あるく渋谷川
(新編)
 
Let's Walk along
the Shibuya River
   
plalaからbiglobeに引っ越しました。
 これからもよろしくお願いします。   

黄色いコウホネの花に黄色いモンキチョウが!同じ色なので安心なのでしょうか、ゆっくりと蜜を吸っていました。2024.5.19)


 
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渋谷のコウホネの話ー富谷小学校4年生「シブヤ未来科」の授業から-NEW! 

かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

 
 2023年
 11月18日 渋谷のコウホネの話-渋谷区立富谷小学校4年生「シブヤ未来科」の授業からーNEW!
 4月23日 『江戸名所図会』に描かれた駒場「空川」  ~追補版 
 
       
 
 2022年、バックナンバー14
駒場「空川」の歴史と文化をあるく(上) 駒場野公園から東大前商店街へ/(中)将軍の御成道から駒場池へ、そして古代人を偲ぶ/(下)偕行社崖下から遠江橋を経て河口部へ
 2021年、バックナンバー13
たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」/「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く() 淀橋台に広がる渋谷川の歴史と現在の姿/(中)渋谷川と三田用水で水車が回る/(下)渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史/古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川「渋谷川中流ツアー報告」番外編
 2020年、バックナンバー12
江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎/「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」() 初台と代々木の水源を探る() 参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ/() 新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる
 2019年、バックナンバー11
渋谷の穏田川と芝川を歩く(上)「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の水源を探る(中)水の町渋谷をイメージする下)キャットストリートに川の流れを追う
 2018年、バックナンバー10
渋谷の新名所/渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定/「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(前編・後編)/夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット/
 2017年、バックナンバー9
新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする/渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)-渋谷川誕生の歴史を探る-同(後編)渋谷川上流の二すじの流れ:天龍寺方面からの流れと玉川上水余水の流れ 
 2016年、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)/三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
 2015年、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine
/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
 2014年、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他
 2013年、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠(前編)西側の流れと根津美術館(後編)東側の流れと地域の歴史/水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/恵比寿たこ公園のコウホネを「せせらぎ」に株分け/「せせらぎ」にコウホネの花第1号!/に渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/「渋谷川ツアーの報告:宮下公園の渋谷川暗渠と金王八幡宮の支流/その他
 2012年、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ・その1とその2/
 2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/中田喜直と「メダカの学校」/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
 2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く/箱根湿生花園のコウホネをたずねて/ビール工場のオブジェ/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

52023年8月15日



<前書き>

202374日に富谷小学校の講堂で約90名の4年生に向けて渋谷のコウホネの話をしました。5年前に新設された「シブヤ未来科」という授業科目で「春の小川」とコウホネがテーマになり、その講師に呼んでいただいたのです。富谷小学校は、小学唱歌「春の小川」(高野辰之作詞・岡野貞一作曲)のモデルになった河骨川(渋谷川支流・宇田川の上流)のすぐ近くにあります。2020年に元校長の吉川光子先生のご提案で恵比寿たこ公園のコウホネを株分けし、今では校内の「カメの池」で大事に育てられています。吉川先生からご連絡をいただいた時は、可愛い生徒さんの前でお話ができるのが楽しみでした。当日は吉川先生の「春の小川」のお話が素晴らしく、また話し方がとても分かりやすかったので、私も同じように話しができるかどうか心配になりましたが、とりあえず最後までがんばりました。話の後に生徒さんから感想をお聞きして、分かっていただいたようでホッとしました。以下はその内容です。時間の都合で当日お話しできなかったことを少し加えてあります。  

富谷小学校の「カメの池」でスクスク育つコウホネ

<授業のはじめに>                              

恵比寿のたこ公園でコウホネを育てている梶山です。今日はコウホネのことを皆さんにお話しできるのがとても楽しみで、何をお話ししようか一生懸命考えてきました。3年前の202011月に恵比寿のたこ公園の池から富谷小学校にコウホネをお分けしましたが、その時は先程お話された吉川光子先生と一緒にコウホネを運んで来ました。皆さんには「カメの池」でコウホネを大切に育てていただいて、本当にありがとうございます。

