ビッグローブ版
あるく渋谷川

Let's Walk along
the Shibuya River
   
  

12日のたこ公園の池。池の周りに赤い実の付いたつる草が。


 
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(江戸全図)に現れた渋谷川の姿-玉川上水以前-NEW! 

かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

 
 2025年
 1月6日 「(江戸全図)」に現われた渋谷川の姿ー玉川上水以前ーNEW!
  
 
       
 
 2024年、バックナンバー16
渋谷の2万年ー渋谷川の歴史を振り返るー
 2023年、バックナンバー15
渋谷のコウホネの話-渋谷区立富谷小学校学校4年生「シブヤ未来科」の授業からー/『江戸名所図会』に描かれた駒場「空川」
 
 2022年、バックナンバー14
駒場「空川」の歴史と文化をあるく(上) 駒場野公園から東大前商店街へ/(中)将軍の御成道から駒場池へ、そして古代人を偲ぶ/(下)偕行社崖下から遠江橋を経て河口部へ
 2021年、バックナンバー13
たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」/「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く() 淀橋台に広がる渋谷川の歴史と現在の姿/(中)渋谷川と三田用水で水車が回る/(下)渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史/古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川「渋谷川中流ツアー報告」番外編
 2020年、バックナンバー12
江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎/「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」() 初台と代々木の水源を探る() 参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ/() 新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる
 2019年、バックナンバー11
渋谷の穏田川と芝川を歩く(上)「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の水源を探る(中)水の町渋谷をイメージする下)キャットストリートに川の流れを追う
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渋谷の新名所/渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定/「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(前編・後編)/夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット/
 2017年、バックナンバー9
新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする/渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)-渋谷川誕生の歴史を探る-同(後編)渋谷川上流の二すじの流れ:天龍寺方面からの流れと玉川上水余水の流れ 
 2016年、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)/三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
 2015年、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine
/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
 2014年、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他
 2013年、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠(前編)西側の流れと根津美術館(後編)東側の流れと地域の歴史/水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/恵比寿たこ公園のコウホネを「せせらぎ」に株分け/「せせらぎ」にコウホネの花第1号!/に渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/「渋谷川ツアーの報告:宮下公園の渋谷川暗渠と金王八幡宮の支流/その他
 2012年、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ・その1とその2/
 2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/中田喜直と「メダカの学校」/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
 2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く/箱根湿生花園のコウホネをたずねて/ビール工場のオブジェ/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

52025年1月6日



目次

 1.   江戸の全景を描いた最古の地図

2.   (江戸全図)」が伝える渋谷川の全体像

3. 代々木の水源から四の橋まで

4. 自由奔放に流れていた渋谷川下流

おわりに-中世の川から近世の川へ-


 1.江戸の全景を描いた最古の地図

渋谷川の流れは、承応3年(1654)の玉川上水の完成によって大きく変わりました。新宿の四谷大木戸から玉川上水の余水が渋谷川に流し込まれたことにより、水嵩が増えて水量も安定し、これに伴って川の社会的な役割も変わりました。私たちが今知る渋谷川は「ポスト玉川上水」の姿です。

ところで、玉川上水ができる前の渋谷川はどのような川だったのでしょうか。こうした問いに答えてくれるのが、江戸初期の町並みを描いた「(江戸全図)」です(注1)。この図は平成13年(2001)に大分県の臼杵市で発見されました。作成の時期は寛永1920年(1642-1643)のようで、玉川上水が完成する約12前です。それまでは、正保元年(1644)に作られた「正保年間絵図」が最古の江戸全図とされてきましたが、「(江戸全図)」はそれよりも早く、しかも情報量が遥かに豊かなものでした。江戸の初めの市中を精密に描いた地図が、約360年の時を隔てて現代に突然現れたのです。 

(江戸全図)」の大きさは310×265cm、約5畳もある手書きの作品で、その筆遣いは工芸品のように細やかです。当時存在していた武家屋敷・寺社・町屋のほぼすべてが記され、また道路、地形、田畑などがリアルに、時にシンボリックに描かれています。研究者によると、幕府の中枢(老中・普請奉行など)が使っていた絵図で、その目的は武家屋敷の所在状況を調べることにありました(注2。当時の幕閣たちは、この大きな地図を畳に広げて、立ったり座ったりしながら会議をしていたのでしょう。

