2021年・バックナンバー13



 
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かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

 
 2021年
 12月17日 たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」
 7月26日  「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く(上編)ー淀橋台に広がる 渋谷川の歴史と現在の姿
 8月16日  「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く(中編)ー渋谷川と三田用水で水車が回る
 9月27日  「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く(下編)ー渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史 
 5月11日 古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川
 「渋谷川中流ツアー報告」番外編

       
 2023年、バックナンバー15
渋谷のコウホネの話-渋谷区立富谷小学校学校4年生「シブヤ未来科」の授業からー/『江戸名所図会』に描かれた駒場「空川」
 2022年、バックナンバー14
駒場「空川」の歴史と文化をあるく(上) 駒場野公園から東大前商店街へ/(中)将軍の御成道から駒場池へ、そして古代人を偲ぶ/(下)偕行社崖下から遠江橋を経て河口部へ
 2021年、バックナンバー13
たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」/「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く() 淀橋台に広がる渋谷川の歴史と現在の姿/(中)渋谷川と三田用水で水車が回る/(下)渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史/古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川「渋谷川中流ツアー報告」番外編
 2020年、バックナンバー12
江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎/「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」() 初台と代々木の水源を探る() 参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ/() 新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる
 2019年、バックナンバー11
渋谷の穏田川と芝川を歩く(上)「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の水源を探る(中)水の町渋谷をイメージする下)キャットストリートに川の流れを追う
 2018年、バックナンバー10
渋谷の新名所/渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定/「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(前編・後編)/夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット/渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(後編)
 2017年、バックナンバー9
渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)/新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする
 2016年、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)/三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
 2015年、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine
/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
 2014年、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他
 2013年、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠(前編)西側の流れと根津美術館(後編)東側の流れと地域の歴史/水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/恵比寿たこ公園のコウホネを「せせらぎ」に株分け/「せせらぎ」にコウホネの花第1号!/に渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/「渋谷川ツアーの報告:宮下公園の渋谷川暗渠と金王八幡宮の支流/その他
 2012年、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ・その1とその2/
 2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/中田喜直と「メダカの学校」/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
 2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く/箱根湿生花園のコウホネをたずねて/ビール工場のオブジェ/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他
 

東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)より作成した「南平台の川」の近傍のボーリング柱状図。高台のa, bでローム層が粘土化しており、こ滞留していたり、川が流れていたことを推測させる。 東京都建設局「東京の地

12月17日ravel t


恵比寿たこ公園(正式名は恵比寿東公園)のコウホネの池は、2021年に10年目を迎えました。その誕生は201177日で、かつて渋谷川上流の河骨川に自生していたコウホネの子や孫が植わっています。池の形は2m×1.6mぐらいと小さいですが、毎年100輪以上の可憐な黄色い花を咲かせて、公園を訪れる多くの方に愛されてきました。近くの小学校の生徒さんが社会科の学習で見に来られたこともあります。

ところで最近はコウホネの花の数が減ってきて、昨年は45輪ぐらいになりました。その理由は、コウホネが植えてある池の底の鉢が根っこでいっぱいになり、土が無くなってしまったからでしょう。根っこの生命力はとても強くて、鉢の外に飛び出して池の底に溜まったゴミやヘドロの中に根を張りましたが、ここも栄養不足になったようです。毎年花の咲く前には肥料をあげていましたが、このままでは花がさらに減りそうなので、10年目を記念して「底浚い」をすることにしました。

作業のステップですが、まず池の水を外に汲み出して鉢を取り出し、また池にいるメダカをバケツに移します。次に鉢の中のコウホネの根っこを切り分けて、空いた所に新しい土を入れます。池の底に溜まったヘドロも取り除いて、代わりに土を入れます。最後にコウホネとメダカを元に戻し、再び池に水を入れて完成です。池の新しい土には田んぼに使う荒木田土を用意しました。ふつうの土と違って水面に浮かんでこないため、コウホネを育てるのにぴったりなのです。さあ、いよいよスタートです。


   
 <「底浚い」が終わった後の記念写真です/We cleaned out the bottom of our pond and put new soil. This is 7 members after renovation of the Kohone Pond at Tako Park in Ebisu. >  

今回は「たこ公園コウホネの会」の仲間が7人集まって作業をしました。メンバーは40代から80代まで皆さんとてもお元気です。一般に清流や湧水池に育つコウホネはデリケートな植物なので、生物学の鈴木利博先生に来ていただいてご指導をお願いしました。先生には池を作った時からずっとお世話になっており、改めて感謝申し上げます。また「底浚い」に使う大きなシャベルや土を運ぶ台車は、渋谷区新橋出張所にお借りしました。所長の鮎川様はたこ公園のコウホネの池をいつも見ておられたそうで、ご協力をありがとうございました。


   
<泳いでいるメダカを捕ってバケツに入れる/We caught Medaka fish very quickly. Please stay in buckets for a while!>


12月5日の朝8時半、定刻より早く集まった人たちと池の表面に取り付けた鉄の格子を外し、泳いでいるメダカを捕り始めました。捕れたメダカはバケツの中に入れておきます。30匹ぐらいでしょうか。まだ何匹もいたのですが、気温が低いため池の底に潜り込んでしまい、残りは水を汲み出してからにしました。池には誰かが放したクチボソや平ブナもいました。メダカの卵や稚魚を食べてしまう困りものなので、この際しっかり捕まえました(幸い貰って下さる方がいます)。コウホネの茎を食べる赤いザリガニを見かけて駆除したことがありましたが、今回は見つかりませんでした。



 

<大きなシャベルでコチコチのヘドロを剥がす/We took off the hard and heavy sludge with a big shovel.>


 朝9時、お天気は快晴です。皆さんが揃ったところで作業開始。先ず池の水を汲み出して、底に溜まっているヘドロの掃除をしました。ヘドロといっても粘土のようなものではなく、灰色のコチコチの塊です。池の底や側面に分厚く張り付いているため、大きなシャベルを使って剥がしました。かなりの力仕事です。コウホネの株がヘドロの中に根を張って大きな塊になっているため、それらを切り分ける作業も大変でした。この硬いヘドロの中によく根が張れるものです。ヘドロとその他のゴミの量は20Lの袋で10個にもなりました。これだけあると私たちでは手に負えないので、渋谷区の公園課にお願いして清掃の方々に廃棄していただきました。ありがとうございます。

   

<10年間かけてできたヘドロとコウホネの大きな塊/Big mass of the sludge with Kohone roots made up in 10 years. Kohone means a kind of water lily plant.>

  <コウホネの株を切り分ける鈴木先生/Suzuki sensei takes out the Kohone from the big mass.>

写真は大きな塊から切り離したコウホネの株です。根っこは鉢の周りや底の丸石に絡み付いており、切り離すのが大変でした。10年前に鍋島松濤公園の池からコウホネの株を運んでもらった時のこと、木枠の中で育っていたコウホネがサッカーのボールぐらいの石を幾つも抱いていました。作業に当たった人が「こんな仕事は二度とやらないよ」とボヤいていたのを思い出します。コウホネは川の流れに負けずに成長するだけあって、根のグリップ力がすごいのですね。こうした作業といっしょに池の底に潜んでいたメダカも捕りました。メダカも私たちも泥だらけです。



・・・・・・<ヘドロの中に伸びたコウホネの長い根っこ/What long Kohone's roots they are, in the sludge!>


<プランターに根が生えている?/Does this planter have long roots? It wouldn't move.>



長四角の大きなプランターを池から取り出そうとしましたが、下部にコウホネの根やヘドロが絡み付いているようで動きません。若い方が二人で持ち上げようとしたのですが、どうしても取り出せません。プランターの土の表面もカチカチに固まっていました。無理に取り出すのは止めて、周りに土を入れることにしました。写真の左下の水溜まりは池の底が浅い所で、鉢を置くことができません。この場所のコウホネは硬い根が水の上まで盛り上がってしまい、最近はあまり花が咲きませんでした。ここのコウホネの根を全て剥がし、新しい土を敷き、切り分けたコウホネの株を戻しました。完璧です。

     

<若いパワーはさすがです!/What an amasing power!
She moved 5 heavy soil bags by herself.>

物置にある荒木田土の袋はずっしり重くて、私などにはとうてい動かせません。そこで若いパワーにお願いして、新橋出張所からお借りした台車に積みこんで池まで運んでもらいました。16リットルの荒木田土を5パック用意しましたが、初めは多すぎたかなと思っていたのですが、全て使ってしまい、少し足りないぐらいでした。この土の量は池を作った10年前とだいたい同じです。つまり、最近の池の中はコウホネの根っことヘドロばかりで、土はほとんど無かったようです。

 <4つの鉢に新しい荒木田土を入れた/4 pots with new fertile soil used in the rice field.>

11時過ぎ、鉢の中の根とヘドロを取り出し、新しい荒木田土を入れた鉢を池に戻しました。ここに切り分けたコウホネの株を植えれば完成です。これらの鉢の周りにはコウホネの根が絡み付いていて、その根が太くて硬いため、先に刃が付いた鑿(ノミ)のようなスコップで切り取りました。



     

<短くカットしたコウホネの根/Kohone roots were trimmed short. Mark in the photo shows thick roots.>



短くカットしたコウホネを、新しい土の入った鉢に数株ずつ植え込みました。株は乾かないよう水で濡らしました。右の写真の赤い丸の中は何本かの太い根茎で、その右の鉢の中に置いてあるのが切り分けられたコウホネの株です。これなら無駄な根がないので、鉢の中もスッキリするでしょう。なお、この太くて白い根が動物の骨に見えたことから「河骨(コウホネ)」という名が付いたそうです。

 
 ヘドロの鉢(左)と新しい土の鉢(右)/Before and after. left:pot with sludge, right :pot with new soil.

上の左は池から取り出したばかりの鉢で、写真では柔らかい土のように見えますが、実は全体がコチコチに固まったヘドロで、その上にコウホネの太い根茎(赤い丸)が盛上がっています。以前はもっと生き生きとして薄緑でした。右は根茎やヘドロを取り出して荒木田土を入れた鉢で、短くカットした根を付けた水中葉が新しい土の上に置いてあります。


     

<池の底にも荒木田土を入れて/We poured new soil into the pots and bottum of the pond.>


荒木田土を入れた4つの鉢を池の中に置いて、そこに切り分けたコウホネの株を植え込みました。池の底にも泥をまんべんなく敷きました。あとは池に水を流し込んでいっぱいになれば完成です! 

   

<メダカの放流式/Returning ceremony of captured Medaka fish.>


1230分。最後に水を入れた池にメダカを戻す“放流式”をしました。まだ泥水ですが、池に入ったメダカは大丈夫でしょうか。私の経験ではメダカは泥水が大好きで、むしろ濁った所に皆で寄ってきます。新しい土は栄養やバクテリアがたっぷりあるからでしょう。これで作業は全て終わり。皆様、朝早くからありがとうございました。   


     

<静寂に戻ったコウホネの池/Everything was finished and the pond became quiet.>


「底浚い」は終わり、作業で賑やかな池に静寂が戻りました。来年の春にコウホネの黄色い花がたくさん咲いて、メダカの子が元気に生まれるといいですね。ご都合の良い方が公園に残って、陽だまりでコンビニのお弁当を食べました。公園は人が少なく風の流れも良くて、コロナからも安全です。私にとっては本当に久しぶりの楽しい “外食”でした。        

<終りに>

今から10年前、私たちは「たこ公園コウホネの会」を立ち上げ、恵比寿たこ公園(正式名称:恵比寿東公園)に池を作ることを計画しました。幸い豊恵町会会長の高根沢様のご賛同を得て当時の桑原渋谷区長に話を繋げていただき、20117月に池を作るまでになりました。(その経緯は2011年の記事でご覧下さい。恵比寿「たこ公園」にコウホネの池が完成)コウホネはきれいな流れの中で育つ植物ですので、水道水を溜めた人工の池で育つものか心配でしたが、毎年春になると元気に花を咲かせ、その数はどんどん増えていきました。このコウホネですが、渋谷の歴史と深く関わる植物で、昭和36年に暗渠となった渋谷川上流の河骨川に自生していたコウホネの子孫です。その株が鍋島松濤公園に残されていたため、特別に分けていただくことになりました。そして鈴木利博先生のご指導の下で、当時のメンバーの方々と池に株を植え込んだのが始まりです。なお池のメダカですが、これも渋谷区ふれあい植物センターからいただいた黒メダカです(最近はどういう訳か赤メダカも泳いでいて子どもたちに人気ですが)。色々なことが懐かしく思い出されます。当時の関係者の方々にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。

最後になりますが、渋谷区の公園課の方々には、池の環境整備や看板、鉄格子の設置などで長きにわたりお世話になり、ありがとうございます。また今回は渋谷区の新橋出張所・鮎川所長と渋谷区緑と水・公園課菱沼様にもご支援をいただきました。心からお礼申し上げます。これからまた10年、池の四季を楽しみながら、皆さんと共にコウホネ池の世話をしていきます。よろしくお願い致します。(終)

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7月24日


<はじめに>

今回の渋谷川「中流」ツアーは、渋谷駅南口の稲荷橋からスタートし、ほぼ明治通りに沿って並木橋、渋谷橋を通り、広尾の天現寺橋まで約2キロの道を歩きます。本ツアーでは、これまで渋谷川「上流」の散歩を何回か行いましたが、これらの流れはいずれも暗渠でした。しかし渋谷川「中流」は今も地上を流れており、天現寺橋の後は古川橋、一の橋(麻布十番)、赤羽橋などを通って東京湾に注いでいます。渋谷川の起点の稲荷橋は、以前は渋谷駅南口の片隅にある小さな橋で、渋谷川もビルの裏手を流れる目立たない川でした。しかし2018年に渋谷駅南口の再開発によって複合施設・渋谷ストリームが生まれ、稲荷橋も渋谷川の景色も一変しました。新しい稲荷橋広場が今回の出発点です。

ツアーに当たり、明治から現代までの地図と共に、江戸の初めに作られた「寛永江戸全図」を用いました。その理由は、「寛永江戸全図」には武家屋敷や町並み、田畑、道などと共に、川や谷、高台などの地形が詳しく描かれているからです。それによると、当時の渋谷川には、左岸の青山台地から3本、右岸の西渋谷台地や白金台地から7本の支流が流れ込んでいました。そして右岸の5本は、後の時代に開かれた三田用水の分水ルートとほぼ一致していました。つまり三田用水は、自然の川筋を巧みに利用して岸辺の田んぼを潤していたのです。今回のツアーでは、「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の支流と三田用水の分水ルートを照らし合わせながら歩きました。以下はツアーの報告です。

目次

はじめに

(上編)

1.稲荷橋から並木橋へ

11 渋谷リバーストリートを歩く

12 淀橋台に広がる渋谷川の流れ

13 金王八幡の川と渋谷城

14 下末吉面(S面)と渋谷川の生成

(中編/仮題)

2.並木橋から渋谷橋へ

21 並木橋と鉢山口の流れ()

22 比丘橋と猿楽口の流れ()

23 庚申橋と庚申水車

24 渋谷橋と道城口(火薬庫口)の流れ(Ⅳ)

(下編/仮題)

3.いもり川、笄川、そして天現寺橋まで

  3.1恵比寿橋からいもり川の川跡へ

32 いもり川と東に広がる段丘面

33 笄川と青山台地

34 天現寺橋と広尾ヶ原-縄文海進と豊沢貝塚

おわりに

<散歩のルート> 

【上】渋谷駅南口・稲荷橋広場(1300集合)―稲荷橋広場①(渋谷ストリーム、南平台の川Ⅰ)―八幡橋―徒歩橋(金王八幡の川A)―並木橋②(鎌倉道)―【中】渋谷ブリッジ—氷川橋(鉢山口の流れ)-上智橋(田子免池)-比丘橋(猿楽口の流れ)―庚申橋(庚申塔と庚申橋水車)―渋谷橋③(旧渋谷広尾町)―恵比寿東公園(道城口・火薬庫口の流れ)―【下】恵比寿橋-いもり川B(どんどん橋)-山下橋(広尾水車)―回生橋(広尾ヶ原、豊沢貝塚)―天現寺橋④(笄川C・縄文海進)(1640解散)


<中流の全体図・稲荷橋から天現寺橋>

上の図は、淀橋台の渋谷川本流・支流と三田用水の本線(水色)。緑の六角形は縄文遺跡。現在の渋谷川は、上流の穏田川と宇田川、その他の支流が全て暗渠化され、開渠は稲荷橋から東京湾までである。支流の正式名は、いもり川と笄川を除いて特にないため、本稿では筆者が仮に名付けた。名前の末尾に「川」とあるのが自然の川、「流れ」とあるのが三田用水の分水である。名前を上流から順に挙げると、左岸(東側)は、金王八幡の川A、いもり川B、笄川C、本村の川D。右岸(南側)は、南平台の川Ⅰ、鉢山口の流れⅡ、猿楽口の流れⅢ、道城口(火薬庫口)の流れⅣ、自然教育園の川・白金上水・銭噛窪口の流れⅤ、医科学研究所の川Ⅵ、玉名川・久留島上口の流れⅦである。地図は「国土地理院電子地形図25000(2016)」、流路は『東京市近傍部町村番地界入-明治44年』東京逓信管理局、人文社版等より

1.    稲荷橋から並木橋へ

11 渋谷リバーストリートを歩く


 

[図A]稲荷橋から並木橋までの川筋。渋谷駅の周りは穏田川と宇田川が合流する低地で、川の浸食で谷が刻まれている。渋谷川の東側には青山台地、西側には西渋谷台地があり、両側の高台に挟まれる形で、川に沿って低地が南に伸びている。渋谷川に架かる橋は、上流から稲荷橋、金王橋、八幡橋、徒歩橋、並木橋・新並木橋である。稲荷橋の手前の右岸には「南平台の川Ⅰ」があったと推定される。徒歩橋の手前の左岸には「金王八幡の川A」が合流していた。並木橋から氷川橋にかけての低地には、「鉢山口の流れⅡ
」の水路が幾つか流れ込んでいた。地図はカシミール国土地理院。
 

<新しい水辺空間の誕生>

20201219日午後1時、渋谷駅南口・渋谷ストリーム前の稲荷橋広場に参加者が集まりました。当日は曇り空で冷たい北風が吹いていましたが、皆さんとても元気で、先ずは揃って記念写真です。撮影が終わると、さっそく資料や地図を持ち出してツアーの説明に入りました。

この稲荷橋広場は、2018年に渋谷駅南口の再開発によって生まれた水辺空間で、その中心には渋谷川の水が流れ出る壁泉(岸壁の滝)があります。今の渋谷川はこの壁泉が主な水源ですが、昔は200mほど北にある宮益橋の辺りで穏田川と宇田川が合流し、一筋の太い川となって東京湾に向かって流れていました。1960年代に穏田川と宇田川が暗渠化されて下水道幹線になると、渋谷川は雨水以外に水源がなくなりました。このため落合水再生センターから再生水(高度処理した下水)を導いて川に放流するようになりました。渋谷ストリームの壁泉から湧き出している水は、この再生水です。

   
皆で記念写真。もちろん皆さんマスクをしています。

稲荷橋広場から川下を眺める。

 

ところで、今の渋谷駅の辺りは明治の初めまではのどかな農村で、三田用水・神山口分水の支流を引いて辺りの田畑を潤していました(注1。渋谷の周りの高台や斜面には茶畑もありました。今のJR渋谷駅の東側には、寛永5年(1793)に営業を始めた「宮益水車(三井の水車)」があり、米搗きや精米を手掛けていました。水の流れに勢いをつけるため、渋谷川から専用の水路を導いて堰を設け、水を貯めながら水車を回していました。明治8年に渋谷最初の小学校が水車の向かい側(今の明治通り近く)に作られますが、学校の維持費は水車の利益金で賄われていたそうです。水車の脇には地元の鎮守の田中稲荷があり、それが稲荷橋の名の由来になっています。時は一気に百数十年流れて、2013年に東横線が地下化されたのを機会に渋谷南口の再開発が進み、渋谷川は新たに建設されたスクランブルスクエアの下を通って稲荷橋から地上に現れるようになりました。渋谷駅前と言えば、私たちの世代は東横百貨店や東急文化会館などを思い出しますが、今の若者にとっては早くも昔話です。


 

渋谷川の起点は歴史的に3回変わっている。かつて渋谷川には穏田川と宇田川の二つの上流があり、渋谷駅前の宮益橋で合流して本流になっていた。その頃の渋谷川の起点は新宿御苑の「上の池」とされていた。1960年代に上流が全て暗渠化されて下水道幹線になると、起点は「宮益橋」に移った。その後、平成242012)年まで渋谷川は駅前の東横百貨店「東横のれん街」の地下を流れ、稲荷橋で地上に出ていた。渋谷駅南口の再開発が始まると、平成278月に地下の水路が東の明治通り沿いに付け替えられ、この部分も下水道となり、新たにスクランブルスクエアが建設されるとその地下に入った。それと共に、渋谷川の起点は「稲荷橋」に移った。

<川の流れが硬い地盤を作った>

ここで素朴な疑問が湧きます。渋谷駅前の再開発によって高層ビルが次々と建っていますが、二つの川が合流していた地盤の悪そうな土地に大きな建物を次々と作って大丈夫なのでしょうか。2万年以上も前の話になりますが、実はこの辺りは渋谷川の激しい流れによって軟らかい地層が全て流されてしまい、地表のすぐ下は硬い礫層(石ころの層)や100万年以上前の土丹盤(シルト岩や泥岩)が現れているのです。この土地の地盤について東急の工事担当の方に伺ったところ、地下4階まであるヒカリエも、地下7階まであるスクランブルスクエアも、N値50(最高レベルの硬度)を越える硬い土丹層の中に埋まった状態で建っているとのことでした。冗談で土丹層をスコップで掘ろうとしたら、全く歯が立たなかったそうです。「14 下末吉面(S面)と渋谷川の生成」で渋谷駅南のボーリング柱状図を紹介していますので、詳しくはそちらをご覧下さい。

稲荷橋広場では、渋谷駅周辺の歴史や土地の話の他に、少し時間をとって渋谷川に関するユニークな情報を3つほど皆さんに説明しました。一つは地形的にみた渋谷川の全体像、もう一つは江戸初期の『寛永江戸全図』に描かれた渋谷川と支流の姿、そして今の南平台・桜丘を流れていた「南平台の川」についてです。少し専門的な話も含みますが、今回の珍しい知見もありますので、以下にご紹介します。  


1.2淀橋台に広がる渋谷川の流れ 


<地形的にみた渋谷川の全体像>
「国土地理院基盤地図」の淀橋台の部分。この地形図は、航空レーザー測量によって5mメッシュで土地の高度を測定した標高モデル。そこに渋谷川と支流、玉川上水、三田上水、目黒川などを書き入れた。川のルートは時代によって違うため、渋谷川上流が地表を流れていた明治後期の姿を基本としたが、その他の時代の川筋も重要なものは加えてある。いわば「渋谷川の地籍図」である。

