日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論

日本人が作りだした農産物
品種改良にみる農業先進国型産業論

  コメ自由化への試案  日本人が作りだした農産物  品種改良にみる農業先進国型産業論    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   趣味の経済学   コメ自由化への試案


▲ (1) コシヒカリの誕生 研究者の根気と偶然性 ( 2003年6月30日 )
▲ (2) コシヒカリを超えられるか? 競い合う各県の農業試験所 ( 2003年7月7日 )
▲ (3) コシヒカリから生まれた優等生 海外でも人気を博す日本米 ( 2003年7月14日 )
▲ (4) コシヒカリ独壇場の秘密 市場原理と豊かな消費者 ( 2003年7月21日 )
▲ (5) 野菜・果物・花卉の品種改良 「一代雑種」という改良方法 ( 2003年7月28日 )
▲ (6) 諸外国での品種改良 緑の革命とEU農業政策 ( 2003年8月4日 )
▲ (7) 新大陸からの金銀以上の宝物 トマト、ジャガイモの普及と改良 ( 2003年8月11日 )
▲ (8) 美味いものには国籍不用 進歩する品種改良手法 ( 2003年8月18日 )
▲ (9) まだまだあった新大陸の味覚 コロンブス時代からの植物史 ( 2003年8月25日 )
▲ (10)江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴 ( 2003年9月1日 )
▲ (11)稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網 ( 2003年9月8日 )
▲ (12)品種改良の方法 メンデル、選抜育種法、交雑育種法 ( 2003年11月10日 )
▲ (13)在来種への思い入れ 消費者に気に入られる野菜とは ( 2003年11月17日 )
▲ (14)外来種が定着し在来種となる 野菜の原産地・導入育種法 ( 2003年11月24日 )
▲ (15)日本人に適した品種改良 好奇心と遊び心 ( 2003年12月1日 )
▲ (16)細胞育種法 ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ ( 2003年12月8日 )
▲ (17)自家不和合性と雑種強勢 農業経営組織・制度の品種改良は可能か? ( 2003年12月15日 )
▲ (18)日本人が切り開いたハイブリッド技術 外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス ( 2003年12月22日 )
▲ (19)ハイブリッドライスの可能性 先進国型品種改良への転換 ( 2003年12月29日 )
▲ (20)遺伝子組み換え技術の誕生 医薬品からの実用化 ( 2004年1月5日 )
▲ (21)野菜に加えられた良き性質 GMOの広がる可能性 ( 2004年1月12日 )
▲ (22)遺伝子工学の方法 何が進歩して、何が停滞しているのか? ( 2004年1月19日 )
▲ (23)批判派・推進派の主張 世界の食糧危機を救うか? ( 2004年1月26日 )
▲ (24)安全性について考える 利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念 ( 2004年2月2日 )
▲ (25)栽培しないことの利益と不利益 「結論を延ばす」という結論の機会費用 ( 2004年2月9日 )
▲ (26)品種改良で農業の将来はどうなるか? 日本農業は崩壊しない ( 2004年2月16日 )
▲ (27)品種改良を経済学の目で見る 先人たちの助言を聞いてみよう ( 2004年2月23日 )
▲ (28)自給自足こそが貧困への第一歩 いろんな時代のアダム・スミスたち ( 2004年3月1日 )
▲ (29)農作物を世界で分業すると…… 低賃金と劣悪な労働条件の最貧国、しかし…… ( 2004年3月8日 )
▲ (30)有閑階級の恋愛と贅沢と資本主義 正義と嫉妬と不平等の経済学 ( 2004年3月15日 )
▲ (31)タネ作りは種子会社に任せよう 在来種もF1も、その改良品種も ( 2004年3月22日 )
▲ (32)反進化論は品種改良をどう説明する? 「ルーシー」と「ミトコンドリア・イブ」 ( 2004年3月29日 )
▲ (33)市場重視と株式会社参入 さらなる進化のために ( 2004年4月5日 )
▲ (34)やはり農業は先進国型産業であった 参考になった文献集 ( 2004年4月12日 )

趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ Index
2%インフレ目標政策失敗への途 量的緩和政策はひびの入った骨董品
(2013年5月8日)
戦後最大の金融事件は進行中
コメ自由化への試案 Index
(1)コシヒカリの誕生
研究者の根気と偶然性
<NIRA報告書から> TANAKA1942bが「コメは自由化すべし」と主張するのは「農業は先進国型産業である」との考え、すなわち「農業は日本のような先進国に適した産業で、研究開発に熱心な日本人にこそ適した産業だ」と考えるからだ。「農業先進国型産業論」という考え方は「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)に書かれたのが最初ではないか、と思う。そこで今回のシリーズでは「NIRA報告書」を頭に置きながら、「品種改良」をテーマに「農業先進国型産業論」を展開していくことにした。 「NIRA報告書」をまとめた叶芳和氏が農業問題に発言しなくなってから、「農業先進国型産業論」は聞かれなくなった。「NIRA報告書」の姿勢を引き継ぎながらも、そこでは扱われなかった側面から、日本の農業を考えようと思う。アマチュアがどこまで「農業先進国型産業論」を展開できるか?しばらくこのHPにお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 「NIRA報告書」で叶芳和氏等が農業をどのように考えていたか?報告書の初めの部分を引用しよう。
 日本農業が直面している高価格、過剰供給(生産調整)、低自給率等の諸困難は、解決可能な課題だと考える。さらに、諸外国の農業者にわが国市場へのフリー・アクセスを与えることも可能だと考える。 農業は先進国で比較優位をもちうる産業である。日本は先進国であり、農産物の輸出国にさえなれる潜在的条件をもっている。この条件をいかに生かすかが重要である。技術革新と規模の利益を実現させるシステムを設計することが肝要である。(中略)
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
<米の品種改良から調べてみよう> 江戸時代のことを調べている内に、江戸時代の植物の品種改良はけっこう進んでいた。メンデルの法則など知らなかったのにそれを応用したかのような品種改良をやっていた。武士や町人が花木や金魚など、でも商売と言うより趣味でやっていた。そのポイントは「好奇心」と「遊び心」。その2つが必要条件となると、これは「アマチュアエコノミスト」の必要条件と同じとなる。 そんなことを考えていたら、江戸時代の農業に関しては「先進国」だったことに気付いた。江戸時代から日本は先進国だったし、農業は先進国型産業だったのだ。
 こうして江戸時代から先進国型産業だった日本の農業、では現代ではどうなのだろうか?そこで「もしも品種改良がなかったら、日本の農産物はどうなっていたろう?」と考えると、日本の農業から品種改良の成果を除いたら、どうなっていたか想像もつかない状況だと考えるようになった。
 品種改良にみる農業先進国型産業論、先ずはコメの品種改良=コシヒカリ=から始めよう。
※                     ※                     ※
コシヒカリ開発略年表
<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂>
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の 高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
 田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
 高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。 しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。 ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
 石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。 後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。 しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
 一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。 国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
 表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
 貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
 昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。 もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。 
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年  この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年  2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha  3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
※                     ※                      ※
<主な参考文献・引用文献>

「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)                     総合研究開発機構  1981.8.1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生    酒井義昭著                中公新書      1997.5.15
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
「コシヒカリを創った男」           粉川宏                  新潮社       1990.3.15
「コシヒカリ」                日本作物学会北陸支部北陸育種談話会編   農山漁村文化協会  1995.12.15
( 2003年6月30日 TANAKA1942b )

(2)コシヒカリを超えられるか?
競い合う各県の農業試験所
<コシヒカリをめぐる7不思議> 2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積をみると、1位=コシヒカリ3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ851,700トン、157,800ha 3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)。 このコシヒカリは全額国庫負担の水稲育種指定試験によって育成された品種で、民間企業の研究開発・新製品発売とは違って、研究開発者には成功報酬としてのボーナスはない。後日発表される資料に育種した農業試験場の名前はあるが、研究者の名前はなかなか見当たらない。このようなとても地味な研究の成果であり、その研究者には職人的な性格さえ感じる。誕生から普及への歩みは平坦ではなく、特にコシヒカリは何度も、あわや廃棄処分という危機に見舞われるなど、波乱に満ちた歩みだった。 育種から普及までの歩みを見ると、いくつもの「不思議」があることに気付く。酒井義昭著「コシヒカリ物語」からその「不思議」を要約すると次のようになる。
(1)戦争末期から敗戦直後の食糧難時代に、なぜ日本一おいしい新品種が育成されたのか?
(2)イモチ病に強い新品種を生み出すのが目的だったのに、コシヒカリはイモチ病に最も弱い品種である。
(3)新潟県農事試験場が人工交配したのに、福井県で水稲育種試験が実施されることになった際、譲り渡された系統から誕生した。
(4)福井県はなぜか、県奨励品種に採用することを拒否し、後に一度諦めた新潟県農試が奨励品種への採用を決断した。
(5)戦前、東日本と西日本では米について好みが違うと言われていたが、コシヒカリは東日本でも、西日本でも好まれている。
(6)草丈が高く倒れやすく、機械化が進めば消え去ると言われていたのに、栽培面積が増加した。機械化適応品種に変身したのか?
