2020年・バックナンバー12


 
000


かつて渋谷川は、玉川上水の余水と天龍寺の池からの流れを本流とし、宇田川、笄川、吉野川、玉名川などの支流を集めて東京湾に注いでいました。そして水車や輸送による産業を生み出し、地域の人々の生活を支えてきました。昭和に入ると流れの多くは地上から消えてしまいましたが、地底にはそのルートが今も豊かに息づいています。私たちは昔の渋谷川の岸辺を歩き、残された痕跡や川の物語を探すことにより、その歴史と記憶を今に再現し、未来へとつなげて行きたいと思います。なお、渋谷川とつながりが深い三田用水のホームページを作りましたので併せてご覧ください。

 
 2020年
 2月20日 「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」(上) --初台と代々木の水源を探るー
 2月26日 「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」(中) - ---参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へー
 3月12日 「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」(下)
 -新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどるー
 3月22日 江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎
       
 
 2023年、バックナンバー15
渋谷のコウホネの話-渋谷区立富谷小学校学校4年生「シブヤ未来科」の授業からー/『江戸名所図会』に描かれた駒場「空川」
 2022年、バックナンバー14
駒場「空川」の歴史と文化をあるく(上) 駒場野公園から東大前商店街へ/(中)将軍の御成道から駒場池へ、そして古代人を偲ぶ/(下)偕行社崖下から遠江橋を経て河口部へ
 2021年、バックナンバー13
たこ公園コウホネの池が10年目の「底浚い」/「渋谷川中流」を稲荷橋から天現寺橋まで歩く() 淀橋台に広がる渋谷川の歴史と現在の姿/(中)渋谷川と三田用水で水車が回る/(下)渋谷川を通して見る広尾の地形と歴史/古地図に見つけた渋谷・南平台の谷間と川「渋谷川中流ツアー報告」番外編
 2020年、バックナンバー12
江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎/「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」() 初台と代々木の水源を探る() 参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ/() 新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる
 2019年、バックナンバー11
渋谷の穏田川と芝川を歩く(上)「寛永江戸全図」に描かれた渋谷川の水源を探る(中)水の町渋谷をイメージする下)キャットストリートに川の流れを追う
 2018年、バックナンバー10
渋谷の新名所/渋谷川遊歩道の名前が「渋谷リバーストリート」に決定/「代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(前編・後編)/夏休み番外編:動くナウマンゾウとツーショット/渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(後編)
 2017年、バックナンバー9
渋谷川ツアーの報告:渋谷川の水源を求めて新宿・千駄ヶ谷を歩く(前編)/新宿駅東南地域の発掘調査から、渋谷川2万年をイメージする
 2016年、バックナンバー8
渋谷川ツアーの報告:渋谷川上流の河骨川と宇田川を歩く(前編・後編)/三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
TUCの講演会より: 都心の川・渋谷川の物語 -渋谷川の過去から未来へ-/その他
 2015年、バックナンバー7
The Yoshino River Walk:: Gama Pond & Juban-Inari Shrine
/渋谷川ツアーの報告:宇田川上流と代々木九十九谷を歩く(編・後編)/鈴木錠三郎氏の「絵地図」に描かれた大山の池をさがす-大正11年頃の宇田川上流の風景から-/その他
 2014年、バックナンバー6
渋谷川稲荷橋付近でアーバンコアの建設工事始まる-渋谷川の起点が水と緑の空間に- /The Hidden Kogai River & Legend of Aoyama area /渋谷川ツアーの報告:麻布・吉野川の流れを歩く(前編・後編)/A Tributary of the Shibuya River flowing by Konno Hachimangu Shrine /渋谷駅東口再開発のサプライズ-渋谷川暗渠が53年ぶりに姿を現した/その他
 2013年、バックナンバー5
「渋谷川ツアーの報告:笄川の暗渠(前編)西側の流れと根津美術館(後編)東側の流れと地域の歴史/水と緑の会・渋谷リバース共催「あるく渋谷川ツアー」の報告:渋谷地下水脈の探訪/恵比寿たこ公園のコウホネを「せせらぎ」に株分け/「せせらぎ」にコウホネの花第1号!/に渋谷川の起点が変わる、ルートが変わる/「渋谷川ツアーの報告:宮下公園の渋谷川暗渠と金王八幡宮の支流/その他
 2012年、バックナンバー4
たこ公園の小さな池に自然がいっぱい/渋谷川ツアーの報告:ブラームスの小径とキャットストリート/『あるく渋谷川入門』が点訳本に」/渋谷川(古川)支流・白金台から五之橋への流れ・その1とその2/
 2011年5月―10月、バックナンバー3
「発見!古川物語~歴史編~」を港区のケーブルテレビで放映/古川探訪のツアー「天現寺橋から東京湾浜崎橋まで」/恵比寿たこ公園にコウホネの池が完成/中田喜直と「メダカの学校」/その他
 2011年1月―4月、バックナンバー2
渋谷駅の地下にひそむ渋谷川(テレビ東京放映)/緑の中の蝦蟇(がま)池の姿(NHKブラタモリ)/『あるく渋谷川入門』の登場人物(当時5歳)からのお便り/その他
 2010年6月―12月、バックナンバー1
白金上水と麻布御殿/幻の入間川を歩く/箱根湿生花園のコウホネをたずねて/ビール工場のオブジェ/資料と証言から見る「蝦蟇(がま)池」の移り変わり/スイカを冷やした清水が麻布に/その他

東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)より作成した「南平台の川」の近傍のボーリング柱状図。高台のa, bでローム層が粘土化しており、こ
ravel a
2020.2.20

                   

はじめに

渋谷川支流の河骨川が流れていた地域は、西側は代々木八幡宮、東側は明治神宮・代々木公園の二つの高台に挟まれた南北に広がる低地です。初台と代々木の小高い丘から発した川の流れは、少しずつ標高を下げながら南東に向かい、小田急線を横切った所で向きをやや南に変えました。そして富ヶ谷1丁目で初台川や宇田川上流と合流し、宇田川本流となって再び向きを南東に変え、宇田川町で三田用水・神山口分水の流れを受けて、渋谷の宮益橋で渋谷川に注いでいました。川の長さはおよそ4kmで、これが今回歩くルートです。

明治以降の河骨川・宇田川の歴史を見ると、富ヶ谷1丁目を境として、上流の河骨川と下流の宇田川とでは様子がかなり違っています。河骨川は、この地で唱歌「春の小川」が生まれたようにのどかな田園風景が広がり、水辺には昭和の初めまでカワウソが現れ、川面にコウホネの花が咲いていました。こうした風景の一部は、戦後の高度成長期まで残りました。これに対し宇田川流域は、明治末から開発が進み、陸軍練兵場、小田急線、住宅地、幹線道路などの建設が続き、戦後もワシントンハイツ、オリンピック競技場、代々木公園などの建設、渋谷駅の再開発など、時代によって大きく姿を変えてきました。今回のツアーでは、のどかな自然に育まれた河骨川と、それとは対照的に明治から昭和にかけての歴史の荒波を正面から受けた宇田川の川跡をたどります。ご報告が「上・中・下」と長くなりますが、よろしくお願いします。

r

目次>

はじめに

(上)初台と代々木の水源を探る

1. 河骨川流域の地勢と歴史

2. 水源1(初台)の場所を推定する

3. 水源2(山内邸の池)と周辺の土地柄

4. 幕末『大江戸鳥観図』と 大正「大東京鳥瞰図」にみる河骨川

5. 河骨川暗渠の道と線路脇の「開口部」

(中)参宮橋駅南から富ヶ谷1丁目へ

6. 小田急線脇の水路を歩く

7. 河骨川流域で育った人々の記憶

8. 「ワシントンハイツの流れ」を推理する

9. 八幡橋を通って河骨川終点の宇田川遊歩道へ

(下)新富橋から渋谷駅の宮益橋まで宇田川本流をたどる―

10宇田川遊歩道を軍人橋から桜橋南八橋)、五石橋へ

11神山町を流れていた宇田川側流を探る

12宇田川流域の変遷と三田用水・神山口分水

13大向橋、宇田川橋を通って渋谷川合流点の宮益橋へ


散歩のルート(上)

京王線初台駅前-河骨川水源1(初台1丁目・山手通り西)―河骨川水源2(代々木4丁

目・旧山内邸の池)―水源1と2の流れの合流点―「ほそ」の小道―「切通し坂」―「ほそ」のU字

溝―河骨川岸壁の跡― 二の橋(山谷稲荷橋)―小田急線1号踏切―河骨川「開口部」(

参宮橋駅南の線路脇)→<中>へ

r<河骨川・宇田川の全体図>

 

図は渋谷川支流の河骨川と宇田川が流れていた地域。河骨川は初台1丁目と代々木4丁目の2カ所の高台を主な水源として発し、代々木八幡宮南の富ヶ谷1丁目で初台川や宇田川上流と合流して宇田川本流となった。その後は現在の代々木公園の西側を南下し、松濤橋で三田用水・神山口分水からの流れを併せ、渋谷道玄坂に出て宮益橋で渋谷川に注いでいた。河骨川と宇田川は今は暗渠であるが、渋谷川は渋谷駅南の稲荷橋から地上を流れて東京湾に注いでいる。川の流れは『渋谷区文化財マップ』(渋谷区郷土博物館・文学館)と『東京市渋谷区地籍図下巻』(内山模型社、昭和10年)等から作成した。


なお、河骨川の名前は水生植物のコウホネにちなんでいる。昔は宇田川を河骨川と呼び、明治・大正までコウホネが生じていたという(大正10年『渋谷町史』)。また宇田川下流の大向通り(松濤から北側の川筋の道)を「こうぼね谷」や「蛍谷」と称していた(加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』。川面には黄色い花が点々と咲いて長閑だったことだろう。


1.河骨川流域の地勢と歴史

1.河骨川流域の地勢と歴史

[図A]河骨川は水源1(初台1丁目)と水源2(代々木4丁目:山内邸の池)から発し、T字の形で合流して主流となった。他に小さな側流があり、また灌漑用に何筋もの細い水路があった。地図の川のルートは「豊多摩郡代々幡村全図」(『東京市15 区・近傍34町村』明治44年、覆刻、人文社)、「中野」『東京1万分の一地形図集成』(大正14年修正、大日本帝国陸地測量部・右図)および『東京市渋谷区地籍図下巻』(昭和10年、内山模型社)等から作成。

<豊かな自然を残した河骨川流域>

私たちは京王線初台駅に午後1時に集合し、駅前でこれから歩くルートについて簡単におさらいをしました。実は今回のツアーは雨のため一度延期していたので、天気が良くてホッとしました。さて、これから歩く河骨川の川沿いの土地は、とても湧水が多い地域であちらこちらから水がしみ出していました。地元の方の話では「山谷稲荷橋のあたりで少しパイプを打ち込むと水が噴き出してきた」そうです(後出)。また参宮橋駅の150m位西にお住まいの方も「ここから水が浸みだしていたと聞きました」と道ばたを指さしておられました。明治末までこの地域は湧水により作られた一面の田んぼで、昭和の初めまでその田園風景が残りました。

   

江戸時代の代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵・無断転載禁)。中央紺色の3つに分かれた部分が水田で、それらの中を川(薄い水色)が流れている。右から河骨川、初台川、宇田川上流。上部の紺色の波形の線は玉川上水。



上図は江戸末期のこの地域の様子を描いた「代々木村絵図」です。3つに分かれた紺色の部分が谷間に開かれた水田で、その中央に川が流れています。右(東)が河骨川です。そして代々木八幡の台地を間に挟んで真ん中が初台川、左(西)が宇田川上流(「西原・上原の流れ」)です。今回のツアーの前半では、河骨川の暗渠の道を流れに沿って進み、代々木八幡の麓の富ヶ谷1丁目まで歩きます。

河骨川流域を取り巻く古道を見ると、西側の八幡神社の高台を巡る道と、東側の代々木台地(井伊家下屋敷・武家屋敷)を南北に走る高台の道が描かれています。また河骨川の上流部(北)と下流部(南)に川を東西に横切る古道があります。北は代々木・千駄ヶ谷と繋がる道で「二の橋」が掛かり、南は渋谷・青山に行く道で「八幡橋」がありました。この二つの橋は後ほど歩きます。このように河骨川流域の土地は、高台の古道や江戸市中への道筋に遠巻きに囲まれており、田んぼがあった川辺の土地は地元の人しか行き来しなかったようで、それが後々まで河骨川流域に豊かな自然を残すことになった理由の一つと考えられます。

<河骨川には水車がなかった>

「代々木村絵図」を見ると、上部(北)に玉川上水が蛇行して描かれていますが、河骨川に注ぐ分水口がありません。地図では玉川上水のごく近くから流れが始まっているので分水が供給されていたように見えますが、素掘りの玉川上水から浸みだした水はあったとしても正式に分水された水はありませんでした。その結果、河骨川の水はこの地域の湧水に限られ、河骨川流域に水車ができなかったと考えられます。同じ渋谷川上流でも、代々木台地(明治神宮)の東側を流れていた穏田川は、原宿村分水や水番屋があった四谷大木戸の吐水を受けていたため、天保年間から水車が掛かり、脱穀や製粉のセンターとなりました。この辺りの水車(おそらく村越水車)を描いた北斎の「穏田の水車」は有名です。明治以降は大型の水車が動力源となり、黒鉛や電線、織物など近代産業の発展を支え、大正時代に電力が普及するまで続きました。穏田川流域には多くの人が集まり、荷車が行き交ったことが記録されています。河骨川に水車がなかったことも、この流域が後々まで田園風景を残していた理由と思われます。

時代は進み、JR代々木駅が明治39年に開業して便利になると、都心や地方からこの地に人々が移り住みました。作詞家の高野辰之、画家の岸田劉生、作曲家の中山晋平など文化人も居を構えました。大正元年、高野辰之が文部省唱歌「春の小川」を作詞したのは、娘さんとよく一緒に散歩したこの辺りのことと伝えられています。大正4年に京王線、昭和2年に小田急線が引かれてからは人口も増え始めました。大正末期の関東大震災であまり被害を受けなかったこともあり、郊外の住宅地として大いに発展しました。しかし河骨川上流の土地の一部は昭和の初めまで田んぼの灌漑に使われており、現在でも当時の河骨川の岸壁や水路の跡を僅かですが見ることができます。



2.水源1(初台)の場所を推定する

<初台の谷地形の窪み>


   

「河骨川上流の地形図」。初台(水源1)と旧山内邸の池(水源2)に谷戸(谷間)がある。他に小田急線参宮橋駅にも小さな谷戸があり、湧水が線路脇を流れていた。赤字と青色等は筆者。「帝都地形図」(昭和22年)より作成。

  水源1がある場所の地形。北の方(奥)から南に来る道を見ると、坂を下ってから再び上がっており、途中に谷地形の窪みがあることが分かる。この辺りから湧水が出て東(右)に流れていた。



さて、初台駅前で今日の予定の説明を終えて出発です。最初の目的地は河骨川「水源1」の谷戸(谷間)です。左上の「河骨川上流の地形図」を見ると、河骨川上流にある西側(左)の谷戸は山手通りのさらに西側に深く入り込んでおり、谷頭の辺りに水源があったようです。私たちは、京王線の線路に並行している玉川上水の遊歩道を横切って商店街を70-80m歩き、セブンイレブンがある角を左(東)に入って下りの坂道の上に出ました。40mぐらい歩いた所にある最初の角に立って北の方からきた道を見ると(右上の写真)、こちらに向かって坂を下ってから再び上がってきており、谷が東西に走っていることが分かりました。「谷地形だ」「ここ、川跡だ!」との声が。この角を左(北)に曲がり、坂を下って谷筋の家の前まで来ました。失礼して隣家との境をのぞき込むと、細い水路跡があって東の方に下っていました。この近くから水が湧き出して流れていたのでしょう。

ave
l b


水源1(奥)近くの水路と思われる蓋掛けされたU字溝。

かつての水路らしき跡を見ながら、皆で昔の様子を話し合う。

その道と並行する一つ先の道の谷筋まで来ると、そこは家の駐車場で、先ほどより水路が良く見えました。皆さんは「これがあると水路なんだ。この道の亀裂は小川の跡だ」などと話しながら写真を撮り、その後セブンイレブンの角から来た元の道に戻りました。そのまま40-50mほど坂を下って山手通りの信号に出ました。今は山手通りの上に高速道路が覆いかぶさって巨大な構造物の空間ですが、昔は清々しい森林の斜面で、木々の間を小川がサラサラと流れていたのでしょう。

