。 このようにアメリカが貿易赤字を出すこと、これが世界の成長通貨を供給する方法となる。これらの事柄が理解できると、金1オンス=35ドルのブレトンウッズ体制の矛盾に気がつく。世界経済が成長するには成長通貨である米ドルが供給されなければならない。アメリカが米ドルを発行するには金保有の裏付けが必要。そのためにアメリカは経常収支黒字でなければ金保有量を増やすことができない。このためアメリカはせっせと貿易黒字を貯めることに専念する。そうすると世界市場から米ドルがアメリカに舞い戻って、米ドル不足となる。成長通貨は供給されず、逆に通貨流通量は減っていく。アメリカが貿易赤字になれば金保有量は増えず米ドルは増刷できない。アメリカが貿易黒字になれば世界市場から米ドルがアメリカに戻ってしまい、通貨流通量は減ってしまう。 ブレトンウッズ体制とはこのような矛盾を抱えながら四半世紀あまりも続いていた、そして、そのことに対しての経済学者・エコノミストからの批判はなかった。
 ニクソン・ショックによって世界経済が成長するための世界通貨制度の仕組みができた、と言っていいだろう。ショックは大きく、日本の金融当局は外為市場でドル買いを続け、そのために多くの税金を浪費することになった。もっともそれと同じ程度、日本企業は外為市場で利益を得たので、日本全体で見るとあまり変化はないのかもしれない。国民の税金が、政府→日銀→外為市場→日本企業と移っただけだったのかもしれない。それはともかくミルトン・フリードマンでさえあの程度しか言えなかったニクソン・ショック、今になって振り返れば、それを機会に世界経済の成長への道筋ができた、と言うことができる。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『ザ・シカゴ マーケット』         河村幹夫              東京布井出版      1984. 9.10 
新訂『現代日本経済史年表』       矢部洋三・古賀義弘・渡辺広明・飯島正義 日本経済評論社     2001. 4.10
( 2003年9月22日 TANAKA1942b )
補足  2003年10月23日テレビ東京WBSでロバート・マンデル教授が言った、「ドルが世界の基軸通貨である限り、アメリカは借金をし続けることになる」と。アメリカの経常収支の赤字を懸念する向きも多い。しかしアメリカが経常収支赤字でドルを世界市場にばらまいているお陰で、世界経済の成長通貨が供給されている、という側面も忘れてはならない。ちなみに「円をアジアの基軸通貨に」との主張もあるが、これは「円をアジアの基軸通貨にするために、日本は貿易赤字を出し、アジアに日本の通貨=円を供給しよう」との主張になる。この人たちは「日本は輸出を促進すべきだ」と言っているのか?それとも「赤字を出して、アジアに円を供給しよう」と言っているのか?多分自分の言っている矛盾に気づいていないのだろう。 もう一つ、コメンテータのこんな発言があった、「これから日本は規制緩和で内需拡大すべきだすね」と。規制緩和は、企業間の競争を促進し、生産性を高めることと、「お客様は神様です」を徹底させることに効果があるが、内需拡大の効果は分からない。不用意な発言であった。(2003.10.24)
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(3) アジア通貨危機は経済の「成長痛」
<タイのバーツ危機が発端となった>  それは1997年7月2日にタイがそれまでの主要通貨によるバスケット方式を改め、変動制に移行し、これをうけてバーツが暴落したことから始まった。タイでの通貨暴落は周辺諸国に波及した。フィリピン・マレーシア・インドネシアなどでは、通貨が暴落し、外資が急速に流出し、為替相場下落による対外債務増大、大幅な信用収縮、不良債権の増大と経済の深刻な停滞をもたらした。 韓国では、財閥を中心とする産業構造及び金融部門の脆弱さが表面化し、海外からの投資資金の回収が加速して、11月ウオンが急落した。香港でも投機筋による株式市場と為替市場の同時攻撃を受けた。
 ポール・クルーグマンが1994年に「幻のアジア経済」を発表し、アジア地域の高度成長にに疑問を投げかけた。アジアでは生産性の向上はなく、単に外部からの資金の投入によって経済が拡大しているだけで、いずれ成長は止まる、とうのが論旨だった。日本では渡辺利夫がそれに反論して、アジア経済は確実に成長している、と主張した。マスコミは、ヘッジファンドを非難すると同時に悲観論を多く報道した。 しかし6年経った今、アジア経済は確実に成長しているのがわかる。アジア諸国が、世界経済の中で、政府管理のドル・ペック為替制度からごく普通の、世界スタンダードの変動相場制に移行する過程での、そして大人になる過程での「成長痛」だったことがわかる。 BR>
アジア通貨危機関連略年表  
西暦 平成 月 日  出来事
1993( 5) 3.   バンコクのオフショア市場としてBIBF(Bangkoko International Banking Facility)創設
1997( 9) 7. 2 タイ政府バーツの変動相場制移行を決定
アジア通貨危機 
1997( 9) 7.11 フィリピン政府、ペソの為替取引バンドを撤廃  
1997( 9) 7.11 インドネシア、ルピアの為替変動幅を上下4%から6%に拡大
1997( 9) 7.18 フィリピン、IMF拡大信用供与の制限延長および信用拡大を受けることを決定 
1997( 9) 8. 5 タイ、通貨危機の構造改革策作成。IMFに支援要請 
1997( 9) 8.11 タイにIMFなどから160億ドルの融資決定 
1997( 9) 8.14 インドネシア、ルピアの為替変動幅制限を廃止、事実上の変動相場制移行
1997( 9)10. 8 インドネシア、IMFなどに支援要請 
1997( 9)10.31 インドネシアにIMFなどから230億ドルの資金支援を発表 
1997( 9)11.17 日本で北海道拓殖銀行、都市銀行初の経営破綻 
1997( 9)11.19 韓国、金融市場安定のため17兆5000億ウオンの公的資金導入と、ウオンの変動幅を2.25%から10%に拡大 
1997( 9)11.24 日本で山一証券、自主廃業(負債総額約3兆5000億円、簿外債務2648億円) 
1997( 9)12. 3 韓国、IMFなどから570億ドルの支援を受けることを決定 
1997( 9)12.16 韓国、変動相場制に移行 
1998(10) 1. 6 インドネシア、ルピア下落。1ドル=1万ルピアを割る
1998(10) 1.15 IMF、インドネシアと経済改革で合意 
1998(10) 5.21 スハルト・インドネシア大統領辞任。32年間の独裁体制崩壊 
1998(10) 8.17 ロシア、ルーブル切り下げ 
1998(10) 9. 2 マレーシア、固定相場制、資本流出規制実施 
1998(10) 9.24 ヘッジファンドLTCM経営危機表面化(欧米金融機関支援35億ドル) 
1998(10)10.23 政府、長銀の一時国有化を閣議決定(2000.3.1 長期系銀行の終焉) 
1998(10)10.30 G7、ヘッジファンドなどの短期資本に対する問題に懸念を緊急表明 
1999(11) 1. 1 EU11か国、単一通貨ユーロを導入する通貨統合、開始
1998(11) 1.15 IMF、インドネシアと経済改革で合意 
※                   ※                   ※
<ドルペックという為替政策の限界> タイの為替政策は米ドルを中心とした、通貨バスケット制をとっていた。しかしドルのウエイトが大きく、現実にはドルペック制であった。一国の対外経済規模が小さく政府・中央銀行がコントロールできる内は問題ないが、経済規模が大きくなると、政府のコントロールが効かなくなる。 こうなったら政府が管理しようとするのではなく、市場のメカニズムに任せた方がいい。経済のファンダメンタルや将来に対する期待によって市場は変化する。この市場の変化が、常に微調整をする働きをし、大きな乱高下を未然に押さえる。
 タイではBIBFが創設され、金融面で世界に窓口を開くことになった。オフショアであるから政府のコントロールはきかない。政府のコントロールのきかない資金が多くあり、それでいて政府がコントロールしてこそ成り立つ金融制度を残していた。そこ通貨危機を危機を招いた根本原因だったと思う。 経済規模が大きくなるに従い、それに対応した金融制度も変化しなくてはならない。金本位制→通貨管理制度、固定相場制→変動相場制、保護貿易→自由貿易、政府が管理する為替制度→市場に任せる為替制度。
 アジア経済が成長し、投資もしやすくなった。ところが投資先は少なかった。行き先のない資金は日本と同じように不動産に向かった。設備投資と違って不動産投資は新たな付加価値創造は行わない。通貨が増大することによってインフレが起こるか?あるいはバブルがはじけるか?だった。もし不動産以外に投資先があったら?そしてそれが新たな付加価値を生み出すとしたら? タイのバブルの膨らみ方は違っていたであろう。2001年4月30日に「タイ米を買うことは タイに迷惑か?」▲ で書いたように、たとえば、日本のコネ不作のとき、日本国民がコメ自由化を決断していたら、タイでの海外からの投資資金は農業産業へも向かっただろう。農業が投資資金を吸収し新たな機関産業になった可能性がある。
※                   ※                   ※
