まず空川の谷ですが、M面に刻まれた谷幅は250m、谷底低地の幅は約50m、谷の深さは東大校舎のある北側の崖で約10m、南側は6mです。空川の谷が北側(S面)の崖の方が高いのは、実際に歩いているとすぐに気づきます。この崖は2つの川の合作で、上の方は古多摩川が、下の方は空川が作ったものですが、線引きは難しいです。S面には火山灰や塵が積もっていますから、昔の谷の深さはその分を差し引いて考える必要があるでしょう。なお、この地点より400mぐらい先の支流Ⅲとの合流点に行くと、谷底低地の幅は80~90mに広がります。支流が勢いよく流れ込んで土地が均され、幅が広くなったのでしょう。遠江橋の南から国道246号近くの河口部までは、谷幅が250m、谷底低地の幅が50~70mで、聖徳寺の辺りとあまり変わりません。谷の深さは約15mと深く、実際に歩いていると、周りの崖がどんどん高くなっていくのを感じます(注11)。
次に目黒川の谷間です。この川は前にも述べたように名残川で、古多摩川が残した谷間の「器」の中で生まれ育ったため、目黒川が自分の力だけで作った谷がどれぐらいあるかは、特別の調査をしなければ分からないでしょう。とりあえず図面の形から考えると、谷間の幅は600~800m、谷底低地の幅は200~300mで、崖や谷は全てM面の中にあります。谷の深さは北側が約15m、南側はそれよりもやや低いです。この場所よりも少し下流ですが(g地点)、目黒川の河原のボーリング柱状図を見ると、川底に東京礫層がむき出しになっており、目黒川がそれより上部の地層を全て削り取ったことを示しています。g地点の川底の様子から考えて、昔は今の人工的な川底よりも深かったようです。なお、目黑川の河原はかなり傾きがあり、また北側の斜面が断崖のように切り立っています。目黒川が古多摩川の名残川であったことを考えると、目黒川の流れが淀橋台を鋭く削ったというよりは、さらに前の古多摩川の働きと見た方が適切のようです。
最後に古多摩川の谷幅です。上図のM面の領域は、古多摩川が下末吉面から削り取った部分(後の目黒台)で、東西3.8kmに及びます。谷間と呼ぶよりは広大な扇状地と呼ぶ方がぴったりです。そうした中に、古多摩川が作った広い河岸段丘と共に、川が流れていた深い谷間(谷底低地)があったはずですが、今となっては分りません。横断面図の中であえて見当をつけるとすれば、先ほど目黒川の谷間とした幅600~800mの区間がそうかもしれません。谷間の高低幅は約21mですが、これには目黒川が掘り下げた分も含まれています。古多摩川がこの地を流れた期間は2~3万年でしたが、関東山地の礫をたくさん運び込み、「武蔵野礫層」という自らの印をしっかり残しました。そして、目黒台を作った後に南の久が原に去りました。目黒台というと目黒川が作り上げたイメージがありますが、その土台は古多摩川が築いたものです。目黒川もそして空川も、古多摩川の大きな手のひらの中で育ったと言えるでしょう。これで「上編」は終わりです。「中編」は、空川の流れが交わる将軍の御成道と「お鷹場」の話から始まります。ご期待ください。
<注釈>
(注1)広重「駒場野」『江戸名勝図絵」、国立国会図書館デジタルコレクションより。絵では鷹匠の拳から今にも飛び立とうとしている。鷹の上空には鳥が飛び、直下に空川と思しき小川と農民が描かれている。
(注2) 山本和夫「昭和2年頃の駒場界隈」、目黒区郷土研究会『目黒区郷土研究401-450』407号、4頁、昭和63年12月
(注3)熊沢喜久雄「駒場の水田と米作肥料試験」『肥料科学第10号』1987年、59-91頁
(注4)遠藤邦彦、千葉達朗、杉中祐輔、須貝俊彦、鈴木毅彦、上杉陽、石綿しげ子、中山俊雄、船津太郎、大里重人、鈴木正章、野口真利江、佐藤明夫、近藤玲介、堀伸三郞「武蔵野台地の新たな地形区分」『第四紀研究』、58巻6号、2019年、353-375頁
(注5) 港区『新修港区史』昭和54年、20頁。柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒沢地理』48、2012、77-91頁
(注6)松田磐余『対話で学ぶ江戸・東京・横浜の地形』之潮、2013年、225-228頁