初めの話は、淀橋台を流れる渋谷川の全体的な姿です。上の図は、「国土地理院基盤地図」に渋谷川の本流と支流、そして玉川上水、三田用水などを書き入れたものです。土地が高地と谷間で色分けされているため、川と地形との関係がはっきりと分かります。渋谷川は上流では淀橋台の高地を樹枝状の形で流れ落ち、中流になると台地に挟まれた平地を支流を集めながら直線的に流れ、下流では大きくクランクの形に蛇行して東京湾に注いでいます。歴史的には、左岸(東側)の青山台地から3つ、右岸(西側)の西渋谷台地や白金台地から7つの支流が注いでいました。図の左上の水色の線は玉川上水で、こちらは低地に全く入らず、高地の尾根を通って四谷大木戸に向かっています。玉川上水から右下に伸びている水色の線が三田用水で、これも台地の尾根を伝わって芝・三田や北品川の方に向かいます。自然の川が低地を流れ、人工の用水が高台の尾根を流れている姿がはっきり分かります



 

「武蔵野台地南東部の谷の縦断形による分類」の部分図。川は上流部(緩やかな流れ)、中流部(最終氷期の下刻による急勾配の区間)、下流部(中流部を埋没した沖積層の部分)に分かれる。図中で黒丸を打った谷の区間が中流部を示す。(久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地学評論』611988より。)

さて今回歩く渋谷川の中流ですが、地形的にどこからどこまでを中流部というのでしょうか。地理学の久保純子先生は、学会誌『地学評論』に武蔵野台地南東部の谷の「地形図」を掲載しています(注2。その渋谷川部分が上の図で、ちょっと奇妙な絵ですが、川が開析した(地面を削って作った)谷の形だけを描くとこうなります。真ん中のサンゴのような形の谷が渋谷川で、黒点を打った区間が中流部です。大ざっぱに地名を当てはめると、先ず黒点がない上流部ですが、谷頭が大きく二つに分かれており、右は新宿御苑や代々木から原宿まで、左は西原や初台から渋谷駅までです。中流部は原宿から広尾(天現寺橋)の辺りまで。下流部はその後一の橋(麻布十番)を通って東京湾までです。谷は複雑に枝分かれしており、学者はこの形を「鹿の角状」とか「樹枝状」と呼んでいます。今回のツアーは渋谷から天現寺橋までなので、久保先生の考える中流部とだいたい同じです。先生は中流部を「最終氷期の後期の海水準低下期に谷が下刻を行った結果としての急勾配区間」と述べています。難しい説明ですが、川の成り立ちを考える上でとても重要なことなので、「14淀橋台と渋谷川の生成」で分かりやすく説明します。


 <「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川とその支流>


大分県指定有形文化財「寛永江戸全図」(1642-1643)の渋谷川中流と支流部分。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。右側が下流。玉川上水が開かれる前の渋谷川の姿を示す貴重な史料である。「寛永江戸全図」の谷戸(谷間)は支流の谷筋を示しており、位置や方向に歪みはあるが、前の「国土地理院基盤地図」にある渋谷川支流や三田用水の分水ほぼ対応している。

次に、「寛永江戸全図」についてです。以前に渋谷川上流の芝川・穏田川ツアーを行った際渋谷の穏田川と芝川を歩く(上) 2019.6.12)、江戸の初めに作られた「寛永江戸全図」(以下『全図』)を用いましたが、今回も『全図』を携えました。この古い地図を参考にする理由は、『全図』にある渋谷川とその支流が、現代地図のどこに当たるのかを確かめるためです。『全図』には渋谷川とその支流(谷戸)が描かれていますが、先の「国土地理院基盤地図」にあった玉川上水や三田用水は見当たりません。これは当然の話で、『全図』が寛永19年(1642)頃に描かれたのに対し、玉川上水は承応2年(1653)、三田用水は享保9年(1724)に作られたからです。つまり『全図』の渋谷川は、玉川上水や三田用水ができて大量の水が川に流し込まれる前の姿です。

ここでちょっとした発見です。渋谷川は江戸の町外れにあったため、稲荷橋から天現寺橋の先まで『全図』のいちばん端(下)にあります。今回のツアーのレジメを作っていた時ですが、この渋谷川南岸に幾つかの谷戸が横に並んでいることに気付きました。念のため谷戸の数と場所を確かめると、稲荷橋から古川橋までの間に7つの谷戸があり、そのうちの5つが、『全図』よりも80年後に作られた三田用水の分水ルートとほぼ一致していました。これは三田用水の分水が渋谷川の支流に流し込まれたことを意味しています。三田用水の分水は人工の流れではなく、自然の川と人工の流れとのハイブリッドだったのです。このことは以前から薄々予想していましたが、『全図』に谷戸が描かれていたことでそれが裏付けられました。なお巻末に「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の全体像を紹介しましたので、是非ご覧下さい。


<南平台・桜丘を流れた「南平台の川」>

最後は少しミステリアスな話です。『全図』の谷戸について一つ疑問がありました。考えたこともない場所に谷戸が描かれていたことです。場所はツアーの出発点である稲荷橋の近くで、『全図』の左下の赤い丸を付けた所です。ここは渋谷駅南口よりやや西側の斜面なのですが、現在の土地を歩いても、明治初めの地図を見ても、それらしきものはありません。しかし色々と調べた結果、昔はこの土地に谷戸があって、その中を川が流れていたらしいと考えるようになり、仮に「南平台の川(Ⅰ)」と名付けました。


       

「寛永江戸全図」(1642-1643)の渋谷川・相模道(道玄坂)周辺部分。杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。

   「正保江戸図」『東京市史稿 市街編付図第1』 渋谷川・道玄坂周辺部分。オリジナルを写したもの。   「江戸大絵図」(万治 (1658-60) 頃)左図と同様の部分。「高松松平家歴史資料(香川県立ミュージアム保管)」。無断転載禁。
  

谷戸の有無を確かめる上で参考になったのは、それが『全図』だけではなく、同時代の『正保江戸図』や約15年後に作られた高松・松平家歴史資料の「江戸大絵図」に描かれていたことです。これらの地図は行政目的で作られたものですし、場所はよく知られた相模道(現在の道玄坂)や古道の近くですから、創作はできないでしょう。谷戸の出口を通る古道と同じ道が明治初めの地図にもあったため、それを現代地図に反映させることで谷戸の場所を絞りこみました。古地図の他にも手がかりがありました。それは、南平台や桜丘から渋谷川までの地層ボーリングデータを見たところ、水源や川の可能性が出てきたことです。

ここでは結論だけ述べますと、南平台の高地を水源とする川は、今の国道246号に沿う形で東に流れ、セルリアンタワーの辺りで谷戸を抜け、緩やかな斜面を下って渋谷川に注いでいたようです。おそらく川の流れない季節があるため、高い所の土を削って谷を埋めたのでしょう。詳しくは本HP「トピックス」のツアー報告渋谷川中流ツアー報告」番外編2021.5.11)をご覧ください。この説明をしていた時、「谷戸とは何ですか」という質問が出ました。 谷戸は山の谷間のことです。谷戸は川が土地を削って作り出したものですから、ふつうは中に小川が流れ、河岸は田んぼなどに使われています。「全図」や「江戸大絵図」に描かれた谷戸にも田んぼの印がありました。さて、以上が、ツアーの出発前に皆さんにお話ししたことです。ウオーミングアップはこれぐらいで、天現寺橋に向かって出発です!

 13金王八幡の川と渋谷城

<渋谷リバーストリートの風景>

私たちは稲荷橋広場での説明を終えて、渋谷リバーストリート(渋谷川遊歩道)を南に歩き始めました。この道は、20133月に東急東横線が地下に入り、地上にあった鉄道用地を渋谷川沿い600mの遊歩道に改修したものです。高架線や線路は取り払われ、鉄道の跡は消えて素敵な遊歩道になりました。昼間はきれいに整備された細長い広場という感じですが、夜になると川の岸辺がネオンに飾られて、お洒落な遊歩道に変わります。壁泉の水がレースのカーテンのように川の壁面を流れ落ち、それがネオンを映してキラキラ輝きます。

 
 川の岸壁の上から一面に水が流れ落ちる。  

渋谷リバーストリートを歩く私たち。

稲荷橋から約130m歩くと金王橋があり、「壁泉の風景」はここまで続いていました。金王橋の名前は、渋谷川の東の高台にある金王八幡宮にちなんでいます。この神社は中世渋谷氏の祖・河崎基家が1092年に創建したと伝えられ、渋谷の歴史の言わばシンボルです。金王橋の手前には、明治の中頃に「深川水車」がありました。米搗き水車で雇人男7人、稼働数が5400石といいますから、やや大きめでしょうか。今はその跡はありません。江戸から明治初めにかけては、この川に沿って細長い田んぼが長く南に伸びていました。田んぼの中を川が流れていて、そこに水車が架かっているなんて、絵に描いたような田園風景だったのでしょう。


   

八幡橋にある鉄道レールのモニュメント

   八幡橋の河岸にはアートと花が。
  

八幡橋まで来ると、河岸に花やアートが飾られていました。川の周りに住む人々が、ここを歩く人々を楽しませてくれているのでしょう。遊歩道には、この場所を通っていた東横線の線路の一部がモニュメントとして埋め込まれていました。東横線の沿線に長く住んでいた私には、この無粋な鉄の線路が妙に懐かしく感じられました。遊歩道には他にも東横線のモニュメントが幾つかあります。


 
 ロープ奥の高台に金王八幡宮の鳥居。手前は明治通り。    徒歩橋から渋谷ストリームを振り返る。

私たちは八幡橋を左に曲がっていったん明治通りに出て、小高い丘に立つ金王八幡宮の鳥居を確かめ、また川に戻りました。以前に、この辺りで何羽かのセキレイが川面に降りて遊んでいるのを見たことがあります。壁泉の近くは再生水がまだきれいですから、鳥たちも心地よいのでしょう。夏にここを訪れた時のこと、保健所の方が川底を掃除していたので「何かいるのですか」と声をかけたら、「ユスリカを駆除しているんだ。川にユスリカがたくさん発生するんで。人間を刺さないから害はないけれどね」とのご返事。コンクリートに囲まれた川にも自然は生まれるのですね。



   

寒さに負けないカルガモの群れ。別宮様写真を加工。

   東横線並木橋駅の記念として作られたプラットホーム。別宮様撮影。
  

徒歩橋を過ぎると川沿いに緑色の草が出てきました。「何かいる」「あっ鳥だ。何の鳥だろう?」と皆さんが立ち止まって眺めています。見たら丸々としたカルガモです。岸壁にたくさん並んで、この寒空に気分良さそうにくつろいでいました。「可愛いね」と、しばらく時を忘れて皆で眺めていました。また歩き出すと、遊歩道に何か長い台のようなものがセットされていました。東横線の「並木橋」という駅の小さなプラットホームで、戦前まで渋谷駅と代官山駅の間にあり、戦災で焼失したそうです。この駅を実際に乗り降りした方は懐かしいでことでしょう。


<金王八幡の川の証言>


 
 「寛永江戸全図」に描かれた「金王八幡の川A」の谷戸。    淺妻様の証言を元に描いた「金王八幡の川A」。

「寛永江戸全図」を見ると、稲荷橋と並木橋の間にやや弧を描いた縦に伸びる谷戸が描かれています。渋谷川の左岸の最初にある谷戸で、「金王八幡の川A」です。谷戸の場所を今の地名に当てはめると、谷頭が青山通りの手前にある青山学院の西門辺りでしょうか。谷戸の先が猫の足のように丸いのは、水源が丸い形で窪んでいたからでしょう。川はそこから東福寺、金王八幡宮の前を通り、徒歩橋の東側で谷戸を出て渋谷川に合流していました。この谷戸の中には田んぼのマークがありませんが、これは渋谷川支流としては例外です。理由は分かりませんが、田んぼが小さかったので記録しなかったのかもしれません。明治初めの地図にこの谷戸はありませんが、川を描いた地図は残っていますし、この川に架かっていた橋の一部が神社の境内にあります。

「金王八幡の川A」については、以前に地元の町内会長・淺妻様からお話をうかがいました。それによると川は約70年前まで流れていたそうです。「青山劇場近く(青山通りにある国連大学の辺り…筆者、以下同じ)に湿地があり、黒鍬の谷(青山学院西側の低地)には細い川があった。川は八幡通りの西側の脇から金王八幡宮の前を通って(渋谷川の)徒歩橋へと流れていた」と語っていました。この辺りには湧水池に関する歴史的な伝承がたくさん残っています。この川が昭和25年の区画整理で暗渠になった時、自噴の井戸(地下から水が噴き出す井戸)ができて一日中水が流れていたそうです。流れの傍に湿地帯が生まれたこともあるなど、この土地の湧水はまだまだ健在なようです。


<渋谷城と湧水池の伝説>

   

金王八幡宮にある渋谷城の模型。製作は國學院大學。渋谷城は渋谷川の北東の高台に位置していた。渋谷川の本流と青山方面から流れてくる「金王八幡の川」を堀のように用いた天然の要塞で、鎌倉から室町時代は渋谷の中心であったことだろう。


ところで、渋谷川の東側の高台は中世から昭和まで「堀之内」と呼ばれ、鎌倉幕府と関係が深いこの地の豪族・渋谷氏の居城がありました。渋谷の伝説の英雄・金王丸を始め、渋谷家の一族が鎌倉から室町時代まで長く暮らしていた館です。金王丸は源頼朝の父義朝の家来で、勇猛なことで知られ、江戸時代には歌舞伎の演目にもなりました。渋谷氏は代々源氏に仕えましたが、大永4年(1524)に鎌倉道を攻め上った北条氏に滅ぼされ、渋谷城と共に渋谷のお寺や神社の多くが消失したと伝わります。

「堀之内」には渋谷金王丸に関する湧水池の伝説がたくさんあります。『江戸名所図会』「金王麿産湯水」、「新編武蔵風土記稿」の「金王丸駒冷池」などです。『江戸砂子』にも、源経基の「甘露水」や「玉池」などのことが述べられています。これらの池の場所ははっきりしていませんが、これだけ色々な伝説が残っているのは、この高台が水資源に恵まれていたからです。次節で述べますが、この高台を含む淀橋台は、上層をおおう関東ローム層の下に、渋谷粘土層という水を透さない地層を備えているのです。

話は近世に移りますが、現在の金王八幡宮の社殿は、徳川家光の乳母・春日局と直参の青山忠俊が家光が将軍の跡目を継げるように祈願して成就したため、そのお礼として寄進したものと伝えられます。以前に神職の田所様にお会いした時、「金王八幡宮は権現造りですが、日光東照宮よりも先にできた建物なんですよ」と語っておられました。このような重大な祈願をしたということは、新田源氏の末裔を自任していた徳川氏が源氏と縁がある金王八幡宮を大切にしていたことが分かります。そのような立派な社殿を寄付するとは、さすがは春日局ですね。


<並木橋と旧鎌倉道>


   
 並木橋と新並木橋が並ぶ。写真は鎌倉道に架かっていた古い並木橋。別宮様撮影    渋谷区による「鎌倉道」の看板。

並木橋に着くと、そこには新旧の2つの橋が並んでいました。片方は自動車が通る八幡通りに架かる新並木橋、手前は昔の鎌倉道に架かる並木橋です。ふつうは新しい橋を作ると古い橋は壊しますが、こうして残っているのは町のゆとりを感じさせます。ところでこの鎌倉道は、「いざ鎌倉」という格言があるように、鎌倉幕府に大事件が起きた時に奥州や関東の武士たちが駆け参じたと伝わる古道です。鎌倉道を少し北に行くと有名な「勢揃い坂」(神宮前2丁目)があり、奥州に出陣する八幡太郎義家がここで軍勢を揃えたことで知られています。並木橋に立って鎌倉道の両側を見ると、左側(北東)は青山学院の西門に向かう急な上り坂(八幡坂)で、右(南西)は代官山に向かうこれも長い上り坂で、渋谷川が青山台地と西渋谷台地の谷間を流れていることが実感できます。もちろん渋谷川が淀橋台の低地を選んで流れている訳ではなく、自ら淀橋台の地表を削り取って作った谷底を流れているのです。


14下末吉面(S面)と渋谷川の生成

<土地の歴史を語るボーリングデータ>

渋谷城があった「堀之内」は湧水が多い土地ですが、近くの金王八幡宮(下表及び地図中のb地点。以下同じ)のボーリングデータを見るとその理由が分かります。その前に下のボーリングデータの一覧をご覧下さい。 これは今回のツアーで歩く主な地点の資料をまとめたものです。a地点は先に述べた渋谷駅南口のデータで、渋谷川が火山灰や海の砂や堆積物などの柔らかい地層を洗い流し、地下深くにあった礫層や土丹層が地表近くに出ています。渋谷再開発で生まれた高層ビル群は、この硬い地盤によって支えられています。

[ボーリングデータの一覧と調査地点
上図は 「渋谷川中流の地層ボーリングデータ」。東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)と「国土地盤情報検索サイトKuniJiban」より作成した。表頭のa~hはボーリング調査地点。TPは高度。標尺mは深さ。表中カッコ内の数値はN値(地層の硬度)。
 

左図は『国土地理院・基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュ』から作成。図中赤丸a~hがボーリング調査地点。



次に「堀之内」があった金王八幡宮近傍(b)の地層についてお話します。この地点の地層を見ると、上から順に、表土(人工的な盛り土)、関東ローム層(富士山の火山灰)、渋谷粘土層(火山灰質粘土-箱根山の火山灰)、上部東京層(海の砂や堆積物)、礫層(下末吉海進前の礫)、下部東京層(古い海の硬い地層)となっています。これは地形学者が「S面」(後述)と呼ぶ地形の典型的な層序です。渋谷を含む淀橋台に湧水が多いのは、関東ローム層が水を通しやすいのに対し、その下の渋谷粘土層が粘土質で水を通しにくいため、雨水が渋谷粘土層の上部で溜まって(宙水)地表に浸み出すからです。


<「下末吉面(S面)」の出現と渋谷川>
ところで、地形の「S面」とは何でしょうか。13万年も前の話ですが、今の関東地方は下末吉海進によって海に覆われていました。これが「古東京湾」です(下図A)。約125000年から気候変動の影響(海や陸の凍結など)で海岸線が退き始め、平らな海底面が海から離水して地上に現れました(下図B)。これが「下末吉面(S面)」で、その一部が淀橋台(渋谷・新宿・青山・麻布など)です。この時代は箱根山火山が爆発を繰り返しており、それが浅海や地表に積もって渋谷粘土層になりました。その後に富士山の爆発が起こり、これが数万年にわたって続いて、その火山灰が箱根火山灰の上に厚く積み重なって関東ローム層になりました。この地層は水を通しやすいのですが、水に長く接していると粘土質ローム層に変質して水を溜めるようになります。淀橋台の宙水の成り立ちを調べると、渋谷粘土層とこの粘土質ローム層の二つのケースがあるようです。


   
 A 下末吉海進時(13万年前)    B 最終氷期(約8万年前)
   

 C ヴュルム氷期(約2万年前)    D 縄文海進時の各海岸線(約7000年前)

松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形図中の破線は海岸線。Aは下末吉海進による古東京湾の時代。その後、海が退いて海底から下末吉面(S面」)が現れた。Bは約8万年前。最終氷期。古東京湾は縮小した。この時期に渋谷川中流の形ができてきた。Cヴュルム氷期の時代。極氷期で東京湾が全て陸化した。この時期に渋谷川中流の形が完成した。D縄文海進による奥東京湾の時代。天現寺橋辺りまで海が来た。



さて、海底から現れた「S面」ですが、その表面を雨水が流れて「小さな水系」が生まれました。渋谷川もその一つで、淀橋台ではほとんど唯一の水系です。初めは細い短い流れでしたが、次第に成長し、幅広い蛇行する川となって谷底低地を作り出しました。約8万年前から寒冷化が強まると、陸や海の凍結によって海岸線の後退が進みました。水源と河口の落差が大きくなるにしたがって川の勢いは強まり、川底を削って谷もだんだんに深くなり、川の形がはっきりしてきました(上図のB)。約2万年前の極氷期(ヴュルム氷期)が寒冷化のピークで、海は三浦半島の沖まで退き、今の東京湾がすべて陸化し、その真ん中を巨大な古東京川が流れるようになりました(上図のC)。渋谷川は、この時期に古東京川の支流として「中流部」の形を整えたと考えられます(旧神田川の支流との説もあります)。「1.2淀橋台に広がる渋谷川の流れ」の①で久保先生が述べた中流部の説明(最終氷期の後期の海水準低下期に谷が下刻を行った結果としての急勾配区間)は、こうした氷期の後期に起きた川の変化を述べたものです。

その後のことですが、約7000年前に温暖化によって再び海進が始まり(縄文海進)、北関東の古河や川越まで海岸線が入り込み「奥東京湾」が生まれました(上図のD)。天現寺橋の手前まで波が押し寄せました。約4000年前には再び海が芝・三田の沖まで退き、その後は海岸線があまり動かずに今に至っています。この縄文海進によって天現寺橋の手前まで沖積層(海の砂や川が運んだ土砂)が厚く積もり、渋谷川の「下流部」を作りました。ボーリング調査のデータを見ると、天現寺橋の辺りを境として、川上の広尾病院前(g)と川下の古川橋近傍(h)で地層が大きく違っています。


<渋谷川の水はなぜ茶色いか>

渋谷川の歴史について話していた時、「渋谷川の水が茶色いので(渋い色…筆者)渋谷という名前になったと聞きましたが、どうして川の水は茶色いのですか」と尋ねられました。とても面白い質問です。「渋谷の名前の由来には幾つかの説ありますが、水の色もその一つです(注3)。富士山の火山灰でできた関東ローム層にはたくさん鉄分が含まれていて、そこを通った雨水が渋谷粘土層に溜まって地表に出てくるため、川の色も鉄分の茶色になるのです」。「まだ渋谷には湧水が出ているんだね」。「そうです。この川の岸壁でもあちこちから水が染み出していますが、それも茶色なんですよ」。「関東ローム層の下にある渋谷粘土層がシブ色に一役買っているんだ」。こんなやりとりがありました。

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 並木橋近くの岸壁。鉄さびを含んだ水が出ている。    比丘橋近く。岸壁の水抜きの穴から茶色の水が。

八幡橋や並木橋の近くには、岸壁に茶色の絵の具を塗ったようなシミが所々にあります。また後に行く比丘橋や渋谷橋でも、岸壁にある水抜き穴の下が茶色く染まっています。恵比寿駅の地下の線路にも同じような水が大量に染み出しています。これは鉄分を含む関東ローム層を通った水が渋谷粘土層に溜まり、それが地下に流れて水抜き穴に出てくるためです。

さて、「寛永江戸全図」には並木橋の手前の西側(『全図』では下)に谷戸が描かれており、当時は西渋谷台地から支流が流れ下っていたことが分かります。地図は谷戸の出口しか描いていないので、谷頭(水源)がどこにあったのかは分かりません。明治の地図を見ると、この高台の上を流れていた三田用水の鉢山口から支流に水が流し込まれ、渋谷川の並木橋や氷川橋の辺りに向かって何本かの分水が降りています。この分水の流末は広い範囲に渡り、時代によってルートも異なるため、次の節でまとめて取り上げます。(「上編」終り)

