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「昭和20年ワシントンハイツ」渋谷区郷土博物館・文学館所蔵
Japan Map Center,
Inc.「東京時層地図」
(以上)
3月12日

目次(下)
10.宇田川遊歩道を軍人橋から桜橋(南八橋)、五石橋へ
11.神山町を流れていた宇田川側流を探る
12.宇田川流域の変遷と三田用水・神山口分水
13.大向橋、宇田川橋を通って渋谷川合流点の宮益橋へ
散歩のルート<下>
河骨川と宇田川の合流点→新富橋(遊歩道入口)→軍人橋(井の頭通り)→粘土山からの流れ・桜橋(南八橋)→白洋舎前の岸壁跡→NHK西門前の半円形の道→神山町の宇田川側流跡→梅花藻の湧水(クレストンホテル裏)→深町橋(遊歩道終点)→大沼(仮称)・お迎え田圃(アベマタワーズ)→三田用水・神山口分水合流点→松濤橋・宇田川新水路→大向橋・伊勢万水車(宇田川交番)→渋谷センター街→文化村通り→道玄坂下→宇田川橋(スクランブル交差点)→宮益橋(渋谷川との合流点・終点)
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10.宇田川遊歩道を軍人橋から桜橋(南八橋)、五石橋へ
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[図C]新富橋から松濤橋に向かう宇田川本流と側流。宇田川本流は新富橋近くで河骨川と合流し、その後は軍人橋で宇田川上流、桜橋(南八橋)で粘土山からの流れ、松濤橋の手前で三田用水・神山口分水と合流して渋谷に向かった。「深町橋」近くに湧水があり、梅花藻が咲いていたとの証言がある。今のアベマタワーズの土地は大正時代は佐賀育英舎で、その前は大きな沼だった。この辺りの土地は「お迎え田圃(たんぼ)」と呼ばれ、川沿いの低地には明治末まで田んぼが続いていた。(地図データ2019Google)
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<宇田川本流と軍人橋>
「中編」では、小田急線に沿って河骨川の川跡を南に下り宇田川本流との合流点に着きました。そこは新富橋から東に30mぐらい流れを下ったところで、宇田川本流の川跡は「宇田川遊歩道」という名前の赤レンガの道になっていました。いったん新富橋に戻って遊歩道スタート地点の車止めを見てから再び合流点を通って南に進むと、150mぐらい先に井の頭通りがあり、遊歩道はその道を南北に横切って渋谷に向かっていました。しかし遊歩道は井の頭通りで一時途切れ、そのまま横断することはできません。私たちは右手の交差点から迂回する形で遊歩道の反対側に出ました。遊歩道を渋谷に向かって歩き出す前に、この辺りの道路や水路について少しご説明します。
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新富橋から軍人橋へと続く赤レンガの宇田川遊歩道。
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遊歩道は井の頭通りで一時途切れる。軍人橋は井の頭通りの中頃に架かっていたようだ。
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この場所には明治の初めは、現在の代々木公園から駒場まで北東から南西へと走る古道が通っていて、ちょうど現在の井の頭通りの辺りで宇田川本流と交わっていました(「渋谷1880-1881」)。そこに架かっていた橋の名前は分かりませんが、明治末にこの道が代々木練兵場と駒沢練兵場や近衛連隊を結ぶ主要ルートになってからは、軍人橋と呼ばれるようになったのでしょう。「東京時層地図」で関東大震災前のこの土地の様子を見ると、軍人橋より北側(上流部)は農地で、南は家が建ち並ぶ町になっており、渋谷駅を起点とした市街化がこの辺りまで進んでいたことが分かります。
ところで、先程のアザミ屋さんのお話ですが、「代々木公園交番(軍人橋の100mぐらい東側…筆者)の近くに大きな排水口があり、(代々木公園の方から…筆者)水がザーッと落ちて流れていた。川の勢いが強かった。鉄格子が付いていて入れなかった」とのことです。『渋谷区地籍図』を見るとその辺りに四角い排水堀があり、代々木練兵場から排水堀への水路も描かれていますから、川は代々木公園の湧水か生活排水であったと考えられます。『地籍図』ではこの辺りから宇田川本流と並んで南に向かう側流が始まって、それがNHK西門の先まで続いていて、本流と横の水路で繋がっていました。宇田川の川沿いには明治末まで田んぼがありましたから、灌漑用に使われていたのでしょう。後に神山町を歩く時に「側流跡」を見学します。
<桜橋(南八橋)と粘土山の「はけ」>
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桜橋(南八橋)が架かっていた所。西の山手通りから来た粘土山の流れが右手から合流していた。
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桜橋(南八橋)の近く。参加者の方が下宿していた遊歩道沿いの家の前を通る。木村孝様撮影。
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さて、井の頭通りを越えて再び宇田川遊歩道に入ると、左側にNHKの大きなビルが見え、レンガの細道が住宅やビルの隙間を通って南に向かって伸びていました。ちょっとお洒落な散歩道です。遊歩道に入って200mほど歩くと桜橋(南八橋)の所に出ました(注1)。この道から遊歩道終点の深町橋までが神山町です。ところで桜橋の手前には、西の山手通りの方から小川が流れ込んでいました。地元の富沢様のお話によると、この流れは「山手通りの中腹にあった粘土山の「はけ」から始まり、セブンイレブンの所(遊歩道の50m位西側…筆者)を通って宇田川支流に注いでいた」とのこと。粘土山は地元の呼び名です。「はけ」は湧水があった場所のことで、遊歩道から500mぐらい西にある山手通り脇の崖にありました。富沢様が子どもの頃、「はけ」の所で粘土をたくさん採って遊んだそうです。この小川には正式名が無いので、仮に「粘土山の流れ」と名付けておきます。
