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軍事介入の政治経済学

     趣味の経済学 軍事介入の政治経済学     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が日本の安全保障を考えます    If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill     30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない     趣味の経済学  アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が日本の安全保障を考えます     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミストTANAKA1942b が日本の安全保障を考えます      趣味の経済学 日本の安全保障  

軍事介入の政治経済学
 (1)ヒトラー、ムッソリーニの暴走 「とにかく戦争はイヤだ」の英仏   ( 2003年5月5日)
 (2)フランコ、大日本帝国関東軍 鬼の来ぬうち、洗濯ジャブジャブ  ( 2003年5月12日)
 (3)ソ連圏の弾圧に対する西側の介入 押しつぶされた東欧の民主化  ( 2003年5月19日)
 (4)>幻の核戦争、キューバ危機 両首脳の英断と、その後の悲運 ( 2003年5月26日)
 (5)不法行為の機会費用 ヤバイことすると、結局は損するよ ( 2003年6月2日 )
 (6)G・ハーディン「救命艇に生きる」状況 民主制度と機械仕掛けの神  ( 2003年6月9日 )
 (7)人の命は地球より重いのか? 個の利己主義、種の利己主義  ( 2003年6月16日)
 (8)国家が人を殺さねばならぬとき アダム・スミスの「公平な観察者」  ( 2003年6月23日)
憲法第9条を改定する
 (1)憲法第9条を改定する 陸海空軍その他の戦力はその活動を日本国内に限定する  ( 2001年6月4日 )
 (2)憲法第9条を改定する 国内と国外、プライベートとパブリック  ( 2001年6月11日 )
 (3)再度憲法第9条を改定する 国連の要請する活動については、法律の定めに従う  ( 2001年6月18日 )
 (4)体験入隊制度 人民の海の中を泳ぐ魚のように  ( 2001年7月23日 )
 (5)在日国連平和維持軍 安全保障のアウトソーシング  ( 2001年7月30日 ) DIV align=left>
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)

FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を (2011年11月1日)

(1)ヒトラー、ムッソリーニの暴走
「とにかく戦争はイヤだ」の英仏
<フセイン政権は存続さすべきだったのか?>   ブッシュ政権のイラク攻撃をどう評価するか?アメリカ国内ではイラク攻撃は支持されている。フランス・ドイツ・ロシアは反対。市民運動は「イラク戦争反対」一色。評論家は「戦争反対」はいるけれど、「戦争賛成」は言いたがらない。それでもこの時期、何も言わないのも落ち着かない。「軍事介入の現代史」とでも題すれば書けそうだが、これは専門家が書くべきテーマなので、文章を売って生活している人のために残しておこうと考えた。 そこでへそ曲がりは「軍事介入の政治経済学」と題してみた。軍事介入の歴史ではなくて、「あの時軍事介入していたら」「あの時は軍事介入すべきだった」との観点から考えることにする。
<フランスの厭戦感情> フランスでは第1次世界大戦が始まった1914年の人口4千万人のうち850万人が動員され、139万人が死に、74万人が不具となった。第1次大戦中徴兵年齢に達した世代では男子の半数以上が大戦で生命を失ったとされる。フランスにとって第1次大戦は勝利したとはいえ幻滅以外の何ものでもなかった。フランス人は徹底的に戦争を嫌がっていた。30年代の対独宥和論者、ヴィシー内閣の協力者たちは第1次大戦での愚行から、「とにかく戦争だけはイヤだ。たとえナチスとでも戦争はしたくない」という気持ちだった。そしてその気持ちをはっきりと行動に表す点では、日本の空想平和論者とは違っていた。
 第一次大戦終了後、フランスの政局は混沌としていた。激動する政治・経済情勢に対応できないでいた。1930年代の世界恐慌にイギリスは平価引き下げで対応し、ドイツはヒトラーの中央集権的政治経済体制で対応したが、フランスは効果的な対応ができず、レオン・ブルムの人民戦線内閣にも国民の不満が高まっていた。経済に対して効果的な政策が打ち出されずにいたのと同様に、政治・軍事的な対応もできなかった。それはヒトラーに対する効果的な政策が打てなかったことだった。台頭するファシズムに「とにかく戦争はイヤダ」の政策しか取れなかった。このことがヒトラー、ムッソリーニの暴走を許し、フランコのクーデターを許すこととなった。
 ところで戦争反対のスローガン「戦争は女、子供などの弱い者が犠牲になる」は少し違う。一番の死者は若い兵士なのだ。終戦後、その国を立て直す主役である若者が一番の犠牲者になる。だから戦争が終わっても後遺症が残る。フランスの厭戦感情はこうしたことを考えないと理解できない。戦争の悲惨さは感情的な面だけでなく、経済的にも考えないと本質を見失う。
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<ムッソリーニの野望> イタリアは19世紀末からエチオピアを植民地に、と狙っていた。ムッソリーニ政権は1935年1月にフランス外相ピエール・ラヴァルとの間でフランス・イタリア間の連携強化協定を結んだ。英仏の宥和的態度を見ていたムッソリーニはエチオピア侵攻が成功すると確信し、1935年10月3日エチオピアへ侵攻を開始した。国際連盟は11月18日に対イタリア経済制裁を発動したが、ヒトラーはイタリアへ武器や戦略物資援助を続けた。 1936年5月6日イタリア軍は首都アディス・アベバに入城、皇帝ハイレ・セラシエ皇帝はイギリスに亡命、5月9日にムッソリーニはエチオピア併合を宣言した。
 このエチオピア問題には日本国内で関心を持つ有志がいた。アジア・アフリカに関心を持つ頭山満ら250人の有志は1935年6月4日、エチオピア問題懇談会を設立。満場一致で採択した決議文を、「代表頭山満」の名で、エチオピア外相ヘルイに打電した。 「危機に直面せるエチオピア政府及び国民に深厚なる同情の誠意を表す(中略)国際正義、国際平和の見地より円満なる問題の解決を望」。 ヘルイからの謝電はその翌日に届いた。「我が政府の名において、余は感激に堪えざる貴電に対し、衷心より感謝の意を表す」。電報のやりとりはその後も続き、エチオピア政府は9月、日本に特派使節を送り込んだ。
 満州事変以降、軍部の影響力が強まり、イタリア、ドイツに急接近していた日本政府は、「満州国」の承認と引き換えに、イタリアのエチオピア併合を黙認。そして頭山満は1938年3月、今度はイタリア使節歓迎国民大会に出席している。
 1926年イタリアはアルバニアを保護国とし、1939年に併合した。
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<オーストリア併合>1938年1月オーストリア警察が国内で不穏な動きを見せるドイツの第一党支持者の摘発のため、ウィーンにあった党本部を急襲した。このためドイツ・オーストリア両国間に緊張が高まる。2月12日ヒトラーとオーストリア首相の会談が行われる。会談は進展しない。そうこうしている内に、3月10日午後6時半ドイツ軍の動員がはじまり、12日にはオーストリア国境を越えウィーンに侵攻し、3月13日にはオーストリアを併合した。 4月10日に行われた両国の国民投票で、両国とも99%が併合に賛成の票を投じた。
<ミュンヘン宥和策>オーストリア併合で、チェコスロバキアのドイツ人居住地域であるズデーテン地方では、自治要求運動が活発化する。ヒトラーはこれを利用し、自治を認めないチェコスロバキアを国際世論に訴えた。ヒトラーはズデーテン地方のドイツへの割譲を1938年10月1日がリミットと設定し、9月26日には戦争の手段に訴える演説まで行なった。 イギリスとフランスは動員令を出してドイツに対抗しようとしたが、ムッソリーニの調停で軍事行動は中止される。 軍事介入の代わりにイギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4カ国だけで事態の収拾に向けた会議(ミュンヘン会議)が開かれることになった。その結果9月29日に、ドイツが以後欧州の領土要求を行わないことを条件にドイツへのズデーテン地方の割譲が認められた(ミュンヘン協定)。そして10月1日から7日にかけて、協定に定められた4つの地域にドイツ軍が進軍することになった。
 ミュンヘン会議への参加者はイギリス=ネヴィル・チェンバレン首相、フランス=ダラディエ首相、ドイツ=アドルフ・ヒトラー総統、イタリア=ベニト・ムッソリーニ首領。このミュンヘン会議からヒトラーの暴走が始まることになった。
 ミュンヘン会議後チェコスロヴァキアに対する周辺国の領土分割要求が高まり、ポーランドはテッシェン地方を1938年8月に併合、ハンガリーは南部スロヴァキアを1938年11月に併合、ルテニア地方を1939年3月に併合した。 さらに1939年3月、ヒトラーは、チェコスロヴァキア大統領ハーハをベルリンに呼びつけ、チェコスロヴァキア政府に対し、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定への署名を強要し、署名されない場合は、チェコスロヴァキアの首都プラハを空襲すると脅した。ヒトラーによって周到に仕組まれた国内の民族運動で国内の統一も失われ、ズデーテン要塞地帯を失い丸裸となったチェコスロヴァキア政府はこれに抗することはできず、大統領ハーハは署名し、1939年3月15日〜16日、ドイツ軍はチェコに進駐した。 同年5月16日にベーメン・メーレン地方はドイツ保護領に、9月1日にドイツに併合され、チェコスロヴァキアは地図から消滅した。
 ミュンヘン会談を平凡社大百科事典では次のように書いている。
 1938年9月29日、ミュンヘンで開かれたドイツ総統ヒトラー、イギリス首相A.N.チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニの4大国首脳会談。翌30日未明、チェコスロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲する、いわゆるミュンヘン協定(日付は9月29日)が締結された。イギリスとフランスがドイツ、イタリアに対してとってきた、弱小国を犠牲にして侵略者と妥協しようとした宥和政策のピークであった。(平凡社「大百科事典」から)
 1938年9月29日、「そのとき歴史は、悪い方へ動いた」のであった。
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<チェンバレンの誤算>1938年9月30日の朝、深刻な意見の対立が生じていたイギリスへ帰る直前に、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーの説得に成功し、英独不戦条約の調印にこぎつけた。これこそ、ドイツからロンドン郊外クロイドン空港に戻ってきた飛行機のタラップを降りるとき、チェンバレンが高々と振ってみせた有名な1枚の紙切れである。待ちかまえていた記者団のマイクロフォンとニュース映画のカメラの前で、チェンバレンはその文面を読み上げた。彼が下院で再び条文を読み上げたとき、一部の人びとを除く全員がさしあたり戦争の心配はなくなったとして胸をなでおろした。この条約の内容は、次のようなものだった。
「ドイツ国総統兼首相とイギリス首相は、本日新たな会談にのぞみ、英独関係こそ両国およびヨーロッパにとって第一義の重要性をもつという点で見解の一致を見た。
「われわれは、昨夜調印した協定ならびに英独海軍協定を、二度と英独が戦うことがあってはならないという、両国国民の希望を象徴するものと見なす。
「われわれは、両国にかかわる他の問題が生じた場合にも、協議という方法でその解決にあたることを決意し、また将来に禍根を残しかねない要因を除去すべく、両国がひきつずき努力することによって、ヨーロッパの平和の確立に貢献できるものと考える」