<ショックを乗越えてアジアは発展する> アジア通貨危機とはなんだったのか?当時はいろんな人がかなり無責任なことも言った。マスコミはセンセーショナルに、悲観的に書きたてた。ヘッジファンドへの八つ当たりもあった。今振り返ると「大人になるための試練」だった。植民地から独立し、開発独裁を進め、政府主導の経済政策で、民間は政策の枠の中で、経済成長を進めてきた。民間の力がつけてきて、グローバル経済のなかで一人前の行動をとろうとしてきた。 世界の基準は自己責任。政府の保護は小さい。そうしたスタンダードの世界で固定相場制は日本の護送船団方式と同じ産業保護政策だった。大きなショックではあったけれど、これを乗り切ってアジアは自由貿易・自由経済社会の一人前として参加することになった。 政府がコントロールすることのできないBIBFの存在がアジア通貨危機の原因を作ったのだが、これからは市場のメカニズムにコントロールを任すことになる。嫌米感情と反資本主義感情とが一緒になって、それに隠れコミュニストが加わって、グローバルゼーションを批判する。社会制度が時代の変化に対応しようとして大きく変化するとき、歪が出たり、痛みを感じる人が出ることがある。 それでも社会は進化・発展していく。アジア通貨危機とは社会・経済が発展していく過程での「成長痛」だったのだと思う。アジア経済の成人式でもあった、と捉えるのが正解なのではないだろうか。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『アジア金融危機』         高橋琢磨・関志雄・佐野鉄司          東洋経済新報社     1994. 8. 6
『グローバルマネー』             益田安良              日本評論社       2000. 6.20
( 2003年9月29日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(4) ロシアは通貨危機を乗り越えたか
<社会主義から資本主義へ>  1991年12月、ソ連は解体し、70年に及んだ社会主義の歴史の幕を下ろした。ソ連を構成していた15の構成共和国はそれぞれ主権国家として独立した。 ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が進めてきたペレストロイカ(経済建て直し)とグラスノスチ(情報公開=民主化)のスローガンは、欧米自由主義国では評判がよかったが、足下のソ連では賛否両論、思い通りには進展しなかった。 改革が足踏みしている1991年8月、モスクワで共産党保守派によるクーデターが起きた。このクーデターを鎮圧したエリツィンがゴルバチョフに替わり権力を握るようになった。ソ連の権力構造が揺らいでいる間に、バルト3国が独立し、ウクライナとベラルーシの独立宣言が相次ぎ、ソ連の解体は既成事実となった。
 1991年12月、ソ連は解体しCIS(Comomonwealth of Independent States=独立国家共同体)が発足した。このときから旧ソ連の共和国は独立し、自力で市場経済への道を歩むことになった。それはイバラの道だった。 1992年初から始まった、改革派ガイダール内閣の自由化政策はIMFの支持は受けていたが、国内の抵抗勢力の力は強く、また年間2510%にもぼる物価上昇のため、国民に支持を失い挫折した。このインフレは通貨流通量の増大というより、国家が独占的に決めていた価格を市場のメカニズムに委ねたことにより、無理に低く押さえられていた価格が、自然な価格になった、ということだった。  国内では抵抗勢力や裏社会の経済力が強く、国外では旧ソ連のCISの中で破綻寸前の国が出てきた。アルメニア、グルジア、キルギスタン、モルドバ、タジキスタンは多額の債務を抱えることになった。 ソ連が解体された後、ロシア・CISの改革は歪んで遅れ、それが ロシア金融危機という象徴的な出来事になって表面化した。
ロシア通貨危機関連略年表  
西暦 平成 月 日  出来事
1985(60) 3.11 ソ連共産党書記長にミハエル・ゴルバチョフが就任
1990( 2) 3.15 臨時人民代議員大会でゴルバチョフが初代大統領に選出、就任。
1990( 2) 6. 3 天安門事件、天安門前広場に集まった民主化要求の学生・市民に対して戒厳令を発令してい中国た政府が人民解放軍を動員し、これを鎮圧 
1990( 2)11. 9 ベルリンの壁崩壊、日だけで数万人の市民が西側へわたった。
1991( 3) 8.19 保守派のヤナーエフ副大統領を中心とする非常事態国家委員会がクーデターを起こす 
1991( 3)12. 8 ロシア・ウクライナ・ベラルーシ3国は、ソ連邦の消滅と「独立国家共同体」の創設を宣言(アルマアタ宣言)し、他の共和国もこれに追従 
1991( 3)12.21 ソ連11共和国、CIS創設協定調印 ソ連69年の歴史に幕 
1992( 4) 7. 1 ロシア中央銀行はCIS各国中央銀行のコルレス勘定に貸(借)越限度を設定し、貿易決済ルーブルをロシア中央銀行の管理下に置いた。 
1993( 5) 4.16 IMFはロシアに体制転換融資(Systemic Transformation Facility=STF)の導入を決定 
1993( 5) 7.22 ロシア中央銀行は新ロシア・ルーブル券(新券)の発行と、旧ソ連ルーブル券(旧券)のロシア国内での流通停止を発表。
1998(10) 1. 1 デノミネーション(1,000分の1) 
1998(10) 3.13 チェルノムイルジン内閣解任後、4月30日キリエンコ内閣成立まで政治不安で再びロシア金融不安が始まる 
1998(10) 5.28 エリツィン大統領、アメリカ、ドイツ、フランス首脳と電話会談で援助を要請 
1998(10) 8.17 ロシア政府、通貨ルーブルの大幅切り下げ、国債償還の停止、民間対外債務の支払停止、という緊急対策を発表 ロシア金融危機 
1998(10) 8.23 キリエンコ首相解任され、チェルノムイルジン内閣誕生 
1998(10) 8.26 中央銀行は米ドル売り市場介入停止と外貨取引所のルーブル取引一時停止を発表 
1998(10) 9.10 チェルノムイルジン首相解任され、プリマコフ内閣誕生 
1999(11) 4.28 IMFは約45億ドルの融資内諾を内示 
1999(11) 5.12 プリマコフ首相解任され、ステパシン内閣誕生 
1999(11) 7.19 ステパシン内閣、IMFとの合意「99年新経済政策」を承認 
1999(11) 7.28 IMFは総額約45億ドルの融資を承認、第1回融資約6.4億ドルを実行 
1999(11) 8. 9 ステパシン首相解任され、プーチン内閣誕生 
1999(11)12. 6 IMFカムデシュ専務理事は、ロシア政府が99年新経済政策で約束した一部が実行されない、として12月7日予定の融資を停止 
1999(11)12.31 プーチン大統領代行に 
2000(12) 5. 7 プーチン大統領誕生 
2002(14)10.23 チェチェン共和国の武装勢力がモスクワの劇場を占拠、ロシア当局は特殊部隊による救出作戦を強行し、犯人40人余を射殺。人質と市民129人が死亡。  
※                   ※                   ※
<1998年8月17日>  ロシア政府は、通貨ルーブルの大幅切り下げ、国債償還の停止(モラトリアム)、民間対外債務の支払停止(デフォルト)、という緊急対策を発表した。ルーブル変動幅は1米ドル=5.3〜7.1ルーブルから6.0〜9.5ルーブルに約25%切下げられたが、その後の数日間にルーブル相場は10%以上も下落した。 株価も下落し、ロシア政府のドル建てユーロ債券利回りも上昇した。外国投資家の大量ルーブル売りに、中央銀行は再び大規模な米ドル売り市場介入をしたため、外貨準備はさらに現象した。8月26日、中央銀行は米ドル売り市場介入停止と外貨取引所のルーブル取引一時停止を発表したため、銀行間取引市場でルーブル相場が急落し、1米ドル=10〜12ルーブルになった。 8月末には銀行預金払い戻しが殺到し、払い戻し停止銀行も現れ、中央銀行はいくつかの大銀行の認可を取り消した。9月2日、中央銀行はルーブルの変動相場制移行を決定した。9月中旬、プリマコフ新首相の議会承認で金融市場は安定したが、ルーブルは8月初めより約60%低い1米ドル=約15ルーブルに下落した。中央銀行は、国家の預金保証があるズベルバンクへの預金譲渡を商業銀行に指令し、弱体銀行に預金払い戻し資金の貸し出しを始めた。
<今度はヘッジファンドがやられる>  1997年のアジア通貨危機、ヘッジファンドの攻撃が原因だとの主張があったが、ロシア通貨危機ではヘッジファンドがやられた。この年9月に入ると米大手ヘッジファンドはじめ投資銀行、証券会社その他多数の投資家のロシア国債投資の巨額の損失の発生が相次いで表面化した。 例えば最大手のヘッジファンド、ジョージ・ソロス氏のクオンタム・ファンドが20億ドルの損失、タイガー・マネジメントが6億ドルの損失、バンカーズ・トラストはじめ大手米銀の多数が軒並み各2〜3億ドルの損失、証券大手のソロモン・スイス・バーニーが13億ドルの損失を出したことなどが報じられた。しかし最大のショックは米最大のヘッジファンド、ロング・ターム・キャピタル・マネージメント(LTCM)が巨額の損失を出し(20億ドルともいわれるが金額不明) 経営危機に陥ったことと、米系大手金融機関が合計で144〜300億ドルの巨額の推定損失を出したという各種の報道であった。特にLTCMについては倒産必至の状況に追い込まれたため、市場への連鎖反応を懸念したニューヨーク連銀は9月下旬急遽米欧金融機関債権団による、LTCMに36億ドルの救済融資シンジケートを組織し倒産を食い止めたといわれる。  ノーベル経済学賞受賞者を経営スタッフにしたヘッジファンド、しかしそのコンピュータにロシア金融危機はプログラムされていなかった。今振り返ればリスク管理が甘かったと言える。タイのバーツを攻撃してアジア通貨危機に追い込んだと言われるヘッジファンド、今度は通貨危機によって倒産の危機に追い込まれたのだった。