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山手通り裏の崖近くの柱状図。上から表土、関東ローム層、砂質粘土層と続く。湧水は砂質粘土層から出ていたと考えられる。
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粘土山と「はけ」があった山手通り裏の崖と階段の道。崖下に流れの跡(崖に沿った小道)が見える。左も共に 2016.12.6撮影。
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左の写真の崖下の流れの跡(崖に沿った小道)を拡大したもの。看板は下水道局。湧水は崖の斜面にあったようだ。
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なおツアーの当日は時間の都合で行けませんでしたが、右上の写真2点は、富沢様の話に出てきた「はけ」があった崖(富ヶ谷1-28)です。湧水の場所は分かりませんが、階段の踊り場の先から小道(流れの跡)が宇田川に向かって出ていますので、おそらくその辺りの崖の斜面ではないかと思われます。
<白洋舎前の岸壁跡>
桜橋から70m位遊歩道を歩いて五石橋が架かっていた場所に出ました。ハチ公ソースの事務所が入っている小川ビルの北側です。今はビルが改修中なので事務所はここにありません。この先に丸木屋商店という酒屋さんがあってそこで渋谷名物の「ハチ公ソース」を売っています。ウスターソース、中濃ソース、フルーツソースの3種類の美味しいソースで、私はフルーツソースの大ファンです。当日は土曜日なのでこのお店はお休みでしたが、東急東横店や渋谷ハンズにも売っています。
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五石橋の写真 昭和34年、現神山町。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。川は暗渠になり、周りはビルや住宅になった。
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ここが五石橋が架かっていた場所。右は白洋舍ビルで、左は改修中の小川ビル。小川ビルには「ハチ公ソース」の事務所がある。
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ところで数年前のことですが、この辺りの土地にお住まいの三田村様から昔の宇田川の様子をうかがうことができました。「子供の頃(昭和23年頃)、川幅およそ5メートルの宇田川が流れていた。 家は川の手前ギリギリのところまで建っていた。川の中にはくずれ止めで、岸壁に沿ってブロックの万年塀が川底から3メートルほどの高さでずーっと立っていた。ブロック塀の上には幅10センチぐらいのコンクリートの梁(はり)が1m30cmおきぐらいに渡されて、塀が中に倒れ込まないようになっていた。(中略)白洋舎の駐車場の前に昔の川の岸壁の跡が少し出ている。もともとの川はもう少し幅が広くて、その30cmぐらい内側に暗渠を作った。その際に川の岸壁と暗渠の隙間に砂や砂利を入れて埋めたが、その後砂が流れてしまって露出したようだ」。
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川の岸壁の一部(写真中央の細い縦筋の構造物)。
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宇田川の岸壁跡を興味深そうに見学する皆さん。何やらミステリアスだ。
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五石橋のすぐ先の白洋舎ビルの中程まで行くと、遊歩道の右側の地表に細長いコンクリートの残骸が顔を出していました。宇田川の川岸にあった構造物で、コンクリートの板と柱のように見えますが、具体的にはよく分かりません。先の三田村様の話や川岸の写真などから考えて、川の岸壁に沿って立っていたブロックの万年塀と、それらを支えていたコンクリート柱の上部とも思われます。この柱の上にコンクリートの梁が川を跨ぐ形で乗っていたのでしょうか。もしこの推理が正しければ、構造物の外側に宇田川の岸壁があって、そこと暗渠の間に砂利を埋めたところが、その砂利の一部がなくなってブロックの万年塀が顔を出したと考えられます。皆さんもこのミステリアスな構造物を興味津々眺めておられました。
11.神山町を流れていた宇田川側流を探る
<池を取り巻いていた半円形の道>
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宇田川遊歩道(手前)を離れ、西側の緩やかな坂を上ってNHK西門の方へ。
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NHK西門(写真の右方向)の前を取り巻く半円形の道。昔は西門の辺りに大きな池があった。左下は側流に向かう下り道。
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宇田川本流の水路について説明していた時、「渋谷の方には灌漑用の水路はなかったのですか?」との質問がありました。昭和10年『渋谷区地籍図』を見ると、宇田川の東側に灌漑用水に使われていた名残の側流があります。細かい流れはもっとあったのでしょうが、今でも一部残っていますので後で行きます」とお答えしました。この側流とは、先に軍人橋の所で触れましたが、宇田川と並行して南に下る水路のことで、時々途切れたりしながらしばらく続いています。NHK西門の辺りまでくると幾つかに分かれており、その一部が今も残っています。私たちはこの側流跡を見るため遊歩道から一時離れることにして、白洋舎の先の角を左(東)に曲がりました。この道はNHK西門の方に向かう緩やかな上り坂です。明治の頃は西門の先の高台に幾つかの池が連なっており、西門の入口辺りにはいちばん大きな池がありました。今はNHK西門の前がロータリーのようになっていて、太い直線の道路と大きな半円形の道に分かれていますが、直線の太い道路は新設された井の頭通りで、半円形の道はその池を遠巻きにしていた古道の名残りです。意外なところに昔の道が生きているのです。