 だが、1年とたたないうちに、ドイツとイギリスは交戦していた。
 ミュンヘン協定は、ヒトラーの最大の勝利として世界に宣伝された。イギリス議会ではチャーチルとアンソニー・イーデンとダフ・クーパー(これほど恥ずべき行為には賛同しかねるとして、海軍大臣を辞任した)が、これを痛烈に非難した。中央ヨーロッパにおけるフランスの立場は、あっという間に弱くなってしまった。「ボヘミアを制する者がヨーロッパを制す」という言葉がある。そのボヘミア----チェコスロバキア----は、国境の防御を剥ぎ取られ、同盟国もなく、まさに無防備な状態で、いまやヒトラーの手中にあった。プラハの市街を行き交う人びとは、衝撃と失望の色を隠せなかった。 フランスのM・ダラディエ首相は、ミュンヘン協定の締結をみじめな敗北と思うあまり、ミュンヘンから戻ったとき、ル・ブールジェ飛行場に出迎えた群衆を、抗議に集まった暴徒の群れと勘ちがいしたという。
(「第二次世界大戦はこうして始まった」ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995.6.23 から)
 当時、ヒトラー、ムッソリーニに対する当事者=チェンバレン、ダラディエが宥和策をとり、政権から遠い人が強攻策を主張した。フセイン政権に対するブッシュ大統領の強硬策とは逆。こちらはアメリカ、イギリスが強硬派、フランス、ドイツ、ロシアが宥和策派、そうして政策決定とは遠いところにあり、結果の責任を問われない市民、マスコミが宥和政策を強く主張した。
 ところで当時のアメリカはというと、1937年から40年までジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディ(Joseph Patric Kennedy 1888-1969)が駐英大使を勤めていた。そしてミュンヘン宥和策を支持したとして批判されている。
<「ぶれてはだめよ、ジョージ」>
毎日新聞のコラムに興味深い文があったので一部引用しよう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。 ナチス・ドイツとの戦争を回避するために、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させた。揚げ句の果ては第二次大戦だ。「すべてお前のせいだ」と指弾され、失意のまま政界から消えた。 英政界では「第二のチェンバレン」というレッテルは、死の宣告に等しい。90年湾岸危機の際、サッチャー英首相がブッシュ父米大統領に「ぶれてはだめよ、ジョージ」と強い態度を曲げないように助言したのもそのせいか。 >( 毎日新聞「余禄」2003年3月2日から)
<フランス人民戦線内閣の混乱> 1937年6月22日、急進党のカミーユ・ショータンを首相に新内閣が成立し、ブルムは副首相として入閣。財政危機は解決せず1938年1月15日信任投票を待つことなく総辞職。ルブラン大統領はあちこちに組閣を依頼するが失敗に終わり、結局ショータンが再度組閣をし1月21日承認された。社会党は閣外協力。国際収支は悪化し続け、3月初旬に政府は財政特別権限を要求するが社会党は反対した。やる気をなくしたショータンは下院の信任投票を待つこともなく突如議場を退席し、3月10日総辞職した。翌11日、ヒトラーがオーストリア併合を決行したとき、フランスには政府が存在しなかった。3月12日再びブルムが急進党と共和社会同盟の参加を得て、人民戦線派に基礎を置く第2次ブルム内閣を樹立した。しかし再度提出された財政全権要求案は下院で可決されたが、上院で否決され、4月8日ブルム内閣は総辞職した。その後は急進党のダラディエが組閣したが、もはや人民戦線内閣とは言えない政府になっていた。
( 2003年5月5日 TANAKA1942b )
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(2)フランコ、大日本帝国関東軍
鬼の来ぬうち、洗濯ジャブジャブ
<水晶の夜>   ミュンヘン会議終了からほんの1月あとの、1938年11月7日、17歳のユダヤ人少年ヘルシェル・グリュンシュパンがパリのドイツ大使館三等書記官エルンスト・フォム・ラートを射殺するという事件がおきた。 少年の両親は、事件のしばらく前にドイツからポーランドに送られ、ポーランド政府に入国を拒否され、行き場を失い、息子に手紙を書いていた。少年は直ちに行動に出たのであった。 直ちに、この事件に対する反ユダヤ暴動が11月9〜10日にかけドイツ全土で起きた。9日のナチ党指導者会議で、ゲッベルスは、事件を報告し「自発的な」反ユダヤ暴動は鎮圧してはならないと示唆した。同日深夜ハイドリヒは全警察署に「自発的」暴動への緊急対応方針を伝えた。すなわち、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)は炎上させても、周囲の建物を損なってはならぬこと、なるべく多くのユダヤ人を逮捕すること、警察は「示威行動」に一切干渉せぬこと、が指示の内容だった。 ハイドリヒの報告では、74人のユダヤ人が死亡・重傷、2万人が逮捕、815商店と171の家屋が破壊され、191のシナゴーグが放火、被害総額は2500万マルクで、うち500万マルクがガラス代だった。そのことから、このな暴動を「ガラス破砕の夜=The night of broken glass 」と呼ぶようになり、「水晶の夜=クリスタルナハト=Kristallnacht」と呼ばれるようになった。 なお、ナチス国家が認可した破壊を償うため、ドイツのユダヤ人には、10億マルクの罰金が科された。以後、ドイツは在独ユダヤ人に対し、自由勝手に振る舞える、というお墨付きを与えたことになった。そうしてこれ以降ユダヤ人に対する散発的な迫害はナチス政府による組織的なものとなった。 これに対する米英仏の軍事的圧力はなかった。
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<スペイン市民戦争(1936.7.17-1939.4.1)>スペイン領モロッコで反乱が勃発し、スペイン全土に拡大し、スペイン第二共和政が崩壊し、フランコ独裁が確立した。その過程でコミュニスト、アナーキストたちが燃えた。フランコとそれを支援したヒットラーのナチスドイツとムッソリーニのイタリア、共産党とそれを支援したソ連軍、アナーキストとその部隊で闘った外人義勇軍、共産党と同一行動をとったラルゴ・カバリェロ率いる社会党過激派。このように分類はしたが支持者はそれぞれ入り乱れていた。このように混迷を極めたスペイン国内情勢、それに加えて諸外国の態度も曖昧だった。
 1936年6月4日、フランスでは社会党のレオン=ブルムを首相に、人民戦線内閣が誕生する。共産党も閣外協力する内閣、しかしスペインで共産党がファシストと闘っているときに、人民戦線内閣は共和国側に対する支援はなにも出来なかった。それどころか隣国ドイツが軍事拡大と侵略政策を進めていることにも、何の対応策も打てなかった。
 イギリスもスペインのファシストには手を出さなかった。世界恐慌の深刻な不況と大量失業により、金本位制の離脱、(1931),イギリス連邦特恵関税や輸入関税法(1932)にみられるように自由貿易政策の放棄、そしてこうした政策を取ることによって、ヨーロッパ大陸情勢に不干渉になっていった。アメリカもナチスドイツの侵略が拡大するまでは、大陸への不干渉主義であった。このように各国が保護貿易・他国への不干渉政策をとったため、それに乗じてヒットラーは領土拡大政策を押し進め、ムッソリーニ、フランコが権力を握る事になった。
<ゲルニカ> 1937年4月26日、フランコの要請に応じたヒトラーの空軍が、スペイン、バスク地方の小さな村ゲルニカを爆撃した。 それは昔から毎週月曜日に恒例の市で賑あう午後4時30分から始まり、午後7時30分までの3時間にわたった。 3波の爆撃で「最初の一群は低空から機銃掃射をもって襲いかかり、市で賑わう街路にパニックを引き起こすとともに、市の広場を屠殺場に変えた。こうして阿鼻叫喚をつくりだし住民を建物の中や地下室へ追い込んだあと、第二波の高々度水平爆撃機編隊による爆弾の雨が街全体に降りそそいだ。石造りの建物は倒壊し土煙の中に地下室は埋ってしまう。そして第三次の破壊が焼夷弾の発する火炎地獄を伴ってやってくる。アルミニウム粉と酸化鉄からなる(振れば発熱する懐中カイロ「ホカロン」などと同じ原理)テルミットを主成分とするエレクトロン焼夷弾は命中の衝撃によって点火され、3000度近い白熱した炎を噴き出しながら10分以上にわたってはげしく燃焼した」 午後7時30分まで3時間の爆撃で、人口約7000人の住民のうち、1654人が死亡し、889人が負傷した。
<カタロニア賛歌>スペイン市民戦争には多くの文化人が義勇軍として参加した。その中でジョージ・オーウェルの書いた「カタロニア賛歌=Homage to Catalonia」(1938年出版)は優れたルポルタージュとして知られている。共和国政府側の兵士として参加し、反乱軍=フランコ軍との戦い、アナーキストとコミュニストとの勢力争い、など生々しい記録が記されている。 ジョージ・オーウェルはその後、「動物農場=Animal Farm」(1945)、「1984年=1984」(1949)と作品を発表する。それはナチス・ヒトラーのファシズムへの憎悪から、スターリンのプロレタリア独裁社会の恐ろしさの警告へと向かっていった。
ジョージ・オーウェルの1984年は大きな反響を呼び、これに影響された作品が発表された。
『われら』 ザミャーチン        川端香男里訳   岩波文庫    1992. 1.16
『1985年』 アントニイ・バージェス 中村保雄訳    サンリオ    1979. 8. 5  
『1985年』 ジェルジ・ダロス    野村美紀子訳   拓殖書房    1984.10.20  
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<張作霖爆殺事件> 1928年6月4日張作霖爆殺事件が起きる。 当時、満州を支配していたのは日本の支援を受けていた軍閥であった中華民国軍政府大元帥の張作霖で、蒋介石率いる中国国民党勢力を防ごうと考えていた。 しかし、関東軍首脳部は張作霖では蒋介石に対抗できないと判断し、張作霖を、中国国民党の仕業と見せかけて暗殺し、その混乱に乗じて事態の安定化を名目に満州全土を軍事制圧しようと企てる。事件の立案実行者は関東軍高級参謀の河本大作大佐だった。 1928年6月4日、北京から満州に向かっていた張作霖の特別貴賓列車を、関東軍は奉天を通過する際に、この列車を爆破した。張作霖は大けがを負ってまもなく死亡した。 しかし、この謀略はマスコミによって暴露され、失敗に終わった。なおかつ、張作霖の息子で張学良が、関東軍のこの仕打ちに激怒し、率先して蒋介石に降伏してしまったので、満州も中国国民党の支配下におかれることになってしまった。 一方、当時の首相であった田中義一は、張作霖爆殺事件の首謀者を厳罰に処すと昭和天皇に約束したが、軍部と与党立憲政友会の圧力によって、田中は事件を穏便に処理した。そのため、天皇の不興を買って、内閣を総辞職することになってしまった。 事件の処分は関東軍司令官の予備役編入と河本大佐の停職、ほかに譴責2人という軽いものに終わった。 ちなみに、国内では「犯人」が関東軍であると報じることは禁じられたため、「満州某重大事件」という用語が登場した。
<満州事変>1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍はみずからの手で日本の権益である南満州鉄道を奉天(現在の瀋陽)北郊の柳条湖付近で爆破した。石原莞爾参謀ら少数の軍人が起こした鉄道爆破事件だったが、関東軍は、これを張学良の東北軍の仕業として、奉天・北大営にある中国軍に対して攻撃を開始した。満州事変の口火となったこの満鉄線爆破は、関東軍が中国側を攻撃する口実をつくるために、みずから仕組んだ謀略だったが、当時日本の新聞は真相を知らぬまま、関東軍の情報によって、中国側の仕業として報道した。 政府は当初、事態不拡大の方針を決めたが、関東軍の要請に応じた朝鮮軍が越境するとこれを事実上認めた。事変が起きた時、総会を開会中の国際連盟に対し中国は提訴し、連盟は日中双方に撤収交渉を求める決議を採択したが、関東軍は錦州爆撃に始まる戦線を拡大、翌年2月までに中国北東部三省の主要都市や鉄道沿線を占領する既成事実をつくり上げた。 1932年3月には「満州国」を樹立、支配下においたが、国際連盟が派遣したリットン調査団が日本の主張を否認する報告書を採択すると、日本は連盟を脱退した。 戦闘自体は1933年5月の停戦協定によって終わったが、「満州事変」はこのあと1937年7月の盧構橋事件を発端とする日中全面戦争と、続く1941年からの太平洋戦争への序盤だった。