(7)稲の品種の寿命は10年ぐらいと言われているのに、誕生以来すでに40年。これを超える新品種を開発できないでいる。
<2002年産水稲の品種別収穫量> コシヒカリの実力はどの程度なのか?消費者はどの位コシヒカリを欲しがっているのか?他の品種との比較をしてみよう。
順位 品 種収穫量(トン) 作付面積(ha)登録年・育成場所 主な生産県コシヒカリ系統
1 コシヒカリ3,187,000606,500  1956 福井農試 新潟、茨城、栃木
2 ひとめぼれ 851,700157,800  1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島
3 ヒノヒカリ 829,500163,700  1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡
4 あきたこまち721,300131,300  1984 秋田農試 秋田、岩手、山形
5 きらら397362,00071,000  1988 北海道立上川農試 北海道
6 キヌヒカリ315,00062,000  1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉
7 はえぬき285,20045,400  1992 山形農試庄内支場 山形、秋田
8 ほしのゆめ137,20027,500  1996 北海道立上川農試 北海道
9 つがるロマン122,82021,400  1997 青森農試 青森
10 ササニシキ104,80018,700  1983 宮城県農試古川分場 宮城、山形、秋田
11 むつほまれ98,60016,400  1986 青森県農試黒石本場 青森
12 日本晴75,30014,100  1963 愛知県農試 滋賀、埼玉、兵庫
13 ハナエチゼン71,80013,300  1991 福井農試 福井、富山、石川
14 ゆめあかり68,50013,000  1999 青森農試 青森
15 夢つくし63,40012,800  1993 福岡農総試 福岡
16 ふさおとめ52,5009,440  1999 千葉県農試 千葉
17 あさひの夢49,8009,900  1998 愛知県農試 愛知、群馬、栃木
18 ハツシモ49,80010,700  1950 安城農業改良実験所 岐阜
19 あいちのかおり48,6009,540  1987 愛知県農総試 愛知、静岡
20 祭り晴47,9009,220  1993 愛知総農試 愛知、京都、大阪
農水省「子ども相談電話」HPからの数字を中心に作成  ○はコシヒカリの子供、孫、ひ孫の品種。つまりコシヒカリを祖先に持つ品種。
<数字を読む> 「2002年産水稲の品種別収穫量」から数字を読んでみよう。
(1)抜群にコシヒカリが強い。コシヒカリの収穫量は2位ひとめぼれ以下、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397、キヌヒカリの6位までの合計よりも多い。
(2)コシヒカリより後から登録されたのに、コシヒカリを追い越せない。コシヒカリよりも前に登録されたのは18位ハツシモだけ。それ以外はコシヒカリよりも後に登録されている。品種改良によって新しい品種の米が生まれるのに、コシヒカリを超える品種は生まれない。
(3)戦前からの品種はない。一番古いのがハツシモ(1950年)、次がコシヒカリ(1956年)。「米は日本の伝統文化だ」としても、伝統的な品種は影が薄い。赤米や紫黒米などのような古代米の方が残っているくらいだ。「米作りの伝統」とは「品種改良の伝統」「新しいことにチャレンジする伝統」なのだろうと思う。 江戸時代から日本のお百姓さんは「好奇心」と「遊び心」いっぱいの「革新派」だった、というのがTANAKA1942bの考え方。
(4)コシヒカリから生まれた品種が多い。とは予想していたが、調べてみてビックリ。コシヒカリを祖先に持つ品種がこれほど多いとはオドロキ。(2)との関連で考えると、品種改良は進歩がないのではないか?との心配も生まれそうなほどだ。
※                      ※                      ※
<コシヒカリを超えられるか?> 戦後日本の自動車産業が乗用車を作り始めた頃、クラウン、セドリックやコロナ、ブルーバードはスタンダードとデラックス仕様だけだった。生産台数が増え始めてハイデラックス、スーパーデラックスとかGLなどが登場した。トランジスタ・ラジオ、テープレコーダー、ウォークマン等も新製品として市場に登場したときは1種類だった。 商品が市場で成熟する、ということは多くの種類(グレード)が出ること、消費者の多様なニーズに応える品が揃えられる、ということだろう。たくさんのグレードの商品が揃い、その一つのグレード(例えば「スーパールーセント」)がかつての「デラックス」より生産数が少なくても悲観することはない。米の品種のこと、「コシヒカリを超えられない」問題もこのように考えられる。コシヒカリという新商品が登場した。消費者の多様なニーズに応えて、そして生産地の気候・地域性に応じて、コシヒカリから改良された商品(ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまちなど)が登場した。このように考えれば悲観することはない。これからも先進国型産業として期待できる。日本の高度成長を引っ張ってきた自動車産業や家電産業と似たような商品開発が行なわれている、と考えられる。
 米の品種改良という点に注目すると、他の「ものづくり産業」と同じように、市場での消費者ニーズに応えて商品開発を進めてきた、と言える。さらにその商品開発携わった研究者は競争原理に刺激されて成果を上げてきた。 新しくできた農試には捨てるようなものを回したり(1947年)、成果を上げて余裕が出てきたので、あまり期待できない品種も登録したり(1957年)、何でもいいから成果を示すために奨励品種登録してしまったり(1953年)、コシヒカリの誕生にはそれぞれの農試、研究者に資本主義。市場経済の特徴である「競争原理」が働いていた、と考えられる。
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
 農業は「ものづくり大国日本」に適した産業なのだと思う。そこでコシヒカリから生まれたいくつかの品種、についてもう少し詳しく調べてみることにしよう。
( 2003年7月7日 TANAKA1942b )
▲top
(3)コシヒカリから生まれた優等生
海外でも人気を博す日本米
<「美味しい米」系が、円熟した商品取り揃えとなる> 自動車産業を振り返ってみると、クラウン、セドリックがタクシー、法人向けジャンルを拓き、コロナ、ブルーバードがファミリーカーを普及させ、カローラ、サニーがさらにファミリーカー需要を開拓した。以後もスバル360やホンダN360が軽自動車を普及させ、フェアレディZやセリカがスポーツカー部門を開拓し、ホンダのシビックが低公害車を引っ張った。 こうした傾向は他の産業でもみられる。例えば、味の素が化学調味料を普及させ、ウォークマンがウォーキングカセットという商品を生み出し、インスタントラーメンやカップヌードルという新しい食品分野を生み出した。 テレビで言えば、薄型テレビや液晶テレビが開発され新しい商品ジャンルが生まれ、乗用車では燃費の良さが評価の基準になった。コメでは美味さが評価の基準の一つになった。このようにコシヒカリは他の工業製品と同じような過程で消費者に気に入られていったのだった。食味の科学的判定が確立しコシヒカリの「美味さ」が評価されるようになり、コシヒカリが評価され話題になったことにより科学的評価も信頼されるようになった。 このように、新しいヒット商品が新しい商品分野を切り開いてきた。それが市場で消費者に気に入られれば、ライバル企業が参入し、充実した商品構成になる。このようにして、市場では企業や商品が消費者に気に入られように、との競争が始まる。
 コシヒカリの誕生については、先週「(2)コシヒカリを超えられるか?」で書いたように多くの不思議がある。それでもハッキリしているのは、「コシヒカリがこれほど普及したのは消費者に気に入られたからだ」ということ。消費者に気に入られたコシヒカリを追ってライバル商品が開発され、コシヒカリ系はコメ市場で一つの新しいジャンルを作った、と考えられる。そしてその背景には「日本が豊かな国」で「豊かな消費者が、いいものには高い対価を払う」という状況があったからだと考えられる。 それではどのような商品がコシヒカリから生まれ、コシヒカリのライバルになろうとし、コシヒカリ系という分野を作っているのか?そのような好奇心に答えるように、いくつかの品種について調べてみることにしよう。
※                      ※                      ※
<ひとめぼれ> (普通栽培・中生の晩)
<来 歴>
育成地  :宮城県古川農業試験場
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:「初星」 (初星の交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:40-11喜峰)
交配年次 :1981(昭和56)年   
育成年次 :1991(平成3)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
特徴
耐冷性(冷害):「ササニシキ(やや弱)」より強い“極強”。
食 味:「ササニシキ」より粘りが強く、「コシヒカリ」並以上の"極良"。   
玄米品質:「ササニシキ」に優る"極良"。
耐倒伏性:「ササニシキ」より強い。
穂発芽性:「ササニシキ」より発芽しにくい"難"