山手通りを渡る。向こう(西)は初台1丁目。水源1は奥。



<山手通りを渡って東側の土地へ>



山手通りの反対側(東側)。崖下水路跡(水色の線)が、崖と工事中のマンションの壁の間に少しだけ見える。   山手通りを横切る水路より少し先の階段の道。傾斜がかなりあり、谷筋が深かったことをうかがわせる。

先程の住宅街の谷筋は山手通りの手前でやや深くなり、道路をくぐり抜けて反対側(東)の土地に向かっていました。私たちも山手通りの信号を渡り、左(北)に20mぐらい歩いて谷筋にある工事中のマンションの裏をのぞき込みました。山手通りの辺りで谷が急に深くなったようで、流れの場所がはるか崖下に見えました。この谷は切り立った山手通りの下から参宮橋マンションの裏手へ続いていますが、谷筋に沿って下る道がないため、その先(北)の階段の道まで行って、狭い急階段を降りました。崖を下る感じです。


   昭和10年ごろの水源付近のスケッチ。田んぼはすでに休耕田で、沼地になっていた。地元の方によると「そこら中が川や沼地だった」。地元の人はこの沼地を「田んぼ」と呼んでいた。河骨川には初台(図の左側の外)と旧山内邸の池(図の右側)の2つの水源があり、両方の流れがT字の形で合流し(図の中央)、南に下っていた。(渋谷区郷土博物館・文学館所蔵・無断転載禁)

山手通りの階段の上で、皆さんに「昭和10年頃の水源付近」のスケッチ(上図)をお見せしました。当時の様子がなかなかリアルに描かれています。図の右上がこれから行く山内邸の池で、屋敷の下の右端には貯水池があります。左(西)から水源1の流れが、右(東)から山内邸の水源2の流れがきて、T字の形で合流し、河骨川となって南に流れていました。私が「左手の縦の道が山手通りの原型ですが、今とはカーブが逆で、左側に突き出ています。また今と違ってアップダウンがある道でした」と説明したところ、参加者の方が「山手通りは昔は“もこっと”盛り上がって甲州街道に繋がっていた。現在の通りの形にする時に、山手通りを田んぼの側にカーブさせて田んぼを削って作ったんだ」と教えて下さいました。整備される前の山手通りは、水源1からの流れが横切る辺りで低くなり、玉川上水・伊東橋の手前で坂を”もこっと”登って甲州街道に出たのでしょう。

私たちは急階段の道を降りて東に向かう道を歩きました。水源1の谷筋の北側を並行して通る道です。100mぐらい先を右(南)に曲がって少し進むと、水源1から来た道に行きあたりました。参宮橋マンションの裏側(北)で、土地が急に下がったせいか涼しく感じます。この道は東京都下水道台帳の中で「水路敷・区道扱い」と記されています。「水路敷」とは、簡単に言うと「昔の川の水路で4m以下の細い道路として使われている土地」ですので、水源1からの水路の道であることは明白です。私たちはこの道に入って山内邸のあった水源2の方(東)へ向かいました。


   
 ニホンカワウソと参宮橋マンション裏の川跡の道。心なしか涼しい。「水路敷・区道扱い」と記されている正真正銘の川跡だ。 ニホンカワウソ(写真は須崎市)は昭和初期に河骨川水源近くの沼にいたという。明治時代は広尾の玉川水車近くに生息していたとの話もある(篠田鉱造『明治百話()』岩波文庫)   水源1の流れ(左の写真の道)と水源2の流れ(写真奥)のT字型の合流点(代々木4-41。河骨川本流は南(右)に流れていった。
 

なおこの「水路敷」の道と並行して、参宮橋マンションの表側(南)にも東西に走る水路がありました。湧水の流れか人工の水路かは分かりませんが、この2つの流れの間に田んぼがあり、その跡に今の参宮橋マンションが建っています。驚くような話ですが、地元の北田様から、昭和20年代にこの辺りにカワウソが現れたことを伺いました。「当時、山手通りは改正道路と呼ばれていて、山あり谷ありの道だった。その山手通りのこちら側は“田んぼ”と言っていたが、もう当時は田んぼがなくてただの沼地で、そこにコイを飼っている人がいた。そこいらじゅうが川や沼地だった。田んぼにカワウソがいてアヒルをやられた。アヒルを10羽飼っていたが、朝、川の所に板をかけてあげると出かけ、えさを食べて夕方戻ったのだが、ある日やられてしまった」。カワウソは年中出ていたそうで、「かわいい顔をしていた。色がついた大きめのネズミのようだった」とのことです。北田様は戦前からこの土地にお住まいで、地元の貴重な情報をたくさんお持ちで、順を追って紹介させていただきますが、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 

3.水源2(山内邸の池)と周辺の土地柄

<山内邸の池と二つの流れ>

「これから山内侯爵邸の池の場所に行きます」と申し上げたところ、「池はまだあるのですか?」「山内侯爵って誰ですか?」などの質問が出ました。「池は残念ながらもうありません。平成14年頃までありましたが」。「ウィキペディアには、山内家は旧土佐藩主・山内家のことで、当主の山内豊景は明治8年生まれで、軍人で貴族、25歳で貴族院侯爵議員に就任し、本邸は東京・代々木に構えたとあります。この代々木の土地は明治になって払い下げを受けたものでしょう」。近くの代々木や千駄ヶ谷には、江戸時代から大名の下屋敷や多くの武家屋敷がありましたが、山内邸の場所にはそうした家はなく、おそらく内藤新宿の外れに位置する山林か野原であったと思います。

   
   
 

左の地図の山内邸の中には、水源2の池が描かれている。池の南側には、谷間があり、低地に田んぼが作られていた。「中野」『東京一万分の一地形図集成』(大正14年修正、大日本帝国陸地測量部)

 


「水路敷」の道を東に30mぐらい歩くと、水源2と交わるT字型の合流点に出ました。近くの家の塀を見ると代々木4丁目41番地の住居表示があり、この角を右(南)に曲がると河骨川の暗渠の道が始まります。私たちは、水源2に行くために合流点をいったん通り越し、2番目の角を左(北)に曲がりました。うっかり1番目の角を曲がると、長い急坂を上る羽目になりますからご注意を(真夏に経験済みです)。以前はすぐ近くに刀剣博物館がありましたが、今は取り壊されて工事中です。ツアー当日は上り坂の右手の土地が工事中で、白い大きなカバーが辺りの視界を遮っていました。

最初の角を右に曲がると、30mぐらい先の左手に濱田様のお宅がありました。この家の敷地にはかつて池の一部が残っていました。家の前の道路の地形を見ると、こちら(西)からも向こう(東)からも下り坂になって窪んでいて、敷地内の池の水が浅い谷筋を通って南に流れていたことが実感できます。玄関の近くを見ると(あまりのぞきこんでは失礼なのですが)、奥にかけて土地が窪んでいて、池の縁のようにも見えました。

先の北田様ですが、山内邸の池や流れを実際に知っておられて、当時の様子を教えて下さいました。「戦後、山ノ内さんの池はとても大きく周り中が林だった。大きな池には湧水があって池から水が流れ出て来た。その水を単に小川や川と言っていたが、その流れにはドジョウみたいだが、ヌルヌルがない魚が泳いでいたので、よく捕まえて遊んだ。スナムグリだっただろうか。戦後子供のころはそこで泳ぎ、次はたき火をして暖まった。農地改革で山の内さんはお国に帰り、箱根土地が分譲した。国鉄の十河さんの家もあり、広壮な住宅地だった」。

北田様はこの地域を代表する方で、明治神宮の『戦後復興の軌跡』という本にも河骨川の話や空襲で神宮が焼失する当時の貴重な話を載せておられます。その本の中で、別の方が戦時中の山内邸について手記を書いていましたのでご紹介します。「明治神宮さんを空襲から守るために、お宮の周りには高射砲陣がありました。その一つが代々木4丁目の山之内邸内。あそこの広い庭に高射砲を2門すえつけて、兵隊が2,30名泊まりがけで駐屯していました。だけど何百機ときて焼夷弾を落っことすからどうしようも無かったんですね」と。この閑静な土地に痛ましい歴史があったのですね。なお山之内邸の池はその後も平成14年まで残っていたそうで、偶然ですが私の友人の東山さんが見たことがあるとか。池は道から見ると、だいぶ小さくなっていたようです。

 


   

山内邸周辺の地形と池、川の様子。図は「帝都地形図」(昭和22)に現代の道路、高度等を書き入れたもの。道路は赤い線、標高は国土地理院・地理院地図に基づく数値、濱田宅は図中央の黒い四角。当時の河骨川上流は左下の青い線、池は青丸、池からの流れは青い点線で表示。図の赤丸(柱状図ab)の地点は、上図の右に示したボーリング調査(地層の採取)が行われた場所。

     

上の図は「帝都地形図」(昭和22年)の山内邸周辺の地図に、現代の道路や標高、河骨川の流れ、池(水源2)、池からの川筋などを書き入れたものです。池からの流れは、「大正五年頃 山内邸水源」(東京都公文書館所蔵)によると主に二筋に分かれているため(注1)、当時の屋敷内の田んぼの配置や等高線を参考にして川筋を描き入れてみました。水源2(山内邸の池)から発した川筋の形を見ると、西側の流れは濱田様の玄関辺りから道路を横切って南に出て、時計回りに南西に曲がってT字型の水源12の合流点へ向かっており、もう一つは東南に少し流れてから旋回し、その後は南に下って屋敷の外に出ていました。なお、ボーリング柱状図bの現在の標高は30.5mですが、柱状図bが調査された時点(1966年)では33.00mでしたので、高度が2.5m程下がっています。この理由ですが、1968年に池からの流れの脇に「刀剣美術館」ができており、建設に合わせて土地の整備が行われたのでしょう。


<ボーリング柱状図に現われた地層の謎>
山内邸周辺の地層を調べたボーリング柱状図を詳しく見ると、柱状図aは山手通り水源1近くの調査結果で、紫色の関東ローム層の下に水色の渋谷粘土層(火山灰質粘土層)、東京層の砂層と続いており、渋谷川が流れる淀橋台に典型的な層序です。代々木公園の高台の柱状図とも共通しています。水を通しにくい渋谷粘土層が地下2mから始まっているので、川はその上を流れていたと考えられます。

ボーリング柱状図bは水源2(旧山内邸の池)から水が流れ出た辺りの地層ですが、解読が難しいです。柱状図b地点の当時の標高は33.00mです。一番上には白色の表土が約3mあり、これは宅地造成の土盛りの跡と考えられます。その下は紫色の関東ローム層(シルト質ローム)ですが、この場所に湧水や川の流れが長くあったようで、地質がやや粘土化しています。問題はその下の地層で、次に来るはずの渋谷粘土層がなく、関東ローム層と黄土色の上部東京層(砂層)が直接繋がっています。なぜ渋谷粘土層がないのか、この層は箱根火山灰や黄塵から形成されていますから、原初の時代から無かったとは考えられません。

一つの仮説ですが、淀橋台が生まれて間もない時代(128万年前)、つまり富士山の火山灰で関東ローム層ができるよりも前の時代に、この場所に速い流れの川があって、降り注ぐ火山灰をどんどん流してしまったか、渋谷粘土層を削り取ったことが考えられます。いずれにしてもミステリアスです。実はこの辺りの土地に渋谷粘土層がないことは他のボーリング調査でも確かめられています。調査の報告書に解説がないので事情が分かりませんが、私たちが想像もつかない地形の歴史があるのかもしれません。なお、今回歩いた河骨川・宇田川流域のボーリング調査の主な地点と柱状図データ(地層)の分析結果については(注2をご覧下さい。

 

4. 幕末『大江戸鳥観図』と 大正「大東京鳥瞰図」にみる河骨川

<田んぼが続く河骨川の両岸>

私たちは濱田様の家の前を離れ、坂を下りて先程のT字の合流点に戻り、南に向かう河骨川の道に入りました。50m位行くと右手に小さな代々木第四公園がありました。ここで少し休み、これからの道筋を『大江戸鳥観図』を出して説明しました。

文久2(1862)年ごろの代々木台地周辺。立川博章『大江戸鳥観図』より。(無断転載禁。)屋敷名等は筆者。図の中央にある代々木台地を取り巻く形で、左に河骨川・宇田川、右に芝川・穏田川が流れている。図の中程から右上が彦根藩井伊家の下屋敷(後の明治神宮)と庭園(南池)。河骨川は図の左上から発し、田んぼの中を南に流れて新富橋近くで宇田川上流に合流し、向きをやや東に変えて渋谷方向に流れている。


『大江戸鳥観図』は、都市図画家の立川博章氏が多くの古地図や資料を用いて江戸末期(1860年頃)の姿をビジュアルに再現したもので、10年の歳月をかけたという力作です。「3点透視図法」という制作技法を用いて江戸の町並みや郊外の様子が描いており、まるでドローンを飛ばして空から撮影したような精巧な描写に驚かされます(技法の詳細は『大江戸鳥観図』(朝日新聞出版、江戸東京博物館館長・竹内誠他監修)を参照) 。取り上げた時代が Japan Map Center, Inc.「東京時層地図」の「文明開化期(明治9年~19年)」と近いため、両者を並べて見ていると、江戸の平面図と立体図を手にしたような感じがします。

上はその部分図ですが、左上の端に甲州街道、中央に彦根藩井伊家の抱え屋敷と庭園の南池があります。その右側(東)を芝川・穏田川が、左側(西)を河骨川、宇田川が屋敷を遠くから取り巻くように流れています。甲州街道の南から流れ出す河骨川・宇田川の両側は細長い田んぼが続いており、民家のようなものはありません。河骨川の上流部に二の橋が、下流部に八幡橋が架かっています。また宇田川には後の軍人橋と渋谷の宇田川橋が見えます。河骨川の水源の北側や両岸の高台には武家屋敷が描かれていますが、有力大名の屋敷は渋谷近くの紀州徳川家だけです。


<市街地化する宇田川の流域>

大正10大東京鳥観図」部分。東京都立中央図書館所蔵。中央の緑の広い土地は代々木練兵場(現代々木公園)で、その右の森と社殿が明治神宮。宇田川下流と渋谷駅近くは市街地化しているが、河骨川流域は緑が残る。図の上部(北側)に甲州街道が通り、その奥に玉川上水の新水路と淀橋浄水場が見える。

上図は渋谷区『図説渋谷区史』(平成15年)に収録された大正10年「大東京鳥瞰図」で、前の『大江戸鳥観図』から約60年後の姿を当時の絵師が描いています。図の上部を左右(東西)に走るのが甲州街道で、沿道は家並みで溢れています。しかし、その南から始まる河骨川の情景は、先の『大江戸鳥観図』とあまり変わりません。林や野原が広がり、その中を河骨川がゆったりと流れています。代々木に住む高野辰之が「春の小川」を作詞したのは(作曲は岡野貞一)大正元年ですが、彼が河骨川の川辺をお嬢さんと散歩している時に詩の着想を得たとの逸話が伝えられています。