 
(補)「寛永江戸全図」における渋谷川の全体像(臼杵市教育委員会所蔵・無断転載禁)。

(注1図Aの北西(左上)から来てる神山口分水の支流。『御府内場末往還其外沿革圖書・[3]拾六中』「99当時(弘化3年・1846)の形」より。国会図書館所蔵。流れのルートは『江戸明治東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー)を参考にして作成した。
(注2)以下に「武蔵野台地南東部の谷の縦断形による分類」の全体図を紹介する。

 

「武蔵野台地南東部の谷の縦断形による分類」全体図。123の白丸、黒丸、灰色は順に上流部(緩やかな流れ)、中流部(最終氷期の下刻による急勾配の区間)、下流部(中流部を埋没した沖積層の部分)を表す。(久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論』61,1988 より。)赤枠は筆者。本文中の部分図。



(注3)渋谷の「渋」の由来については諸説がある。渋谷区サイトの説明 を要約すると、①昔この付近は入江で「塩谷の里」と呼ばれていた。その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わった。②平安時代の末、この辺りの領主であった河崎重家が京都御所に侵入した賊を捕えた。この賊の名を渋谷権介盛国と言ったが、堀川の院は河崎重家に「渋谷」の姓を与えた。これにより重家の領地・谷盛庄も「渋谷」に変わった。③この地を流れる川の水が鉄分を多く含んで赤さびの「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていた。④川の流域の低地がしぼんだ谷間だったため、など。

<参考文献・資料>

渋谷区『渋谷区史』昭和27

渋谷区「野崎家史料」『渋谷区史』昭和27

渋谷区『新修渋谷区史』昭和41

港区『新修港区史』昭和54

加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』1967

渋谷区教育委員会『渋谷の水車業史』昭和61

渋谷区教育委員会『ふるさと渋谷の昔語り第2集』1988

久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形―風成テフラを供給された名残川の谷地形―」『地理学評論』611988

貝塚爽平『富士山はなぜそこにあるのか』丸善株式会社、平成6

鈴木芳行『近代東京の水車』1994

渋谷区教育委員会『渋谷の湧水池』1996

渋谷区教育委員会『渋谷の橋』1996

東京の地盤編集委員会『ジオテクノート7 東京の地盤』地盤工学会、平成10

豊沢貝塚遺跡調査会『豊沢貝塚/第2地点 発掘調査報告書』1999

豊沢貝塚遺跡調査会『豊沢貝塚/第5地点 発掘調査報告書』2004

渋谷区『図説渋谷区史』平成15

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『特別展・春の小川の流れた街・渋谷』平成20

貝塚爽平他『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』東大出版、2007

松田磐余『江戸・東京地形学散歩』之潮、2008

貝塚爽平『東京の自然史』講談社、2011

粕谷崇「埋もれた渋谷」『歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-』(上山和雄他編著)雄山閣、2011

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか/渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮、2011

松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形』之潮、2013

遠藤邦彦『日本の沖積層』冨山房インターナショナル、2015

山崎晴雄・久保純子『日本列島100万年史』講談社、2017

港区『港区史・自然編』2020

「寛永江戸全図」(寛永19-20年)之潮、2007

「江戸大絵図」(万治 (1658-60) 頃)「高松松平家歴史資料(香川県立ミュージアム保管)」

渋谷区教育委員会「渋谷区遺跡分布地図」平成10

「東京五千分の一実測図」内務省地理局、明治20

「東京近傍一万分の一地形図」明治42年測図、大日本帝国陸地測量部、明治42

「東京近傍一万分の一地形図」明治42年測図・大正10年第二回修正測図・同14年部分修正、同上、大正15

「東京時層地図」日本地図センター

(終)
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8月16日


目次

(中編)

2.並木橋から渋谷橋へ

21 並木橋と「鉢山口の流れⅡ」

22 比丘橋と「猿楽口の流れⅢ」

23 庚申橋と庚申水車

24 渋谷橋と「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」

(資料1)「国土地理院基盤地図」に描いた渋谷川

(資料2)「「寛永江戸全図」における渋谷川


<散歩のルート> 

【中】渋谷リバーストリート・渋谷ブリッジ—氷川橋(鉢山口の流れ)-上智橋(田子免池)-比丘橋(猿楽口の流れ)―庚申橋(庚申塔と庚申橋水車)―渋谷橋(旧渋谷広尾町)―恵比寿東公園(道城口・火薬庫口の流れ)―恵比寿橋【下】

<中流の全体図・稲荷橋から天現寺橋>

2.並木橋から渋谷橋へ

21 並木橋と「鉢山口の流れⅡ」

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[図B]並木橋を過ぎた渋谷川は、東南にある渋谷橋に向かって流れた。この間には氷川橋、比丘橋、上智橋、庚申橋などがある。川の東側は青山台地で、渋谷橋の先にある「いもり川」まで谷戸(川)がない。西側の西渋谷台地には3つの谷戸(川)があり、それらが三田用水の「鉢山口の流れⅡ」、「猿楽口の流れⅢ」、「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」になった。これらの流れは地形的に傾斜が大きいため、途中に多くの水車が設けられた。「鉢山口の流れⅡ」と「猿楽口の流れⅢ」に挟まれた高台には、旧石器・縄文・弥生時代の遺物、住居が数多く出土している。古代人は、この渋谷川沿いの高台に長く暮らしていた(赤丸は古代遺跡群)。地図はカシミール国土地理院。 


<並木橋から氷川橋へ-最後のモニュメント「渋谷ブリッジ」>

並木橋を越えた渋谷川は、ほぼ東南の方に流れて恵比寿の渋谷橋に向かいます。私たちは、並木橋の袂で金王八幡や鎌倉道の話を終えると再び渋谷リバーストリートを歩きました。並木橋のすぐ先には明治11年創業の「並木橋水車(橋戸水車)」があり、渋谷川の本流から専用の水路を引いて水車を回していました。米搗きが仕事でしたが、綿布製造も手がけました(1)渋谷川には江戸時代の末期から水車が現れるようになり、明治時代になると政府の殖産興業政策に後押しされたため、本流や支流にたくさんの水車が掛けられました。

青山台地と西渋谷台地の間の低地の幅は200mで、その真ん中を流れる渋谷川の幅は1012mです。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸後期の渋谷川の川幅は約5(9)とあり、今よりやや狭かったようです。当時は川岸に原っぱや土手があり、田んぼや畑もありましたから、今のようにコンクリートで固められた河岸のギリギリまでビルが迫っているのとは違い、広い田園の中を川がサラサラと流れるのどかな景色だったでしょう。この辺りは大正の末頃まで字田子免(あざたごめ)と呼ばれていました。昭和になると東横線が引かれ、この遊歩道の所に電車が走りました。東横線はこの辺りで西(右)に大きくカーブして代官山駅に入りましたが、その跡は今は「渋谷ブリッジ」という建物になっています。シマウマのような色柄に塗られた建物で、昔の線路に沿ってカーブしており、その中を通る遊歩道もカーブしています。これが渋谷リバーストリートの最後のモニュメントです。


   

「渋谷ブリッジ」へ。左は渋谷川。

 

建物にはシマウマの絵柄が。別宮様撮影。


<「寛永江戸全図」に現れた3つの谷戸>

   

「寛永江戸全図」の南端に描かれた3つの谷戸の出口(図中Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)。南の高台からきたこれら3本の自然の小川が、約80年後に三田用水の3つの流れとなった。

渋谷ブリッジを抜けると氷川橋ですが、渋谷川はこの橋の辺りから三田用水の分水や自然の川を次々と集め、だんだん大きな流れとなって東京湾に向かいました。今回のツアーではその内の三田用水3本、すなわち「鉢山口の流れⅡ」、「猿楽口の流れⅢ」、「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の合流点を歩きました。それらは「寛永江戸全図」の渋谷川右岸7本の内の3本の谷戸と対応しています。それらをフォーカスしたのが上の図です。当時は江戸の南の果てにある小さな川でしたが、「全図」の制作者たちは見逃しませんでした。おそらく川沿いに田んぼが並んでいたからでしょう。谷戸の図を拡大して眺めると、3本の谷の大きさや形に違いがあって妙にリアリティーを感じます。谷戸の描かれた所も明治の近代地図にある三田用水の位置とだいたい同じでした。後に三田用水の受け皿となる川が寛永の頃に記されていたことは大変な幸運で、改めて制作者たちのプロ魂に驚きます。さて、これから順に3本の三田用水の流れを見ていきますが、トップバッターは「鉢山口の流れⅡ」です。


<時代と共に変わる分水の流末-「鉢山口の流れⅡ」>

並木橋には西の高台から「鉢山口の流れⅡ」が来ており、それが幾つかの水路に分かれ、並木橋から氷川橋にかけて広がる田んぼをカバーしていました。「鉢山口の流れⅡ」のスタートは鉢山町西郷橋(旧山手通りに架かる陸橋)にあった鉢山口で、流れは鴬谷の深い谷間を通り抜け、河岸の低地で渋谷川に注いでいました。谷頭は高台の尾根に向かって長く伸びており、三田用水ができる前の自然の川の時代は、水源は尾根のすぐ近くにあったようです。その頃の谷戸の出口ですが、「寛永江戸全図」によると「金王八幡の川」(谷戸)の向かい側に描かれています。しかしこの辺りの地図の方位や面積は中央部分の作図の関係でかなり歪んでおり、明治の近代地図に照らすと谷戸の出口はもっと並木橋寄りにあったと考えられます。


  明治の初期、「鉢山口の流れⅡ」は「田」 (赤丸、筆者)と書かれている谷間を流れ、その流末は「猿楽口の流れ」と合流していた。「文明開化期」『東京時層地図』。
     
    明治20年、「鉢山口の流れⅡ」は低地に来ると流末が何本にも分かれ、現在の上智橋付近まで灌漑していた「東京五千分の一実測図(内務省地理局)明治20年測図」。
     
    「鉢山口の流れⅡ」の流末は、明治42年には一本にまとめられている(紺色)。その後の大正14年の「同流れⅡ」の流末は水色。最短距離で渋谷川に入るようになった。「東京近傍一万分の一地形図・明治42年測図」

「鉢山口の流れⅡ」の低地部の水路は、時代によって数もルートも違っています。当時の地図を参考にして説明しますと、上が明治の初めの様子で、細長い田んぼが谷間から麓に向けて続いており、ここを川が流れて低地の田畑に向かっています。水路は「猿楽口の流れⅢ」とつながっていたようです。次に真ん中の明治20年の地図を見ると、この時代は勧農政策の最盛期で、川の西側一帯は田んぼで埋まっています。水路が並木橋の北から氷川橋の南まで延長され、流れの途中から何本もの川筋が渋谷川に向かって落ちています。水色の点線は、地図にはありませんが筆者の推測です。最後に一番下の図は、明治42年の流れを紺色で、大正14年修正の地図にあった流れを水色で書き入れたものです。明治42年になると、田んぼの多くは住宅や事業所に変わり、水路も氷川橋近くに向かう一本だけです。流末には奥田水車と発電所がありましたので、事業所用に使われたのでしょう。大正14年になると迂回していた水路は全てなくなり、川は真っ直ぐに並木橋に注いでいます。この地区の水路の移り変わりを見ると、明治という時代の動きがよく分かります。


<分水の水車が作り出す工業地帯>

   

角谷の水車(角谷綿工場)渋谷区教育委員会所蔵(無断転載禁)三田用水・鉢山口のすぐ東にあった角谷の水車は、明治の初めは米搗きをしていたが、やがて綿打ち業に変わった。綿工場の動力には水車と蒸気機関を使っており、恵比寿の日本麦酒と並んで渋谷を代表する近代工場であった。なお角谷の水車は図の左下に見えるように上掛けだった。

 
「鉢山口の流れⅡ」の上流部を見ると、ここも低地部と同様に時代により変化しています。明治になると、川の勢いが本流と比べて強いため、田畑を潤すと共に水車を数多く回していました。合計9台の水車が架かっていましたから、川の豊かな水量と共に、地形も水車に向いていたのでしょう。明治初めに「鉢山口」のすぐ東(右岸)に設けられた「角谷の水車」(上図)は、米搗き水車で始まりましたが、明治29年に綿打ち業を手掛け、蒸気機関も使って綿打ち機器12台を動かしていました。大正2年に廃業しますが、この時期に電力が普及したためです。今の鶯谷町にあった「長谷戸水車」は、明治22年の創業で、【上編】で述べた宮益水車(三井の水車)に代って渋谷小学校の維持費を賄うために設けられました。これも初めは米麦搗きでしたが、やがて製紐業などを幅広く手掛けるようになりました。

『渋谷の水車業史』によると、三田用水には4つの分水口に19の水車が掛けられましたが、この数は渋谷川本流と支流に設けられた水車の数とほぼ同じです(注2)。三田用水というと灌漑に使われていたイメージが強いですが、それは明治の中頃までの話で、次第に水車業がメインになりました。やがて水車の動力は繊維、食品、電線、化学製品などの近代産業をけん引する大きな力となり、電力が普及する大正の初めまで続きました。
 

<氷川橋から上智橋へ向かう>

   
 渋谷自動車営業所前。別宮様撮影。    左は渋谷区ふれあい植物センター。奥に東電変電所が。
 

ツアーの話に戻ります。私たちはA棟・B棟と続く渋谷ブリッジの中の道を歩き、A棟の出口から南側の道路に出て渋谷川の方に向かいました(B棟に進むと代官山駅に行ってしまいます)。少し歩くと都バスの大きな車庫(東京都交通局渋谷自動車営業所)に突き当たりました。ここを道なりに右に行くと山手線の線路で、左に曲がると氷川橋を通って明治通りの交差点(東交番前)です。この都バスの車庫は昭和3年頃には既にあって「東京市乗り合い自動車車庫」と呼ばれていました。公益法人「日本バス協会」のHPによると、「大正12年の関東大震災で路面電車が大きな被害を受け、応急措置として800台余りのバスを導入した」とあり、その時に車庫ができたそうです。私たちは道を左に曲がり、数十メートル歩いて氷川橋に来ました。氷川橋で「この辺りに鉢山口の流末も来ていました」と言ったところ、参加者の方が橋の袂の下水道のマークを見つけて、「あった、これは何だ!」ということになって話が盛り上がりました。川の傍にあるマークは何なのか気になりますね。後に調べたところ、これは現代の下水道管が地下で折れ曲がっている地点のマークのようでした。

   

氷川橋。明治20年の地図で、「鉢山口の流れⅡ」の水路の一つは、この橋の辺りにも伸びていた。奥は明治通りの東交番前。

 

S面(淀橋台)の上に立つ國學院大學。渋谷川との高度差は川の開析と火山灰の蓄積が作り出した。

氷川橋の手前の西側には奥田水車がありました。先ほど述べたように、「鉢山口の流れⅡ」は並木橋の辺りから南(下流)に延長されて氷川橋より下流まで来ており、奥田水車は渋谷川に注ぐ直前、今の「ふれあい植物センター」の辺りにありました。目の前に渋谷川が流れているのに三田用水の流末に水車が設けられたのは、何かの事情で本流に堰を作ることができなかったか、三田用水の高度差が大きかったためでしょう。水輪が134(4)、稼働数量1440石ですから、中規模の米搗き水車です。なお、「ふれあい植物センター」は渋谷区が運営する小さな屋内植物園で、熱帯植物や水生植物が育てられていて、中に入るだけで心が癒されます。今年12月に閉鎖と聞いて本当に残念です。

氷川橋からは川に沿った道がないため、いったん明治通りの東交番前に出て、歩道を右に曲がって上智橋に向かいました。途中、明治通りの左側の高台に國學院大學の高いビルが見えました。金王八幡宮もそうですが、國學院大學も下末吉面(S面)と呼ばれる台地の上に建っています。話は急に大昔になりますが、淀橋台を含むS面が海底から現れた125000年前、渋谷川が流れ始めていた地面は國學院大學とほぼ同じ高さ(現在の標高は30m)でした。現在の氷川橋の標高は13mなので、12万年以上かけて地表を削って今の高さまで下がった訳です。ただしこの土地には海から離水後に関東ローム層や塵(黄砂など)が約5m積もっているので、元の標高は30-525mになり、渋谷川が削った地面は25-1312m、さらに川縁から川底まで5mとすると、合計で12+517mを川が削ったことになります。地層の下部には硬い東京礫層がありますから、礫層までどんどん削って、その後はあまり削っていないのでしょう。なお淀橋台と渋谷川の生成については、【上編】の「1.4」で詳しく説明してありますので、ご参照ください。

 

22 比丘橋と「猿楽口の流れⅢ」

<田子免池の所在をめぐって>


   
上智橋から下流を見る。季節が感じられる景色だ。   上智橋の前は都営アパート。この傍らに田子免池があった。

明治通りを200mぐらい進んで右の脇道に入り、先程のバスの車庫の南端に当たる上智橋(あげちばし)に着きました。橋の下流を眺めると、川は黄葉した木々の下を優雅に流れていて、賑やかな明治通りとは別世界です。上智橋の奥には大きな都営アパートがありました。昔はこの辺りの土地を字田子免(あざたごめ)と呼んだことは前に述べましたが、都営アパートと隣のバスの車庫のある土地には大正時代に池があり、江戸時代には田子免池という名前の池がこの辺りにあったと伝えられます。

     
「田子免池があった場所」。渋谷区『渋谷の湧水池』。渋谷区教育委員会。(無断転載禁。)   左から来る水路は「猿楽口の流れⅢ」。明治初めには左図の地域に池は見当たらない。(「文明開化期」『東京時層地図』)   大正末期関東大震災の前には上智橋の前に池ができている。(「関東地震直前」『東京時層地図』)
             

一番上の絵図は、大正時代のこの土地の様子を描いたものです。上智橋の正面に大きな丸い池があり、渋谷区『渋谷の湧水池』では「田子免池を改修したらしい貯水池に渋谷川の水を導き、発電所の冷却に用いた」と説明していることから、ここに昔から田子免池があったようです。加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』にもこれと似たような話があります。それによると、明治38年、後の渋谷自動車営業所(東2丁目)の土地に東京鉄道株式会社が火力発電所を建設したが、それは赤煉瓦のモダンな建物で、地上80mもある巨大な煙突から吐き出す黒煙が渋谷の空を覆い、ついに住民は一致団結してこれを阻止したとあり、また「発電所時代に大きな三角形の貯水池があり、渋谷川から絶えず発電機を冷やすための水を取り入れるようになっていた」と述べています(注3。加藤はこの池が人造池で、発電所の廃止後に町の塵芥で埋めたとしており、池の名前は述べていません。以前に筆者が「ふれあい植物センター」の職員の方に田子免池について尋ねたところ、「近所のお年寄りの方が『公団の建物は池を埋め立てた跡にできた』と言っていた」と教えてくれました。大正時代にここに池があったことは確かなようです。

さて江戸時代の田子免池ですが、渋谷の旧家が記した「野崎家史料」によると(注4)、野崎家の地面の先に田子免池があり、将軍吉宗の時代は白鳥を育てる白鳥飼付場であったと書かれています。江戸時代の『上水記』には、田子免池に三田上水(三田用水の前身)の御用水が流されていたとも。池の傍にあった田子免橋(後の氷川橋)は、一時は御普請橋と呼ばれた幕府直轄の橋でした。さて問題は、この江戸時代の田子免池と大正時代の池がどのような関係にあるかです。これまで見たように、この土地に池があったことについては伝承や証言がありますが、両者を時代的に繋げるような史料は見当たりません。正直なところ、江戸時代の田子免池と大正時代の池はミッシングリンクのようです。


<川べりの田んぼを広くカバーする水路‐「猿楽口の流れⅢ」>

     

明治の初期、「猿楽口の流れⅢ」は上智橋の直ぐ北へと流れていた。「東京時層地図」より。

 

明治20年、「猿楽口の流れⅢ」は渋谷広尾町まで達していた。「東京五千分の一実測図(内務省地理局)明治20年測図」。

 

明治後期、四反町を巡って(庚申橋の西)流れる「猿楽口の流れⅢ」。「東京時層地図」より。


明治通りに戻り、100mほど歩いて東3丁目の交差点を右に曲がり比丘橋に着きました。比丘橋の袂には、明治中頃から大正にかけて三田用水の「猿楽口の流れⅢ」が来ていました。比丘橋の名はこの近くに尼寺があったことに由来するそうです。明治通りの側から比丘橋を眺めると、橋の奥(西)に山手線が走るガードが見えます。農業最盛期の頃の明治20年の地図を見ると、「猿楽口の流れⅢ」は、西の高台から上智橋の近く(山手線の西側)まで流れてきた後、沿岸の低地を南に向かい、比丘橋や庚申橋を東に見て通り越し、その先でターンして再び比丘橋で渋谷川に注いでいました。水路は上智橋から500mぐらい先の渋谷橋 (恵比寿駅) 近くまで伸びていました。これだけ水を配れるということは、昔は分水の他に湧水や雨水も加わって水量が豊かだったのでしょう。なお、明治後期には流れの先は庚申橋の近くまでと短くなっています。



 

「猿楽口の流れⅢ」が注いでいた比丘橋。猿楽口から下ってきた分水は、上智橋の近くから渋谷川と並んで南に向かい、(写真奥の山手線のガードの向こう側を南に流れ)、渋谷広尾町で迂回し、比丘橋の近くまで戻ってきて渋谷川に注いでいた。

ここで「猿楽口の流れⅢ」の上流について説明しますと[B]を参照)、猿楽口は今の代官山・デンマーク大使館の辺りにあり、分水は代官山駅前を通って渋谷川に下っていました。この分水は自然の川筋を用いており、谷頭は尾根の近くにありました。川のルートは谷間に沿って曲がりくねって河岸の低地に入り、川沿いに広がる田んぼを潤していました。明治初めの地図を見ると、谷間から低地に入った川は、クランクの形で流れた後にまっすぐ渋谷川に注いでいました。江戸時代に田子免池に流れ込んだ御用水も同じようなルートだったのでしょう。「猿楽口の流れⅢ」には途中に4つの水車がありました。猿楽口のすぐ脇にあった「朝倉の水車」の当主徳次郎は、水車による精米で財を成した人物で、地元の名望家でもありました。その娘婿の虎治郎が大正8年に建てた朝倉邸は、大正時代の和風建築を代表する家屋として国の重要文化財になっています。「猿楽口の流れⅢ」の中ほどにあった「炭屋の水車」は、脱穀・製粉など米搗きの水車でしたが、水輪の直径が25尺(7.5m)あり、これは渋谷では最大のものでした。用水の豊かな水量が偲ばれます。


 <旧石器・縄文・弥生遺跡の宝庫>

「鉢山口の流れⅡ」と「猿楽口の流れⅢ」の間の高台には、たくさんの旧石器・縄文・弥生遺跡群があります。鴬谷町では、縄文中期の竪穴住居跡約90軒と弥生後期の竪穴住居跡32軒が見つかりました。猿楽町には弥生時代の住居跡が残る「猿楽古代住居跡公園」があります。この土地に旧石器時代から1万年以上も人が住んでいたことは、渋谷川の本流と二つの支流に囲まれた高台が古代人にとって住みやすい土地であったことを示しています。川で魚を獲ったり、河原の植物を食べたり、水を飲みにきた動物を捕まえたり…。湧水や川の水も呑んでいたと思います(多少鉄臭かったかもしれませんが)。