草 姿:「ササニシキ」より穂数が少ない。丈は同程度。
出穂・成熟期:「ササニシキ」並の“中生の晩”。
耐病性:いもち病抵抗性は「ササニシキ」と同程度。  
特徴 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=「ひとめぼれ」はどんなお米で、人気はあるのですか。(小学生)
答え=「ひとめぼれ」は、「コシヒカリ」と「初星」を両親として平成3年に宮城県古川農業試験場で誕生しました。味とかおりが良く、ねばりの強いお米です。 名前の由来は、「見て美しさにひとめぼれ、食べておいしさにひとめぼれしていただき、全国のみなさんに愛される米にしていきたい」との願いがこめられています。 「ひとめぼれ」は、東北地方を中心に作付けされており、お米の中で、コシヒカリの次に作付け量及び流通量が多い品種で、市場においても人気があります。
生い立ち
@1980(昭和55)年冷害の実態から、耐冷性の向上が急務となる。翌年古川農試では 新しい耐冷性検定法(恒温深水法)を開発し、既存品種の耐冷性評価の見直しを開始する。
A耐冷性の強い「コシヒカリ」を母本として選定し、耐冷性と食味の両立する栽培しやすい品種の開発を目指し、1981(昭和56)年「コシヒカリ」と「初星」を交配して選抜を開始する。
B1988(昭和63)年「東北143号」を育成し、奨励品種決定調査を開始する。その年の冷害で耐冷性の強さと食味の良さが実証され、1991(平成3)年「ひとめぼれ」と命名されデビュ−する。
C1993(平成5)年の大冷害で耐冷性の強さを発揮し、「ササニシキ」の壊滅的な被害を軽減する。  この年を契機に「ひとめぼれ」の評価は急速に高まり、1994(平成6)年には「ササニシキ」に 替わり全国作付け二位となる。その後も作付け地域を順調に拡大し、南は沖縄県まで普及 している。現在の奨励品種採用県は21県。
 古川農試では、「ひとめぼれ」の成功をバネに晩生新品種「こいむすび」(母親:「中部 73号」X父親:「ひとめぼれ」)を育成し、宮城県北部平坦地帯及び仙台湾沿岸地域に普及させようとしている。このようにコシヒカリの子孫「美味しい米」系が続々と誕生している。
ベトナムで育つひとめぼれ ベトナムにアンジメックス・キトクという会社がある。1991年に日本の米問屋「木徳」とベトナム・アンジャン省の輸出入公団がパートナーとなってできた会社。 木徳が67%、公団が33%を出資し、6人の役員のうち、社長を含む4人が木徳、2人が公団の出身。 アンジメックス・キトク社では、ベトナムの地元農家に委託して日本米(「はなの舞」「ひとめぼれ」)を生産を委託し、生産を受託している農家にとっては、日本米をつくるには高い技術と細心の注意が要求されるが、それに見合う高収入が保証されている。 省としても「全面的に協力する」(アンジャン省人民委員会レ・ホイ委員長)という姿勢だ。
 委託生産面積は99年の200ヘクタールから2000年の400ヘクタール、2003年の600ヘクタールと毎年順調に広がってきた。300人にもおよぶ契約農家を3人の出向者と7人の現地技術者で数人ずつチームを組み技術指導のため巡回するシステムを組んでいる。
 主要な売り先は回転寿司=「すし金」」(Sushi King)で、現在マレーシアで21店、タイで1店を展開しているチェーン店。近く30店舗ぐらいまで拡大する予定とのこと。22店舗のコメの使用量は年間200トンだが、予定通り30店展開すると300トン近くになるという。(この項は URL http://www.sigetosi.com/page056.html から引用)
※                      ※                      ※
<ヒノヒカリ> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :宮崎総農試
交配組合せ:母親:愛知40号(黄金晴)×父親:「コシヒカリ」 (「黄金晴」の交配組合せ:母親:「日本晴」×父親:40-11「喜峰」)
育成年次 :1989(平成元)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
生い立ち
ヒノヒカリは旧系統名が「南海102号」で、宮城県総合農業試験場水稲指定試験地で育成された中生のうるち種。1989(平成元)年に、福岡、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の各県が奨励品種に採用した良食味品種。西日本、九州の代表的な品種になりつつある。
品種の系譜からみた特性 ヒノヒカリは黄金晴とコシヒカリを親として生まれた品種。この系統からみたヒノヒカリの特性は次の通り。
@炊飯米の光沢が良く、粘りが強いーーコシヒカリの食味。
A耐倒伏性は不十分ーー農林22号、コシヒカリより強いが、黄金晴より明らかに弱く、日本晴並み。
B稈が太く長いーー農林22号ほど長くはない。
C初期の茎数は多くないが、モミ数を取りやすいーー黄金晴。
D外観品質は、やや小粒であるが粒厚は比較的厚く、腹白。心白が出にくいーー黄金晴に似ている。
Eイモチ病抵抗性遺伝子型ーー黄金晴と同じで、抵抗性もやや弱。F脱粒性が難ーーコシヒカリ、黄金晴より難。G穂発芽性が難ーーコシヒカリ。
山口県農業試験所のレポート「水稲品種「ヒノヒカリ」の奨励品種採用 」を引用しよう。
[背景・ねらい] 新食糧法の施行により米の産地間競争が激化し、これまで以上に「売れる米」、「おいしい米」が求められており、不評を来している瀬戸内平坦部の品質、食味の改善は急務となっている。このため、良食味品種の「ヒノヒカリ」を奨励品種に採用し、瀬戸内平坦部産米の良食味品種への転換を図る。
[成果の内容・特徴] 出穂期、成熟期は「せとむすめ」より3〜5日遅く、「中生新千本」並み〜2日遅い中生種である。 稈長は、「せとむすめ」、「中生新千本」より長いが、「せとむすめ」並みに倒伏は 少ない。 穂数が少なく、1穂籾数の多い偏穂重型種で、u当り籾数は確保しやすい。 収量は「中生新千本」よりやや多く、「せとむすめ」並みの多収である。 外観品質は良好であるが、年次によっては乳白米により低下することがある。 食味は極良好である。
[成果の活用面・留意点] 中生種であるので、気象、水利慣行等から主として瀬戸内平坦部の普通期や麦跡栽培に適する。 やや長稈で倒伏の恐れがあるため、極端な多肥栽培は行わない。 品質向上のため、穂肥偏重による籾数過多や、早期落水を避ける。 刈取適期は、刈り遅れによりうす茶米や胴割米が発生しやすいため、比較的籾水分が高い、やや早い時期である。
収量性=日本晴よりやや多 ヒノヒカリは、収量性に関する主な特徴として、
@耐倒伏性が碧風より明らかに劣り、日本晴やコガネマサリ並であり、
A碧風の収量が620キロ以上になる多肥条件では、倒伏のために碧風よりかなり収量が劣り、
B1平方メートル当たり頴花数が3万5000以上になると年により倒伏が発生するほか、未熟粒が多くなって米質が低下する、という3点がある。(「銘柄米をつくりこなす ヒノヒカリ」から)
※                      ※                      ※
<あきたこまち> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :秋田県農試
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号
交配年次 :1977(昭和52)年
育成年次 :1984(昭和59)年
主な生産県:秋田、岩手、山形
品種の系譜 あきたこまちはコシヒカリを母に、奥羽292号を父に交配して生まれた品種で、秋田県農業試験場では1977年から水稲の育種を開始すると同時に育成選抜を行い、1984年にその第1号として誕生した。あきたこまちの系譜を見ると、母方は
名前の由来 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=あきたこまちの名前の由来をおしえてください。(小5)
答え=秋田県雄勝町小野の里に生まれたと伝わる小野小町にちなみ、おいしい米として名声を得るようにとの願をこめてつけられました。
タイで人気の「あきたこまち」 2003年7月9日、テレビ東京WBSでタイで「あきたこまち」が人気を博している、と報道された。
@山岳民族うつ族の村、サンサリー村では5年前から地元の精米所であきたこまちを買っている。この地方の料理に合う、と評判がいい。
Aチェンライの富士農園社長梶八十二氏「10数年前から地元の農家に委託して作っています。この3年で倍くらいになっています」
Bチェンライのバーヤン村では年2回日本米を収穫する。農民は言う「日本米はタイ米よりずっと高く売れるから」
C日本食ブームで、日本米は高くても売れる。日本産コシヒカリ2Kg=2,300バーツ、タイ産2Kg=818バーツ、タイ米2Kg=400バーツ程度。
D日本米の輸出実績、2001年度=231トン、2002年度=538トン。内74%は台湾への輸出。
 これに対するコメンテーター、フェルドマン氏は次のように言う。
 日本の戦後の政策は水田よりも票田ということが問題だったのですね。票を取るために輸入を制限して、高い補助金を出していた。それによって自民党も他の党も票を取ったのです。けれども90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。 それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います。 今度は補助金を減らしていかなければならない。財政再建ですね。こういう風に、貿易を自由にして、輸入も輸出もできるようになると、財政再建にもつながる。いいな、と思います。