 満州事変がその後日本(軍)にもたらした、特に大きな影響は次の2点と言える。 (1)中国軍の実力を極端に軽視し、日本軍を過大評価するようになった。 (2)出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても、結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない、という風潮が広まる。行為功利主義。
 ヨーロッパでヒトラー、ムッソリーニが米英仏の軍事圧力がないことをいいことに暴走し始めたように、日本では政府の圧力を撥ね返せると思い上がった軍部が、特に関東軍が暴走し始めた。
<石原莞爾「最終戦争論」>関東軍参謀として知られる石原莞爾は「最終戦争論」の著者としても知られる。これは1940(昭和15)年5月29日、京都の東亜連盟会員福島清三郎の道場「義方会」で行われた「人類の前史まさに終わらんとす」と題された講演をもとに書かれ、同年9月20日「世界最終戦論」との書名で立命館出版部から出版された。 内容は「いずれ最終的な戦争が起こる。帝国はその準備をしていなければならない。それは満州で国力を蓄えなければならない」ということ。次のような文が目を引く。
 世界に残された最後の選手権を持つ者が、最も真面目に最も真剣に戦って、その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。だから数十年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲なのであります。
 ドイツが本当に戦争の準備をして数年にしかなりません。皆さんに20年の時間を与えます。十分でしょう、いや余り過ぎて困るのではありませんか。
 こうした石原莞爾の考え方は、関東軍強硬派に受け入れられず、石原莞爾は軍の中枢から左遷されていった。石原莞爾のいなくなった関東軍は「20年も待っていられない」とばかり、歯止めを失ったように中国での戦線を拡大していった。
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<軍事不介入が軍部の暴走を許した> ニューヨーク株式市場の暴落に始まった世界恐慌、先進諸国の保護貿易主義が世界経済の立ち直りを遅らせ、さらに新興植民地主義、ドイツ・イタリア・大日本帝国の領土拡大政策に拍車をかけた。 これに対してアメリカはモンロー主義で「われ関せず」と何もしなかった。イギリスとフランスは自国の植民地経営に専念し、新興軍国主義国に有効な圧力をかけることをしなかった。その軍事不介入政策が軍国主義国の指導者の野心を駆り立てた。「大丈夫、イギリス・フランスは自国の植民地にだけ関心を持っていて、ヨーロッパ・アジアの小国のことは考えていない。今こそわが国の殖民地を拡大するときである」と考えた。
 こうした情勢で先進国の国民は「それでも戦争はイヤダ」と軍事不介入政策を支持していた。現代のNG0や市民運動はなかったが、各国とも社会主義政党・労働組合は強かった。アジア・ヨーロッパの小国のことよりも、自国のことだけを考えて、保護貿易、地産地消、自給率向上に専念していた。選挙で選ばれる民主制度の政治家はこうした有権者の意向を無視することはできない。軍事不介入の政策は政治家の政策であり、有権者の政策であったのだった。
 アメリカのモンロー主義、英仏の「とにかく戦争はイヤダ」「争いごとは起こしたくない」政策が、そして日本では天皇のお言葉がありながらも、軍部の独走を押さえられなかった政府、こうした状況がヒトラー、ムッソリーニ、関東軍の暴走を許すことになった。もしも米英仏が早い時点で軍事介入し、若しくは軍事的圧力を加えていたら、ヨーロッパ情勢は違っていたろうし、日本政府も関東軍を押さえようとしたに違いない。
( 2003年5月12日 TANAKA1942b )
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(3)ソ連圏の弾圧に対する西側の介入
押しつぶされた東欧の民主化
<スターリンの死>   今週の「軍事介入の政治経済学」は第2次大戦後、東欧での民主化運動とそれを軍事力で弾圧したソ連・ワルシャワ同盟軍、それにたいして有効な軍事圧力を加えられなかった西側諸国の軍事介入について考えてみようと思う。 ソ連の軍事介入の事例として「東ドイツの弾圧」「ハンガリー動乱」「プラハの春」を扱う。
 1953年3月5日スターリン死亡。アジアでは1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争が1953年7月27日、休戦協定成立となる。東欧ではスターリン主義指導者の地盤が揺らぎ始める。 1956年2月14日フルシチョフはソ連共産党第20回大会の席上でスターリン批判を行った。これは秘密会で行われたが、合衆国国務省が報告を入手し英訳を公表した。このため東欧諸国で民主化要求運動が起こる。
<社会主義統一党(SED)の創設> ソ連占領地区の東独では1945年6月11日ウルブリヒト他によってドイツ共産党が設立され、6月15日にはオットー・グルテヴォールによって社会民主党(SPD)が設立された。 さらに6月26日にはキリスト教民主同盟結成、7月5日自由民主党(LDPD)結成。7月14日、4党が「反ファッショ民主主義政党の統一戦線」を結成。翌年1946年4月22日にSPDと共産党が合同し、社会主義統一党(SED)が創設された。 そのSEDは1947年なかば以降、ソ連共産党をモデルとした幹部政党に転換した。 それに伴い多くの旧SPD党員が追放され、監獄や特別収容所へ収容された者も多く、1948年から52年までのあいだに党員数が80万人も減った。
 1953年3月5日のスターリンの死はソ連の新指導部の政策変更によりSED指導部を大混乱におとしいれた。6月9日にSED政治局は「新コース」をとることを決定し、消費財生産の増加と物価の引き下げ、農民や手工業者にたいしては協同組合への加入を強制しないこと、法律の遵守、ドイツ統一にむけての努力などを国民に約束した。
<1953年6月17日>
「新コース」への政策変更は遅すぎていた。各地の建設現場を中心に労働者のストライキは、53年5月末から全国的に拡大し始め、6月16日には首都ベルリンの建設労働者がノルマの引き下げを求めて首都中心部をデモ行進した。そして翌17日には、一挙に全国300ヵ所以上で労働者を中心とした住民のストやデモが爆発した。SED指導部はこのような事態の展開をまったく予想しておらず、有効な対策が打てなかった。しかし運動そのものは、その日のうちに全国167の市町村に戒厳令を布告したソ連軍の戦車によって押しつぶされ、23日までに6300人以上の労働者、市民が逮捕され終結した。
 蜂起について注目すべき第一の点は、運動への参加者が社会の全階層におよんでいたこと、とくに6月9日の「新コース」の発表以降は広範囲な国民のあいだで、SED支配除去についても公然と語られるようになっていた。第二に、こうした要求をまとめる場合、とくに労働者については労働組合の下級活動家(彼らはSEDの党員でもある)が重要な役割を果たしたことが多かったこと、また経営でのスト指導部には20-25%程度のSED党員がいたこと、ストの中心にしばしばヴァイマール時代からの労働運動の活動家、経験者がいたことだった。ここにSEDが「新しいタイプの党」として労働者を「指導」することの限界がはっきりと表れていた。労働者は指導されるのではなく、経営において自主的な組織を持ち、政治においては自由と民主主義の保障される国家の形成を望んでいたのだった。しかしこのような要求を、戒厳令と戦車によって押しつぶしたとき、 民主共和国が労働者と農民の国家であり、SEDが労働者の政党であるという主張の虚偽性もまた隠しようもなくなった。ここに、SEDが追及してきた変革が労働者と農民には支持されていなかったことが、白日のもとにさらされたのだった。
<米英仏の不介入> 米英仏は6月17日事件に介入しなかった。介入を期待していた東ドイツ国民は、「見捨てられた」と感じ、事件以降は、この体制のもとで生きて行くより他に道のないことを悟った。1961年の壁の構築以前に、すでに「壁」のなかで生きる選択しかなくなったのだった。そして西ドイツ国民は、中立的な統一ドイツには見込みがなく、西ドイツは西側に統合されるより他に道がないと感じるようになった。1953年9月の選挙でアデナウアーの圧勝がそのことを示している。これに加えて「奇跡」と言われる経済の好調な発展は、西ドイツ国民に東西ドイツ統一問題への関心を失わせることになった。 こうして6月17日事件をめぐる国際関係と両ドイツ国民の反応は、ドイツ分裂を固定化することになった。米英仏などが軍事介入していたら、ドイツ問題に対するソ連の影響力は低下し、ドイツ国民の意思が尊重され、迷いながらもドイツ人によるドイツ統一への道を歩み始めたに違いない。
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<ハンガリー動乱>ハンガリーは第2次大戦中ナチスドイツの支配下にあった。1944年ソ連によって解放され、ハンガリー臨時国民政府が樹立され、ハンガリー共産党書記長ラーコシ・マーチャーシュが実権を掌握した。 1945年11月の総選挙ではハンガリー共産党が17%で敗北、地主中心の小農者党が57%を得た。しかし、ハンガリー共産党のラーコシはソ連を後ろ盾に、内務大臣のポストを得ると、全国の25警察署長のうちの22を異動させた。さらに小農者党議員の議席剥奪、秘密警察AVOの創設など、ハンガリー共産党の政治権力を強化した。 ハンガリー人民共和国では、ラーコシの独裁と、政敵の粛清が続いた。スターリン支配下のソ連と同じであった。
 1953年にスターリンが死亡すると、ハンガリーの学生の政治団体ペテーフィが組織された。労働者とともに、ラーコシにハンガリーの民主化を要求した。ペテーフィの民主化要求は国民に支持された。 1953年に首相となったナジ・イムレの改革路線と、小スターリンであったラーコシ・マーチャーシュが対立し、ナジが1955年に追放された。しかしラーコシもまた、秘密警察と党の支持を失い、ソ連によって1956年に追放された。
 1956年10月23日、ブダペストで自由主義的な学生や労働者らが暴動を起こした。彼らはソ連の支配に批判的なナジの首相復帰を求めた。軍は介入せず、好意的な中立を守った。ゲレーはソ連の介入を要請し、翌日ソ連軍が介入に乗り出したが、動乱は全国に広がり共産党政府は倒れた。ゲレーは辞任させられ、ラーコシの粛正により野に下っていたカーダール・ヤーノシュを党第一書記に、ナジを首相に据えた。 1956年11月、ナジ首相は複数政党制・中立国化・ワルシャワ条約機構からの脱退を表明した。これに対して、ソ連は態勢を立て直した20万人の大部隊を主要都市に進撃させた。 それは戦車2500台、装甲車1000台の大部隊だった。
 1956年11月4日午前3時すぎ、ソ連軍はブタペスト市内に侵入し、機甲部隊による総攻撃が始まった。ナジは孤立のうちになお期待をもって発砲命令をためらったが、ソ連の砲撃が開始されるに及んで、ついに午前5時19分、ブタペスト放送を通じて、次のような悲壮な演説を行なった。「ソ連軍が今未明、明らかにハンガリー人民共和国の合法的・民主的政府を倒す意図をもって、われわれの首都に対する攻撃を開始した。わが軍は戦闘中であり、政府は持ち場を守っている。私はこの事実を、わが国民および全世界に告知する」。
 しかし、期待された外国からの支援はこなかった。午前8時すぎにブタペスト放送はとだえた。ハンガリー軍と市民の義勇兵はソ連軍とのあいだにはげしい攻防戦を展開したが、弾薬が欠乏し、翌5日にはブタペスト市内の組織的抵抗はすべてやんだ。
 ナジはソ連軍に捕らえられた。そして改革への熱が冷め切った1958年6月17日、「プラウダ」はナジが処刑されたことを発表した。