     

猿楽古代住居跡公園にある弥生時代の住居跡。渋谷区『図説渋谷区史』より。渋谷区教育委員会所蔵。(無断転載禁)

 

弥生時代の環濠1号溝。渋谷区教育委員会。(無断転載禁)

 

鴬谷の縄文遺跡。7号住居跡國學院大學企画展「渋谷の縄文・弥生時代」より。渋谷区教育委員会。(無断転載禁)


左上の丸い池のような遺構は、約2000年前の弥生時代後期の住居跡です。昭和53年に建物を復元しましたが、今は焼失してありません。真ん中の「環濠一号溝」は、弥生時代後期の環濠集落の跡で、鉢山町の都立第一商業高校の建替えの時に発見されました。弥生時代に入って本格的な稲作が始まると、土地や収穫物をめぐって村同士の争いが起き、敵の襲撃を防ぐために村の周りに環濠を掘りました。環濠一号溝は長さ約140m、溝幅の平均が3.15mという大きなもので、その中にあった柱列は、村人が柵を立てて自分たちの土地を守っていたことを示しています。他にもたくさんの遺物が発掘されていますので、詳しくは粕谷崇「埋もれた渋谷」『歴史の中の渋谷2』(雄山閣)をご覧ください。

 

23 庚申橋と庚申水車  

<庚申橋を渡った人たち>

私たちは「猿楽口の流れⅢ」が来ていた比丘橋を離れ、久々に渋谷川の脇を通る道に入って庚申橋に向かいました。空気がずいぶん冷たいなと思っていたら、何か降ってきました。どなたかが「ヒョウが降ってきた」と。この道は初めの数十mが川に沿っていて、その後は川から離れてビルの間を抜ける道になりました。そのまま100mぐらい進むと交差点に出て、すぐ左側に庚申橋が見え、橋の右脇にはいかにも古そうな庚申塔の祠がありました。


 
 庚申橋の脇にある橋供養碑庚申塔。別宮様撮影。  

青面金剛の下に橋を行き来する人々の名が。

庚申橋が見えると皆さんとても元気になり、庚申塔の方にサーッと駆け寄りました。石碑と渋谷区教育委員会の案内板を代わる代わる眺めて、「すごいなー、麹町からも荻窪からも来ている」など、ヒョウのことなど忘れてざわめいています。庚申塔には青面金剛(庚申講の本尊)が祀られていますが、その石碑の下に、前面から側面まで、上から下まで、庚申橋を行き来した江戸の商人や農民の名前がびっしりと刻まれていました。昭和27年発行の旧『渋谷区史』によると、庚申塔は寛政11年(1799)に建てられたもので、人名、村名、橋講中世話役名、万人講名など174件が刻まれています。人名に付いている町の名を見ると、渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪などがあり、当時の野菜(前栽物と呼ばれた)などの交易に携わっていた人たちが、どこから来て庚申橋を渡ったのかが一目で分かります。江戸末期の野菜の需給や流通網を知る上で貴重な史料です。詳しい記録を知りたい方は、前掲『渋谷区史』、林陸朗他『渋谷区の歴史』をご覧下さい。


  <庚申橋水車とその仕組み>

   
庚申橋水車の見取り図。(『渋谷の水車業史』)渋谷区教育委員会所蔵。   から水車の場所を見る。この先、川は大きく東にカーブする。

庚申塔が建てられて約30年後の文政11年(1828)、この橋の下流に庚申橋水車が創業されました。この水車は渋谷川に堰を設けて水を溜め、そこから専用の水路を引いて水車を回していました。このやり方は宮益水車や並木橋水車と同じで、流れの緩やかな渋谷川で水勢を強めるためです。庚申橋水車は、『郷土渋谷の百年百話』を書いた加藤の父と祖父が営んでおり、主に麦や米を搗いていました。『百年百話』には、水車の直径が1丈7尺(5.10m)、堰高が55寸(1.65m)とあります。水車場の見取り図が詳しく描かれており、この時代の水車の仕組みが細かく分かります。同書の中の『東京府農商工要覧』(明治21)には、「雇い人男5人、年間稼働数量3,600石・450円」とありますが、渋谷川の宮益水車が720石,深川水車5040石,並木水車2880石、後に述べる玉川水車が7200石ですから(同じ年代の統計ではありませんが)、渋谷川では中規模の水車です。

『渋谷の水車業史』には、加藤米吉が明治24年に東京府知事に出した書類が載っていました。村人との「約定書」には、「比丘橋は、義務として水車主が保存する」という条項がありました。比丘橋は庚申橋よりも一つ前の橋で、250mぐらい上流にあります。こんな遠くの橋まで責任を持たねばならない理由は、川に堰を作ると水が上流まで溜まり、人々の暮らしに影響を与えるためです。庚申橋水車の堰を止めると、おそらく比丘橋の辺りまで水嵩が増したのでしょう。川筋、敷地が崩れないように気をつけ、何かが起きた時は水車主が修繕するという決まりもありました。水車は脱穀や製粉の生産性を高めますが、マイナスの面もありました。川の水をたくさん使い、水を汚し、村人の川の使用を制限し、また米搗き屋(人力)の仕事を奪うなどです。このため、江戸時代から水車を巡る訴訟が起きていました。そうした問題を踏まえて、村人たちは自主的にルールを作って水車を管理したのでしょう。堰にまつわる楽しい話もあります。渋谷川上流の観音橋水車の近くで育った人の話ですが、堰が作る水溜まりは子供たちの遊び場にもなっていて、深い水溜まりで泳いだり、集まってくる魚を獲って遊んだそうです。


2.4 渋谷橋と「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」

 <昔の渋谷広尾町の賑わい>

庚申橋に着いた頃から降り出したヒョウは止む気配がありません。私たちは冷たいヒョウの下を歩いて、駒沢通りに架かる渋谷橋へと急ぎました。150mほどで駒沢通りに出ると、道路の反対側に渋谷橋が見えましたが、歩道がないため、右側の信号を迂回して橋の脇にたどり着きました。ここはJR恵比寿駅のすぐ近くですが、なぜか橋の名は渋谷橋です。その理由は、江戸時代から昭和3年まで、この道沿いの町が「渋谷広尾町」と呼ばれる繁華な町だったからです。


恵比寿の駒沢通りに架かる渋谷橋。たこ公園・桜橋付近から。
   

渋谷広尾町では「棒手」という買い出し人が商いをしていた。この絵では天秤棒でカボチャやなすを入れた籠を担いでいる。HP「日本食文化の醤油を知る」より。


渋谷広尾町が始まったのは1664(寛文4)1668(寛文8)年と古く、昔は渋谷で12を争う賑やかな町でした。明治初めの地図を見ると、渋谷駅前の宮益坂よりも町並みが大きく描かれています。野菜市場が有名で、「棒手(ぼて)」と呼ばれた買い出し人が朝早くから町に集まり、賑やかに商いをしていました(『渋谷区史』昭和27年)。先ほどの庚申橋の道は「渋谷広尾町」の裏道に当たり、野菜を運ぶのに使うバックヤードだったのでしょう。庚申塔に商人や農民の名が刻まれていた訳が分かります。渋谷橋の近くにある恵比寿東公園(愛称たこ公園)の脇には、鎗ヶ崎(駒沢通り鎗ヶ崎交差点の南側)の高台に始まる三田用水「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」が下って来ていました。江戸時代の鎗ヶ崎には富士講の人々が参拝する新富士(富士山のミニチュア)があり、渋谷広尾町は多くの信者が行き来する町でもありました。


 <南側に広がる谷底低地>

さて、渋谷川はこれまで東南の方向にほぼ真っ直ぐに流れてきましたが、渋谷橋の辺りで東(左)に大きくカーブし、その後東に流れて天現寺橋に向かいます。稲荷橋から庚申橋までは、両岸の低地の幅が約200mでしたが、渋谷橋辺りから幅が300m前後に広がり、とくに低地が南側に張り出します。このような地形が生まれたのは、川がここでカーブしていることと関係がありそうです。川の流れは一般にカーブの外側の方が速くなるため、常に外側(南側)に向かう川の力が働きます。洪水ともなれば、流れが曲がらずにそのまま外側に飛び出すこともあるでしょう。こうした川の力学によって、渋谷川が南側の岸辺を洗い流し、小高い土地もだんだん削り取って、低地を南へ広げたと考えられます。


<川筋の地層は硬い礫層の上に土砂が溜まる>

ここで、ボーリング柱状図を手掛かりにして、この低地がどのような地層になっているかを調べます。渋谷橋の近くの「たこ公園(d)」対岸のデータを見ると、上層にシルト質粘土の柔らかい層(N4)が11.5mあり、その下に硬い礫層や細砂、土丹層(N50)があります。高台ならば礫層の上に積み重なっている関東ローム層や渋谷粘土層、上部東京層が全くありません。この地層の成り立ちをイメージすると、川の流れによって関東ローム層などの柔らかい上層の土が削り取られ、その下にあった硬い層が河床に現れた感じです。これと同じような地層は先ほどの「比丘橋(c)」の柱状図にも現れています。これらの地点は、いずれも川底に存在した時代があり、その上に上流部から流れてきた泥や砂(沖積層)が溜まったということです。「比丘橋(c)」の方が硬い礫層が激しく削られて薄くなっています。また比丘橋の辺りでシルト中砂が薄く溜まり、これに対し「たこ公園(d)」の方が軽く柔らかいシルト質粘土層が厚く積もっていることから、比丘橋の辺りの方が川の勢いが大きかったことが考えられます。


[ボーリングデータの一覧と調査地点
](再掲)
 上図は渋谷川中流の地層のボーリングデータで、東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)と「国土地盤情報検索サイトKuniJiban」より作成。表頭ahはボーリング調査地点。TPは高度。標尺mは深さ。表中カッコ内の数値はN値(地層の硬度)。


 

下図は『国土地理院・基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュ』から作成。図中a~hがボーリング調査地点。【上編】のデータを再掲。


川の開析が最も激しかったのは約2万年前のビュルム氷期で、その時は清流の川底にたくさんの小石がころがっていたことでしょう。7000年前の縄文海進の時代は川の流れが最も緩やかなので、川底には土砂やゴミが溜まってズブズブしていたと思います。ボーリング柱状図は、渋谷川がこの辺りでどのように流れていたのかを語る歴史の証人です。


 <「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の地形と歴史>

ここで「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の上流部に目を転じると、この流れがあった谷戸の谷頭は、尾根に近い鎗ヶ崎の南側にあり、谷間は高台から低地に向かってほぼ真っ直ぐに伸びていました。鉢山町や猿楽町の谷戸と比べると、長さが短く、幅が広い感じがします。川の傾斜は先ほどの二つの谷戸と比べるとやや緩やかですが、途中に3つの水車が架かっていました。一つは谷戸の出口の辺りにあった糠屋(ぬかや)水車で、あとの二つは新橋の袂にあった登坂水車と田丸水車です。「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の水は昼間は火薬庫の水車が使うことになっていたため、糠屋水車は夜に稼働しており、「ぬかやの夜回り」などと陰口をたたかれていました。



   

赤い点線は三田用水から渋谷川に向かう「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」。『御府内場末往還其外沿革圖書[3]拾六中』「94当時(弘化3年・1846)の形」部分。国会図書館所蔵。

  鎗ヶ崎を挟んで渋谷川とは反対側の景色。三田用水の分水が別所坂の崖の脇を滝となって落ちている。左の高台に「新富士」がある。歌川國長「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財・無断転載禁)。
  

左上の図は、『御府内場末往還其外沿革圖書』(注5)に描かれた分水口の様子です。三田用水は図の真ん中の高台を北から南(上から下)に流れ、道城口は「新富士」の南側にあって、そこから渋谷川に向かって流れ出しています(赤い点線)。川は山中に消えていますが、実際はそのまま流れて今の恵比寿駅を超えてから渋谷川に落ちていました。当時の地図で渋谷橋「大板橋」とありますので、大きな木製の橋だったのでしょう。右上の「鑓崎富士山眺望の図」は、渋谷川とは反対の中目黒(西側)の側から眺めた景色です。左の丘の上を三田用水が流れ、その分水が目黒の別所坂の横を滝となって落ちています。丘には人造の「新富士」があり、右奥に本物の富士山がありますが、こちらは絵師の創作のようです。

ところで「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」という長い名前ですが、これは「道城口分水」と「火薬庫分水」を並べたもので、二つは同じ分水です。「道城」の名は、前掲『渋谷の湧水池』によれば、江戸後期まで恵比寿駅南口の近く(糠屋水車の辺り)にあった道城池に由来しますが、この池の存在については幾つかの説があり、渋谷区教育委員会は「所在地がわからない湧水池」に分類しています。次に「火薬庫」ですが、これは今の防衛省艦艇装備研究所がある広大な土地で、昔は江戸幕府の火薬庫や明治政府の海軍火薬製造所があり、その工場を通って分水が流れ出ていました。幕府は安政4年(1857)にこの地に火薬庫を設け、水車を回して火薬製造を行いました。工場の水車は水をたくさん使うため、地元の村が使う分が足りなくなり、農民が役所に訴え出るなど水争いが長く続きました。先ほどの『御府内場末往還其外沿革圖書』はその10年前の弘化3年(1846)の絵図ですので、火薬庫は描いてありません。



<時代の変化を映す分水の流末>


 
 「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の流末。分水は田んぼを流れて日本鉄道を越え東西に分かれていた。「東京五千分の一実測図(内務省地理局)明治20年測図」。    明治42年当時の「道城口(火薬庫口)の流れ」を現代地図に書き込んだ。紺色の線は分水の流末、茶色の線はツアーで歩いたルート。分水(水色)の水路(明治42年)が東に長く伸びている。

次に「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の河岸の低地部ですが、左上の明治20年の地図を見ると、高台から下ってきた流れは、今は「恵比寿銀座通り」になっている田んぼの中を流れ、日本鉄道(山手線)を越え、その先のItoxビルの所で東西に分かれていました。1つは西の方に進んで「たこ公園」の西端で渋谷川に落ち、もう1つは東(右)の方に進み、そのまま渋谷川と並んでしばらく流れました。このルートは、明治20年の地図では約60mで切れて、一本橋の南で水田に入っています。明治42年の地図ではそのまま約500m続き、新橋の手前で川に注ぎました。明治の終りになるとこの地域から水田はなくなり、代って住宅や事業所になるので、この長い水路は雨水や生活排水のために使われていたのでしょう。


<地下鉄トンネルの湧水を渋谷川に流す>

   

渋谷川の岸壁にある二つの排水口。

 

たこ公園西側の暗渠の道。

ここで話をツアーに戻します。私たちは駒沢通りを右に曲がって小道に入り、100mほど歩いて「たこ公園」に来ました。この公園は渋谷川南岸の桜橋と一本橋の間にあります。ヒョウがどんどん降ってくるため、公園に新設された「イカのトイレの軒下に避難して一息です。少し待っていると、幸運にもヒョウが上がって空が明るくなってきました。ツアー再開です。「たこ公園」の北側に架かる小さな桜橋に下りて、先ほど通った渋谷橋を眺めました。川の岸壁を見ると、公園側のコンクリートの壁に穴が2つ開いていました。奥の大きな穴は「道城口(火薬庫口)の流れ(Ⅳ」の出口で、現在は下水道局が管理する下水道(雨水支線)です。手前の小さな穴(手前)は地下鉄日比谷線のトンネル内に湧き出した水の出口で、勢いよく出ています。穴のすぐ下は並木橋や比丘橋の穴のように茶色に染まっていました。鉄分を含む水がトンネル内に湧き出しているのです。

東京メトロ『51年目の日比谷線』によると、地下鉄は「渋谷川の河川環境を良くしていく」ためにトンネル内の湧水を渋谷川下流に放流する事業を始め、2012年度は約94000m³の水を流しました(注62012年以降のデータは見つかりませんでしたが、このような素晴らしい事業は、もっと大きく伝えるべきです。渋谷川はコンクリートの川ですが、それでもセキレイ、カルガモ、シラサギなどが遊んだり、ボラの大群を見ることもあります。地下水の放流事業でさらに多くの鳥や魚が集まるといいですね。

<三田用水が流れていた道>

「たこ公園」でしばらく時間を過ごした後、私たちは公園の真ん中から外に出て、そのまま南に100mほど歩いて五差路の交差点に出ました。通りの反対側にドトールとItoxビルが見えましたが、先ほども述べたようにItoxビルの所で「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」が東西二つのルートに分かれていました。私たちはこの角をぐるりと左に回って隣りの道路に入りました。これが東の新橋に向かう流れのルートで、今は途中にスバルビル、ウノサワ東急ビル、NRビルなどがあります。流れはほぼ道路に沿って進んでいますが、昭和4年頃までここには川が流れていたようです(田原光泰『春の小川はなぜ消えたか』p152)。明治20年ごろはこの辺りは田んぼで、明治40年代になると工場、変電所、住宅などに変わり、昭和に入ると川は暗渠になって地表から消え、その跡は道路になりました。何人かの地元の方が「以前は歩道の下からザーザー三田用水の音が聞こえた」とおっしゃっていましたが、地元の方々は地下の流れの音を聞くと、ここに三田用水が流れていた時代のことを思い出すのでしょう。


 

恵比寿のビル街。右はスバルビル。用水は歩道の辺りを新橋方面に流れた。 

  昭和35年頃の渋谷川。新橋から上流(渋谷橋)の方向を眺める。(『渋谷の記憶Ⅱ』)渋谷区教育委員会所蔵。無断転載禁。
スバルビルを右に見ながら300mぐらい歩くと、左にセブンイレブンがある恵比寿橋南の交差点に来ました。流れはここで左の脇道に入り、150mぐらい先を道なりに左に曲がって新橋区民会館の脇を通り、そのまま「あいおい生命・別館」の地下を通り抜けて渋谷川に流れ込んでいました。時間が押していましたので、この脇道に入ることは止め、恵比寿橋南交差点を左に曲がってから、川が流れていった小道を垣根越しに眺めました。そこは、家に挟まれたやや薄暗い暗渠の小道でした。明治時代には、ちょうどこの辺りに登坂水車と田丸水車がありました。水車の方式は上掛けで、堰がなかったそうで、明治半ばまで支流の水量が多かったこと、そして渋谷川に落ちる傾斜が大きかったことを想像させます。明治の頃の土地は昼でもうっそうたる杉林だったそうです。杉林は日を遮りますから、薄暗い林の中にぽつんぽつんと2台の水車小屋が立っていたのでしょう。「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の追跡はここまでにして、次の【下編】で渋谷川の恵比寿橋から明治通りに入り、外苑西通りが交差する天現寺橋に向かって再びスタートします。


 <河骨川と「コウホネの池」のご縁>

     

たこ公園の桜。真ん中に公園のシンボル「たこの滑り台」がある。(2021.3.27

 

黄色いコウホネの花。2021.5.5

 

初夏の池はコウホネの花が咲き、メダカも泳いでいる。(2021.5.21

ここで、先ほど訪れた恵比寿東公園に話を戻して、その一角にある「コウホネの池」(私たちが付けた名前ですが)についてご説明します。長径2mほどの小さな池ですが、ここに渋谷川の歴史がいっぱい詰まっているからです。コウホネとは、かつて渋谷川上流の河骨川・宇田川に群生していた水生植物です。ツアーの時は冬でしたので、池にはコウホネの葉っぱも花もありませんでしたが、春になると緑の水上葉が茂り、黄色い花を次々と咲かせます。上の写真2枚は今年5月の池の様子です。今年はあいにく日照不足で花が少ないのですが・・・。コウホネは渋谷川の歴史と関りが深く、渋谷川上流の宇田川を「コウホ子(ネ)落」と書いている古地図もあります。渋谷の宇田川よりさらに上流の初台1丁目、代々木4丁目から代々木八幡駅の南に至る流れは、コウホネにちなんで「河骨川」と呼ばれており、高野辰之の文部省小学唱歌「春の小川」のモデルになりました。昭和38年に河骨川が暗渠になった時、川にあったコウホネの株を掘り上げて一部を鍋島松濤公園の松濤池に移し、それが時を経て、約10年前にこの池にたどり着きました。池の設置とコウホネの移植に際してお世話になった当時の高根沢町内会長、桑原渋谷区長、渋谷区公園課の皆様、そして植物学者の鈴木利博先生にお礼申し上げます。

たこ公園の「コウホネの池」の水源ですが、初めは地下鉄トンネルの湧水を池まで導く計画でしたが、様々な事情から、今は雨水と水道水に頼っています。先程の「ふれあい植物センター」から純粋種の黒メダカを15匹いただいて放したのですが、いつのまにかピンク色のメダカが泳いでいて…。昨年富谷小学校の元校長の吉川光子先生から、6年生の時間割に渋谷を学ぶ科目(渋谷科)ができたので校内でコウホネを育てたいとのお話があり、8株お分けしたところ、今年春にきれいな花を咲かせました。また、恵比寿のたこ公園コウホネの池には小学校の生徒さんや園児たちも見学にきてくれます。こうして「春の小川」に歌われた河骨川と宇田川、渋谷川の歴史が子供たちに受け継がれていくのは心からうれしいです。ツアーの当日に皆様にコウホネの池をご案内できたことも本当に良かったと思いました。(「中編」終り)

(注1)渋谷区教育委員会『渋谷の水車業史』によると、渋谷川本流の流れは傾斜率(高度差/川の長さ)が0.3%と緩やかなため、水車の多くは水輪の下(水受板)に流れを当てる「下掛け」方式を用いていた。三田用水の分水は傾斜率が1.21.6%と本流の45倍あるため、水輪の上に流れを落とす「上掛け」方式だった。渋谷川には江戸の末期から水車が設けられるようになり、明治になると勧農政策や殖産興業政策を進めたため、本流や支流にたくさんの水車が掛けられた。
(注2)渋谷区教育委員会『渋谷の水車業史』85頁より作成。元の表では「玉川上水流」の水車、渋谷区で所在地が不明の水車を記しているが、この表では省いた。なお神山口は元の表では渋谷川に分類されているが、ここでは三田用水に含めた。


(3)加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』、渋谷郷土研究会、昭和42年。著者の加藤一郎は渋谷の郷土史家で、父と祖父は渋谷川の庚申橋の脇で庚申橋水車を営んでいた。
(4「下渋谷村野崎組名主」による村方の記録資料。内容は「文政五年午十月」の金王下橋・水車橋 「両橋入用割人足方控帳」に始まり、天明7年の打壊しと天明8年の京都大火災の記事で終わっている。
(5)『御府内場末往還其外沿革圖書』とは江戸市域の延宝年間から幕末までの土地利用の変遷を示した地図集で江戸幕府が編纂した。
(6東京メトロ『51年目の日比谷線』
https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/hibiya_line_panph_01.pdf日比谷線は、河川環境の再生を目的として東京都港区、渋谷区と連携し、平成169月から日比谷線恵比寿駅付近のトンネルに湧き出る地下水を渋谷橋下流付近で放流している。渋谷川古川のより一層の水量確保と水質改善を図り「潤いのある都市環境の再生を図ること」を目的としている。