 豊かな日本で「美味しい系」のコメに人気が集まり、タイも豊かになり日本と同じように高くても「美味しい系」のコメが売れるようになってきた。以前ポール・クルグマンは「アジアの経済成長は外部からの投資に支えられているだけなので、いずれ成長は止まる」と言ったのに対し渡辺利夫は「そうではない。アジア経済は確実に成長している」と反論した。 タイで「あきたこまち」のような「美味しい系」のコメが売れ出した、ということはタイも豊かになれる人から豊かになり始めた、と言える。この点から見ると渡辺利夫の主張は正しかった。
タイで日本米を作る人、あきらめる人
HP「オリザの環」タイ「貿易の覇者」(3)に次のような文があった。
 タイでは日本の市場開放の動きをにらんで、高く売れる日本米の研究開発も盛んだ。タイ政府が昨年発表した「農家に栽培を奨励する外国品種」の1号はササニシキ、2号はあきたこまち。どちらも東北の人気銘柄だ。 栽培に適しているのは比較的涼しい気候の地域だという。最北部の都市チェンライに近いサンタンルアン村で生産者に会った。 ブンコーン・チージュムパンさん(52)。タイ企業との契約で、昨年から1.6ヘクタールの水田のうち、約0.6ヘクタールで日本米の栽培を始めた。売り渡し価格が地元のコメより2割高かった。 意欲を持って日本米に取り組んだチージュムパンさんだが、2回収穫した体験から「日本米づくりは難しい」と音を上げていた。 企業からは肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。さらに、苦労して収穫しても品質が十分でなければ、契約通りの価格で買ってもらえない。「タイ米の何倍も手間が掛かる。品質が不十分でタイ米の値段がいいときは、今までの方がもうかるくらいだ。ねばついて自分で食べる気もしないし」タイ政府は、今年1月から3月まで国内9カ所で「タイ農民の新しい選択。日本米」と銘打ったフェアまで開いて普及に力を入れている。が、チージュムパンさんは「来年からは日本米づくりをやめ、もとからあるコメをつくろうかと思っている」と漏らした。 「世界に誇るうまいコメをつくる」というタイ農民のプライドが、国際競争の中で揺らいでいる。
 タイでは、肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。日本では農業経営者が当然のこととして自主的に行なう。ヒューマン・キャピタルの違いだ。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「あきたこまち物語」                        読売新聞秋田支局編 無明舎出版    1989.6.10
銘柄米をつくりこなす「あきたこまち・はなの舞」        農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.15
銘柄米をつくりこなす「ヒノヒカリ・ミネアサヒ・早期コシヒカリ」農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.30 
( 2003年7月14日 TANAKA1942b )
(4)コシヒカリ独壇場の秘密
市場原理と豊かな消費者
<きらら397> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農試
交配組合せ:母親:渡育214号(しまひかり)×父親:道北36号(キタアケ) (「しまひかり」の交配組合せ:母親:北陸77号(コシホマレ)×父親:そらち)(コシホマレの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:収921)
交配年次 :1980(昭和55)年   
育成年次 :1988(昭和63)年
主な生産県:北海道
北海道から初の全国デビュー 北海道を本格的に開発しよう、と具体的に動き出したのは田沼意次の時代だった。工藤平助(1734-1800)(享保19-寛政12)の「赤蝦夷風説考」に触発され、松本秀持とその協力者たちは田沼意次の意向を受けて蝦夷地調査隊を編成した。そして1785(天明5)年4月29日、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊がおのおの松前を出立した。しかし、田沼意次を追い落とした松平定信は1986(天明16)年10月28日、蝦夷地調査を中止し、関係者を処分する。以後明治になって屯田兵制度で北海道開発が始まるが、良質のコメはできない。食管法時代は政府が買い上げてくれたが、自主流通米時代になって消費者は美味しい米を求めている。北海道にはそれに応える品種がなかった。そこできらら397が登場した。
北海道での水稲うるち上位作付品種とシェア(2001年産)は次の通り。
作付面積=111,774haの内、 きらら397 (64%)、 ほしのゆめ (28%)、 あきほ (4%)
 きらら397に関しては、品種改良に携わった佐々木喜雄著「きらら397物語」が参考になる。この本の要約ではなく、この本から「きらら397物語」の特徴を読み取ってみよう。
 鳥またぎ猫またぎと揶揄された道産米がかつてのスター、ササニシキを抜いて全国5位の収穫量になった。その始まりは1980(昭和55)年北海道立農業試験場に優良米の早期開発を目標としたプロジェクトチームが組まれた。きらら397の場合は品種改良の過程よりも、その売り込み方に興味を持った。ネーミングそれ自体を販売戦略の一環とするため、北海道では初の一般公募による名称募集を行なった。 当時、「あきたこまち」が今までにないネーミングで注目を浴びていたため、「上育397号」のネーミング選定にあたっては、既存の品種と差別化できるような斬新なネーミングが求められていた。一般公募はわずか12日で2万101通の応募があった。「あきたこまち」「きらら397」「ひとめぼれ」こうした名前は古い感覚の、農業界の大物には容認できない。 そうした大物に逆らっての新しいセンスのネーミングが、「コメ新時代」に消費者のハートにアピールした。さらにネーミングとイラストの発表会が、1989(平成元)年9月26日開かれ、この模様のニュースが各紙によって報道され、「きらら397」に対する関心は高まった。
きらら397に続け
2000(平成12)年にはきらら397を育成した北海道上川農業試験場で「ほしたろう」が誕生し、2001(平成13)年から作付が始まった。きらら397に続くヒットとなることが期待されている。
※                      ※                      ※
<キヌヒカリ> (早植栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :北陸農試
交配組合せ:母親:F1×父親:北陸96号「ナゴユタカ」(F1の交配組合せ:母親:収2800×父親:北陸100号(コシヒカリにコバルト60を照射))(収2800の交配組合せ:母親:IRS×父親:コシヒカリ)
交配年次 :1975(昭和50)年   
育成年次 :1983(昭和58)年
主な生産県:滋賀、兵庫、埼玉
生い立ち キヌヒカリは、強稈・良食味・イモチ病抵抗性の強化を目的として、1975年に収2800(母)X北陸100号(父)の交配を行い、夏にこのF1を母としてナゴユタカ(北陸96号)を父として三系交配を行なって育成された。1978年のF4で個体選抜、1979年F5から系統選抜を繰り返し、1983年F9で北陸122号と命名され、関係府県に配布された。 倒伏に強い中生種で、食味はコシヒカリに匹敵する良食味であるため、茨城県では大空に、福井県ではフクホナミに替わるものとして1988(昭和63)年に奨励品種に採用され、同年5月「キヌヒカリ」として種苗登録された。 キヌヒカリの母方は、短稈・多収の IR-8 というインディカ稲に多収稲のフジミノリを交雑し、そのF1に良食味遺伝子の導入を主目的に、コシヒカリまたはコシヒカリ由来の系統を3回戻し交雑したものを用い、父方はトドロキワセやギンマサリ等の栽培特性の良さを導入したナゴユタカを用いている。このため短・強稈で、食味良好、穂数はやや少ないが好天籾数を多くつけ、不良天候下でも収量の低下が少なく品質の安定度が高いなど、これまでの品種と異なる特性を持つ。
形態的・生態的特性
短稈・強稈で葉色は濃い=4月上旬に播種した場合、第三葉の葉鞘長はコシヒカリよりやや短く、苗丈もやや短い。葉身の形状は同品種に類似し、葉色はやや濃い。稈長はコシヒカリよりかなり短く、やや剛である。
密に着粒し千粒重く絹の輝き=穂長はコシヒカリより短く、粒着はやや密で穂の下部に多くつく。穂数は同品種より5-10%少なく、草型は中間型。玄米の粒大は中程度で、形状はコシヒカリよりやや丸みを持つ。千粒重は同品種よりやや重い。まれに心白がみられる。光沢に優れ、絹のような輝きを持つ。みかけに品質はコシヒカリより優れる。
耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い=出穂期および成熟期は、コシヒカリより1-2日遅い。中生の早に属する。稈の太さはコシヒカリと同程度の中であるが、稈基部は同品種よりやや太く、稈質はやや剛い。耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い。
※                      ※                      ※
<はえぬき> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :山形農試庄内支場