 

(江戸全図)」の特色の一つは、江戸の市中と近郊の高台や谷間、低地、田んぼ、川などを、カラーで色分けしていることです。渋谷川は濃紺の太い線で示され、曲がりくねって流れる様は大蛇のようで、躍動する川の流れを伝えています。図の下(西から南の端)を這うように流れていますから、当時の渋谷川は江戸の市中と近郷を区分する川と考えられていたようです。

 

(江戸全図)」には渋谷川の支流の姿はありません。その代わりに緑色の細長い谷地が描かれています。江戸の絵図では川を省くことがよくありますが、谷地をこれだけ精細に描いたものはまずないでしょう。小高い丘は緑色で縁取りされ、歴史にゆかりある大名屋敷があちこちに見えます。今の六本木には、吉川英治『宮本武蔵』に出てくる五角形の柳生但馬守の下屋敷があります。南麻布には狸橋の北に広大な浅野内匠頭の下屋敷があり、後に南部屋敷に代り、それが今の有栖川公園になりました(3)。高台には武家屋敷や寺社が立ち並び、河原や谷などの低地はほとんどが田んぼでした。

 

近代的な土地の測量方法がない時代ですから、図の尺度や方角は正確ではありません。以前に(江戸全図)」にJR山手線と中央線を描き込んだことがあるのですが、まったく様になりませんでした。武家の屋敷が集まっている地域は区画や文字で余分にスペースをとるため、地図に歪みが出ているのです。しかし、周りの土地をうまく伸び縮みさせ、全体として辻褄を合わせています。絵師の巧みな技です。地図の方角は「上」が北東のようですが、所によっては動いています。江戸の歴史が好きな方ならば、おそらく見る度に何か新しい発見があって、見飽きることがないでしょう。

 

2.「(江戸全図)」が伝える渋谷川の全体像

図A
 <図A>「(江戸全図)」の部分図、「臼杵市教育委員会所蔵」。無断転載禁、以下同様。方位・川・池・橋・地名などの文字は筆者。

<図A>は「(江戸全図)」の部分図で、渋谷川の全体像が描かれています。渋谷川の水源は、井伊掃部頭の屋敷(今の明治神宮)の北にある「代々木の谷」(仮名)にありました。今の明治神宮・北池の北側、代々木一丁目の南側に当たる横長の低地です。川はこの谷に沿って北西から南東に流れていました。谷の北側には、千駄ヶ谷の高台を挟んで「新宿御苑の谷」(仮名)があり、「代々木の谷」とほぼ並んで南東に伸びていました。「新宿御苑の谷」には高遠藩内藤家の下屋敷などがあり、同じく渋谷川の支流が流れていたと思われますが、図にはありません。

 

代々木の水源から南東に流れた渋谷川は、千駄ヶ谷を越えた辺りで南西の方に曲がり(ここまでが後の芝川)、その途中で「新宿御苑の谷」(後の余水川)と交わり、さらに井伊掃部頭の屋敷にある南池からの流れを併せて、渋谷の宮益橋へ向かいました(穏田川)。渋谷では、北西から来た谷(宇田川)と合わさりました。ここから弧を描くように南東に向きを変え、そのまま四の橋の先にある古川橋までまっすぐに進みました。この区間は地図に歪みが出ている所で、後に説明します。川の北岸(左側)には2つの大きな谷(いもり川と笄川)があり、南岸(右側)にも七つの小さな谷(渋谷川の支流)がありました。なお、渋谷川の名は時代や場所によって異なり、現在は天現寺橋から先を古川と呼びますが、とりあえず渋谷川で話を進めます。

 

