近 江 敏 満 寺 跡

近江敏満寺跡(近江胡宮明神)

参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。)

近江敏満寺塔婆の概要

古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。

敏満寺の創建

聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。
しかし、確たる資料が無く不明とするしかない。
 ※敏満童子:三修上人の弟子、三修上人は9〜10世紀初頭に、伊吹山寺を開基する。

中世の敏満寺

●「平等院長吏坊下史」
敏満寺の確実な文献上の初見は天治2年(1125)「平等院長吏坊下史」(「長史坊政所下文案」)と云う。

・「長吏坊政所下文案」(『敏満寺目録』所収)
             大治二年(1125)三月
 長吏坊政所下  平等院領
    敏満寺 限東山道、限南薦辻越、限西鳥居下相木大道、限北寺登路
 右件四至内在家敷地山林荒野等、依為 霊験之聖跡、 国衛之時不勤 公役 厳免己畢、成 平等院領 之後、
 任 旧例 同雖被 奉免 未賜 政所御下文 仍住僧 等任 申請 所 仰定 如件 座宜承知、依伴行之、故 下、
   大治二年三月 日公文大法師在判
                別当法眼和尚位在判
                   法橋上人 在判
                   大法師   在判

上記の「長吏坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。
「敏満寺小字図」で云えば、東は青龍山東麓、南は南谷・原田、西は大門池・現在の敏満寺集落、北は西谷・多賀道の広大な範囲であったと知れる。また当時は宇治平等院支配であったと推定される。
 敏満寺小字図:これは近世の小字図であるが、この小字から凡その古代末・中世の敏満寺の寺域を 知ることが出来る。
        この図のほぼ中央を南北に走る道路は名神高速道で、南は原田から北は西谷・高宮池(この池は近世のものと思われる)に至る
        高速道の左右(東西)敏満寺堂宇が立ち並んでいたものと推定される。
 胡宮神社境内絵図:近世のもの と云うも、現在行方不明と云う。
        但し、画像は不鮮明、図書の掲載の絵では全く解読不能。

●東大寺・俊乗坊重源
 ※東大寺再興大勧進重源とかなりの関係があったと推定される。
治承2年(1178)・治承3年及び寿永2年(1183)兵火で敏満寺焼亡。
文治3年(1187)本堂再建落慶、重源は再興本堂に藤原伊経の手書き額を掲げるなど、長期に関係があったとされる。
その関係の一つの例証として重源による「舎利」の寄進がある。
 建久元年舎利寄進状:重文・胡宮神社蔵

・「重源仏舎利寄進状」
         建久九年(1198)十二月十九日
 奉送    敏満寺
  東寺御舎利一粒 弘法大師請来
   金銅一尺三寸五輪塔内方二寸水精玉中奉納 以両面赤地錦裏之
  金銅蓮台之左羅一口
  同加比一支
  織物打敷一帖
 右以件仏舎利相具以前舎利可被安置当寺候、是真実之仏舎利也、不可有疑殆、若加偽言者必可堕妄語罪候、
 早重賢察可被致恭敬供養候之由可令伝申衆徒御中給候、恐惶頓首敬白、
   建久九年十二月十九日大和尚(花押)
 謹上 木幡執行御房

 金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵
  ※上記「金銅一尺三寸五輪塔」は京都国立博物館に寄託、多賀町立博物館に複製品があると云う。

●白河院舎利
 ※上記俊乗坊重源寄進の舎利とは別の舎利も伝わる。
「仏舎利相承図」(胡宮神社文書)が残る。
 仏舎利相承図
 仏舎利相承図テクスト
以上によれば白河院舎利は愛妾祇園女御、その妹の子平清盛(清盛は白河院の落胤とする)に伝えられ、その内の一粒は文永元年(1264)敏満寺に施入されたとされる。

●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
 ※中世には以下のように多くの堂塔鎮守があったと伝える。
敏満寺本堂は7間で、三重塔一基を具える。また塔婆として南谷西福寺多宝塔西谷西迎院多宝塔があったと知れる。
また鎮守 木宮両社(拝殿九間)もあったと知れる。

