近 江 国 分 寺 (近江甲賀寺・近江瀬田廃寺・近江国昌寺跡)

近江国分寺跡(近江甲賀寺・近江瀬田廃寺・近江国昌寺)
 

近江国分寺の概要

「滋賀県の歴史散歩」1990年版より:
◇紫香楽宮跡:
聖武天皇は平城京→恭仁京→紫香楽宮と遷都するも、紫香楽宮で放火に会い、再び平城京に戻る。
現在、以前から「紫香楽宮跡」いわれた遺跡は松樹の茂る「内裏野」と呼ばれた丘に、今なお330余りの礎石が東大寺式伽藍として残る。
蓋し、この遺構は宮址ではなく、明らかに寺院址である
 ※近年の発掘調査で、紫香楽宮については、この寺院跡ではなく、北方約1kmの宮町遺跡であることがほぼ確定される。
◇瀬田廃寺:
桑畑と云う丘上に塔礎石5個を残す。昭和39年の発掘調査で、南門・塔・金堂・食堂が南北に並ぶ遺構が発見され、四天王寺式伽藍とされた。礎石は約1,5m四方のもので、基壇は瓦積基壇であった。寺域は方2町と云う。
◇近江国分寺跡:
晴嵐小学校校庭に「近江国分寺跡」の碑がある。それは以下のような伝承を根拠にするものであろう。
「源平盛衰記」にはその位置を「粟津の国分寺の毘沙門堂」と云う。
「近江輿地志略」では、国分の地の水田中に礎石があり、附近に塔田、堂前、経田、堂の街道、堂屋敷などの小字を残すという。
明確な遺構は未発見であるが、以上のような伝承から、この地に近江国分寺があったものと思われる。
近江国分寺は当初瀬田にあったが、延暦4年(785)焼失し、その後瀬田川西画岸にあった国昌寺(天台宗)にその機能を移し、弘仁11年(820)に国昌寺が正式の国分寺に なる。(扶桑略記)
 「近江輿地志略」:寒川辰清撰、享保19年(1734)

近江国分寺関連文献:「史跡紫香楽宮跡現地説明会資料」(2005/3/13:滋賀県教育委員会)より抜粋
   (以下「2005年現地説明会資料」)
天平13年(741) 国分寺・国分尼寺造営の詔を発す。(類従三代格) 恭仁京遷都。
天平14年(742) 紫香楽宮造営。
天平15年(743) 盧遮那仏造営の詔。盧遮那仏造営のため甲可寺の寺地を開く。恭仁京造営停止。
天平16年(744) 甲可寺に盧遮那仏像の体骨柱を建つ。
天平17年(745) 紫香楽宮周辺で火災が頻発。地震発生。平城京に遷都。甲賀宮は無人と化し、盗賊が充満。
造甲可寺所より仕丁らの公糧を申請(寺中に167人の仕丁ら)「正倉院文書」
天平19年(747) 甲可寺造仏所より金光明寺(東大寺)へ製作中仏像を運ぶ。(仏像が60人の担夫を要し、光背と2躯の菩薩像を伴にす。)「正倉院文書」
天平感宝元年(749) 東大寺大仏の鋳造終る。
天平勝宝3年(751) 「甲賀宮国分寺」(「大日本古文書」宮崎道三郎所蔵「奴婢見来帳」に唯一見られる表現。)
天平宝宇6年(762) 信楽故宮の遺材を以って石山に法華国師を入れる板屋を作る。「正倉院文書」
宝亀11年(780) 三津首広野(最澄)が「国分寺僧最寂の死闘の替」として得度。(京都来迎院文書)
「叡山末寺領注文」(正中2年<1325>三千院文書)に「勢多国分寺敷地」とある。)
延暦4年(785) 「国分僧寺延暦4年火災焼尽」(「日本紀略」弘仁11年/820)
延暦18年(799) 天竺人三河に漂着、川原寺、後に近江国分寺に遷住させる。
延暦24年(805) 「国昌寺最澄」(「賜向唐求法最澄伝法公験」)
弘仁11年(820) 「定額国昌寺を以って国分光明寺と為す」(「日本紀略」弘仁11年)
寛仁元年(1017) 「近江国国分並びに尼寺等野火のため焼亡、両寺相去ること頗る遠し」

以上など諸見解を総合して
甲可寺(現在の史跡紫香楽宮跡)が第1次近江国分寺として造営されるも、不審火などで焼失する。
そのため瀬田川東岸の瀬田廃寺が第2次近江国分寺として充当され、その瀬田廃寺も火災焼失する。
瀬田廃寺火災後、瀬田川西岸の国昌寺が第3次近江国分寺として充当されたと考えられる。
  ※第2次国分寺/瀬田廃寺という見解については全く否定する見解は存在する。
 第1次近江国分寺は史跡紫香楽宮跡として、壮大な伽藍遺構を今に残す遺構であり、聖武天皇による国家構想の中で、紫香楽宮と国分寺が造営されたと思われる。しかしこの紫香楽に於ける構想はおそらく放火と思われる火災の頻発で頓挫する。
以上の構想の頓挫の結果、放置された甲可寺はその後の近江国分寺の指定で、おそらく近江国分寺として指定されたものと考えられる。
その後、何らかの事情(火災焼失か)により、国分寺の機能は瀬田廃寺に移されたものと思われる。
 ※最澄の得度の時期には瀬田川流域に国分寺は移っていたものと推測される。
「日本略記」で云う延暦4年の国分寺炎上は、おそらく瀬田廃寺の焼失と思われ、それに伴い、定額寺の国昌寺に国分寺の機能が移されたものと思われる。
 ※但し、「2005年現地説明会資料」(紫香楽宮跡・甲可寺跡)では
今回の発掘調査で、経蔵・廻廊とも火災で焼失し、再興はされなかったことが確かめられたこと、
火災時期は奈良期・平安期の軒丸瓦の出土から、この時期が上限と思われること、
瀬田廃寺については、塔跡には焼失の跡は認められるが、他の堂宇には焼失の跡が認められず、延暦4年(785)の「火災焼尽」の記事についての対象は、瀬田廃寺が相当するのかどうかは検討を要する であろう・・などから
延暦4年(785)の「火災焼尽」の状況はむしろ甲賀寺跡の方が相応しいのではないだろうかとの見解が出されている。

