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あるく渋谷川

Let's Walk along
the Shibuya River
   
plalaからbiglobeに引っ越しました。
 これからもよろしくお願いします。   

黄色いコウホネの花に黄色いモンキチョウが!同じ色なの
で安心なのでしょうか、ゆっくりと蜜を吸っていました。
2024.5.19)



 
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渋谷川の2万年ー渋谷川の歴史を振り返るーNEW! 

かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

 
 2024年
 5月28日 渋谷川の2万年ー渋谷川の歴史を振り返るーNEW!
  
 
       
 
 2023年、バックナンバー15
渋谷のコウホネの話-渋谷区立富谷小学校学校4年生「シブヤ未来科」の授業からー/『江戸名所図会』に描かれた駒場「空川」
 
 2022年、バックナンバー14
駒場「空川」の歴史と文化をあるく(上) 駒場野公園から東大前商店街へ/(中)将軍の御成道から駒場池へ、そして古代人を偲ぶ/(下)偕行社崖下から遠江橋を経て河口部へ
 2021年、バックナンバー13
たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」/「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く() 淀橋台に広がる渋谷川の歴史と現在の姿/(中)渋谷川と三田用水で水車が回る/(下)渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史/古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川「渋谷川中流ツアー報告」番外編
 2020年、バックナンバー12
江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎/「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」() 初台と代々木の水源を探る() 参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ/() 新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる
 2019年、バックナンバー11
渋谷の穏田川と芝川を歩く(上)「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の水源を探る(中)水の町渋谷をイメージする下)キャットストリートに川の流れを追う
 2018年、バックナンバー10
渋谷の新名所/渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定/「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(前編・後編)/夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット/
 2017年、バックナンバー9
新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする/渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)-渋谷川誕生の歴史を探る-同(後編)渋谷川上流の二すじの流れ:天龍寺方面からの流れと玉川上水余水の流れ 
 2016年、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)/三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
 2015年、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine
/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
 2014年、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他
 2013年、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠(前編)西側の流れと根津美術館(後編)東側の流れと地域の歴史/水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/恵比寿たこ公園のコウホネを「せせらぎ」に株分け/「せせらぎ」にコウホネの花第1号!/に渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/「渋谷川ツアーの報告:宮下公園の渋谷川暗渠と金王八幡宮の支流/その他
 2012年、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ・その1とその2/
 2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/中田喜直と「メダカの学校」/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
 2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く/箱根湿生花園のコウホネをたずねて/ビール工場のオブジェ/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

52024年5月28日



1.渋谷川の誕生

渋谷川はいつ頃生まれ、どこを流れていたのでしょうか。地形学の研究を調べると、太古の渋谷川の姿がおぼろげながら見えてきます(注1)。約12万年前に地球の気候が温暖な時期(間氷期)から寒冷の時期(最終氷期)に入ると、陸と海の凍結によって海水の量が減り始めました。その影響で、それまで海に覆われていた今の関東地方(古東京湾)から水が引き、海の底から現在「下末吉面」と呼ばれる陸地が現れました。その時代に、下末吉面の一部である淀橋台(今の新宿区、渋谷区、港区、千代田区など)に降った雨が溜まって池や湧水となり、それが「小さな水系」へと発展したのが渋谷川の始まりと考えられます。おそらく海抜が低い海側(東)に向かって流れていたのでしょう。

渋谷川は小さな川ですが、「自生の川」という特色があります。神田川、目黒川、石神井川などは、当時の武蔵野台地を自在に流れていた古多摩川の川跡に生まれ、その谷すじの中に育ちました。これを学者は「名残川(なごりがわ)」と呼んでいます。古多摩川は、河口が今の場所(川崎)に落ち着くまでに縦横無尽に流れのルートを変えており、武蔵野台地のあちこちに川跡を残しました。しかし淀橋台の土地は海抜が高かったため、古多摩川が流れ込むことがありませんでした。渋谷川は淀橋台で自生し、自ら川すじを刻みながら成長しました。

