★大吉寺跡
天吉寺山(918m)西斜面の山頂付近(標高750m付近)に仁王門、鐘楼、塔、本堂、経堂等の伽藍跡および覚道上人入定窟などの遺跡が残る。
大吉寺(山上付近)略図
2005/10/01追加:
□大吉寺跡略図:「近江湖北の山岳信仰」市立長浜城歴史博物館より
2008/09/19追加:
□大吉寺跡略図2:上図とほぼ同一
:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
□現大吉寺:山麓には大吉寺と称する坊舎が辛うじて存続する。
江戸期後半の「天台霞標」に「相伝古者有49院。称大伽藍。今止僧坊1宇。亦甚傾壊」とあると云う。
上記に云う僧坊1宇が現大吉寺かとも思われる。(現大吉寺の山門などは近年の建築と思われる。)
□仁王門跡:現大吉寺から渓流をしばらく上り、渓流から山腹に取り付き、おそらく坊舎跡と思われる石垣等
(※)の間をジクザグに上る。
(※)この石垣は下記「大吉寺絵図」などを勘案すると坊舎跡で無くて、近代のものと思われる。
山頂近くに、山道を断ち切るように、山腹にやや強引に平坦地を造成した平坦地があり、仁王門跡がある。
礎石(推定)も何個か見ることが出来る。
大吉寺仁王門跡1
同
2:写真では様子が良く分からない。
□伽藍跡:仁王門からさらに暫く上ると、手
水 鉢がある。
手水鉢背後の斜面から水が供給されるようで、今も清冽な水を湛え、直ちに使用可能と思われる。
手水鉢を過ぎて、中心伽藍地に至る。伽藍地はおよそ2段に造成され、上段には本堂、鐘楼、経堂などが建立され、下段には塔、鐘楼、閼伽池、元池、坊舎跡など
ある。下段は上段の周囲を囲む形で堂宇が配置されている。
□塔 跡:三重塔と推定される。
応永29年(1422)大吉寺諷誦文 には「経営数宇仏閣、起立三重塔婆」とあると云う。
心礎は径約80cmの円形で、自然石を用いる。原位置を保つと思われる。
大吉寺心礎
塔は本堂下の下段造成地(南)にある。塔跡はほぼ完存する。塔跡は潅木に覆われる、土壇の高まりはそのまま残る。
大吉寺塔土壇1
大吉寺塔土壇2
塔
吉寺塔土壇3
四天柱礎(4)、側柱礎(12)をおそらく原位置で完存する。全て自然石を用いる。
四天柱礎・心礎(左列礎石が南東・南西の四天柱礎)
四天柱礎・心礎(右列礎石が北西・北東の四天柱礎)
四天柱礎・心礎(下から南東四天柱礎・心礎・北西四天柱礎)
南側柱礎1
南側柱礎2
東側柱礎
束石:一部土壇から落下している石もあるが、縁の束石も完存しているように思われる。
塔土壇・縁
束石
塔の一辺は約4.65m(中央間約1.65m、両脇間約1.55m)を測る。
<中央間5.4尺、脇間5尺、一辺15.4尺と思われる。>
大吉寺三重塔と現存する三重塔の一辺を比較すると
同一一辺の三重塔:丹波名草神社
大吉寺塔よりやや一辺が大きい塔:近江園城寺、大和興福寺、伊予石手寺、播磨一乗寺、近江長命寺
大吉寺塔よりやや一辺が小さい塔:近江常楽寺、旧山城燈明寺、近江金剛輪寺、丹後金剛院、播磨斑鳩寺、山城金戒光明寺、尾張甚目寺、備後西国寺、大和南法華寺・・などであり、大型
に属する三重塔だったと思われる。
※但し大吉寺塔一辺約約4.65mは柱芯−芯の数字であり、実際の一辺は数十cm大きいであろう。
塔土壇の大きさは未計測。
□鐘楼跡:未確認
□本堂跡:上段に本堂跡がある。乱石積基壇上に礎石を残す。礎石配列から本堂は5間×5間とされる。
しかし現地では礎石の状況がはっきりせず、柱間の距離は計測不能であるが、残された基壇の大きさ、5間×5間ということから
中世の典型的な密教寺院本堂の大堂が想像される。
潅木の中に礎石が散見されます。
本堂基壇1 本堂基壇2 本堂基壇3 本堂礎石1
本堂礎石2
本堂南の堂宇土壇(堂名不詳あるいは鐘楼の可能性も
?)