2022/06/10追加:
○「古墳と寺院 琵琶湖をめぐる古代王権」田中勝弘、サンライズ出版、2008 より
甲賀寺と国分寺
1.「甲賀寺」と「史跡紫香楽宮跡」
近江国分寺研究のついては次のような成果がある。
「近江国分寺」柴田實(「国分寺の研究 上巻」、吉川弘文館、1952 所収)では、甲賀宮国分寺は紫香楽宮にある寺院、即ち「甲賀寺」を指し、現在見られる「史跡紫香楽宮跡」の伽藍遺構とする。
また、「史跡紫香楽宮跡」が紫香楽宮が廃された後に国分寺改められたとするのは極めて不自然とする。
そして、天平宝宇6年(762)国分寺を紫香楽から「勢多」に移したとする。但し、「勢多」の寺院位置は不明とする。
「近江国分寺に関連する発掘調査」林博通(「新修国分寺の研究 第3巻」1991)では、現在の「史跡紫香楽宮跡」の伽藍遺構を「甲賀寺」とする。
「甲賀宮国分寺」については、天平17年(745)の宮廃止後に「甲賀寺」に国分寺の寺格が与えられたとする。さらに天平19年(747)制作中の仏像が東大寺に遷された時点で「甲賀国分寺」の性格が失われたとする。
天平宝宇6年(762)国分寺は「勢多」に移るが、その移転位置は「瀬田廃寺」が妥当とする。
 ※以上の見解について、田中勝弘は大きな異論はないと思われる。
なお、田中勝弘は本稿で、今までの出土瓦、及びその後の発掘成果(平成16年、18年度)から見て、「史跡紫香楽宮跡」の伽藍遺構は神護景雲元年(767)〜宝亀元年(770)頃に焼失したと推論する。
2.国分寺と瀬田廃寺
 次いで、近江国分寺は遅くて天平宝宇6年(762)に、早くて天平19年(747)に「勢多」に遷され、その位置は野郷原の「瀬田廃寺跡」が有力視されてきたが、その妥当性について検討する。
「日本紀略」弘仁11(820)年11月22日の条では「国分僧寺延暦4年(785)火災焼尽、伏せて望む定額國昌寺を以て国分金光明寺となす」とある。国分僧寺が全焼したので、定額国昌寺を国分寺にするという。
 昭和34年の瀬田廃寺の発掘調査で、塔跡の全部・金堂跡の西半部・西僧坊跡・西回廊跡・築地跡などが発見され、さらに金堂北方にかって礎石の存在が知られ講堂の存在が推定され、四天王寺式の伽藍配置が明らかになる。
発掘調査報告書によれば、塔跡のみが火災にて被災するが、他の伽藍は火災の痕跡は発見されていない。これは「国分僧寺火災焼尽」の記述に合致しない。
さらに、出土瓦の検討から、瀬田廃寺は奈良期後期中葉を遡る時期に創建され、被災した塔は平安前期の瓦で再建されていると判明している。
つまり、寺院は塔の再建以降、平安前期以降にも存続していたことが分かる。つまり瀬田廃寺は「国分僧寺火災焼尽」という記事に矛盾し、更には火災の後定額国昌寺に国分寺寺格が移るというも、瀬田廃寺は再建され、また塔の被災時期についても、再建瓦に平安京の瓦が使われているので被災時期は9世紀とみるべきで、焼失が延暦4年(785)ということと齟齬するのではないか。
要するに、瀬田廃寺は「延暦4年(785)火災焼尽」された国分寺とは考えられない。つまり、甲賀宮国分寺は現在の紫香楽宮跡の伽藍遺構であり、少なくとも延暦4年(785)まで「国分僧寺」の寺格を持っていたのでないかと考えられる。
 以上から、「甲賀宮国分寺」は現在の「史跡紫香楽宮跡」の伽藍遺構であり、平城京遷都後に創建され、少なくとも延暦4年(785)まで「国分僧寺」の寺格を持っていたものと考え得る。
3.定額国昌寺と国分寺
 その後の国分寺に関する情報として、「小右記」8)藤原実資の寛仁元年(1017)12月14日の記事がある。
「昨日近江國国分寺及び尼寺等野火の為焼亡す。先に尼寺焼亡、次に国分寺、両寺相去ること頗る遠く、しかし、風吹き移る。」
弘仁11年(820)定額国昌寺に国分寺の寺格が与えらていて、その国昌寺が焼亡する。
この定額国昌寺の遺蹟は現在では「ポリテクセンター滋賀」附近(伽藍山北・石山国分の台地東端)が有力視されれている。「近江輿地志略」(江戸期)には礎石などがあったことが記され、付近からは白鳳期から平安期の多くの瓦が採取される。
しかし、現状は礎石などは西方寺などに遷され、旧状を留めず、「ポリテクセンター滋賀」西側の晴嵐小学校に何れからか遷された「近江国分寺」の石碑が建つだけである。