<神山町の側流の跡>
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昔はNHK西門の辺りに大きな池があった。昭和10年の『渋谷区地籍図』を見ると、池は既になくなっているが、現在のNHK西門の左(西)側に何本かの川筋が描かれている。図の中央を流れる太い川(水色)が宇田川本流、現在の宇田川遊歩道である。その右(東)側には側流(青い線)が南北に流れており田んぼの灌漑用に用いられていたことだろう。小川ビル裏の青い点線から突き当たりの道までの水路は先の三田村様が語る「ドブ川」。なお、図の下部の深町橋近く(クレストンホテルの裏手)に昭和半ばまで湧水があり、梅花藻が咲いていたことも教えて頂いた(緑の丸)。茶色の線は今回歩いた道。図中の説明は筆者。
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ここからしばらくは道順が複雑なので、上図の茶色の線(歩くルート)を見ながらお読みください。私たちはまず緩やかな坂を上ってNHK西門前の半円形の道に突き当りました。そこを右(南)に曲がり、弧を描くように道なりに歩いて次の角を右(西)に曲がりました(実はツアー当日は行き過ぎてしまってUターン。直ぐに曲がりますのでご注意を)。この小道は下り坂で、20mほど先で突き当たって左(南)に曲がります。この突き当たりの右手の奥に草むした細長いスペースがありますが、これが「神山町の側流跡」です。草むらに大きなマンホールがあるので、地下に暗渠が通っていることが分かります。何の変哲もない草むらですが、川の愛好家にとっては垂涎のスポットですね。 |
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NHK西門前の半円形の道を南に歩いて側流跡へ。次の曲がり角を通り越さないようにご注意を!木村様撮影。
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草むした側流の跡。川は奥(北)の方から流れてきた。
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先程の三田村様は、この側流についても話して下さいました。「当時(昭和25年前後・・・筆者)、宇田川本流に沿って一筋の小川が白洋舍前の小川ビルの裏からクレストンホテルの裏まで流れていた。水の下は淀んでいても、流れている水はきれいだった。本流とは違う水だったようだ。少し匂いがあった。当時は「ドブ川」と呼んでいて、幅40-50センチぐらいの小さい流れだった。交通公社が入っている細長いビルの裏にも流れていた。マンションの間は1-2mの幅で流れていて、小さいドジョウがいて採ったことがある。」三田村様のお話しでは、昭和20年代の末頃まではこの辺りの土地に麦畑が残っていました。またこの「ドブ川」は昭和35、6年ごろに無くなったそうです。
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側流跡の左側の暗渠の道。川は奥(南)の方に向かっていた。
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三島梅花藻。「静岡花散歩」より。クレストンホテルの裏手の湧水に梅花藻が咲いていたという。水源は高台からの伏流水か(後述)。
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側流の跡を確かめた後、突き当りを左に曲がって暗渠の道を100mぐらい南に進み、NHKセンター下の信号(左の方)から来る太い道に出ました。この角を右(西)に曲がって80mほど真っ直ぐに進むと宇田川遊歩道の深町橋に戻りますが、その手前を右(北)に曲がって遊歩道の裏道に入り、クレストンホテルの裏手に出ました。この場所に来た理由は、クレストンホテルの裏地にかつて湧水池があり、そこに梅花藻が咲いていたという三田村様の話を聞いていたからです。「クレストンホテルが建つ前まで敷地の辺りは広場になっていて、小さな泉が湧いていて、そこに梅花藻が咲いていた」と。清流にしか育たない梅花藻が都会の宇田川脇にあったとお伝えしても信じてもらえないかもしれません。そこで「三田村様のお母様のご実家が三島にあり、高校生の頃から梅花藻をよくご存じだったのです」と申し上げたところ、皆さんも「なるほどねー」と納得。
先に上流部の河骨川を歩いていた時にも、プレイパークの辺りで梅花藻の話が出ました(「中編」参照)。地元のアザミ屋さんの「髪の毛のような緑色の藻が生えていて、白い小さな花が咲いていた」という証言から私が勝手に推理したものです。しかし三田村様のお話は梅花藻の“本家”の方のお見立てですから、間違いないでしょう。そうは言っても、宇田川本流や側流の水質では梅花藻は育たないと思います。クレストンホテルの裏手に湧き水があったということは、NHKセンターがある高台の土地の宙水(地下の溜り水)や池の水が、伏流水(地下を流れている水)となってこの場所で湧き出ていたのではないでしょうか。三田村様には宇田川に関する興味深いお話をたくさんしていただき、ありがとうございました。
さて、私たちはホテルの裏から遊歩道に戻り、「深町橋」の所に出ました。ここで宇田川遊歩道は終りです。おしゃれなレンガの道もコンクリートに変わりました。神山町もここまでで、これから宇田川町の繁華街に入ります。 |
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クレストンホテル横の深町橋の所。宇田川遊歩道はここで終わり。
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遊歩道が終わり宇田川町に入った。川跡の道には食堂や居酒屋が立ち並ぶ。渋谷センター街はもうすぐだ。(木村様撮影)