 
敏満寺堂塔鎮守目録:胡宮神社蔵:上図拡大図

                     
                                                           年月日未詳
注進 当寺堂塔鎮守目録所

 本堂 七問 本尊大日並観自在号     三重塔婆一基 本尊五皆如来
 如法堂 一宇三間               観音堂 本尊十一面
 常行三昧堂 三間四面 本尊阿弥陀    法華三昧堂 本尊丈六阿弥陀
 五大尊堂 不断護摩             千三昧堂 一間四面本尊阿弥陀
 食堂 本尊文珠                楽屋 七間
 一切経蔵 一宇三間             宝蔵 一宇三間
 楼門 一宇                   大湯屋 七間
 鐘楼 一基
 木宮両社 拝殿九間             新熊野十二所 拝殿五間          白山権現
 天満天神 北野                八大龍■
   南谷
 西福院 七間 本尊阿弥陀三尊并不動沙門  同多宝塔婆 一基 本尊五智如来
 観世音堂 七問 本尊十一面           同勧請(鎮)守十二所権現
 極楽寺 三間                    地蔵堂 一問四面
 権現堂 一間四面 同廊愛染堂         往生寺 本尊阿弥陀三尊
 上林寺 本尊文珠                 来迎寺 本尊阿弥陀
 光照寺 本尊阿弥陀                釈迦堂
   西谷
 西迎院 三間四面本噂何弥陀三尊      同地蔵堂 本尊千体地蔵
 同多宝塔 本尊尺迦多宝            仏上寺 本尊阿弥陀三尊
 谷堂 三間本 尊弥陀              地蔵堂 三問
 延命寺 五間 本尊阿弥陀           浄上寺 三間四面 本尊弥陀
 同大日堂                      同薬師堂
 同鐘楼                       同光寺 五間 本尊阿弥陀
 同方丈如法堂                   光明寺 一間四面 本尊不動弥陀
   尾上谷
 丈六堂 本尊丈六阿弥陀            同如法堂 三間
 西明寺 千体地蔵                西円寺三間四面 本尊千手
 観音堂 本尊十一面               同如法堂
 地蔵堂 本尊千体地蔵             権現堂
 大円寺 本尊地蔵                円性寺 本尊阿弥陀
   敏満寺目安写
 右大吉祥院僧正 良尊御代

●多賀社参詣曼荼羅
現在3種類の参詣曼荼羅が知られる。
その内の最も古いものと推定される「参詣曼荼羅1」

多賀参詣曼荼羅1敏満寺:左図拡大図
    :多賀参詣曼荼羅1敏満寺部分図(下図の破線部)

多賀参詣曼荼羅1:全図
    :絵図の破線部が敏満寺境内

「参詣曼荼羅2」

多賀参詣曼荼羅2敏満寺:左図拡大図

多賀参詣曼荼羅2:全図(色彩図):図の下部の伽藍が敏満寺境内

上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図)

 ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、
   敏満寺には三重塔(参詣曼荼羅1)もしくは五重塔(参詣曼荼羅2)があったと推定される。

中世末期の敏満寺

●「福寿院由来記」
  ・・・天正元年(1573)頃の敏満寺を記し、近世初頭の敏満寺の様子をうかがうことが出来る。
   ・・・寛政9年(1797)当時の住職祐仙が複写した文書と云う。
  戦国末の兵火以前の敏満寺については以下のように記録される。