交配組合せ:母親:庄内29×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
育成年次 :1992(平成4)年
主な生産県:山形、秋田
大分県農業技術センターのHPに「はえぬき」に関する文があったので要約してみた。
 大分県ではおいしい米の生産を目指して「コシヒカリ」、「ヒノヒカリ」等良食味品種の作付けを推進してきました。その結果、「ヒノヒカリ」がおいしい上に栽培しやすいこともあって作付面積は水稲全体の作付面積の75%以上を占めるまでに増大しました。その結果(1)収穫作業が一定期間に集中し、(2)収穫時期の遅れるものが出てきて、(3)玄米の品質低下、(4)ライスセンター等共同乾燥施設への集中と稼働率の低下、(5)いもち病や倒伏の被害を集中的に受ける恐れ等が懸念される状況になってきました。 平成11年産水稲では出穂後25〜30日頃の、登熟の仕上げの大事な時期に台風18号の強風害を受けて、県下全域の水稲が倒伏する被害を受けました。倒伏は早く起こるほど被害は大きいことから、ヒノヒカリに作付けが集中していることが被害を大きくした可能性が考えられました。 これほど「ヒノヒカリ」に作付けが集中した原因は前述の作り易さもありますが、ヒノヒカリより早生の良食味品種がないことが最大の原因です。当部では早くから、早生の良食味品種の選定に取り組んできましたが、今回やっと極早生の良食味品種「はえぬき」を選定し、奨励品種に採用される運びとなりましたので紹介します。
 この「はえぬき」という品種は「はえぬき」とは言いながら、大分県の生え抜きではありません。東北は山形県の生まれです。山形県立農業試験場庄内支場で、「庄内29号」を母とし、「秋田31号(後の「あきたこまち」)」を父とした組み合わせから育成された県単育成品種で、山形県の主力品種です。山形県では35,000ヘクタール程度栽培され、主として東京方面に出荷されています。さらなるシェアの拡大のために他県での栽培を薦めようとする戦略に乗って大分県でも検討してきた品種です。 大分県では平成8年から奨励品種決定調査に供試してきました。
※                      ※                      ※
<ほしのゆめ> (中生の早)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農業試験場
交配組合せ:母親:F1×父親:きらら397 (F1の交配組合せ:母親:あきたこまち×父親:道北48号)(あきたこまちの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:奥羽292号)
交配年次 :1988(昭和63)年   
育成年次 :1996(平成8)年
主な生産県:北海道
特徴
「ほしのゆめ」は、1988(昭和63)年、北海道立上川農業試験場において、良食味・耐冷性品種の育成を目標に、極良食味品種「あきたこまち」と早生・耐冷性系統「道北48号」のF1を母とし、中生・良食味品種の「上育397号」を父として、人工交配を行った雑種後代から育成された。F1は、交配を行った1988(昭和63)年の冬に温室で養成し、平成元年にはF2〜F3は鹿児島県で、さらにF4は冬期沖縄県で1年3作の世代促進栽培を行った。1990(平成2)年にF5の穂別系統栽培を行い、1991年以降は「上系91340」として系統の選抜・固定を図るとともに、生産力検定試験、系統適応性検定試験ならびに特性検定試験を実施してきた。その結果、中生の良食味・耐冷性系統として有望と認められたので、1993(平成5)年に「上育418号」の地方系統名を付し、関係機関に配布し、さらに、1994年から現地試験に編入して地方適応性を検討してきた。1996(平成8)年に水稲農林340号として農林登録され、「ほしのゆめ」と命名された。
栽培上の注意
@耐倒伏性が不十分なので、「北海道施肥標準」を守り、多窒素栽培は厳に慎む。
A中生種としては、いもち病抵抗性が不十分なので、発生予察に留意し適正防除を徹底する。
B割籾の発生が多いので、斑点米や紅変米などの被害粒発生による品質低下を招かぬよう病害虫の適正な防除に努めるとともに、綿密な圃場管理や適期の刈取りを励行する。
C種子生産に当たっては、脱ぷ粒が発生しやすいので、種子の取り扱い注意事項に十分留意する。 
※                      ※                      ※
<つがるロマン> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :青森農試
交配組合せ:母親:ふ系141号×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
交配年次 :1985(昭和60)年   
育成年次 :1997(平成9)年
主な生産県:青森
青森県のHPから「つがるロマン」の宣伝文を引用しよう。
「つがるロマン」の先祖は、コシヒカリ  「つがるロマン」は、血統ではコシヒカリの孫にあたります。「つがるおとめ」に比べて、食味が1ランク、品質で2ランク優れている、大変おいしいお米です。
「つがるロマン」は限定適地に作付け  「つがるロマン」は、優れた食味と品質を守るために青森県内で特に気象条件に恵まれている津軽中央地帯・津軽西北地帯・南部平野内陸地帯の適地に作付けを限定しています。  さらに「つがるロマン」を作付けする生産者は、細やかな土の管理、低農薬、無理のない乾燥、大きな網目で整粒などの栽培協定にのっとって大切に育てています。
「つがるロマン」はヘルシーな低農薬米  「つがるロマン」は、青森の豊かな自然と水、そして空気が農家と一緒に育てています。田畑を潤す水は、白神山地に代表される山々に原生するブナの森に源を発します。ブナの腐葉に保水された雪解け水が伏流となり、渓谷を伝い、そして田畑へと流れ込みます。天然の肥料ともいえる清らかな水と、病害虫の少ないという恵まれた自然条件をいかし、農薬散布が少ない低農薬米をお届けします。
※                      ※                      ※
<品種改良は物づくり産業の商品開発と同じ>
@品種改良研究開発担当者は職人。文献に登場する工業製品の開発に携わった人たちや、テレビで紹介される町工場の金型職人・旋盤職人などと共通の気質を感じさせる。
A各県の農試が新製品開発を競った。品種改良の分野も競争社会だった。
B生産工場ではQC運動など現場の作業員の知恵が生かされた。コメでは実際に栽培する農家の知恵が生かされた。
Cコシヒカリがこれほど普及したのは市場で、消費者=お客様=神様に気に入られたから。
D豊かな消費者が「美味しい系」のコメを育て、コメの評価基準が土地の生産性から付加価値生産性に変わった。
E新製品開発から消費者に支持されるまでの経緯は、物づくり大国日本の製造業のそれと同じ。
F品種改良という新製品開発を担当する研究者、新品種を実際に栽培する農業経営者、美味しければ高価でも購入する消費者。コメ作り産業は日本のような豊かな国に適した「先進国型産業である」と確信します。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「きらら397誕生物語」            佐々木多喜雄著          北海道出版企画センター 1997.7.9
銘柄米をつくりこなす「キヌヒカリ・初星」    農山漁村文化協会編集部編     農山漁村文化協会    1990.3.30
( 2003年7月21日 TANAKA1942b )
(5)野菜・果物・花卉の品種改良
「一代雑種」という改良方法
<コメ以外の品種改良> コメの品種改良はコシヒカリを基本に、各県の農試が競って新製品開発に力を注いできた。農林1号と農林22号を交配し、雑種何代目かで固定する。登録された品種の内から各県の農試が奨励品種にして、栽培を指導する。これがコメの品種改良のシステムだ。これに対して野菜・果物・花卉は違っている。 それらを全てまとめるには力不足なので、その内から気になった幾つかの例だけを取り上げてみた。
<一代雑種> 稲の品種改良は雑種何代目かを固定させる。ところが「一代雑種」と言われる品種改良は違う。固定する前のF1、つまり1代目の雑種を使う。これはメンデルの法則を知っていると理解できる。
メンデルの法則
「優劣の法則」 第一代目雑種には優性な形質だけが各個体に現れ、劣性な形質は潜在する(現れないが情報として遺伝している)。
「分離の法則」 雑種第二代では、優性形質を現す個体と劣性形質を現す個体に分かれる。両形質が渾然と混ざり合うことはない。
「独立の法則」 遺伝型がそれぞれ独立して子孫に遺伝することを「独立の法則」と言う。
 一代雑種についてもう少し詳しく、文献から引用しよう。
 ある程度性質の違う、縁の遠い品種の間で交雑させると、その間に生まれた雑種は両方の親品種に比べて草勢が強く、生育が旺盛で、不良環境に対する抵抗性が強く、収量も多い場合が多い。このように雑種の草勢が旺盛になる現象を雑種強勢と呼んでいる。植物は大抵の場合、自家(花)受精を続けていわゆる純系に近い状態になると、草勢が弱くなる。このためもあってか、植物は元来自家受精をさけるような特性をもっていることが多い。