2022/06/11追加:
○「紀要 27号(「国昌寺の創建と修造について」小松葉子)滋賀県文化財保護協会、2014.3 より
 国昌寺の初出は、天平宝字5年(761)『沙弥十戒䮒威儀経疏』(日本大蔵経編纂会1917)の奥書きである。
孝謙上皇・淳仁天皇の保良宮行幸に随行した僧がこの寺に滞在したことから、保良宮と国昌寺がごく近隣に併存していたことを示すと想定される。
その後、『日本紀略』により、延暦4年(785)の近江国分僧寺の焼失を受けて弘仁11年(820)に転用国分寺となったこと、その時はすでに定額寺であったこと、七重塔を持っていたことなど、やや詳しい内容が知られる。
 ※ 『日本紀略』:「弘仁十一年十一月庚申条近江国言。国分僧寺。延暦四年火灾焼尽。伏望以2定額国昌寺1就為2国分金光明寺1。但勅本願釈迦丈六更応/奉/造。又応修2理七重塔一基1。云々。許/之。」
  <レ点は「/」で、一、二点は「1、2」で表示する>
寺の所在地は『江家次第』『源平盛衰記』などに見える平安時代の近江国分寺に関する記載、ならびに「国分」の遺称地の存在等により、江戸時代以来、勢多橋西岸の滋賀郡粟津に所在するとされてきた。
標高100m余の台地の東端にある「ポリテクセンター滋賀」の敷地(大津市光が丘町・田辺町)一帯がその推定地である。
 推定国昌寺址付近
 本稿は「鳥居川霊園採集遺物」を分析し、その結果を報告したものである。<詳細な分析は本稿の参照を願う。>
繰り返すが、上述のように
『日本紀略』によれば、近江国分僧寺は延暦4年(785)に焼失し、弘仁11年(820)になって、近江国は定額国昌寺に正式な国分寺格を与えるように望んだ。その際本尊は新造、七重塔は修理を願い出て赦される。
 ところで、甲賀郡にあったと推定される第一次国分寺が焼亡したあと、国昌寺が転用国分寺となるまでの35年間の空白期間については、
1)国分寺焼亡後、国昌寺が直ちに国分寺機能を代行した。
 (肥後和男(1933)「滋賀郡石山町近江国分寺阯」<『滋賀県史蹟調査報告』第5冊 所収>)
2)国昌寺以外の某寺が正式に第二次国分寺となり、その後、国昌寺が第三次国分寺となった。
 (櫻井信也(2001)「近江国分寺の所在をめぐる二、三の問題」<『近江の考古と歴史』真陽社 所収>
3)某定額寺が国分寺代行の任につき、その後国昌寺に正式移行した。
 (荒井秀規(2013)「国分寺と定額寺 国分寺創建期を中心として」<『国分寺の創建 組織・技術編』吉川弘文館 所収>
などの説があり、いまだ決着を見ていない。
 だが、国昌寺以前の代行某寺に瀬田廃寺(大津市野郷原)をあてる意見が多い。その比定の根拠は、瀬田廃寺から西へ200mほどの距離にある野畑遺跡から出土した「国分僧寺」銘墨書土器に強く牽引されてのことと思われる。
 瀬田廃寺は、8世紀中葉に大規模な地業を行なって飛雲文軒瓦で創建され、8世紀後半と9世紀初頭に比定される修造瓦が出土しており、出土土器をみると9世紀後半にもまだ存続していた可能性がある。
また県下最大の規模を持つ中門が発見された(大津市教委員会2008)が、この門は官道に向かっては開口せず、寺には中門を使わず北入りするか、約400mも大きく南に迂回せねばならない。
奈良時代創建寺院と考えられるにもかかわらず、四天王寺式伽藍配置と復元されており、中門を入って最初に対面する塔は、心礎と側柱礎4基のみからなる特殊なものである。側柱礎石の心々距離6.3mという一辺長からみて小型のものであったと考えられる。
 国分寺が焼亡した延暦4年(785)段階には、瀬田川対岸の古代道沿いに南面して、七重塔を持つ歴とした定額国昌寺があったと考えられるにもかかわらず、なぜ、瀬田廃寺に代行を求めたのか、また瀬田廃寺を9世紀初頭に修造しておきながら、さして時間をおかず、再度国昌寺へ国分寺格が移行するのはなぜか。今後の調査の成果を待ちつつ議論を深めるべき課題である
 その後の国昌寺
国昌寺は天延四年(976)の大地震により、大門が倒壊し仁王が破損するという被害を受けた(『扶桑略記』天延四年六月十八日条)。
またその後、寛仁元年(1017)に野火によって、国分尼寺とともに焼亡したという(『小右記』寛仁元年十二月十四日条)。
だが11世紀以降も、伊勢公卿勅使が国分寺前で下馬せず通り過ぎるという史料など、以下断続的に14世紀まで「国分寺」記載があるものを追跡できるので(櫻井信也(2010)「平安時代における近江国分寺の所在」<『佛教史學
研究』第52巻第2号、佛教史學會 所収>)、同所で再建されたものらしい。しかし、今回の採集資料の中にはこの間の事情を表わす遺物はない。再建国分寺が瓦葺きであったかどうかも不明で、平安時代後期以降の状況は残念ながら混沌としている。

2022/06/26追加:
○Wikipedia より
 近江国分寺の草創は明らかにされてはいない。
天平13年(741)聖武天皇、恭仁京にて、国分寺建立の詔を発布する。
近江国分寺については紫香楽宮(甲賀宮)と並行して総国分寺としての甲賀寺(甲可寺)の造営が進められたと考えられている。
ところが、天平17年(745)紫香楽宮が廃都とされ、朝廷は平城京に戻り、総国分寺たる甲賀寺が近江国分寺に転用されたという推定がなされている。
 一方、甲賀寺と近江国分寺は別の伽藍であるとして、瀬田廃寺が近江国分寺と推定する学説もある。
 何れにせよ、この国分寺時代の事績として、宝亀8年(777)最澄が得度(のち延暦4年比叡山に入山)したことが知られる。
延暦4年(785)国分僧寺が火災で焼失する。(「日本紀略」)
   ---以上を前期近江国分僧寺として区分する---