<プーチンでもっているロシア>  金融危機以後のロシアはルーブル安で輸出が有利になり、IMFからの融資もあり、経済は順調に成長しているかの様に見える。しかし輸出は石油など地下資源の輸出であり、アセアン・中国のような「世界の工場」を目指しているのではない。原油価格が低迷すれば経常収支も赤字に転じるおそれがある。国内の産業は社会主義時代の国営工場からあまり進歩していない。 IMFからの融資もマネー・ロンダリングの疑惑も表面化して、一部実行されないケースも出ている。民主的な市場経済とは言えない面もあり、政治的にも民主勢力は育っていない。現在ロシアはプーチン大統領でもっているようだ。大統領に権力が集中し、反対勢力が弱い。そのため政治的には安定しているように見えている。市場経済が発展していくには権力集中ではなくて、分権でなければ伸びない。「官に逆らう経営者」が出てきてこそ、市場経済は発展していく。 ロシアはようやく社会主義を捨て、市場経済を受け入れようとしている段階だ。その過程で起きた金融危機、それでも市場経済への道のりが厳しいことがわかっただけでも、学ぶことは多かったはずだ。社会主義経済というグロテスクな経済から、普通の市場経済へ移行する課程での成長痛だったと考えると理解しやすいことだろう。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
最新『ロシア経済入門』            大島梓・小川和男          日本評論社       2000. 9.10
『ロシア・CIS経済ハンドブック』      小川和男・岡田邦生         全日出版        2002. 2.10
『ロシア 市場経済化の10年』         白鳥正明              東洋書店        2002. 6.15
( 2003年10月6日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(5) 東欧の火種、民族紛争
<東欧社会主義の崩壊>  ソ連でのゴルバチョフのペレストロイカの進行に伴い、東欧社会主義国でも変化が起き始めた。
ハンガリー  1989年2月、社会主義労働者党(共産党)中央委員会総会が複数政党制の導入を決定した。また1956年のハンガリー事件の評価の見直しが行われ、56年の事件は反革命ではなく、国民的な蜂起であり、ナジは愛国者であったというぐあいに評価が180度転換した。1989年6月、ナジの改葬式が行われた。 それより先、同年5月、ハンガリー政府は西側との国境を開放し、国境線上のある鉄条網を撤去した。 
ポーランド 1989年春、「連帯」が合法化された。政府代表と「連帯」の代表による円卓会議が開催され、6月には限定された「自由選挙」が実施された。その結果は「連帯」の圧勝であった。8月、非共産党政権が成立した。
東ドイツ ホーネッカー政権はチャウシェスク政権と共に、中国の天安門事件対処を支持した。その政策に不安を感じた国民は、その年(1989年)の8月、ハンガリーへ夏休みに出かけ、開放された国境から西側への脱出をはかった。 ハンガリー・ルートのほかにポーランドやチェコスロバキアを経由した国民の大量脱出が続いた。国内では10月には連日10万人規模のデモが組織され、ホーネッカーは退陣した。エゴン・クレンツがその後任になるが、短命政権に終わる。そして11月9日、28年間東西を隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊した。 1990年7月1日、東西ドイツの間で通貨同盟が発効し、東ドイツはコメコンから離脱した。同年10月3日、東ドイツの各州が西ドイツの州になる形で東西ドイツの統一が実現した。
チェコスロバキア 「プラハの春」を否定し、ソ連の後押しでその地位についたチェコスロバキアの保守的指導者たちは、ソ連が「プラハの春」に類似した改革を進めていることに危機感をいだき始めた。1987年にはソ連のゴルバチョフ書記長がこの国を訪問した。ペレストロイカを歓迎するチェコスロバキアの民衆から「プラハの春」とペレストロイカとの違いについて質問されたとき、同行のゲラシモフ情報局長はただ一言「20年」と答えたという。 1989年11月、「ベルリンの壁崩壊」の知らせはチェコスロバキアにも伝わった。連日の10万人デモが行われた。最初のデモから10日間でヤケシュ書記長は退陣し、その後フサーク大統領も退陣した。反体制運動の指導者で、劇作家のヴァツラフ・ハヴェルが大統領に就任した(チェコスロバキアの政変は短期間にきわめて平穏に行われたので、「ビロード革命」と呼ばれる)。「プラハの春」の立て役者で元共産党第一書記のドブチェクも政治的に復活した。 1993年1月、チェコスロバキアはチェコおよびスロバキアへと平和裏に分離した。
ブルガリア 環境保護団体の活動がにわかに活発かしたものの、反体制勢力は十分育ってはいなかった。しかし、35年間ナンバーワンの地位を占めていたジフコフ大統領は党政治局内の改革派によってその地位を追われた。
ルーマニア チャウシェスク大統領は1970年代初めにエレーナ夫人を副首相に登用し同族支配体制を固めた。チャウシェスクは、外国からの借金は悪という考えにとらわれ、対外債務返済のため生鮮食料品の「飢餓輸出」を行い、1989年には対外債務返済完了と宣言したが、国民は極度の貧困状態に置かれていた。 チャウシェスクは1989年11月の党大会で党書記長に再選されたが、その1ヶ月後、ティミショアラでの虐殺をきっかけとして全国的に批判の声があがり、逃亡しようとしたが逮捕され、処刑された。ルーマニアでは反体制勢力が育っていなかったため、平和的な政権移行は行われなかった。政権崩壊後はにわかづくりの救国戦線評議会が権力を掌握した。
ユーゴスラビア チトー指導のもとに独自の社会主義路線を歩んできたユーゴスラビア、1980年にチトーが死ぬと連邦内の各国が独立を模索するようになった。 1991年6月25日、スロベニア共和国とクロアチア共和国が独立を宣言し、ユーゴ連邦の解体が始まった。その後ボスニア=ヘルツェゴビナ、マケドニア、新ユーゴ連邦(セルビアとモンテネグロで構成)という国々が相次いで誕生した。その過程はチェコスロバキアの場合とは反対に、悲劇敵な民族紛争を伴った。
アルバニア スターリン主義のエンベル・ホジャ労働党第一書記が独裁的な鎖国政策を推進してきた。1985年、ホジャが死亡すると、労働党第一書記となったラミズ・アリアは自給自足経済による鎖国状態の門戸を開き始めた。1991年3月、アルバニア初の複数政党制による人民議会選挙が行われた。経済は社会主義経済から市場経済へと移行した。しかし、その後は「ねずみ講」破綻や旧ユーゴ民族紛争のあおりなどで、苦しい道を歩んでいる。
東欧諸国市場経済移行関連略年表  
西暦 元号 月 日  出来事
1968(43) 1. 5 チェコスロバキア共産党第一書記にドブチェク。「春」始まる。  
1972(47) 9.14 ポーランド、西ドイツと正式に国交樹立 
1973(48)12.11 チェコスロバキア、西ドイツと国交正常化 
1973(48)12.12 ブルガリア、西ドイツと国交樹立 
1973(48)12.20 ハンガリー、西ドイツと国交樹立  
1980(55) 5. 4 ユーゴスラビアのチトー大統領、死去
1980(55) 8.31 ポーランドのグダンスクで政労協定。独立自治労働組合「連帯」発足(9.17)へ 
1985(60) 3.11 ソ連でゴルバチョフが新書記長に就任 
1989( 1) 6. 4 ポーランドで総選挙第1回投票。「連帯」勢力が圧勝 
1989( 1)11. 9 
ベルリンの「壁」開放  
1989( 1)11.10 ブルガリアでジフコフ議長解任、後任にムラデノフ 
1989( 1)11.17 チェコスロバキアのプラハで学生デモ、「ビロード革命」始まる 
1989( 1)12.15 ルーマニアのティミショアラで大衆デモ 
1989( 1)12.22 ルーマニアで救国戦線が政権掌握、チャウシェスク大統領夫妻を逮捕。処刑(12.25) 
1990( 2) 5.17 ハンガリーで民主フォーラム連立政権成立 
1990( 2)12. 9 ポーランド、大統領選決選投票で「連帯」議長ワレサが当選 
1990( 2)12. 9 ミロシェビッチがセルビア共和国大統領に選出された。
1991( 3) 3.31 ワルシャワ条約機構、活動を停止 
1991( 3) 6.25 クロアチア、スロベニア両共和国がユーゴスラビアからの独立を宣言
1991( 3) 6.28 コメコン、解散を決定 
1991( 3) 8.19 ソ連でクーデター未遂 
1991( 3)11.20 ユーゴスラビアのマケドニアが独立を宣言
1992( 4) 2.29 ボスニア・ヘルツェゴビナでユーゴスラビアからの独立の是非を問う国民投票実施。セルビア人は投票をボイコット
1992( 4) 3. 3 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言、内戦へ
1992( 4) 6. 5 チェコスロバキアで総選挙、連邦制解体へ