 交配して得られた雑種は、遺伝的な特性を両親からうけ継いでいる。そこで両親のすぐれた特性を併せもつような組合せを計画的に行なうと、雑種は作物として優れた性質を表現するはずである。そしてもし交配をする親系統が、それぞれ遺伝的に比較的斉一なものであれば、両品種間の雑種普通の品種以上に特性がよく揃う。但しこの雑種は、形質の違う両親の遺伝質を併せもっているので、この雑種から種子をとると、次の世代ではメンデルの法則に示されているように分離し、雌親に似たもの、花粉親に似たもの、中間的なものなど種々雑多の形質のものが生じ、非常に不揃いになることが多い。そこで雑種第一世代だけを作物や家畜として栽培。飼育することが考案され、これを一般に「一代雑種」と呼んでいる。一代雑種は現在野菜や花、トウモロコシなど多くの作物や、家畜、家禽、蚕から材木まで、多くの動植物で実用化されている。野菜の場合は1924年に世界に先がけてわが国で初めてナスの一代雑種の利用が実用化された。近年は多くの果菜類やハクサイ、キャベツなどの主要な野菜では、栽培品種の大部分が一代雑種になっている。(中略)
 一代雑種の利用は、一回の交配でたくさんの種子が得られるウリ類、ナス類などの果菜類や、交配の手間の省ける雌雄異株のホウレンソウとか、雌花と雄花が別のトウモロコシなどでまず実用化された。ホウレンソウではタネをとろうとする系統と花粉親にする系統とを並べてまいておき、花茎が伸び出して来て雄株と雌株とが判別できる時期になった頃、採種しようとする系統の雄株を開花する前に全株抜き去る。すると隣に植えてあった雄系統の株の花粉が風の働きで運ばれて授粉が行なわれ、人の手で交配する必要もなく一代雑種のタネが得られる。
(青葉高著「野菜」在来品種の系譜 法政大学出版会 1981から)
※                      ※                      ※
<ホウレンソウ> 漢字では『菠薐草』。西アジア原産。ホウレンソウ「菠薐(ほうれん)」とは中国語でペルシャのこと。 西洋種の導入は明治以降。現在は、西洋種と東洋種を交配した一代雑種が主流。収穫量は千葉、埼玉が全体の2割以上。作付面積は年々増加している。ホウレンソウは雌雄異株。雄株を除去して一代雑種にする。ホウレンソウは風媒花で、雄株と雌株がある。そこで、一代雑種を採種するには両親の品種を別々のうねにまく。雌親品種に出る雄株を若い段階ですべて抜き取ると、雌株にできる種はすべて一代雑種になる。この抜き取る作業がけっこうたいへん。アメリカでは学生のちょっとしたアルバイトになっているとか。
<メロン>東アフリカ原産。中近東から中央アジアへ、また地中海を渡ってヨーロッパへ広がったとされている。アメリカへは新大陸発見後導入され、アメリカン・カンタローブになった。日本にはアメリカの露地メロンとヨーロッパのカンタロープメロンが明治になって入ってきた。しかし温室メロンは高価で庶民には手が届かなかった。 庶民にも手が届くメロンの品種を改良したのは坂田種苗(現サカタのタネ)社長坂田武雄氏だった。坂田氏は、戦後帰還兵が中国から持ち帰ったマクワウリに、南欧で味が良かった、シャランテ系の路地メロンをかけあわせて次々に新種を作っていき、、試行錯誤の結果たどりついたのがプリンスメロンだった。発売が1962(昭和37)年だったため、皇太子ご成婚にちなんで、プリンスメロンと命名された。
 その後しばらく高級な温室メロンとプリンスメロンが共存したが、1983年頃から「アムス」「アンデス」といったビニールハウスで栽培される、品質の良いハウスメロンが出回り始めた。肉質や外観も温室メロンに似ていて、価格も手ごろなので急速にハウスメロンの時代に入った。
 メロンは販売・消費の段階では果物として扱われるが、園芸学上は野菜に入る。
※                      ※                      ※
<サクランボ 佐藤錦> 山形の天童市周辺でサクランボ盗難収まらず サクランボの盗難事件が相次ぐ山形県天童市周辺で24日も出荷間近の高級種の「佐藤錦」が摘み取られる事件があり、山形県警が窃盗事件として調べている。同日午前4時50分ごろ、山形県東根市長瀞の農業小松孝三郎さん(68)のサクランボ畑で、収穫間近の木5本からサクランボ約50キロ(出荷額15万円相当)が盗まれているのが見つかり、村山署に届けた。 また同日午前5時ごろには天童市矢野目で、サクランボ約30キロ(同6万円相当)が畑から盗まれているのを所有者の農業の男性(62)が見つけ、天童署に届けた。盗まれたのはいずれも高級種「佐藤錦」。 天童市周辺でのサクランボ被害はこれで10件目、計1310キロ(同389万円相当)が盗まれている。〔共同 2003/06/24〕
山形のサクランボ 盗難騒ぎで?出荷絶好調 サクランボの高級種「佐藤錦」の盗難が相次いだ山形県で、サクランボの出荷量と出荷額が過去10年間で3番目の好成績になる見通しとなった。全農山形は「盗難は許せないが、騒ぎが話題性を提供した可能性もある」としている。 全農山形によると、農協を通じた今年の出荷量は15日現在で約4750トン。少量の出荷はまだ続くが、3番目に多かった2001年の約4730トンを超えた。出荷額も約81億円で、既に3番目の好成績。 好調の理由を全農山形は雨よけテントなど栽培技術の確立が考えられるとしているが「(6月から相次いだ)盗難の全国ニュースが勢いづけとして影響したのかも」としている。5月時点では平年並みと予想していた。〔産経新聞 2003/07/17〕
佐藤錦誕生秘話 これほど盗難にあう高級サクランボとはどんなものなのだろうか、生産地東根市のHPから佐藤錦誕生の話を引用しよう。
 山形県におけるさくらんぼの栽培面積は、約2,500haである。このうち、品種構成では「佐藤錦」が約8割を占めている。 昭和50年代までは、加工向け生産がほとんどであったため、果肉が固く豊産性のナポレオンを中心に栽培され、佐藤錦は雨による実割れが多いため、一部生食向けに栽培されている状況であった。山形県は、梅雨時の降雨が全国で最も少ない地域ではあるが、それでも降 雨は避けられないため、赤く熟す前の「黄色いさくらんぼ」を収穫していたのである。昭和60年代から、パイプハウスの屋根部分にビニールを被覆する「雨除けハウス」が普及すると、完全に熟すまで収穫期が延ばせるため、佐藤錦本来の真っ赤で美味しい食味が出せるようになり、佐藤錦への改植・新植が進み、今日の王座を築いたのである。
 佐藤錦は、大正始めに東根市で生まれたが、その誕生秘話を紹介しよう。
 東根町三日町に生まれた「佐藤栄助」は、明治41年に株投資に失敗して家業(醤油醸造)を廃業し、家屋敷を整理し松林を開いて果樹園経営を始めた。明治のはじめに、時の政府は欧米から輸入した桜桃(さくらんぼ)を全国20県に配布し、栽培を試みたが、収穫期が日本特有の梅雨の季節と重なるためことごとく失敗し、山形県内で細々と試作されているに過ぎなかった。栄助は、この苗木数種を買い取り、自分の果樹園に植裁し、当時開通したばかりの鉄道により関東方面に出荷できないかと考え、甘いが果肉が柔らかく保存の利かない「黄玉」と、酸味は多いが果肉が固く日持ちがいい「ナポレオン」を交配し、大正元年ころに質の良さそうな20本を選抜した。さらに育成試験を繰り返し、大正11年に「食味も日持ちもよくて、育てやすい」新品種の育成に成功し、栄助の友人である苗木商「岡田東作」はこの新品種の将来性を見抜き、昭和3年に佐藤栄助の名を取って「佐藤錦」と命名し、世に送り出したのである。栄助は、「出羽錦」との案を出したが、東作は「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」と押し通したといわれており、新品種の育成からおよそ80年、今もさくらんぼの王様に君臨する比類なき特性を持つ「佐藤錦」によって、今日の果樹産業の隆盛を築いたといえるのである。
※                      ※                      ※
<デコポン>
<来 歴>
品種名   :不知火
育成地   :長崎県口之津試験場
交配組合せ :母親:清見タンゴール×父親:ポンカン(清見タンゴールの交配組合せ:母親:温州みかん×父親:トロピタオレンジ)
育成年次  :1972(昭和47)年
市場デビュー:1990(平成2)年
主な生産県 :宮崎、愛媛、熊本、広島
 1972(昭和47)年、デコポンは長崎県農水省の口之津試験場で、ポンカンと清見を交配して作られた。デコポンの品種名は不知火で、1997(平成9)年全国統一名称となった。「大きさはソフトボールくらい。ポンカンのやさしい香りと清見タンゴールの甘酸っぱさが絶妙にブレンド。 甘くてジューシーなのはもちろんのこと、簡単にむけて、ほとんど種がなく、手を汚さず袋ごと食べれるのが人気の秘密です。」これが宣伝文句。 郵便局の「ふるさと小包」にも採用され、人気上昇中。
<20世紀>
1888(明治21)年に千葉県東葛飾郡八柱村大橋の石井佐平宅のごみ捨て場で当時13歳の松戸覚之助少年によって発見された梨の苗木は、10年後の1898(明治31)年に初結実した。その果実は豊円で外見が美しく、美味なことから農学者の渡瀬寅次郎や池田伴親らによって、『20世紀梨』と名づけられた。命名の理由はやがて訪れる20世紀に王座をなす梨になるだろうと意味をこめてということらしい。その予言どおり、20世紀を現役で生きぬき、研究者の情熱と努力で多くの優秀な子孫を残している。鳥取県では明治37年に北脇永治によって気高郡松保村桂見に導入された20世紀梨は、鳥取県の気候と風土によく適応し、県人の粘り強い根気とたゆまない努力によって慈しみ育てられ、地域特産品として成長し今世紀の鳥取県の農家経済を大きく支えてきた。今では海外へ輸出されて世界中の民族に愛されている。
※                      ※                      ※
<花の品種改良> 農業は産業なのか?公共事業なのか?日本の農業を見るとこのような疑問が生まれる。ヨーロッパの農業ほど税金をつぎ込んで保護されているわけではないが、「農業の多面的機能」を理由に、農業が産業として発展するのを邪魔している人がいる。そんな農業環境にあっても、花卉産業は元気だ。これからも品種改良が進み生産者は増えるだろう。 東京では大田市場で花卉取引が1990年9月に開始され、当初150万本/日(切花換算)が1999年には281万本扱うようになった。