(資料1)「国土地理院基盤地図」に描いた渋谷川


「国土地理院基盤地図」の淀橋台の部分。この地形図は、航空レーザー測量によって5mメッシュで土地の高度を測定した標高モデル。そこに渋谷川と支流、玉川上水、三田上水、目黒川などを書き入れた。川のルートは時代によって違うため、渋谷川上流が地表を流れていた明治後期の姿を基本としたが、その他の時代の川筋も重要なものは加えてある。いわば「渋谷川の地籍図」である。  

(資料2)「寛永江戸全図」における渋谷川

「寛永江戸全図」(寛永1920年頃:1642) 。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。図は渋谷駅から古川橋までの渋谷川の流れ。渋谷川の南の高台に描かれた谷戸の多くは、後に開かれた三田用水の分水ルートとほぼ対応しているが、Ⅰの「渋谷の谷戸」(図の赤丸)だけは存在が確かめられない。


 <参考文献・資料>は(上編)巻末参照。

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9月27日

目次

(下編)

3.いもり川、笄川、そして天現寺橋まで

   31 恵比寿橋からいもり川へ

32 渋谷川の北に広がる段丘面

33 広尾の風景と天現寺橋

34 青山台地と笄川

おわりに


<散歩のルート> 

【下】恵比寿橋-いもり川(どんどん橋・広尾一丁目児童遊園)-渋谷川の段丘(臨川小学校の北側斜面)-山下橋(広尾水車)―回生橋(広尾ヶ原と豊沢貝塚)―天現寺橋(笄川と縄文海進)(1630解散)

<中流の全体図・稲荷橋から天現寺橋>

3.いもり川、笄川、そして天現寺橋まで

.1恵比寿橋からいもり川へ

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[図C]渋谷川は渋谷橋の辺りから東へ向きを変え、桜橋、一本橋、恵比寿橋、新橋、山下橋、新豊沢橋、回生橋を通って天現寺橋へと進んだ。この間、北の青山台地から「いもり川」と「笄川」が流れ込んだ。渋谷川は、両岸を高台に囲まれた広い低地を広尾に向かって流れていた。約7000年前の縄文海進時には、奥東京湾の海岸線が天現寺橋近くまで上がり、広尾の南の高台には豊沢貝塚があった。縄文海進が終わると海は田町の先まで下がり、海の跡は柔らかい沖積層に覆われた海岸低地になった。なお、図の右上のおむすび型の「段丘-M面」は港区資料(1979)を参考にして描き入れた。地図はカシミール国土地理院。 


<渋谷川の流れと洪水対策>

話は「中編」の<三田用水が流れていた道>に戻ります。私たちは、今は恵比寿のビジネス街の道路となった「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の跡をまっすぐ東に進み、渋谷川下流の新橋方面に向かいました。そして、セブンイレブンがある恵比寿橋南の交差点を左(北)に曲がって流れの跡を離れ、「あいおい生命」本社前の石畳みの広場を通り、渋谷川の恵比寿橋まで来ました。明治通りは橋のすぐ先です。さて、恵比寿橋の上に立って下流の方を見ると、およそ100m先の北(左)側の岸壁に「いもり川」の暗渠の出口が見えました。丸い穴で、ふだんは水が流れていません。穴の下が真っ白になっていたところ、どなたかが「あの白いものは何だ!トイレットペイパーか?」と言ったので皆で大笑い。真相は不明ですが・・・。大雨の後は排水口から溢れた水が川に勢いよく流れ出ており、台風の後などは水のヴェールのように流れます。約200m先に新橋があり、その手前の南(右)側に「道城口(火薬庫口)の流れⅣ」の排水口(あいおい生命「別館」の下)がありましたが,今はもうありません。


     
 恵比寿橋から川下の景色。左岸に「いもり川」の暗渠の丸い出口がある。約200m先に新橋があるが、その手前まで「道城口(火薬庫口)の流れ」が伸びていた。明治時代、新橋の辺りは、昼もうっそうと暗い杉林で、そこに水車小屋が二軒立っていたという。    大雨の後は「いもり川」暗渠の出口から大量の水が渋谷川に流れ出ている。


ところで、恵比寿橋は明治29年に架けられた橋で、明治20年に設立された日本麦酒醸造のエビスビール運送用の橋として作られました。ビール工場(現在のガーデンプレイス)と恵比寿橋を繋いでいた「ビール坂」も、同じ時代に作られた運搬用の道です。恵比寿は日本麦酒醸造の言わば城下町でした。明治後半になるとこの地域の田畑はほとんど無くなり、それまで灌漑に使われていた水が工業用水になりました。渋谷川の周りには坩堝(るつぼ・金属を溶解する為の容器)
の製造所や電気会社、住宅が並びました。その結果、産業は発達したのですが、新たに洪水問題が出現しました。

それまでの田んぼは、雨期や大雨の際に自然の貯水池になってきました。しかし、田んぼが急になくなったため、大量の雨水が短時間で川に直接流れ込むようになり、大正時代に入ると洪水が渋谷川流域の各地で頻繁に起きるようになりました。最も深刻だったのは渋谷駅の周辺(とくに渋谷センター街の辺り)で、明治後期は川の上に家を建てることが許されていたので、大雨になると家ごと川に押し流されるような被害が起きました。大正9年には渋谷川上流でも洪水が起きました。国勢調査の調査員をしていた人の家族の話によると、「父が調査をしており、書類をぬらさないようにとあちこち移動させた」(『ふるさと渋谷昔がたり第2集』)とありますから、水が家の中にまで入ってきたのでしょう。

       

昭和49月の洪水(恵比寿橋付近。渋谷区教育委員会所蔵、無断転載禁。右2点も同じ。

 

昭和初期の恵比寿橋。川の護岸は板柵だった。

   改修後の恵比寿橋。川の護岸はコンクリートになり洪水は起こりにくくなった。
 

上の左の写真は昭和4年に恵比寿橋の近くで起きた洪水ですが、川の水が溢れて岸辺に建つ家々が浸水している様子が分かります。大雨の時は、支流の「いもり川」からも大量の水が流れ込みましたから、板張りの岸辺などあっと言う間に流されてしまったことでしょう。そのため、昭和の初めになると宮益橋から天現寺橋付近までほぼ全域で改修工事が行われ、渋谷川は鉄筋コンクリートの護岸になりました。味気ない岸辺ですが、地域の家や道を浸水から守る大切な構造物なのです(注1)。その後、東京オリンピックのあった昭和30年代には、渋谷川上流と共に「いもり川」も暗渠になりました。川の水は、ふだんは明治通りの下の渋谷川下水道幹線に流れ込みますが、大雨の時は雨水で薄まった下水が、雨水支線を通して渋谷川に流れるようになりました。先ほど恵比寿橋から眺めた穴が雨水支線の出口です。

 

<「いもり川」河口と「どんどん橋」>

話はツアーに戻ります。私たちは恵比寿橋を通り過ぎて明治通りに出ました。そして、歩道を右に曲がって70-80m歩き、「いもり川」が渋谷川に流れ込んでいた土地の上に作られた「広尾一丁目児童遊園地」に入りました。先ほどの白かった暗渠の出口のちょうど上です。遊園地は明治通りと渋谷川の間を繋いでいる細長い敷地で、いかにも水路の上に作った感じです。公園は川に向かって上下2段に分かれ、段差がある所は階段と滑り台などになっていました。
 


   

「広尾一丁目児童遊園地」は昔の水路の上にできた細長い公園で、中が上下2段に分かれている。右奥の下に渋谷川が流れている。別宮様撮影。

 

明治通りに架かる「どんどん橋」の欄干の跡。右は現在の公園の入口と思われる。渋谷区教育委員会(無断転載禁)。

 近くの鳥屋さんの「鳥政」から、「いもり川」に架かっていた明治通りの橋を「どんどん橋」と呼んでいたと伺いました。川の水が橋の下を“どんどん”流れていたからだそうです。「いもり川」の下流の傾きを調べると、渋谷川の手前の300mの区間で高度が10mも下がっており、ほぼ直線でした。これならば川の水はどんどん流れたことでしょう。

<寛永江戸全図に描かれた「いもり川」>

左下の古地図は、これまで時々取り上げてきた「寛永江戸全図」(以下「全図」)の「いもり川」の部分で、江戸の初めの谷戸の形と、その中を流れていた川の様子を伝えています。「全図」には、武士の屋敷、百姓の所有地、田んぼ、空地、山林、道路などが記されているため、当時の人々の暮らしもイメージできます。まず、谷戸の形ですが、やや弧を描きながら北から南に伸びており、また水源がある谷頭は左右に分かれていました。いずれも武家の下屋敷にありましたので、おそらく庭園の湧水池でしょう。


   
 「寛永江戸全図」「いもり川」の谷戸の部分。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。水源の一つである羽沢の池の傍の湿地に「いもり」が生息していた。    「いもり川」(左)と「笄川」(右、後述)。両川とも青山の高台の湧水を水源として南に流れ、渋谷川に注いでいた。茶色の線は羽沢の谷、緑の印は縄文貝塚。


左側の谷頭がある土地は徳川秀忠の旗本長谷川久三郎の下屋敷で、明治時代になると青山学院のキャンパスになりました。「全図」には川や池の姿はありませんが、内務省地理局「明治20年東京実測図」には青山学院の東側に中島のある瀟洒な形の池があり(今のアイビーホールの辺り)、そこから南に下る川の流れが田んぼの縁に沿って描かれています。右側の谷頭の場所は南青山の根津美術館の池の西ですが、今の「南青山6丁目児童遊園(旧高樹町)」の辺りでしょうか。いずれにしても、この二つの水源から発した「いもり川」は、低地の田んぼの中(または縁)をやや蛇行しながら南に流れていました。


<歴史豊かな「いもり川」>

「いもり川」は細い短い川ですが、歴史にまつわる話が色々とあります。水源地である青山学院のすぐ南には薩摩屋敷があり、NHK大河ドラマで篤姫が輿入れ前に住んでいた屋敷として一時話題になりました。この屋敷が明治になって「御料乳牛場」となり、戦後は常陸の宮邸になりました。屋敷の南側を通る道は、「中編」で触れた渋谷川の氷川橋(旧田子免橋)に繋がる古道で、並木橋を通る鎌倉道と並んで古い道です。後に述べますが、平安時代の中頃、源氏の祖である源経基が北関東から京都に向かう時に笄橋を渡って都に向かったのもこの道と思われます。

「いもり川」は薩摩屋敷の東側を南の方に流れていました。この辺りは「羽沢の谷」と呼ばれた深い谷間で、その名前は源頼朝が飼っていた白鳥がこの谷に飛んできて羽を鳴らしたという伝説にちなんでいます。「羽沢の谷」の脇が今の東京女学館(明治、大正の頃は感化院)ですが、その中にあった「羽沢の池」は湧水池で、「いもり川」の水源の一つでした。この辺りの川沿いの湿地には「いもり」がたくさん生息していたそうです。加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』には、「いもり川の流れにはいつもこの流れの名にそむかぬような赤腹に黒い斑点のあるいもりが泳いでいた」とありました。この川はホタルもたくさんいたそうで、臨川小学校では今でも毎年6月に「ホタル祭り」を行っています。時は遡りますが、「羽沢の池」の近くの高台には縄文遺跡の羽沢貝塚があります。縄文海進の時代は天現寺橋の近くまで海が来ていましたから、海の幸も豊かだったのでしょう。

<「いもり川」暗渠の道>

現在の「いもり川」暗渠の道ですが、青山学院から「東四丁目」の交差点までは、道がやや曲線を描いていて川跡を感じさせますが、その後の東京女学館までは太い真っすぐな道路で、川跡の面影はありません。この道路は、東京女学館の敷地を過ぎると変形のT字路で行き止まりとなり左右に回りますが、正面に小さな「いもり川階段」が見えます。この階段を降りると細い道が南に伸びており、これが暗渠の道です。この階段は、左(東)の日赤医療センターから来る急な下り坂と、右(西)の國學院大學に向かう緩やかな上り坂の中間にあります。谷幅は約300mで、高台と谷底の高低差は10mぐらいありますから、「羽沢の谷」はかなり大きく深かったようで、いもり川はその谷底を流れていました。

   

青山学院から「東四丁目」の交差点辺りまでは道がカーブしていて川跡を感じさせる。

   「いもり川階段」からは景色が突然変わり、暗渠ワールドに飛び込む

この「いもり川階段」の先は、それまでの流域とは趣きがかなり違っています。左側(東)は急な斜面で、右側(西)は住宅がびっしりと立ち並び、小川に沿って深い谷間を歩いている感じがします。この小道は600mほど続いており、暗渠ワールドをたっぷりと味わえますが、最後は突然広い道路に飛び出し、左側の崖も途切れて終わります。道幅はかなり広いので水路敷の跡かもしれません。この道路に沿って臨川小学校の脇をまっすぐに進み、明治通りの信号を渡ると、先ほどの「広尾一丁目児童遊園地」と渋谷川です。


<ミルク製造の水車と鋏加工の水車>

『渋谷の水車業史』によると、「いもり川」の長さは1320m、高度は最高が28m、最低が12m、傾斜率は0.012,つまり100mで1.2mありました。渋谷川本流は100mに付き約0.3mですので、傾斜は約4倍です。しかし「いもり川」に架かる水車は河口の2台だけで、河岸は田んぼでしたが、米搗きの水車はありませんでした。傾斜が大きいのに水車が少ない理由は、河骨川や宇田川上流と同様に玉川上水や三田用水の分水がないためで、季節で水量が安定しなかったのでしょう。

この2台の水車とは明治通りの「どんどん橋」の袂に設けられた永井水車と大橋水車で、ここは傾斜が大きく、流れも最が速い区間です。水車はいずれも明治以降に設けられましたが、水輪の大きさは1丈ぐらいと小さかったようで、明治の終りに廃業しました。興味深いのはその営業内容で、永井水車はミルク製造、大橋水車は理髪鋏の加工を手掛けていました。明治になると「いもり川」上流の薩摩屋敷が「御料乳牛場」になりましたので、ミルク製造と何か関係があったのかもしれません。理髪鋏(はさみ)の加工も西洋式の髪型に対応したものならば、これらの水車は今でいうベンチャー企業の走りでしょう。なお、後に述べる笄川も事情は同じで、水車は河口にある福沢水車と田丸水車だけで、こちらは米搗き用でした。福沢水車は有名な福沢諭吉の水車で、彼は狸橋の脇にも水車を一台持っていました。福沢は思想家、教育者でしたが、実業の才にも長けていてこの地域との深い関係がありました。詳しくは別の機会に。


<いもり川の河口近くの地層>


[ボーリングデータの一覧と調査地点
](再掲)

 (再掲)上図は渋谷川中流の地層のボーリングデータで、東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)と「国土地盤情報検索サイトKuniJiban」より作成。表頭ahはボーリング調査地点。TPは高度。標尺mは深さ。表中カッコ内の数値はN値(地層の硬度)。



  左図は『国土地理院・基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュ』から作成。図中a~hがボーリング調査地点。【上編】のデータを再掲。


ここで渋谷川と「いもり川」の合流点の地層を見ておきます。ボーリング柱状図(e)は、「いもり川」対岸の地層です。まず地層の特徴を見ると、上部にあるはずの関東ローム層や渋谷粘土層がなく、約50cmの上層の下に硬い砂層や礫層、土丹層が現れています。この土地を川が長く流れ、柔らかい上層を削り取ったり、降り積もる火山灰を洗い流したことが考えられ、「中編」で見た比丘橋(c)やタコ公園対岸(d)と同じパターンです。しかし上層の中味はやや違っており、表土の下に約50cmの薄い沖積層(粘土質中砂、N値<10)があり、その下が約2mの硬い砂層(N値4050)、その下がさらに硬い礫層と土丹層(N値=50)になっています。つまり礫層の上に海成の硬い砂層(上部東京層)が残っていて、その上に上流からの堆積物が薄く積もっています。上部東京層が残っているということは、(c)(d)地点より流れが緩やかだったのかもしれません。

   

臨川小学校の裏手(右の地図の赤丸)から「いもり川」の暗渠の道(左側)を見る。右側の道は高台の住宅地に向かう坂道。

 

「いもり川」暗渠の道は緩やかに蛇行しながら約600m南に続いている。道の東側には高台の斜面が迫っている。

ここでツアーの話に戻りますと、私たちは、明治通り沿いの「広尾一丁目児童遊園地を出て、明治通りの信号を北側に渡り、臨川幼稚園の脇を北に100mほど歩いて臨川小学校の裏手に出ました。ここまでの道は真っすぐ緩やかに上っていて、川がどんどん流れて渋谷川に落ちていった様子が納得できました。行く手の左手に「いもり川」暗渠の細い道が見えました。この道が先ほど述べた「いもり川階段」から来た流れの跡です。川の姿を感じさせる道なのでいつか皆さんと歩きたいと思いました。

 

32 渋谷川の北に広がる段丘面

<渋谷川の段丘>

私達は臨川小学校の裏手を東(右)に曲がり、渋谷川と並行した緩やかな坂を上り始めました。この坂道の南側(右)は臨川小学校と住宅で、北側(左)は住宅地です。この土地は23m土盛りをしているため、その先の高台は見えませんが、地形学者の図で「おむすび」型をした比較的大きな段丘です(本編初めの[C]をご覧下さい)。先の臨川小学校の裏手の高度が約15mに対し、この段丘は約20m以上25mと言われています(『新修港区史』昭和54年。段丘の高度を詳しく調べると、西側や南側の住宅地は20~23m、聖心女子大のある北東の土地は25m以上あり、「おむすび」というよりは「L字」型あるいは帯状の感じもします。この段丘の北側は日赤医療センターのある淀橋台(S面)で、高度は約30mです。つまり渋谷川の北側は、見たところは一つの斜面ですが、地形学的にはS面と一段低い段丘の2段階に分かれています。

これまで渋谷川の上流や中流を散歩してきましたが、「段丘」と呼ばれる土地が現れたのは初めてですので、段丘が生まれる理由を簡単に説明します。段丘とは高台より一段低い平坦面のことで、川が作り出す谷間の平地(河岸段丘)や、海が作り出す海辺の平地(海岸段丘、波蝕台)があります。高台の一部が単に低くて平らな場合もあります。


 

上図:海面が上がる時代は川の流れが緩やかになり、氾濫や蛇行によって谷底に低地が作られる。

   
 

下図:海面が下がる時代は川の流れが急になり、谷を深く刻むため、上図の低地が離水して段丘になる。https://www2.mus-nh.city.osaka.jp/
learning/geoguid/dankyu_zu.html

地形学によると、川が地表に及ぼす作用は海面の動きによって大きな影響を受けます。(他にも土地の隆起や沈降がありますが、話が複雑になるので省きます。) 海面が高くなる時代は、川の流れが緩やかになり、川は蛇行したり幅広く流れるため、周りの土地を広く削り取って平らな低地を作り出します。逆に海面が低くなると、川の流れが急になり、川底が深く掘り下げられるため、沿岸の土地が離水して乾いた平地になります。この平地が「河岸段丘」です。海面が上がったり下がったりを繰り返すと、この作用も繰り返されて段丘は何段にもなります。淀橋台を含む武蔵野台地には多くの段丘(面)があり、海面の変動が起きた時期によって下末吉面(S面)、武蔵野面(M面)立川面(T面)と名付けられています。S面は125000年前、M面は105万年前、T面は42万年前に生まれた段丘ですが、年代は学者によっても違うようです。下図を見ると大きな海面変動は14万年間に15回起きており、M面やT面は主に3つの時期に分けられています。専門家のお話では、実際にはさらに細かく分けられ、その動きが動植物の生態系に様々な影響を与えているそうです。

   

過去14万年間に海面は上昇と下降を15回繰り返した。5eの下末吉海進(S面)の時に関東地方は全て海となり、2のヴュルム氷期の時に東京湾は全て陸化し、1の縄文海進の時に再び奥東京湾ができて、今は再び後退した。松田磐余『対話で学ぶ-江戸東京・横浜の地形』之潮、2013180頁。


ところで『新修港区史』(昭和54年)によると、臨川小学校から聖心女子大にかけての渋谷川の北側の高台は先ほど述べたように2段階に分かれます。一つは高度30mの日赤医療センター辺りの高台で、上図のS面(5e)です。もう一つは、その南にある高度20m以上の「おむすび」型の段丘で、これは「M面(5cや5a)」です。しかし2020年に発行された『港区史・自然編』では、それまでのような「M面」の指定無い「段丘」に書き改めました。理由を問合せたところ、「M面であることが確実ではない部分もあるため」とのご返事でした。ボーリングデータが不十分なことが背景にあるようです。本HPではとりあえず二つの見解を並べて「段丘-M面」としましたが、今後の調査結果を待ちたいと思います。


<渋谷川が作った谷間の断面>

 

臨川小学校の裏を通って聖心女子大の裏門に向かう坂道。この道の北側(左)が「段丘-M面」である。渋谷川を挟んで南側には、恵比寿ガーデンプレイスの斜面と高台がある。

 

12万年前、日赤医療センターとガーデンプレイスの間に「S面」の台地が広がっていた。そこに生まれた渋谷川が、地表を削って高台の中に大きな谷間を作った。両岸の斜面には幾つかの段丘がある。「段丘X」と「社教館脇の段丘」については後述。

ここで渋谷川が作り出した谷間の断面図(右上の図)を作成して、川が生まれてから今日までのこの土地の姿をやや大胆にイメージしてみます。淀橋台に生まれた渋谷川は、日赤医療センターがある北の高台と恵比寿ガーデンプレイスがある南の高台とを結ぶ線上の土地(S面)を流れていました。二つの高台は約1200m離れており、高度は約30mです。今ではその間に広い低地部(谷間)がありますが、この谷間は自然にできたものではなく、渋谷川が約12万年をかけて地面を削り取って作り出したものです。S面の高度ですが、過去12万年の間に火山灰や塵が地表に積もっていますので、その分を約10mとすると(学者の通説です)、この分を差し引いた純粋の高度は約20mになります。渋谷川の今の高度を約10mとすると、川底には火山灰が積もりませんから、約12万年前、青山台地が現れた頃のS面の川は、今より10mぐらい上を流れていたことになります。当時は「段丘-M面」などの段丘面はまだ生まれていません。

次に、上の断面図で渋谷川の北側の斜面を説明すると、S面の下に段丘が二つあります。上の段丘は先ほど述べた「おむすび」型の「段丘-M面」で、高度は20m以上あります。その下の「段丘X」は、この度のツアーの準備をしている時に新しく見つけた細長い段丘で、次の節で述べますが、高度は1314mと考えられます。次に南側の斜面ですが、S面の下に「社教館脇の段丘」があります。これは関東学院大学教授の松田磐余氏が著作の中で述べており、初めて知った時は驚きました。さっそく「渋谷区1万分の1地形図」で等高線を調べたところ、社会教育館(恵比寿2丁目27-18)の西側に「猿の腰掛」のような形をした小さな平地がありました。「日赤-恵比寿ガーデンプレイス」を結ぶ線のやや東ですが、高度は約20mで、対岸の「段丘-M面」とほぼ同じ高さです。渋谷川の南側は川の浸食が激しいため、段丘面は削り取られて無いものと思っていたのですが、学者が虫眼鏡で探せばまだあるのかもしれません。

 