一当山第一座之良吏を福寿院と号す、此長吏と云ハ、
 一山の之(ママ)頭、孰(イズレ)れの坊か越之哉(コエンヤ)、此外当山を四流に分地ス、原田 南谷 西谷 北谷と云、
  原田の執行を
 宝寿寺 本尊釈迦如来 当山兵火の後、地福院住職移之、以降院号ニ改ム、後ニハ宝寿院といふ
  南谷の執行を
 世尊寺 本尊釈迦如来 慶長年中迄堂宇有之 俗に釈迦堂と云
  西谷の執行を
 西照寺 本尊中品中生の阿弥陀如来 江北淺井家之祈願所なり
  北谷の執行を
 無量寺 本尊阿弥陀仏 元和年中迄堂宇有之 俗ニ溝坊といふ
  右四ケ寺は四谷の執行と云、
  次二四政所と云院宇有之、
 地福院 本尊地蔵菩薩 ○原田組、居寺ハ本堂の西二有之、
 金剛院 本尊金剛賢菩薩 ○文亀之炎上以降無再造営、原田宝寿院此役を勤る
 延寿院 本尊普賢菩薩 ○西谷之内、俗ニ円中坊と云是也、元和年中迄院宇有之
 地蔵院 本啓地蔵菩薩 ○北谷組之内寺辻北側ニあり、元和年中迄院宇有之、唯今当院ノ本尊これなり
  右之四院政所役といふ、請 長吏之命ヲ行之、
一八百八坊之内院号四拾四院、坊号壱百六拾四坊、合弐百八坊、俗上方万と云、加行密教伝法ス、
 右四拾四院之内、衆徒方之頭ニケ院、西光院 地蔵院之西 西福院 上同、

※敏満寺首座は福寿院であり、この山(寺院)は原田 南谷 西谷 北谷の四谷で構成され、各々執行があり、四政所を初め合計208坊から成ると云う。 いずれにしろ、大伽藍があったと思われる。

  その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
 

一当山堂宇坊舎、文亀三紀癸亥年三月十日之夜焼失す、其後佐々木六角屋形高頼朝臣再造之、寄附之領知ハ如元也、
一元亀三壬申年、信長公為兵火当山堂塔坊舎不残焼失す、自是寄附之領知を失ふ、此時原田塔頭ハ火難を遁ル、
 仍而本尊大日を奉始、原田宝寿院エ奉移、長吏福寿院法印徳仙茂宝寿院へ再住す、
一天正元癸酉年三月、福寿院徳仙代院宇再造之、本尊大目如来茂福寿院江奉移、法印徳仙寺役等無怠慢勤行之云々、
 此時再造する坊舎ハ
長吏福寿院 を始メ            世尊寺 南谷、俗ニ釈迦堂と云
延寿院 西谷                正覚院 西谷組之内、寺辻南側
遣迎院 西谷組之内仁王門ノ西ノ方  地蔵完 北谷組之内、寺辻北側
光明寺 本尊甘露王如来、滅罪所   西光院 地福院之西
西福院                    来覚完 麻生(傍注「アソウ」)玄人屋敷之北也、西谷組之内
束一坊 高宮三河守祈願所       慈光坊 磯野丹波守祈願所也
勝蔵坊                    中之坊 久徳左近太夫祈願所
仙蔵坊 北谷字風呂谷、○元和年中之住持祐仙(傍注「只今之小兵衛家之事也」)代二十ニ所権現官仕之当番也、
     仍而其以来祐仙家ニ代々此社地を所持ス、後二寛永十一年、大目殿天下之御造営二なる時ニ、
     彼社地を長吏福寿院汪祐仙より寄附すと云々、
来鳳坊                    浄敦坊
浄泉坊                    明智坊
月定坊 風呂ノ谷之下、横道より与辻北側、高野瀬殿祈願所、北坂之音福ゆずりを受ル
蓮台坊 南谷                西蓮坊 北谷之内
浄観坊 南谷                高井坊 北谷ノ内
医王院 西谷ノ内字水船         教寿坊 平ノ衆徒守
本行房 西谷                常実房
福行房                    徳満房
浄法房                    音教房
福乗房                    祐徳房
乗円房                    乗満房
福純房                    来信男
徳円房                    休宗房 西谷
教園房
右之坊宇、兵火の後自分二再造之也、雖然寄附之所領を失ひし故、僧料無之、多くハ他山へ出立す、
或ハ耕作を事とし、還俗の身に下るも有、原田方は此度之火難を遁るといへ共、領知なき故法令不正、
我々になり、他山へ出立す、又ハ還俗す、相残テ先格寺法を正しく相守ものハ、福寿院・宝寿院ニケ院のミ也