目を転じて下流の宇田川を見ると、同じ時代ですが川辺の様子がだいぶ違っています。図の真ん中の緑地は田畑ではなく、明治42年に土地を収用して作られた練兵場です。渋谷に近づくに従って両岸に民家が建ち始め、やがて賑やかな市街地となります。宇田川には軍人橋がしっかりと描かれており、時代の空気を感じさせます。西に駒沢の練兵場や近衛連隊がありましたから、兵隊さんたちがこの橋を出入りしていたのでしょう。本稿の「下編」で述べますが、明治末頃は渋谷センター街の辺りは川の上に家を建てるのが法律で認められていました。このため渋谷駅の手前には家がぎっしりと建ち並んでおり、川の姿は見えません。台風が来ると川の上の住宅が押し流されて大水害を起こしていました。このように河骨川と宇田川では、1本の川の流れですが、対照的な歴史を持っています。

話をツアーに戻します。『大江戸鳥観図』や「大東京鳥瞰図」の説明をした後、私たちは代々木第四公園を出て、すぐ目の前(公園の南西)にある裏道の入口に行きました。とても細い道ですが私道ではありません。この道に昔は灌漑用の水路があり、地元では親しみを込めて「ほそ」と呼んでいたそうです。農道の名残なのでしょう。北田様によると、河骨川の道はオリンピックの時に暗渠化されましたが、こうした脇の「ほそ」はしばらく残り、水が流れていて蛍が飛んでいました。「ほそ」という名がかわいいですね。


<切通しの坂>

9.表参道から穏田橋そして鶴田水車へ
   

岸田劉生 『道路と土手と塀(切通の写生)』1915年。東京国立近代美術館所蔵。図の左側は旧山内邸の塀。

 

坂の上で記念写真。参加者の手に岸田の絵が。

 

その時、参加者の中から「切通し坂はここですよね!」との声があがりました。「ほそ」とは反対の東の方向、代々木第四公園の角を左(東)に曲がって数十メートル歩いた所に上り坂があります。この坂が岸田劉生「道路と土手と塀(切通の写生)」で有名な「切通しの坂」です。大正6年に代々木3丁目と4丁目をつなぐために崖を切り拓いたもので、今はマンションが並ぶ普通の坂道ですが、坂の途中の右側に「岸田劉生が描いた『切通しの坂』」というタイトルと説明文が付いた四角のポールが建っています。この「切通しの坂」が作られた工事の際に大量の赤土が地表にむき出しになり、そのパワーが都心で育った岸田の心を捉えたもとと私には感じられました(注3。参加者の木村孝様はこの切通坂についてお詳しく、同じ場所を描いた他の画家の絵を何枚が持参して見せて下さいました。その中に岸田が描いたもう一枚の絵「代々木付近の赤土の風景」があり、ここでも関東ローム層の赤土の断面が大きく描かれていて、彼が土地開発のエネルギーに感応した様子が伝わってきました。

面白いのは、ほぼ同じ時代に、この地で二つの名作が生まれたことです。一つは今見た岸田劉生の「道路と土手と塀(切通の写生)」で、土地開発のエネルギーを描いています(大正6)。もう一つは高野辰之の唱歌「春の小川」(大正元年)で、この地に残る田園風景を詩に託しており、二人が同じ土地で対照的な感じ方をしながらほとんど同じ時代を生きました。私たちはこの名所にしばらく留まり、絵のアングルと実物の坂との違いを論じたり、記念写真を撮ったりして過ごしました。



5.河骨川暗渠の道と線路脇の「開口部」

<河骨川本流の脇に残る「ほそ」の跡>

さて、次に切通坂を下りて先の代々木第四公園前まで戻り、角を左(南)に曲がって再び河骨川の道に入りました。この道と「切通し坂」の頂上とでは標高差が11mありますから、大雨の日などは大量の水が高台から河骨川の下水道管に流れ込んで大きな音を立てて、まるで河骨川が今も流れているようでしょう。この道の西側には先ほど見た「ほそ」の細い道があり、その奥にもう一本の「ほそ」の道があります。これらの「ほそ」の道は、河骨川の道よりも少し高い所にあるので、おそらく灌漑用に引いた水路の跡であると思われます。一般に田んぼでは、少し高い土地に人工の水路を作って清流を流し、余った水は低い所を流れる自然の川に捨てるからです。


   

今も残る「ほそ」の跡で、排水溝として役立っている。山内邸の南下(写真の手前)にあった溜池から流れてきていたという。昔は「紺屋さん」が川に板を浮かべ、その上に布を広げて染めたり洗ったりしていた。別宮通孝様撮影。

 

河骨川の道を少し歩くと、左側に私道の砂利道がありました。中に入って進むと、左手奥の家の前から南に向かって(河骨川の道と並行して)細いU字溝が伸びていました。これも「ほそ」の跡で、今も排水溝として使われています。3年前にこの場所を訪れた時、家の前庭で草花の手入れをしていた奥様から興味深いお話を伺いました。

「以前は、ずうっと上の溜池から水が流れてきていましたのよ。その水は山内邸の池からきていました。私の家は戦後この区画しか残っていなかったので、ここに住みました。(疎開先から…筆者)戻ってくるのが遅れて、いいところはみんな他の人に取られていました。焼け野が原になって、どこが誰の家か分からなくなっていたからです。お姉さんがここも取ってあったので譲ってもらったのです。そしたらここは川の所で、1階に洋服ダンスがあるのですが、すぐに中のものがカビてしまう。区に頼んで土管にしてもらったので少し良くなったけれど。2階のタンスは大丈夫なのよ。主人が話してくれたけれど、近くには紺屋さんと言って染物のお店が何軒かあって、水を使って仕事をしていたそうです」。私がツアーで皆さんにこの話をお伝えしたところ、どなたかが「〝ほそ〟なんて、案内してもらわなければ絶対見つからないな」と。同感です。改めて奥様にはお話をありがとうございました。

私たちは「ほそ」を離れて再び河骨川の道に戻り、南に向かって歩きました。昔はこの辺りの河骨川はどのような様子だったのでしょうか。先の北田様が面白い話をして下さいました。「私の家は合流点のちょうど南で、家の前に幅2mぐらいの川(河骨川…筆者)が流れていた。子供の頃(昭和10年代…筆者)は紺屋さんが4軒あり、川に板を浮かせて、その上に布を広げて作業をしていた。のりを落としていたのだろうか。近くにレンズ工場があって、レンズを磨いて川に水をシャーシャー流していた。水はきれいだったし、どっさり流れていた。(中略)大きくなってきた頃は(昭和20年代…筆者)、参宮橋の所と比べると人家が多いので、水は汚かった。皆がゴミは川に捨てればいいと思っていた時代だった」。当時の河骨川とその周りに暮らす人々の姿が眼の前に感じられるようなお話ですね。

<河骨川の岸壁の跡>

   

岸壁跡。下に小さな樋が見える。右の写真共に木村孝様撮影。

 

左の樋の部分の拡大図

     

さて、河骨川の道を少し進むと、右側に河骨川の岸壁の一部らしい構造物がありました。コンクリート製で、下の方に排水管のような樋(とい)が突き出ていました。実はこの先の右側にも長い岸壁の跡が残っていたのですが(2016年)、今年の春に同じ場所に行った時は建設工事のためにほとんどが壊され、50センチぐらいしか残っていませんでした。単なるコンクリートの残骸なのですが、「あれは大事な川の記憶だった」という思いが込み上げます。ツアーの当日、時間が押していたので焦って歩いていたところ、この場所をうっかりパスしてしまいました。20165月に撮影した現地の写真と、今年4月に現場に緑色のネットが張ってあった時の写真をお詫びを兼ねて掲載します。

    

もう一つの岸壁跡。2016521日。長い区間で残っていて貴重な川の記憶だったが。(中田陽様撮影)

 

左と同じ場所。2019421日。緑のネットの手前に約50センチの岸壁跡が。


私がパスしてしまった工事現場を通り抜けた先(上の写真の奥)に、東にある参宮橋公園の方から来る道がありました。外見は普通の道路ですが、実は「代々木村絵図」や『大江戸鳥観図』にも描かれている古道です。ここに河骨川の「二の橋」が掛かっていました。昔は田んぼの間を小川が流れ、道に小さな木橋が架かったのどかなスポットだったのでしょう。江戸時代には、現代のような直線的な道ではなく、弧を描いたり、ジグザグ曲がったりしている奇妙な形の道がよくありますが、この道もその一つです。今では周りの道が増えて元の形が分かりませんが、隠し絵を探すつもりになって目を凝らすと、河骨川を挟んで参宮橋駅前からユニークな「台形」の道筋が通っており、そのちょうど上辺に橋が架かっていました。

この辺りの地勢について、再び北田様のお話を紹介します。「私の父は水道工事などの設備業をやっていた。工事でパイプの脇に穴を開けて地面に打ち込むと、30センチぐらい水が噴き出してきた。たとえば自宅の少し南の山谷稲荷橋(「二の橋」…筆者)の辺りの家など。泥水なので、棕櫚(シュロ)を入れて水濾しをした。西原にある吹き井戸と同じだ」。「吹き井戸」とは、礫層などの被圧帯水層から冷たい水が噴き出す現象で、この層は地下数十メートルの所にあるため、高度な技術と相当の資金がないと掘り出すことができません。しかし、関東ローム層や渋谷粘土層がないような地形では、被圧帯水帯が浅い所にもあります。「吹き井戸」の話は、宇田川上流の西原(田中地蔵近く)で地元の方から聞いたことがあります。また北田様は「自宅の土地にパイプを打ち込んだとき、2メートルぐらい打ち込んだら20センチぐらい水が噴き出てきた」「河骨川沿いの田んぼは“底なし田んぼ”で、冷たい水が染み出していたために、いい米はとれなかった」とも述べていました。

<参宮橋駅南にある河骨川の「開口部」>

二の橋」の古道を横切って200mほど歩くと、小田急線の線路に来ました。河骨川の暗渠は線路の下を潜って流れていきますが、暗渠の道は行き止まりです。そこで道のすぐ北側にある踏切を渡って迂回し、河骨川の流れが線路の下から出てくる辺りに行くことにしました。この踏切は参宮橋駅のすぐ南にあります。踏切を渡ると、正面はオリンピック青少年センターの敷地で、その前を幅広い道路が南北に通っていました。この道路を右に曲がって歩道を50mほど歩くと、河骨川のルートに当たる所に来ました。先ほど来た道のこちら側です。建物の裏手の狭い空地に入ると、すぐ向かいが線路で、下の方にコンクリートの構造物が見えました。ここに太い土管があり、暗渠の水が流れ出ています。河骨川では唯一の「開口部(管渠)」で、流れを地上で見ることができるのはここだけです。なぜ開口しているのか、おそらくは水路を点検するためでしょう。

  
   

河骨川暗渠の流れが線路の下から現れる場所(写真の左側から流れてくる)。ここに参宮橋駅からの支流(右上)も合流していた。真ん中の写真は線路下からの河骨川暗渠の丸い出口。

 

参宮橋駅ホームの脇に残る支流の跡(U字溝)。昭和半ばまでコウホネが自生していた。奥で本流と合流。201645日撮影。

  

この場所は夏になると雑草に覆われてよく見えないのですが、参加者の方も工夫して写真を撮っていました。ここには河骨川だけでなく参宮橋駅からも支流が来ています(上の写真の右)。「2.水源1(初台)の場所を推定する」のところで紹介した「河骨川上流の地形図」を見ると、参宮橋駅の北東に向かって大きな谷戸が伸びており、そこからの流れだと考えられます北田様によると、昭和30年代後半の話ですが、「参宮橋のホームの所に川跡があり、昔はそこに細いきれいな水流があって、コウホネの花が咲いていた」そうです。河骨川はここからしばらく広い道路の下を蛇行しながら流れ、次第に小田急線の線路に近づきます。私たちは河骨川の「開口部」を後にして、川の流れに沿って歩道を南に歩き始めました。

<上編>はここまでです。<中編>では小田急線の線路沿いの道を歩き、「はるのおがわコミュニティーパーク(プレイパーク)」で「春の小川」の歌碑を見た後、代々木八幡の麓にあった八幡橋の跡を通り、富ヶ谷1丁目の河骨川終点(宇田川)に着きます。お楽しみに。

<注釈>

(注1)「大正五年頃 山内邸内の水源」東京公文書館所蔵。渋谷区郷土博物館・文学館「春の小川の流れた街・渋谷」44ページより。屋敷の中の流れは主に二筋に分かれている。水路は田んぼを両側から挟むような形でほぼ等高線に沿って設けられている。川の両岸は小道になっているようだ。他にも側流のような流れがあるが、灌漑用だろうか。なお左端の縦の流れは河骨川、その上部のT字は水源1からの流れとの合流点。

   

(2) 河骨川・宇田川流域のボーリング調査の主な地点と柱状図データ(地層)

 

国土地理院基板地図情報数値標高モデル5mメッシュにより作成(DEM段彩表示)
   
東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)ボーリング資料(2015年時点)より作成。
左図を見ると渋谷川支流(上流部)の水路は、代々木台地(明治神宮のある丘)を間に挟んで、河骨川・宇田川(西側)と芝川・穏田川(東側)が左右対称的になっている。渋谷川の起源は、約13万年前の下末吉海進(海面上昇)後に起きた海退期に離水した下末吉面(淀橋台)の「小さな水系(渋谷川・宇田川上流部)」から始まったと考えられる。その流れは、平地を削りながら川筋を伸ばし、数万年前に渋谷川の原型を形作った。図中agは地層のボーリング調査地点。  
   右図は東京都建設局「東京の地盤」(GIS版)より作成。以下、ボーリング調査で明らかになった各地点の特性を順に述べる。a:山手通り・初台1丁目、河骨川の水源1近く(高台)。関東ローム層の下に火山灰質粘土層(渋谷粘土層。N値は5以下と小さい)が堆積し、浅い場所の水流の存在を暗示する。b:河骨川の水源2(旧山内邸の池)の南。表土は造成による物と思われる。凹んだ土地は池からの流路の可能性が高い。シルト質ローム層は水によるローム層の変成で、N値は0-1と小さい。粘土層は長期にわたる水流に流された可能性が高い。c:代々木小公園の縁。過去において長期にわたる水流により、地質が粘土となっている。関東ロームは全て流れて直下は東京層。d:代々木公園の高台。関東ロームの下に粘土層が続き、宙水の存在を感じさせる。e:上層は関東ロームだがその下層はシルト化している。過去において水流があった場所のようだ。f:山手通り・富ヶ谷1丁目(高台)。支流の水源である「はけ」の近くで、『粘土山』と呼ばれていた。dの柱状図と類似している。g:江戸から明治にかけて「お迎え田圃」と呼ばれていた地域。高有機質土(腐植土)が溜まっていて、この辺りの土地が田んぼであったことが分かる。(以上渋谷区郷土博物館・文学館の粕谷先生にご指導いただいた。)
 (3) 岸田が赤土に魅せられたというのは私の印象で、別の見方もある。NHK Eテレ2019106 放送日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」では、この絵の持つ宗教性や近代化への警鐘を指摘していた。                         (上編・終)

<参考文献・資料>

渋谷警察署新築落成祝賀協賛会『渋谷町史』、大正11

加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』郷土渋谷研究会、1967

藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』青蛙房、昭和53

田山花袋「丘の上の家」『東京の30年』、岩波文庫、1981

相川貞晴・布施六郎・東京都公園協会監修『代々木公園』郷学舎、1981

内山正雄・蓑茂寿太郎・東京都公園協会監修『代々木の森』郷学舎、1981

大岡昇平『少年』筑摩書房、1991

篠田鉱造『明治百話()』岩波文庫、1996

今泉宜子『明治神宮・戦後復興の軌跡』明治神宮社務所、平成20

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『特別展・春の小川の流れた街・渋谷』平成20

『渋谷の富士講』渋谷区郷土博物館・文学館、平成22

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか/渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮、2011