弘仁11年(820)定額寺である国昌寺を国分金光明寺(国分寺)となすことが認可される。これは近江国司の請願によるものである。
天延4年(976)大門が大地震で倒壊。
寛仁元年(1017)国分尼寺の火災の飛火により焼亡。
その後の消息は杳として知れず。
   ---以上を後期近江国分僧寺として区分する---

参考文献:
 「天平の都と大仏建立 -紫香楽宮と甲賀寺-(改訂版)」栄原永遠男、甲賀市教育委員会、2012
 「国分寺の誕生 -古代日本の国家プロジェクト-(歴史文化ライブラリー430)」須田勉、吉川弘文館、2016
 「中世諸国一宮制の基礎的研究」中世諸国一宮制研究会、岩田書院、2000年
 「日本歴史地名大系 25 滋賀県の地名」平凡社、1991

後期国分僧寺跡(国昌寺跡)
所在地は未確定であるが、滋賀職業能力開発促進センター(ポリテクセンター滋賀、大津市光が丘町)付近とされる。
なお、石碑は晴嵐小学校内ある、また、周辺では国分寺(国昌寺)のものという礎石が伝世する。
また、現在、国昌寺跡推定地の北方に曹洞宗国分寺(大津市別保)があるが、これは元は近江国分寺の別所として建立された寺院という。
源義仲(木曾義仲)の戦乱で焼失したのち本尊は若宮八幡神社に移されていたが、宝永3年(1706)膳所藩主本多康慶が新楽寺として建立、のちに国分寺と改称するという。
 2022/09/26追加・END--------


第1次近江国分寺史跡紫香楽宮跡・甲可寺 <甲賀寺>跡

2013/10/26追加:
○「史跡紫香楽宮跡保存施設事業報告書」滋賀県教育委員会、1967 より
 甲賀寺塔跡礎石実測図:一辺は9m、3+3+3mの等間である。

2013/10/26追加:
○「近江国分寺」肥後和男(「滋賀県史蹟調査会報告 第五冊」滋賀県保勝会、1933 より
 大正12年甲賀寺礎石配置図:大正12段階では塔阯の礎石が認識されていない。

2010/01/10追加:
○「紫香楽宮阯絵葉書」紫香宮址保存会、昭和3年
 紫香楽宮阯塔阯:塔跡看板は昭和3年に内務省が設置と云う。
2013/10/26追加:
○「近江国分寺」肥後和男(「滋賀県史蹟調査会報告 第五冊」滋賀県保勝会、1933 より
 昭和5年甲賀寺礎石配置図:下の絵葉書は昭和5年の成果を反映したものと思われる。
2010/11/24追加:
「Y」氏ご提供画像、絵葉書
 紫香楽宮阯現存礎石図:発行年は昭和8-10年(「Y」氏推定)
下に掲載の1次近江国分寺礎石図などは綺麗すぎて面白みがないが、この絵は妙に現実感を持ち力強く訴えかける。
適当な最新の礎石配置図がないので、この絵と現在の礎石配置の異同について厳密な比較は出来ないが、この絵の持つ価値は何時までも色褪せないであろう。

○「史跡紫香楽宮跡現地説明会資料」(2005/3/13:滋賀県教育委員会) より
・史跡紫香楽宮跡は内裏野・寺野と呼ばれ、江戸期には礎石が露出していたため、紫香楽宮と推定され、
大正15年に紫香楽宮跡として史跡指定される。
・昭和5年の礎石検出調査で、東大寺に似た伽藍配置も持つ寺院址であることが明確にされる。
・紫香楽宮跡は昭和50年代の宮町遺跡の発掘調査で、次第に宮町遺跡が紫香楽宮跡であることが明確にされてくる。
・この紫香楽宮跡遺跡は「盧遮那仏造立に伴い建立された甲賀寺」なのか「後に近江国分寺として再整備された寺院」なのかは明瞭でない。

○史跡紫香楽宮跡遺跡は今なお、ほとんど無傷で、その寺院跡を残す。(これは奇跡と云って良い。)
 1次近江国分寺推定伽藍図:奈良国立文化財研究所原図
 1次近江国分寺礎石図:地上には今なお330個を超える礎石が残される。
2012/05/05追加:
○「新修国分寺の研究 巻5下」角田文衞編、吉川弘文館, 1986-1997 より転載
 甲可寺伽藍復原図:8世紀中葉
  ※肥後国分寺伽藍配置の金堂は推定であるが、この甲可寺の塔・金堂を入れ替えた配置と推定されている。
2013/10/26追加:
○「史跡紫香楽宮跡(内裏野丘陵地区)確認調査事業報告」滋賀県教委、2009 より
 史跡紫香楽宮跡地形測量図

第1次近江国分寺東塔院跡:2005/03/13撮影:


東塔は塔院を形成し、南に東院中門を構える。

1次近江国分寺東塔跡1:左が東塔跡、右が東塔院中門跡
  同      東塔跡2
  同   東塔院中門跡
  同      東塔跡3:左図拡大図
  同      東塔跡4
  同    東塔心礎1
  同    東塔心礎2
  同    東塔院蘇3
  同    東塔心礎4
  同    東塔心礎5
  同    東塔心礎6
  同    東塔礎石1
  同    東塔礎石2
  同    東塔礎石3
  同    東塔礎石4:西北隅脇柱礎