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12.宇田川流域の変遷と三田用水・神山口分水
<アベマタワーズの土地にあった大きな沼>
私たちは宇田川遊歩道の終点から100mほど南にあるアベマタワーズ(図Cの右下)に向かいました。AbemaTVやサイバーエージェントで知られたIT企業の高層ビルです。行く途中で「次は土地の変遷の歴史が面白い場所に行きますよ」と申し上げたところ、参加者の方が「大名屋敷ですか」と尋ねられました。「いいえ武家屋敷ではありません。この辺りは昔は田んぼでしたので。何しろ川が流れていた低地ですから」と答えました。江戸時代は武家の多くは高台に屋敷を構え、町人や農民は低い土地に住み、農地も一般に低い所にありました。アベマタワーズから大向橋(今の渋谷センター街・宇田川交番)辺りまでは、後に述べるように昔は「お迎え田圃(たんぼ)」と呼ばれ、川沿いに田んぼが広がっていました。
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クレストンホテルから100mほど歩くとモダンなアベマタワーズに。大正末にはここに佐賀育英舎があり、それ以前には大きな沼があったという。江戸末期は、この辺りは田圃が広がっていた。
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東急裏の柱状図。ボーリング柱状図で地層を見ると、表土の下に1mほどの腐植土があるのが特徴。その下は順に関東ローム層、シルト質細層(渋谷粘土層や上部東京層)、礫層で、淀橋台に典型的な層序を示している。
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ちなみにアベマタワーズの南の地点の地層を「ボーリング柱状図g」で調べると、「表土」の下に「高有機質土(腐植土)」が1mぐらい積もっており、この土地が江戸時代から田んぼとして使われてきたことを感じさせます。河骨川・宇田川の地層に関する全体的な説明は本稿「上編」の(注2)を参照して下さい。なお、河骨川・宇田川の西側を流れる宇田川上流(西原・上原からの流れ)や初台川沿いの土地は、同じ田んぼの地層でも層序が、かなり異なっています。宇田川上流の「底なし田んぼ」の腐植土は7~8mに達しており、この土地が過去に田んぼであっただけでなく、腐植土が大量に溜まるような地形的な特徴があったことを暗示させます(注2)。渋谷川が流れる淀橋台の地層には、関東地方が古東京湾から離水を始めてから12万年余りの長い歴史が刻まれており、専門家の間でも説明の難しい問題が色々とあるようです。
さてアベマタワーズでは、広い前庭のベンチに座ってじっくり説明するつもりでしたが、土曜日で人出が多くてベンチに座れず、立ったままの話となりました。2016年にアベマタワーズの土地を見学した時はまだ工事中で、高いフェンスに取り囲まれて中は見えませんでした。それ以前はだだっ広いコンクリートの駐車場でした。昔にさかのぼると、明治の頃は大きな沼だったようです。藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』(昭和53年刊)には、元水車業者(後出の伊勢万水車)の「鎌田さん」の話としてこの場所のことが出てきます。藤田が「宇田川町(深町橋の南側)に沼があったって本当ですか」と尋ねたのに対し、「ええありましたねえ。今になりゃあ、NHKの少し手前ってことになりますか、ほら、鍋島さんの佐賀育英舎っていうのが左側にあったでしょう、あれが建つ前ですから旧い話でさあねえ。とにかくその沼を発動機をつけた船が走ったんですから、かなり大きゅうござんしたねえ」と。
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佐賀藩鍋島家は、明治初めにこの辺り一帯の土地を紀州徳川家から購入して茶園(松濤茶)、その後に農場を経営した。また宇田川町に佐賀育英舎を建てて、県人の教育に貢献した。写真は鍋島家11代当主の鍋島直大。ウィキペディアより。
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代々木上原の底抜け田んぼ(上原3-43)(写真とタイトルは鈴木錠三郎氏。鈴木信弘氏所蔵。無断転載禁)
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ところでこの土地は田んぼの土地でしたが、明治以降は旧佐賀藩の鍋島家と深く関わることになりました。昭和10年の『渋谷区地籍図』ではここは「佐賀育英舎」になっています。佐賀育英会のHPには「松濤学舎」が大正13年から鍋島家寄贈の土地・渋谷区宇田川町にあったと書いてあります(http://shoutou.com/gaiyou.html)。先の鎌田さんの話では、この沼は佐賀育英舎が建つ前にありましたので、当時の地図に沼が記してあるはずですが、明治の終わり頃の地図を見てもこの辺りは田んぼだけで、沼や池はありません。発動機をつけた船が走っていたような大沼が地図に記されていないのはなぜでしょうか。ヒントとなるのが、かつて宇田川上流にあった「底抜け田んぼ」の写真(鈴木錠三郎氏撮影)です。そこは人手不足で田んぼが耕されなくなったため、大きな水たまりに変わっていました。同じような話は河骨川の水源1(初台)のところでもありました。地元の方によると、休耕田の跡が沼地になっており、コイやアヒルを飼ったり、その沼にニホンカワウソが生息していたそうです(本稿「上編」を参照)。元水車業者の鎌田さんの記憶にある沼とは、明治末に放置された田んぼが次第に宅地化する前の一時期の姿だった可能性があります。
<富士講とおむかえ橋>
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山吉講の旗。山吉のマークの上に渋谷の文字が。『渋谷の富士講』より。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。無断転載禁。