1992( 4)12.20 セルビアでミロシェビッチチ大統領再選
1993( 5) 1. 1 チェコスロバキアが解体、チェコ共和国とスロバキア共和国に 
1994( 6) 2. 5 サラエボの市場に迫撃砲が撃ち込まれ68人が死亡。 
1994( 6) 4.10 ゴラジュデを包囲するセルビア人勢力に対し、NATOが初の空爆 
1995( 7)12.14 デイトン和平合意
1997( 9) 1.26 アルバニアでネズミ講の破綻による政情不安
1997( 9) 7.15 新ユーゴスラヴィアでミロシェビッチが大統領に
1998(10) 2.28 セルビアのコソボでアルバニア人とセルビア人が衝突
1998(10) 7.28 コソボ解放軍(KLA)の拠点マリシェボをセルビア警察が制圧。多数のアルバニア人難民が流出 
1999(11) 3.24 NATO軍がコソボ爆撃開始(〜6.10) 
2000(12) 9.29 ユーゴで大統領選挙の結果をめぐり、勝利を主張する野党がゼネストを実施。ミロシェビッチ大統領は退陣を表明  
2002(14) 3. 4 コソボでルゴバ大統領が選出され、レジェピ首相を首班とする暫定自治政府が承認された。 
2002(14) 6.12 コソボでセルビア系閣僚を含む形で暫定自治政府が成立
2002(14)10.26 第2回コソボ地方選挙が一部セルビア系の参加も得て実施。 
※                   ※                   ※
<コソボ紛争概略> 
(1)12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心だったが、14世紀末にオスマン・トルコに占領されて以来、特に17、8世紀にかけてアルバニア系が大量に移住。 
(2)第二次世界大戦後のユーゴ社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)において、セルビア共和国の自治州となったが、コソボに共和国としての地位を求めるアルバニア系住民の暴動が繰り返された。 
(3)1989年よりユーゴ・セルビア当局がコソボの自治権の縮小を開始し、90年にアルバニア系住民が「コソボ共和国」として独立を宣言した直後にコソボ議会を解散し、弾圧を強めた。 
(4)98年2月にアルバニア系のコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生して以来紛争が激化し、ユーゴ連邦軍も介入。国際社会の外交努力にも拘わらずユーゴ政府が和平案を受け入れず、コソボにおける人道的惨事が発生する可能性が高まったため、99年3月、北大西洋条約機構(NATO)がユーゴを空爆した。 
(5)99年5月にG8外相間で合意された和平案を基に和平交渉が行われた結果、同年6月、国連安保理決議1244が採択され、武力紛争が終結した。
(6)現在、コソボにおいては、安保理決議1244に基づき、民主的な多民族社会に基づく実質的自治を構築するために、民政部門を担当する国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)と、軍事部門を担当する国際安全保障部隊(KFOR:NATO主体に兵力約2.7万人)の下で和平履行が進められている。 (この項、外務省のHPから引用)
<あまりにも痛みの大きい成長痛>
このシリーズでは、閉鎖的な国家が国際社会に参加するとき、ちょうど子供が成長するときの「成長痛」のような痛みを取り上げてきた。コソボ紛争はそうした痛みの中でも特に悲惨なものだった。多くの犠牲者を出し、消えにくい「しこり」を残した。  NATO軍の軍事介入、ミロシェビッチの退陣、と進んでひとまず殺し合いの状況から脱出した。NATO軍の軍事介入については反対論もあったが、軍事介入がなければミロシェビッチは政権を握り続け、アルバニア人迫害は続いていたであろう。「戦争反対」を叫ぶのも自由、しかし叫んでもミロシェビッチは退陣しなかった。軍事介入という苦渋の選択ではあったが、これによって道は開けた。その道とは、たとえゆっくりであっても、国民が豊かになる道筋。 将来の生活が明るく描かれれば、平和的な解決策が見出せる。植民地から戦後独立し、苦しかった歴史を背負いながらも成長するアジア、経済成長が社会問題の拡大を塞いでいる。同じアジアの日本の成長を見なっらて、さらにそれに続く韓国・台湾・香港・シンガポールの成長を手本として、アセアン諸国は成長して行く。東西ヨーロッパを遮るカーテンも壁もなくなった。西の諸国や東の成功例を学びながら、成長痛を感じながらも東欧諸国は成長して行くことだろう。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『東欧経済』                 小山洋司              世界思想社     1999. 9.30
『世界現代史24 バルカン現代史』       木戸蓊               山川出版社     1997. 1.20
新版『世界各国史18 バルカン史』       柴宜弘               山川出版社     1998.10.25
『現代東欧史 多様性への回帰』 ジョゼフ・ロスチャイルド 訳・羽場くみこ・水谷驍 共同通信社     1999.12.10
『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』ロバートJドーニャ/ジョンVAファイン 佐原徹哉他訳 恒文社       1995.11.11
( 2003年10月13日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(6) 天安門事件と白猫黒猫論
<安徽省鳳陽県の農業改革実験>  1978(昭和53)年暮、安徽省鳳陽県小崗村、人民公社の農民18人が集まった。「このまま農業をやっていても生活できない。生産請負制を始めよう」「見つかれば、社会主義に反することだと、罰せられる。秘密を守ろう」 「もし誰かが逮捕されたら、差し入れに行く。死ぬようなことになったら、子供は18才までは村の皆が責任もって育てる」との血判状を作って、農民は生産請負制を始めた。
 同じ頃、安徽省鳳陽県前倪(ぜんげい)村、馬湖人民公社前倪生産隊で同じ動きがあった。どちらも秘密を守っていたがいつまでも守れるものではなかった。前倪村に共産党中央からの調査団が来た。人民公社書記は1週間の事情聴取を受けた。 この調査の責任者、安徽省第一書記万里は党中央に報告し、生産請負制を押し進めるよう進言した。後に万里は農業担当副首相に就任。これをきっかけに人民公社は解体し始め、83年末には全国の94.5%にのぼる農村で土地公有制に基づく生産請負制が実施されている。
<四川省成都鋼管工場の工業改革実験>   1978(昭和53)年夏、四川省第一書記の趙紫陽は四川省の6つの工場を調査し、3ヶ月を期限に企業改革の実験を始めた。それは労働者への報奨金支給を含む、競争原理の導入だった。すぐに成果は現れ、めざましい生産性の向上があった。当時の工場長、殷国茂はNHKのインタビューに答えて、「改革とは国から地方へ、の権力の再配分です。いろいろ問題もあったけれど、生産性は5倍になりました」 (1994年放映の番組)。この成果を評価されて、趙紫陽は後に首相に抜擢される。
<なかなか進まない政治改革> 万里の農業改革と趙紫陽の企業改革の実績をもとに、ケ小平は党内での勢力を蓄える。さらに党内改革を押し進めようとするが、党内の保守派の反対でなかなか進まない。
 1983年10月の中共12期2中全会から保守派と目されるグループによる「精神汚染」反対運動が組織される。これは1984年初頭には改革派のまき返しで中断される。1985年9月、中国共産党全国代表会議が開かれ、陳雲は「農業がなければ安定しない」ことを強調し、「食糧なければ、すなわち乱れる」という言葉をもちだして問題の政治的重大性を指摘した。 さらに、社会主義経済は「計画経済を主とし、市場調節を従とする」ものでなければならないと主張した。改革に伴う大きな社会変化と党の統制を離れた農業政策に対する保守派の反撃であった。つまり農業は食糧という生活に一番大切なものなので、国家が管理し、その生産者に所得格差が出るのは好ましくない、という日本の尊農攘夷論者と同じことを主張し、胡耀邦の改革に抵抗を示した。 こうした中央でのなかなか進まない政治改革に対し、学生を中心とした民主化要求デモが起きる。このことが保守派を刺激して、胡耀邦総書記は解任される。後任は、「政治改革は進める」、という意思表示もあり、ケ小平は趙紫陽を指名する。
 1987年から1988年にかけて経済は過熱し、インフレが進行した。加えて「官倒」(官僚ブローカー)と呼ばれる特権官僚層の不正な経済活動が横行し、国民の政治改革・民主化を要求する運動が公然化した。 1989年4月15日、胡耀邦の死がきっかけとなり、民主化運動は激しくなる。趙紫陽はこの運動に好意的な態度をとり、運動はさらに激しくなる。ケ小平はこれを反革命と規定し、武力をもって解散させる。趙紫陽総書記解任され、後任には江沢民が選ばれる。
天安門事件関連略年表  
西暦 元号 月 日  出来事
1949(24)10. 1 中華人民共和国成立
1968(43)10.13 中共8期12中全会(〜31)、劉少奇の党籍を剥奪 
1971(46) 9.13 林彪、クーデターに失敗。失脚 
1971(46)10.26 中国の国連加盟 
1972(47) 2.21 ニクソン訪中、米中上海コミュニケ発表(2.27) 