□経蔵跡:本堂北西に経蔵跡がある。
経蔵跡土壇
経蔵跡礎石
□伝頼朝供養塔:経蔵に並んで、頼朝公供養塔が残る。慶長3年(1251)の有銘という。
頼朝供養塔1
頼朝供養塔2
□閼伽池:塔の東に閼伽池があり、今も水を湛える。閼伽池から水路をさらに東に辿れば
すぐ近くに元池がある。
元池には今もコンコンと清水が湧出し、その水は水路を伝って閼伽池に入る仕掛ですが、放置された現状では、途中で水路が詰まり水路から溢れ、大半の清水は閼伽池に給水されず、谷に落ちる
といった状態である。
水路の詰まりがなければ、閼伽池も清冽な水を満々と湛えているであろうと思われる。
閼
伽 池 元
池
□覚道上人入定窟:本堂東の上段に覚道上人入定窟がある。今も祭祀が行われていると思われる。
覚道上人入定窟
1 覚道上人入定窟
2 覚道上人入定窟
3
なお入定窟向かって右には多数の五輪塔が置かれ(集められ)る。
弘安8年(1285)覚道上人一切経安置のための勧進を行うと云う。(「覚道上人一切経安置祈願文」)
正応2年(1289)上人は、一切経安置の宿願を果たし、12月7日入定という。
その他周辺には石塔台座などが残されて、また坊舎跡などの平坦地あるいは石組みが数箇所残るようであるがブッシュの中で判然とはしない。 ※附近には平坦地が散見されるが、これは近年の削平地との区別が判然とはしない。
中世の坊舎には金蔵坊、大光坊の名が見え、慶長年間には松住院、浄光房、竜泉房、宝蔵房など
近世初頭には3院2坊(松寿院、宝城院、福寿院、法寿坊、吉祥坊)があったと云う。
2008/09/19追加;
「東浅井郡志」黒田惟信編、東浅井郡教育會、昭和2年 より
大吉寺:文禄元年堂宇並六坊(松寿院寳城院福寿院法寿坊吉祥坊一は不詳)を再建せしが、今は僅に大吉寺の一宇のみ存す。
★大吉寺略歴
「大吉寺縁起」によると、天智天皇代、愛知川上流に聖観音に似た「浮木」があり、之を桓武天皇代、粟津に祀り、天吉寺とする。大同2年天吉寺は流失し、
本尊観音菩薩は琵琶湖を漂流、安円上人によって天吉寺山
( 寂寥山)に祀られたと云う。
「大吉寺勧進状」では似た話が創建譚として語られ、寺名の由来は「延暦元年の洪水により、天吉寺の天の字の一が洗い落とされ大吉寺」となったとする。
あるいは貞観7年(865)延暦寺安然上人と土豪草野治家の協力により開山されたともいう(これが最も確かとされる)。
平治の乱で敗走中の源義朝が一時当寺に匿われたとも伝える。鎌倉期には幕府の保護を受ける。
平治元年(1159)草野定康、源頼朝を匿う。(吾妻鑑)
文治2年(1186)源頼朝、大吉寺に虫供養の文書
建久年間には「数ヶ宇の堂舎」があったという。
建武元年(1334)兵火で堂宇が焼失。
暦応元年(1338)大吉寺本堂造営勧進状
観応2年(1351)足利尊氏祈祷状、足利尊氏感状
応永25年(1418)足利義持、大吉寺を祈願寺にする。
応永29年(1422)大吉寺諷誦文「経営数宇仏閣、起立三重塔婆」。大吉寺伽藍復興供養。
大永5年(1525)六角氏の兵火で焼失。本堂再興の勧進は行われたようです。
元亀3年(1573)織田信長の軍勢が浅井氏に加担した咎で当寺・竹生島などを攻略する。(信長公記)
江戸期には復興されることなく、山麓の僅かな坊舎が法灯を継ぐ。
寺宝:木造聖観音立像(秘仏)、仏像四躯、 諷両界曼茶羅、元三大師像、源頼朝公判物、足利将軍御教書など平安、鎌倉、室町、江戸時代の多くの寺宝を所有
。
山頂付近の堂塔の遺跡は極めて良く残る。
近世初頭に堂塔が退転したものと思われるが、数百年を経ても、堂塔跡は山林に帰ることなく、つい最近まで堂宇が存在したかのような現況である。小さな閼伽池も埋まることなく、今も健在で、ほとんど信じがたい
良好な残存状況と思われる。
江戸期初頭にはまだ坊舎が存在したと思われることから、跡地の維持が図られたとも思われる。
現在も覚道上人入定窟の祭祀は行われている形跡もあり、山麓の大吉寺側では特に草木の刈り込みなどはやっていないとのことであったが、誰かが定期的に手入れをしているかのような残存状況であると思われる。
なお途中、山道は相当急峻な場所もあり、冬季の積雪期および梅雨時などの「ぬかるみ」時の訪問は相当困難であろう。
2005/10/01追加
★「近江湖北の山岳信仰」市立長浜城歴史博物館 より
□興福寺官務牒疏(写本)
※2010/02/18追加:「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による創作(椿井文書)
の可能性が大であり、全面的な信頼をおくことは出来ない。
慎重な史料検討が必要であろう。
|
興福寺官務牒疏(写本):京都大学附属図書館蔵
(左図拡大図)
この資料は興福寺末寺の宣伝でもあり、信憑性に欠けるとの評価が多いようであるが、大吉寺概要を知ることが出来る。嘉吉元年(1441)成立。大吉寺
在同国浅井郡草野郷、号天吉山、
僧坊五十七宇、
天智天皇六年、役氏入峰、然后、桓武帝延暦九年、
橘朝臣奈良麻呂本願也、始天台宗、後一条帝万寿元年、
秋篠寺霊円僧都中興、自是為法相宗、真言兼宗、
本尊浮木観音大士 |
□大吉寺絵図:成菩提院蔵
|
大吉寺絵図;
(左図拡大図)
裏に「御除地山内絵図 天保十亥ノ七月持参 上草野庄大吉寺」
とあると云う。現存する大吉寺の最古で、かつ江戸期唯一の絵図とされる。
赤印は寺跡。黄印は山畑(大吉寺耕作か?)。
山上には約50の坊舎跡があり、山麓に6の坊舎跡がある。 |
2006年以前作成:2008/09/19更新:ホームページ、日本の塔婆
|