7万年前から地球がより一層寒冷化すると、海や陸の凍結によって今の関東地方の海岸線が南にどんどん退きました。それに伴って渋谷川も長く伸び、流れも勢いを増しました。約2万年前のヴュルム氷期(最終氷期極相期)になると、海面は今よりも100メートル以上低下し、三浦半島の三崎沖までが陸化しました。東京湾は全て陸になり、その真ん中を巨大な古東京川が流れるようになりました。そして、古多摩川も含めて、関東の川のほとんどが古東京川の支流となりました。


 A 「東京湾の海底地形と沖積層に埋もれた地形」。貝塚爽平『東京の自然史』より。陸化した東京湾の中央を古東京川が流れていた。

Aは貝塚爽平『東京の自然史』に紹介された古東京川の流れのルートです(注2)。古東京川には関東のほとんどの川が注いでいましたから、大量の水が地面を深く削り取りながら流れる巨大な川だったでしょう。支流の川も古東京川の影響を受けて急流になり、川底を深く掘り下げました。渋谷川の基本的な形もこのヴュルム氷期に作られたと考えられます。なお、図Aのタイトルにある「沖積層」とは、ヴュルム氷期の後に起きた縄文海進(海面の上昇)によって運ばれた土砂のことで、その下に古東京川やその支流が刻んだ谷が埋もれています。

20224月のNHK「ブラタモリ」では、品川のお台場の沖に澪筋(みおすじ)という深い溝があり、これが古東京川によって作られたと述べていました。東京湾の中で澪筋だけが深いため、船舶がこのルートを通って湾の奥まで進めるそうです。国土交通省のサイト『東京湾の海底をのぞいてみよう』にも、「現在の中ノ瀬航路と浦賀水道航路は古東京川が削った凹地を利用して作られた」とありました。 

 B 港区北東部の地下にある古川埋没谷、丸の内埋没谷と昭和通り谷。『港区史・自然編』27頁の図に文字を加筆(注3)。

ところで、ヴュルム氷期の時代に渋谷川の下流はどのように流れていたのでしょうか。図Bは当時の渋谷川下流と河口部をクローズアップしたものです(注3)。図の右半分の横線部分は海の浸食で作られた平らな地形で、そこに三つの埋没谷(海や川の運んだ土砂で埋められた谷)が木の枝のような形で残っています。左から「古川埋没谷(古渋谷川からの谷)」、「丸の内埋没谷(古神田川からの谷)」、「昭和通り谷(古石神井川からの谷)」です。渋谷川は、北に突き出した三田段丘を西から東にぐるりと回り、芝埋没台地の脇を通り抜けて古川埋没谷へ流れていました。埋没谷の深さは地下30メートルですから、当時の河口部はかなり急流で、川底も深かった様子が分かります。その後は、古東京川に直接注いでいたのではなく、北から来た二つの谷と合わさって古東京川へ向かっていました。

 

2. 発掘調査で探る古渋谷川の水源

渋谷川の原型ができたヴュルム氷期の時代、その水源地帯はどのような姿だったのでしょうか。2012年に渋谷区郷土博物館・文学館学芸員の粕谷崇先生から、かつて渋谷川の起点であった新宿御苑「上の池」の近くで行われた発掘調査についてお話を伺いました。この場所から、旧石器時代から縄文時代までの遺跡が多数出土しており、古東京川が流れていた旧石器時代頃の遺跡もありました。粕谷先生によると「新宿御苑の北西のへりを発掘したところ、数か所がV字の谷の形になって中に黒い土が溜まり(埋没谷)、その底には水が湧いている所が見つかった」とのこと。また新宿駅近くの地中の谷を調べたところ、地表より1.5mぐらい下に湧水の形跡があったそうです。

この地域で見つかった埋没谷や湧水の跡は、太古の渋谷川を知る貴重な手掛かりです。図書館に行って調べたところ、発掘は新宿駅の東南部で10回以上も行われ、多くの調査報告書が出ていました。その後、都立新宿高校を訪ねて発掘調査が行われたグラウンドを見せていただき、辺りの土地の様子も調べ、20175月に現地ツアーを企画して結果をホームページに紹介しました(注4)。