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「お迎え田圃」は深町橋より南の宇田川沿いにあった(地図中頃)。青色と地名は筆者。「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年測図。
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話は江戸時代の正保の頃に遡ります。加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』によると、江戸時代は富士講(富士山の信仰と富士詣)が盛んで、当時最も有名な「山吉講」の講元(世話役)であった吉田家が道玄坂に屋敷を構えていました。江戸中の山吉講の枝講(支部)の人々は、富士山に登る前に吉田家に拝礼に訪れる習慣があり、「道玄坂」の名は江戸中に知れ渡っていたそうです。吉田家の葬儀ともなると、江戸中の関係講中が道玄坂に集まって葬儀を行うのが習慣で、その後に宇田川・深町田圃(たんぼ)で供養を行いました。場所は東急百貨店の北の深町橋近くの川沿いの田んぼです。葬儀の用材を使って、次節で述べる伊勢万水車の手前にあった橋を架け替えたと伝えられます。こうしたことから、辺りの田んぼを「お迎え田圃」、橋を「おむかえ橋」と呼ぶようになり、これが後の大向橋の名の由来になりました。アベマタワーズの先端的な空間には江戸時代から様々な歴史が詰まっていますね。
<鍋島松濤公園と三田用水・神山口分水の流れ>
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路地裏の細い道は三田用水・神山口分水の水路跡。奥に東急本店の北端が見える。
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アベマタワーズを後にして、渋谷に向かって歩き始めました。およそ70m進むと右手に路地裏のような細い道があり、奥の方に東急本店が見えました。この道は三田用水・神山口分水の水路跡で、この角で分水が宇田川本流と合流していました。明治以降の話になりますが、神山口分水の流れの途中には佐賀鍋島家が所有する鍋島農場があり、その上手と下手に水車がありました。後に触れますが、合流した後の宇田川・大向橋の先にも伊勢万水車が1台あり、精米を行っていました。
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鍋島松濤公園の池と水車。神山口分水には2台の水車があった。現在の松濤池には水車のモデルを復元し、この土地に農業・水車業が栄えていたことを今に伝えている。
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明治時代、三田用水の駒場から神山口分水が流れ出し、水車を回した後に鍋島農場に入り、中の池から再び流れ出た後も水車を回し、灌漑に利用され、その後は宇田川に注いでいた。「世田谷」『一万分の一地形図
東京近傍 明治42年測図』。
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明治9年、鍋島家は駒場の東にあった紀州徳川家と旗本長谷川家の広い土地を購入しました。幕末の名君鍋島直正の跡を継いだ11代当主の鍋島直大は、明治以降にこの地に茶園を起こして「松濤茶」と命名しました。これが後の松濤の地名の由来です。人気が高いお茶でしたが、明治22年(1889)に東海道線が開通して静岡茶や宇治茶が入ってくると衰退したと伝えられます。当主の直大は、明治37年に鍋島農場を開き、欧米の農業技術を導入して畑、果樹園、種畜牧場等と多角的な経営を進めました。その過程で神山口分水の流れを池に落とさず迂回させて高地を引き回し、効率良く利用しました。(田原光泰『春の小川の流れた街・渋谷』参照)。
しかし、渋谷の市街化に伴って周辺の農地は徐々に宅地に変わりました。鍋島家は鍋島農場の土地を整備し、ちょうど関東大震災で宅地の需要が大きくなる時代を見越して分譲しました。現在の住宅地松濤の誕生です。昭和7年、鍋島家は東京市に湧水池と周りの土地を児童遊園として寄付しましたが、それが現在の鍋島松濤公園です。この池には水車が復元され、土地の水車と農業の歴史を現代に伝えています。松濤の池にはかつて河骨川に咲いていた水生植物・コウホネが栽培されており、季節になるとかわいい黄色い花を咲かせています。
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恵比寿たこ公園のコウホネの池。開花期は4月末から9月半ば。(2019年5月18日撮影)
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ここで手前味噌で恐縮ですが、JR恵比寿駅近くにある恵比寿東公園(通称たこ公園)の池のコウホネについて少しご紹介します。私が所属する市民団体「たこ公園コウホネの会」では、たこ公園に小さな人工の池を設けてコウホネを育てています。このコウホネは渋谷区公園課が鍋島松濤公園の池から移した“由緒”ある品種です。初めのうちは育つかどうか心配でしたが、今ではしっかり根付きました。またこの池のクロメダカは、渋谷区の「渋谷区ふれあい植物センター」から譲っていただいた純粋種です。小さな池ですが、渋谷の自然の記憶を確実に受け継いでいますので、機会があればお立ち寄り下さい。
さて、先のアベマタワーズの敷地は広々としていましたが、渋谷センター街に近づくと人通りが多くなり人混みの中を松濤橋に向かうことになりました。松濤橋が架かっていたのは「夢二通り」の角、ヨシモト∞ホールの前辺りで、右手奥に東急百貨店の本店が見えました。この通りは画家・詩人の竹下夢二が住んでいたので「夢二通り」と呼ばれていました。いよいよセンター街の中心部に入ります。
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渋谷センター街に近づく。松濤橋は、画面奥右手の「夢二通り」に架かっていた。(木村様撮影)
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13.