1972(47) 9.25 田中訪中(〜30)、日中国交正常化 
1973(48) 4.12 ケ小平、副首相として復活
1976(51) 1. 8 周恩来死去 
1976(51) 4. 5 天安門広場の周恩来追悼の民衆を弾圧(第1次天安門事件)。 
1976(51) 4. 7 ケ小平解任 
1976(51) 9. 9 毛沢東死去 
1977(52) 7.16 中共10期3中全会(〜7.22)でケ小平再復活
1977(52) 8.12 中共11全大会(〜8.18)でプロレタリア文化大革命の終結宣言、4つの現代化の方針 
1978(53)12.18 中共11期3中全会(〜22)で改革開放が決まる 
1979(54) 1. 1 米中、国交樹立 
1979(54) 9. - 4中全会で農村改革を決める 
1980(55) 2.23 中共11期5中全会(〜2.29)で劉少奇の名誉回復 
1980(55) 5.16 深セン、珠海、汕頭(広東省)、アモイ(福建省)に「経済特別区」の設置が決定される 
1980(55) 9.10 5全人代第3回会議で趙紫陽が首相に就任 
1981(56) 1.25 「四人組」の裁判始まる 
1981(56) 6.27 中共11期6中全会(〜29)で華国鋒党主席辞任。後任は胡耀邦。「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」採択 
1984(59) 9.26 「香港返還」について英中が仮調印
1987(62) 1.16 胡耀邦総書記、政治局拡大会議で保守派から辞任を強要され辞任。趙紫陽が総書記代行に。
1987(62)11. 2 趙紫陽を総書記に選出 
1989( 1) 4.15 胡耀邦没 
1989( 1) 4.17 天安門広場で胡耀邦追悼と民主化要求の学生デモ始まる 
1989( 1) 5. 4 五・四運動の70周年記念日にあたるこの日、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生・市民10万人がデモと集会を行なう。
1989( 1) 5.15 ソ連ゴルバチョフ書記長訪中(〜18) 
1989( 1) 5.19 北京に戒厳令布告 
1989( 1) 6. 4 天安門前広場に集まったデモ隊を人民解放軍が武力鎮圧。中国政府は事件で319人が死亡と発表。天安門事件
1989( 1) 6.23 中共13期4中全会(〜24)で趙紫陽総書記解任、後任は江沢民。
1992( 4) 1.18 ケ小平が改革・開放推進のため広東省を訪問(南巡講話、〜2.21)。 
1992( 4)10.12 中共第14回党大会(〜18)で「社会主義市場経済論」を採択 
1997( 9) 2.19 ケ小平没 
1997( 9) 7. 1 香港の主権、中国に返還される
※                   ※                   ※
<民主政治でも独裁政治でも、人民を豊かにする政治はいい政治だ>  文革以後の中国はケ小平が指導してきた。そのケ小平の信頼を得て改革を進めてきた胡耀邦と趙紫陽が解任させられた。ケ小平は改革派なのか、保守派なのか?バランスをとっている、その基準は何なのか?ケ小平文選からいくつか引用しよう。
 「前の二人の総書記は失脚したが、選ばれた時点で不合格だったわけではない。彼らは主に4つの基本原則の堅持の上で誤りを犯した。4原則堅持とブルジョワ自由化反対は毎年話しているのに彼らは実行しなかった。 今回の動乱では趙紫陽ははっきりと動乱側に立っていて、実際に分裂させようとしたのである。動乱は制圧しなければならない。今回の動乱はわれわれにとって1つの教訓だった」
 ケ小平はカーター元大統領に対して次のように語り、自らの民主化に対する考え方を示している。
 「人々はよく民主をアメリカと関連させるが、われわれは貴国の丸写しはしない。理解していただけると思う。もし中国で多党選挙や三権分立を行えば、必ず混乱になる。中国の主要な目標は発展であり、貧困から脱却することだ。これの前提は政治局面の安定なのである」 
 天安門事件は中国・ケ小平のイメージを大きくダウンさせた。胡耀邦・趙紫陽の解任、天安門での武力鎮圧、これらが西欧諸国の反発を買うのは予想できたはずだ。それでも強行したケ小平。損得勘定で考えても、「これでヨシ」と判断した理由は何か? 上記2つのケ小平語録に加え、もう1つ引用しよう。それは大躍進が失敗し、農村政策を変える頃のこと。1に均等、2に徴用という人民公社の厳しい規律を改め、農民が少量の自留地と小規模な家庭副業を行うのを認める、と変えた頃。つまり「平等主義」や「同一労働・同一賃金」をやめようとした頃の話。 1962年1月、共産党の拡大工作会議で劉少奇国家主席は「大躍進は天災でなく人災である」と喝破、毛沢東は自己批判せざるを得なくなった。この頃、ケ小平の有名な「白猫黒猫論」が登場する。
 「劉伯承同士が「黄色い猫でも、黒い猫でもねずみを捕りさえすればよい猫なのである」という四川省の言葉をよく口にする。これは戦闘について言っているのである。われわれが蒋介石をうち破ることができたのは、古い枠にとらわれず、すべて状況を見て戦い、勝つことをとにかく問題としたからである。 今、農業問題を回復させるにも、状況を見てやるべきなのであり、それは、生産関係についてはすべて一定不変の形態をとるのではなく、大衆の積極性が引き出せる形態をとる、ということなのである」
 白猫、黒猫論は、「社会主義でも資本主義でも」と理解され、「走資派ケ小平」と非難された。これを「独裁政治でも民主政治でも」と言い替えると、天安門事件でのケ小平の決断が理解できる。改革開放以降の中国は「共産党独裁による、強引な市場経済化」の道を突っ走っている、と理解するといい。 「社会主義市場経済」と社会主義という言葉を使っているが、このように言わなければ混乱したからで、実際は徹底した市場主義だ。それは「先富論」「先に豊かになれる者から、豊かになる」ではっきりする。これは社会主義ではない。社会民主主義でも、福祉主義でも、平等主義でもなく、アダム・スミスの描いた資本主義であり、マーガレット・サッチャーが目指した社会でもある。
※                   ※                   ※
<民主化が実現したらどうなるか?>天安門広場で学生・市民が要求した民主化、これが実現したらどうなったであろう?中国が日本程度言論・表現の自由が保障され、多数政党での選挙が実現したらどうなるか?先ず、デモで政治が変わると、そのことが問題になる。中国ではかつて政府組織・党組織を無視して、大衆運動による政治が行われた。国家主席が大衆につるし上げられ解任された。政策決定のルールがなくなってしまった。 それが民主的であるはずがない。もし天安門広場での運動によって政策が変更されたなら、それは文化大革命と同じ政治になる。文革を否定するグループが文革と同じ方法を採るのは矛盾している。
 もし民主化運動の主張が受け入れられて、普通選挙が行われ、日本の様な議会制民主制度になったら、市場経済化への速度が鈍る。「貧富の格差が広がる市場原理主義反対」「大量生産、大量消費という資源浪費型経済反対」「弱肉強食の競争社会反対」「弱者のための福祉充実」こうしたスローガンが掲げられ、リベラル=環境保全派=社会民主主義=民主化運動派と毛沢東派=共産主義者=保守派が手を結び右と左から走資派批判を始める。これを日本や西欧の市民運動・NGOが支援する。 先に豊かになれる者も、豊かになれず、皆が平等に貧しくなって行く。ケ小平はそれを嫌った。方法論を重視するか?結果を重視するか?ケ小平は結果を重視し、胡耀邦と趙紫陽は方法論を重視した。前の二人の総書記は,ケ小平のそこまで強い「白猫黒猫論」「先富論」を理解していなかった。文革派=保守派の危険性はわかっていたが、民主派=リベラルの市場経済化への抵抗はわかっていなかった。
<成長痛を克服し、中国は大人になる>
「食糧なければ、すなわち乱れる」とか「農業は計画経済を主とし、市場調節を従とする」との尊農攘夷論を安徽省鳳陽県での実績がうち破った中国。日本では未だに「食糧安保論」は生きている。「貧すれば鈍する」段階から脱却した中国、これからは「衣食足りて、礼節を知る」社会へ進むだろう。ノブレス・オブリージェまでには少し時間がかかるだろうが、 そうした国際社会での大人になろうとしていることは確かだ。憎しみの対象を国外に設定し、それを攻撃することで国内をまとめようとする未熟な社会、1984年のイースタシアや、かつて「地上の楽園」と一部マスコミが称えた国などの様な魔女を作りあげてしまう国から脱却すれば、日本の政治家が靖国神社に参拝しても「それは日本国内の宗教問題、わが国の政治家がとやかく言うことではない」と言える大人になるだろう。
 最近は「人民元は安すぎる。切り上げるべきだ」との声も聞こえる。理由として「国内の製造業が打撃を受ける」があるようだ。しかしこのまま中国経済が成長し、豊かな社会になれば、日本のすぐそばに巨大な消費マーケットが出現することになる。日本は食料自給率わずか40%の貿易立国。諸外国が豊かになり、消費市場が拡大することによって日本経済が成長して行く。アメリカ人は「日本は内需拡大すべきだ」とよく言う。アメリカは自給経済可能な国で、貿易立国ではない。 モンロー主義をとってもやっていける。だからすぐ「内需拡大せよ」と言う。日本は違う。諸外国が豊かになって外需が拡大することが成長に結びつく。先に豊かになれる者が豊かになっていく中国、もうすぐ「その他の人もゆっくりとそれについて豊かになっていく」だろう。中国は、天安門事件という成長痛を克服し、確実に大人になっていく。それが日本やアジア経済の成長にとって、またこの地域の政治的安定にとってプラスになることは間違いない。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『ケ小平の中国』        半沢貫               こぶし書房    1984.10.30