Cは、この地域を発掘した「調査報告書」の図を参考にして、当時の渋谷川の姿をグーグルマップに描き入れたものです(注5。図の左側にある縦の複線がJRの線路、左上が新宿駅、下が代々木方面です。図の上部を横(東西)に通るのが甲州街道、中ほどを縦(南北)に「く」の字の形で通るのが明治通り、右下の「上の池」がある広いエリアが新宿御苑です。この図のポイントは枠で囲った三つの地域です。これは「推定谷(推定される昔の谷)」で、枠の中の短い太線が実際に発掘された「埋没谷」、その傍にある大きな星印が湧水の跡です。そして、この「推定谷」の中を通って新宿御苑に入る三本の点線が太古の水源地帯の渋谷川です。その脇の旧石器、住居跡などと書いてある場所が、遺物が出土した小高い丘です。

C 黒い枠で囲った三つの地域が「推定谷」。傍の大きな星印が湧水跡。動物も古代人も水の豊かなこの地に引き寄せられた。 


ヴュルム氷期の時代は乾燥した極寒の気候とされていますが、太平洋に面した関東地方には針葉樹と広葉樹が生え、日本海側や大陸と比べると気候はかなり穏やかでした。水の恵みを受けて植物が育ち、そこに動物が集まり、旧石器人や初期の縄文人は動物を追ってこの地に来ました。新宿に何万年にも渡って断続的に人が住んでいたことは、豊かな湧水と川の存在をなしには考えられません。高島屋の土地に獲物を捕まえる「陥(おと)し穴」も発見されています。傍に小動物や小魚が棲む池や沼もあったのでしょう。

C3つの「推定谷」を詳しく見てみましょう。まず北にある「推定谷1」は、新宿ミライナタワーとザラに挟まれた南北に伸びる土地で、江戸時代に盛り土が行なわれるまでは浅い谷が残っていました。幅は約50メートル、長さは約160メートルで、地下約15メートルには湧水の跡があったそうです。小さな水の流れが時間をかけて谷を作ったことが分かります。高島屋の北東部で発掘された谷の凹みはその一端です。報告書によると、関東ローム層が水の影響で粘土化し、その上に水が溜まって湧水が生まれたとありました(注6)。

東側の「推定谷3」は、「推定谷1」と天龍寺脇の「埋没支谷」の流れが合流する土地です。新宿高校グラウンドの辺りから新宿御苑へと繋がる幅約80メートル、長さ約100メートルの大きな谷で、その中に発掘調査を行ったF 区埋没谷(標高32.5m)があります。ここでは川の土砂などが約7メートル積もり(沖積粘土層)、周りの高台から旧石器時代と縄文時代の遺物が多数出てきました。報告書に「地下に川が流れているが如くである」とあり、発掘の際に水が大量に湧き出して調査を中止したそうです(注7)。この谷の流れは、後に『江戸切絵図』の「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」で天龍寺の池からの川として描かれています。また『御府内沿革図書』の内藤宿「當時之形」(嘉永3年)で、玉川上水に架かる石樋の下水が流れ込んだ川でもあります。


 

古渋谷川の水源地帯に残る新宿御苑「上の池」。昭和の半ばまで渋谷川の起点とされていた。

 

「推定谷2」は、高島屋の南側にある幅約50メートル、長さ250メートルの細長い谷です。JRの線路内から新宿御苑の中まで伸びており、発掘中のD区埋没谷で湧水が出ました(標高32.5m、深さ約2.3m)。谷の堆積物は1.6メートル以上ありました。前の「推定谷3」の水路が周りの土地より低いため、川のルートが実感できたのに対し、「推定谷2」は平らで水路があった感じがしません。管理事務所に尋ねたところ、この場所に「母と子の森」を造成したため、地形が変わったとの説明でした。地表は平らですが、地下には今も水が豊かに流れているのでしょう。

 

 

3. 渋谷川の歴史を振り返る

最後に、地理学や発掘調査の結果を踏まえて、ヴュルム氷期から現代までの渋谷川2万年の歴史を振り返ってみます。まず、新宿駅東南にある幾つかの谷から発した川の流れは、新宿御苑の「上の池」近くで一つになり、御苑の土地を抜けて東に向かいました。そして、千駄ヶ谷で北からの流れ(後の玉川上水・余水)と合流して南に曲がり、神宮前2丁目で代々木からの流れ(後の原宿村分水・芝川)とも合流しました。ちょうど旧渋谷川歩道(キャットストリート)の入口付近で、この辺りまでが渋谷川の「上流部」です。川の形は樹枝状で、流れは一部を除いて緩やかです。