大向橋、宇田川橋を通って渋谷川合流点の宮益橋へ
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10.八千代橋から旧宮益橋(終点)へ
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[図D]松濤橋の先の大向橋(宇田川交番)の手前には「堰」(川の水をせき止める仕切り)が築かれ、橋の南側には「伊勢万水車」が回っていた。当時の宇田川は、文化村通りから道玄坂下宇田川橋にかけて、約100mを民家や商店の床下を流れていた(図で宇田川橋手前の水色の部分)。その後は、宮益橋で渋谷川と合流していた。
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<大向橋と伊勢万水車>
松濤橋からさらに100mほど歩いて大向橋の所に出ました。現在の井の頭通りにある「宇田川交番」の南側ですが、ここに川が流れていて、橋が架かり、その先に水車が回っていたことを想像できる人はまずいないでしょう。水車は穏田川の水車と比べると小規模でしたが、河骨川・宇田川に架かる唯一の水車でした。本稿の「上編」でも述べましたが、宇田川は玉川上水の分水を受けなかったため、川の水量が少なくて安定せず、上流・中流部には水車がありませんでした。川の勾配も緩やかでしたから、堰を設けて貯水池を作ることも難しかったのでしょう。しかし松濤橋の手前で三田用水・神山口からの分水を受けたことで初めて水車の設置が可能になりました。大岡昇平『少年』には、この辺りの土地の様子が図を交えて詳しく紹介されています(注3)。彼がこの土地に越してきた時にはすでに水車は無く、その跡地の借家に住んでいましたが、ここの土地柄にとても関心を持ったようで、図の細かい描写も含めて観察が鋭いことに驚かされます。
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伊勢万水車が架かっていた大向橋付近略図(大岡昇平『少年』より)。当時、水車は既になく、その跡地が大岡宅になっていた。図中の川の「堰」は水車を回すために水を貯める装置で、大向橋の上流50mの所から設けられ、高さ約15mの堰の上から取水し、溝で水車まで導いていた(実際の堰の高さは15mではなく2.2mだった。詳細は後述)。事業規模は穏田川の村越水車や柳沢水車の1~2割と小さかったが、河骨川・宇田川では唯一の精米水車である。大正2年に廃業した。(文字・矢印等は筆者)
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なお、伊勢万水車の堰の高さを大岡昇平『少年』に基づいて15mと紹介したところ(上図の説明)、ツアー参加者の木村孝様から堰の高さが事実と違うのではないかとのご指摘があり、鈴木芳行「明治・大正期における多摩川流域
の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業 の存在形態」にある伊勢万水車の記録をお送りいただきました。それには堰の高さは7尺4寸(約2.2m)とありました(注4)。この数値が伊勢万水車の公式の記録であること、また地形から考えて15mは大きすぎることから、7尺4寸に訂正いたしました。木村様には改めてありがとうございました。
<宇田川の洪水と新水路の建設>
新富橋の方から緩やかに流れてきた宇田川ですが、大向橋を越えると宇田川橋まで突然勾配が急になりました。その後は現在の渋谷センター街の真ん中を東南に勢いよく流れ、文化村通り(東急百貨店からの道)、道玄坂下、そして宇田川橋(スクランブル交差点)を通って宮益橋で渋谷川に注いでいました。明治末には渋谷の市街化に伴って法改正が行われ(明治38年)、渋谷駅の近くでは川の上に家を建てて良いことになりました。その結果、宇田川の水面が隠れてしまうぐらい多くの商店や民家が水上に建ち並びました。雨水を吸い込んでいた周辺の田畑はなくなり、その一方で川の上まで住宅が密集したのです。
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河骨川の水源2(山内邸)から宇田川終点の宮益橋までの勾配。その間の地形は、勾配の度合いによって①水源2から水源1(初台)との合流点、②合流点から新富橋、③新富橋から大向橋、④大向橋から宮益橋、の4区間に分けられる。大向橋の手前からの約410mは地形が急勾配になっている。データは国土地理院。
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上の図は、国土地理院の標高データを用いて河骨川と宇田川の縦断形を描いたものです。現在のデータに基づいていますので、昔と同じではありませんが、だいたいの傾向は掴むことができます。水源2の山内邸の池から水源1(初台)との合流点までは4.2m/100m(100mにつき4.2mの傾斜)で、これはかなりの傾きです。その後、合流点から新富橋(河骨川・宇田川の合流点)までは0.5m/100mと緩やかになり、新富橋から大向橋(宇田川交番)までは0.28m/100mとさらに緩やかになります。しかし大向橋からセンター街出口の宇田川橋までは0.77m/100mと、約310mの短い区間ですが勾配がそれまでの約3倍弱になっており、大雨の時にこの場所でしばしば水害が起きていたことが分かります。またここに伊勢万水車が掛けられていたことが理解できます。なお渋谷駅山手線ガード下の標高が周辺より低いのは、車両を通すため地面が掘り下げられたためです(注5)。