上山和雄他編著「歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-」雄山閣、2011

渋谷区教育委員会・他『富ヶ谷遺跡 第一地点』、2016

武田尚子『近代東京の地政学』吉川弘文館、2019

山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019

代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵)

「渋谷区土地利用図・明治42年」、渋谷区白根記念郷土文化館、昭和54

「豊多摩郡代々幡村全図」『東京市15 区・近傍34町村』明治44年、覆刻、人文社

「大東京鳥観図」部分、東京都立中央図書館所蔵、大正10年

渋谷区『図説渋谷区史』平成15

大日本帝国陸地測量部「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図、柏書房1983

大日本帝国陸地測量部「中野」「四谷」「世田谷」「三田」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図・大正14年修正、柏書房1983

『東京市渋谷区地籍図』下巻』内山模型社、昭和10

「帝都地形図」之潮、昭和22

[東京一万分の一地図」、復興土地住宅協会・内山地図、昭和32

立川博章『大江戸鳥観図』朝日新聞出版、2014

「昭和20年ワシントンハイツ」渋谷区郷土博物館・文学館所蔵

Japan Map Center, Inc.「東京時層地図」

(以上)




2月26日

<目次(中)>

6.小田急線脇の水路を歩く

7.河骨川流域で育った人々の記憶

8.「ワシントンハイツ(WH)の流れ」を推理する

9.八幡橋を通って河骨川終点の宇田川遊歩道へ




散歩のルート(中)

参宮橋駅南の河骨川「開口部」―小田急線の線路脇の流れ―「春の小川」歌碑(はるの

おがわコミュニティパーク)―代々木公園西門前「ワシントンハイツ(WH) の流れ」―代々

木深町小公園の縁―八幡橋―河骨川と初台川(旧水路)の合流点(子どもの絵の塀

)―河骨川と宇田川本流の
合流点(富ヶ谷1丁目)→<下>へ

r

 

[図B]小田急線を越えた河骨川は、代々木公園の高台と代々木八幡宮の高台の間を南に流れ、富ヶ谷一丁目で初台川、宇田川と合流して渋谷に向かった。図中の黒丸は河骨川と初台川(旧水路)との合流点。昭和2年に小田急線が開通すると、複数の川筋は線路に沿って直線にまとめられた。
河骨川東側の台地(現代々木公園)は戦前は練兵場で(
明治43年開設)、戦後は米軍のワシントンハイツとなり、返還後はオリンピック選手村を経て昭和42年(1967)に公園となった。
図の左下の旧ハチ公ソース裏の「はけ」は川の浸食で作られた崖(段丘崖)で、昭和初期には湧水があり、近くで粘土が採れた。図中の赤い「柱c・d・e」は地層のボーリング調査地点。緑の五角形は縄文遺跡。

1.河骨川流域の地勢と歴史

6. 小田急線脇の水路を歩く

<山谷橋から線路脇の小道へ>

小田急線の線路脇にある河骨川唯一の「開口部」を見た後、代々木公園・青少年センターの前の広い道路を南に向かって歩き始めました。川はこの道路の下をやや蛇行しながら流れ、やがて線路の方に近づいていきます。『渋谷区地籍図』に描かれた河骨川を現在の住宅地図に当てはめると、小田急線の線路を越えた河骨川は、コカコーラボトリング代々木営業所の建物の下を通って広い道路の土地に入り、中をくねくねと流れています。河骨川の東側と西側には別な流れもあり、また『東京時層地図』の「明治のおわり」を見ると、東側の高台や斜面に大小の池が点在していました。この土地は水がとりわけ豊かだったようです。河骨川はカーブを描いて線路に近づきますが、その跡が今も小道となって残っていました。青少年センターの信号の少し手前で細い道が枝分かれして線路に向かっており、一目で川跡だと感じました。この小道に入ってすぐに小田急線3号踏切から来る細い道と交わりました。うっかり通り過ぎてしまいそうな道ですが、明治の初めからある古道で、昔はこの角に山谷橋が架かっていました。古道は後からできた道より細いことがあるので、要注意です。

     
 河骨川は小田急線を横切り、青少年総合センター前の広い道路を蛇行しながら南に向かった。  

青少年センターの信号手前の辺りで右側の小道に入る。ここを川が流れ、先に山谷橋があった。


山谷橋の角を超えて150mぐらい進むと、割と大きな4号踏切の横に出ました。この辺りは河骨川の本流や灌漑用の水路がまとめられたため、暗渠の道は線路に沿って真っ直ぐに伸びていました(1) 。


   

小田急線沿いの河骨川の道。別宮様撮影。河骨川本流と側流は、4号踏切の少し手前から一本にまとめられて真っ直ぐ流れていた。この先(南)に河骨川の流れが残る写真1の場所がある。



<昭和31年頃の河骨川流域>

小田急線の線路の脇道を50mぐらい歩くと、線路側に家並みが現れ、道の両側に家が続くようになりました。この家並みが始まる所を昭和31年に撮影したのが、左下の「写真1」です。この写真のアングルは、家並みを少し進んでから振り返って撮ったもので、真ん中に河骨川と木の小さな橋があり、両側に家が並び、奥(北)に小田急線の線路が見えます。私たちは川の上に作られた暗渠の道を歩いていますが、当時の道は川の両岸にあったようにも見えます。歴史散歩の会の知人の園部様は、戦後は河骨川の岸辺にセリが生えていて、採って食べたことがあると述べていました。右下の写真は、奥の線路や川などを手掛かりに左下の写真と同じアングルを探し出し、現在の様子を撮影したものです。今の近代的な住宅地から昔の川辺の景色は想像できません。

 写真1。昭和31年の河骨川(『渋谷の記憶Ⅱ』渋谷区教育委員会(無断転載禁)。奥は小田急線。    写真1と同じ場所の現在の様子。奥は小田急線の線路。河骨川はこの道の下を流れていた。

以前のことですが、ここが昔はどのような所だったのかを知りたくなり、思い切って一軒のお宅の呼び鈴を鳴らしたことがあります。すると奥様が出て来られて、とても優しい方で、色々とお話をして下さいました。昭和26年にここに引っ越していらしたそうですが、奥様は家の傍に川があることなど知らなかったとか。「当時は川には木材が流れるなど、すでに昔の小川の面影はなくて、大雨が降ると水面が地面ギリギリまで盛り上がってごうごう流れて、怖かった。引っ越し当時、子どもが5歳の時に、行水をしてせっかくきれいになったのに川に落ちてヌルヌルになったことが2回もあった(拙著『あるく渋谷川入門』より抜粋)」と話して下さいました。この話には後日談がありました。息子さんが私の本を偶然読まれて、私宛にメールを下さいました。「かの川に落ちたというのは恐らく私の事だと思います。昭和31年頃でしょうか?すでにドブ川と化していまして、たしか上流にソースの工場があり、その廃液が何の処理もされずに時々流れてきます。付近の民家はこの圧倒的なソースの臭気に包まれてしまいます(後略)」。日本経済が復興して食生活が西欧化し始めた頃で、まだ環境問題などは語られていませんでした。都内の河川はゴミ箱代わりに利用されて、どんどん汚れていった時代です。そのお話を皆さんにしたところ、「こんな所にソースの工場があったのか」という声がありました。今では考えられないことですが、廃液を流せるということが工場の立地条件だったのでしょう。

 

7.河骨川流域で育った人々の記憶

<子供時代の思い出を語る>

     

「はるのおがわコミュニティーパーク」の脇に立つ「春の小川」の歌碑。「春の小川」ファンの“聖地”です。

  歌碑の前で皆で記念写真。すぐ後ろを走るのは小田急線。
ra

私たちは家並みの真ん中の道を100mほど歩いて、唱歌「春の小川」の歌碑がある「はるのおがわコミュニティパーク(以下プレイパーク)」の脇まで来ました。小さな階段を上がって右手に進むと、黒い御影石の歌碑がひっそりと佇んでいました。何はともあれ「歌碑」に敬意を表して記念写真です。写真を撮った後は線路伝いの道に戻らず、プレイパークの縁を流れていた傍流の道に進みました。私たちは河骨川の流れが一本にまとめられた後の線路伝いの道を歩いて来ましたが、歴史的にはこの傍流の方がメインだったかもしれません。本流の道には、この先の八幡橋の角の所で戻ります。

r

『地籍図』の川の流れをゼンリン住宅地図に書き込んでみた。この土地には過去に複数の流れがあり、小田急線の敷設の時に1本にまとめられた。

  オリンピックの時に補助53号線(図の真ん中の縦の道路)が作られ、代々木公園の西側から二つの小公園が分離された。「東京時層地図」バブル期より。(1万分の1地形図198490年編年修正)

左上の図は『渋谷区地籍図』をゼンリン住宅地図に書き込んだものですが、かつて河骨川には複数の流れがありました。私たちは、この図のいちばん右側のルート、すなわちプレイパークの円い外縁をたどる傍流の道に入りました。地元の方によると、川の東側の土地(プレイパークから代々木公園へと続く土地)は子供たちが大好きだった遊び場でした。近くで青果店を営んでいた富沢様は、昭和7年のお生まれですが、この場所を「代々木っ原」と呼び、戦前の練兵場の頃には、カラタチや鉄条網で作られた塀をかいくぐって中に入って遊んだそうです。塀の中は笹が繁り、バッタやトンボ、オタマジャクシなどがたくさんいたというお話でした。現在はこの一部がプレイパークになっていて、子供たちの遊びの伝統を今に伝えています。なお図の下の西門前に描かれた「ワシントンハイツ(WH)の流れ」ですが、これは『地籍図』にはありません。筆者が他の資料から加筆したもので、次節で詳しく取り上げます。

   

 

プレイパークは昔「代々木っ原」で遊んだ子供たちを思い出させる

   プレイパークの円い縁を河骨川が流れていた。  

もうお一人、戦後にこの近くにお住まいだった方をご紹介します。制服店のアザミ屋さんで、この方は昭和14年のお生まれですが、戦後の昭和20年代初めにプレイパークの辺りを流れる河骨川で泳いだそうです。アザミ屋さんは当時は洋品店で、婦人物のドレスなどを売っていました。そのご縁でワシントンハイツの鉄条網の塀を「匍匐(ほふく)前進」(腹ばい)して入り込み、店のお客さんであった将校夫人の子供さんと遊んだり、家でお菓子をもらったりしたそうです。このアザミ屋さんも、私が富ヶ谷1丁目のお店に飛び込んで奥様に川のことをお尋ねした時に、地元で育ったご主人を紹介していただいたのがご縁です。川と人々との関りを知る上で、地元の方々の証言は本当に貴重です。

アザミ屋さんが少し気になる話をされていました。「深町小公園のコンクリートの岸壁と違って、プレイパークの方はまだ泥の土手のままで、日当りが良い広々とした場所だった。川にはエビガニ、クチボソなどがいた。そこで泳ぐと、髪の毛のような緑色の藻が生えていて、白い小さな花が咲いていた」と。髪の毛のような緑色の藻で白い花と聞いてあれっと思いました。以前に宇田川の下流にお住いの三田村様から「宇田川近くに梅花藻が生えていた」という証言を得ていたからです(この方のお母様のご実家は梅花藻で有名な三島でしたので、お話は間違いありません)。アザミ屋さんに「それは梅花藻ではなかったですか?」と尋ねたところ、「僕は男の子だから花の名前なんて分からなかったな」と。宇田川に生えていたぐらいですから河骨川なら十分に可能性があります。ただし梅花藻は清流にしか生えませんので、代々木公園からきれいな湧水が伏流水(地下水の流れ)として川に流れ込んでいたと考えると理解できます。代々木公園の地下に猛烈な湧水があったというエピソードを後に紹介します。

ところで、プレイパークとその南に位置する代々木深町小公園は、昭和30年代半ばまで今の代々木公園の土地(当時はワシントンハイツ)と一体でした。昭和34年に東京オリンピック招致が決まった際に、当時の「補助53号線」の建設が決まり、西側の一部が南北に走る新道によって分離されたのです。したがって次に取り上げる「ワシントンハイツ(WH)の流れ」についても、幅広い道路とこの二つの公園が代々木公園と一続きであった時代の話です。

 

8.「ワシントンハイツ(WH)の流れ」を推理する

   

写真2 「河骨川に注ぎ込むワシントンハイツからの小さな流れ(現代々木神園町)」昭和37年。(『1960年代の東京』写真・池田信)。この川が現在のどこを流れていたのかを推理する。

ra

1960年代の東京』(毎日新聞社刊)に、池田信氏が撮影した1枚の写真が掲載されています。「河骨川に注ぎ込むワシントンハイツからの小さな流れ(現代々木神園町)」というタイトルです。この「小さな流れ」とはどこなのでしょうか。手掛かりは色々とあります。小川の流れ、岸壁と橋、地形の起伏、野原と若干の木々、丘の上に見える進駐軍の家々など。この写真が撮影されたのは補助53号線の新道が作られる少し前ですから、公園前の道路やプレイパークのさらに西側から撮影された可能性があります。


代々木神園町の西側に谷戸が2つ見える。現在の代々木公園西門と参宮橋駅の近くだ。赤い線内は現代々木神園町、緑の線内はワシントンハイツの敷地。田中正大『東京の公園と原地形』より作成。   昭和20年ワシントンハイツの住宅配置(渋谷区郷土博物館・文学館)無断転載禁 。地元の方によると、アメリカンスクールの南の谷に小川が流れていたという(後述)。先の池田信氏の写真にあった小川はこの谷の可能性が高い。

左上の図を見ると、代々木神園町(公園)の西側に谷戸が2つあります。北の参宮橋駅近くの「谷戸1」は標高線の出っ張りが浅く、池田氏の写真の地形と合いません。また右図の「昭和20年ワシントンハイツ」の住宅配置に照らすと、「谷戸1」には写真にあるような一戸建ての宿舎が建っていません。同じ時代の「東京時層地図」には建物がありますが、後の証言によると「独身者用の鉄筋コンクリート4階建てのアパート」で、写真のような平屋とは違います。代々木公園の西門近くの「谷戸2」は、標高線の形が深く、写真の地形とも合っているように見えます。丘の上の平屋(家族宿舎やアメリカンスクール)も「昭和20年ワシントンハイツの住宅配置」で確認できます。以上から総合的に考えて、この写真の流れは「谷戸2」と思われます。

 代々木公園の西側の台地や斜面に池が点在していたことは前に述べましたが、公園内の湧水については残念ながら情報がありませんでした。今年6月に公園のサービスセンターの方に伺った時も「現在は全くありません」とのお答えでした(注2)。しかし、探してはみるもので、Japan Sport Council のホームページの「国立代々木競技場の歴史詳細」を読んでいたところが、「いよいよ建設へ」の下りで「・・・しかし、地質調査の結果、建設用地の地下に激しい湧水があることが確認され、その対策にかかる費用が問題になった・・・」と書かれていました。この記事で、国立代々木競技場が建設された昭和30年代後半に、公園内の地表に湧水があった可能性が出てきました。代々木公園の東側の明治神宮にある有名な「清正の井」も、今は地下に特別な工事を施して湧水になっていますが、一時は湧水が止まっていました。この台地の湧水はいつも出ているとは限りませんので、過去に湧水があった可能性が大いにあります。


<証言「公園裏の谷間に川が流れていた」>

今年5月にプレイパークで開かれた「春の小川合唱祭」を聴きに行きました。会場には区長さんを始め町内の皆さんが集まり、きれいな花も飾られて素敵な合唱祭でした。当日は日差しが強かったのですが、幸いテントの下の椅子に座ることができました。運が良かったのは、偶然お隣に座られた奥様(南澤様)が地元の方だったことです。歌と挨拶が始まるまでの間、奥様から当時のこの土地の様子をうかがうことができました。