甲可寺東塔心礎:150×180cm(実測)、現状では出枘や柱座・孔などの加工は見られない。
但し塔は焼失したと推定され、火災による破壊を受けたことは十分考えられる。実際心礎は数個に割れている。
従って、心礎の形式については、自然石なのか出枘式であったのかは、今日では不明とするしかない。
その他の礎石で最大と思われる西北隅脇柱礎の大きさは250×220cmを測る。
 1次近江国分寺東塔院実測図:「2005年現 地説明会資料」

2005/3月度発掘調査結果

参考資料:1次近江国分寺トレンチ図:「2005年現 地説明会資料」

想定西塔院跡トレンチ
伽藍中軸線を挟み、東塔跡と同一距離の地点(脇柱礎・心礎)にトレンチを開ける。
残念ながら、今回の調査では建物跡などの成果は皆無であったと云う。
僅かに、火災で割れたと推測される礎石片、僅かな焦土、奈良・平安初頭と推定される須恵器片などを検出したのみである。
礎石片は調査前から知られていたといわれ、おそらく他の地点からの流入の可能性が高いと思われる。
確かに、この地点は東塔院と対称の地点であり、地形は明らかに削平面であり、その削平地は西塔院が建立されるに十分な面積を有すると思われる。しかしながら建物があった痕跡は見出せず、西塔との仮説は証明できず。
2005/03/13撮影:
 1次近江国分寺T-5・1:西塔院想定地トレンチ
 1次近江国分寺T-5・2
 1次近江国分寺T-5・3

トレンチの現状を見る限り、「教育委員会」は「西塔院の存在が否定された訳ではない」という見解であるが、
西塔(もしくは西塔院)の存在の可能性はほとんど無いと思われる。
但し、この平坦地は明らかに何らかの寺院関連施設があったと思われ、今後の解明が待たれれる。

西廻廊及び経蔵基壇の調査:2005/03/13撮影:
 1次近江国分寺西廻廊1:中門西の東西廻廊、南列礎石:トレンチ1(T-1)
   同      西廻廊2:同上
   同      西廻廊3:同上
   同      西廻廊4:同上
   同      西廻廊5:経蔵取付き南北廻廊礎石及び瓦・焦土層:トレンチ4(T-4)
   同      西廻廊6:同上
   同     経蔵基壇:トレンチ4(T-4) :写真中央のトレンチ中の段差が経蔵基壇

発掘出土品:2005/03/13撮影:
 1次国分寺出土瓦1:単弁軒丸瓦、奈良期
   同   出土瓦2:軒平瓦、奈良期
   同   出土鉄釘:奈良期、約30cm弱

第1次近江国分寺伽藍遺跡:2005/03/13撮影:

 1次近江国分寺中門:礎石
   同     金堂1   同     金堂2   同     金堂3:金堂跡: 金堂は7間4間
   同      講堂:講堂跡: 講堂は7間4間
   同      経蔵:経蔵跡     同      鐘楼:鐘楼跡
  同 僧坊・小子房1   同 僧坊・子子房2:僧坊・小子房跡


第2次近江国分寺近江瀬田廃寺) (桑畑廃寺)

 ※瀬田廃寺を第2次近江国分寺とする見解については多くの異論がある。(2022/06/11追加)

瀬田川の東岸(石山寺の対岸)をやや入った舌状台地上にある。
寺域は名神高速道等で破壊されているが、塔跡は原位置で保存される。
 <塔跡すぐ北は名神高速道掘割で、金堂跡は破壊、その高速道北は建部神社御旅所跡で、本来であれば講堂もしくは僧坊があったと推定される位置で、その北は東海道新幹線の掘割で破壊されているのが現状である。>
塔跡は特異な塔跡であろう。即ち礎石は心礎と4隅の柱礎石4個しか発掘されず、きわめて異例な構造の塔であったと思われる。
5個の礎石全部に円形の枘穴が穿孔されるが、心礎の枘穴のみ径が小さい。
<心礎枘穴径8cm、隅柱礎(4個)枘穴径15〜14cmで深さは不明(おそらく10cm内外)。実測>
発掘調査の結果 、四天王寺式伽藍配置であったとされ、近江国分寺が甲賀寺から移され、延暦4年(785)に焼失するまで、近江国分寺(第2次国分寺)であった可能性が高いと推測される。
焼失後 、国分寺は瀬田川西岸の国昌寺に移される。
「日本略記」では「延暦4年(785)近江国分寺焼失、弘仁11年(820)定額国昌寺を以って国分寺となす」とある。
○「日本の木造塔跡」:
塔基壇は瓦積で、一辺13m、高さ1.3mを測る。心礎は1.2×1.15mの大きさで、孔は径6cm×8cmである。塔一辺は6.3m。
出土瓦から創建は奈良期で平安期まで塔は存続していたと思われる。
2005/03/13撮影:
 2次近江国分寺塔跡
 2次近江国分寺心礎1     同      心礎2
  同 北方遺跡トレンチ:撮影時には発掘継続中:瀬田廃寺関係の関連遺跡は出土はしていない模様であるが、未確認。
2001/11/18撮影:
 南東隅脇柱礎      南西隅脇柱礎      北東隅脇柱礎      北西隅脇柱礎
2013/10/26追加:
○「瀬田廃寺跡発掘調査報告」杉山信三(「滋賀県史蹟調査報告」第12冊、滋賀県教育委員会、1961 所収)より
 瀬田廃寺塔跡発掘調査図:礎石の表面は火災に遭い剥離する。
隅礎石間に礎石を据えた痕跡はなし。つまり基壇上には四隅と心礎のみの5石しか据えられなかったと判断される。なお、四天柱の建て方は不明である。


