(注3)渋谷の「渋」の由来については諸説がある。渋谷区サイトの説明 を要約すると、①昔この付近は入江で「塩谷の里」と呼ばれていた。その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わった。②平安時代の末、この辺りの領主であった河崎重家が京都御所に侵入した賊を捕えた。この賊の名を渋谷権介盛国と言ったが、堀川の院は河崎重家に「渋谷」の姓を与えた。これにより重家の領地・谷盛庄も「渋谷」に変わった。③この地を流れる川の水が鉄分を多く含んで赤さびの「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていた。④川の流域の低地がしぼんだ谷間だったため、など。
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「東京近傍一万分の一地形図」明治42年測図、大日本帝国陸地測量部、明治42年
「東京近傍一万分の一地形図」明治42年測図・大正10年第二回修正測図・同14年部分修正、同上、大正15年
「東京時層地図」日本地図センター
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