そのたこ公園のコウホネですが、ちょうど12年前に鍋島松濤公園から譲っていただいた株で、お日様がさんさんと照るたこ公園の奥に池を作り、「コウホネの会」のお仲間と一緒に大事に育ててきました。昔代々木や富ヶ谷を流れていた河骨川や下流の宇田川に花を咲かせていたコウホネを、こうして今に蘇らせることができるなんて、本当に素敵なことですね。ちなみに河骨川や宇田川は渋谷川の支流で、たこ公園の脇にはその渋谷川が流れています。河骨川の流れの先にたこ公園があるんですね。




<コウホネはどんな植物でしょうか>

そのコウホネの種類ですが、スイレン科に属する多年草です。コウホネの特徴は?と言うと、何といってもお日様が好きなこと。冬には葉がすべてなくなってしまうのですが、春が近づいてくると水中にレタスのような柔らかい葉っぱが出てきます。これを水中葉と言いますが、水の中でお日様に当たってエネルギーを吸収し、葉の間から小さな丸い蕾(つぼみ)が出てきて、やがて茎が伸びてきて蕾も大きくなります。そして4月頃になると5枚の「ガク」を開いて咲きます。「ガク」と言っても見たところは花びらと同じです。私たちのコウホネは「ガク」の色が真っ黄色なので、黄色い花が咲いた感じです。

 

コウホネの太い根は北海道では昔は保存食だったようですが、今でも漢方薬に使われています。コウホネの根ですが、太くて骨のように硬い根茎(こんけい)で、「河の骨」という意味でコウホネと言うのですが、それに髭のような白い細い根がいっぱい付いています。鍋島松濤公園からコウホネを取り出すときは、それらの根が水中で硬く絡まっていて、取り出す作業は大変だったようです。作業をして下さった渋谷区の公園課の方に、「こんな仕事は二度とやらない!だから枯らさないでね!」と笑いながら言われてしまいました。


さて、コウホネの種類には色々あるのですが、私たちのは「ヒメコウホネ」という葉っぱが丸い種類で、関東や中部地方、そして暖かい四国や九州に生息しています。北海道のような寒い所にも「ネムロコウホネ」があります。根室ですから、かなり寒い土地ですね。コウホネは日本だけでなく外国にもあり、ちょっと驚いたのですがサンタクロースの故郷(ふるさと)である北欧のフィンランドにもあります。私のフィンランドの友だちが写真を送ってくれましたが、あのように夜が長い寒い国でも立派に育つのですね。『日本水草図鑑(文一総合出版)という本があって、そこにもコウホネがユーラシア大陸の寒い地域に咲くと書いてありました。


<宇田川と富ヶ谷の地形>

「代々木九十九谷と宇田川」支流の流れは新富橋近くに集まった。赤丸はコウホネの証言等があった所。

 
 

さて、次に渋谷の川の流れを少し広い範囲で見てみましょう。皆さんは「代々木九十九谷」という言葉を聞いたことがありますか?(返事がありません)この富ヶ谷や代々木、そして西原の地域は、山と谷が幾つもある地形で、江戸時代には「九十九谷」という名前で呼ばれていたそうです。どうしてそのような形になったのかというと、河骨川など宇田川の支流が土地を削って作りだしたからです。

この地図のカラーを見て下さい。濃い茶色が高い所を表わし、色が薄くなると低くなっていきます。黄色は谷の斜面、黄緑色は川に沿った低地です。そして紺色の線が宇田川とその支流です。宇田川の上流を見ると、一番右側(東)を流れているのが先ほどの河骨川、それより左側(西)にあるのが初台川、 さらに左上がJICA NITEの池から流れ出していた川です。 また地図の左下の方、今の井の頭通りの南側の上原3丁目の方からも流れがあり、上原中学校の脇を通っていました。上原の流れです。そして、それらの流れは皆さんの学校がある富ヶ谷の土地で合流し、宇田川の本流になって下の方(南)に下り、渋谷駅を越えた所にある宮益橋で渋谷川に流れ込んでいました。こう見ると、富ヶ谷は「九十九谷」の流れの集まる(いわば扇の要(かなめ)のような)土地ですね。  