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<プラハの春>チェコスロバキアでは1953年スターリン死後もスターリン体制は動揺せず、アントン・ノヴォトニーによる保守派政権がそのまま1960代になっても続いていた。 しかし、フルシチョフのソ連党での非スターリン化やチェコスロバキア党内改革派の動きを無視し得なくなり、1961年のソ連党第22回党大会後は、プラハでもスターリン像を撤去し、ゴットワルトの遺体が荼毘にふされた。1962年12月にはチェコスロバキア党第12回党大会において、ドラホミール・コルデルを委員長とし、アレクサンデル・ドプチェクをナンバー2として、1950年代前半の抑圧と政治犯罪を調査する通称「コルデル委員会」が設置されるに至った。 1963年春にまとめられたこの委員会の調査結果をもとに、チェコスロバキア党幹部会委員兼スロバキア党第一書記であったカロル・バツィーレク元国家保安相が解任されるなど、人事の変更が始められた。バツィーレクの後任として改革派のドプチェクがスロバキア党第一書記になるのをノヴォトニーは防ぎ得ず、この人事がプラハの春の改革の伏線となった。
 こうした改革派が発言力を強めてくると、党第一書記と大統領との党・政府双方のトップをノヴォトニーが兼任しており、権力が特定個人に集中していることの「役職の兼務」問題が、批判の対象になり始めた。その結果 この1月の中央委員会総会でドプチェクがチェコスロバキア党第一書記に就任し、党のトップに立つことになり、ここに、プラハの春の改革運動が開始されることになった。
 ドプチェクは党のトップに就任すると、「人間の顔をした社会主義」の標語のもとに、徹底した自由化路線を打ち出した。 ソ連の反応は素早く、早くも1月29日にはドプチェクをモスクワに呼び出して、チェコスロバキアの国内情勢について説明させた。1968年3月6,7両日にブルガリアの首都ソフィアで行われたワルシャワ条約機構会議は無事に済んだが、3月23日に東ドイツのドレスデンで、ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、東ドイツの5ヶ国首脳にドプチェクが呼び出された会談は、さながらチェコスロバキアの糾弾裁判と化した。
 1968年6月27日「二千語宣言」発表。ブレジネフ政権はこれを共産党の独裁を脅かす危険な文書と見て、「プラウダ」はこれを反革命文書と規定し、厳重な警告を発した。 さらに、新指導部の構成員に対しては、個別の誘いや恫喝をかけて、ドプチェク指導部の分裂を図った。 6月にはチェコスロバキア国内でワルシャワ条約機構軍の大規模な軍事演習が始まり、事態はいよいよソ連による恫喝の色彩を強めていく。7月14日には、5ヶ国首脳がワルシャワに集合して、反社会主義組織の弾圧と新聞の統制を求めるワルシャワ書簡をチェコスロバキア党中央委員会宛に送り、ドプチェクらは自分たちの改革を進める旨の表明を中央委員会で満場一致で可決し、これをもって回答とした。
 7月29日〜8月1日にはチェコスロバキア=ソ連両党指導部の会談が行われ、8月3日には5ヶ国首脳とチェコスロバキア首脳との会談が行われた。 こうした圧力を強めながら、1968年8月20日深夜に、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構5ヶ国の軍隊がチェコスロバキアに侵攻したのであった。
 ドプチェク、チェルニーク、スムルコフスキーら改革派の要人がソ連に連行された。 しかし残留したチェコスロバキア党の党大会代議員は、予定を早めて市内の工場で極秘に臨時党大会を開催し、改革派指導部の再任を決定してしまった。
 1969年3月のストックホルムでのアイスホッケー世界選手権大会でチェコスロバキアがソ連に勝利したことを契機として、多くの人が街に繰り出して興奮状態になった。このとき、秘密警察のスパイが労働者に扮してアエロフロート航空のビルに投石し、デモの騒擾状態を演出し始めた。早速、ソ連のグレチコ元帥とセミョーノフ外務次官がプラハを訪れ、検閲の再会と「反革命」の鎮圧とを要求した。 このアイスホッケー事件を機会にドプチェクは辞任を決意し、4月に解任された。
 ソ連の国家主権を無視した軍事介入に対して、12年前のハンガリーの時と同様に、西側諸国は口頭批判のみを行い、救援部隊を送ったりはせず、軍事
介入政策をとり続けた。自由主義陣営でも縄張りに関する勢力の均衡の方が、社会正義よりも優先するのか?こうした宥和政策がソ連の「縄張り内では自由に軍事行動をとる」自由を認めることになった。
 東京オリンピック体操の女王、チャスラフスカは「二千語宣言」に署名し、「プラハの春」挫折以後公式の活動はできなくなった。
 ドプチェク第一書記は地方の郵便配達員になった、と伝えられた。
( 2003年5月19日 TANAKA1942b )
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(4)幻の核戦争、キューバ危機
両首脳の英断と、その後の悲運
<バチスタ政権打倒>   1959年1月1日カリブ海の小さな島国キューバで革命が起こる。32歳の青年フィデル・カストロとアルゼンチン人の医者であるエルネスト・チェ・ゲバラが中心となって、バチスタ政権を倒した。革命後バチスタ政権と利益を共有していたキューバ人がアメリカへ亡命した。その数は当時のキューバ総人口650万人の約5%にあたる30万人位であろうと推定されている。 アメリカとの関係が険悪になり、経済運営の厳しいカストロにソ連が近づく。1960年2月にソ連とキューバとの間に「キューバ・ソ連貿易援助協定」を締結し、経済援助をソ連に仰ぐことになった。アメリカは直ちにキューバ糖の輸入を停止した。 1960年8月にカストロはキューバでのアメリカ資産を接収し、アメリカ系企業を国営化した。 これに対してアメリカは1961年1月キューバとの国交を断絶した。1962年1月アメリカは米州機構からキューバを除名し、2月3日にはキューバに対する全面的な輸出禁止を断行した。
<キューバ危機 (Cuban Missile Crisis) 1962年10月16日〜10月28日>
マクナマラ国防長官 「キューバを空爆したら、ソビエト人が数百人死ぬ、フルシチョフは猛烈に反撃するだろう。」
テイラー統合参謀本部議長 「全面戦争になる」
ケネディ大統領 「核戦争になるということか」
 「全面戦争は核の惨劇に至るのか」と訪ねるケネディ大統領のあの声、この余りに直截な問いかけに、並み居る閣僚は思わず言葉を失って、誰ともつかぬ呻き声だけがテープに残されてる。
 ケネディ大統領はキューバ危機の間、ホワイトハウスの極秘会議の模様を録音していた。それを知っていたのは弟のロバート・ケネディだけだと言われている。大統領がダラスで凶弾に倒れた数時間後、録音装置は秘書の手で取り外され、テープは密かに保管された。その後テープはジョン・F・ケネディライブラリーに移され、30年以上もの間、機密とされていた。 冷戦が終わって、秘密とされていたケネディ大統領が録音したテープの封印が解かれてみると、キューバ危機に対処するアメリカ政府首脳陣の苦悩が、これまでとは異なる姿で今に蘇ってきた。 1962年10月カリブ海の小さな島国キューバを巡って、アメリカとソ連が核戦争の危機にあった。ケネディとフルシチョフの両首脳がこの危機にどのように対処したか、ケネディ大統領側からの資料を中心に「軍事介入」「軍事
介入」という面から振り返ってみよう。
1962(昭和37)年10月16日 危機1日目
 アメリカのU2型偵察機がキューバ上空で地上の異変を捕らえ、CIAは写真を分析した結果、ソ連がキューバに核兵器を搭載できる中距離ミサイルを持ち込んでいるという結論に達した。情報はケネディ大統領が目覚めるのを待って、ホワイトハウスの寝室に直接届けられた。ソビエトが攻撃用の兵器をキューバに持ち込むような事があれば、アメリカは対抗措置を躊躇わない、 この様に公約していたケネディは、フルシチョフから突きつけられた挑戦状と受け取った。直ちに国家安全保障会議の緊急執行委員会「EXCOM」が召集され、国務長官、国防長官をはじめとする要人が一同に会した。11時50分、ケネディは全員が集まったのを見定めて、録音スイッチをそっと押した。
CIA分析官 「中距離ミサイル発射場と野営地が見えます。布に覆われたミサイルが14基見えます。長さは22メートルです」
ケネディ大統領 「なぜ ミサイルだとわかる」
CIA分析官 「長さです。これはモスクワで行進している写真です。おそらくこんな感じでしょう」
ラスク国務長官 「2つの道が考えられます、1つは速やかにキューバを攻撃する事です。もう1つは、フルシチョフに対し警告を与える事です。ソビエトは戦争の危険を犯していると伝えるのです。 カストロに直接メッセージを送る事も考えられます。ソビエトはキューバを利用しているだけだ、キューバは裏切られるかもしれないと、揺さぶりをかけるのです」
マクナマラ国防長官 「ミサイル基地を攻撃するのであれば、そのスケジュールは、敵のミサイルが使用可能になる前でなければなりません。なぜなら、ミサイルが使用出来るようになった後では、それを取り除くのは、まず不可能だからです。 ミサイルが発射されれば、キューバから半径2000キロの東海岸は、 大混乱に陥るでしょう。空爆が必要であれば、数日、いや、数時間のうちに可能です」
テイラー統合参謀本部議長 「実際には、ミサイルがいつ発射可能になるかを知るのは難しく、確実なタイミングは測り兼ねます。ですから、更に偵察写真を撮って、攻撃目標を正確に把握し、一切の警告無しに奇襲に出るべきです」
 国務、国防両長官、それに軍の最高首脳の3人は空爆の実施を唱えた。しかしそこには1つの落とし穴が潜んでいた。 もしミサイルに核弾頭が装填されていれば、空爆は核の報復を招く事になる。アメリカは懸命な偵察飛行によっても、核の存在を確認できずにいたのだった。
 キューバに60基のミサイルと60発の核弾頭を配備する。極秘に立てられた計画は、ロシアの川の名前をコードネームとして、アナドゥイリ計画と命名され、フルシチョフ以下15名の最高幹部が署名した。
オレグ トロヤノフスキー(当時フルシチョフの外交顧問)  「私は、これは極めて危険な計画ではありませんか、とフルシチョフに尋ねました。するとフルシチョフはこう答えました。我々はアメリカ人と同じ事をしているだけだ アメリカ側はトルコやイタリアやイギリスに、核ミサイルを配備したのだから、我々は、アメリカの例に従っているだけなんだ」
 それから2ヶ月後、ソビエトがかつて試みた事のない、大掛かりな核輸送作戦が密かに始った。 遥かカリブの海まで9000キロ、出航した貨物船は85隻、将兵の数は4万4000人にのぼった。 中距離ミサイル基地の完成予定は10月の末だった。送り込まれたソビエトの将兵は、農業技術者を装って秘密のアナドゥイリ作戦を進めていた。
10月18日 危機3日目
マクナマラ国防長官 「フルシチョフと事前に話し合う事なくキューバを空爆したら、ソビエト人が何人死ぬだろうか、大規模空爆の場合、我々はナパーム弾を使う事になる。少なくとも数百人のソビエト人が死ぬかもしれない、我々の空爆で、多数の犠牲者が出た場合、フルシチョフはどう出るだろう、相当強く出るに違いない、空爆の代償は高くつくだろう。少なくともフルシチョフは、トルコやイタリアに配備した我々のミサイルの撤去を求めてくるに違いない」
財務長官 「ベルリンがやられるのではないか」
ケネディ大統領 「そうだ、フルシチョフは何としてもベルリンを取るつもりなのだ。アメリカが空爆をするなら、ソビエトはベルリンを取る。フルシチョフはそう言うだろう」
マクナマラ国防長官 「ソビエト軍がベルリンに侵攻するというのですか」
ケネディ大統領 「そのとおり」
マクナマラ国防長官 「ベルリンの米軍はやられますよ」
テイラー統合参謀本部議長 「全面戦争になる」
ケネディ大統領 「核戦争になるということか」
10月19日 危機4日目
 朝、軍の首脳がホワイトハウスを訪れた。軍はその後の偵察によって、新たに2つのソビエトの長距離ミサイル基地が建設中である事を 突きとめていた。その射程は4500キロ、アメリカ本土の98%を攻撃できる能力を備えていた。 空からの奇襲を強く主張する空軍のトップ、ルメイ将軍は武力行使に首を立てに振らない大統領に詰め寄った。
ルメイ空軍参謀総長 「私は大統領とは違い、キューバを爆撃してもソビエトは、ベルリンで反撃する事はないと考えております。海上封鎖は、ミュンヘンの宥和主義と同じくらい悪しき選択です」
ケネディ大統領 「諸君の見解は尊重する。しかし、海上封鎖を我々が選択する理由は、全面核戦争へのエスカレーションを避けなければならないからだ」
 ケネディは、テープを回したまま退席した。将軍たちが大統領を悪し様に言う様子が録音されている。
シュープ海兵隊司令官 「ルメイよ、お前大統領の痛いところを突いたな。大統領がいうエスカレーションとは、言葉のあやだ。キューバに行って叩くだけだ。エスカレーションなんて起こらない」
10月22日 危機7日目