『赤い資本主義・中国』     叶芳和               東洋経済新報社  1993. 6. 3
図解『中国近現代史』     池田誠・安井三吉・副島昭一・西村成雄 法律文化社    2002. 3.15
『NHKスペシャル 中国 12億人の改革開放』NHK中国プロジェクト  日本放送出版協会 1995. 2.25 (平成6年10月9日放映)
新版『世界各国史 3 中国史』 尾形勇・岸本美緒          山川出版社    1998. 6.20
( 2003年10月20日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(7) 幕末、金貨の大量流出
<1ドル銀貨と1分銀の交換比率>  鎖国していた国が国際社会に参加していくとき、国際ルールがわからなくてトラブルを起こしたりすることがある。「国際社会に参加し、自由な貿易制度のもとで国民は豊かになっていく」と分かっていても既得権者の抵抗が強い場合や、ルールに不慣れのためトラブルを起こすこともある。 それでも、そうした試練を克服しながら一国の経済が開放経済へと向かい、国民生活は豊かになっていく。そうした場合の出来事を中心に「グローバリゼーションによって社会は進化する」と題して取り上げてきた。今回は日本が鎖国をやめ、諸国との貿易を積極的に始めたときのこと。 日本の貨幣制度と、世界の貨幣制度との違いから、日本の金が大量に流出したことを扱う。このケースでは、日本の制度が遅れていたからではなくて、実は日本の制度が欧米諸国よりもあまりにも進みすぎていらから起こった、という変わったケースを扱う。
 1853(安政元)年、ペリーが来訪し、翌年日米和親条約(日本國米利堅合衆國和親條約)を締結。アメリカの通貨であるメキシコドル銀貨と日本の通貨である1分銀と、1対1の交換比率にするとの条約を締結する。2年後の1856年に、日本総領事に任命されたタウンゼント・ハリスが玉泉寺にアメリカ総領事館を設置し、ペリーが結んだ条約の通貨交換比率を改訂するよう要求する。 その交換比率とは、1ドル銀貨1枚と1分銀3枚で交換する、というものだった。
<ハリスの主張>ハリスの主張の根拠は<同種同量>だった。「1ドル銀貨と1分銀、それぞれに含まれる銀の量が同じになるように交換比率を決めるべきだ」「1ドル銀貨には銀が27グラム、1分銀には銀が8.6グラム。1分銀3枚で銀25.8グラム。その差の1.2分ラムは日本側の手数料とすれば、1ドル銀貨1枚と1分銀3枚で交換する、のが公平である」
 さてこの交換比率で日米間の通貨を交換するとどうなるか?単純化した例を示そう。日本では1両=1分銀4枚という交換比率になっていた。そこでハリスが1ドル銀貨4枚(4ドル)を用意する。これを日本で1分銀と交換する。すると12枚の1分銀が手に入る。この12枚の1分銀は日本で3両の金貨になる。この金貨を上海に持ち出し、そこでの相場で交換すると11ドルになる。 こうしてドル銀貨を場所を変えて交換すると、元手の4ドルが3倍近くになる。この裁定取引、実際には旅費、その他の諸費用がかかるが、それでも2倍程度にはなった。ハリスにとっては実に美味い条約だった。
<同種同価値の交換>
なぜこのようなことになるのか?どうして一見公平な交換比率なのに、ハリスにとって美味い条約なのか?それは金と銀との交換比率が日本と諸外国とで違っていたからだ。従って、同種同量ではなく、同種同価値で考えると答えは違ってくる。
 2種類の貨幣を交換しようとする場合、同じ価値のものを交換する。これは当然なことだ。問題はメキシコドル、1ドルと日本の1分銀何枚とが同じ価値か?ということだ。  当時世界の物価に大きな差はなかった。それは金貨で評価した世界の物価に大きな差はなかった、ということだ。金貨で評価した物価に差はなかった。ただしその金貨と補助通貨である銀貨との交換比率は同じではなかった。それもアメリカ・ヨーロッパは大差はなく、日本だけが違っていた。 日本では金貨1両と1分銀4枚とが交換比率だった。金貨1両で買えるものは、銀貨4分で買えるということ。ところがアメリカでは日本の金貨1両で買えるものは、メキシコドル3.5ドルであった。つまり貨幣の価値としては1分銀4枚=メキシコドル銀貨3.5枚、であった。この条件で日本側に支払う交換手数料を10〜20%とすれば、ペリーと結んだ条約、 「アメリカの通貨であるメキシコドル銀貨と日本の通貨である1分銀と、1対1の交換比率にするとの条約」が正しい交換比率であった。同種同価値ではこのようになった。
<金銀含有量を調べる>同種同価値の交換について、同じことを具体的な数字を使って検証してみよう。
日本では金1両と1分銀4枚とが等価で、金1両=銀4分だった。この1分銀には8.6グラムの銀が、金1両には6.4グラムの金が含まれていた。 ∴銀8.6gX4=34.4gと金6.4gが同価値。34.4÷6.4=5.375。金と銀の比率は5.375。約5。
アメリカでは1ドル銀貨は銀27グラムで、金1ドルは金1.8グラムだった。∴銀27gと金1.8gが同価値。27÷1.8=15。金と銀の比率は15。
 この時代世界の物価に大差はなかった。ということは、金1グラムで買えるものは世界中どこでもあまり変わりはなかった、ということ。内外価格格差はなかったと考えればいい。 この場合、金を単位に考える。そうすると1両=金6.4g。1ドル=金1.8g。∴2両=金12.8g。7ドル=金12.6g。∴同質同量ではなく同質同価値で評価すると、2両=金12.8bg=1分銀8枚銀68.8g≒7ドル=金12.6g=1ドル銀貨7枚銀189g。金の価値が世界共通ならば、1分銀8枚と1ドル銀貨7枚が同価値となる。幕府が主張した「1対1の交換比率」は正しかった。
<なぜ日本では銀の価値が高いのか?>金と銀の比率、日本では約5,アメリカでは15。つまり日本での銀68.8gとアメリカでの銀189gが同じ価値だった。なぜ銀貨の価値は違ったのか?次の2つの要因が考えられる。
諸外国に比べて、日本は金安銀高であった。つまり銀地金の価値が高かった。
1分銀という通貨が、その含まれている銀の量に見合う価値よりも高い価値を持つ「貨幣」として通用させられていた。つまり日本では、1分銀はそこに含まれる貴金属量で価値を決められていたのでばはく、「補助貨幣」だったわけだ。 たとえば今、10円銅貨を持ってきて、「どこかの国の銅貨と銅の含有量が同じになるように交換したい」と言っても通用しない、それと似たような理屈だ。 ということは、荻原重秀の考えが生きていたのだろうか?新井白石に追い落とされた荻原重秀は慶長小判を改鋳した。これを批判する「慶長小判を改鋳するは、邪なるわざ」に対する重秀の答え「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」 このように貨幣を貴金属としてではなく、「信用に裏付けられた貨幣」と考えていたことで、それは「金本位制」ではなく「管理通貨制度」の考えだった。重秀以降も金本位制は維持されていき、明治維新後も兌換紙幣発行という形で金本位制は続く。日本が金本位制を捨てるのは、1931(昭和6)年12月高橋是清が大蔵大臣になったとき。しかその後もアメリカのドルは、1オンス35ドルで交換される。これが1971年8月まで続く。実に200年以上も前に重秀は管理通貨制度を考えていたことになる。アダム・スミスが「国富論」を出版したのが1776年、日本で翻訳されたのが1882年。ヨーロッパで経済の問題が「倫理学」から独立しやっと「経済学」ができた頃だ。 そのような荻原重秀の「管理通貨制度」の考えが新井白石によって壊されたのだが、銀貨を貴金属としてではなく、信用に裏付けられた貨幣として使っていた。荻原重秀の存在自体忘れ去られていたであろう幕末に、その考え方=「信用に裏付けられた貨幣」が生きていたわけだ。
<なぜ同種同量の交換になったのか?>交渉にあたったハリスがこうした「信用に裏付けられた貨幣」ということを理解していなかった。しかし幕臣の説明には耳を貸さず、武力攻撃をちらつかせながら強引に自分の主張を押し通した。これに対して幕臣側も弱腰で十分に説得しなかった。このためハリスの主張が通った。これを短く表現すると次のようになる。
 幕末の日本は金銀複本位制を脱して金本位制へと進みつつあったのに、いぜんとして金銀複本位制にとどまっていた「遅れた」アメリカからやってきたハリスには、それを見抜く力がなかった。それゆえ、ハリスは補助貨幣にすぎない1分銀と銀ドルとの同量交換という暴論をおしつけて恥じるところがなかったのである。(大系日本の歴史 12 開国と維新)
幕末、金貨の大量流出関連略年表  
西暦  年号  月 日  出来事
1853(嘉永 6) 6. 3 アメリカの黒船4隻、江戸湾入り口の浦賀水道を通過、午後4時ごろ浦賀町の沖合に投錨 ペリー来訪
1854(嘉永 7) 1.16 (新暦 2.13)ペリー7隻の艦隊を率いて再来
1854(嘉永 7) 3. 3 (新暦 3.31)横浜で日米和親条約を締結。日本側全権は林大学頭(はやし・だいがくのかみ)
1858(安政 5) 4.23 (新暦 6. 4)彦根藩主・井伊直弼が大老に就任 
1858(安政 5) 7.29 江戸湾に停泊中のアメリカ艦船上で、日米修好通商条約が調印される 
