ヴュルム氷期の時代は乾燥した極寒の気候とされていますが、太平洋に面した関東地方には針葉樹と広葉樹が生え、日本海側や大陸と比べると気候はかなり穏やかでした。水の恵みを受けて植物が育ち、そこに動物が集まり、旧石器人や初期の縄文人は動物を追ってこの地に来ました。新宿に何万年にも渡って断続的に人が住んでいたことは、豊かな湧水と川の存在をなしには考えられません。高島屋の土地に獲物を捕まえる「陥(おと)し穴」も発見されています。傍に小動物や小魚が棲む池や沼もあったのでしょう。
図Cの3つの「推定谷」を詳しく見てみましょう。まず北にある「推定谷1」は、新宿ミライナタワーとザラに挟まれた南北に伸びる土地で、江戸時代に盛り土が行なわれるまでは浅い谷が残っていました。幅は約50メートル、長さは約160メートルで、地下約1.5メートルには湧水の跡があったそうです。小さな水の流れが時間をかけて谷を作ったことが分かります。高島屋の北東部で発掘された谷の凹みはその一端です。報告書によると、関東ローム層が水の影響で粘土化し、その上に水が溜まって湧水が生まれたとありました(注6)。
東側の「推定谷3」は、「推定谷1」と天龍寺脇の「埋没支谷」の流れが合流する土地です。新宿高校グラウンドの辺りから新宿御苑へと繋がる幅約80メートル、長さ約100メートルの大きな谷で、その中に発掘調査を行ったF 区埋没谷(標高32.5m)があります。ここでは川の土砂などが約7メートル積もり(沖積粘土層)、周りの高台から旧石器時代と縄文時代の遺物が多数出てきました。報告書に「地下に川が流れているが如くである」とあり、発掘の際に水が大量に湧き出して調査を中止したそうです(注7)。この谷の流れは、後に『江戸切絵図』の「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」で天龍寺の池からの川として描かれています。また『御府内沿革図書』の内藤宿「當時之形」(嘉永3年)で、玉川上水に架かる石樋の下水が流れ込んだ川でもあります。
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古渋谷川の水源地帯に残る新宿御苑「上の池」。昭和の半ばまで渋谷川の起点とされていた。
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「推定谷2」は、高島屋の南側にある幅約50メートル、長さ250メートルの細長い谷です。JRの線路内から新宿御苑の中まで伸びており、発掘中のD区埋没谷で湧水が出ました(標高32.5m、深さ約2.3m)。谷の堆積物は1.6メートル以上ありました。前の「推定谷3」の水路が周りの土地より低いため、川のルートが実感できたのに対し、「推定谷2」は平らで水路があった感じがしません。管理事務所に尋ねたところ、この場所に「母と子の森」を造成したため、地形が変わったとの説明でした。地表は平らですが、地下には今も水が豊かに流れているのでしょう。
3. 渋谷川の歴史を振り返る
最後に、地理学や発掘調査の結果を踏まえて、ヴュルム氷期から現代までの渋谷川2万年の歴史を振り返ってみます。まず、新宿駅東南にある幾つかの谷から発した川の流れは、新宿御苑の「上の池」近くで一つになり、御苑の土地を抜けて東に向かいました。そして、千駄ヶ谷で北からの流れ(後の玉川上水・余水)と合流して南に曲がり、神宮前2丁目で代々木からの流れ(後の原宿村分水・芝川)とも合流しました。ちょうど旧渋谷川歩道(キャットストリート)の入口付近で、この辺りまでが渋谷川の「上流部」です。川の形は樹枝状で、流れは一部を除いて緩やかです。
原宿橋からキャットストリートに入ると流れは次第に強まり、川は岸辺や川底を削って深くなりました(後の穏田川)。この辺りから渋谷、恵比寿を通って広尾の天現寺橋の先までが「中流部」です。渋谷で宇田川、恵比寿でいもり川、広尾で笄川と合流し、その他にも幾つかの小さな支流(後の三田用水の分水が流れていた谷川など)を併せて蛇行しながら東に流れました。