     

「春の小川合唱祭」では、山谷小学校の児童の皆さんが「春の小川」など高野辰之の歌を数曲合唱して、とても上手でした。偶然地元の奥様と同席して、ワシントンハイツの川について貴重な情報を得ることができました。

vel a

奥様のお話です。「ちょっと濃いめだけどきれいにお化粧した人がお店に来ていました。そばに外車が止まっていて。子どもにも優しかったし、女の人のドレスや髪型が素敵で、こんな洋服着てパーティーをするんだ!と感心して眺めていました」。私が「どこかに川が流れていませんでしたか?」と尋ねると、「谷間のようになった所に川が流れていました。ちょうどこの公園の裏ですよ。とてもきれいな芝生がずっとつながっていて。」とさらっとおっしゃいました。訓練所だという話だった「かまぼこ形」のブリキの建物が近くに建っていて、それがとてもインパクトがあったそうです。川はやはり代々木公園の西門の所を流れていたのです。これで池田信氏の写真と現地の地形、証言がぴったり一致しました。

奥様はとても親切な方で、ちょうどご自宅にいらしていたお兄様を電話で紹介して下さり、当時のワシントンハイツの様子なども教えて下さいました。本当に幸運です。「ワシントンハイツの中はバスが通り、病院や学校などなんでもある町だった。道路の100mぐらい奥からワシントンハイツになっていて、こちらとの間には原っぱがあったが、オリンピックの時に道路ギリギリまで用地が広がった。第1騎兵旅団がいた。バス通りから向かって左に独身者用の鉄筋コンクリートの4階建てアパートがあり、家族向けはその右の方に戸建ての家が芝生の中に80軒ぐらいあった。その次は鉄筋コンクリート建ての立派な小・中学校が代々木公園の入口の右側にあって、その隣は広大なゴルフ場だった。みんな行儀の良い人たちだった。年に1回ワシントンハイツ見学会があって、家の中も入らせてもらえた。メイドさんも皆半袖で、集中冷暖房だった。代々木5丁目の町はほとんど停電したことがなかったのは、ワシントンハイツと同じ電力区画だったからかもしれない。家の中の大きい冷蔵庫に驚き、1リットルの牛乳に驚いた。牛乳をごちそうしてくれた」。

このお話をお聞きして、写真にあった丘の家々の状況がかなり分かってきました。それにしてもワシントンハイツに住む人々の生活の様子とは、歴史的にも大切な情報ですね。山内邸から流れていた河骨川についても、七夕が終わると竹の飾りを流したというお話を伺いました。川が地域の人々の生活と密接に結びついていたことが偲ばれます。奥様、そしてお兄様、本当にありがとうございました。

<関東ローム層がない河骨川の地底>

ツアーの話に戻ります。私たちはプレイパークの縁に沿って歩き、代々木公園の西門前に来ました。時間の都合で中は見学できなかったのですが、「公園に入ると、今も谷地形が西門の奥に向かって伸びているのが見えます」と説明しました。この谷は公園内の遊歩道の少し右側の土地を緩やかに上っており、木がうっそうと茂り、雑草の緑の香りが立ちこめて、都心とは思えない清々しさです。谷の上は公園内を巡る道になっていて、週末には多くの人が散歩をしたりランニングをしたり。上から西門の方を眺めると空間が広がりますが、昔はその先の道路(補助53号線)から2つの小公園までが地続きでしたから、さぞ広々としていたのでしょう。

 

代々木深町小公園の縁。円い縁にはプレイパークから続く河骨川の傍流が流れていた。代々木公園の台地から来る「ワシントンハイツの流れ」が、この辺りで河骨川に合流していた。

   

代々木深町小公園の縁(流れの下)のボーリング柱状図cと、代々木公園の高台の柱状図d。高台dは関東ロームの下に粘土や礫があり、淀橋台の典型的な層序を示している。公園の縁cは関東ローム層がなく、粘土(渋谷粘土層)が露出ており、仮説として、川の浸食によって関東ロームが削り取られたことが考えられる。橙色の礫(東京礫層)が地底で同じ深さにあったと仮定すると、関東ローム層の約6mに加えて、渋谷粘土層も約6-7m削られたことになる。


ところで、プレイパークの南に位置する代々木深町小公園の近くで地層のボーリング調査が行われましたので結果(上のボーリング柱状図)をご紹介します。一つはちょうど小公園の縁の辺り、すなわち河骨川の流れの下の地層(c)で、もう一つはその東側の代々木公園の高台(d)の地層です。cとdは対照的な場所にあるため、両者を比べるとこの土地の地形の歴史が分かります。高台dの結果を先に見ると、最上部に関東ローム層があり、続いて粘土(渋谷粘土層)、砂層・シルト層(上部東京層)、礫層(東京礫層)となっており、これは渋谷川が流れる淀橋台地に典型的な層序です。次に河川部cを見ると、上に粘土(渋谷粘土層)があり、次に砂(上部東京層)、礫(東京礫層)と続いていますが、本来ならば一番上にあるはずの関東ローム層がありません。これと同じ現象は、渋谷川上流部の他の地域、例えば芝川(穏田川の上流)の千原公園や宇田川上流の田中地蔵の辺りでも見られています。

柱状図cに関東ローム層がない理由として、何万年も前からこの地を流れていた(古)河骨川が、堆積していた関東ローム層を削り取ったか、関東ローム層の元になる富士火山灰や黄塵を洗い流していたかが考えられます。東京礫層がcとdの両地点で同じ深さの所にあったとすると、cにあったはずの関東ローム層約6mに加えて、渋谷粘土層も6mぐらい削られたことになります。dの場所には関東ローム層が6m近く積もっていますので、富士火山灰や黄塵が1万年で1m積もったとすると(地質学者の一般的な見解ですが)、河骨川はこの場所を6万年近く流れていたと見ることもできます。その他にも、この土地に地殻変動など、何か想定外のことがあったのかもしれません。なお、今回歩いた河骨川・宇田川流域のボーリング調査の主な地点と柱状図データ(地層)については上編の(注2をご覧下さい。

 

 

9. 八幡橋を通って河骨川終点の宇田川遊歩道へ

<江戸の絵図「代々木八幡宮」の謎>

 代々木深町公園の西側を流れる河骨川本流の道。前に歩いた線路脇の道と繋がっている。この角に昔は八幡橋があり、川は南(写真奥)の富ヶ谷1丁目に向かっていた。  

「代々木八幡宮」『江戸名所図会』。代々木八幡宮(絵図の中央)は建暦2年(1212年)に元八幡(西原)に創建され、後にこの地に遷座した。画面の右上が河骨川。赤丸は八幡橋。それ以外の場所を特定するのが難しい。


代々木深町小公園の縁まで来てすぐの道を右(西)に入りました。少し先に小田急線の6号踏切があり、その奥に代々木八幡の高台が見えました。この道を30mぐらい歩いた所に左(南)に曲がる道がありました。この角には右(北)から小道が来ていますが、線路の脇を通る河骨川本流の道です。左と右の道が少しズレているため、別々の道のようにも見えますが、流れは地下で繋がっています。昔はこの角に八幡橋が架かっていました。今の八幡橋は場所が変わって小田急線代々木八幡駅の跨線橋で、名前は昔と同じですが全く別の橋です。私たちは上の写真の角を左に曲がり、200m先の河骨川終点に向かって歩き始めましたが、その案内に入る前に、この土地の風景を描いた『江戸名所図会』の「代々木八幡宮」(右上の絵図)がありますので、この絵図の謎について考えます。

この絵図を見ると、正面の中ほどに代々木八幡宮と福泉寺があり、その麓を右から河骨川が流れており、お宮の長い階段の下には八幡橋(赤丸)が架かっています。そこまでは誰も異論はないのですが、問題はその他の景色です。地図を頼りにしてこの絵を見ても、他の川の流れや橋、道の場所がはっきりしません。風景画に見えないはずの富士山を描いても善しとする江戸時代ですから、写実性を厳しく求める必要もないのですが、各図柄を拡大すると細部にわたってしっかり描かれているので、大方が創作だとも思えません。下の方を流れている大きな川は何川なのか、手前から八幡宮に向けて旅人が歩いていますが、その道と橋はどこなのか、そもそも絵師はどこから景色を見てこの絵を描いたのか。現実にあり得ない景色なので頭を悩ませてきましたが、とりあえず結論を出しました。この土地の風景をダイナミックに表現するため、河骨川・宇田川の一筋の流れを二つに折り曲げて描いたのではないかという推理です。詳しい理由を説明をしていると長くなりますので、後日に本ホームページの「トピックス」でご報告します。


   

 
初台川(旧水路)は東に向かって流れて黒丸の辺りで河骨川と合流していたが、代々木八幡駅の建設時に「新水路」を設けて南に移され、宇田川上流と合流した。水路は「豊多摩郡代々幡村全図」『東京市15 区・近傍34町村』、明治44年)と『渋谷区地籍図』から作成。   河骨川(右)と初台川(左:旧水路)の合流点(左図の黒丸)。合流点の塀には子どもたちが描いた絵が並ぶ。河骨川ルートの名所の一つだ。

私たちは、八幡橋の角から150mほど歩き、右側の塀いっぱいにカラフルな子供の絵が描かれている所に出ました。この塀を通り過ぎると分かるのですが、ここはV字型の交差点で、右からの河骨川と左(西)からの初台川(旧水路)がここで合流していました(地図の黒丸)。時代によって合流点は動いているようで、地図によっても違いますが、だいたいこの近くでしょう。初台川の方の塀にも絵が描いてあり、振り返って見ると迫力があり、写真を撮っている人もいました。なお初台川(旧水路)ですが、昭和2年に代々木八幡駅ができた時に、駅舎を作る関係で南の方に水路が移され、西の西原・上原からきた宇田川上流と繋げられました。旧水路の土地は長方形に区画され、今では住宅地になっています。

     

写真3a 富ヶ谷地域初めての旧石器剥片。 『富ヶ谷遺跡 第一地点』(3)より。無断転載禁。   写真3 2号炉穴完掘全景(下が北)。平面形は不整楕円形。東(左)側の炉部が残存していた。長径約128m(筆者)

平成281月(2016)に、新富橋の西100mぐらいの所にある台地の縁で縄文遺跡の調査が行われました。「富ヶ谷遺跡」と名付けられており、旧石器時代の剥片2点、縄文時代早期・前期・中期の土器62点、中世・近世の陶器など27点が出土しました。旧石器時代、縄文遺跡、近世の遺跡と、長い期間に渡る発掘品を含んでいます。縄文時代の遺構では、炉穴3基、土抗4基、ピット(穴)7本などが見つかりました(注3。最新の研究によると縄文時代は16500年ぐらい前に始まったそうですが(山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書より)、私たちの学生の頃は6500年前と習いましたから、発掘調査や科学鑑定の進歩によって年代がどんどん遡っているようです。

発掘された炉穴は早期縄文時代(11500年前から7000年前頃か)の後半のもので、渋谷区ではこの時代の炉穴は他に確認されていないとのことです。早期縄文時代には定住生活が始まったため、住居跡が見つかることも多いそうですが、富ヶ谷遺跡にはありませんでした。遺跡の場所は山手通りの東側の斜面で、有名な「代々木八幡遺跡」と宇田川上流を挟んで向かい側にあります(「代々木八幡遺跡」については、本HP201810月27[代々木九十九谷」と「底なし田んぼ」を歩く(第2部)の「6.初台川と代々木八幡宮」を参照)。遺跡の場所は報告書によると「北側を流れる河川(宇田川・・筆者)を見下ろす舌状台地上」で、宇田川・初台川・河骨川の3つの川が集まる所の南側です。当時の川筋はよく分かりませんが、水が豊かな土地であったことは明らかです。縄文人が川や湿地に集まる小動物や魚を捕まえるのに絶好の場所だったでしょう。早期縄文時代の後半は温暖化で海面が上昇し、いわゆる「縄文海進」が起きた時期(約7000年前)と重なりますから、渋谷の近くまで海岸線が来ていたことも想定され、海の幸もあったと思われます。

当時の縄文人は、炉穴に土器を置いて煮炊きをしていましたが、食物は近くの林や川、海辺などで採取したとして、土器を作る粘土はどこから手に入れたのでしょうか。研究者によると、縄文時代の土器の整形は主に女性が行っていて、粘土素地の入手や土器の焼成は男性が担った可能性もあるとのことです(前掲『縄文時代の歴史』)。淀橋台の地下には渋谷粘土層が豊かに広がり、地元の方によると最近まで「はけ(湧水の場所)」の近くで粘土が採れたそうです。富ヶ谷の縄文人がどこの粘土を使っていたのか、土器を作るのが女性の仕事だったと言われると、とても気になります。粘土の採取場が見つかった縄文遺跡も他にありますので、渋谷でも今後の発掘や地質の分析に大いに期待したいものです。

これで<中編>を終わります。<後編>は河骨川と宇田川の合流点から始まり、宇田川本流に沿って神山町、宇田川町を通り、渋谷センター街の先にある終点の宮益橋(渋谷川との合流点)に向かいます。宇田川流域は明治以降に近代化の荒波を受けたため、牧歌的な河骨川とは趣きを異にした話が色々と出てきますので、楽しみにしてください。


<注釈>
(1)『 渋谷区地籍図』には、明治から昭和10年にかけて複数の蛇行する川筋が示されているが、昭和32年の『東京都全住宅案内図帳・渋谷区西部』では一本の直線にまとめられており、それが一般に河骨川暗渠の道とされている。
(2)20196月に代々木公園サービスセンターに公園内の湧水について尋ねたところ、「代々木公園に湧水は全くないが井戸はある」とのこと、「ワシントンハイツの流れ」については、当時の記録がないので分からないとのご返事だった。
(3)渋谷区教育委員会・他『富ヶ谷遺跡 第一地点』、20166月 (中編・終)

<参考文献・資料>

渋谷警察署新築落成祝賀協賛会『渋谷町史』、大正11

加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』郷土渋谷研究会、1967

藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』青蛙房、昭和53

田山花袋「丘の上の家」『東京の30年』、岩波文庫、1981

相川貞晴・布施六郎・東京都公園協会監修『代々木公園』郷学舎、1981

内山正雄・蓑茂寿太郎・東京都公園協会監修『代々木の森』郷学舎、1981

大岡昇平『少年』筑摩書房、1991

篠田鉱造『明治百話()』岩波文庫、1996

今泉宜子『明治神宮・戦後復興の軌跡』明治神宮社務所、平成20

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『特別展・春の小川の流れた街・渋谷』平成20

『渋谷の富士講』渋谷区郷土博物館・文学館、平成22

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか/渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮、2011

上山和雄他編著「歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-」雄山閣、2011

渋谷区教育委員会・他『富ヶ谷遺跡 第一地点』、2016

武田尚子『近代東京の地政学』吉川弘文館、2019

山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019

代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵)

「渋谷区土地利用図・明治42年」、渋谷区白根記念郷土文化館、昭和54

「豊多摩郡代々幡村全図」『東京市15 区・近傍34町村』明治44年、覆刻、人文社

「大東京鳥観図」部分、東京都立中央図書館所蔵、大正10年

渋谷区『図説渋谷区史』平成15

大日本帝国陸地測量部「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図、柏書房1983

大日本帝国陸地測量部「中野」「四谷」「世田谷」「三田」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図・大正14年修正、柏書房1983

『東京市渋谷区地籍図』下巻』内山模型社、昭和10

「帝都地形図」之潮、昭和22

『東京一万分の一地図』、復興土地住宅協会・内山地図、昭和32

立川博章『大江戸鳥観図』朝日新聞出版、2014

「昭和20年ワシントンハイツ」渋谷区郷土博物館・文学館所蔵

Japan Map Center, Inc.「東京時層地図」

(以上)