原宿橋からキャットストリートに入ると流れは次第に強まり、川は岸辺や川底を削って深くなりました(後の穏田川)。この辺りから渋谷、恵比寿を通って広尾の天現寺橋の先までが「中流部」です。渋谷で宇田川、恵比寿でいもり川、広尾で笄川と合流し、その他にも幾つかの小さな支流(後の三田用水の分水が流れていた谷川など)を併せて蛇行しながら東に流れました。

2万年前のヴュルム氷期には、天現寺橋から先の「下流部」(後の古川)で流れが勢いを増し、三田段丘を大きく回わって田町を越えるとさらに加速しました(古川埋没谷)。そして、古神田川や古石神井川など北からくる流れと合流し、その後古目黒川などの流れも併せ、かなりの大河になって古東京川に向かっていました。渋谷川下流の勢いは中流や上流に波及しますから、渋谷川の谷はこの時代に深く刻まれて基本的な形を整えたのでしょう。

その後縄文海進がピークを迎えた約7000年前になると、下流部の姿が一変しました。天現寺橋の近くまで海が押し寄せ、それまでの川すじは消え去り、川が刻んだ谷は海底の土砂で埋め尽くされました。やがて海が退くと、三田段丘の手前は大きな沼(後の古川沼)になり、その跡は15世紀頃まで残っていたようです。江戸の初めになると、この一帯は平らな低地となり、そこを渋谷川が幾すじかに分かれて流れ(入間川や後の古川の元になった金杉川、増上寺の北に向かう流れなど)、金杉や芝の先で海に注いでいました。

17世紀中頃に玉川上水や三田上水(後の三田用水)、原宿村分水が作られると、渋谷川の多くの支流に上水・用水からの水が落とされ、水嵩が増し、水量も安定しました。江戸の町作りが進むと、麻布十番から金杉までの流れが舟入のために拡張され、お堀のような太い一本の水路になりました(新堀川)。そして、他の細流は埋め立てられるか武家屋敷の堀に姿を変えました。人間が治水をする川に変わったのです。

それから昭和の時代まで、川の形は大きくは変わりませんでした。しかし戦後になると、渋谷近辺の流域の都市化により、人口の急激な増加が起こりました。昭和30年代半ばには、東京オリンピックのために渋谷駅から上流と支流の全てが暗渠となるか埋め立てられ、多くは下水道として利用されるようになりました。平成末には川の起点は渋谷駅の宮益橋から稲荷橋(渋谷ストリーム)に移され、今に至っています。都会を流れる川として、渋谷川が、これからどのような形で私たちの暮らしと関わっていくのかが楽しみです。

(注1)渋谷川の生成と発展については以下の諸論を参考にしました。貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011年、久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論』611988年、松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形』之潮、2013年、遠藤邦彦他「武蔵野台地の新たな地形区分」『第四紀研究』58巻6号、2019年、港区『新修港区史』昭和54年、同『港区史・自然編』、令和2年、柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒沢地理』No.48,2012年他。

(注2貝塚爽平『東京の自然史』、講談社、2011年、258頁。

(注3)図2-港区北東部周辺における低地地下の地形(港区(1979)、松田(2013)。角田(2014)などに基づく。)『港区史 自然編』、港区、令和2年、27頁。

(注4)ツアーの報告は、ホームページ「あるく渋谷川」の2017527日「新宿駅東南地域の発掘調査から渋谷川2万年をイメージする」、2017109日「渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)―渋谷川誕生の歴史を探る』を参照。

(注5)「調査地点周辺の旧地形等高線と旧石器時代・縄文時代の遺構・遺物分布図」『千駄ヶ谷大谷戸遺跡 第3地点』、渋谷区教育委員会、株式会社オークラコーポレイション他、2016年。

(注6)東京都渋谷区・東日本旅客鉄道株式会社他『千駄ヶ谷5丁目遺跡3次調査』2013年。

(注7)「推定谷3」発掘の報告は、前掲『千駄ヶ谷5丁目遺跡3次調査』、東京都埋蔵文化財センター『千駄ヶ谷大谷戸遺跡・内藤町遺跡(環状第5の一号線地区)2009年。 
       

                                            (終)




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