渋谷川は、四の橋を越えて古川橋の辺りまで来ると東方向に曲がり、広い低地を文字通り蛇行し、三田段丘の麓にある二の橋の手前で二つに分かれました。その後は、二つの流れが三田段丘の裾をなぞるように東に回って進みました。一すじは増上寺の裏手に入って行き止まり、もう一すじはそのまま真っすぐに東に流れて金杉橋(旧東海道)の先で海に注ぎました。なお、金杉橋に向かう流れには分流があり、増上寺の手前で南に折れ、最後は入間川(いりあいがわ)を経て海に入っていました。これについては後に詳しく述べます。以上が「(江戸全図)」に描かれた渋谷川の全体像です。

 

ところで、四の橋の先にある古川橋ですが、実はこの橋は「(江戸全図)」の時代には存在しません。その名が地図に現れるのは明治期です(4)。他にも当時は存在しなかった橋があります。例えば、有名な麻布十番の一の橋です。この地図が作られて約34年後の延宝4年(1676)に、それまでの細い流れを太く深く開削して(地元では新堀川)、堀留の地に一の橋を設けました。広尾の天現寺橋も大正期までありませんでした。天現寺橋の東側にある小さな狸橋は(当時の名は分かりませんが)昔から架かっていたようです。「(江戸全図)」をつぶさに見ると、渋谷川が古道と交わる所に橋のマークが細かく描かれており、寛永や正保の頃はどこに橋があったのか、なかったのかがはっきり分かります。

 

それでは、当時存在しなかった橋の場所をどうやって推定し、<図A>の中に書き入れたのでしょうか。そもそも、江戸時代の初めの渋谷川のルートや橋の場所は正確には分りません。そこで、「(江戸全図)」と幕末の古地図、明治の近代地図、現代地図、また地形図などを相互に照らし合わせて、道や周囲の屋敷や寺社、地勢などから総合的に判断しました(5)。一の橋、三の橋、古川橋は、当時は周りが田んぼと農道だけで目印に乏しく、さらに川は蛇行し、元の図も歪んでいたため、推定が難しかったです。これらの橋の場所は仮説と受け止めて下さい。二の橋や四の橋は、当時も今も道や地形があまり変わらないため、ほぼ間違いないと思います。

 

第一節で(江戸全図)」には渋谷川支流が描かれていないと述べましたが、金杉橋の手前に「桜川」が二本に分かれて注いでいます。桜川は赤坂の「溜池」に発する汐留川(江戸城の御堀)を水源とする人工の用水で、一部は昭和の初めまで流れていました。江戸の町づくりに欠かせない川なので(江戸全図)」に描かれたのでしょう。しかし、当時の渋谷川の流れを形作るような川ではないので、ここでは説明を省きました。なお、「溜池」は、鮫河(水源は四谷)など幾つかの流れを堰き止めて慶長11年(1606)に造られた巨大な人工の上水池です。玉川上水の完成で不要になり、承応年間(1652~)に埋立てが始まり、明治の末に終わりました。今の赤坂・溜池の街や外堀通りはその跡地に作られたものです。 

 

3.代々木の水源から四の橋まで

この節では、渋谷川の全ルートを(1)代々木の水源、(2)水源から宮益橋まで、(3)宮益橋から四の橋まで、と三つに分けて順にご説明します。(1)~(3)は近代の渋谷川の水路と大きくは変わりませんが、その後の四の橋から東京湾までは近代以降の川の姿とかけ離れたもので、その水路を初めて見た時は、史料復元の際のトラブルかとさえ思いました。四の橋から東京湾までは節を改めて取り上げます。

 

1)代々木の水源-水源の奥まで田畑が

<図B(江戸全図)」の部分で、渋谷川水源地帯から渋谷の宮益橋まで。水源からは9本の古道が川を横切り、その内の7本に橋が架かっていた。

初めに<図B>で代々木の水源地帯を見ます。「(江戸全図)」の渋谷川は「代々木の谷」から発していますが、これには意外な感じがします。考古学者や川の研究家の多くは、渋谷川の水源を新宿御苑の「上の池」の辺りとしています。この土地が歴史的に水が豊かだったからで、これについては後に述べます。当時の人々が代々木に水源を求めた理由は分かりませんが、室町期の長禄元年頃(1457)の地形を描いたとされる「長禄年間江戸図」も、渋谷川の水源を「代々木抱」としていますから(注6、当時は代々木とするような史料や共通の考え方があったのかもしれません。