<宇田川に咲いていたコウホネと他の生き物たち>


話はまたコウホネに戻ります。お話しした幾つかの川に昔はコウホネが咲いていたようで、実際に咲いているのを見たという証言や記録が残っています。先ず河骨川ですが、今の代々木四丁目、四国土佐の元藩主が住んでいた山内邸の池からの流れ出ていた小川にコウホネが咲いていたという言い伝えがあります。ここでは、私が地元の方から直接伺った話を紹介します。

河骨川の上流に住んでおられる北田さんという方のお話ですが、「小田急線の参宮橋駅のホーム脇の流れにコウホネが戦後咲いていた」と語っていました。北田さんのお父様の知り合いだった植物学者の矢野佐(たすく)さんが確かめたそうで、これは間違いありません。今もその溝はホーム脇に残っています。ビックリする話ですが、北田さんによると、上流にはカワウソがいたそうです。「山手通り近くの田んぼが昭和20年代に沼になっていて、そこでカワウソにアヒルを10羽食べられてしまった。カワウソは年中出ていたよ」「かわいい顔をしていた。色がついた大きめのネズミのようだった」そうです。渋谷にカワウソがいたなんて、信じられませんが、江戸時代は下流の広尾にもいたんですよ。

次に地図の「上原からの流れ」ですが、この土地に大正時代に住んでいらした鈴木錠三郎さんの証言があります。当時人手がないため自宅の田んぼを売り、そこが使われないで水たまりになっていました。今の上原中学校のある土地です。鈴木さんによると「そばを流れる小川は綺麗で小魚が泳ぎ、コウホネが黄色い花を揺らし、上流にはカワニナが住んでいた」と。カワニナとは淡水の巻き貝で、ホタルの幼虫のエサになります。この話は辻野京子さんが書かれた『町の記憶』(個人書店)という本にありますが、同じ話を鈴木さんの息子さんにお会いした時にも聞きました。鈴木錠三郎さんが描いた土地の絵が残っているのですが、それを見ると、田んぼや湿地帯の所に野うさぎやホタル、タケノコなどが描かれています。当時上原の辺りは鉄道もビルや住宅もない自然が豊かな土地で、色々な生き物がいたのですね。

もう一つは宇田川下流、渋谷文化通りの上にあった旧東急本店の辺りの話です。本店の脇に昔は大きな湿地帯(沼のような所)があったのですが、そこを「かわほね沢と言った」と『渋谷区史』に書いてあります。この池か沼にコウホネがあったからこのような名前が付いたのでしょう。江戸時代の地図を見ると、渋谷を流れる宇田川のことを「コウホ子落」と記したものがあります。こうしたことから考えて、昔は宇田川の本流や支流のあちこちにコウホネがあったようです。コウホネは水生植物なので、川の流れに沿って株が広がりますから、幾つもの川が集まっていた富ヶ谷にもおそらくコウホネがあったのでしょう。

 

<コウホネの話を後輩たちにも>

コウホネは幾つかのステップを経て富谷小学校にたどり着きました。まず、昭和30年代に河骨川が道路の下に埋められて下水になりましたが、その後しばらく時が経ってから、その株が渋谷区白根郷土博物館・文学館に届けられました。そこから鍋島松濤公園の池に運ばれ、再び約10年後にその株の一部が恵比寿たこ公園に移され、それが吉川先生のお力で富谷小学校にまでたどり着きました。それは、河骨川が下水になってから約60年後のことです。

 

今では川の近くに棲息していたカワウソや野ウサギはいなくなってしまいましたが、コウホネは見事にサバイバルして現代まで生き延びてきました。皆さんには、これからもコウホネを大事に育てていただいて、自然がまだ残っていた頃の渋谷の姿を伝えていただきたいと思います。皆さんの後輩たちに「カメ池」のコウホネを引き継ぎ、渋谷の昔の川の話や動物たちのことも語り継いで下さいね。コウホネを可愛がって下さい。今日はお話を聞いて下さってありがとうございました。(梶山公子)