第3次近江国分寺国昌寺廃寺

国昌寺は現在の晴嵐小学校及びその東一帯にあったとされる。
晴嵐小学校(その東に北大路墓地がある)から滋賀県職業訓練所付近にかけて平安期の古瓦が出土する。 北側からこの付近を見ればこの一帯は丘のような様相を呈する。寺院建立の好地であったのであろう。
国昌寺はこの一帯にあったものと推定される。なお昭和初期までは晴嵐小学校敷地に礎石が残っていたという。
現在晴嵐小学校には「史跡 近江国分寺跡」の石碑が建つ。
 2005/03/13撮影:近江国分寺跡石碑
 2015/05/09撮影:近江国分寺址碑2
なお、保良宮はこの付近にあったと推定されているようである。
 ※保良宮は淳仁天皇が営んだ宮であり、天平宝字3年(759)造営が開始される。
保良宮の所在地については、国昌寺付近とする説が有力であるが、紫香楽宮跡近くの玉桂寺も跡地との伝承がある。即ち「保良宮跡に空海が一堂を建立し、これが玉桂寺である」と。
また、滋賀郡保良荘が保良宮の跡地とも云われる。さらに、長浜市西浅井町管浦の須賀神社が跡地との伝承も神社に残るという。

 延暦4年瀬田の国分寺は焼失するが、長らく再建されず、弘仁11年(820)定額国昌寺を以って第3次国分寺として石山国分の定額国昌寺が充てられたとされる。
その後、寛仁元年(1017)国分の国分寺・国分尼寺とも焼失。
「源平盛衰記」:寿永3年(1184)には国分寺の毘沙門堂がまだ存在していたと云う。

国昌寺関係(推定)礎石
2005/03/13撮影:
現在、西方寺(浄土真宗興正派)に国昌寺礎石とされる礎石2個と同型の礎石1個の計3個、保良宮の礎石と云われる伝来が不明の手水鉢1個、及び伝来が不詳の塔露盤(推定)を残す。
大型礎石1:
奈良期のものと思われる礎石が庭石として残る。径140cmくらいの大きさで、径88×9cmの柱座を造り、径20cnの出枘を彫り出す。(実測)
出枘はほぼ欠失、さらに礎石の1/3は楔によって割られ欠失する。
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石1:国昌寺礎石1-1     国昌寺礎石1-2     国昌寺礎石1-3     国昌寺礎石1-4
この庭石については伝承が無いとするが、ほぼ同寸・同形式・同石質の国昌寺から搬入したと云う礎石が鐘楼に残り、国昌寺ものと判断して良いと思われる。
2015/05/09撮影:
径90高さ8cm、径20cm現状では高さ1cmの出枘(実測)
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石1:国昌寺礎石1-5     国昌寺礎石1-6     国昌寺礎石1-7     国昌寺礎石1-8
大型礎石2:
2005/03/13撮影:
鐘楼の基壇石垣に組入れられている礎石が2個残る。
内1個の大きさは140cm位で、径88×9cmの柱座を造り、径20cmの出枘を造り出す。出枘は完存と思われる。
もう1個の礎石も柱座・出枘を持ち、同型・同寸の柱座及び出枘を持つ。(実測)
但し石垣組入に際し、割られている可能性があり、大きさは多少小さくなっている可能性がある。
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石2/3:国昌寺礎石2/3-1     国昌寺礎石2/3-2
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石2:国昌寺礎石2-1
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石3:国昌寺礎石3-1
◇鐘楼に組み込まれた礎石2個は国昌寺跡から運んだという伝承を持つと云う。
 ※西方寺関係者の談:昭和初期?までは、晴嵐小学校附近には礎石が残存していた。遠足等で遊んだ記憶がある。
昔は小学校北の三田川に架かる橋は谷底の木橋でしかなく、どのような方法で寺跡から川を渡し礎石を西方寺まで移動させたのだろうか考えることがある。
なお梵鐘は戦後の改鋳。本堂は約170年前の建築。庭石は戦前の調査では国昌寺のものとは断定されなかったと云う。(根拠不明)
 ※これ等3個の礎石は、形式・大きさなどがほぼ同一であることから、心礎である可能性は低いと思われる。しかしその美しい造作から見て、おそらく金堂もしくは塔などの主要堂塔の礎石であることは間違いないと思われる。
2015/05/09撮影:
 西方寺鐘楼
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石2/3:国昌寺礎石2/3-3     国昌寺礎石2/3-4
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石2: 国昌寺礎石2-2     国昌寺礎石2-3    国昌寺礎石2-4     国昌寺礎石2-5
  径90×9cm、出枘20cm×7cm(実測)
 国昌寺(3次近江国分寺)礎石3:国昌寺礎石3-2     国昌寺礎石3-3
  径82×7cm、出枘18cm×8cm(実測)
◇住職談:真宗興正派西方寺は約200年前の創建で本堂も約200年前の建築である。
膳所藩もしくは膳所藩士の記録が今に伝えられ、その記録には西方寺の創建にあたり、鐘楼の基壇石垣には礎石を近隣から運び込むとの記録がある。 そして運び込まれた礎石は6個のようであるが、大型礎石1の1個を入れても現在境内には3個の礎石しかなく後の3個は不明である。
なお、今となってはその記録とはどのような史料(史料名など)であったかは覚えていないということで、誠に残念である。