 

図をよく見ると、「代々木の谷」の始まりは水源よりもかなり北西にあり、谷頭のギリギリまで田畑のマークが付いています。水がない所に田畑は作れませんから、湧水は谷の北西の端、すなわち水源よりも数百メートル先の甲州街道の下にあったのでしょう。街道に面した文化学園大学の南側には、今も起伏に富んだ地形が残っており、湧水が出そうな傾斜地、その下の流れ跡などもあります。谷頭で生まれた幾つかの湧水が合流して流れ下り、水源とされた辺りで太い流れや水溜りになっていたのかもしれません。

 

(2)水源から宮益橋まで-川にたくさんの橋が

次に水源から宮益橋までを見ます。水源から南東に流れた渋谷川は、高台にある仙寿院の手前で南西に大きく向きを変えて宮益橋に向かいました。仙寿院の北からは、お寺を取り巻くように「新宿御苑の谷」がきています。この谷の水源は、今の新宿御苑「上の池」の辺りにあったと考えられます。池から約250メートル北にある都立新宿高校のグラウンドからは、旧石器時代から縄文時代までの遺跡や遺品が大量に発掘されました。ここが太古の時代から水が豊かな谷地形だったことを裏付けています。今も地下水の流れが激しいようで、発掘調査が途中で中止になったとの報告もありました。新宿高校の西の隣りには天龍寺がありますが、有名な「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」『江戸切絵図』を見ると、天龍寺の境内の丸い池から渋谷川が流れ出しています。かつてNHKの人気番組「ブラタモリ」も、この池の近くにある井戸を水源に見立てていました。

 

なお、この谷の東側(右側)に小さな谷が北上しています。今の新宿御苑・玉藻池の方でしょうか。谷頭の先は甲州街道の四谷大木戸で、玉川上水の完成後はここに水番屋(水を管理する事務所)が置かれ、この谷に余水が流し込まれました。それが渋谷川の大きな水源となり、後に始まる三田用水などからの分水とも相まって、渋谷川沿岸の農業を発達させました。「(江戸全図)」を見ると、玉川上水の余水が流れるより前からこの谷に小川が流れ、流域が耕作地になっていたことが分かります。

 

代々木から宮益橋までの渋谷川は、全般に狭い谷間を流れており、そのルートは後の渋谷川と基本的に変わりません。地図をよく見ると、川筋には9本の古道が交わり、その内の7本に小さい橋のマークが付いています。そこで、古道に①~⑨の番号を入れ、当時の道と橋が近代のどの場所に当たるのかを推定しました(注7。<図B>は、こうして特定した場所と、そこに架かっていた橋の名前を書き入れたものです。水源の代々木から宮益橋までの間には、意外にも多くの道が交わっています。市中からこの地を通って甲州道や中山道、相模道に抜ける人が多かったのでしょう。

 

ここで、初めの<図Aに戻ります。渋谷川が南東の方向に曲がる宮益橋(現青山通り)の辺りには、北西から緑色の大きな谷がきています。宇田川が流れていた谷で、宮益橋の袂で渋谷川と合流していました。この谷の流れを遡ると、やや広い低地(今の富ヶ谷)があり、その上にサツマイモの形をした小山があります。「ヨヽキ山」という文字がありますが、これは代々木八幡宮のある高台です。その下を北西(左横)に進む谷が、初台川などの宇田川上流です。「ヨヽキ山」の脇を北(上)に延びる谷が河骨川で、川に沿って田畑が続いています。その先に高井戸に向かう甲州街道が見えます。宇田川の谷の大きさは、代々木の谷や新宿御苑の谷と比べて見劣りしません。渋谷川の古来の源流は宇田川にあったという説を唱える人もいます。


 