※文亀3年(1503)焼亡・六角高頼が再興、元亀3年(1572)信長により焼亡、直後の天正元年(1573)長史福寿院初め多くの坊舎が (多少信憑性に欠けるきらいもあるが)再造されるも、当時は経済的基盤を欠き、終には福寿院・宝寿院ニケ院となる。
なお敏満寺衆徒方般若院・成就院は敏満寺を離れ、多賀社の被官を頼み「札売勧進の坊主」となると云う。

  「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
 

「新谷氏伝譜系図」
勝経 新谷伊豆守 敏満寺公文所
  神官職 家老 瘟ェ左衛門尉重元・北村三郎兵衛尉政常
永禄五年九月四日、久徳左近大輔実時叛江北京極殿御方、為江南観音寺城主六角左京太夫義実(賢カ)之味方、
依之、不移時中浅井備前守長政引卒八千余騎軍勢、押寄久徳城、数日攻戦、終突一城落去矣、仍敏満寺衆徒并神官等久徳之一味也、故浅井忽押寄敏満寺、于時衆徒等於惣大門前防禦之、及敗軍、浅井勝乗、直於院内坊合軍火、此刻味方学頭豊一坊・池之坊、
同学侶光満坊以下百弐拾之坊舎悉炎上、新谷伊豆守・同下司左衛門太夫・前公文出羽守、凡其勢八百余人皆戦死、
同九月五日、多賀大社諸伽藍倶炎上、神官坊舎悉破却、
此日新谷伊豆守負重疵、人山中自殺畢、
 法名 王台院殿公文照清禅定門
 妻 久徳左近大輔実時女 享禄元年正月十七日卒
                  智道禅定尼

勝虎 新谷越前守 
   神官 敏満寺公文所
敏満寺破却之刻、寺産宝物旧禄等散在云云、其身負重手、引退大君ケ畑村、保養疵全癒云云、浅井殿加憐愍、被召出、
如旧例神官職被申渡畢、永禄六年社頭遷宮、自浅井殿敏満寺門前・藤瀬・萱原三箇村寺領拝領、
永禄十一年九月廿日、平相公平信長公敏満寺四至封疆地除被仰渡、
天正元年九月四日、於佐和山城奉拝謁 信長公、則為社領賜旧領三箇邑、
同十七年佐和山城主堀左衛門督秀政殿之与力侍被申渡、此刻屋敷地免除、
  天正十九年正月十五日卒、法名岳照院宗観大禅定門
  妻 今村帯刀正息 法名 妙度禅定尼
  文様二年八月九日卒
(系線は省略)

※新谷氏は代々中世末期の「神官」「敏満寺公文所」であるとする。
永禄5年(1662)久徳左近大輔実時は六角氏に味方したため、淺井長政は久徳城に押し寄せ、落城させる。久徳に一味した敏満寺衆徒・神官も攻撃を受け、120の坊舎は悉く炎上、学頭以下800人が戦死、後日には多賀社も炎上、新谷勝経は自殺、子息勝虎も負傷する。
永禄6年3ヶ村の寺領受領、永禄11年信長、3ヶ村の寺領を安堵、


  「川瀬右近覚書」では元亀年中(1570-)織田信長により焼払われたとする。
     (これは多賀社にあった旧記を延享3年<1746>大神主川瀬右京が書写し、さらにこれを文化5年<1808>福寿院が写したもの)
 