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『東京都下水道台帳』渋谷駅北側の部分。赤い線が下水道網。原宿橋からキャットストリートを流れてきた千駄ヶ谷幹線は、明治通りの「宮下公園」交差点先のA点で2つに分かれる。1つは渋谷川幹線・古川幹線(品川方面)に入り、もう1つは直進して宮益橋、稲荷橋へと進む。そこで地上に現れて渋谷川となる。
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宇田川下流はセンター街で傾斜を増していましたが、それに加えてこの辺りの水路が折れ曲がっていたため、家の床下に粗大ゴミや木材が溜まることがありました。こうした諸条件が重なって大洪水が引き起こされました。「渋谷区教育委員会『ふるさと渋谷の昔がたり第3集』(昭和63年)には、「道玄坂にひどく水が出たことがありました。二階家が、水にもろにつぶされて流れました。また、水に流された長屋が、その先に新しくできていた二階家のところでストップするというありさまでした」と記されています。
このため宇田川新水路の建設が計画され、昭和になると工事が始まりました。新水路のルートですが、駅近辺の土地買収が難しかったようで、松濤橋の所から宇田川交番までは旧宇田川ルートを通し、交番からは井の頭通りの下に地下水路を建設し、今の西武百貨店A館、B館の間を通して、穏田川に合流するようにしました。合流点は宮益橋の60-70m手前です。この新水路のおかげでその後はセンター街の洪水・浸水がなくなりました。時は流れ、昭和30年頃にこの地域の区画整理事業が始まり、今のセンター街が生まれました。この時に地上のビルの整理のみならず地下の下水網も整備され、宇田川の最下流部は地下からも姿を消しました。現在のセンター街には宇田川の跡が何も残っていません。
<宇田川橋を通って終点・宮益橋へ>
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土曜夕方、センター街の様子。写真左手の建物が宇田川交番。新水路は交番の先から井の頭通りの下を真っ直ぐに通り、西武百貨店A・B館の間を抜け、山手線をくぐって穏田川に合流していた。手前右側(宇田川交番の南)に大向橋が架かっていた。(別宮様撮影) |
さて、私たちは大向橋があった宇田川交番の南側からセンター街のメイン通りに入り、宇田川が東南の方向に斜めに横切っていたことをイメージしながら(実際には幾つかの角を曲がりながら歩いて)文化村通りに出ました。現在のMEGAドンキの下辺りを通っていたのでしょうか。文化村通りに出た後は左に曲がり、道沿いに駅の方(左)に向かいました。川は文化村通りに入った辺りから家々の床下を流れ下り、道玄坂を下り、今のセンター街入口辺りにあった宇田川橋の所で地表に現れていました。そしてスクランブル交差点を東にまっすぐ流れ、山手線ガードの先の宮益橋で渋谷川に合流していました。私たちも押し寄せる人波をかき分けながら道玄坂を下り、スクランブル交差点の方に歩きました。昔は宇田川橋の脇に大きな一本松があり、その脇に宇田川地蔵が祀られ、今の三千里薬局の裏に「あやめ池」という小さな池があったそうです。
終点の宮益橋の所ですが、現在は宮下公園の工事で暗渠の駐車場が閉鎖されているため、当日はスクランブル交差点の手前の「みずほ銀行」前で解散しました。この大混雑の中、皆さんが最後に顔を合わせる場所があって良かったです。宮益橋は一昨年に行った「穏田川・芝川ツアー」の時の解散場所で、周辺の様子は本HPの2019年7月19日『渋谷の穏田川と芝川を歩く(下編)』に報告してありますのでご参照下さい。
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「宇田川橋」(明治39年3月、柴田富洋画)。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。無断転載禁。今の渋谷センター街入口の近くにあった。橋は木製であったが、車両の通りが激しくなったため、明治後期に石橋に架け替えられた。
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終わりに、明治39年に描かれた「宇田川橋」(柴田富洋画)の絵をご紹介します。渋谷の市街化が始まる少し前の作品で、絵の下の方に親柱と橋げたがあり、左側には川に沿うように木製の垣根が並んでいます。大きな松の木の右下に石碑のようなものがありますが、これは宇田川地蔵のようで、今は渋谷金王八幡宮の隣の東福寺に安置されています。この絵を現在の景色にあてはめてみると、橋げた辺りがセンター街入口、正面のお茶屋がスターバックス、奥の林が宇田川町と神南の町並み、右側の広場がスクランブル交差点でしょうか。イメージが色々と膨らんで楽しい絵です。