 ケネディは、キューバで進行している危機を、アメリカ国民に初めて公表した。
「この1週間で、次の事実が判明した。キューバにソビエトの攻撃用ミサイル基地が準備されている」
「キューバへの攻撃兵器の海上輸送に対し、臨検・クアランティーンを実施する」
 西側陣営が、フルシチョフの挑戦を受けている。ケネディは、キューバを海上から封鎖する事を 世界に明らかにした。この封鎖措置は国際法上の戦争行為に近いものだった。ケネディは、これがソビエトの反撃を呼ぶ事を 懸念して、「クアランティーン」、臨検と穏やかに表現したのだった。
10月24日 危機9日目
 アメリカ大西洋艦隊の総力を挙げた封鎖作戦が発動された。
オレグ トロヤノフスキー 「フルシチョフに向かって、クズネツフ外務次官がこう発言しました。アメリカがキューバを巡り、私達に圧力をかけている、私達も西ベルリンに対し、行動を取るべきではないでしょうか、これを聞いたフルシチョフは、大変怒って言いました。我々は早くこの危機から抜け出すべきだ。君は我が国を、更にもう1つの冒険に陥れようと言うのかね」
アナトーリ グリブコフ(当時ソビエト軍参謀本部作戦作戦部長) 「クレムリンの命令はこうでした。攻撃を受けた場合、全ての武力を使って、アメリカの侵略に反撃せよ、しかし、スタチェンコのミサイルと、ベロボロードフの貨物は使うな、とね、スタチェンコは、ミサイル師団の司令官、ベロボロードフは、核弾頭を管理する大佐でした」
10月26日 危機11日目
 フルシチョフはミサイルの撤去を決意、深夜、執務室に篭り、ケネディへの書簡を報執し始めた。 10月26日と27日の両日、ケネディはフルシチョフから2通の書簡を受け取った。1通目は、外交ルートで届いた9ページにわたる、長文の私信だった。
フルシチョフからケネディへの書簡 「大統領閣下、私の気持ちを貴方もお分かりの筈です。平和は誰にとっても重要です。もし、アメリカがキューバに侵攻しないと約束すれば、ソビエトの軍事専門家がキューバにいる必要もなくなります」
 ケネディへの2通目の書簡は、モスクワ放送を通じて伝えられた。その中にフルシチョフはソビエト側の交換条件を忍び込ませていた。
モスクワ放送 「我がソビエトの安全を考慮して、トルコにあるキューバと同じ兵器を撤去していただきたい」
10月27日 危機12日目
ケネディ大統領 「フルシチョフの新しい提案の内容は間違い無いのだな、トルコ政府とどう話せば良いのだ」
ニッツェ国防次官 「トルコ政府はミサイルの撤去を断固拒否するでしょう。現政権の威信を傷つけ、政局にも影響を与えるからです」
マクナマラ国防長官 「こちらが回答する前に、提案を変えてくる相手と交渉などできるわけがない」
トンプソン前駐ソ大使 「昨夜の長い手紙は、フルシチョフが1人で書き、党のチェックを受けていなかったのではないでしょうか」
ケネディ大統領 「ソビエトとの取引を拒んで、キューバへの空爆を実施すべきだろうか、今、目先のトルコのミサイルを守って将来、愚か者とそしられるのは止めようではないか」
テイラー統合参謀本部議長 「大統領」
ロバート・ケネディ司法長官 「返事はこれで良いんじゃないか?2通目の手紙については、詳しく触れる必要はないだろう」
テイラー統合参謀本部議長 「大統領閣下、統合参謀本部は本日午後次の結論に達しました、キューバへの大規模な空爆を明後日、月曜の朝に実施すべきです。そして空爆実施の7日後には、キューバへ侵攻すべきです」
ロバート・ケネディ司法長官 「それは驚きだ」
ケネディ大統領 「その理由を聞こう」
テイラー統合参謀本部議長 「待てば待つほど、状況は悪くなります」
ケネディ大統領 「何かを見つけたのか?」
テイラー統合参謀本部議長 「いえ…」
ケネディ大統領 「もういい、ロバート、国連大使にフルシチョフ宛手紙の内容を伝えてくれ、次の問題はトルコとNATO同盟国だ」
 モスクワとの交渉の糸口を探っている頃、U2型偵察機がキューバ上空に侵入し、その偵察機をソビエト軍の対空ミサイルが撃墜した。
マクナマラ国防長官 「決断を急がなければなりません。U2型機が撃墜されました。ミサイル基地を偵察中に撃たれたのです」
ケネディ大統領 「向こうのエスカレーションか?」
マクナマラ国防長官 「そうです、これはタイミングの問題です、これからは我々も空爆を考えなければなりません」
ケネディ大統領 「昨夜のフルシチョフの手紙をどう説明する、向こうは態度を変えて攻撃に踏み切ったのか?」
マクナマラ国防長官 「わかりません」
テイラー統合参謀本部議長 「向こうは、今、攻撃すべきだと考えたのです、問題はこちらがいつ報復すべきかです」
 この瞬間、ケネディ兄弟は閣議室を抜け出して、別室に姿を消した。ケネディは弟のロバートに、極秘交渉の相手である、ソビエトのドブルイニン大使と接触を始めるよう命じた。 ロバート・ケネディ司法長官は、ソビエトのドブルイニン駐米大使を司法省に呼び出した。
アナトーリ・ドブルイニン(当時ソビエト駐米大使) 「ロバート・ケネディは、私にこう言いました。これは、大統領の最後通牒ではありませんが、どうか、明日中に回答してください、軍は大統領に圧力をかけてきています。このまま行くと、大統領は軍を抑えきれないかもしれません。 トルコとキューバの取引の話し合いは可能です。ただ大統領はNATOと相談せずに、1人でトルコのミサイル撤去を決定しなければなりません。我々が取引した事を、秘密にしたいのです」
 ケネディは、ドブルイニン大使に、トルコのミサイル撤去を約束した事を伏せたまま、EXCOM会議を召集した。
ケネディ大統領 「もし明日も、我が方の偵察機に攻撃があり、ロシアからの回答が無かったら、月曜日に声明を発表しよう、ソビエトがU2型機を撃墜した事を、今後アメリカは、キューバに対して行動を起こす用意がある事を、世界に伝えるのだ」
 フルシチョフは、ドブルイニンの報告を受けて、ミサイル撤去を決断し、それをロバート・ケネディに伝えるよう指示した。 この時フルシチョフは、ドブルイニン大使にケネディ宛の極秘書簡を託していた。国家の最高機密とされていたその書簡が、このほど公開された。
フルシチョフ 「大統領閣下、トルコのミサイル撤去はデリケートな問題であり、秘密とする事を承知しました。これが平和への第1歩であると信じます」
10月28日 危機13日目
 フルシチョフがキューバからのミサイルの撤去を発表 ここにキューバ危機、米ソ両超大国の全面的な核戦争の危機はなくなった。 
10月29日
 ケネディは、フルシチョフとの密約を側近や軍幹部にも明かす事無く、キューバ危機の幕を引こうとしていた。
シュープ海兵隊司令官 「気になる事が1つあります。もしキューバにある核兵器が、あのカストロの手に渡ったらどうなりますか?」
ケネディ大統領 「ソビエトはキューバに核を渡さない。我々がトルコに核管理を任せないのと同じだ。誰も核管理を手放しはしない」
 この会話を記録して間もなく、キューバ危機の録音は終わっている。
11月9日
 ミサイルを搭載したソ連の船舶がキューバを出港。アメリカの艦艇が併走し、ミサイル撤去を確認。
 これをきっかけに米ソ間では冷戦解消への歩み寄りが進み、1963年7月には両国間にホットラインが敷かれ、また8月には米英ソ3国による部分的核実験停止条約が調印され、10月10日から発効した。
<指導者のその後>キューバ危機のケースは「軍事介入」なのか「軍事介入」と言うべきか、ケネディの決断は少なくとも「とにかく戦争はいやだ」の宥和策ではなかった。フルシチョフの決断は強硬派軍部を押さえての勇気ある選択であった。 そして両首脳の決断は、相手側との密約を隠して、政府内の反対意見を無視して、トップの独断によるものだった。それは危機に際しての「デウス・エクス・マーキナ」と言うべき決断であった。
 これだけの歴史的決断を下した首脳たち、これで燃え尽きたのだろうか、ケネディ大統領は1963年11月22日凶弾に倒れ、ロバート・ケネディは1968年6月6日ロス・アンジェルスで銃弾を受け翌日死亡、フルシチョフは1964年10月解任され同年末にはすべての役職を解任された。 農業政策の失敗と発表されたがキューバ危機に対しての軍部強硬派の動きがあったことは間違いない。
( 2003年5月26日 TANAKA1942b )
<補足>キューバ危機に関して、参考になる文章があったので引用しよう。
キューバ危機と北朝鮮の外交の似たところ ゲーム理論を利用した瀬戸際外交(brinkmanship)についての分析の古典的な事例は、1960年代初めのキューバ危機だ。当時、冷戦下にあったソビエト連邦(ソ連)は、キューバにミサイル基地をつくろうとしていた。 これに対して、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、米ソ間で核戦争になる危険があるのを承知しながら、非常に強行な姿勢を示し海上封鎖をした。幸いなことにソ連が譲歩して基地建設を断念したにで最悪の事態にはならなかったが、一つ間違えば大変なことになるところだった。
 ただ、ケネディの脅しをソ連に通用させるためには、そこまで危機的状況にもっていく必要があったとも解釈できる。もしケネディ大統領の脅しが偽物であれば、ソ連もそれを見透かして基地を建設してしまっただろう。
 しかし、いったん海上封鎖を大統領が命じた後は状況が異なる。ソ連が基地建設を続けようとし、その時点でケネディ大統領が危機的な紛争が起きないように止めようとしても、現場の暴発などで紛争が大きくなることもありうる。軍隊はいったん命令が下れば、大統領でも止められないことがあるからだ。これがソ連には脅しとなって、基地建設を止めることにつながったと考えられる。
 さて、北朝鮮の場合はどうだろう。
 核開発やミサイル実験などで脅しをエスカレートさせていくのは、まさに瀬戸際戦略である。日米韓が譲歩しなければ、最悪の事態になりかねない。暴発するようなことがあれば、北朝鮮政府のトップにも止めれれないかもしれないという脅しが効いている。
 こうした国際紛争や戦略交渉なども、ゲームの理論的な手法で分析が可能である。外交や安全保障の分野では、ゲームの理論が幅広く利用されてきている。 (伊藤元重著「経済学的に考える」日本経済新聞社 2003.9.22 から)

(5)不法行為の機会費用
ヤバイことすると、結局は損するよ
<汚職の被害者はどこに居る?>   1998年の初め、大蔵省金融検査部幹部職員の接待汚職に非難が集まっていた。ところで接待汚職の被害者は誰だろう? 2001年には外務省の裏金つくりが問題になった。この外務省を改革しようと国民の期待を担って登場した田中真紀子大臣の戦いは、道半ばで足を引っ張られて挫折した。 この外務省の裏金つくりの被害者は誰だろう?業者が政治家に賄賂を贈り公共事業を受注したとしよう。受注した業者は言うかもしれない、「それだけ努力して情報を集めて金も使った。ただ見積書作成だけに時間をかけた業者とは違う」と。
 こんな考えもあるだろう。「贈収賄は多くの場合、贈賄側も収賄側もそれぞれに得をしている。それでいて第三者に具体的な損害は与えていない。賄賂によっては結果的にはよい決定が行なわれることさえありうる。したがって、賄賂は必ずしも悪質な犯罪ではない。 賄賂をもらう立場にない一般庶民の非難は、要するに嫉妬にすぎないのではないか。「賄賂に対する庶民の怒り」、その正体は嫉妬であり、もしも賄賂を提供されるほどの高い地位にいて、賄賂を受け取っても発覚しなそうだ、となればほとんどの人はその誘惑に負けるだろう」
 声高に公務員の汚職を非難する人、しかし立場が入れ替わったらどうなるか?賄賂を断固拒否できるのだろうか?そして、だからそのことが贈収賄を禁止するルールが必要となる。つまり、誰でもチャンスさえあれば受け取る賄賂、これを無制限認めたらどうなるか? それを考えると贈収賄罪の必要性が分かってくる。
 贈収賄に似た例として、スピード違反、カンニング、インサイダー取引がある。これらは必ずしも第三者に損害を与えるわけではない。しかしこれらのルールは、個々のケースについて実害がなければいい、というのではなく「例外なしに一般的な禁止をする」ことに意味がある。 これらのルールは、それがある方が、ない場合に比べて明らかに全体の利益になる。このような判断の原則が「ルール功利主義」と呼ばれている。これに対して、個々の行為を、それがもたらす利益・不利益に応じてその都度判断する立場を「行為功利主義」と言う。一般に、ルールの是非を考えるのに、この行為功利主義を持ち出してケースバイケースで判断する、というのは間違っている。