西方寺所在伝保良宮礎石
保良宮の礎石と云われる礎石が手水鉢として残されていると云う。
下に掲載の写真で見る限り、柱座があるようで、礎石である可能性は高いと思われる。
また中央には円穴が彫られ、一見心礎の可能性が指摘できるが、この円穴は後世の加工であるとされる。(その根拠は不明)
なお、この礎石は実見せず。また法量が不明であり、心礎であるかどうかの判断はできない。
但し、保良宮の礎石という呼称は、保良宮跡がこの付近一帯のいずれかにあった可能性が高く、 その故、この礎石を保良宮の礎石であろうと慧誰か思いついた程度のことで、伝承があるとか確たる証拠がある訳ではないであろう。
 伝保良宮礎石: 写真の出典は失念する。
2015/05/09撮影:
礎石の大きさは一番大きな所の差渡しは105cmを測るが、礎石が若干欠失している形跡があり、もう少し大きいものであったと思われる。
柱座は径77cmで高さはおよそ2cmである。そしてその中央に現状で径40cm深さ15cmの正円の円穴が掘られる。
 ※この円穴は整美に穿孔され、まず間違いなく、手水鉢として転用した時に穿孔されたものしかも近代になってからのものであろう。
 住職も同じ見解である。
この礎石はその大きさや柱座を持つことから、礎石であることは間違いない。同時に現在の円孔は柱穴ではなく後世の加工であり、かつ心礎とするにはやや小さく 、心礎である可能性はまずないであろう。
この礎石は明確な伝承を欠く。住職の談もこの手水鉢について出所、入手理由、入所時期など全く分からないという。誰かが云ったのであろうか伝保良宮礎石というのも全く根拠がないものと思われる。
 上述の大型礎石1及び2と同じく、やや柱座は小振りであるが、国昌寺関係の礎石が搬入された可能性が大きいのではないだろうか。
上に掲載した住職談では、西方寺に運び込まれた礎石は6個であり、3個の所在が分からないということであるが、この「伝保良宮礎石」と後述の石製露盤(今もそうであるが、当時は露盤という認識ではなく礎石の一種との認識であったであろう。)と無理に北大路墓地の蓮台下台石も加えれば、合計6個ということになる。
 西方寺所在伝保良宮礎石1     西方寺所在伝保良宮礎石2     西方寺所在伝保良宮礎石3
 西方寺所在伝保良宮礎石4     西方寺所在伝保良宮礎石5     西方寺所在伝保良宮礎石6

北大路墓地所在蓮台の台石
 北大路墓地に蓮台があり、その蓮台の台石が礎石ではないかと云われる。(西方寺住職談)
蓮台は径92cmを測る。蓮台の台石の径も92cmかあるいは若干小さい径であるかも知れない。
台石の上に蓮台が載り、もとより、台石が柱座を持つ礎石であることを確認する術がないが、台石には柱座と思われる加工がなされ、その径はおよそ90cmほどであり、奇しくも大型礎石1及び2の柱座径の90cmと一致するのである。
 以上の意味で、この台石は国昌寺の礎石しかも西方寺に搬入された礎石と同じ堂塔の礎石である可能性が高いと判断して良いだろう。
 蓮台の台石1     蓮台の台石2     蓮台の台石3     蓮台の台石4
なお北大路墓地から多くの瓦の出土を見たという。次は北大路墓地から出土というおそらく平安初期の軒平瓦であろう。西方寺蔵。
 国昌寺軒平瓦1     国昌寺軒平瓦2