最後に、4時間を超える長いツアーにお付き合い下さった参加者の皆様、そして河骨川・宇田川について貴重な情報をお寄せ下さった地元の方々に厚くお礼申し上げます。また今回も「上・中・下」にわたる長い原稿に最後まで目を通して下さった読者の方々にお礼申し上げます。
(次回のツアーのお知らせ)次回は今年秋、今も水が流れている渋谷川の姿を渋谷駅から古川橋まで探訪する予定です。現在の渋谷川本流は、稲荷橋・渋谷ストリーム前の美しい遊歩道に沿った「開渠」の流れに始まり、恵比寿、広尾、古川橋、麻布十番、赤羽橋、金杉を通って東京湾に注いでいます。このルートには、渋谷川の南北にある台地から10余りの自然の川や三田用水の分水が流れ込み、川の歴史や人々の生活についての興味深い話が沢山あります。また報告をさせていただきますので、よろしくお願いします。 |
<注釈>
(注1)2016年の宇田川ツアーでは、この橋を南八橋(桜橋)とした。昭和10年『東京市渋谷区地籍図』を見ると、代々木深町(86図)は南八橋、代々木富谷町(84図)は桜橋とあり、場所はほぼ同じだが橋名が違っている。史料によって橋名が違うことはよくあるので、二つの橋を並べ、河骨川が描かれている「86図」の南八橋を先にした。しかし渋谷区教育委員会『渋谷の橋』が桜橋としているため、今回は桜橋を先にした。
(注2)宇田川上流・初台川の地層のボーリング調査結果については、本ホームページ2018年11月27日『代々木九十九谷と底なし田んぼを歩く<第2部>』の3.2「底なし田んぼを生んだ地形と地質」を参照。
(注3)大岡昇平『少年』筑摩書房、昭和50年、39頁。
(注4) 鈴木芳行 「明治・大正期における多摩川流域 の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業 の存在形態」(現)東急財団/1992・刊。同書の記載部分(p167-168)より。

(注5) 都内で注意が必要なアンダーパス135ヵ所の内、JR渋谷駅のガード下は、上を線路が走っているので、少し掘り下げられた道路になっている。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191011-00010004-tokyofm-life )(後編・終)
<参考文献・資料>
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加藤一郎『郷土渋谷の百年百話』郷土渋谷研究会、1967年
藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』青蛙房、昭和53年
田山花袋「丘の上の家」『東京の30年』、岩波文庫、1981年
相川貞晴・布施六郎・東京都公園協会監修『代々木公園』郷学舎、1981年
内山正雄・蓑茂寿太郎・東京都公園協会監修『代々木の森』郷学舎、1981年
大岡昇平『少年』筑摩書房、1991年
篠田鉱造『明治百話(下)』岩波文庫、1996年
今泉宜子『明治神宮・戦後復興の軌跡』明治神宮社務所、平成20年
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館『特別展・春の小川の流れた街・渋谷』平成20年
渋谷区郷土博物館・文学館『渋谷の富士講』平成22年
田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか/渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮、2011年
上山和雄他編著「歴史のなかの渋谷-渋谷から江戸・東京へ-」雄山閣、2011年
渋谷区教育委員会他『富ヶ谷遺跡 第一地点』、2016年
武田尚子『近代東京の地政学』吉川弘文館、2019年
山田康弘『縄文時代の歴史』講談社現代新書、2019年
代々木村・堀江家文書「代々木村絵図」(首都大学東京図書館所蔵)
渋谷区白根記念郷土文化館「渋谷区土地利用図・明治42年」昭和54年
「豊多摩郡代々幡村全図」『東京市15 区・近傍34町村』明治44年、覆刻、人文社
「大東京鳥観図」部分、東京都立中央図書館所蔵、大正10年
渋谷区『図説渋谷区史』平成15年
「渋谷1880-1881」『東京都市地図3東京南部』柏書房
大日本帝国陸地測量部「世田谷」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図、柏書房1983
年
大日本帝国陸地測量部「中野」「四谷」「世田谷」「三田」『東京一万分の一地形図集成』明治42年側図・大正14年修正、柏書房1983年
『東京市渋谷区地籍図』下巻内山模型社、昭和10年
『帝都地形図』之潮、昭和22年
『東京一万分の一地図』、復興土地住宅協会・内山地図、昭和32年
立川博章『大江戸鳥観図』朝日新聞出版、2014年
「昭和20年ワシントンハイツ」渋谷区郷土博物館・文学館所蔵
Japan Map Center,
Inc.「東京時層地図」
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