3)宮益橋から四の橋まで-両岸に多くの支流が

ここでも<図A>の全体図を見ます。「(江戸全図)」の渋谷川は、渋谷の宮益橋で南東に大きく向きを変えた後、そのまま真っすぐに古川橋まで流れています。しかし、現代地図ではここは真っすぐではありません。渋谷から南東方向に流れ、恵比寿の辺り(いもり川の手前)で東に45度ぐらい向きを変えて古川橋まで進んでいます。「(江戸全図)」にはなぜこのような歪みがあるのでしょうか。

 

主に二つの理由が考えられます。手掛かりとなるのは武家屋敷の数です。一つは、青山が実際よりも広がって、渋谷の東側の高台が南西の方に張り出していることです。もう一つは、麻布全体が広がって南西の方に張り出しており、それも東に進むにつれて大きくなっていることです。つまり、青山や麻布の武家屋敷や寺社を描くのに余分なスペースを使ったため、外縁の渋谷川にしわ寄せがきたのです。見方を変えれば、幕閣が「(江戸全図)」市中の武家屋敷を見やすくするため、部分的に拡大したのです。

 

ところで、渋谷川の両岸にはたくさんの谷(すなわち渋谷川支流)が描かれています。まず北岸ですが、いもり川の谷と笄川の谷が太い緑色で示されており、谷の輪郭やその中を通る農道の描写が実に細やかです。笄川には5つの水源がありますが、いずれも後の地図で湧水池や小川が確かめられており、図の形は素朴ですが、記録はかなり正確です。金王八幡宮の東側(金王八幡の川・仮名)や四の橋がある薬園坂の西側(本村町の川・仮名)にも小さな谷があり、明治以降も支流が流れていました。

 

次に南岸を見るとここにも谷が描かれています。うっかりすると見落としてしまいそうですが、道玄坂から白金まで7つの谷の出口が描かれています。<図A>の下に横に並んでいる①~⑦の谷です。いずれの谷も田んぼのマークが付いており、この土地の農民が渋谷川支流の水を使って田畑を灌漑していたことが分かります。7つの谷の内の5つは、この時代から約80年後の享保9年(1724)に作られた三田用水(玉川上水の分水)の各分水の河口とほぼ一致しています。つまり、三田用水の分水は渋谷川の支流を巧みに利用して作られたことを示しています。三田用水が始まると、農民は村ごとに分水口を設けて水を支流の谷頭に流し込みました。そして、水嵩が増えた水路を迂回させたり、複線化したり、あるいは長く延ばして田畑を効果的に潤しました。

 

残りの2つの谷ですが、1つは<図A>の⑥の谷で、白金三光町を流れていた自然の川です。もう1つは①の谷ですが、明治以降の近代地図に出てこないミステリアスな谷です。しかし、「正保年間絵図」など同時代の古地図にも描かれています。相模道と旧鎌倉街道に挟まれた見通しの良い河原(田んぼ)に位置していますので、地図作者の間違いとも思えません。この谷について色々な可能性を考えてみましたので、興味のある方はその報告をご覧ください(注8

 

4.自由奔放に流れていた渋谷川下流


 
<図C>渋谷川の四の橋から東京湾まで。渋谷川のルートは四の橋の先から大きく蛇行し、二の橋の手前で二筋に分かれていた。文字は筆者。

さて、最後の節では、<図C>で示した四の橋から東京湾までを見ます。恵比寿・広尾の方から流れて来た渋谷川は、四の橋の先で広い低地部に入ります。これまで見てきた河岸の低地とは比較にならない大きさです。ところで、約6000年前の縄文海進の時代、北関東は川越や古河の辺りまでが海に沈み(奥東京湾)、渋谷川も下流部が消え、四の橋の西側までが海の入江になりました。その後は海が段階的に退いて、約2500年前には海面が今とほぼ同じになり、川の下流部が元に戻りました。四の橋の辺りのボーリングデータを見ると、地下は厚い沖積層(海や川の堆積物)で覆われ、ここまで海岸線が来ていたことが分かります。四の橋の北側の丘には本村町貝塚がありますし、少し上流の天現寺橋には有名な豊沢貝塚があり、高台の上に縄文時代の大きな集落がありました。