<帯状の「段丘X」を発見>


図中のk1~k7とm1~m6はボーリング柱状図の調査地点。k1~k5k6~k7の地層の構成は似ており、それらを茶色の点線で囲むと、渋谷川に沿って東西に伸びる「面」の地形が現われた。渋谷川の北側に「段丘X」が存在していた可能性がある。

さて、断面図で北側の斜面に描いた「段丘X」について説明します。渋谷川の河岸のボーリング柱状図を調べていた時、祥雲寺南側の(f)地点の地層が、これまで見てきた河岸のパターンとかなり違うことに気付きました。ふつうは上部の地層が川の流れで洗い流され、硬い礫層がむき出しになっているのですが、(f)地点は礫層の上に関東ローム層が3mほど積もっていたのです。つまり過去34万年の間、この土地に川が流れていないことになります。気になってエリアを広げて調べたところ(上図のk1~k7)、いずれも同じような地層でした。つまり「段丘-M面」よりさらに低い所に、川に沿って東西に伸びる帯状の平地(段丘)が存在していたのです。この段丘を仮に「段丘Xと名付けました。こうした地層が生まれた理由を考えてみましょう。

 渋谷川の北側の河岸k1~k7地点のボーリング柱状図。いずれも柔らかい関東ローム層が硬い礫層の上に2-3m積もっており、河岸としては珍しい層序である。なお本文にある祥雲寺南(f)はk4地点と同じ。

上のボーリング柱状図は、広尾一丁目郵便局辺り(k1)から南麻布の光林寺(k7)までを並べたものです。いずれのデータも硬い礫層の直ぐ上に関東ローム層が積もっています。関東ローム層と礫層との間にあるはずの渋谷粘土層や上部東京層(砂層)がないことから、昔はこの地点に川が流れて上層を削り流し、その後に離水して土地が乾き、その上に火山灰が降り積もったことが推測されます。離水した時期ですが、関東ローム層が3-4mあるので、1mが1万年と見て(通説です)、34万年前です。つまり、k1~k7辺りはその少し前まで渋谷川の氾濫原だったのです。この頃は極寒のヴュルム氷期(2万年前)に向かう時期で、東京湾の多くは陸化し、その中を巨大な古東京川が流れ始めた頃でした。渋谷川は古東京川(あるいは古神田川)の深い谷に向かって激しく流れ込み、川底が開析されて深くなり、川の周りの平地が乾いて離水したと考えられます。

渋谷川の南側の河岸m1~m6の地点のボーリング柱状図。礫層の上に高有機質や粘土など川が運んだ堆積物(沖積層)が溜まっている。

これと対照的なのが、上図の渋谷川の南側(対岸)にあるm1~m6地点のボーリング柱状図です。礫層の上に粘土や砂質シルト高有機質土などが積もっており、この土地を渋谷川が最近まで流れていたことは感じさせます。しかし上部の地層がとても複雑で、川が流れていた時期や離水した時期などがよく分かりません。そこで渋谷区白根郷博物館・文学館の粕谷崇先生にご相談したところ、「この柱状図の粘土やシルトは何らかの川の流れの流路の部分だと思う。水に浸かったことが何回かあって、シルトや粘土になったのだろう。しかし川の流れの年代は、再堆積があるなどするので、地層だけでは特定が難しい。鉱物などが見つかれば別だが」というお答えでした。納得です。

また「大雨が降れば川は全体に流れる。そうでないときは溜まっていたり何筋かに分かれて流れたりしたことだろう」というお話もありました。渋谷川の南岸は、川の水が地表全体を覆うように流れたり何筋かに分かれたり、一筋になったり、まっすぐに流れたり蛇行したりと、色々な姿を繰り返しながら何万年も時を経たのでしょう。近世になって河岸に堤が作られても、洪水で堤が壊れて一帯が水浸しになったことも度々あったはずです。南側のボーリング柱状図は、渋谷川南岸の川のダイナミックな変遷を物語っているようです。粕谷先生には貴重なアドバイスをありがとうございました。


<渋谷川は偶然が作り出したのか>

話はツアーに戻ります。私たちは臨川小学校の裏の緩やかな坂道を上ってお隣(東)の祥雲寺の墓地の角に出ました。この道はクランク状に曲がったバス通りの途中で合流しており、坂道を南に下ると明治通りに、北に上ると先の「おむすび」型の「段丘-M面」に入り、さらに上は平旦な青山台地の地表で、地形学的には下末吉面(S面)になります。学者によれば、1213万年前はまだ海面が高かったため(下末吉海進)、この下末吉面は古東京湾の浅海の底にあり、その時代に海水や波の力で平らに均されたそうです。

坂道の途中で皆さんにそんなことを話していたら、どなたかがこんなことをおっしゃました。「日赤の面はよく行くけど平らだよ。雨が降ってもバラバラの方向に水が流れそうな感じがした」と。この高台の平面に立って、そのように感じる方がおられるのですね。土地はどちらかに傾斜していないと雨水が流れる方角が決まりません。このS面が海底から地上に現れた時、雨水はどちらの方に流れたのでしょう。おそらく多くの偶然が重なって東や南に向かう小さな水の流れが生まれ、それが地表を削って小川になり、やがて今の渋谷川になったのでしょう。渋谷川が生まれて最初の数秒間、どちらの方に流れ出すかは何によって決まったのでしょう。そんなことを考えながら、坂道を南に下って明治通りに着きました。


  33 広尾の風景と天現寺橋

<渋谷で最古、最大の広尾水車>


   

「臨川四季の森」。この公園は玉川家の屋敷跡で、敷地内には広尾水車が回っていた。右手の崖の下が渋谷川。手塚様撮影。

 

「広尾水車跡」の看板(渋谷区教育委員会)。公園の右手に広尾水車の説明看板があって来訪者を楽しませてくれる。

私たちは明治通りの信号を渡り、少し進んで渋谷川・新橋の手前を左(東)に曲がり、100mほど歩いて「臨川四季の森(臨川児童遊園地)」に着きました。この土地は江戸時代は玉川家の屋敷で、その敷地内には「広尾(玉川)水車」が設けられていました。水車が作られたのは享保18年(1733)または元禄年中と言われていますが、もし元禄ならば享保より50年近く前のことになります。『渋谷の水車業史』によると、広尾水車の概要は「水輪24尺(約7.27m)、下掛け、樋長23間、堰高5尺5寸5分、杵100本」、「雇人10人、年間稼働数量7200石(明治21年)」で、その稼働数量は渋谷区にある32の水車の中で最も大きいものでした。この水車は将軍吉宗が鷹狩りの途中で立ち寄って休息したことでも有名でした。玉川家には将軍が入った赤い御成門があり、ふだんは固く閉ざされていたとか。この屋敷の脇に架かっていた山下橋は、別名「水車橋」と呼ばれていました。

この大きな水輪を効率よく動かすため、水理的に最高の立地で水車が作られていました。『渋谷の水車業史』によると、渋谷川は水車橋の手前で右に大きくカーブしていたため、カーブしている地点の外側に水車を設け、川の「堰」の内側に溜めた水が、屋敷に設けた樋(人工の水路)に自然に勢いよく流れ込むように設計されていたそうです。大量の水が長い水路の中を一気に流れ、直径7m以上もある水車がガラガラと大きな音を立てて回る様はさぞかし豪快だったことでしょう。


名所「広尾水車」の世界>

下の図は「広尾水車」『江戸名所図会』(2)です。大雨の後でしょうか、渋谷川に設けられた「堰」の上から水が溢れ出て、水車橋の下まで激しく流れています。橋の手前には玉川家の屋敷があり、何人かの人が出入りしています。敷地の中には母屋や倉の他に水車小屋が見えます。水車橋の上や周りの小道に様々な人たちが行き交っており、橋の上の通行人と商人は何かやりとりをしているようです。この絵には、商いをする人、川で魚を捕る人、橋を渡ろうとする女性や中間(ちゅうげん)らしき人、お茶屋を営む人、店の中で寛ぐ人などが登場し、その動きや顔の表情には活気があります。子供が何人も描かれており、水車小屋から流れる水を指さす男の子も元気そうです。右下にお茶屋があるのはこの地を見物に来る人が多いからでしょう。

 「広尾水車」『江戸名所図会』(東京都中央図書館特別展示室所蔵)。この土地に暮らす人々の様子が生き生きと描かれている。図の左奥には、水車を回す水を溜める川の「堰」が見える。絵では「堰」を超えて水が勢いよく溢れ出している。


ところで、絵のタイトルにもなっている「広尾水車(ひろおみずぐるま)」ですが、図の中ほどの左上に水輪と作業場の一部が見えるだけで、他には何もありません。有名な北斎の「穏田の水車」は、人の背丈の倍以上もある水輪を遠景の富士山と並べて描いており、水車の大きさを表そうとする絵師の心意気が感じられます。しかし、ほぼ同じ大きさの「広尾水車」の扱いは意外に小さく、描き方も控え目です。その理由は分かりませんが、「穏田の水車」のテーマが文字通り水車であったのに対し、「広尾水車」のテーマは水車ではなく、将軍吉宗が訪れたという玉川家の屋敷の周りの賑わいや、川と橋の美しい景色にあったようです。世間でよく知られている水車名をタイトルに付けたのでしょう。

   山下橋(水車橋)から右側の臨川四季の森(臨川児童遊園地)を見る。遊園地の辺りは昔は玉川家の屋敷で、その敷地の中には渋谷川の水を引き込むための長い人工の水路(樋)と大きな水車が設けられていた。


<町人のレジャースポット広尾が原>
 
 「広尾が原」『江戸名所図会』(東京都中央図書館特別展示室所蔵。無断転載禁)。広尾が原(土筆が原)は江戸の町人たちが月見、虫聞き、摘み草を楽しむ場所だった。赤丸はススキを馬に乗せて運ぶ人。

江戸時代、山下橋(水車橋)から今の広尾病院、外苑西通りにかけて「広尾が原」と呼ばれる低地がありました。将軍家の鶉や鷹の狩り場で、将軍吉宗が広尾水車に立ち寄ったのも、鷹狩りの時であったと伝えられます。御鷹場というと広大な野原を想像しがちですが、実際は約2700坪だったそうですから、野趣を生かした大名庭園といったところでしょうか。いつしかこの土地は江戸の町人たちのレジャースポットになり、多くの人が月見や虫聞き、摘み草などで訪れるようになりました。上の絵は『江戸名所図会』の「廣尾原」で、町人たちがピクニックをして楽しむ様子です。

この絵の構成は大まかに3段に分かれています。1段目は遠くに見える山々や木々、2段目はその手前で、原っぱに広がるススキや刈り取ったススキを馬に乗せて運ぶ人、そして3段目は、連れだって「広尾が原」に見物にきた人たちです。それぞれの絵の間には、大和絵に特有の雲(すやり霞)が描かれ、場面を分けています。絵の中心となる3段目を見ると、小道の脇にススキが生え、キキョウなどの草木があちこちに咲き、鶉か雀のような小鳥が飛んでいます。ご隠居さんとおかみさん、娘さんたちの一行でしょうか、弁当箱を中間に担がせてピクニックをする様子が楽しそうです。2人の職人と背中に籠を乗せた2頭の馬が野原を歩いており、前の人はキセルをくゆらせていますが、何をしにここに来ているのでしょうか。それはこの2人を見るだけでは分かりません。2段目に描かれている「ススキを馬に乗せて運ぶ人」がこの謎の解答でしょうか。


<「広尾が原」にはなぜ木がないのか>

この絵が興味深いのは、「広尾が原」にはススキなどの野草が生えているのですが、木々が全くないことです。丈の低い灌木もありません。道の脇をよく見ると、野草と並んでゴツゴツした岩や砂山のようなものが見え、草木が育ちにくい痩せた土地のようです。『ふるさと渋谷の昔がたり3』では「将軍吉宗は桜や楓を植えさせたが、生育しなかったと言われ・・・」とありました。「広尾が原」は別名が「土筆(つくし)が原」とも呼ばれていましたが、土筆は酸性の多い痩せた土地を好むと言われています。

こうした様子を地形学的に裏付けているのが、先に紹介したボーリング柱状図(g)の広尾病院前のデータです。それを見ると、約2mの表土の下は火山灰質がやや混ざった硬い礫層が露出しており、表土と礫層の間にあるはずの渋谷粘土層や関東ローム層、上部東京層がありません。つまり、「広尾が原」の土地は渋谷川と笄川の合流点で常に川が流れていたため、元々の地層や上流からきた堆積物がすべて流れてしまったと考えられます。「上編」で見た渋谷駅南口の渋谷ストリームの辺りと地層が似ているのです。「広尾が原」は砂利が多かったため、江戸末期には砂利の採掘場になりました。その結果、砂利を取りすぎて原っぱの一部が窪んでしまい、水が溜まって渋谷川から船が入れたそうです。
     

入院患者の回復への祈りを込めた広尾病院前の回生橋。病院の南の斜面と高台に縄文時代の豊沢遺跡があった。この辺りは1万年以上に渡って人々が住んでいた。別宮様撮影。

話はツアーに戻ります。さて、私たちは「臨川四季の森」を出て道なりに明治通りの歩道に入り、山下橋(水車橋)を右手に見ながら300mほど歩いて広尾病院の回生橋に着きました。この橋の名前には、入院した患者が元気で退院できるようにとの優しい思いが込められています。かつては伝染病患者が隔離される病院でしたが、今は東京都を代表する総合病院で、大島や八丈島などの患者たちを緊急輸送できるヘリコプターポートも備えています。最近はコロナの感染者を最優先で受け入れる病院としても都民の暮らしに役立っています(広尾病院の方々には本当にありがとうごいます)。

 

<豊沢貝塚と縄文海進>

話は数千年前にさかのぼりますが、この病院の裏手の高台には縄文時代に豊沢貝塚がありました。病院の南にある渋谷同胞幼稚園(恵比寿2丁目32)の辺りを中心にして、病院近くの斜面にまで広がった規模の大きな貝塚です。標高は約15mで、渋谷区の内陸にある他の遺跡と比べて低い所にあります。今は遺跡は埋め戻され、幼稚園の前に説明看板が残るだけですが、実際に現地に行って当時の景色をイメージすると、日当たりの良い高台で、北側の麓には渋谷川が流れ、その北からは笄川が流れてきて渋谷川と合流し、東側には海が見えて潮風の香りが漂い、誰もが住みたくもなるような土地柄です。ここからは旧石器時代の遺物も見つかっており、この高台に足掛け1万年以上も人々が暮らしていたことが分かります。縄文後期の出土品が他に比べて多いそうで、内陸部に住んでいた縄文人が海の幸を求めて海岸近くに移ってきたのでしょう。

   

縄文時代の年代の区別。山田康弘『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)より。



2万年前に極寒のヴュルム氷期が終わると、久里浜まで下がっていた海岸線が北に上り始め、東京湾が復活してきました。12000年ぐらい前に七号海進が起き、7000年前に縄文海進が起きると、海岸線は北関東の古河や川越にまで達し、関東地方を広く縦長に覆う「奥東京湾」が生まれました。地形学者の松田磐余氏によると、この時期、この土地の海岸線は麻布十番や古川橋を越えて天現寺橋の数百メートル手前まで迫りました。それまで内陸の奥深くを流れていた渋谷川は、広尾の少し先で海に注ぐようになったのです。こうした海進は長い間に起きたことですが、豊沢の縄文人たちは同じ土地に長く暮らしていましたから、遥か彼方にあったはずの海岸線がだんだん近づいてくること伝え聞きながら、どんな気持ちでいたのでしょう。


<貝塚から分かる渋谷川と海の関係>

豊沢貝塚では、貝塚の他にも墓坑、住居、大型住居などが発掘されました。注目されるのは、生活ごみを適当に捨てていた貝塚ではなく、ゴミ穴を掘って捨てた(あるいは使用済みの貯蔵用の穴に捨てた)「地点貝塚」と呼ばれる穴が数多く発掘されたことです。地点貝塚のゴミを下に掘り進めることで、縄文人たちの暮らしの様子が時間的、空間的に分かるようになりました。豊沢貝塚で発掘された遺物は色々ありますが、中で特徴的なものを一部ご紹介します。

   
 地点貝塚。第14地点貝塚貝層。渋谷区教育委員会(無断転載禁)。粕谷先生によるとこの地点貝塚は袋状遺構といって断面がフラスコのようになっている。     豊沢貝塚には貝類が沢山出土した。アサリの大きさは3.5-cmであったという。皆さんに発掘された貝の写真を紹介する。別宮様撮影。


『豊沢貝塚第2地点発掘報告書』(豊沢貝塚遺跡調査会)によると、豊沢貝塚では縄文前期(約7000-5500年前)の貝層が見つかっており、その中にハマグリ、マガキ、次いでアサリ、シオフキが多くありました。これらの貝は内湾の砂泥底(内湾砂泥底)に生息し、砂質の干潟で採ることができました。次に縄文後期(約4500-3300年前)の貝層を見ると、砂泥底に棲むハマグリに加えて、湾奥の泥底(湾奥泥底性)に棲むハイガイ、アサリ、オキシジミなどバラエティーに富んだ貝層へと変わり、当時貝を採っていた場所がより一層湾奥の泥底になっていった傾向が分かります。また河口や汽水(淡水と海水の混合水)に棲むヤマトシジミやマシジミも検出され、古川・笄川河口付近でも貝類は採られていたようです。

こうした貝層の変化について粕谷崇先生に伺ったところ、「縄文海進の中では縄文前期の海進が一番大きかったが、その頃の貝の種類を調べると、海から入ってきたハマグリなどの貝があったことを示している。その後、海進と海退が何回か繰り返されて生物の生態系がかなり変わった。海が陸地に入り込んでいく時代は、海で生息している貝が採れ、海が退いていく時代は、川がそこに流れてきて、海と川の両方の種類の貝がとれるようになった」。とのことでした。貝層の変化は、その時代の渋谷川と奥東京湾の関りを伝える大切なメッセージです。なお、この貝塚ではイノシシ・シカなどの哺乳類も検出されましたが、量的には僅かで、海の産物に大きく依存していました。粕谷崇「埋もれた渋谷」『歴史の中の渋谷2』を参照して下さい。



<豊沢貝塚で発掘された墓>

   

豊沢貝塚の墓坑分布および人骨出土状。『豊沢貝塚/第2地点発掘調査報告書』(1999)より。右も同じ。渋谷区教育委員会(無断転載禁)。

 

142号人骨検出状況」。貝塚のカルシウムの作用で人骨の一部が残っていたが、珍しいことだという。渋谷区教育委員会(無断転載禁)

豊沢貝塚の特徴の一つは縄文人のお墓が発見されたことです。場所は幼稚園の北側のマンションの土地ですが、幾つかの墓坑群が発掘され、その埋葬の様子から縄文人が亡くなった人々を大切に弔ったことが分かりました。墓坑が作られた時期は縄文時代の後期、約4000年前(称名寺1-2期)だと考えられるそうです。埋葬の形式は屈葬で、遺物として長径17cm、短径7cmの抱き石がありました。抱き石とは死者の胸や腹に置く石で、よく磨かれていたそうです。発掘された状態ですが、墓坑は2列に並んで8基あり、その内の2基(142号、143号遺構)には埋葬人骨の一部が残っていました(142号は頭部と下肢、143号は頭部)。墓坑の中の骨は一般に検出されないのですが、幸運なことに貝類のアルカリ成分が人骨を保存するために役立ったのです。そのプロセスは、まず縄文人が死者を埋葬した時代があり、後に墓が忘れ去られてその近くに地点貝塚が作られ、その貝塚から地中に染み出したアルカリ成分が働いて人骨が保存され、それが4000年の時を経て現代に蘇ったのです。


<天現寺橋―渋谷川と笄川の合流点>

私たちは回生橋を離れて明治通りを少し歩き、天現寺橋の交差点に着きました。ここは明治通りと外苑西通りが交差する大きな交差点で、歩道橋を使わないと渡れないため難所ですが、橋の上から眺める360度パノラマはなかなかです。何とか階段を上り、歩道橋の真ん中まで来ました。自動車が何台も足の下を通り過ぎていきます。北の青山霊園から来る外苑西通りはここで明治通りと交わり、南の白金トンネル、五反田へと向かいます。

 

天現寺橋の歩道橋から青山霊園からくる外苑西通りを見る。通りの下は笄川のルートで、今は暗渠化して下水道幹線になっている。別宮様撮影、右も同じ。

 

笄川の暗渠の出口。排水口というよりは地下トンネルである。晴れた日はこの辺りに亀やカルガモなどが集まって遊んでいる。

笄川は天現寺橋交差点よりも北側の土地を外苑西通りに沿って流れていましたが、昭和の初めにほぼ暗渠化されました。今では外苑西通りの下で下水道幹線(青山幹線)になっています。その前はこの辺りで渋谷川と笄川が合流していましたが、どのような景色だったのでしょう。ふだんは静かに合流していたでしょうが、大雨の後などは水嵩を増した二つの川がぶつかり合い、さぞダイナミックな水の動きが見られたのでしょう。歩道橋の上で辺りの景色を一望した後、外苑西通りの反対側の階段を途中まで下りて、「笄川」暗渠の出口を確かめました。それは、よくある排水口とはスケールが違い、いわば大きなトンネルの出口でした。

ところで、今回のツアーでは歩道橋を降りて笄川の説明をしてから解散する予定でしたが、私の進行の不手際で時間をかなりオーバーしてしまい、資料をお示ししただけで解散することになりました。ヒョウが降るような寒い日にもかかわらず、皆様には最後まで熱心にご参加いただき、写真を撮っていただいたり、荷物を持っていただいたり、本当にありがとうございました。以下では、お詫び方々、笄川の説明を補足します。ホームページの読者の方には報告が長くなりますが、もう少しお付き合い下さい。


34 青山台地と笄川

<笄川の名の由来>

笄川は地元では竜川や親川と呼ばれていましたが、笄川の名で世に知られるようになりました。その理由は、この川に架かった橋の名前に由来します。青山霊園から六本木通り西麻布交差点を通って天現寺橋に向かう外苑西通りの西側に、大通りに寄り添うように細い道が広尾橋まで並行して走っています。この道が昔の笄川のルートです。それが急坂で知られた「牛坂」と交わる所(西麻布4丁目・若葉幼稚園の東側)に架かっていたのが「笄橋」で、川の名前はこの橋の名にちなんでいます。下に『江戸名所図会』に描かれた「笄橋」を紹介しておきます。

   

「笄橋」『江戸名所図会』(港区立郷土歴史館「資料館便り・第70号」より。)笄橋は今の若葉会幼稚園の東側の小道(昔の笄川ルート)に架かっており(西麻布3丁目17-23)、橋の西側には急勾配で有名な牛坂があった。牛坂の名は、一説には農民が牛を登らせるのに難渋したことから付けられたという。


この橋を「笄橋」と呼ぶようになった経緯については幾つかの説があります(注3。有名なものを一つご紹介しますと、平安時代、源氏の祖となる源経基が北関東から都へと向かう途中、「笄(こうがい)」を関守に与えて危うく関所を渡ったという故事です。その時は「経基橋」と呼ばれるようになりましたが,後に子孫が「先祖の名をはばかって(『新修港区史』その名前を笄橋に変えました。笄とは髪形を作ったり髪を掻いたりする道具で、女性が髪飾りにしたり、武士が刀に付けて用いるものです。この故事の裏には「平将門の乱」に関わる関東の複雑な情勢があるのですが、話が長くなりますので省きます。ともかくこの出来事が橋の名となり、川の名となりました。