3月12日

目次()

10.宇田川遊歩道を軍人橋から桜橋(南八橋)、五石橋へ

11神山町を流れていた宇田川側流を探る

12宇田川流域の変遷と三田用水・神山口分水

13大向橋、宇田川橋を通って渋谷川合流点の宮益橋


散歩のルート<下>
河骨川と宇田川の合流点新富橋(遊歩道入口)軍人橋(井の頭通り)粘土山からの流れ・桜橋(南八橋)→白洋舎前の岸壁跡→NHK西門前の半円形の道→神山町の宇田川側流跡→梅花藻の湧水(クレストンホテル裏)→深町橋(遊歩道終点)→大沼(仮称)・お迎え田圃(アベマタワーズ)→三田用水・神山口分水合流点→松濤橋・宇田川新水路→大向橋・伊勢万水車(宇田川交番)→渋谷センター街→文化村通り→道玄坂下→宇田川橋(スクランブル交差点)→宮益橋(渋谷川との合流点・終点) 



10.宇田川遊歩道を軍人橋から桜橋(南八橋)、五石橋へ



[図C]新富橋から松濤橋に向かう宇田川本流と側流。宇田川本流は新富橋近くで河骨川と合流し、その後は軍人橋で宇田川上流、桜橋(南八橋)で粘土山からの流れ、松濤橋の手前で三田用水・神山口分水と合流して渋谷に向かった。「深町橋」近くに湧水があり、梅花藻が咲いていたとの証言がある。今のアベマタワーズの土地は大正時代は佐賀育英舎で、その前は大きな沼だった。この辺りの土地は「お迎え田圃(たんぼ)」と呼ばれ、川沿いの低地には明治末まで田んぼが続いていた。(地図データ2019Google)


<宇田川本流と軍人橋>

「中編」では、小田急線に沿って河骨川の川跡を南に下り宇田川本流との合流点に着きました。そこは新富橋から東に30mぐらい流れを下ったところで、宇田川本流の川跡は「宇田川遊歩道」という名前の赤レンガの道になっていました。いったん新富橋に戻って遊歩道スタート地点の車止めを見てから再び合流点を通って南に進むと、150mぐらい先に井の頭通りがあり、遊歩道はその道を南北に横切って渋谷に向かっていました。しかし遊歩道は井の頭通りで一時途切れ、そのまま横断することはできません。私たちは右手の交差点から迂回する形で遊歩道の反対側に出ました。遊歩道を渋谷に向かって歩き出す前に、この辺りの道路や水路について少しご説明します。

r

新富橋から軍人橋へと続く赤レンガの宇田川遊歩道。

   遊歩道は井の頭通りで一時途切れる。軍人橋は井の頭通りの中頃に架かっていたようだ。

この場所には明治の初めは、現在の代々木公園から駒場まで北東から南西へと走る古道が通っていて、ちょうど現在の井の頭通りの辺りで宇田川本流と交わっていました(「渋谷1880-1881」)。そこに架かっていた橋の名前は分かりませんが、明治末にこの道が代々木練兵場と駒沢練兵場や近衛連隊を結ぶ主要ルートになってからは、軍人橋と呼ばれるようになったのでしょう。「東京時層地図」で関東大震災前のこの土地の様子を見ると、軍人橋より北側(上流部)は農地で、南は家が建ち並ぶ町になっており、渋谷駅を起点とした市街化がこの辺りまで進んでいたことが分かります。

ところで、先程のアザミ屋さんのお話ですが、「代々木公園交番(軍人橋の100mぐらい東側…筆者)の近くに大きな排水口があり、(代々木公園の方から…筆者)水がザーッと落ちて流れていた。川の勢いが強かった。鉄格子が付いていて入れなかった」とのことです。『渋谷区地籍図』を見るとその辺りに四角い排水堀があり、代々木練兵場から排水堀への水路も描かれていますから、川は代々木公園の湧水か生活排水であったと考えられます。『地籍図』ではこの辺りから宇田川本流と並んで南に向かう側流が始まって、それがNHK西門の先まで続いていて、本流と横の水路で繋がっていました。宇田川の川沿いには明治末まで田んぼがありましたから、灌漑用に使われていたのでしょう。後に神山町を歩く時に「側流跡」を見学します。



<桜橋(南八橋)と粘土山の「はけ」>


桜橋(南八橋)が架かっていた所。西の山手通りから来た粘土山の流れが右手から合流していた。

 

桜橋(南八橋)の近く。参加者の方が下宿していた遊歩道沿いの家の前を通る。木村孝様撮影。


さて、井の頭通りを越えて再び宇田川遊歩道に入ると、左側にNHKの大きなビルが見え、レンガの細道が住宅やビルの隙間を通って南に向かって伸びていました。ちょっとお洒落な散歩道です。遊歩道に入って200mほど歩くと桜橋(南八橋)の所に出ました(注1)。この道から遊歩道終点の深町橋までが神山町です。ところで桜橋の手前には、西の山手通りの方から小川が流れ込んでいました。地元の富沢様のお話によると、この流れは「山手通りの中腹にあった粘土山の「はけ」から始まり、セブンイレブンの所(遊歩道の50m位西側…筆者)を通って宇田川支流に注いでいた」とのこと。粘土山は地元の呼び名です。「はけ」は湧水があった場所のことで、遊歩道から500mぐらい西にある山手通り脇の崖にありました。富沢様が子どもの頃、「はけ」の所で粘土をたくさん採って遊んだそうです。この小川には正式名が無いので、仮に「粘土山の流れ」と名付けておきます。


   

山手通り裏の崖近くの柱状図。上から表土、関東ローム層、砂質粘土層と続く。湧水は砂質粘土層から出ていたと考えられる。

 

粘土山と「はけ」があった山手通り裏の崖と階段の道。崖下に流れの跡(崖に沿った小道)が見える。左も共に 2016.12.6撮影。

   左の写真の崖下の流れの跡(崖に沿った小道)を拡大したもの。看板は下水道局。湧水は崖の斜面にあったようだ。

なおツアーの当日は時間の都合で行けませんでしたが、右上の写真2点は、富沢様の話に出てきた「はけ」があった崖(富ヶ谷128)です。湧水の場所は分かりませんが、階段の踊り場の先から小道(流れの跡)が宇田川に向かって出ていますので、おそらくその辺りの崖の斜面ではないかと思われます。


<白洋舎前の岸壁跡>

桜橋から70m位遊歩道を歩いて五石橋が架かっていた場所に出ました。ハチ公ソースの事務所が入っている小川ビルの北側です。今はビルが改修中なので事務所はここにありません。この先に丸木屋商店という酒屋さんがあってそこで渋谷名物の「ハチ公ソース」を売っています。ウスターソース、中濃ソース、フルーツソースの3種類の美味しいソースで、私はフルーツソースの大ファンです。当日は土曜日なのでこのお店はお休みでしたが、東急東横店や渋谷ハンズにも売っています。

ave
l b

 

五石橋の写真 昭和34年、現神山町。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。川は暗渠になり、周りはビルや住宅になった。

 

ここが五石橋が架かっていた場所。右は白洋舍ビルで、左は改修中の小川ビル。小川ビルには「ハチ公ソース」の事務所がある。


ところで数年前のことですが、この辺りの土地にお住まいの三田村様から昔の宇田川の様子をうかがうことができました。「子供の頃(昭和23年頃)、川幅およそ5メートルの宇田川が流れていた。 家は川の手前ギリギリのところまで建っていた。川の中にはくずれ止めで、岸壁に沿ってブロックの万年塀が川底から3メートルほどの高さでずーっと立っていた。ブロック塀の上には幅10センチぐらいのコンクリートの梁(はり)が1m30cmおきぐらいに渡されて、塀が中に倒れ込まないようになっていた。(中略)白洋舎の駐車場の前に昔の川の岸壁の跡が少し出ている。もともとの川はもう少し幅が広くて、その30cmぐらい内側に暗渠を作った。その際に川の岸壁と暗渠の隙間に砂や砂利を入れて埋めたが、その後砂が流れてしまって露出したようだ」。


川の岸壁の一部(写真中央の細い縦筋の構造物)。

  宇田川の岸壁跡を興味深そうに見学する皆さん。何やらミステリアスだ。

五石橋のすぐ先の白洋舎ビルの中程まで行くと、遊歩道の右側の地表に細長いコンクリートの残骸が顔を出していました。宇田川の川岸にあった構造物で、コンクリートの板と柱のように見えますが、具体的にはよく分かりません。先の三田村様の話や川岸の写真などから考えて、川の岸壁に沿って立っていたブロックの万年塀と、それらを支えていたコンクリート柱の上部とも思われます。この柱の上にコンクリートの梁が川を跨ぐ形で乗っていたのでしょうか。もしこの推理が正しければ、構造物の外側に宇田川の岸壁があって、そこと暗渠の間に砂利を埋めたところが、その砂利の一部がなくなってブロックの万年塀が顔を出したと考えられます。皆さんもこのミステリアスな構造物を興味津々眺めておられました。



11.神山町を流れていた宇田川側流を探る

<池を取り巻いていた半円形の道>

     
宇田川遊歩道(手前)を離れ、西側の緩やかな坂を上ってNHK西門の方へ。

NHK西門(写真の右方向)の前を取り巻く半円形の道。昔は西門の辺りに大きな池があった。左下は側流に向かう下り道。


宇田川本流の水路について説明していた時、「渋谷の方には灌漑用の水路はなかったのですか?」との質問がありました。昭和10『渋谷区地籍図』を見ると、宇田川の東側に灌漑用水に使われていた名残の側流があります。細かい流れはもっとあったのでしょうが、今でも一部残っていますので後で行きます」とお答えしました。この側流とは、先に軍人橋の所で触れましたが、宇田川と並行して南に下る水路のことで、時々途切れたりしながらしばらく続いています。NHK西門の辺りまでくると幾つかに分かれており、その一部が今も残っています。私たちはこの側流跡を見るため遊歩道から一時離れることにして、白洋舎の先の角を左(東)に曲がりました。この道はNHK西門の方に向かう緩やかな上り坂です。明治の頃は西門の先の高台に幾つかの池が連なっており、西門の入口辺りにはいちばん大きな池がありました。今はNHK西門の前がロータリーのようになっていて、太い直線の道路と大きな半円形の道に分かれていますが、直線の太い道路は新設された井の頭通りで、半円形の道はその池を遠巻きにしていた古道の名残りです。意外なところに昔の道が生きているのです。

 

<神山町の側流の跡>


 

昔はNHK西門の辺りに大きな池があった。昭和10年の『渋谷区地籍図』を見ると、池は既になくなっているが、現在のNHK西門の左(西)側に何本かの川筋が描かれている。図の中央を流れる太い川(水色)が宇田川本流、現在の宇田川遊歩道である。その右(東)側には側流(青い線)が南北に流れており田んぼの灌漑用に用いられていたことだろう。小川ビル裏の青い点線から突き当たりの道までの水路は先の三田村様が語る「ドブ川」。なお、図の下部の深町橋近く(クレストンホテルの裏手)に昭和半ばまで湧水があり、梅花藻が咲いていたことも教えて頂いた(緑の丸)。茶色の線は今回歩いた道。図中の説明は筆者。



ここからしばらくは道順が複雑なので、上図の茶色の線(歩くルート)を見ながらお読みください。私たちはまず緩やかな坂を上ってNHK西門前の半円形の道に突き当りました。そこを右(南)に曲がり、弧を描くように道なりに歩いて次の角を右(西)に曲がりました(実はツアー当日は行き過ぎてしまってUターン。直ぐに曲がりますのでご注意を)。この小道は下り坂で、20mほど先で突き当たって左(南)に曲がります。この突き当たりの右手の奥に草むした細長いスペースがありますが、これが「神山町の側流跡」です。草むらに大きなマンホールがあるので、地下に暗渠が通っていることが分かります。何の変哲もない草むらですが、川の愛好家にとっては垂涎のスポットですね。
 
     
NHK西門前の半円形の道を南に歩いて側流跡へ。次の曲がり角を通り越さないようにご注意を!木村様撮影。  

 

草むした側流の跡。川は奥(北)の方から流れてきた。

先程の三田村様は、この側流についても話して下さいました。「当時(昭和25年前後・・・筆者)、宇田川本流に沿って一筋の小川が白洋舍前の小川ビルの裏からクレストンホテルの裏まで流れていた。水の下は淀んでいても、流れている水はきれいだった。本流とは違う水だったようだ。少し匂いがあった。当時は「ドブ川」と呼んでいて、幅40-50センチぐらいの小さい流れだった。交通公社が入っている細長いビルの裏にも流れていた。マンションの間は1-2mの幅で流れていて、小さいドジョウがいて採ったことがある。」三田村様のお話しでは、昭和20年代の末頃まではこの辺りの土地に麦畑が残っていました。またこの「ドブ川」は昭和35、6年ごろに無くなったそうです。


側流跡の左側の暗渠の道。川は奥(南)の方に向かっていた

 

三島梅花藻。「静岡花散歩」より。クレストンホテルの裏手の湧水に梅花藻が咲いていたという。水源は高台からの伏流水か(後述)。

 

側流の跡を確かめた後、突き当りを左に曲がって暗渠の道を100mぐらい南に進み、NHKセンター下の信号(左の方)から来る太い道に出ました。この角を右(西)に曲がって80mほど真っ直ぐに進むと宇田川遊歩道の深町橋に戻りますが、その手前を右(北)に曲がって遊歩道の裏道に入り、クレストンホテルの裏手に出ました。この場所に来た理由は、クレストンホテルの裏地にかつて湧水池があり、そこに梅花藻が咲いていたという三田村様の話を聞いていたからです。「クレストンホテルが建つ前まで敷地の辺りは広場になっていて、小さな泉が湧いていて、そこに梅花藻が咲いていた」と。清流にしか育たない梅花藻が都会の宇田川脇にあったとお伝えしても信じてもらえないかもしれません。そこで「三田村様のお母様のご実家が三島にあり、高校生の頃から梅花藻をよくご存じだったのです」と申し上げたところ、皆さんも「なるほどねー」と納得。

先に上流部の河骨川を歩いていた時にも、プレイパークの辺りで梅花藻の話が出ました(「中編」参照)。地元のアザミ屋さんの「髪の毛のような緑色の藻が生えていて、白い小さな花が咲いていた」という証言から私が勝手に推理したものです。しかし三田村様のお話は梅花藻の“本家”の方のお見立てですから、間違いないでしょう。そうは言っても、宇田川本流や側流の水質では梅花藻は育たないと思います。クレストンホテルの裏手に湧き水があったということは、NHKセンターがある高台の土地の宙水(地下の溜り水)や池の水が、伏流水(地下を流れている水)となってこの場所で湧き出ていたのではないでしょうか。三田村様には宇田川に関する興味深いお話をたくさんしていただき、ありがとうございました。

さて、私たちはホテルの裏から遊歩道に戻り、「深町橋」の所に出ました。ここで宇田川遊歩道は終りです。おしゃれなレンガの道もコンクリートに変わりました。神山町もここまでで、これから宇田川町の繁華街に入ります。

クレストンホテル横の深町橋の所。宇田川遊歩道はここで終わり。

 

遊歩道が終わり宇田川町に入った。川跡の道には食堂や居酒屋が立ち並ぶ。渋谷センター街はもうすぐだ。(木村様撮影)