<図D1460年頃の東京の地形」(注9)。古川橋から一の橋にかけた一帯が沼地だった。

<図D>は地理学者の正井泰夫氏が描いた1460年頃の渋谷川です(注9)。縄文海進が終わって海退が起きた後、今の古川橋から一の橋にかけた一帯が古川池(古川沼とも呼ばれた)になりました。渋谷川の前に三田段丘が立ちはだかって、流れを堰き止めていたからです。この土地から徐々に水が引くと、辺りは湿地帯になり、時を経て耕作地に変わりました。「(江戸全図)」を見ると、この地域には田畑のマークがびっしり付いています。農民がこの土地に治水工事を施して田畑に作り変えたのでしょう。しかし、川岸に堅固な堤を築いた訳ではないので、大きな嵐が来ると川が氾濫して水路が動き、農民は苦労したと思います。

 

(江戸全図)」(図C)によると、江戸初めの渋谷川は、今の古川橋の辺りから北に曲がって蛇行し、三田段丘の脇にある二の橋の手前で左右の二つに分かれました。流れは少し進んだ後に東に曲がり、三田段丘の裾(すそ)を並行して流れました。やがて、「左側(上)の水路」は増上寺の裏手に回りました。その先で太い流れが消えていますが、増上寺の境内に入ったのかもしれません。「(江戸全図)」の15年後の明暦3年(1657)に作られた「明暦江戸大江図」を見ると、水路は増上寺の裏手を取り囲むように進み、最後は海に注いでいました。この「左側(上)の水路」の流末には、他にも幾すじかの支流が出ていて複雑です。いずれにしても、昔は増上寺の裏手に向かう流れがありました。

 

次に「右側(下)の水路」ですが、これが後の渋谷川の水路です。今の済生会中央病院 (有馬玄蕃の屋敷)の北側を通り、増上寺の芝丸山古墳の南側を流れた後に、旧東海道の金杉橋の先で海に注いでいました。この水路は、先ほど述べましたが延宝4年(1676)に舟入工事を施し、麻布十番の一の橋までが太い直線的な川(新堀川)に生まれ変わりました。元禄12年(1699)には、将軍綱吉の別邸・麻布御殿の造営のために四の橋までが汐入となり、江戸近郊に物資を運ぶ輸送路となりました。

 

もう一つ、忘れてはならないのが入間川(いりあいがわ)です。「右側(下)の水路」を詳しく見ていくと、増上寺手前にある有馬玄蕃の屋敷の角で南に直角に折れて芝に入る流れがあります。これを追うと、幾つかの大名屋敷のお堀を巡った後、西應寺の脇で入間川に注ぎ、その先で海に入っています。この流れは、屋敷のお堀の水や庭園の泉水に使われていました。その前は三田段丘の裾を流れていた自然の川だったと考えられます。流末が太くて直線的なのは、舟入工事で河口部を堀にしたためです。

 

幕府が文化・文政期(18101830)に編纂した地誌『新編武蔵風土記稿』の渋谷川の説明の中に、この入間川に関する記述があります(注10。昔の渋谷川下流の様子を詳しく伝えていますので、参考のため現代文に要約して紹介します(カッコ内は筆者)。「古の渋谷川は三田村(三田2丁目)の辺りにて二つに分かれ、一つは本芝町(芝2丁目)に至り、地元で入間川と呼ばれる川を通って芝橋(「芝4丁目」信号)の裏で海に入っていた。この流れは正保改訂図にはあるが、寛文以降の地図には見えない。今は松平豊後守屋敷(薩摩藩邸)の下水の堀に続いて、僅かに川路二三町(200300メートル)ほどを経て直ぐに海に入っている。それ以外は川跡の伝えも失した。」とあります。

 

『新編武蔵風土記稿』は、先ほどの「右側(下)の水路」についても述べています。「一つは三田村を過ぎて芝赤羽根、芝金杉を経て海に入った。水源から川路はおよそ三里(約12キロ)、幅は同じでなく、広い所は二十間(約36メートル)もあった。古くは全て細流だったが、今の麻布十番の辺りまで堀が広くなり、通船できるようになった」とあります。このように『新編武蔵風土記稿』が記録に残した二つの流れとは、入間川と新堀川(後の渋谷川)のことです。「(江戸全図)」が描いていた「左側(上)の水路」、増上寺の裏手に回った流れについては述べていません。川跡も記憶も消え去ったのでしょう。