 大田市場では、オランダ式の機械ゼリ(ダッチオークション/時計ゼリ)が導入され、その成功によって今では10数社が機械ゼリを導入している。従来のセリは、セリ人が場立ちし、手や声によって値段などのやり取りを行い、競り合いによって価格が徐々に上昇し、最高値を示した買参人が購入する仕組み。それに対して、機械ゼリではスタート価格から徐々に下がる電光表示を見ながら、購入希望になった時点で手元のボタンを押し、一番初めに(高値で)ボタンを押した人が購入できる仕組み。その違いにより、従来のセリを上げゼリ、機械ゼリを下げゼリと呼ぶ。機械ゼリの導入は、セリ人による判断が少なく、高値、安値の判断を電子的に処理することから、公平さや公開性に優れ、またコンピュータによる制御によることから、事務処理の迅速化などに優れている。機械ゼリが多くの人に受け入れられ、普及したのも、この様な優位性が認められたからと言える。しかし最近では、セリ時間を短くする先取り(時間前取引)や事前のオーダーによる注文取引を志向する傾向があり、 切り花のセリ販売は全体の1/3にまで低下している。このように大きく変化し、発展する花卉市場、民間企業が引っ張るこの市場を見てみよう。
キク 精興園のHPによると、1921(大正10)年から菊の新品種作りに取り組み、5.000種以上の品種を作り出した。全国で栽培されている菊の50%以上が精興園で育成(交配により新しい品種を作り出す)された。精興園で育成された品種は、全国10.000戸の切花栽培家の農場で生産され、市場を通してフラワーショップの店先に並ぶだけではなく、趣味の園芸家の庭で、全国各地で開催される菊花展の会場で、そして職場、学校、公園・・・でと、美しい花を咲かせ続けている。精興園では国内向けの品種の開発だけでなく、広く世界の市場に向けて品種の育成を行っています。
花菖蒲 こちらは加茂花菖蒲園のHPから引用しよう。 品種改良、育種と言うと、なんだか難しいことのようなイメージをもたれる方も多いと思いますが、その作業手順は至って簡単しかも単純で、交配、播種育苗、選抜の繰り返しにすぎません。  花菖蒲は、交配から開花までの期間が2年と短く、栄養繁殖ができるので、煩雑な固定作業は必要ない。選抜した優良個体がある程度の数に殖えさえすれば、即、品種として確立することが可能。そこで、一般趣味家が改良に取り組むのには適した植物と言える。 品種改良の目的は、今までにない優れた品種を育成することにあるが、要領さえつかめば何も難しいことはなく、根気よく継続すれば、誰にでも成果をあげられる、実に楽しい仕事です。以下に、参考となるように要点をまとめてみましたので、皆さんも花菖蒲の品種改良にチャレンジしてみてください。
バラ ある資料では「19世紀に人為的交雑が始まって今日(1994年)まで、27,000もの園芸品種が記載されている」とある。日本だけを取り上げても「1951年から1980年までの30年間に約4,300品種」が発表されている。オランダを中心としたチューリップの品種改良は有名だが、その数が16世紀から現在までで約8,000種といわれていることと較べても、いかにバラが愛好者をとらえ、多く育種家を奮い立たせ、ついにはアカデミー賞を獲得する以上の喜こびをもって、世界的なバラコンクールで金賞を手中にすることを夢みているかが、容易に想像される。 業界では浜田バラ園がよく知られている。
トルコギキョウ ありえないものの象徴<青いバラ>に全く別のアプローチから迫る、バラのようなトルコギキョウ(Eustoma grandiflorum)をサカタが開発し、販売する。 トルコギキョウは、北アメリカ原産で、原種は、草丈が約90cmで、花は、一重の花で、花色もブルーに限られていた。戦前、おもにヨーロッパで改良され、同時期、日本へも導入され、戦争をはさみ海外では多くの品種が絶え、日本に残った品種から現在までに花色や八重咲きなど花形の充実がなされ、茎を強健にする、あるいは生態型などでの育種が進められてきた。サカタでは1975(昭和50)年には1品種しかなかったものが、現在では145品種を有するまでになっており、パンジー、ペチュニアなどと並ぶサカタの代表品目のひとつとなった。 多くの切り花品目で、作付け面積、出荷量が、減少傾向にあるなかで、トルコギキョウは、前年度比同等の生産状況を示しており、平成13年度切り花類の作付面積調査(農林水産省)によると年間出荷量は、1億2、320万本で、キク、カーネーション、バラ、ガーベラに次ぐ、出荷量第5位の品目となっている。 こうして日本のトルコギキョウ品種が牽引役になり、現在では世界のトルコギキョウ市場の約7割を日本の品種が占めるようになった。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「ぜひ知っておきたい 昔の野菜今の野菜」    坂本利隆著      幸書房       2001. 6.30
野菜 在来品種の系譜              青葉高        法政大学出版局   1981. 4.10  
日本の野菜 産地から食卓へ           大久保増太郎     中公新書      1995. 8.15  
( 2003年7月28日 TANAKA1942b )
(6)諸外国での品種改良
緑の革命とEU農業政策
<緑の革命> に関しては執筆者の主観が強く出て事実関係が曖昧な文が多いので、ここでは平凡社大百科事典から要約する。
 「緑の革命」(green revolution)、この言葉は1968年3月、アメリカの国際開発局長であったウィリアム・S・ガウドが、国際開発協会(第二世銀)で行なった講演で初めて使ったといわれる。その後レスター・R・ブラウンがレポートで用いてから、急速に世界中に広まった。しかしこの緑の革命の定義は必ずしも定まったものではない。
 メキシコでの小麦の改良と並んで知られている、アジアでの米の改良は次の通り。
 ロックフェラー、フォード両財団の援助で1962年フィリピンのマニラ近郊ロスバニオスの政府提供の土地に国際稲研究所(International Rice Research Institute)(IRRI)が開設され、世界各地から優秀な科学者たちを集め、1965年に奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8、その翌年に同じくIR-5を公表した。これら新品種は、これまでの在来種に対し、きわめて優れた特徴をもっていた。
@在来種の3倍以上という多収であること。
A在来種が180cmに対し100cm内外という短稈になった。もっともこれは深水地帯への導入を阻害する要因になった。
B草型が光合成に都合のよいように葉が直立して短く、下葉まで日光がよく通り、水切りが早いこと。
C生育日数が在来種で180日程度のものが、IR-8では125−135日と短くなり、台風期をたくみに避けることができる性質をもっている。
D季節的な日長の変化に感じない非感光性となり、時期や緯度を選ばず、いつでもどこでも播種できるという性質を持っている。
E多収となるための性質として肥料の吸収利用効果の高い耐肥性という特別の性質をもっている。
F比較的病虫害にも強い性質をもったが、白葉枯病などまだ弱点を完全には取り去っていなかった。
 以上のような性質は、総じて水利調節のよい水田で、しかも肥料、農薬などを多用できる条件が必要で、それらの条件を欠く場合には、本来のこの優れた能力が十分に発揮できず、多収を期待できない性格であった。発展途上国では十分な肥料を確保するのが困難で、地域、環境に適応した各種タイプの品種が要求される。このため国際稲研究所は1973年ころから従来の育種目標であった多収主義を変え、セミ・ドワーフ(短稈性)のみではなく、草型もさまざまで、特定の環境に適応する特別の新品種が1976年から基本方針となった。このころから多収品種を含めた改良品種という言葉が多く用いられ、緑の革命の対象は米麦から雑穀に拡大した。(中略)
 緑の革命に対する理論的評価には厳しいものもあったが、伝統的農法に対する国民的反省と農業開発への刺激を与え、伝統農業への変革への門を開いたことは高く評価できよう。そしてそれは本質的には、1980年代に入ってもまだ進行している。(平凡社大百科事典 から)
<「緑の革命」成否はヒューマン・キャピタルにあり> 1960年代から1980年代にかけて、インドネシアやフィリッピン、パキスタンなどはコメ生産量が倍増している。これほどの成果がありながら、出版物でもWeb上でも緑の革命に批判的な論評が多い。一つは日本の出版界、楽観論より悲観論の方が受けがいい、との見方があるからだろうが、それにしても緑の革命批判論は多い。ポイントは「成功は一時的で、以後伸び悩み、環境破壊などのマイナス面が目立ってきた」だろう。何故このようなマイナス面が目立ってきたのか?次の2点が考えられる。
 @国内需要を満たした後、輸出産業として伸びなかった。その理由は日本など本来輸入国になるはずの国が輸入しなかった。コメを必要とするLDCはアジアから買うだけの財政余裕がなかった。このため生産者の販売価格が上がらず、産業として魅力がなく、アジア諸国は農業国から工業国へと変わろうとした。このことは「タイ米を買うのは、タイに迷惑か?」で書いた。