12宇田川流域の変遷と三田用水・神山口分水

 
<アベマタワーズの土地にあった大きな沼>

私たちは宇田川遊歩道の終点から100mほど南にあるアベマタワーズ(図Cの右下)に向かいました。AbemaTVやサイバーエージェントで知られたIT企業の高層ビルです。行く途中で「次は土地の変遷の歴史が面白い場所に行きますよ」と申し上げたところ、参加者の方が「大名屋敷ですか」と尋ねられました。「いいえ武家屋敷ではありません。この辺りは昔は田んぼでしたので。何しろ川が流れていた低地ですから」と答えました。江戸時代は武家の多くは高台に屋敷を構え、町人や農民は低い土地に住み、農地も一般に低い所にありました。アベマタワーズから大向橋(今の渋谷センター街・宇田川交番)辺りまでは、後に述べるように昔は「お迎え田圃(たんぼ)」と呼ばれ、川沿いに田んぼが広がっていました。

  

クレストンホテルから100mほど歩くとモダンなアベマタワーズに。大正末にはここに佐賀育英舎があり、それ以前には大きな沼があったという。江戸末期は、この辺りは田圃が広がっていた。

 

東急裏の柱状図。ボーリング柱状図で地層を見ると、表土の下に1mほどの腐植土があるのが特徴。その下は順に関東ローム層、シルト質細層(渋谷粘土層や上部東京層)、礫層で、淀橋台に典型的な層序を示している。

 

ちなみにアベマタワーズの南の地点の地層を「ボーリング柱状図g」で調べると、「表土」の下に「高有機質土(腐植土)」が1mぐらい積もっており、この土地が江戸時代から田んぼとして使われてきたことを感じさせます。河骨川・宇田川の地層に関する全体的な説明は本稿「上編」の(注2)を参照して下さい。なお、河骨川・宇田川の西側を流れる宇田川上流(西原・上原からの流れ)や初台川沿いの土地は、同じ田んぼの地層でも層序が、かなり異なっています。宇田川上流の「底なし田んぼ」の腐植土は7~8mに達しており、この土地が過去に田んぼであっただけでなく、腐植土が大量に溜まるような地形的な特徴があったことを暗示させます(注2)。渋谷川が流れる淀橋台の地層には、関東地方が古東京湾から離水を始めてから12万年余りの長い歴史が刻まれており、専門家の間でも説明の難しい問題が色々とあるようです。

さてアベマタワーズでは、広い前庭のベンチに座ってじっくり説明するつもりでしたが、土曜日で人出が多くてベンチに座れず、立ったままの話となりました。2016年にアベマタワーズの土地を見学した時はまだ工事中で、高いフェンスに取り囲まれて中は見えませんでした。それ以前はだだっ広いコンクリートの駐車場でした。昔にさかのぼると、明治の頃は大きな沼だったようです。藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』(昭和53年刊)には、元水車業者(後出の伊勢万水車)の「鎌田さん」の話としてこの場所のことが出てきます。藤田が「宇田川町(深町橋の南側)に沼があったって本当ですか」と尋ねたのに対し、「ええありましたねえ。今になりゃあ、NHKの少し手前ってことになりますか、ほら、鍋島さんの佐賀育英舎っていうのが左側にあったでしょう、あれが建つ前ですから旧い話でさあねえ。とにかくその沼を発動機をつけた船が走ったんですから、かなり大きゅうござんしたねえ」と。


佐賀藩鍋島家は、明治初めにこの辺り一帯の土地を紀州徳川家から購入して茶園(松濤茶)、その後に農場を経営した。また宇田川町に佐賀育英舎を建てて、県人の教育に貢献した。写真は鍋島家11代当主の鍋島直大。ウィキペディアより。

 

S11.8 代々木上原の底抜け田んぼ(上原3-43)(写真とタイトルは鈴木錠三郎氏。鈴木信弘氏所蔵。無断転載禁)



ところでこの土地は田んぼの土地でしたが、明治以降は旧佐賀藩の鍋島家と深く関わることになりました。昭和10年の『渋谷区地籍図』ではここは「佐賀育英舎」になっています。佐賀育英会のHPには「松濤学舎」が大正13年から鍋島家寄贈の土地・渋谷区宇田川町にあったと書いてあります(http://shoutou.com/gaiyou.html)。先の鎌田さんの話では、この沼は佐賀育英舎が建つ前にありましたので、当時の地図に沼が記してあるはずですが、明治の終わり頃の地図を見てもこの辺りは田んぼだけで、沼や池はありません。発動機をつけた船が走っていたような大沼が地図に記されていないのはなぜでしょうか。ヒントとなるのが、かつて宇田川上流にあった「底抜け田んぼ」の写真(鈴木錠三郎氏撮影)です。そこは人手不足で田んぼが耕されなくなったため、大きな水たまりに変わっていました。同じような話は河骨川の水源1(初台)のところでもありました。地元の方によると、休耕田の跡が沼地になっており、コイやアヒルを飼ったり、その沼にニホンカワウソが生息していたそうです(本稿「上編」を参照)。元水車業者の鎌田さんの記憶にある沼とは、明治末に放置された田んぼが次第に宅地化する前の一時期の姿だった可能性があります。


<富士講とおむかえ橋>


山吉講の旗。山吉のマークの上に渋谷の文字が。『渋谷の富士講』より。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。無断転載禁。

 

「お迎え田圃」は深町橋より南の宇田川沿いにあった(地図中頃)。青色と地名は筆者。「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年測図。

  

話は江戸時代の正保の頃に遡ります。加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』によると、江戸時代は富士講(富士山の信仰と富士詣)が盛んで、当時最も有名な「山吉講」の講元(世話役)であった吉田家が道玄坂に屋敷を構えていました。江戸中の山吉講の枝講(支部)の人々は、富士山に登る前に吉田家に拝礼に訪れる習慣があり、「道玄坂」の名は江戸中に知れ渡っていたそうです。吉田家の葬儀ともなると、江戸中の関係講中が道玄坂に集まって葬儀を行うのが習慣で、その後に宇田川・深町田圃(たんぼ)で供養を行いました。場所は東急百貨店の北の深町橋近くの川沿いの田んぼです。葬儀の用材を使って、次節で述べる伊勢万水車の手前にあった橋を架け替えたと伝えられます。こうしたことから、辺りの田んぼを「お迎え田圃」、橋を「おむかえ橋」と呼ぶようになり、これが後の大向橋の名の由来になりました。アベマタワーズの先端的な空間には江戸時代から様々な歴史が詰まっていますね。


<鍋島松濤公園と三田用水・神山口分水の流れ>


 

路地裏の細い道は三田用水・神山口分水の水路跡。奥に東急本店の北端が見える。

アベマタワーズを後にして、渋谷に向かって歩き始めました。およそ70m進むと右手に路地裏のような細い道があり、奥の方に東急本店が見えました。この道は三田用水・神山口分水の水路跡で、この角で分水が宇田川本流と合流していました。明治以降の話になりますが、神山口分水の流れの途中には佐賀鍋島家が所有する鍋島農場があり、その上手と下手に水車がありました。後に触れますが、合流した後の宇田川・大向橋の先にも伊勢万水車が1台あり、精米を行っていました。  

鍋島松濤公園の池と水車。神山口分水には2台の水車があった。現在の松濤池には水車のモデルを復元し、この土地に農業・水車業が栄えていたことを今に伝えている。

 

明治時代、三田用水の駒場から神山口分水が流れ出し、水車を回した後に鍋島農場に入り、中の池から再び流れ出た後も水車を回し、灌漑に利用され、その後は宇田川に注いでいた。「世田谷」『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図』。


明治9年、鍋島家は駒場の東にあった紀州徳川家と旗本長谷川家の広い土地を購入しました。幕末の名君鍋島直正の跡を継いだ11代当主の鍋島直大は、明治以降にこの地に茶園を起こして「松濤茶」と命名しました。これが後の松濤の地名の由来です。人気が高いお茶でしたが、明治22年(1889)に東海道線が開通して静岡茶や宇治茶が入ってくると衰退したと伝えられます。当主の直大は、明治37年に鍋島農場を開き、欧米の農業技術を導入して畑、果樹園、種畜牧場等と多角的な経営を進めました。その過程で神山口分水の流れを池に落とさず迂回させて高地を引き回し、効率良く利用しました。(田原光泰『春の小川の流れた街・渋谷』参照)

しかし、渋谷の市街化に伴って周辺の農地は徐々に宅地に変わりました。鍋島家は鍋島農場の土地を整備し、ちょうど関東大震災で宅地の需要が大きくなる時代を見越して分譲しました。現在の住宅地松濤の誕生です。昭和7年、鍋島家は東京市に湧水池と周りの土地を児童遊園として寄付しましたが、それが現在の鍋島松濤公園です。この池には水車が復元され、土地の水車と農業の歴史を現代に伝えています。松濤の池にはかつて河骨川に咲いていた水生植物・コウホネが栽培されており、季節になるとかわいい黄色い花を咲かせています。

     
   

恵比寿たこ公園のコウホネの池。開花期は4月末から9月半ば。(20195月18日撮影)


ここで手前味噌で恐縮ですが、JR恵比寿駅近くにある恵比寿東公園(通称たこ公園)の池のコウホネについて少しご紹介します。私が所属する市民団体「たこ公園コウホネの会」では、たこ公園に小さな人工の池を設けてコウホネを育てています。このコウホネは渋谷区公園課が鍋島松濤公園の池から移した“由緒”ある品種です。初めのうちは育つかどうか心配でしたが、今ではしっかり根付きました。またこの池のクロメダカは、渋谷区の「渋谷区ふれあい植物センター」から譲っていただいた純粋種です。小さな池ですが、渋谷の自然の記憶を確実に受け継いでいますので、機会があればお立ち寄り下さい。

さて、先のアベマタワーズの敷地は広々としていましたが、渋谷センター街に近づくと人通りが多くなり人混みの中を松濤橋に向かうことになりました。松濤橋が架かっていたのは「夢二通り」の角、ヨシモト∞ホールの前辺りで、右手奥に東急百貨店の本店が見えました。この通りは画家・詩人の竹下夢二が住んでいたので「夢二通り」と呼ばれていました。いよいよセンター街の中心部に入ります。

 
  渋谷センター街に近づく。松濤橋は、画面奥右手の「夢二通り」に架かっていた。(木村様撮影)  

13. 大向橋、宇田川橋を通って渋谷川合流点の宮益橋へ

10.八千代橋から旧宮益橋(終点)へ

[図D]松濤橋の先の大向橋(宇田川交番)の手前には「堰」(川の水をせき止める仕切り)が築かれ、橋の南側には「伊勢万水車」が回っていた。当時の宇田川は、文化村通りから道玄坂下宇田川橋にかけて、約100mを民家や商店の床下を流れていた(図で宇田川橋手前の水色の部分)。その後は、宮益橋で渋谷川と合流していた。

 

<大向橋と伊勢万水車>

松濤橋からさらに100mほど歩いて大向橋の所に出ました。現在の井の頭通りにある「宇田川交番」の南側ですが、ここに川が流れていて、橋が架かり、その先に水車が回っていたことを想像できる人はまずいないでしょう。水車は穏田川の水車と比べると小規模でしたが、河骨川・宇田川に架かる唯一の水車でした。本稿の「上編」でも述べましたが、宇田川は玉川上水の分水を受けなかったため、川の水量が少なくて安定せず、上流・中流部には水車がありませんでした。川の勾配も緩やかでしたから、堰を設けて貯水池を作ることも難しかったのでしょう。しかし松濤橋の手前で三田用水・神山口からの分水を受けたことで初めて水車の設置が可能になりました。大岡昇平『少年』には、この辺りの土地の様子が図を交えて詳しく紹介されています(注3。彼がこの土地に越してきた時にはすでに水車は無く、その跡地の借家に住んでいましたが、ここの土地柄にとても関心を持ったようで、図の細かい描写も含めて観察が鋭いことに驚かされます。


伊勢万水車が架かっていた大向橋付近略図(大岡昇平『少年』より)。当時、水車は既になく、その跡地が大岡宅になっていた。図中の川の「堰」は水車を回すために水を貯める装置で、大向橋の上流50mの所から設けられ、高さ約15mの堰の上から取水し、溝で水車まで導いていた(実際の堰の高さは15mではなく2.2mだった。詳細は後述)。事業規模は穏田川の村越水車や柳沢水車の12割と小さかったが、河骨川・宇田川では唯一の精米水車である。大正2年に廃業した。(文字・矢印等は筆者)

     

なお、伊勢万水車の堰の高さを大岡昇平『少年』に基づいて15mと紹介したところ(上図の説明)、ツアー参加者の木村孝様から堰の高さが事実と違うのではないかとのご指摘があり、鈴木芳行「明治・大正期における多摩川流域 の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業 の存在形態」にある伊勢万水車の記録をお送りいただきました。それには堰の高さは7尺4寸(約2.2m)とありました(注4)。この数値が伊勢万水車の公式の記録であること、また地形から考えて15mは大きすぎることから、7尺4寸に訂正いたしました。木村様には改めてありがとうございました。

<宇田川の洪水と新水路の建設>

新富橋の方から緩やかに流れてきた宇田川ですが、大向橋を越えると宇田川橋まで突然勾配が急になりました。その後は現在の渋谷センター街の真ん中を東南に勢いよく流れ、文化村通り(東急百貨店からの道)、道玄坂下、そして宇田川橋(スクランブル交差点)を通って宮益橋で渋谷川に注いでいました。明治末には渋谷の市街化に伴って法改正が行われ(明治38年)、渋谷駅の近くでは川の上に家を建てて良いことになりました。その結果、宇田川の水面が隠れてしまうぐらい多くの商店や民家が水上に建ち並びました。雨水を吸い込んでいた周辺の田畑はなくなり、その一方で川の上まで住宅が密集したのです。

 

河骨川の水源2(山内邸)から宇田川終点の宮益橋までの勾配。その間の地形は、勾配の度合いによって①水源2から水源1(初台)との合流点、②合流点から新富橋、③新富橋から大向橋、④大向橋から宮益橋、の4区間に分けられる。大向橋の手前からの約410mは地形が急勾配になっている。データは国土地理院。

 

上の図は、国土地理院の標高データを用いて河骨川と宇田川の縦断形を描いたものです。現在のデータに基づいていますので、昔と同じではありませんが、だいたいの傾向は掴むことができます。水源2の山内邸の池から水源1(初台)との合流点までは4.2m/100m100mにつき4.2mの傾斜)で、これはかなりの傾きです。その後、合流点から新富橋(河骨川・宇田川の合流点)までは0.5m/100mと緩やかになり、新富橋から大向橋(宇田川交番)までは0.28/100mとさらに緩やかになります。しかし大向橋からセンター街出口の宇田川橋までは0.77/100mと、約310mの短い区間ですが勾配がそれまでの約3倍弱になっており、大雨の時にこの場所でしばしば水害が起きていたことが分かります。またここに伊勢万水車が掛けられていたことが理解できます。なお渋谷駅山手線ガード下の標高が周辺より低いのは、車両を通すため地面が掘り下げられたためです(5)


 『東京都下水道台帳』渋谷駅北側の部分。赤い線が下水道網。原宿橋からキャットストリートを流れてきた千駄ヶ谷幹線は、明治通りの「宮下公園」交差点先のA点で2つに分かれる。1つは渋谷川幹線・古川幹線(品川方面)に入り、もう1つは直進して宮益橋、稲荷橋へと進む。そこで地上に現れて渋谷川となる。



宇田川下流はセンター街で傾斜を増していましたが、それに加えてこの辺りの水路が折れ曲がっていたため、家の床下に粗大ゴミや木材が溜まることがありました。こうした諸条件が重なって大洪水が引き起こされました。「渋谷区教育委員会『ふるさと渋谷の昔がたり第3集』(昭和63年)には、「道玄坂にひどく水が出たことがありました。二階家が、水にもろにつぶされて流れました。また、水に流された長屋が、その先に新しくできていた二階家のところでストップするというありさまでした」と記されています。