 ルールを話題にするともうひとつの分類に気がつく。それは「法治主義」と「人治主義」だ。われわれの住む「民主制度」の社会(Democracy)では「ルール功利主義(「ルール原理主義」ではない)」や「法治主義」と相性が合う。ところで「軍事
介入の政治経済学」、先週まで4回にわたっていろいろな事例を見てきた。 今週から後半、少し違った観点から話を進めて行こうと思っている。そして「ルール功利主義」の社会であることを前提として話を進める。しかし、そうでありながら緊急時・危機の時・有事には日常のルールは適応できない場合がある、つまりこうした非日常時には通常とは違った基準によって行動することがある、民主制度の国にあってもルール功利主義ではなく「デウス・エクス・マーキナ」と言うべき、指導者の独断が行き止まりに見えた道を切り開くこともある、というような話に持って行こうと思っている。 どこまで筋の通った論理になるか?精一杯知恵を絞ります。ご期待ください。
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<不法行為とその機会費用の大きさ> いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。ではどうすれば良かったのか?答え=早い内に「そんなことをしては、いけないよ」「結局自分が損するよ」ということを分からせる事。 経済学でよく使う言葉「機会費用」(Opportunity cost)を使えば、「不法行為とその機会費用の大きさ」を知らしめること、となる。
1998年1月26日東京地検特捜部は大蔵省金融証券検査室長宮川宏一(53)と金融検査部管理課課長補佐谷口敏美(48)を収賄容疑で逮捕。あさひ・第一勧業・三和・北海道拓殖銀から高額の接待を受け、検査日程を事前に漏らした疑い。宮川容疑者が約700万円、谷口容疑者が約227万円の接待と利益供与を受けたとされる(現金は受け取っていない)。 ここでは、倫理とか「うらやましい・憎らしい」といった「感情」の問題を損得「勘定」の問題に置き換えて考えてみることにする。
 まず、この職員が接待を受けずにこのまま仕事をしていたらどうなるか?大蔵省を退職し、どこか天下り先を渡り歩くだろう。そうすると大蔵省の給料・退職金、天下り先の給料・退職金をもらう。これらの合計は一億円を軽く超えるだろう。つまり接待汚職が発覚して1億円以上将来の収入を失ったわけだ。汚職の発覚する確率がたったの2割程度と考えても、その機会費用は2000万円。さらにいつか発覚するのではないかと常に心配し、有罪になった場合の罰金をも考慮すれば損益分岐点はもっと上がるだろう。 日本では大蔵官僚にとって接待汚職は割に合わない仕組みになっている。マスコミが非難を集中させる「天下り」が不正行為を防ぐ抑止力になっているのだ。
 このように考えると、あの二人は大蔵官僚のなかにあって珍しく計算の不得意な二人だったのだろう。接待を受けるのが得か?受けないのが得か?将来の収入を計算すれば簡単に分かることなのだから。したがってこのような汚職を減らすには、1)検挙率を上げる、2)損得勘定で考えても割に合わないことを周知徹底すればいい。
 詳しくは「接待汚職の経済学」でどうぞ。
<米国同時多発テロを経済学する> 2001年9月11日テロリストが民間航空機4機をほぼ同時に乗っ取り、ニューヨークの世界貿易センタービルなどに激突。約3,000人が死亡した。翌12日、ブッシュ大統領は「戦争行為」と非難し、報復を宣言。10月7日、米英軍がアフガニスタン空爆を開始。11月13日、タリバンが首都カブールから敗走、事実上の政権崩壊。2002年3月2日、米軍がアフガン東部でビンラディン氏率いるテロ組織アルカイダに対する大規模な掃討作戦を開始。 テロリスト集団アルカイダを守ってきたタリバン政権は崩壊。
 米軍の作戦を報復行為として捉え「罪のない一般市民が犠牲になる」との非難があった。TANAKA1942bの論理は「テロは割に合わない事業だと悟らせることが大切だ」となる。
 詳しくは「テロは割に合わない事業だと悟らせる 」でどうぞ。
<偽装表示の損益計算書> 牛肉偽装事件を起こした食肉最大手の日本ハム(本社・大阪)は20日、03年3月期の業績予想を下方修正し、連結当期損益が10億円の赤字になる、と発表した。赤字になれば51年の創業以来初めて。不祥事発覚前の5月に発表した当初予想は190億円の黒字だった。一連の不祥事で、連結子会社の牛肉販売自粛や、店頭での製品撤去が広がったことによる売り上げ高減少が響いた。来期は黒字転換する見込み。(2002年9月21日 朝日新聞)
 この記事から、日本ハムの発覚による損失は200億円となる。1000万円の不正利益のために200億円失ったわけだ。発覚する確率がたった 0.1%(1000件の不正行為の内発覚するのが1件)としても、その機会費用は2000万円。「悪いことをした」と非難するより、「バカなことをしたもんだ」と笑う方が合っている。 日本ハムがせめてもの罪滅ぼしとして、「食肉偽装事件の損益計算書」と題した詳しい経緯と数字を発表したら、他の会社でも「あんなバカなことはやらないようにしよう」「ルール違反すると結局は損をする」と、社員に周知徹底することになる。
 詳しくは「偽装表示の損益計算書」でどうぞ。
<いたずらっ子が不良になる> いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。
 フセイン政権が続いていたらどうなったであろう?国連の査察団に適当に対応しながら、「わが国は十分制裁を受けた。これからは主権国家として自国の平和と安全に責任を負うことを宣言する」と、大量破壊兵器を開発した時点で表明したに違いない。
 拡散した核を元に戻すのは不可能、まるでエントロピーのようだ(熱力学の第2法則)。かつて一部のマスコミが「地上の楽園」と呼んだ彼の国、核保有国となったらアジア軍事情勢はどう変わるだろうか?1962年10月16日からのキューバ危機 (Cuban Missile Crisis)が思い起こされる。「とにかく戦争はいやだ」との市民感情では対応できない危機になることは間違いない。
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<言霊の国、日本での強行論> 井沢元彦著「言霊」に興味を引く文があったので引用しよう。
 たとえば、日本の航空機がハイジャックされたとしようか。テロリストたちが乗客何百人かを人質に取って、何らかの要求をしたとする。この場合、解決策はまず2つ考えられる。1つは全面屈伏であり、テロリストの要求にすべて従うことだ。そしてもう1つは強行突破であり、特殊部隊を突入させ、犯人全員を射殺し人質を解放する。そして、この両極端の方策の間に無数の折衷案がある。
 日本では「人命は地球より重い(?)」ということで、強行突破など論外だという空気が強いが、対応策というのは、本来テロリストの要求によって違ってくるべきものだ。
 相手の要求が金ならいいが、たとえば「イスラエルはパレスチナから出て行け」というような、とても従えないような要求だったらどうするのか。金では片はつかない。かといって、相手は要求が通らなければ人質を皆殺しにすると言っている。だとすれば、作戦は強行突破を中心に考えるしかない。イスラエルが特殊部隊をよく突入させるのは、こういう背景があってのことである。
 そして、こういうことを続けていれば確かに乗客側に犠牲者も出るが、犯行自体も減ってくる。テロリストにしても必ず強行突破されるなら、メリットがないから止めておこうということになる。逆に、常にテロリスト側の要求を全面的に聞き入れていれば、あそこの国は必ず金を出すから狙ってやれ、ということにもなる。もしそういう事が続けば、その国のエアラインは、世界中のテロリストに狙われることにもなりかねない。
 現に1977年(昭和52年)の日航機ダッカ空港ハイジャック事件の際、日本政府が犯人側に600万ドルを支払ったうえ、奥平純三、泉水博らを「超法規的処置」で釈放した時も、実は強行突破論もないではなかった。特に外国のマスコミには、そういう意見も堂々と載った。
 そこで問いに戻るが、仮にあなたがハイジャック問題の専門家だとする。そしてまた同じような事件が起こり、あなたが専門家としての知識と経験をフルに生かして冷静に客観的に検討した結果、「今回は犯人の要求に従うべきではない。人質に多少の犠牲者が出ても強硬突破も止むを得ない」と結論が出たとする。あなたはそれをテレビで発表できるだろうか?
 できると答えた人は、よほど信念のある立派な人か、さもなくば相当なウソツキだろう。私にはとてもそんな勇気はない。仮に勇気を奮って発表したとしよう。その瞬間からテレビ局には非難・抗議の電話が殺到することになる。曰く「それでも人間か?」「家族の気持ちを考えろ」「なぜあんなことを言わせた」・・・・。
 そしてたまたま政府が同じ方針で強行突破を行い、人質に死者が出たとしよう。すると、あなたはますます非難されることだろう。曰く「おまえがあんなことを言うからこうなったんだ」「お前の責任だ」「遺族にあやまれ」・・・・・。 (井沢元彦著「言霊(ことだま)」祥伝社 1991(平成3)年2月1日から)
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<最大の機会費用は死刑制度> 「悪事を働いて、いい思いをしようとしても、結局は損をするよ」ということを周知徹底することが犯罪の抑止力になる。失敗する確率がたったの2割(成功率80%)としても「やったら損する」と思えば抑止力が働く。そうして最大の抑止力が死刑制度だ。死刑制度のあることが人殺しをしそうになった時の抑止力になる。量刑を「犯した犯罪から決める」考え、もうひとつは「犯そうとする犯罪の抑止力効果として決める」考え。 「正義と法の経済学」として「抑止力効果としての量刑」も考えるといいだろう。この場合「発覚する確率」がポイントになる。そして、もうひとつ、死刑制度を廃止したら?「懲役100年とか200年、仮釈放なし」としたらどうなるか?どんなに真面目に模範囚となっても仮釈放なし、どんなに不真面目で、たとえ刑務所で人を殺しても懲役200年が300年になるだけ。模範囚へのインセンティブはなし、自分では自分の運命を良くも悪くも変えられない。ムゴイ刑だと思う。
( 2003年6月2日 TANAKA1942b )
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(6)G・ハーディン「救命艇に生きる」状況
民主制度と機械仕掛けの神
<共有地の悲劇=The Tragedy of the Commons>   誰にでも開放されている牧草地を想像してもらおう。牧畜をしている人は誰でも、共有地にできるだけ自分の家畜を放牧しようとする。そして自分に問い掛ける。「自分の家畜をもう1頭増やしたら、自分の利益はどうなるだろうか?」と。
 答えははっきりしている。「もう1頭増やすことにしよう」となる。
 今、この共有地が広大であるか、利用する人がごく少数であれば特に問題は起こらない。「希少性」の制約が事実上現れてこないからだ。しかし、そうでない場合は、やがてこの共有地が養うことのできる家畜の数を超えて家畜が放牧され、牧草は不足し始める。 それでも人々は、「自分の家畜くらいはなんとかなるだろう」と考えて、過密化した土地に家畜を放つことを止めない。その結果、牧草は食い尽くされて裸の土地になる。表土が流れ去ったりすると、この土地は不毛の砂漠となる。こうして放牧できる共有地は永久に失われることになる。
 現代日本の世相に合わせて翻訳するとこうなる。町の中に所有者不明、あるいは管理者不明の空き地があると、そこはしばしばゴミ捨て場になる。誰かがゴミを捨てると、次々とあとに続く人が出て、やがて悪臭を放つゴミの山ができる。すべての環境汚染問題はこれと同じ構造をもっている。「自分ひとりくらいはいいだろう」との意識で便利な生活を追及し、フロンガス、生活廃水、産業廃棄物などの「ゴミ」を捨てて、その結果環境を破壊している。
<その解決方法> いったいどうしたら良いのか?いろいろなやり方がある。私有財産として売り払うこともできよう。それを公共財産として維持して、そこへ出入りする権利を分配することもできよう。そして分配は競売に付して金銭によることもできよう。ある協定された規準に基づいて、功績によって分配することもできよう。また抽選によることもできようし、整然とした長い行列を作らせて、先着順によることもできよう。 どれも、合理的な可能性を持っているとも言えるし、不満なものとも言えよう。しかし、選ばなければならない。そうでなければ、共有地を砂漠にしたり、町中をゴミ捨て場としてしまうからだ。ではどうしたらいいのか?