1858(安政 5) 8. 3 前水戸藩主徳川斉昭、名古屋藩主徳川慶恕(よしくみ)、条約調印について井伊大老を詰問。
1858(安政 5) 8. 4 井伊大老、和歌山藩主の徳川家茂が次代将軍に決定と発表
1858(安政 5) 8.13 井伊大老は、徳川斉昭ら、反対派を謹慎処分に。徳川慶喜は登城禁止
1858(安政 5) 8.18 日本はオランダ、イギリスと修好条約を調印
1858(安政 5)10. - 井伊大老による反対派の大粛清。安政の大獄始まる。 
1859(安政 6) 5.24 水野忠徳の努力により、安政小判、安政二朱銀を発行。諸外国の反対により開港後20日あまりで廃止。 
1859(安政 6) 6. 2 (新暦 6.28)神奈川、長崎、箱館の3港で、米・英・蘭・仏・露の5カ国との自由貿易を許可 
1859(安政 6) 7.21 幕府は一般人にもメキシコドル銀貨1枚と1分銀3枚の交換を認めると、米・英に通告 
1859(安政 6) 8. - 8月下旬から安政1分銀を鋳造。品位を引下げたが、10月中旬にかけて大量の金貨・小判流出は止まらず。
1859(安政 6)10.17 江戸城本丸火災。これを機に1分銀増鋳をやめ、両替商への1分銀の供給を停止。 
1859(安政 6)11.15 欧米側の抗議により幕府は1分銀の交換に応じる。 
1859(安政 6)11. - 1分銀交換可能のため、11月中・下旬に大量の金貨・小判が流出する 
1859(安政 6)12.23 安政小判1枚=1両を1分銀13枚半=3両1分2朱に評価改訂する旨各国に通告。 
1860(安政 7) 1.20 幕府は天保小判などの直増(ちょくぞう)通用令を出す。
1860(万延元) 3.18 この日から元号を安政改め万延とす。
1860(安政 7) 2. 4 幕府の軍艦咸臨丸が軍艦奉行木村喜毅、船長勝海舟、福沢諭吉らを乗せて、品川を出航し、アメリカへ 
1860(安政 7) 3. 3 (新暦 3.24)大老井伊直弼、桜田門外で水戸藩浪士ら18名に襲撃され、殺害される(桜田門外の変) 
1860(安政 7) 6.29 米・英・仏3国に対し、外交官、軍艦乗組員を除き、ドルと1分銀との交換を停止し、ドルを時価適用にすると通告 
1860(万延元) 4. - 万延金を鋳造する。万延金と安政銀と銅貨とによる3貨制度が成立。ここに日本独特の貨幣制度は西欧型のものに変わる。
1861(文久元) 5.28 水戸浪士によるイギリス仮公使館襲撃の第一次東禅寺事件発生(5.29第二次東禅寺事件)。幕府は1万ポンドの賠償金を支払う。
1862(文久 2) 8.21 (新歴9.14)生麦事件発生。幕府は10万ポンドの賠償金を支払う。
1863(文久 3) 8. 5 下関事件発生。賠償金は300万ドル(約60万ポンド)。ただし手許不如意のため6回分割。3回目の支払で幕府は倒れ、残りは明治政府が支払う。
※                   ※                   ※
<3貨制度への逆戻り> 安政7年1月20日亥の上刻・夜四ツ(午後10時頃)、幕府は天保小判などの直増(ちょくぞう)通用令を出した。内容は通貨を次の交換比率で通用るさせるというもの。天保小判=3両1分2朱・天保1分判=3分2朱。安政小判=2両2分3朱・安政1分判=2分3朱。 現代でも重要な政策変更は休日前に発表されることが多い。細川内閣の福祉のための消費税引き上げ発表は深夜だった。
 万延小判の量目は0.88匁、品位572.5、純金量0.5匁。これにより金銀比価は1対15.74となり、欧米並になり金流出のおそれは解消した。こうしてハリスの圧力により、時代の流れに逆行し、万延金と安政1分銀と銅貨とによる3貨制度が成立する。 実質的補助貨幣であった1分銀が、事実上の本位貨幣であった金貨を引きずりおろして対等の本位貨幣になった。慶長以来の本来的3貨制度との相違は、銀貨が秤量貨幣として貫匁という単位をもって独自の世界を形成していたのに対して、万延3貨制度は銀貨も金貨同様の計数貨幣であり、1両銀貨こそないが1分という金貨単位をもつという、西欧化されたものになった点にある。
<「正義論」か?功利主義か?> 一国の経済システムは過去からの経験の積み重ねがあり、それなりの合理性がある。ちょうど品種改良で言う「在来種」のようだ。一国が世界経済の流れに組み込まれていくと、在来種が反対勢力として構造改革に抵抗してくる。 このとき抵抗の論拠は、「今までこれでやってきて、うまくいった」「改革の名の下に弱者切り捨てが始まる」「我が国の風土にあった制度を捨て、外圧に屈するのは許せない」このような「正義論」が登場する。幕末の為替交渉も、現代の視点で見ても日本側の主張が正義だった。 こうした正義論を置き去りにしても、妥協しなければならないときもある。こうして功利主義的な現実主義と「正義論」を信奉する原理主義が対立する。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『江戸幕府・破産への道』           三上隆三            NHKブックス     1991.12.20
『江戸の貨幣物語』              三上隆三            東洋経済新報社     1996. 3.14
『家康くんの経済学入門』           内田勝晴            ちくま新書       2001. 5.20
『日本経済の事件簿 開国から石油危機まで』  武田晴人            新曜社         1995.12. 8
『貨幣の日本史』               東野治之            朝日新聞社       1997. 3.25
『大系日本の歴史 12 開国と維新』      石井寛治            小学館ライブラリー   1993. 6.20
( 2003年10月27日 TANAKA1942b )
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グローバリゼーションによって社会は進化する
(8) ねずみ講に揺れたアルバニア
<地産地消の国、アルバニア>福者マザー・テレサがアルバニア出身であることはあまり知られていない。 そのバルカンの小国アルバニア、第2次大戦後エンベル・ホジャ指導のもとに独特の社会主義政策=鎖国政策をとってきた。1944年ムッソリーニのイタリアから独立を勝ち取ると、スターリンを崇拝していたホジャはアメリカをはじめ「西側帝国主義」とは外交を断絶、スターリンが指導する東側諸国と友好関係を結ぶ。 1953年にスターリンが死ぬと、その後継者でスターリン批判をしたフルシチョフとは対立し、ソ連と国交を断絶し、コメコンから脱退。1960年代には文革時代の中国と友好関係を結ぶ。1971年10月26日、国連で「中国の国連加盟と台湾の追放」を内容とした「アルバニア案」が大差で可決される。しかし1972年ニクソンの訪中を境として米中が接近すると、1978年には中国とも交流を断絶する。 ここにおいてアルバニアの鎖国は完成する。国内に何千ものトーチかを築き外敵に備える。社会主義経済を徹底し企業は国営、300万人程度の小国で自給自足経済を貫く。個人が自家用車を持つことは認められず、自動車による交通事故・排気ガス公害は皆無、物流システムができていないため「身土不二」「地産地消」は当然、株式市場はおろか銀行さえなかったのでマネーゲームに走る者はいない。 地域通貨信奉者が理想とする金利ゼロの社会。『スモールイズビューティフル』の世界であり、『縄暖簾社会の経済学』の世界であり、カール・ポラニーの『大転換』にしばしば登場するロバート・オーエンの世界、日本では農協関係者や生協関係者が理想とする「ロッジデール」の空想社会主義を目指す社会であった。 コミュニストは言う「宗教は麻薬である」、それを憲法に明文化した「国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する」(アルバニア人民共和国憲法第37条)。
 アウタルキー(autarky)を貫き通そうとしたアルバニア、その生産設備たるや、1978年以前に中国からもたらされた貧弱なものばかり。先に豊かになれる者が出てこれない、人々皆平等に貧しくなっていく社会。貧富の差が少ない、という点においては「正義論」を貫き通した国家であった。 そしてこれはとてつもない実験でもあった。経済をこんなにめちゃくちゃに運営するとどうなるか?とてもまともな国家指導者にはできない実験だった(と、書きながら大躍進、文革時代の中国やポルポト時代のカンボジアも同じだったことに気づいた)。 この実験でアルバニアはヨーロッパの真ん中にありながら、中央アフリカ共和国の所得水準に、その経済状況が表れている。「自由貿易こそ国民を豊かにする」。アダム・スミスやリカードは正しかった。それでもWTOや貿易自由化を非難するNGOもあるらしい。自由貿易協定(FTA)も日本では強力なレントシーキングのお陰でなかなか進まない。
 そのようなアルバニア、1985年4月11日エンベル・ホジャが死亡し、ラミズ・アリアが大統領に選出されると少しずつ変化の兆しが見え始める。 徐々に鎖国政策を改め、開放経済へと政策転換する。鎖国時代には銀行もなく、国民は貯蓄や投資などの仕組みを知らないで過ごしてきた。開放経済、つまりごく普通の資本主義経済が始まって、1992年には銀行も設立された。そして政府の規制を受けない投資会社も設立された。 それまで国民は「現金はタンスにしまうもの」と考えていた。そのタンスの中にあった現金の多くは投資会社へ向かった。銀行の金利が年利19%程度のとき、投資会社の方は月利8%、高い時には3カ月で100%といった、とほうもない高金利だった。