(前略)
 一元亀年中織田信長公ヨリ使者長谷川大竹被参此地、社坊二万三千石御朱印有之段、
  此度織田氏公ヨリ御朱印書相改役参り申候間、別当三ケ寺江右之由被相達申候事
 一三ケ寺ヨリ坊中寄セ相談被致、坊中承知不致。織田氏江訴シヨウ申上ル事
 一織田氏大竹ヲ呼、今日胡宮三ケ寺ヨリ返事有之由可申人ル事
 一長谷川中々此度主君之蒙り(脱字アルカ)慰ニハ不被参トテ、森蘭丸江此由被申候事
 一松本伊勢丸又々使者二被参、先達長谷川使者二参リ候段承知無之故、此度織田信長公ヨリ主明(命)二付参リ申軟。
  双方坊中為方ニ相成様可被指上事弥承知不致事故、此段織田氏へ中上ルトノ事
 一社坊ニ持セ置候ハ何之ヱキ(益)有ン。此方へ取上ルト被申候事
  後ニ社坊焼被払候事
  坊中立退可申事
(後略)

※織田信長は敏満寺寺領23000石を改める動きに出るも、別当3ヶ寺(福寿院・宝寿院・神護寺)はこれを拒否する。再び信長の寺領改めの要求があったが 敏満寺は再度拒否、そこで信長は寺領を取り上げ、社坊を焼き払う処置に至る。

近世以降の敏満寺

永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。
寛永年中徳川家光は胡宮明神の造営を行い、大日堂が再建・本尊は帰座する。
また元敏満寺の塔頭であり既に多賀大明神の社僧となっている般若院・成就院は、多賀明神年中行司には、両院が多賀明神に出張して執行する形態であったと云う。
近世には敏満寺長史福寿院が再興され、胡宮明神を付属させ、明治維新まで存続する。(福寿院は社務所として現存する。)
現在、大日堂および観音堂、胡宮明神、福寿院(現社務所)が現存し、境内には、天台の大寺であった時代の敏満寺金堂礎石・仁王門跡などを残す。
観音堂:寛永15年(1638)造営、元禄12年(1699)修復、寛政9年(1797)頃<福寿院別当声海代>現位置に移転 。
大日堂:寛永年間、徳川家光の大造営により再建。

 2001/10/07撮影:
 近江敏満寺金堂跡:境内には礎石と金堂跡碑が残存する。
 近江敏満寺仁王門跡:以前から礎石5個が露出していたが、発掘調査の結果12個の礎石を持つことが判明、
            瓦の出土が無く、檜皮葺等と想定される。遺跡上部の構造物は名神高速道高架橋。

敏満寺跡はその中心に名神高速道路が建設され、多くが破壊されたと云う。
青龍山の頂上付近には、「岩磐」があり、その麓には13世紀〜16世紀の「石仏谷遺跡」がある。
また中世末期には、敏満寺も武装し、それを物語る敏満寺城の遺構が発掘される。
 敏満寺城遺構図

2008/09/24撮影:
 近江敏満寺金堂跡附近:特に地上には遺構は確認できませんが、附近を含めかなり広い平坦地を残す。
 近江敏満寺参道:この参道の建設時期は不明ながら、参道は仁王門から金堂附近に達する。
 近江敏満寺仁王門礎石
 近江敏満寺観音堂     近江敏満寺大日堂:いずれも江戸初期の造営と云うも、仮堂的な建築で敏満寺の寺勢の衰えを感じさせる。
 近江敏満寺胡宮明神:拝殿及び本殿
 福寿院
  福寿院山門     福寿院坊舎1    福寿院坊舎2    福寿院庭園1    福寿院庭園2


近江多賀大明神


赤神山成願寺:(但し、敏満寺とは直接の関係はない。近江天台の大寺の姿としての共通項はある。)

赤神山と号す。本尊薬師如来坐像。延暦18年(799)最澄が建立すると云う。
赤神山中腹に太郎坊宮(往時は成願寺奥の院であった)がある。往時は成願寺50余坊があったとされる。
織田信長と佐々木氏との戦いで焼失、現在は本堂と石垣坊、行万(満)坊の2坊のみ残る。
2008/10/04撮影:
近江成願寺概略図:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
近江成願寺本堂     同   石垣坊    同   行満坊


2008/08/31作成:2008/10/12更新:ホームページ日本の塔婆