(1) 罰則を伴う環境利用のルールをつくる。
(2) 管理者を定めて管理させる。
(3) 共有地を売却し、私有地とする。その管理は所有者の責任となる。
(4) 環境利用料金をとる。環境が悪化する恐れがあれば、その料金を「禁止的な」高さに引き上げる。
 こうした解決案のうち、(1)(2)は海洋資源、大気、森林など、地球規模の環境保全に不可欠なもの。問題はそのルールの内容とその管理者だ。1国レベルではあまり問題にならないが、国際的共同管理となると、責任の所在が曖昧になる。 対象となる環境が小さければ、(3)(4)のような解決も可能になってくる。資本主義嫌いの人は反発するが、自分の土地となれば、そこが荒廃しないように知恵を絞って管理するだろう。ホームレスが生活する都会の公園、私有地となれば様子が違ってくる。 (4)のような「市場的解決」も場合によっては効果がある。管理者がはっきりしていて、環境保全に費用をかけている場合は、その利用者から料金をとる方法が合理的であり、たとえば「入漁料」「入山料」「プライベート・ビーチ」などが考えられる。そしてこの場合は「価格弾力性」に影響される。 「首都高速道路の料金は2000円に値上げを」は似た例と言える。 
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<救命艇に生きる=Living on a Lifeboat> 船が沈没し、救命艇が下ろされた状況を想像してみよう。この救命艇の定員60名で、今50名乗っている。周りには100名以上の人間が海上を泳ぎながら、救命艇に乗ろうとしている。すべての人間を乗せれば救命艇が沈没するのは目に見えている。こうした状況ではどうしたらいいのだろうか?
(1) 全員を助けようと努力する。キリスト教の理想「われわれの同胞の守護者」によって、また「各人が自分の能力に応じて、必要に応じて他人へ」というマルクス主義の理想に従って彼らを助けたいのは山々だが、全員を救命艇に乗せると収容能力をオーバーし救命艇はひっくり返り全員が溺れてしまう。完璧な正義と完全なカタストロフ。
(2) 定員いっぱいまで乗せる。この場合誰が、誰をどのようにして選ぶか?が問題になる。「真に生き残るに値する人間は?」などど議論している余裕はない。恐らく早いもの勝ちで救命艇に這い上がろうとして混乱状態に陥るだろう。すでに乗っている人は、定員を超えて乗ろうとする人を阻止するために射殺することも辞さない、という覚悟が必要になる。
(3) 利他主義の立場、あるいは全体の利益という立場から、人々の良心に訴える。つまり、生き延びるに値する人を助けるために、そうでない人は譲って犠牲になってくれるように、と訴える。そしてこの方法が最も愚劣な方法。この通り実行されたら、良心的な人が諦めて死んで行く一方で、良心など持ち合わせていないに人間が生き残ることになる。こうした危機的状況で利他主義は通用しない。
(4) これ以上1人も乗せない。まだ定員に余裕があっても、現在乗っている人だけでも生き延びる可能性は一番大きくなる。この方法を採る決断ができないでいると、混乱の内に救命艇も転覆して全員が死ぬ、という最悪のケースが起こる危険が大きくなる。
 「共有地の悲劇」と「救命艇に生きる」は「ガレット・ハーディン著 松井巻之助訳「地球に生きる倫理」佑学社 1975年7月10日」を参照のこと。
<日常と緊急時の倫理> 「共有地の悲劇」を持ち出したのは、「扶養能力」という概念を意識したかったから。そしてそれが「救命艇に生きる」を扶養能力という面から理解し易くなると考えたからだ。それでも「救命艇に生きる」の解決方法に納得できない人は多いだろう。日常生活の常識で考えればあまりにもクールな考えだ。と思いながらも、「緊急時になればこれしか方法はない」と頭では分かる。ここでのポイントは日常生活での倫理基準と、緊急時の倫理基準では違いがある、ということだ。
 実際に救命艇ではどういうことが起きるだろうか?「まだ定員に余裕がある。できるだけ多くの人を乗せてあげよう」「そんなことをしていたら、定員オーバーでこの救命艇も沈没してしまう。せめて自分たちだけでも助かるべきだ」と議論し合うだろう。民主的な議論では結論が出にくい。誰かが独断的に「これ以上乗せない。われわれだけでも助かるべきだ」と宣告する。 この場合救命艇に乗った者が助かっても、リーダーに対して非難する人が出るだろう。特に助からなかった人の関係者は裁判に訴えるかも知れない。それでもこうしたリーダーが出てこなければ、全員溺れ死んだに違いない。
 この場合のリーダーは独断で決定し、後に悲運に合うかもしれない。このように考えていくと、キューバ危機のケネディ兄弟とフルシチョフが頭に浮かんだ。「とにかく戦争はイヤダ」の雰囲気に溺れ、ヒトラーの暴走を許した英仏米の政治家とは違う。周りの人たちが予想しなかった意外な決断、それは「デウス・エクス・マーキナ」と表現すべきなのかも知れない。
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<デウス・エクス・マーキナ=Deus ex Machina> 「機械仕掛けの神」と訳す。元はラテン語で英語としても使われている。ギリシャ語では「テオス・アポ・メーカネース」(theos apo mechanes)という。カタカナで書く場合は「デウス・エクス・マーキナー」か「デウス・エクス・マキナ」が正しいとの意見もあるが、ここでは多数派「デウス・エクス・マーキナ」と表示する。古代ギリシャの演劇で、神に扮した俳優を舞台に登場させるクレーン、または天井から登場させる装置のこと。そして劇の終わりで筋が行き詰まったとき、無理やりに「神」を登場させて「めでたし、めでたし」と劇を終わらせてしまう芝居の最後に現れるご都合主義的な救い主のこと。 このことから転じて、事態が行き詰まったとき超法規的な、または「天の一声」のような解決方法を「デウス・エクス・マーキナ」と表現する。
( 2003年6月9日 TANAKA1942b )
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(7)人の命は地球より重いのか?
個の利己主義、種の利己主義
<日本赤軍事件>   日本赤軍が起こしたテロ事件、ハイジャック事件を列挙してみよう。
よど号事件(1970.3.31) 羽田発福岡行き日本航空ボーイング727(JA8315)「よど号」が、名古屋近郊上空を飛行中、日本赤軍の学生9名にハイジャックされ福岡空港と、韓国の金浦空港を経由して、北朝鮮の美林空港に着陸して犯人は北朝鮮に亡命した。日本で初めてのハイジャック事件となった。
ドバイ事件事件(1973.7.20) パリ発東京行きの日航機を、丸岡修と4人のパレスチナゲリラがハイジャックし、アラブ首長国連邦のドバイ空港を経てリビアのベンガジ空港に着陸させた事件。
ハーグ事件(1974.9.13) 西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠してフランス当局に拘禁中の日本赤軍メンバーを釈放させた事件。
クアラルンプール事件(1975.8.4) 奥平純三、日高敏彦、和光晴生ら5人がマレーシア・クアラルンプールのアメリカ大使館等を占拠し、米総領事らの人質と交換に、日本で拘留中の西川純、戸平和夫ら5人を釈放させた事件。
ダッカ事件(1977.9.28) 丸岡修ら5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で在監・拘留中の奥平純三ら6人と現金600万ドル(当時約16億円)をダッカに移送させた事件。 福田内閣のハイジャック事件に際して犯人の要求を受け入れた、その大義名分は「人の命は地球よりも重い」というもの。全地球よりも重いものを何よりも優先して救うのは当然ではないか、というものであった。
ジャカルタ事件(1986.5.14) インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館前で車が爆破されるという同時テロ事件。日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定。
ローマ事件(1987.6.9) ベネチアサミット開催中の6月9日、イタリアのローマにおいて発生した、米・英両国大使館に向けた爆発物の発射等のテロ事件。イタリア当局は、奥平純三らを犯人と断定。
ナポリ事件(1988.4.14) イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍人1人を含む5人が死亡した事件。イタリア当局は、奥平純三及び奥平(重信)房子を犯人と断定。
<日本政府相手なら、ヤバイことしても損しない> 日本赤軍のテロリストは日本政府・評論家・世論の動きを的確に把握していた。日本は「言霊」の国であり、強行突破論は支持されないことを知っていた。普段正論を言う評論家も現実にハイジャックが起こると、世論・市民運動・マスコミの批判を恐れて「人命尊重」を主張する。政治家も同じように批判されないように「人の命は地球より重い」と言うようになる。 犯人側の要求を受け入れても、実質的な被害者は出ない。そこで「行為功利主義」が支持され、テロリストの思う壺にはまる。テロリストに対して「ヤバイことすると、結局は損をするよ」と知らしめることができなかった。このことがテロリストをますます思い上がらせることになった。日本政府の「ミュンヘン宥和策」が日本赤軍を勇気付け、ハイジャックから更なる犯罪、拉致事件へと進むきっかけを作ってしまった。 こうしたハイジャック対策に疑問をもつと、「人の命は地球より重い」との主張も怪しく思えてくる。本当に「人の命は地球より重い」のだろうか?
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<個の利己主義・種の利己主義 > ヒューマニズム(humanism)とか人道主義(humanitalianism)の立場に立つと、「人の命は地球より重い」となる。へそ曲がりの筆者の少し違った方から考えてみる。それは自然科学の生物学とか動物学の立場からだ。
 結論を先に言うと、「自然界にあっては、個の利己主義よりも種の利己主義が優先される」となる。別の言い方をすると、「個体が生き延びることよりも、種の保存の方が優先される」となる。自然界にあって一見利他主義に見える行為も、本当は種の利己主義に他ならない。一見利他主義や自己犠牲に見える行為、「地上に巣を作る鳥が傷ついたふりをしたり、つかまる危険を冒したりして、捕食者を巣から遠ざけるように誘導する」「オスのクモはメスとつがいになって確実に子孫をつくるためにはメスに食われることも辞さない」 「アメリカ南部から南米にかけて棲息するコオロギの一種の母親は、自分の体をその子に食わせて、よりよい生涯のはなむけにする」これらは個体が生き延びることよりも、その種が子孫を残すことの方が優先されるようなメカニズムが個体の遺伝子に組み込まれている、と考えられる。
 野生動物の世界で父親がいなくなるとその家庭はどうなるか?コマドリの一種を使っての実験がある。つがいの一方がいなくなると、まわりの独身の鳥の中から新しい相手が選ばれてただちに空きを埋めるのが普通だが、もしもヒナがいるときにこの交替が行なわれたら、新しいパートナーは自分の子でないヒナの面倒を見るだろうか?つがいのオスかメスを取り去ってこのようなパートナーのペアを10組作って実験した。普通、オスの親鳥はヒナに餌を与え、巣を掃除し、巣に危険が迫ったと思われると警報を発してなく。 ところが観察したオスの新しいパートナー8羽のうち、1羽として自分の子でないヒナに対してこの種の行動をとったものはいなかった。同じような例は多く知られている。メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハムマンラングールのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ結果がもっと非暴力的な形で現れる。つまり新しいオスの匂いを嗅いだだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になる。
 これらの例は、「個体を犠牲にしても種の繁栄をはかるようなメカニズムが遺伝子に組み込まれている」と考えられる。
<自然界に福祉主義はない> 植物は太陽光により光合成をする。そのために葉があるのだが、そのためだけなら樹木が高くなる必要はない。なぜ高く伸びようとするのか?それは他の植物と争っている、と考えられる。植物の世界も弱肉強食なのだ、まして動物の世界では当然。それは種と種の争いであり、同一種での争いでもある。上にあげたコマドリやハツカネズミの例は「強いものだけが子孫を残せる」例だ。結婚適齢期のオス同士な争いは、強いオスだけが子孫を残すためのシステムと考えられる。
 狩をするライオン、しかし失敗することが多い。キリン、シマウマなどを狙って逆に蹴飛ばされて顎の骨をくじくこともある。そうするとそのライオンは狩ができずに、餌をとることができずに餓死することになる。他のライオンが助けることはない。病気の動物はどうか?野生動物はいずれ子孫も残さずに死ぬことになる。こうして強いものの遺伝子だけが伝えられて行く。悪い遺伝子はこうして淘汰される。
<個体の命より、種の繁栄> こうした野生動物の世界とは違って、人類は個の命を大切にするようになった。野生動物の世界では子孫を残せないような弱い個体も、人道主義では大切に保護する。これに対しての反対意見はない。医療の発達と福祉主義の普及によりこの傾向はさらに強くなる。
 自然界では、個体の命より種の繁栄が優先される。しかし人類は人の命を地球より重く見るようになった。文明が発祥したとき、人類は「自給自足」を神話として、「分業」という効率のいい制度を見出した。しかしこれはそれまで以上にエネルギーを消費し、環境を破壊する生き方であった。今そのことに気がつき始めたが、後戻りはできない。そしてこのことと同じくらい反自然界的なのが、「個体の命より、種の繁栄」という自然界の法則に逆らった人道主義なのだ。 そしてこの人道主義も分業によるエネルギー消費と環境破壊が避けられない、と同じように歴史を逆戻りすることはできない。ただ違うのは、リベラル、ヒューマニズム、人道主義などは環境破壊には警告するが、個体の命を重く見るあまり、種の繁栄に注意せず、人類の動物としての進化を阻害することに対しては危機感をもっていない。
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<沈黙の春=Silent Spring > 「現代人は自然を支配しようとしている」「科学技術を盲信し、思い上がり、自分が自然の一部であることを忘れている」「市場原理主義者が拝金主義を広めている」。こうした感想が一般受けしている。そして、これは確かに当たっているかも知れない。「人類が自分では自分の食料を作らない人が現れたとき、文明が発祥した」 (これに関しては「自給自足の神話」を参照)「そして、文明が発祥したということは、今まで以上にエネルギーを消費し始めた、ということ」「農業を始めたのは、自然環境を破壊し始めたこと」。このように考えると、確かに「人類は自然界の摂理に逆らい始めている」。