 A「IR8」は肥料を多く与えることによって多収性が発揮される。ランニング・コストが高いという事は、計画的な農業経営を行なわないと十分な収益をあげられない。多くの肥料を投入することによって土地が疲労するので、それを防ぐための知識(化学肥料・農薬・土壌などの知識)が必要となる。農作業に携わる者にこうした知識が必要になる。ヒューマン・キャピタルが「緑の革命」を生かすか殺すか、のカギになった。それは日本のコシヒカリ誕生から市場制覇への過程を見ればわかる。 いもち病に弱く、倒れやすいコシヒカリ、これを育てたのは農試の技術者だけではなく、実際に栽培した農家の人たちだった。「緑の革命」を成し遂げたアジア、しかしその後を育てるヒューマン・キャピタルは不足していた。
国際イネ研究所(International Rice Research Institute、略称IRRI)
 国際イネ研究所は1960年に設立され、CGIAR(国際農業研究協議グループ)を通してメンバー国、世界銀行、アジア開発銀行などから資金の供与を受けている非営利の国際農業研究センターの一つで、フィリピン・マニラの南60kmに位置している。米の増産技術の開発普及に当たっており、高収量のインディカ米IR8などを開発して、アジアを中心とした貧しい人々の生活を改良したいわゆる「緑の革命」の拠点となった。2002年時点で、職員数は約700人、日本からの拠出額は約360万ドル(4億3千万円)。日本人職員は、本部に理事が2名、ほかに日本からの長期あるいは短期の研究員、大学院生等が数名滞在して研究や情報交換を行っている。IRRIからも日本へ研究者の派遣を行っており、 独立行政法人国際農林水産業研究センター(JIRCAS)が交流の窓口となっている。(http://www.irri.org/
※                      ※                      ※
<ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?>ドイツでは豚の品種改良が進み、在来種であるシュベービッシュハル豚(通称ハル豚)が絶滅に瀕している頃、その味の良さに目を付けて商品として売り出した話。ただし番組の取り上げ方は「何でも新しいのがいい訳ではない」という取り上げ方。ハル豚がなぜ消費者に受け入れられたかと言えば、それは品質がいいからであって、古いからではないはずなのに、番組制作者の捉え方はこの通り。
 2003年2月3日と4日にNHKテレビ「ETV2003」で「EU21世紀の農村再生」という番組があった。この番組に関して 「農業は産業?それとも公共事業?」で上記のように書いた。今回は品種改良という面から再び取り上げる。 番組では「絶滅に瀕していたハル豚が復活し、7万頭までになった」「今までは品種改良された新しい豚ばかりに人気が集まっていた。新しければ何でもいい、という誤った考えがこれで崩された」「これにより地域が活性化され、雇用が確保された」といいことばかりのように報道された。コメンテータのノンフィクション作家島村菜津(なつ)氏はこのように言っている。「能書きだけでなく、美味しいんですよ。噛めば噛むほど深い味がするのです」。 番組制作者もコメンテータもハル豚の復活をいいことだ、ととらえている。本当にいいことなのだろうか? 報道された事実を少し違った立場から見てみよう。
 結論を先に言えば「ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?」となる。 いろいろ豚の品種改良が行なわれた。しかし結局在来種であるシュベービッシュハル豚に人気が集まった、という訳だ。何故品種改良された豚が見捨てられたのか?番組のニュアンスとしては品種改良は1品種ではなさそうだ。何種類かの改良が行なわれた、しかし結局ダメだった、ということになる。商品として市場に出すには、品種改良された新しい豚の2倍の時間がかかる。当然消費者販売価格は高くなる。それにも拘わらず消費者はハル豚を選んだ。新しいものが何でもいい、という事はない。それと同時に、だからと言って、古ければ何でもいい、ということもないはずだ。 コメンテータ島村菜津氏の言葉を受け入れれば「美味しかったので消費者に気に入られた」となる。つまり、品種改良は失敗だったのだ。短期間で市場に出せる、コストのかからない品種改良も結局マズカッタのだろう。安くても美味しくないものを消費者は買わない。美味しければ高くても買う。美味しければ高くてもコシヒカリに人気が集まる。これが「先進国型消費者」なのだ。 日本のコシヒカリは大成功。さらにコシヒカリを基に各種の改良が行なわれ、好評を博している。
 NHKの番組の捉え方は間違っている。先進国型産業と思われたドイツの畜産業、実はそうではなかった。伝統から抜け出せない、乗り越えられない、古典的な産業でしかなかった。消費者が豊かになって美味しければ高くても買う「先進国型消費者」になっていたことに気がつかなかった。しかしコメンテータを含めた番組制作者の考えは、「だから良かった」のだ。畜産業は常に品種改良や飼育方法の革新を通して産業として発展していく、それとは対極にあって、昔からの方法を守り、伝統を重んじ、コストとか生産性を重視しない、産業と言うより文化である、という考え。それはグローバル化という言葉を嫌う人々の反資本主義的感情に訴えるものではある。農業は儲かってはいけない、との考え。 そしてこの番組に登場したヨーロッパの社会主義的農業政策者の考えではあるかも知れない。「畜産業も先進国型産業であるし、そのように育つといい」との立場に立つか?「資本主義はさらに勢いを増し、その勢いはグローバル化している。せめて畜産業などの食糧生産は市場経済の外にあるべきだ」
 農業政策担当者が「農業に生産性向上を求めない」と言うことは「農業は儲からなくてもいい」と言うことであり、「農家は儲からなくてもいいが、破産しては困るから補助金を出そう」は「百姓は生かさず、殺さず」とそっくりではないか?「百姓も先に豊かになれる者から、豊かになる」政策がいい、たとえ将来所得格差が広がりジニ係数が上がったとしてもいいと思う。  
<EU農業は世界に後れる>
ここで叶芳和氏がその著「先進国農業事情」で指摘しているEU農業の問題点を要約しよう。
 第1に、EUは域外に対して徹底した保護政策をとっている。国内の生産者価格が国際価格より高い場合、その価格差の分だけ輸入課徴金をかけて輸入品の進入を防いでいる。そのためどんなコスト水準でも生きないで農業ができる。技術革新が遅れ、国際競争力が低下する。農家はイノベーションの努力をしない。
 第2に、EU諸国はギルド社会である。ライセンスがないと新規参入できない。ハム、ソーセージを作るにはマイスターの免許がないとできない。新たな競争相手が参入するおそれがないから経営革新が遅れる。
 第3に、動物愛護主義者の団体が農業に介入し、産業的発展を抑制している。デンマークでは、鶏を狭い金網の中で工場生産的に買うのは「かわいそうだ」という理由で、採卵鶏のケージ飼いを禁止した。かつては鶏卵の輸出国であったデンマーク、しかし今では鶏卵輸入国になっている。
 第4に、農民のヒューマン・キャピタルが低い。
(叶芳和著「先進国農業事情」 日本経済新聞社 1985.2.25 119P)
 いまEU農業は危機に直面している。国際競争力が低下し、保護コストが膨大になり、財政負担が限界にきている。1983年度以降、価格支持政策も取れなくなり、農業部門は深刻な不況に陥っている。いままで価格支持政策の下、供給過剰になった農産物は輸出補助金付きで輸出してきたが、これもアメリカとの農業戦争がきびしく、困難になっている。EU共通農業政策には伝統的に「生産調整」の考えがないが、もはや生産調整政策も不可避である。こういう状況では、農業の後継者も少なく、農村は衰弱していくことになろう。所詮、価格支持政策で農業と農村の問題を解決するのは無理なのだ。 なお余談になるが工業の発展が農業と農村の安定に寄与していることを理解しておくべきだと思う。他の章で明らかにしたように、EUの農業不況な背景は工業が弱く、マクロ経済がダメになったからである(農業保護のための財政の破綻)。(同書 251P)
 上記とは逆に驚嘆すべき点もあげている。
 ただ、一つ驚嘆すべきことは、農業政策に長期的視野があることである。例えばオランダでは、何十年後に使うかもわからないのに、地平線の彼方までの目の玉が飛び出るほど広大な面積の干拓事業が進められている。まさに100年の計で農業を考えている。完成に長い年月を要する育種技術の高さもその一例かも知れない。世界の歯車が変わるとき、このユックリズムは強さを発揮するかも知れない。そういう底力をもっていることも知っておくべきであろう。 (同書 121P)
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
農業の雑学事典            藤岡幹恭・小泉貞彦       日本実業出版社  1995. 9.10
先進国農業事情 農業開眼への旅    叶芳和             日本経済新聞社  1985.2.25
( 2003年8月4日 TANAKA1942b )
▲top   ▲次ページ 
 
日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu.html 
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu-2.html 
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu-3.html 
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu-4.html 
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu-5.html 
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/hinshu-6.html