2023年4月23日 空川追補版



令和4年(2022)の春、駒場「空川」の跡をたどるツアーの案内役をしました。空川は、今の京王井の頭線・駒場東大駅の北の土地を水源とし、駅前の駒場商店街を東に流れた後に南に向きを変え、山手通りの松見坂交差点、国道246号の大橋を通って目黒川に注ぐ全長2kmの川です。空川の歴史を調べると、その小さな流れからは想像もできない激しい地形の変動と様々な歴史ドラマを秘めていることが分かってきました。それを『駒場「空川」の歴史と文化をあるく』(上・中・下編)にまとめて、2002年秋にHP『あるく渋谷川』で報告しました。


空川の全体図。『駒場「空川」の歴史と文化を歩く』では、流域をABC3地域に分けて報告した。この原稿が取り上げる 「一本松」の地点は、BCが重なる地域の中程、空川が北から南(縦)に流れ、東西に走る淡島通り(滝坂道)と交わる遠江橋の脇である。現在の淡島通りと山手通りが交わる「松見坂交差点」の西側に当たる。
ところで、空川の報告からしばらくして、三田用水研究家の木村孝様からご連絡をいただきました。駒場を流れる空川とその傍にあった松見坂地蔵尊が、天保年間に刊行された地誌『江戸名所図会』の「富士見坂一本松」に描かれているというのです。メールには絵が添付されており、その一角に空川と思しき流れがありました。さっそく『江戸名所図会』を取り出して調べると、「富士見坂一本松」の項に絵と解説がありました。実は『図会』の「駒場野」の絵は見ていたのですが、これに気を取られて「富士見坂一本松」の方を見逃していたのです。教えていただいて改めて絵を見ました。

『江戸名所図会』「富士見坂一本松」(東京都立中央図書館蔵)。絵は白い雲を境にして上と下に分かれる。絵の左上から中程にかけて、「ふじみ坂(今の宮益坂)」、「ふじみ橋」、「道玄坂」の地名が記されている。下半分には滝坂道の駒場坂や「一本松」、用水堀などが描かれている。



この絵を眺めて先ず感じたのは、同じ『江戸名所図会』にある「代々木八幡宮」と技法がよく似ていたことです(本HP
『江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎2020322参照)。画面の中ほどに大和絵によくある雲か霞のような図柄(すやり霞み)が横に伸びていて、一枚の絵を上と下に分け、遠景と近景を巧みに繋いでいます。雲より上は今の港区青山から渋谷区道玄坂上の辺りまでです。図の左上から右上にかけて道が通り、順に「ふじみ坂(今の宮益坂)」、「ふじみ橋」、「道玄坂」と記されており、拡大してみると、「ふじみ坂」を取り巻くたくさんの家、坂の下を流れる渋谷川と橋などが細かく描かれています。なお、絵の中の文字はこの三ヶ所とタイトルの「富士見坂一本松」だけで、これから話に出てくる土地や道の名前は筆者の推測です。

左上から始まる道は、「ふじみ坂」を下ると渋谷川の橋を渡り、すぐに平らな耕地に入ります。この耕地は渋谷駅ハチ公の西側に広がっていた「六反田」の田んぼでしょう。やがて道玄坂を上って高台に出ます。絵の上の真ん中から右端まで、今の円山町から南平台へと続く林を大橋に向かって伸びています。やがて道が二つに分かれますが、真っすぐに進むのが大山道で、三軒茶屋に向かう国道246号です。右に(図の下方に)曲がるのが滝坂道で、世田谷に向かう淡島通りです。滝坂道に入ってしばらく円山町の畑を進んだところで、例の雲が現れて道は途切れ、雲が消えた辺りは神泉町の西の端で、ここから滝坂道の近景になります。描かれた道は旧道の道筋ですので、今の淡島通りよりも北に大きく迂回しています。 


「富士見坂一本松」の雲より下部分の近景。色彩は筆者。図の右側に大きな「一本松」があり、その下に松見坂地蔵ともう一つの神仏像がある。図の左には用水堀が蛇行して流れ、川には橋が架かっている。左端からもう一筋の川が来ている感じがする。