 環境問題に深い関心を持つ人なら一度は読んだことのある本、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」、あの読後感を思い出してみましょう。感動?驚き?頭をゴツンと殴られたような衝撃?内容を紹介するスペースはありません。始めの部分「明日のための寓話」を少し引用します。声を出して読んで、あの読後感を思い出してください。ハートを熱く燃やし「リベラル」になってください。
 アメリカの奥深く分け入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもちあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、みどりの野原のかなたに、白い花のかすみがなびき、秋になれば、かしやかえでや樺が燃えるような紅葉のあやを織りなし、松のみどりに映えて目にいたい。丘の森からきつねの吠え声がきこえ、鹿が野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆け抜けた。(中略)
 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いったい何故なのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。
(レーチェル・カーソン著 青樹簗一訳「生と死の妙薬」(原題=Silent Spring 沈黙の春) 新潮社 1954.6.22 から)
<人間幼稚化の構造 >
人類が自然界の摂理に逆らっていることの一つ「自然破壊」。もう一つが「個体の命を大切にして、種の繁栄を軽く見ている」こと。しかし個体の命を大切にしている割には、個体が強くなる道を塞いでいることもある。
 進化とは環境の変化について行ける強いものだけが子孫を残すシステム。しかし人道主義は弱いものも子孫を残せるようにしようとする。それに関係して次のような指摘もある。
 博愛主義者や自由主義者(リベラリスト)は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買って出る傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。(中略)
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。 そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえるという、子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よとか、過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示している、と言えよう。 (「マン・チャイルド」(Man-Child: A Study of the Infantilization of Man )人間幼稚化の構造 ダビッド・ジョナス、ドリス・クライン共著 竹内靖雄訳 竹内書房新社 1984.7.10 から)
( 2003年6月16日 TANAKA1942b )
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(8)国家が人を殺さねばならぬとき
アダム・スミスの「公平な観察者」
<「ヤバイことすると、結局は損するよ」と分からすこと>   軍事介入することの意義は「ヤバイことすると、結局は損するよ」と分からすことだ。それによって今後、不法行為、民主化弾圧などの抑止力になる。死刑制度も抑止力として捉えれば、その必要性も理解できるだろう。それでも死刑制度は抑止力としてだけでなく、やはり必要な制度なのだ。その理由として山口意友著「平等主義は正義にあらず」から次の文章を引用した。
<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」>
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。 「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに変わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の変わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。 この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。 と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人をころさねばならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
 先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。 警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
 犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な反抗を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、 と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(山口意友著「平等主義は正義にあらず」葦書房 1998.3.10 から)
<「恥」の倫理観> 山口意友氏はその著書「平等主義は正義にあらず」で倫理観の中心に「恥」とか「武士道の精神」を置くことを主張している。それは「感情」の問題を損得「勘定」の問題に置き換えよう、との「経済倫理学」とは違う。むしろルース・ベネディクト「菊と刀」に描かれた戦前の、あるいは江戸時代の日本人のように思える。しかしよく考えとそれほどピント外れではない。「恥」とは他人の目を気にすること。そうして「公正な観察者」がどのように見るか?はアダム・スミスの考えになる。
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<公平な観察者の目> アダム・スミスは倫理の基準として、その著書「道徳情操論」のなかで「自己是認と自己否認の原則について」と題して次のように書いている。
 
われわれが自分自身の行為を是認したり、否認したりするのは、われわれが自分の立場を他人の立場に置き換えて、他人の目を持って、また他人の立場から自分の行為を眺めるとき、われわれが自分の行為を支配した情操や動機に全面的に移入し、同情できるか、どうかということによって決定せられる。(中略)
 われわれは、すべての公平無私なる見物人がわれわれ自身の行為を検討するに違いないと想像せられるような方法でもって、自分自身の行為を支配したあらゆる情感や動機に徹底的に移入するならば、われわれはこの想像上の公平なる裁判官の是認に同情することによって、自分自身の行為を是認する。もしそうでなければ、われわれはこの公平なる裁判官の否認に移入して、自分の行為を断罪する。
 
(アダム・スミス著 米林富雄訳「道徳情操論」(The Theory of Moral Sentiments) 未来社 1969年10月30日から)
<公平な観察者はどこにいるか?> アダム・スミスが「公平無私なる見物人」と呼んだ「公平な観察者」は誰なのか?そしてどこに居るのだろうか?このように考えてみよう。家族の誰か、職場の誰か、町内会の誰か、業界の誰か、参加している組織(組合・趣味の会・スポーツクラブ・宗教組織)、日本の誰か、アジアの誰か、世界の誰か。
 アダム・スミスのこの倫理観には2つの特徴がある。(1)誰を公平無私なる見物人とするか?によって倫理観が変わってくる。(2)ここに「神」は登場しない。
 ある行為が正しいかどうか、誰を「公平無私なる見物人」として選ぶかによって違ってくる。談合は悪いことか?土木建築業界の公平無私なる見物人は「正しい」と言うだろう。集団・組織には独特の倫理基準がある。永田町には独特の倫理基準があるようだし、素人さんとは違う怖いお兄さんたちにも独特な倫理基準があるようだ。農村部には「土の匂いのしない人の意見は聞かない」という基準を持っている人もいるようだ。 集団・組織が「協力・団結」などのスローガンで小さくまとまると、世間とは違った倫理基準が生まれる。団結力の強い組織は排他的になりやすく、その構成員は視野狭窄になりやすい。 その反省から、最近企業では「社外重役」を置く会社が目立ってきた。違った業界、または産業界からでなく法律家・学者・文化人などが選ばれる。「公平な観察者」を身内以外に求めよう、との趣旨だ。
 アダム・スミスが使ったことば、"Invisible Hand"は「見えざる手」でいい。「神の見えざる手」とするとちょっと違ってくる。アダム・スミスの文脈では「神」は必要ない、神を必要とする「原理主義的」な倫理観ではなく「功利主義的」な倫理観なのだと思う。そのように考えたほうが、この「道徳情操論」(The Theory of Moral Sentiments)をよく理解できるのだと思う。
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<自尊心の美学> ブッシュ大統領のイラク攻撃に影響されて始めた「軍事介入の政治経済学」が、視野狭窄にならないようにと話題を広げて行くうちに、経済倫理学のようになってしまった。そこでいっそのこと「経済倫理学のすすめ」で締めくくることにしよう。最後に引用するのは、竹内靖雄著「経済倫理学のすすめ」の最後の部分から。
 各人が「公平な観察者」を自分のモニターとして行動を律することは、今日の日本のような成熟し、安定した市場型の社会ではすでに当たり前のことになっている。それは今更声を高くしてそうする「べき」だと言うまでもないことなのである。消極的には、われわれは他人の目や世間の評判を意識して、悪いことをしないようにしている。積極的には、われわれは他人や世間の目を引き、目立ち、称賛や喝采を博することがしたいと思っている。 このような原則で動いている社会は確かに「他人指向型」で、行動や考え方の基準は他人、社会、あるいは状況という「外部のもの」におかれているように見える、しかし各人は自分の利益を考えて行動することを原則としているいから、この「外部の基準」はあくまでも各人のモニターとして利用されているにすぎない。未開の部族社会や小さな共同体、あるいは全体主義社会の人間と違って、われわれは外から与えられる行動規則通りに動いているわけではないし、また一神教型の信仰を「内蔵」した倫理的画一化人間になっているわけでもないのである。
 最初は世間の目を憚ることから出発したこの「自制する人間」は、どのような人間に「進化」するだろうか。すでにその答えは見えている。普通の人々の中には、今や世間の目を意識して「目立ちたがる」人が増えてきているのである。これは、「悪いことをしない」というよりも。「よいこと、優れたことをしよう」という姿勢であり、ある種の卓越性を求める姿勢にほかならない。普通の人、特に若い世代の間では、仲間内で評価される「カッコよさ」というささやかな卓越性が今や「プラス符号の行動目標」となっている。 もちろん「ダサイ」、不潔、見苦しい、醜い、という「マイナス符号」をつけられないことには大変な注意が払われている。
 要するに、他人に迷惑をかけないという最低限の原則が確立したあとは、倫理問題は美学的問題へと変質し、「カッコいいーわるい」、簡単に言えば「美醜」の問題が人々の意識をとらえるようになっているのである。こうなると、かの「公平な観察者」も、倫理的判定者という性格をいささか変えて、「カッコよさのモニター」、「美醜の鑑定者」というべき存在になる。このような「進化」の先にあるものは、損得は無視しても「カッコよさ」を追求するという「精神的ダンディズム」、「精神のおしゃれ」であるかもしれない。
 「内面のモニター」によって自分の行動を「妥当なもの」の限度内に制御し、さらに「内面の鑑定者」によって見苦しい言動を規制するようになった人間は、「自愛」に加えて「自尊」を知る人間になっている。内面化された「他人の目」は「自尊心」にまで進化したわけである。個人が「自愛心」と「自尊心」をもって生きているような社会では、もはや特別の倫理問題はない。あるのは経済問題と美学の問題だけである。これは空想的社会であり、ユートピアにすぎないけれども、豊かな、成熟した社会がもしも「よい方向」に進めば、 このような倫理問題の消滅した世界に向かうことになるであろう。現代の状況を見て、倫理的腐敗、道義の不在、私利私欲と金銭万能の時代、というふうに悲観することしかできないのは、倫理的過敏症というものではないだろうか。 (竹内靖雄著「経済倫理学のすすめ」中央公論社 1989.12.20 から) 
「軍事介入の政治経済学」          ( 2003年6月23日 TANAKA1942b )
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補足 2003年12月20日の新聞報道によると「ブッシュ大統領は19日、ホワイトハウスで緊急記者会見し、リビアの最高指導者カダフィ大佐が核兵器を始めとする大量破壊兵器を開発していた事実を認めた上、即時かつ無条件の廃棄を受け入れたと発表した」
 さらに、カダフィ大佐は22日、アメリカCNNのインタビューに応じ、「北朝鮮やイランは、 自国民の悲劇を避けるため、 リビアが取った措置に ならうべきだ」と述べ、 大量破壊兵器の開発計画の 放棄を促した。
 2003年12月17日の報道によると
「イランのハタミ大統領は17日の閣議後、記者団に対し、同国が18日にも国際原子力機関(IAEA)の核査察強化のための追加議定書に調印すると述べた。IAEA報道官は17日、イラン政府代表が18日午後3時(日本時間同11時)にウィーンのIAEA本部で調印する見通しだと述べた。 イランは調印により、核開発疑惑解明に向けて核開発の透明性を確保するとともに、国際社会への一層の協力姿勢を明確に示すことになる。 米国を中心とする国際社会はイランの核疑惑を懸念し、同国に対し追加議定書に調印するよう要求。自国の核問題が国連安全保障理事会に付託されることを避けたいイランは10月、英国など欧州主要3カ国外相との間で追加議定書の調印やウラン濃縮計画の停止で合意した(共同通信)」と報道された。
 アフガニスタン、イラク、リビア、イランと変わり、これで supported state for terrorism (日本語訳・ならず者国家) の数が減った。 ミュンヘン融和策 の教訓は生かされている。
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