<寛永江戸全図が伝える江戸初めの笄川>

   

再掲。「いもり川」(左)と「笄川」(右)。両川とも青山の高台の湧水を水源として渋谷川に注いでいた。

 

「寛永江戸全図」部分。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。左の谷戸が「いもり川」、右の大きな谷戸が「笄川」。高台の土地は武家屋敷に割り当てられ、谷戸の低地は田んぼになっていた。

ここで<後編>「3.1」で紹介した「いもり川」と笄川の図を再掲して、笄川の流れを簡単に説明します。笄川の水源は主に5つありました。今の場所でいうと、左から時計回りに①南青山6丁目の根津美術館の池、②南青山3丁目6の辺り(青南小学校の北方)、③青山2丁目・青山通りの梅窓院、④青山1丁目の青山公園脇(昔の「蛇が池」)、⑤六本木7丁目の法庵寺です。こうした水源から始まった5つの小川が六本木通りの西麻布交差点の北側で集まって一本の太い水路となり、南の天現寺橋に向かって流れて渋谷川に注いでいました。水源地域から六本木通りまで約1.5km、そこから天現寺橋まで約1.5km、全長3kmぐらいでしょうか。笄川の長さは資料によって違いますが、水源の場所をどこにするかによって長さが違ってきます。

こうした予備知識を持って右上の「寛永江戸全図」を見ると、当時のこの土地の様子がよく分かります。まず水源③と④の間の草木に囲まれた大きな台地が徳川側近の譜代大名・青山大膳の下屋敷で、後の青山墓地です。この青山氏にちなんでこの地を「青山」と呼ぶようになりました。①~③の間にある二つの高台が③~④の間の高台と比べて大き目に描かれているのは、この高台に酒井氏など直参の武家屋敷が割り当てられていて、記録にスペースが必要だったためです。4つの高台は武家の下屋敷で占められ、それらを両側から囲むように谷戸の低地がありました。その低地の中には川が流れ、沿岸の土地はほとんどが田んぼでした。今でも流れの跡をなぞるように弧を描いた道が残っています。台地の形ですが、③と④の間の青山霊園の台地は舌の形をしているため、地理学では「舌状台地」と呼ばれています。②と③の間も小さな舌の形になっています。


   

「太平観音堂」『江戸名所図会』。青山梅窓院からの川の流れが太く描かれており、湧水が豊かであったことを感じさせる。水色は筆者。

 

明治の近代地図(1881年)で見た笄川上流の水源①~③。等高線を見ると、水源は谷戸の谷頭にある。青山梅窓院は③の谷頭近く。


左上の図は『江戸名所図会』に描かれた「泰平観音堂」(青山梅窓院)です。梅窓院の境内に水源があり、図の右下にある川の流れがそれです(水色は筆者)。絵図では太い流れと、しっかりした石堤や橋が描かれており、湧水は豊かだったようです。右上は明治初めの等高線の付いた地図ですが、これを見ると笄川①~③の水源がいずれも谷頭に位置しており、青山台地の地中に溜まった宙水が所々で湧き出していた様子がうかがえます。笄川の流域は水資源が豊かであったため、都心にもかかわらず昭和の初めまで田んぼが残る場所がありました。

   
 笄川の暗渠跡(右の白い部分とその先)が残る外苑西通りの裏道(西麻布2丁目)。    昭和24年の「境界確定図」、大岳様提供。昭和10年頃までここに「笄田んぼ」と小川があった。図中の文字と小川の青色は筆者。

地元の大岳様(西麻布2丁目)によると、ご自宅近くには昭和10年頃まで「笄田んぼ」と呼ばれた農地があり、そこを囲むように笄川の支流が流れていました。昭和24年の「境界確定図」では、この田んぼの土地は大蔵省の所有地になっていました。大岳様のお話では、暗渠の跡は上が白いコンクリートで固められているため、今でも黒いアスファルトの道と区別できるそうです。地元の方の情報は貴重ですね。なお根津美術館の池からの流れは、ちょうどこの笄田んぼの近くで梅窓院からの流れと合流しており、水路が網の目のようになっていました。その後笄川の流れはその少し南で東からの蛇が池の流れと合流して西麻布交差点に流れました。今では想像もつかないことですが、西麻布の低地は、灌漑用の細い水路が縦横に走る農村地帯だったのです。

ここで、参考までに「寛永江戸全図」の約200年後に描かれた「天保改正御江戸大絵図」(下図)の中の笄川を紹介します。笄川の支流は「全図」と同じく青山大膳の屋敷地を挟んで東と西の両側から流れ出し、そのまま真っすぐに天現寺橋へと向かっています。西側(左)の支流は「全図」では水源③の梅窓院からの流れ、東側は水源④の「蛇が池」からの流れです。「全図」には池はほとんど記録されていませんので、「蛇が池」が寛永年間からあった自然の池なのか、それとも敷地内の湧水を用いた人工の池なのかは分かりませんが、楕円形の美しい形をしていますので庭園用に作られた池かもしれません。

   

「天保改正御江戸大絵図」天保14年(1843)に描かれた笄川の上流部分(都立中央図書館特別展示室所蔵) 。青山大膳の下屋敷の両側を、梅窓院からの流れと「蛇が池」からの流れが取り巻いて合流し、太い一筋の流れとなって南の天現寺橋へと向かっている。これらの流れに囲まれた高台の土地が現在の青山霊園である。

<関東大震災から始まる笄川の暗渠化>

笄川は、大正時代の終わりまでは青山台地の南の斜面を流れ下った後に、西麻布と広尾橋を通って天現寺橋で渋谷川に注いでいました。大正12年の関東大震災によって青山霊園の西側の川岸が壊れたため、これを機会に笄川を暗渠化する計画が始まりました。『東京市麻布区全図番地界入』(大正13年、東京逓信局編纂)を見ると、それまで青山霊園の西側にあった川が地図から消えています。この工事によって名所の「笄橋」も消えてしまいました。昭和12年には下流の広尾橋から天現寺橋までが暗渠化され、江戸時代から笄川に架かっていた天現寺橋も無くなりました。この時代に道路を南に伸ばす計画が始まり、昭和10年には電車の橋ではなく人が行き交う新しい天現寺橋が渋谷川に架けられました。つまり昭和10年から12年の2年間だけは、新旧二つの天現寺橋があったことになります(注4

広尾プラザを経営されている磯野不動産の磯野社長から、広尾橋辺りが暗渠になる前の昭和7,8年頃の川の様子を伺ったことがあります。「外苑西通りは、当時電車の軌道だけの細い通りだったが、そこから今の広尾タワーズの場所にあった屋敷の中に川が流れてきていた。電車の駅が広尾橋といったので、川は広尾川だと思っていたが、呼び名はただの“川”だった。きたない川だったので、入って遊ぼうなんて気も起きなかった。川にはごみがたくさん捨ててあり、金物を拾う人たちが川伝いに屋敷の中に入ってきて、ごみの中の金物を拾い、そして川伝いに出て行った」と。川がゴミで汚れていたという話は、暗渠化されて若者の街「キャットストリート」に生まれ変わった原宿の穏田川についても聞いたことがあります。今のお洒落で清潔な街並みからは想像もつかない時代があったことを改めて感じました。


<笄川の流域の地層と傾斜>

   

「麻布広尾の秋」。(『東京写真帖』、1907年、出版社不明)。明治期の笄川。川に小さな橋が架かり、左岸は高台からの崖のように見える。「麻布広尾」という写真のタイトル、川の曲がり方、沿岸の地形などから考えて、南麻布5丁目のアジア福祉教育財団(広尾学園の南)辺りからの眺めだろうか。穏やかな流れは笄川中流部のイメージを感じさせる。

 
最後に、笄川の流域のボーリング柱状図と傾斜を見ておきます(各地点のボーリング柱状図の詳細は「東京の地盤(GIS版)」を参照して下さい。)まず水源の梅窓院近くの高台(高度28.1m、小数点以下四捨五入)ですが、ボーリング柱状図は上部に約5mの関東ローム層があり、その下に10m以上に及ぶ厚い上部東京層(海成の砂質粘土層)があります。浅海の底が海から現れて離水し、その上に関東ローム層が積もったS面の地層です。次に5つの谷戸の流れが集まる合流点(六本木通り・西麻布交差点の少し北側)ですが(高度17.3m)、この辺りの柱状図を見ると、関東ローム層が川に削り取られて消えており、硬い礫層の上に約9.5mの柔らかい沖積層(土砂)が積もっています。上流からきた大量の土砂が溜まったもので、川の傾斜がこの地域で少し緩やかになったために残ったのでしょう。ここまでが笄川の上流部だと考えられます。

 

梅窓院から5つの谷戸の合流点まで上流。それ以後広尾橋までを中流とした。中流では穏やかな傾斜だが広尾橋を越えると急に下がる。

では中流部はどこからどこまででしょう。笄川の流れの傾斜を見ると、上流部が約0.94m/100mです。次の西麻布交差点北の「5つの谷戸の合流点」から広尾橋までは約0.52m/100mと穏やかな傾斜で、実際に歩くと平らな感じです。最後に広尾橋から天現寺橋まで約400mですが、広尾橋を超えるとすぐに2mほど下がり(標高約9m)、その後は天現寺橋までほとんど平らです。急に下がっている原因が、地形の変化か近代の工事の影響かはよく分かりません。以上から、「5つの谷戸の合流点」から広尾橋までが中流部、広尾橋から天現寺橋までが下流部と考えられそうです。渋谷川に合流する手前140mの辺りの柱状図や周辺の柱状図を見ると、表土の下は硬い礫層と土丹層で、その間に柔らかい沖積層や関東ローム層などがありません。前に見た広尾病院・敷地内(標高9m)、すなわち「広尾が原」のボーリング柱状図(g)とよく似ています。渋谷川と笄川は、それこそ何万年もの間天現寺橋の周りで合流し、周りの土地を削り取り、川底を掘り下げ、また上流からくる土砂や堆積物を下流に押し流しており、その結果、広尾の低地が広い範囲に渡って同じような層序を持っていることが分かります。



おわりに

今回のツアーで取り上げた渋谷川の「中流」は、全長3kmに満たない三面コンクリートの川ですので、どこに見所があるのか疑問に思われた方もあると思います。しかし、この区間の地形や歴史、人々の暮らしを探っていくと、半日のツアーでは終わらないほど色々な話がありました。これまで行った渋谷川「上流」のツアーでは、都市化によって消えてしまった川跡を探すことに主な目的がありましたが、「中流」は川が目の前にありますので、今見える川の奥に潜む「もう一つの渋谷川」、すなわち太古の川、江戸の川、そして近代を流れていた川を探すことを目的にしました。参加者の方々には楽しんでいただけたでしょうか。ヒョウが降るような寒い中をお付き合いいただき、本当にありがとうございました。先日、<上編>のアップロードを参加者の方にお知らせしたら、「寒い日のツアーが懐かしいぐらいに、最近の暑さといったら。。。」というご返事をいただきました。そのように思い出して頂ければこれ以上嬉しいことはありません。

今後の計画ですが、この騒ぎで実施は少し先になりそうですが、渋谷川の「下流」を考えています。中流と同じく下流もツアーが企画されることはまずありませんが、とてもユニークな歴史を持っています。2万年前のヴュルム氷期の時は、大東京川の支流となって滝のように流れ落ち、7千年前の縄文海進の時は下流が海の中に消え去り、その後の海退と共に再び地上に姿を現しました。渋谷川・古川は江戸時代は灌漑用水として役立つとともに、改修工事を重ねて町づくりと深く関わり、近代になると人々の生活用水や産業用水、そして下水道として社会を支えてきました。「下流」も話題が多くてまとめるのが大変そうですが、ぜひ企画したいと考えていますので、よろしくお願いします。最後になりましたが、読者の方々には長い原稿を最後までお読みいただきありがとうございました。

(注1渋谷川の最新の洪水対策として、平成29年に一本橋から麻布十番の一の橋の間に「古川地下調節池」が設置された。地下30-40mにある長さ3.3kmの調節池で、内径7.5mの管渠の中に13.5万立方メートルの水を溜めることができる。東京都では、並木橋から渋谷橋にかけても調節池の建設を検討している。下の図は東京都建設局パンフレット『古川地下調節池』より作成。

 

(注2『江戸名所図会』は斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれたもの。天保5年(1834)と天保7年(1836)に斎藤月岑720冊で刊行。
(注3)笄橋には幾つかの伝説がある。本節で紹介したのは①平安時代に源経基が都へ行く途中、笄を関守に与えて川の関所を渡ったという説話。他にも②渋谷長者(黄金長者)の娘が目黒の白金長者の息子と橋で逢引をしていて鬼に襲われた時、若武者に姿を変えた笄の精に助けられた、③徳川家康が入国の折に甲賀と伊賀に屋敷を与えたが、その境に架けた橋なので「こうが・いが橋」と言ったのが、いつか呼び間違えて笄橋になったのか(『江戸砂子』の筆者訳)などの説がある。いずれにしても、この橋の辺りが平安時代から交通の要所であったことが推測できる。

(注4)新旧二つの天現寺橋について下左図は笄川に架かる天現寺橋(赤い丸)。「御府内場末往還其外沿革図書」(文久2年、1862)『東京都港区近代沿革図集』より。右図は笄川と渋谷川に架かる二つの天現寺橋。植野録夫「東京市麻布区詳細図」(昭和12年)『東京都港区近代沿革図集』より。

     

<参考文献・資料>は(上編)の巻末参照。

<下編>終り






5月11日



はじめに-「渋谷の谷戸」は存在したのか-

先日、「渋谷川中流ツアー」の準備で「寛永江戸全図」(江戸時代の初めの古地図)を眺めていた時、渋谷川の稲荷橋から古川橋までの南側の高台に、幾つかの谷戸(谷間)が描かれているのを見つけました。数えてみたら7つです。これらの谷戸は地図の南のいちばん端(下)にあり、しかもその一部(谷戸の出口)しか描いていないため、今まではほとんど注目していませんでした。それらの谷戸を一つ一つ見ていくと、そのうちの5つは、「寛永江戸全図」より約80年後に作られた三田用水の分水ルートと対応していることが分かりました。またもう1つは、昭和初めまで水が流れていた川の谷間であることも分かりました。誰も見ないような地図の端っこに、正確な谷戸の地形が描かれていたのです。ところで、最後の1つの谷戸、渋谷道玄坂の南に描かれた谷戸(仮に「渋谷の谷戸」と名付けます)だけは、江戸中頃からの絵地図でも、明治以降の近代地図でも確認できませんでした。近代地図で谷戸が描かれていた辺りの等高線を見たのですが、谷や川の跡を示すようなラインはありません。何ともミステリアスな谷戸ですが、「寛永江戸全図」には太くしっかりと描かれていますし、もしここに川が流れていたとすれば、新しい渋谷川支流の発見にも繋がります。そこで、先のツアーが終わった後に改めて谷戸が本当にあったのかどうかを調べてみました。(注1)

<目次>

はじめに-「渋谷の谷戸」は存在したのか-

1.「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川とその支流

2.江戸の古地図が伝える「渋谷の谷戸」と川

3.江戸・明治の古道が示す谷と川のルート

4.現代のボーリングデータから「南平台の川」を推理する

おわりに


1.「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川とその支流

「寛永江戸全図」(寛永1920年頃:1642) 。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。図は渋谷駅から古川橋までの渋谷川の流れ。渋谷川の南の高台に描かれた谷戸の多くは、後に開かれた三田用水の分水ルートとほぼ対応しているが、Ⅰの「渋谷の谷戸」(図の赤丸)だけは存在が確かめられない。

初めに、この7つの谷戸が描いてあった「寛永江戸全図」(以下「全図」)についてご説明します。この図は寛永19~20年頃(1642)に作成されたもので、当時の江戸の武家屋敷、古道、田畑、地形などを詳しく記した最古の江戸全図です。渋谷川の歴史を調べている私たちにとっては、玉川上水が開かれる承応2年(1653)より10年ぐらい前の、すなわち玉川上水の余水や三田用水の分水が渋谷川に流し込まれる前の姿を描いており、川の「原型」を考える上でたいへん貴重な史料です。

「全図」によると、渋谷川は今の明治神宮・北の池の少し北にある窪地に始まり、後の千駄ヶ谷の芝川や原宿の穏田川のルート(現在のキャットストリート)を通って渋谷駅前の広い平地に出て、そこからは当時の江戸の町を下から(西南の方から)取り巻くように東に流れ、港区の天現寺橋、古川橋へと向かっていました。「全図」で川筋が描かれているのは渋谷川本流だけですが、江戸の古地図では、本流以外は川筋を描かないことがよくあります。谷戸に川が流れていたかどうかは、古地図の谷戸と明治初めの近代地図を照らし合わせて確かめることができます。水がたっぷりないと田んぼや畑はできませんから、谷戸の中や出口に田んぼの図柄(稲株を示す記号など)があるかどうかも大きな判断材料です。近世の渋谷川の谷戸を調べると、全ての谷戸に田んぼを示す図柄があり、そこに川が流れていたことが分かります。「渋谷の谷戸」についても、この谷が実際にあったとすれば、川が流れていたと考えて良いでしょう。そもそも水の流れがなければ谷はできませんから、いつの時代かは分かりませんが、過去に川が流れていたことは間違いありません。

「全図」で渋谷川の流域を見ると、川の北側(左岸)に金王八幡の川(A)、いもり川(B)、笄川(C)、本村町の川(D)の4つの谷戸が描かれています。いずれも自然の川で、東京オリンピック前の昭和36年頃までに全て暗渠になりました。川の名前は、「いもり川」と「笄川」以外は仮名です。次に南側(右岸)をみると、7本の谷戸(Ⅰ~Ⅶ)が描かれており、田んぼの図柄からも川が流れていたことが確認できます。これらの谷戸は、西渋谷や白金台の高台から発した湧水の流れが、土地の斜面を削り取って作り上げたものです。「全図」の南側は、渋谷川に向かって開いた谷戸の出口と丘の一部で地図が切れているため(川の南岸が江戸の町外れのため)、谷頭(谷戸の頂上部)や斜面の様子は残念ながら分かりません。渋谷粘土層が積もっている土地ですので、谷頭の辺りには川の水源となる湧水池や泉があったと思われます。

上の図は、渋谷川本流に流れ込んでいた支流を「国土地理院基盤地図」に描き入れたもの(©Kajiyama)。三田用水など人工の水路も描いてある。現在、地表を流れるのは渋谷駅・稲荷橋から始まる本流だけで、支流は全て暗渠か埋め立てられている。南西から稲荷橋近くに注ぐⅠの流れ(図の赤丸印)は、存在が確かめられていない。

「全図」が作られた後の話になりますが、玉川上水の分水である三田用水が、渋谷川の南西に位置する西渋谷の台地や白金台などの尾根を流れていました。三田用水の始まりは、それまで江戸城と武家屋敷に主に給水していた三田上水が廃止されて改めて農民の灌漑用水として復活した享保9年(1724)のことですから、「全図」が作られて約80年後です。上の図では、こうした高台から渋谷川河岸の農地に流し込まれていた三田用水の分水ルートも示しています。「全図」で描かれていた7本の谷戸のうち、5本は三田用水の分水のルートと対応しています。場所は多少ずれていますが、これは後の灌漑工事のためでしょう。

渋谷川の支流と後の時代に作られた三田用水の分水の流れが対応していたということは、三田用水の歴史を考える上でとても大切なことです。この分水の流れは、三田用水の開始時に人工的に作られたものではなく、元々あった自然の川を利用していたことを裏付けるからです。こうした事情は十分想像できたことですが、これで事実がはっきりしました。三田用水を手にした農民たちは、幹線から人工の水路を伸ばし、さらに幾重にも流れを分けて田畑を潤していたと考えられます。「全図」が描かれた頃の農村の様子ですが、その前後に寛永大飢饉が起こり、幕府は米作を奨励し、雑穀をうどんや菓子に加工することを禁止するお触れを出していたので、おそらく農地は大方が田んぼだったことでしょう。

ところで、それらの5本の流れについて、三田用水の「分水口」の名にちなんでネーミングをしてみました。上流から順に、鉢山口の流れ(Ⅱ)、猿楽口の流れ(Ⅲ)、道城口(火薬庫口)の流れ(Ⅳ)、銭噛窪口の流れ(Ⅴ)、玉名川・久留島上口の流れ(Ⅶ)です。もう1本の医科学研究所の川(Ⅵ)は白金台から来る自然の川で、これは昭和13年まで水が流れていました。ここで「渋谷の谷戸」を流れる川(Ⅰ)のネーミングですが、この谷戸が実際にあったとすると、この川は、今の桜丘(旧大和田)の辺りを通って稲荷橋の近くで渋谷川に注いでいたことになります。長さは1km弱で、「金王八幡の川」や「医科学研究所の川」と同じぐらいの長さの川です。この川については、202012月に行ったツアー「渋谷川中流を歩く」でご説明し、川筋に当たる町の名をとって「桜丘の川」と呼びましたが、川の存在がはっきりしないため詳しくは説明しませんでした。その後、後に詳しく述べるように、水源が桜ケ丘の西の南平台町にあったらしいということになり、新たに「南平台の川」と名付けました。

「渋谷の谷戸」は本当にあったのでしょうか。もしここに谷があったとすると、どのような川が流れていて、その後、谷や川はどこにいったのでしょう。農地や家屋を作るために埋め立てられてしまったのでしょうか。それとも、江戸の浮世絵によくあることですが、この谷戸は絵師の創作なのでしょうか。渋谷の谷戸や川の存在を証明するような史料はまだありませんが、以下では江戸・明治の古地図や最近の地層ボーリング・データを手掛かりにして、江戸初期のこの土地の地形を考えてみます。

2.江戸の古地図が語る「渋谷の谷戸」と川

「渋谷の谷戸」があったかもしれない場所は、現代地図に照らして考えると、渋谷駅西口前の国道246号線の辺りです。江戸の風景画にはしばしば創作がありますから、近代地図に谷や川の記録がないとなると、その存在を疑いたくなるのがふつうです。しかし、歴史学者によると、「全図」は幕府が江戸の町づくりに用いていた重要な地図のようで、武家の屋敷割りの他にも、道路や橋、地形の様子が細かく描かれています。地図の方向や面積はかなり歪んでいる所がありますが、記してあることの信憑性は高いでしょう。また谷戸が描かれた土地は相模道(現在の渋谷道玄坂)と鎌倉道(八幡通り)の間にあり、町人や旅人の目に付く土地ですので、ここに想像上の谷間を書き込むことはちょっと考えられません。


 

大分県指定有形文化財「寛永江戸全図」(1642-1643)の渋谷川・道玄坂周辺部分。渋谷川南側の田んぼの中に古道がある。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。

 

「江戸大絵図」(万治 (1658-60) )。左図と同様の部分。「高松松平家歴史資料(香川県立ミュージアム保管)」無断転載禁。左図に比べて田んぼの中の道が増えている。