この雲より下の部分が絵のメインテーマです。雲に隠れた辺りの土地は神泉町の高台で、ここに三田用水や駒場分水の分岐点があったはずです。雲の先から滝沢道の坂道が始まり、荷馬を引く男、旅人らが描かれています。坂の下の三叉路の真ん中には、立ち止まって登りの坂の方を仰いでいる旅人の姿があります。この場所は今では淡島通りでかなり嵩上げされていますが、当時は河岸の低地でしたので、アップダウンは激しかったでしょう。この坂道の脇に駒場分水が通っていましたから、急な斜面を勢いよく流れ落ちるのが見えたと思います。三叉路の交わる所はやや広くなっていて、右側にこの絵図のタイトルである「一本松」とお地蔵様があり、左側には蛇行する川が描かれています。

ところで、この川は本当に空川なのでしょうか。これまで「富士見坂一本松」の絵の内容を見てきたところでは空川と考えられますが、確かな文字情報がほしいところです。その根拠となる文が『江戸名所図会』の解説にありました。それは盗賊の道玄が物見に使っていたと伝えられる「道玄物見の松」の項です。引用すると「いま駒場坂の下、用水堀の傍らに一株の古松あるを混じて、  道玄松と称すれども、一本松と称してこの松と別なり」です。文の意味は、駒場坂の下の用水堀の傍らにある松は道玄松ではなく「一本松」という別の松だ、ということです。「一本松」は盗賊で有名な道玄松と混同されていたようです。

「道玄物見の松」の解説は二つの松の違いを述べたものですが、この話に出てきた「用水堀」とはどこの川でしょうか。この文では駒場坂(別名松見坂)の下にありましたので、これは空川のことでしょう。話を進めると、この川に小さな橋が架かっていますが、駒場坂の下を流れる空川の橋ですから遠江橋です。また「一本松」の下にはお地蔵様が祀られていますが、この土地のお地蔵様といえば松見坂地蔵でしょう。ここで空川を用水堀と呼んでいるのは、三田用水の分水(駒場分水)を田んぼの灌漑や水車の動力のために空川に流し込んでいたためと考えられます。時代は下りますが、昭和10年に刊行された『目黒区大観』でも、空川に架かる遠江橋を「駒場瀧坂道の小流(三田用水駒場分水)に架けた橋の名」と記しています。空川(おそらく下流部)は後々まで駒場分水の流れと認識されていたようです。

空川の傍らに鎮座していた松見坂地蔵。今は淡島通りと山手通りが交わる松見坂交差点の脇の窪地に祀られている。このお地蔵様にお参りに来る人が多かったためか、対岸には松見茶屋と呼ばれるお茶屋があったという。


この絵に描かれた空川を見て気付いたことがあります。一つは水路です。ご覧のように川はかなり曲がりくねって勢いよく流れていますが、寛政年間に描かれた「上目黒村の村絵図」などを見ると、空川の水路はたいてい真っすぐです。この場所の地形を考えると、川岸は広い平地ですし、橋の手前で三田用水の駒場分水が滝のように合流していましたから、蛇行しながら勢いよく流れていても不思議ではありません。もう一つは絵の左下に描かれた短い川です。文化2年に描かれた「目黒筋御場絵図」の空川を見ると、二本の並行した流れが遠江橋まできて合流していますから、その一方の流れを描いたのかもしれません。後の明治・大正時代の空川も遠江橋の手前は二本の流れでした。

以上で絵の説明を終わりますが、この絵を通して空川の流れの様子をはっきりと確かめることができました。また江戸末期の近郊の村の地勢や人々の暮らしの一端を感じ取ることもできました。『図絵』が伝える内容にはよく分からないところもありますが、「富士見坂一本松」はなかなか雄弁でした。この絵を眺めていると、三田用水と駒場分水の姿を描いてくれたならばとつい思ってしまいますが…。最後に木村様、ありがとうございました。『江戸名所図会』の著者と画家にも感謝致します。(終)

<参考文献・資料>
市古夏生・鈴木健一校訂『新訂江戸名所図会3』筑摩書房、1996
若尾俊平・西口雅子『近世地方文書字鑑』十一房出版、昭和43
宗田哲夫校閲・村上三朗編著『目黒区大観』目黒区大観刊行会、207頁、昭和10
「上目黒村の村絵図(寛政年間)『目黒区史』より
「目黒筋御場絵図」文化2年(1805年)、国立公文書館デジタルアーカイブ


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