 資本主義以前の社会、世界経済から切り離された社会、地産地消の国だったアルバニア、そこでねずみ講投資会社が倒産し、暴動がおき、政権が倒れ、無政府状態になり、6000人規模の多国籍軍により治安が維持される、という事態が発生した。
<「投資会社」という「ねずみ講」>
銀行という名前の、お金を預かってくれて利子もつけてくれる会社ができた。そうしたら、その銀行よりもずっと高い利子を付けてくれる投資会社ができた。アルバニアの人々は投資会社にお金を預けた。ヴェファという最大の投資会社は5億ドル以上集めた。1994年のアルバニアのGNPが12億ドルの時代にだ。 銀行の年利が19%のときに、ヴェファは月利6〜10%も払っていた。ヴェファは「鉱山からスーパー・マーケットまで、旅行業から食品産業まで、材木加工から建設素材までの幅広いビジネスを経営し、世界18カ国と取引をすることによって、高い営業利益を得ているため」と説明していたが、ドイツの週刊誌が調査したところ、実際の投資先は、スーパーや小さなソーセージ工場だけに限られていたという。
 当時、年間 100%の金利を払えるほど成長する産業があるはずがない、というのは資本主義社会に住み、マネーゲームに関心があるから言えるのかもしれない。当時のアルバニア人は分からなかった。実際は高い金利で資金を集め、その金利の支払いにはつぎの預金を回し、その金利の支払には次の預金を回し、というねずみ講であった。 そしてこの投資会社=ねずみ講は政府に多額の政治献金をしていたため、破綻した投資会社に対する国民の怒りは、そのまま政府、政治家に向かった。暴動は広まり、1997年4月には政府の治安機能は働かなくなった。アルバニア政府からの要請で8カ国の兵士で構成される6,000人規模の多国籍軍がアルバニアに駐屯する。その主力はイタリア軍であった。 多国籍軍の監視下で、6月に総選挙が行われ、ベリシャ政権は敗北し、ねずみ講による損失の補償を訴えた社会党(旧労働党=エンベル・ホジャの党)が政権に復帰した。
アルバニアねずみ講関連略年表  
西暦  元号  月 日  出来事
1985(60) 4.11 エンベル・ホジャ死亡
1989( 1) 2.23 NATOに加盟
1996( 8)10. - ベリシャ会見で民間投資会社の資金は清潔な金であると主張
1997( 9) 1.16 ブローラで投資会社の支払い停止がきっかけとなってネズミ講に反対する市民 のデモが始まる。
1997( 9) 1.19 野党指導部に率いられた市民3000人近くティラナで警官と衝突
1997( 9) 2. 6 ヴローラで3万人以上がデモ
1997( 9) 2.12 民主党本部をデモ隊が襲う。
1997( 9) 2.15 ベリシャ、ネズミ講にあやまりがあったことを認める。
1997( 9) 2.28 民主党96年5月以来始めて社会党と会談、社会党暫定政府設置、早期選挙要求
1997( 9) 3. - 57人の学生のハンスト
1997( 9) 3. 1 アレクサンダー・メクシ首相を辞任、ティラナでもデモ警官と衝突
1997( 9) 3. 2 サランダで暴徒化した市民が武器庫を襲い、商店などの略奪始まる。 人民議会非常事態宣言。戒厳令
1997( 9) 3. 6 ジロカカストラで兵舎が襲われる。
1997( 9) 3. 7 解放勢力、ベリシャの恩赦案を拒否、辞任要求
1997( 9) 3. 8 解放勢力南部アルバニア、ジロカストラなどで権力掌握
1997( 9) 3. 9 イタリア外相とアルバニア政府の会談、国家和平条約 ベリシャ、全政党による連立政府樹立。
1997( 9) 3.10 ヴローラ解放勢力、武装解除に応じるが武器は拡散。
1997( 9) 3.11 バシュキム・フィノ(社会党)和解政権誕生。暴動北部にも拡大
1997( 9) 3.13 政府外国による介入を要請。社会党指導部出獄
1997( 9) 3.14 イタリア特使フラニツキ、戦艦上で政府代表と会談
1997( 9) 3.16 ベリシャ、ファトス・ナノ社会党党首を釈放
1997( 9) 3.27 全欧安保会議、多国籍軍の派遣を承認。
1997( 9) 3.28 ヴローラ出港の小型船ラダ4がオートラント沖でイタリア戦艦シビッラと衝突、52人の難民が死亡。
1997( 9) 4. 2 イタリア首相とアルバニア首相の会談
1997( 9) 4.13 プロディ伊首相ジロカストロへ、フィノ首相会談
1997( 9) 4.15 アルバ作戦、イタリア軍アルバニアに展開
1997( 9) 4.21 ナポリターノ伊内務相とアルバニア側の会談
1997( 9) 4.27 (〜5.4)2000人近くの難民がプーリアに到着
1997( 9) 5.30 フランコ・アンジオーニをアルバニア特別委員長に。
1997( 9) 6. 2 ティラナで4件のテロ事件27人負傷
1997( 9) 6. 4 ベリシャにむけて手榴弾が投げられるが不発
1997( 9) 6. 7 アルバニア政府、多国籍軍の駐屯を3ヶ月延長することを要求
1997( 9) 6.11 難民船から、イタリア海軍に発砲事件
1997( 9) 6.12 マルチェッロ・スパターフォラを伊アルバニア大使に任命
1997( 9) 6.27 (〜6.29)500人OSCE監視団の監視のもと選挙
1997( 9) 6.29 (〜7.6)社会党勝利
1997( 9) 7.25 レジェプ・メイダニが大統領に
※                   ※                   ※
<資本主義社会の経験不足>どこかの県の教育委員会が「高校生のアルバイト大いに結構」との方針を打ち出した、との報道があった。教育委員会も分かってきた。 セブンやファミマなどのコンビニやケンタやマクドなどのファースト・フードでバイトをすると、働くこと、「お客様は神様です」の意味が分かってくる。商売は利益を出さなければならない。趣味や社会的意義があって商売しているのではない。 大人でさえ、消費者主導の経済に不満で、消費者教育が必要だ、と主張する人もいる。神様に説教しようという大胆な主張だ。高校生のうちからバイトで資本主義の内側を知っておくといい。アルバニアの例は、幼児の頃から大人の社会を知らずに保護されていて、バイト経験もなく、年をとってからいきなり大人の資本主義社会に放り出されたようなことだった。 預金・金利・投資などの意味も分からずに、いきなり資本主義経済になってしまい、かわいそうだった。もっとも日本のような資本主義経済で生活していても、「地域通貨にインフレはない」「利子の存在は富める者をより豊かに、貧しい者をより貧しくさせるだけでなく、企業にとっても負担であるため、常に経営を成長させなければ負けてしまうという競争を強いる社会ができあがります」 という、資本主義社会以前の、幼児社会の経済感覚を持ったかわいそうな大人もいるようだ。マン・チャイルドと言うか、アダルト・チルドレンと表現すべきか?
<成長痛を怖れ、大人になるのをいやがり、駄々をこねる> 現代のラダイト運動(Luddite movement)はその主役が、社会の進化によって被害を受ける弱者ではなく、余裕のある傍観者である、という点で1810年代の運動とは違っている。現代のネッド・ラッド(Ned Ludd)(ネッド将軍ともいう)も架空の人物で、だから誰もが社会批判はするが、自分は非難されないように、言質を取られないように気を使っている。
 駄々をこねる評論家・エコノミストがいても経済のグローバル化は進む。@日本の文化=コメが広くアジアで受け入れられ、「ビッグ3の下請けになる」と怖れられた資本の自由化を乗り越え、日本経済は成長した。 Aドルが金の束縛から開放され、世界の成長通貨が供給されるようになった。Bアジア諸国は変動相場制に移行しさらに大きく成長する道が開けた。C国債償還の停止(モラトリアム)を経験しながら、大国ロシアは総身に知恵が回りかね。D社会主義から市場経済にソフト・ランディングした国もあれば、ミロシェビッツのような指導者を選んでしまった国もあった。 E天安門事件後、南巡講話で息を吹き返した白黒猫、人民元切り上げの圧力が感じられるこの頃、それでも日本のすぐそばに巨大な消費市場が生まれそうだ。期待しよう。Fアダム・スミスのような理論家は出なかったが、三貨制度のもと、一分銀は管理通貨制度、金と銀は変動相場制を操っていた江戸幕府の進んだ通貨制度。G空想社会主義のような「地産地消」を実験したアルバニア。
 「グローバル化」という言葉を使い、外国にも開かれた経済体制に移行するのを怖れ、「狭い社会に閉じ隠りたい」と駄々をこねる評論家・エコノミストが危機感を煽るが、経済は確実に進化する。今回取り上げたケース、いろんな形のショックがあったが、前に進もうとしているのは間違いない。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
『新生アルバニアの混乱と再生』        中津孝司            創成社         1997.11.20
『アルバニア現代史』             中津孝司            晃洋社         1991.11.20
『世界経済の謎』               竹森俊平            東洋経済新報社     1999.12.30
( 2003年11月3日 TANAKA1942b )
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