このため宇田川新水路の建設が計画され、昭和になると工事が始まりました。新水路のルートですが、駅近辺の土地買収が難しかったようで、松濤橋の所から宇田川交番までは旧宇田川ルートを通し、交番からは井の頭通りの下に地下水路を建設し、今の西武百貨店A館、B館の間を通して、穏田川に合流するようにしました。合流点は宮益橋の60-70m手前です。この新水路のおかげでその後はセンター街の洪水・浸水がなくなりました。時は流れ、昭和30年頃にこの地域の区画整理事業が始まり、今のセンター街が生まれました。この時に地上のビルの整理のみならず地下の下水網も整備され、宇田川の最下流部は地下からも姿を消しました。現在のセンター街には宇田川の跡が何も残っていません。


<宇田川橋を通って終点・宮益橋へ>


 土曜夕方、センター街の様子。写真左手の建物が宇田川交番。新水路は交番の先から井の頭通りの下を真っ直ぐに通り、西武百貨店A・B館の間を抜け、山手線をくぐって穏田川に合流していた。手前右側(宇田川交番の南)に大向橋が架かっていた。(別宮様撮影)



さて、私たちは大向橋があった宇田川交番の南側からセンター街のメイン通りに入り、宇田川が東南の方向に斜めに横切っていたことをイメージしながら(実際には幾つかの角を曲がりながら歩いて)文化村通りに出ました。現在のMEGAドンキの下辺りを通っていたのでしょうか。文化村通りに出た後は左に曲がり、道沿いに駅の方(左)に向かいました。川は文化村通りに入った辺りから家々の床下を流れ下り、道玄坂を下り、今のセンター街入口辺りにあった宇田川橋の所で地表に現れていました。そしてスクランブル交差点を東にまっすぐ流れ、山手線ガードの先の宮益橋で渋谷川に合流していました。私たちも押し寄せる人波をかき分けながら道玄坂を下り、スクランブル交差点の方に歩きました。昔は宇田川橋の脇に大きな一本松があり、その脇に宇田川地蔵が祀られ、今の三千里薬局の裏に「あやめ池」という小さな池があったそうです。

終点の宮益橋の所ですが、現在は宮下公園の工事で暗渠の駐車場が閉鎖されているため、当日はスクランブル交差点の手前の「みずほ銀行」前で解散しました。この大混雑の中、皆さんが最後に顔を合わせる場所があって良かったです。宮益橋は一昨年に行った「穏田川・芝川ツアー」の時の解散場所で、周辺の様子は本HP2019719日『渋谷の穏田川と芝川を歩く(下編)』に報告してありますのでご参照下さい。

   

「宇田川橋」(明治393月、柴田富洋画)。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。無断転載禁。今の渋谷センター街入口の近くにあった。橋は木製であったが、車両の通りが激しくなったため、明治後期に石橋に架け替えられた。


終わりに、明治39年に描かれた「宇田川橋」(柴田富洋画)の絵をご紹介します。渋谷の市街化が始まる少し前の作品で、絵の下の方に親柱と橋げたがあり、左側には川に沿うように木製の垣根が並んでいます。大きな松の木の右下に石碑のようなものがありますが、これは宇田川地蔵のようで、今は渋谷金王八幡宮の隣の東福寺に安置されています。この絵を現在の景色にあてはめてみると、橋げた辺りがセンター街入口、正面のお茶屋がスターバックス、奥の林が宇田川町と神南の町並み、右側の広場がスクランブル交差点でしょうか。イメージが色々と膨らんで楽しい絵です。 

最後に、4時間を超える長いツアーにお付き合い下さった参加者の皆様、そして河骨川・宇田川について貴重な情報をお寄せ下さった地元の方々に厚くお礼申し上げます。また今回も「上・中・下」にわたる長い原稿に最後まで目を通して下さった読者の方々にお礼申し上げます。

(次回のツアーのお知らせ)次回は今年秋、今も水が流れている渋谷川の姿を渋谷駅から古川橋まで探訪する予定です。現在の渋谷川本流は、稲荷橋・渋谷ストリーム前の美しい遊歩道に沿った「開渠」の流れに始まり、恵比寿、広尾、古川橋、麻布十番、赤羽橋、金杉を通って東京湾に注いでいます。このルートには、渋谷川の南北にある台地から10余りの自然の川や三田用水の分水が流れ込み、川の歴史や人々の生活についての興味深い話が沢山あります。また報告をさせていただきますので、よろしくお願いします。

<注釈>
(注1)2016年の宇田川ツアーでは、この橋を南八橋(桜橋)とした。昭和10年『東京市渋谷区地籍図』を見ると、代々木深町(86図)は南八橋、代々木富谷町(84図)は桜橋とあり、場所はほぼ同じだが橋名が違っている。史料によって橋名が違うことはよくあるので、二つの橋を並べ、河骨川が描かれている「86図」の南八橋を先にした。しかし渋谷区教育委員会『渋谷の橋』が桜橋としているため、今回は桜橋を先にした。
(注2)宇田川上流・初台川の地層のボーリング調査結果については、本ホームページ2018年11月27日『代々木九十九谷と底なし田んぼを歩く<第2部>』の3.2「底なし田んぼを生んだ地形と地質」を参照。
(注3)大岡昇平『少年』筑摩書房、昭和50年、39頁。
(注4) 
鈴木芳行 「明治・大正期における多摩川流域 の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業 の存在形態」(現)東急財団/1992・刊。同書の記載部分(167168)より。

(注5)
 都内で注意が必要なアンダーパス135ヵ所の内、JR渋谷駅のガード下は、上を線路が走っているので、少し掘り下げられた道路になっている。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191011-00010004-tokyofm-life(後編・終)


<参考文献・資料>

渋谷警察署新築落成祝賀協賛会『渋谷町史』、大正11

加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』郷土渋谷研究会、1967

藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』青蛙房、昭和53

田山花袋「丘の上の家」『東京の30年』、岩波文庫、1981

相川貞晴・布施六郎・東京都公園協会監修『代々木公園』郷学舎、1981

内山正雄・蓑茂寿太郎・東京都公園協会監修『代々木の森』郷学舎、1981

大岡昇平『少年』筑摩書房、1991

篠田鉱造『明治百話()』岩波文庫、1996

今泉宜子『明治神宮・戦後復興の軌跡』明治神宮社務所、平成20

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『特別展・春の小川の流れた街・渋谷』平成20

渋谷区郷土博物館・文学館『渋谷の富士講』平成22

田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか/渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮、2011

上山和雄他編著「歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-」雄山閣、2011

渋谷区教育委員会他『富ヶ谷遺跡 第一地点』、2016

武田尚子『近代東京の地政学』吉川弘文館、2019

山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019

代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵)

渋谷区白根記念郷土文化館「渋谷区土地利用図・明治42年」昭和54

「豊多摩郡代々幡村全図」『東京市15 区・近傍34町村』明治44年、覆刻、人文社

「大東京鳥観図」部分、東京都立中央図書館所蔵、大正10年

渋谷区『図説渋谷区史』平成15

「渋谷1880-1881」『東京都市地図3東京南部』柏書房

大日本帝国陸地測量部「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図、柏書房1983

大日本帝国陸地測量部「中野」「四谷」「世田谷」「三田」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図・大正14年修正、柏書房1983

『東京市渋谷区地籍図』下巻内山模型社、昭和10

『帝都地形図』之潮、昭和22

『東京一万分の一地図』、復興土地住宅協会・内山地図、昭和32

立川博章『大江戸鳥観図』朝日新聞出版、2014

「昭和20年ワシントンハイツ」渋谷区郷土博物館・文学館所蔵

Japan Map Center, Inc.「東京時層地図」




3月22日


2019年秋に恒例の「渋谷川ツアー」を行い、渋谷川上流の一つ、河骨川と下流の宇田川の暗渠の道をご案内しました(「報告」は2020226日「春の小川 河骨川・宇田川を歩く」中編を参照)。そして、河骨川の八幡橋近くを歩いていた時に、皆さんに『江戸名所図会』にある「代々木八幡宮」をお見せし、この絵の構図の謎について少し述べました。八幡橋があった場所は代々木深町小公園(渋谷区富ヶ谷1-54-1)の西にある小田急線参宮橋6号踏切の手前で、下の絵の中頃に記した赤い丸の地点です。上のタイトルの絵はその拡大図です。

r

『江戸名所図会』は斎藤長秋(幸雄)・莞斎(幸孝)・月岑(幸成)の3代にわたって書き継がれたもの。天保5年(1834)と天保7年(1836)に斎藤月岑720冊で刊行。挿図は長谷川雪旦。左図は「代々木八幡宮」『江戸名所図会』。川の水色は筆者。赤い丸は八幡橋。絵の右上には八幡宮の本社が描かれている。

 

「代々木八幡宮」は江戸の天保年間に描かれたもので、八幡宮が鎮座する丘と麓を流れる二筋の川が大胆なタッチで描かれています。構図が美しいだけでなく、当時の河骨川と宇田川の周辺の様子を知る上でも貴重な資料です。しかし、この絵を明治初め(1880年頃)の地図に照らし合わせると、代々木八幡や河骨川、八幡橋はほぼ地図にある通りなのですが、絵の下半分の景色が地図とは全く合いません。商業目的で作られた絵図ですから、下半分が創作ということも考えられます。「代々木八幡宮」の絵はどこまでが真実でどこから創作なのか。この絵が大好きな私は、今回のツアーを機会に自分なりに考えをまとめました。

初めにこの絵の特徴ですが、画面は大和絵特有の横に伸びる雲か霞のようなものを境にして上と下に分かれています。雲より上の部分には、関東の山々を背景にして、代々木八幡の大きな丘と森、本社や天神、いなり、別当(福泉寺)があり、その麓には河骨川と八幡橋(赤い丸)が描かれています。川の両岸には矩形の田んぼが幾重にも広がり、橋を通る道には参拝者(または旅人)が歩いています。代々木八幡宮の中には人が描かれていません。あくまでも深閑と静まりかえった神社のようです。雲より下の部分には一筋の太い川が描かれ、そこに太い道と比較的大きな橋があり、道には商人や旅人が歩いています(後出の図を参照して下さい)。川の周りには田んぼや葦の原のような湿地があり、川は画面下を斜めに流れています。

このように雄大な眺めが広がりますが、先に述べたようにこの絵には謎があり、雲より下の部分の二筋目の川が当時の地図を見ても存在しないのです。八幡宮の丘の南の土地を流れる大きな川は宇田川しかありませんので、これを宇田川と見た場合、河骨川と並行して流れているところが実際の流れと合いません。どういうことでしょうか。江戸時代の絵師のことですから川を創作したのかもしれません。しかし、この川には立派な橋が架かり、橋には杖をついた人が歩き、橋の手前の道には天秤棒を担ぐ商人や笠をかぶった旅人がリアルに描かれており、妙に現実感があります。

実は2015年の河骨川・宇田川ツアーでもこの絵について少し考えました。この時は、二筋の川が見えそうな所を地図の上に何とか探し出し、現在の代々木公園内の「代々木公園交番の北側辺り」から眺めて描いたものと推理しました。宇田川の流れは、絵師が大幅にデフォルメしたものとしました。これで絵のアングルの見当はつきましたが、この仮説では宇田川の周りの景色をうまく説明することができませんでした。

今回は、この絵図が雲を境として上と下に分かれていることに着目しました。絵師は一つの地点から景色を描いたのではなく、二つの地点から景色を描き、更にそれらの間に雲を挟んで一枚の絵にまとめたという仮説です。この結果、河骨川と宇田川の一筋の流れが二つ折りになりました。流れの方向は上の河骨川は右から左、下の宇田川は左から右です。右下の明治初めの地図では、AからBBからCとなり、Bは画面では隠されています。江戸時代の絵師のことですから、川の流れをダイナミックに表現するために、初めから二つ折りを狙っていたのかもしれません。なお、絵図の上部の八幡橋と下部の大きな橋から曲がりくねった道が出ていて、それらが真ん中を横切る雲の前で途切れています。まるで二つの道が雲の下で繋がっているようにも見えるため、これについては後程考えます。



    1880年頃の八幡橋と後の軍人橋の周辺。『東京時層地図』より。河骨川(細い水色の線)は、地図の上の中ほどから代々木八幡宮の台地に沿って南に流れている。八幡橋(A)を越えた河骨川は、新富橋近くで宇田川と合流し(B)、90度ぐらい曲がって東南の軍人橋(C)の方に向かう。八幡橋と軍人橋を通る二つの道は、代々木公園の台地(D)で交わり、その後は北と東に分かれる。北に向かう道は甲州街道に至り、東への道は穏田村を経由して千駄ヶ谷や青山に繋がっている。赤い丸は絵師が景色を眺めたと思われる二つの場所。左は対応する現代図(Google Map)に川の流れを描き込んだもの
 

ところで絵師が二つの地点から描いたとすると、実際にどの地点から景色を眺めたのでしょうか。絵師が現地に行かずに想像で描くこともあると思いますが、その場合もアングルを決める地点があるはずです。図絵の上の部分については、河骨川が正面を流れ、代々木八幡宮の丘や八幡橋が絵のやや右手にありますから、絵師は河骨川を南東の側から眺めていると思われます。絵師がいた地点はおそらく代々木公園の南寄りの土地でしょう(代々木神園町2丁目)。明治初めの地図でこの場所を探すと、C地点(軍人橋:代々木公園交番前近く)の北にある高台でしょうか。この場所は、代々木公園内の「代々木公園交番の北側辺り」とした2015年の仮説と同じです。

次に絵図の下の部分ですが、絵の左上から宇田川が流れ、左下から道が上って大きな橋で交差していますから、絵師は宇田川を南西の側から見ていたと思われます。上の地図で絵師がいた地点を探すと、C地点(軍人橋/代々木公園交番前近く)の南(富ヶ谷1丁目)にある高台が候補です。もちろんこの仮説は、絵の下の部分に描かれた太い川が宇田川で、また道も地図にある道とした場合であって、創作した川や道ならば仮説は成り立ちません。


宇田川に架かる橋(後の軍人橋)には杖をついて渡る人、手前の道には天秤棒を担ぐ商人や笠をかぶった旅人が描かれている。


先ほど述べましたが、絵の上部にある八幡橋から道が下に伸びており、また絵の下部の大きな橋から道が上に伸びていて、ちょうど雲の下辺りで交わっているように見えます。これを明治初め(1880年頃)の地図に照らして考えると、八幡橋Aと軍人橋Cを通る道が代々木公園の高台Dで合流していることに符合しています。実際には二本の道は高台Dで合流した後に北と東に分かれ、北は甲州街道へ、東は穏田村を通って千駄ヶ谷や青山へ向かっています。両方とも繁華な市中と繋がっており、道に天秤棒を担いだ商人や旅人が描かれているのも納得できます。

以上をまとめると、絵師はまず代々木公園の南の高台に登り、北西の方に見える代々木八幡の森、本社の八幡宮と別当の福泉寺、南に流れる河骨川と八幡橋、田んぼ、道を歩く人々などを描き込みました。次に軍人橋の南にある高台に登って、南東に流れる宇田川と周りの田んぼや湿地、北東に向かう道と商人や旅人を描きました。そしてこの2枚の絵を、横長の雲を挟んで上下に合わせて「代々木八幡宮」の絵を完成しました。絵師が目論んだように、信仰の森とそれを取り巻く雄大な水景が一枚に収まりました。これが『江戸名所図会』「代々木八幡宮」の謎解きです。仮説は大胆過ぎるかもしれませんが、このように考えると絵の中の景色をより良く説明できると思います。絵師に本当のところを聞いてみたいですね。(終)

r


(頁トップへ)
Copyright © 2020 Kimiko Kajiyama All Rights Reserved