2万年前のヴュルム氷期には、天現寺橋から先の「下流部」(後の古川)で流れが勢いを増し、三田段丘を大きく回わって田町を越えるとさらに加速しました(古川埋没谷)。そして、古神田川や古石神井川など北からくる流れと合流し、その後古目黒川などの流れも併せ、かなりの大河になって古東京川に向かっていました。渋谷川下流の勢いは中流や上流に波及しますから、渋谷川の谷はこの時代に深く刻まれて基本的な形を整えたのでしょう。
その後縄文海進がピークを迎えた約7000年前になると、下流部の姿が一変しました。天現寺橋の近くまで海が押し寄せ、それまでの川すじは消え去り、川が刻んだ谷は海底の土砂で埋め尽くされました。やがて海が退くと、三田段丘の手前は大きな沼(後の古川沼)になり、その跡は15世紀頃まで残っていたようです。江戸の初めになると、この一帯は平らな低地となり、そこを渋谷川が幾すじかに分かれて流れ(入間川や後の古川の元になった金杉川、増上寺の北に向かう流れなど)、金杉や芝の先で海に注いでいました。
17世紀中頃に玉川上水や三田上水(後の三田用水)、原宿村分水が作られると、渋谷川の多くの支流に上水・用水からの水が落とされ、水嵩が増し、水量も安定しました。江戸の町作りが進むと、麻布十番から金杉までの流れが舟入のために拡張され、お堀のような太い一本の水路になりました(新堀川)。そして、他の細流は埋め立てられるか武家屋敷の堀に姿を変えました。人間が治水をする川に変わったのです。
それから昭和の時代まで、川の形は大きくは変わりませんでした。しかし戦後になると、渋谷近辺の流域の都市化により、人口の急激な増加が起こりました。昭和30年代半ばには、東京オリンピックのために渋谷駅から上流と支流の全てが暗渠となるか埋め立てられ、多くは下水道として利用されるようになりました。平成末には川の起点は渋谷駅の宮益橋から稲荷橋(渋谷ストリーム)に移され、今に至っています。都会を流れる川として、渋谷川が、これからどのような形で私たちの暮らしと関わっていくのかが楽しみです。
(注1)渋谷川の生成と発展については以下の諸論を参考にしました。貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011年、久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論』61、1988年、松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形』之潮、2013年、遠藤邦彦他「武蔵野台地の新たな地形区分」『第四紀研究』58巻6号、2019年、港区『新修港区史』昭和54年、同『港区史・自然編』、令和2年、柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒沢地理』No.48,2012年他。
(注2)貝塚爽平『東京の自然史』、講談社、2011年、258頁。
(注3)図2-港区北東部周辺における低地地下の地形(港区(1979)、松田(2013)。角田(2014)などに基づく。)『港区史 自然編』、港区、令和2年、27頁。
(注4)ツアーの報告は、ホームページ「あるく渋谷川」の2017年5月27日「新宿駅東南地域の発掘調査から渋谷川2万年をイメージする」、2017年10月9日「渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)―渋谷川誕生の歴史を探る』を参照。
(注5)「調査地点周辺の旧地形等高線と旧石器時代・縄文時代の遺構・遺物分布図」『千駄ヶ谷大谷戸遺跡 第3地点』、渋谷区教育委員会、株式会社オークラコーポレイション他、2016年。
(注6)東京都渋谷区・東日本旅客鉄道株式会社他『千駄ヶ谷5丁目遺跡3次調査』2013年。
(注7)「推定谷3」発掘の報告は、前掲『千駄ヶ谷5丁目遺跡3次調査』、東京都埋蔵文化財センター『千駄ヶ谷大谷戸遺跡・内藤町遺跡(環状第5の一号線地区)』2009年。
(終)
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