(注7)前掲、遠藤邦彦他「武蔵野台地の新たな地形区分」、367頁
(注8)首都圏地盤解析ネットワーク「3Ⅾで東京東南部の地形を俯瞰してみよう」、2019.8
(注9)首都圏地盤解析ネットワーク「解説:首都東京の地形-武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く」、2020.4
(注10)前掲、遠藤邦彦他「武蔵野台地の新たな地形区分」、356頁
(注11)下図は「空川下流の横断面図-氷川神社から東へ250mの部分-」。この図を「目黑川・空川が流れた古多摩川の谷」の横断面図に「空川下流・目黒川の低地入口」として点線で描き込んだ。

<参考文献・資料>
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目黒区『目黒区史資料編』昭和37年
目黒区『目黒区史』昭和45年
港区『新修港区史』昭和54年
久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形―風成テフラを供給された名残川の谷地形―」『地理学評論』61、1988年
熊澤喜久雄「駒場の水田と米作肥料実験」『肥料科学第10号』1988年
鈴木芳行『近代東京の水車』1992年
小池泰子『駒場の2・26事件』新人物往来社、平成5年
貝塚爽平『富士山はなぜそこにあるのか』丸善株式会社、平成6年
東京大学埋蔵文化財調査室「東京大学駒場構内遺跡・大学院数理学研究科II期棟地点 1998」『東京大学構内遺跡調査研究年報2 1997年度』1999年
東京大学埋蔵文化財調査室「国際学術交流棟地点略報」『東京大学構内遺跡調査研究年報5 2003・2004・2005年度』2006年
松田磐余『江戸・東京地形学散歩 増補改訂版』之潮、2009年
貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011年
柳田誠他「駒澤大学構内にある下末吉面を刻む谷の歴史」『駒沢地理』48、2012
松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形』之潮、2013年
筒井清忠『二・二六事件と青年将校』吉川弘文館、2014年
遠藤邦彦『日本の沖積層』冨山房インターナショナル、2015年
目黒区特別展『目黒の産業ことはじめ』より「目黒の水車一覧」2018年
遠藤邦彦、千葉達朗、杉中祐輔、須貝俊彦、鈴木毅彦、上杉陽、石綿しげ子、中山俊雄、船津太郎、大里重人、鈴木正章、野口真利江、佐藤明夫、近藤玲介、堀伸三郞「武蔵野台地の新たな地形区分」『第四紀研究』58巻6号、2019年
首都圏地盤解析ネットワーク「3Ⅾで東京東南部の地形を俯瞰してみよう」2019年、http://www.npo-gant.com 地盤なう
#地盤
首都圏地盤解析ネットワーク「解説:首都東京の地形-武蔵野台地の区分(最新版)を紐解く」、2020年、http://www.npo-gant.com 地盤なう
#地盤
遠藤邦彦編著『縄文海進』冨山房インターナショナル、2022年
「目黒筋御場絵図」文化2年(1805年)
「将軍家駒場鷹狩図」3枚組の1枚。榊原長俊模写、天明6年(1786)。東京国立博物館所蔵。
「駒場野の狩場絵図」(川井家所蔵)『目黒区史』
「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」、明治13年12月、陸地測量部、日本地図センター復刻版
「世田谷」『東京近傍一万分の一地形図』明治42年測図、大日本帝国陸地測量部、明治42年
「目黒町番地坪数入地図」(帝国在郷軍人会、目黒町)昭和7年
「荏原郡目黒村全図」『東京市15区近傍34町村番地界入』明治44年、東京逓信管理局、人文社版
「渋谷1880」『東京都市地図3東京南部』柏書房、1996年
「東京時層地図」日本地図センター
東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)のボーリング柱状図
東京都下水道局『東京都下水道台帳』
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