「渋谷の谷戸」が本当にあったのかどうかを考える上で新しい史料として、最近発見された江戸の地図をご紹介します。右上の「江戸大絵図」で、高松松平家歴史資料(松平公益会所蔵)として四国の香川県立ミュージアムに保管されています。研究者によると、明暦大火の後の万治 (1658-60) 頃の作成ということですから、「寛永江戸全図」より15年ぐらい後に描かれたことになります。この絵図の構図は「寛永江戸全図」とよく似ており(西側と東側が少しカットされた細長い形です)、サイズは約2m四方のものが二枚で一つになっています(「寛永江戸全図」は3.1m×2.65m)。絵図には山、谷、川、道などが細かく描かれ、美しく彩色もされ、余白は金箔で装飾されているかなり豪華なものです。今回は関係者のご好意で引用を許可していただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

「江戸大絵図」に描かれた渋谷川の南岸の様子を見ますと、ここでも渋谷川の南岸に7本の谷戸が描かれ、その中に「渋谷の谷戸」もしっかりあります。十数年の間を挟んで両方の地図に谷戸が描かれている以上は、この時代に、この場所に谷戸があったと考えて良いのではないでしょうか。「江戸大絵図」と左上の「全図」と比べると、川筋や道がよく似ていますが、これは「江戸大絵図」の作者が「全図」を元に描いたからではありません。渋谷という土地が江戸の郊外(町外れ)にあり、この十数年で地勢があまり変わらなかったためです。「江戸大絵図」に描かれた渋谷川の下流(古川橋から東京湾にかけて)の様子を見ると、渋谷川の川筋も含めて、「全図」のそれとはかなり違っています。当時の江戸の町の発展によって(明暦の大火の影響もあって)、武家屋敷、道、田畑の分布などが大きく動いているのです。


   <参考図>
「正保年中江戸絵図」(正保元年(1644))渋谷川・道玄坂周辺部分。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵。無断転載禁。    『東京市史稿 市街編付図第1』「正保江戸図」 渋谷川・道玄坂周辺部分。オリジナルを写したもの。
  

もう一つ、「正保年中江戸絵図」を紹介します。左上の地図は、「全図」の12年後に描かれ、「全図」を参考にして作られたとの説が有力です。渋谷川の南を見ると、先の「渋谷の谷戸」とその近くを通る古道が「全図」よりもグラフィックに描かれています。この地図の特長は、土地の利用形態がきれいに色分けされていて、一目で当時の地勢が分かることです。「渋谷の谷戸」を見ると、谷の出口のかなり手前から薄茶色に塗られており、地図の欄外にですが、同じ薄茶色の丸と共に「~如此色田也(このいろたなり)」と記してあり、谷戸の中と出口から河岸にかけての土地が田んぼであることを示しています。高台については緑色との表示で、同じように「~如此色丘及林」とありますが、地図の丘の場所は実際には褐色です。はてなと思ったところ、『東京市史稿』付録の「正保江戸図」では、谷戸の周りがきれいな緑色で描かれていました。この地図は左のオリジナルを写したものと考えられますが、オリジナルの方は長い年月を経て退色していたのですね。正保の地図も、先の二つの地図と同じように、ここに谷戸と田んぼそして丘があったことを示していました。

話が少し長くなりましたが、この節の結論として、信頼度が高い「寛永江戸全図」と「江戸大絵図」にいずれも問題の谷戸が太くしっかり描かれていることから考えて、渋谷の南西の土地に「渋谷の谷戸」が存在し、出口辺りが田んぼであったことは間違いないでしょう。「正保年中江戸絵図」でも、同じことがよりはっきりと示されていました。次の節は話を一歩進めて、「渋谷の谷戸」が現在の渋谷のどの辺りにあったのか、そこに川が流れていたとすると現在のどこを流れていたのかを、現代地図に照らして詳しく調べたいと思います。


3
.江戸・明治の古道が示す谷と川のルート

明治に入ると、陸軍省がフランス式の測量技術を用いて東京近郊の土地を調べ、彩色を施した地図を作りました(注2)。この近代地図(1880)と寛永19年(1642)の「全図」とを比べると、約240年も制作年代が離れているのですが、両地図に共通した古道を見つけることができます。江戸と明治の地図の道が似ていることは珍しくありません。現代地図の道の中にも、明治の道どころか江戸時代とほとんど同じような道があります。現代地図を見ていて、直線的に交差する道路の中に弓形や蛇行するような道がある時はたいていが江戸か明治の古い道で、ジグソーパズルのピースのように部分的に残っています。後に述べますが、先に述べた「南平台の川」が流れていたかもしれない桜丘町にも、こうした古道のピースが所々に残っています。



 
  「文明開化期」『東京時層地図』。図の茶色の二重線が国道246号、青い点線が渋谷の谷戸を流れていた「南平台の川」のイメージ。稲荷橋、セルリアンタワー(図中タワー)などを筆者が地図に描き入れた。右の「寛永江戸全図」では緑の線が国道246号、赤い線が古道(着色は筆者)である。道筋が両地図でほぼ対応しているのが分かる。


ここで、明治の初め(「文明開化期」『東京時層図』)の地図を使って小道のゆくえを追ってみます。出発点は渋谷川に架かる稲荷橋です。ここを見ると、橋を通って南西(図の下の方)に向かう小道(地図では黒い実線、筆者が赤で着色)があります。この小道は、川岸を横切ると茶畑(緑色)の丘にぶつかり、そこで北西(進行方向で右)に曲がって民家を通り抜けて道玄坂に向かっています。その民家の手前から茶畑の丘に沿うように南西(左)に曲がる道(点線)があります。これと似た道は現代地図にもピースで出てきます。


次に右上の「寛永江戸全図」を見ると、同じく稲荷橋の辺りから古道が南西に伸びており、川岸の田んぼ(茶色)を横切ると、やはり高台にぶつかって北西(右)に曲がり、そのまま道玄坂(相模道)へ向かっています。そして、少し進んだ所に問題の谷戸が南西の方向に太く描かれており、古道はその谷戸の出口の土地を横切っています。この谷戸に沿って南西(左)に曲がる道はありませんが、谷戸の南側の輪郭と明治初めの地図の茶畑に沿う道はほぼ同じライン上にありますので、二つの地図は同じ地形を示していると考えて良いでしょう。

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現代地図に「寛永江戸全図」にある「渋谷の谷戸」と古道を描き入れてみた。赤い線は「寛永江戸全図」の古道、茶色の点線は谷戸の輪郭のイメージ、水色の点線は谷戸を流れる川(南平台の川)、すぐ下の灰色の線は明治初めの地図の茶畑の丘。谷戸の谷頭は道玄坂上の南の高台に、谷戸の出口はセルリアンタワーの北側にあったようだ(説明は後出)。赤丸(a~e)は地層のボーリング地点で、データの分析は次節を参照。

 

江戸や明治の初めの道の跡は、現代地図の中にも見ることができます。国道246号の南側の桜丘町は、先ほど述べましたが、整然とした真っ直ぐな道路の中に妙な形をした道が所々にあり、中でも目につくのはセルリアンタワーの南側を通る弓形の道です。これは「全図」では南西に伸びる「渋谷の谷戸」の南側の輪郭に当たるようですし、明治初めの地図では茶畑に沿って南西に伸びる小道で、高台で三田用水を横切ります。現在の国道246号はほぼ茶畑の丘と並行していますので、「渋谷の谷戸」は茶畑から下った246号の辺りにあったと考えて間違いないでしょう。さらにこの谷戸に川が流れていたとすると、先に名付けた「南平台の川」ですが、この谷間を北東に流れて河岸の平地に入り、渋谷川に注いでいたと考えられます。

 

 渋谷駅の西にある246号の歩道橋(セルリアンタワーの北側)から渋谷駅方面を見る。川はこの辺りを流れて渋谷川()に向かっていたらしい。   明治初期の茶畑の道の名残りか。道は丘の上を南西に伸びていた。おそらく谷戸の南側の高台か斜面を通っていたのだろう。左の木立はセルリアンタワー。

興味深いことに、セルリアンタワー西側の桜丘公園近くのマンション用地で、旧石器と縄文中期の遺跡が発見され、遺物が出土しました。渋谷区の縄文遺跡のほとんどは川の近くの高台にありますので、この近くに川があったことは確実です。これが「南平台の川」の傍証だと言いたいところですが、この遺跡は渋谷川本流の南西の高台に位置していますから、旧石器や縄文時代の人々が、渋谷川本流に降りて、今の稲荷橋の辺りで草の実や魚を捕ったり、水を飲みに来た小動物を捕まえたりしていたとも考えられます。この縄文遺跡を理由にして「南平台の川」があったとまでは言い切れません。しかし、古地図に描かれた谷戸の出口は田んぼになっていましたから、話を繰り返すようですが、ここを川が流れていたことは十分考えられます。

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セルリアンタワーの西側にある桜丘公園。この近くのマンション用地で旧石器と縄文中期の遺跡が発見された。縄文人たちはこの高台に暮らし、近くの川で獲物を採取していたと考えられる。


この節の結論ですが、古地図に描かれた古道の道筋から考えて、国道246号に沿って「渋谷の谷戸」があり、セルリアンタワーの北側に谷戸の出口があったようです。さらに、この谷戸の中を「南平台の川」が通って、渋谷川の河岸に流れ出ていたことが考えられます。前節では、渋谷駅の南西の土地に谷戸があったらしいという結果でしたが、話は前進して、その谷戸が現代ではどこにあり、川があったとすればどの辺りを流れていたかの見当がついてきました。さて、次の問題は、もし川が流れていたとすると、その水源はどこにあったのかです。水源がなければ川の存在を語ることはできませんから。


4.現代のボーリングデータから「南平台の川」を推理する

川の水源は、川筋を遡った先の高台にあるはずです。谷戸の出口があったセルリアンタワーから西へ約300mほど遡ると、「道玄坂上」の交差点の南側に広がる高台に出ます。この土地は南平台町の西側で、標高は3435mあり、渋谷駅の近くでは最も高い所です。江戸時代に描かれた道玄坂の風景画を見ると、絵師がオーバーに表現したのでしょうが、道玄坂は森に包まれた山道でした。上山和雄編著『歴史の中の渋谷』(雄山閣)によると、「ある時(明治30年頃・・・筆者)に砲兵隊が道玄坂を移動中に誤って砲車を横転させ、複数の兵士が死亡する大事故が発生して、そのため急遽5メートルほど削らせた」とありますので、以前は標高が40mぐらいあったのでしょうか。

『ふるさと渋谷の昔がたり』(渋谷区教育委員会)によると、明治、大正を通じて道玄坂の道路は何回も改修され、昭和になっても勾配を緩やかにするために坂の上を削っていたそうです。いずれにしても、江戸時代のこの土地は、深山幽谷と言えないまでも、森林に包まれた険しい高台であったようです。近代になって住宅地として開発され、南平台と言えば元首相三木武夫の私邸が有名ですが、陽の当たる平らな高台というイメージですが。

道玄坂上の北側の崖下には神泉谷が広がり、昔空鉢仙人が杖でついたら出てきたという伝説の弘法湯がありました。今の都会の風景からは想像もつきませんが、この辺り一帯は水資源が豊かなところだったようです。地形学的にいうと、道玄坂上や南平台町の地下には宙水(地中にある地下水の貯まり場)がたくさんありそうで、それが地表の湧水になって池や沼、泉を作り、小川の水源にもなっていたのでしょう。これは仮説ですが、この宙水が崖から湧き出し、川となって東の方に流れ、今の南平台町や桜丘町の斜面を削って谷戸を作ったのではないでしょうか。それが江戸時代の初期に流れていた「南平台の川」であったと。この仮説がどこまで科学的なデータによって裏付けられるのか、次に地層のボーリングデータを見てみましょう。


東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)より作成した「南平台の川」の近傍のボーリング柱状図。道玄坂上の高台a, b地点でローム層が粘土化しており、ここに水が滞留していたり、川が流れていたことを推測させる。c,d地点は谷戸の両側の高台で、関東ローム層が積もっている、e地点は渋谷川の河岸の低地で、川の流れで関東ローム層が削られている。


地形の成り立ちを科学的に検証する手がかりの一つとして、地質のボーリング調査(ボーリング柱状図)があります。今までの経験では、こちらが調べたい地点にボーリングデータがないことが多かったのですが、この土地は道路や高層ビルが次々と作られているせいか、幸運にもピンポイントに近い所で5つのボーリングデータを得ることができました。ボーリングされた各地点(a, b, c, d, e)は、先の現代地図にプロットしてありますのでご覧ください。

先ず谷戸の北側と南側の高台にあるcとd地点のボーリング柱状図です。この地点の地層は、渋谷や新宿を含む淀橋台によく見られる層序(地層の並び順)で、地形学では下末吉面(S面)と呼んでいます。地層のいちばん上は表土(埋土)、続いて富士山噴火の火山灰でできた関東ローム層、その下に主に箱根火山の噴火で作られた渋谷粘土層があります。その下は、淀橋台がまだ海底であった13万年ぐらい前にできた海成砂層で、さらにその下は、淀橋台が海になる前に陸地であった1624万年前にできた東京礫層(太古の多摩川が運んだ礫)です。このように、現在の淀橋台の土地(新宿、渋谷、白金、高輪など)は、この数十万年の間に海底になったり陸になったりを数回繰り返しています。

私たちが暮らしている淀橋台ですが、12万年ぐらい前に海底から徐々に現れ(地球が氷期に入って海水が凍結し、海岸線が後退を始めたためです)、その上に川が流れ始めました。川が流れた場所は、その水が火山灰や海の砂でできた柔らかい地層を削り取りますので、河床部に硬い礫層が出てきます。これは後に述べる河岸のe地点の地層です。cとdの地層を見ると、表土から関東ローム層、渋谷粘土層、下末吉層、東京礫層とほぼ順序通りに並んでいますから、この地点に川が流れたことはなかったと考えられます。ということは、cとd地点は「渋谷の谷戸」の外側で、「南平台の川」の両岸の高台ということです。

次に道玄坂上の南側の高台にあるa地点を見ると、礫層は地表から20mぐらい下にあって、その上に地層がたっぷり残っていますから、ここを川が流れていたとは思えません。それにもかかわらず、ボーリング柱状図を見ると、関東ローム層があるはずの辺りが粘土層になっています。このような地層は、淀橋台の高台の湧水が多い所に見られるもので、関東ローム層が地中の水の作用で粘土化したと考えられます。川の流れではないものの、長い間にわたり水が溜まっていて、関東ローム層が変質したのでしょう。a地点のさらに南のb地点のボーリング柱状図を見ると、地層がa地点と似ていて、上部5mが粘土質ローム層となっています。ここでも地中の水が長く滞留していて粘土化したのでしょう。ボーリング柱状図ab地点は、地下に宙水が多いことを示しています。渋谷区郷土博物館文学館・館長の粕谷先生のお話によると、「ローム質粘土層や粘土質ローム層は『水付きローム』と言って、水によって関東ローム層が粘土質に変わったもので、水が浸みだしている所か溜まっている所に見られる」そうです。粘土になっているa地点は、水が溜まっている程度が大きくて、湧水池のようなっていたのかもしれません。

ボーリングデータの結果を総合的に考えると、これは一つの仮説ですが、ab地点の辺りは「南平台の川」の水源であったと考えられます。ここに湧水池があったのでしょうか、それとも幾つかの湧水の泉があって、それが集まって一つの流れになったのでしょうか。この地点の地層とよく似た例は、淀橋台の他の土地にもあります。宇田川上流部(代々木大山公園北)にある消防学校西原寮の湧水跡近くのボーリングデータを見ると、地表から4m~9mにある関東ローム層が水による変質で「ローム質粘土層」になっていました。また渋谷川支流「いもり川」の脇に大正末まであった東京女学館の池の近くでも、関東ローム層が地下4mまで粘土化しています。

ここで素朴な疑問なのですが、粘土化したローム層がどうして表土のすぐ下にあるのでしょうか。考えられることの一つは、最近までこの水源から水が流れ出ていたということです。あるいはこの近くに湧水池や沼があったことも考えられます。地形学者によると、富士火山灰は平均で1万年に1m積もるそうですが、もし2~3万年前に水が枯れていれば、その後には火山灰が降り積もりますから、関東ローム層が残っているはずです。もう一つの理由は、先にも述べたことですが、道玄坂が再三にわたって改良工事が行われ、高台の上部が削り取られたということです。上部が数メートル、あるいはそれ以上削られれば、地中の宙水の周りの土は地表近くに出てきて、住宅用に整地した表土のすぐ下に並ぶことになります。S面の高台の地層がいきなり水性の粘土から始まるというのは、想像力をかきたてますね。

最後にe地点のボーリング柱状図ですが、標高3133mの高台にあるa, b, c, d地点とは違って、標高14.85mの河岸低地にあります。この地点の地層を見ますと、1.8mの表土の下に約1mの高有機質土という柔らかい畑の土が続き、その直下に硬い礫層や砂層があります。地下7m辺りからは礫層とシルト・粘土が続き、その下は渋谷ヒカリエを支えている基盤と同じ堅固な土丹層です。高有機質土は、ここに田畑があったことを思わせます。その下は固い地層ですので、かつてここに川が流れており、川の水が柔らかい地層(関東ローム層や渋谷粘土層)を削り取ったことを感じさせます。e地点が川底であった時代があったのでしょう。この地点は江戸時代の初めまでは河岸だったようですが、ここを流れていたのは「南平台の川」なのか、渋谷川本流なのか、あるいはその両方なのでしょうか。

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上のグラフは、仮説の「南平台の川」ついて、水源と思われる南平台町から渋谷川との合流点までの傾斜を調べたもので、標高は現在のものです。水源から合流点まで、ほぼ250m間隔で傾斜を見ました。水源である地点a, bの辺りは水が滞留するか緩斜面を流れる感じです。次に、谷戸の途中から出口までは急流になり、その後は渋谷川岸辺の低地をゆったり流れ、地点eを通って渋谷川に注ぎます。標高35mの南平台町の高台と15mの渋谷川との落差は20m、水源エリアから渋谷川までの長さは約780mありますから、平均の傾斜は26/100020/780m)です。この数値を渋谷川や三田用水の傾斜と比べると、渋谷川上流の河骨川の傾斜は1/1000、渋谷川の渋谷橋から天現寺橋までは4/1000,水車を回していた三田用水・鉢山分水・猿楽分水・道城口分水などは1216/1000ですから、「南平台の川」は急流であったようです。おそらく谷戸の出口の先までゴーッと勢いよく流れ落ち、その後は緩やかに渋谷川に注いでいたのでしょう。谷戸の出口から渋谷川までの川筋は分かりませんが、真っ直ぐに進めば渋谷駅西口の辺りで、北に向かえばハチ公口の先で、南に向かえば稲荷橋よりさらに下流で、渋谷川に合流したと考えられます。

なお、この図の標高は現在のもので、寛永時代の地形とは細部で違っていたようです。先の『歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-』にもありましたが、道玄坂上の土地は明治以降に上部が削られ、それも再三にわたりました。水源地帯の標高は、この図よりもかなり高かったと考えられます。道路の先に軍事施設があって車両や兵士の往来も激しく、天皇陛下の行幸もあったそうですから、道路整備と併せて周りの土地も徹底的に整地されたのでしょう。この辺りを実際に歩いた印象ですが、谷戸の出口辺りの土地、今のセルリアンタワーの北側は、水源地帯とは逆に盛り上がっているようにも感じました。国道246号やビル建設のために、盛り土されたのかもしれません。全体的に見て、元の水源地帯は今より高く、谷戸の出口は低く、川の傾斜はさらに急であったと思われます。

この節では、「南平台の川」の水源がどこにあったのかを考えました。道玄坂、南平台町、桜丘町の地質ボーリングデータを探したところが、希望の地点に近いデータが得られました。246号の近くにあった谷戸をさかのぼる形で南平台町の高台まで行と、そこには宙水の影響を受けた粘土や粘土質ロームが厚く分布する土地があり、ここに「南平台の川」の水源があったことを強く感じさせました。その他の地点についても、これまでの川筋の仮説にほぼ沿うような地層が分布していました。「渋谷の谷戸」には川が流れていたようだという結論です。

おわりに

最後に話をまとめます。「寛永江戸全図」や「江戸大絵図」に描かれた「渋谷の谷戸」ですが、古地図の信頼性や、そこに現れた古道の道筋の様子などから、今はその跡は全くありませんが、南平台から渋谷駅にかけての土地に谷戸(谷間)があったらしいという結果になりました。そうだとすると、当然その中をいつの時代か川が流れていたことになります。道玄坂、南平台町、桜丘町などの地層ボーリングデータの分析からも、渋谷川に流れ込む小川があったようだという結論にもなりました。その小川は南平台町の高台を水源とし、国道246号に沿う形で渋谷駅に向かって流れ、セルリアンタワーの北で谷間を抜け出て、河岸の平地を通って渋谷川に合流していたと考えられます。古地図には、谷戸の中や出口の周りに田んぼが描かれていたことから、江戸の初めにここに川が流れていた可能性はかなり高いです。この記事を読まれた方が、寛永と万治の古地図に描かれた「渋谷の谷戸」と、「南平台の川」は存在したかもしれないぐらいに思っていただければ、この難しいパズルに挑戦したかいがあったというものです。

次回のトピックスのテーマは昨年末に案内人を務めた「渋谷川中流ツアー」で、今大急ぎで報告を仕上げています。コロナ禍の中、突然の雹(ひょう)にもめげず渋谷駅から天現寺橋まで3時間半かけて歩き、渋谷川「中流」の地形、歴史、人々の暮らしなどを探りました。「あんな殺風景なコンクリートの川に話題なんてあるのかな」と言われそうですが、それが面白い話が山ほどあるのです。ぜひご期待下さい。

(1) 20201219日に「北沢川文化遺産保存の会」主催で渋谷川中流ツアーを行った。その報告は準備中ですが、「渋谷の谷戸」と「南平台の川」(いずれも仮称)については存在がはっきりしないため、ツアーの際には詳しく説明しなかった。その後、もう一枚の江戸初期の古地図を入手し、また地層ボーリングデータを調べ直して新たな結論を得たため、ツアーの報告に先駆けてご紹介したい。
(2) 「明治前期測量2万分1フランス式彩色地図」の「東京府武蔵国南豊島郡代々木村荏原郡上目黒村近傍」(1880年12月)

<参考文献・資料>

「寛永江戸全図」(寛永19-20年)之潮、2007

「正保年中江戸絵図」(正保元年(1644)頃) 東京都立中央図書館所蔵

「江戸大絵図」(万治 (1658-60) 頃)「高松松平家歴史資料(香川県立ミュージアム保管)」

「渋谷区遺跡分布地図」渋谷区教育委員会

「東京時層地図」日本地図センター

渋谷区『新修渋谷区史1966

渋谷区教育委員会『ふるさと渋谷の昔語り第2集』1988

金行信輔「寛永江戸全図解説」之潮、2007

上山和雄他編著「歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-」雄山閣、2011

芳賀ひらく『江戸東京地形の謎』二見書房、2013

ウェッブサイト:歴史まとめネット-日本の農業の歴史

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