 

おわりに-中世の川から近世の川へ

江戸幕府は、寛永12年(1635)に参勤交代制度を始めました。「(江戸全図)」が作られる数年前のことです。「(江戸全図)」は、参勤交代によって江戸市中の武士が増え、多くの屋敷が必要になった時代に作られ、幕府中枢の老中や目付が、武士や寺社の屋敷割りを行うために使いました。渋谷川やその支流の谷は、こうした行政目的に沿って描かれたものです。しかし、江戸初めの渋谷川の姿など考えてもみなかった私たちにとって、「(江戸全図)」はまさに天から突然降ってきた宝物でした。

 

最近、テレビ番組で北海道の原野をくねくねと流れる釧路川のルポを観ました。釧路川の水路が大湿原の中で毎日のように変わる様子を目にして、中世の時代の渋谷川も三田や芝の原野をこのように流れていたのではないかと思いました。「(江戸全図)」が作られた頃の渋谷川は、そうした太古の川の姿をまだ残していたようです。この図に描かれた下流部の水路を見ると、その後の渋谷川からは想像もつかない曲がりくねった形をしています。これが元々の渋谷川なのでしょう。

 

近世に入って河岸に武家屋敷や寺社、町屋などが建ち始めると、渋谷川の下流から田んぼや空き地が消えていきました。「(江戸全図)」が作られた約12年後には玉川上水が完成し、四谷大木戸の余水や三田用水の分水によって上流・中流の田畑が広く灌漑され、やがて精米用の水車も掛けられました。下流の新堀川の開削によって、大量の物資を運ぶ船の輸送路にもなりました。私たちが知っている渋谷川は、この時代からの話しです。「(江戸全図)」は、江戸市中の発展によって変わりつつあった渋谷川の「前夜」の姿を生き生きと伝えています。

 

最後になりますが、「(江戸全図)」の精細画像データを快く貸与して下さった「臼杵市教育委員会」と関係者の方々に厚くお礼申し上げます。

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(注1)HPではこれまで「寛永江戸全図」の名称を用いてきましたが、杵臼市教育委員会から、名称は「(江戸全図)」、クレジットは「杵臼市教育委員会」とのご指示があったため、今回から改めました。

(注2)金行真輔『寛永江戸全図 解説』之潮、2007年、5-28頁。

(注3)「(江戸全図)」の約15年後に作られた「江戸大絵図」(万治 (1658-60) 頃)・高松松平家歴史資料(香川県立ミュージアム保管)では、柳生但馬守下屋敷は内田豊後守に、浅野内匠頭下屋敷は南部山城守に変わり、このまま幕末まで続きました。

(注4)古川橋は「三田」『明治42年陸地測量部・一万分の一東京近傍地形図』で確認できます。

(注5)例えば古川橋の場所ですが、『東京都港区近代沿革図集=芝・三田・芝浦』「弘化3年」の地図で古川橋と功運寺の場所を確かめ、(江戸全図)の功運寺と古道の位置関係から推定しました。

(注6)古版江戸図集成刊行会「長禄年間江戸図」『古版江戸図集成・第一巻』中央公論美術出版、昭和34年、1-10頁。

(注7(江戸全図)」は古道と橋を細かく描いているため、それと「明治時代のおわり」『東京時層地図』や現代地図を相互に照らし合わせて橋と場所を推定しました。

(注8HP『あるく渋谷川』の「古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川」(2121.5.11)。

(注9武村雅之『関東大震災』、鹿島出版会、2005年、119頁(正井泰夫「1460年頃の東京の地形」『筑波大学地球科学系人文地理学研究Ⅵ』、昭和55年から作成)。

(注10間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第1巻、千秋社、昭和57年、26頁。

                                            (終)



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