西方寺所在石製露盤(推定であるがまず露盤であることは確実である);
 → 西方寺所在石造露盤

国分のへそ石(臍石)・・・国昌寺塔心礎であった可能性が考えられる遺物である。
2015/05/09撮影:
この臍石はまず礎石であることは間違いない。しかも大型の礎石である。
斜め45度くらいに傾いて置かれ、半分以上は土中にある。現状、出枘はほぼ全て土中に埋まっている状態である。
臍石は円形の柱座と円形の出枘を造り出す。
大きさは次の通り。(実測)
 柱座の径は出枘の中心を通る経ではなく、出枘が立ち上がる位置での径はおよそ135cmを図る。
したがって出枘の中心を通る位置での柱座径はおそらく150cm内外ではないかと思われる。柱座の高さはおよそ12cmほどである。
出枘は径40cmで高さはおよそ4cmを測る。(出枘はかなり欠失しているものと思われる。)
丁寧に造られた整美な礎石である。保良宮の礎石と伝えられるも、これは明治以降に天皇教の喧騒の一つの例であろうか保良宮の探索が行われた影響を受け、軽薄に保良宮の礎石と結び付けたもののように思われる。
 当地には明確な古代寺院跡や宮跡は発見されていないという。つまりこのへそ石は別の場所から持ち込まれたか別の場所に運ぼうとしていた事を示唆する。
この礎石の形状は、おそらく国昌寺跡から北大路西方寺に江戸中期に持ち込まれたであろう3個の柱座と出枘の造り出された礎石に酷似し、そしてこの礎石はそれ等より柱座も出枘も数段大きいのである。即ち、国分のへそ石と国昌寺から西方寺へ持ち込まれた礎石とはともに国昌寺の礎石であったのではなかろうか。しかもそれらは塔の礎石でへそ石は心礎であり、西方寺の礎石は四天柱礎もしくは側柱礎であった可能性も考えられるのではないだ ろうか。
 国分所在へそ石1     国分所在へそ石2     国分所在へそ石3     国分所在へそ石4
 国分所在へそ石5     国分所在へそ石6
へそ石について、サイト「滋賀県文化財保護協会」>「新近江名所圖会 第35回 古代の石工の失敗作?−国分のへそ石−」のページではおよそ以下のように云う。
 へそ石は大津市国分2丁目の国分団地(※高度成長期初期の団地と思われる)内にある。
半ば土に埋もれるも、直径150cmの円形の平坦面が削り出され、その中央に出べそのような丸い突起が作られる。明治末期頃までは、この石を松明で焼いて雨乞いを祈願していたと いう。
 へそ石がある場所の小字は洞(ほら)ノ前で、近くには洞山・洞神社などの字名や社名もあることから、淳仁天皇の都として造営が進められた保良宮(ほらのみや)の建物に用いられたものと伝えられてきた。
(※国分に近津尾社が鎮座し、ここには国分新田にあった洞社が移されるという。)
 国分から東方の瀬田川に向けてのびる台地上には、保良宮関連施設のほかにも国昌寺や国分尼寺などが造営され、それらの遺構と思われる遺跡が発見されている。
 では、へそ石は本当に保良宮に使われた礎石なのか。この礎石の年代はその形状から、奈良〜平安初期とみられ、この点では矛盾がないが、「宮」の礎石としては大きすぎるにではないか。これほどの大型の礎石は心礎と見るのが妥当ではないか。近在する遺跡で塔を備えていたと考えられる古代寺院は国昌寺(第3次近江国分寺)しかないので、国昌寺塔婆の心礎である可能性が高い。
 因に国昌寺は晴嵐小学校・北大路墓地とその東方附近にあったと推定されている。そもそも、へそ石がある付近は平坦地に乏しく、「宮」や寺院が造営できる地形ではない。
 であるならばへそ石はなぜ今の場所にあるのか。
 へそ石から道路をはさんだ山の中には明治42年に建てられた「保良宮址」碑がある。このあたりの山中には巨岩の露頭がたくさんある。中には石を割るためのクサビ痕があるものも見られる。クサビの跡は新しいものと思われるも、このあたりは古代においても採石場であった可能性も十分考えられるであろう。
 へそ石は、おそらく国分寺(国昌寺)の塔心礎用に切り出され、当地で細部加工まで行われたものの、完成間際で割れてしまったか、大きすぎて運び出せなかったのか、何らかの事情で持ち出されることなく放置されたものとも考えられるであろう。
 ※以上の見解は蓋し慧眼であろう。
この礎石は大きさから保良宮の礎石というより心礎の可能性が高いこと、形状から奈良〜平安初期の形式であること、心礎であるならば、近在で国昌寺の心礎である蓋然性が高いと言っていいのではないか。
 ※さらに以上から次のことが推測可能である。
明治末年頃まで雨乞い祈願に使われていたことが事実ならば、心礎が現地にあるのは、近年のことではなく、かなり古くからであること、つまり近年に国昌寺などから運び込まれた可能性はまずないこと、へそ石のある小字「洞(ほら)ノ前」は古くからのものではなく、明治42年に道路を挟んだ山中の「保良宮跡」の石碑が建立されたということが事実ならば、小字「洞ノ前」は、明治42年の石碑建立に触発され後世の小字の可能性があること、つまりこの付近は保良宮の伝承地ではなく、明治42年の石碑設置によって「洞ノ前」の通称が生まれた可能性があることなどである。
参考:
国分のへそ石の北方山中に幻住庵と近津尾社があり、さらに北方の丘上に国分聖徳太子堂(山城石清水八幡宮太子坂太子堂聖徳太子像安置)がある。 なお、幻住庵は平成3年復元され、近年の台風により被害を受けるも、平成25年4月復旧工事竣工という。
 近江国分幻住庵1     近江国分幻住庵2     近江国分幻住庵3     近江国分幻住庵4
 近江国分近津尾社・・・国分新田の洞社が移され末社としてあるという。


近江別保国分寺(現国分寺)

大津市別保に国分寺と称する寺院が現存する。
勿論、後世の寺院で、古代国分寺とはまず無関係で、現在滋賀県で国分寺の寺号を称しているだけでのことであろう。
○Wikipedia では次のように云う。
 現在、国昌寺跡推定地の北方に曹洞宗国分寺(大津市別保)があるが、これは元は近江国分寺の別所として建立された寺院という[11]。
源義仲(木曾義仲)の戦乱で焼失したのち本尊は若宮八幡社に移されていたが、宝永3年(1706)に膳所藩主の本多康慶が新楽寺として建立、のちに国分寺と改称している[11]。
  [11]:「別保村」『日本歴史地名大系 25 滋賀県の地名』平凡社、1991
○他のWebサイトなどで、以下が分かる。
 山号は別保山、本尊は薬師如来、門前には「薬師如来 国分寺」、「巴御前供養塔」(昭和59年建立の近年のもの)がある。
「巴御前供養塔」側面には「粟津国分尼寺は後白河天皇が薬師如来像を下賜し建立されたが、粟津合戦で焼失し薬師像は別保八幡宮の森に遷されていた。その後当地に建てられた兼平寺が宝永3年に他に移ったのでその跡地に当寺が再建された。」昭和59年は粟津原合戦800年であり、記念に「巴御前供養塔」を建立する。
 別保国分寺山門     別保国分寺山門横石碑1     別保国分寺山門横石碑2
 別保国分寺西石碑1:正面     別保国分寺西石碑2:側面・両側面とも「こくぶんじやくし・・:と刻む、裏面は無銘。
 別保国分寺本堂     別保国分寺本堂・庫裡


参考北大路御霊社

2022/04/29撮影:
 壬申の乱の主戦場であった「瀬田の唐橋」の近くに、大友皇子を祭神とする御霊明神社が2社ある。
北大路御霊明神と鳥居川御霊明神である。
「日本書紀」では「天武元年(672)7月、是に大友皇子、走(にげ)て入る所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れ、自ら縊(くびくく)る。」とある。
「山崎」とはどこか不明ということであるが、鳥居川御霊明神では、大友皇子が命を絶った「隠れ山」が御霊神社の裏山であると伝えられ、白鳳4年(675)に大友皇子の子の大友与多王が父の霊を祀って創祀したいう。
この伝承によって、後に弘文天皇陵を選定する際の候補地とされ、膳所藩から神領田を寄進される。
一方、北大路御霊明神の社伝では、天応元年(781)大友皇子の遺臣の子孫らによって祖霊として祭祀されたのが始りという。この明神も膳所藩より神領田を寄進されたという。
本殿は一間社流造、元禄6年(1693)に再建という。
○「歴代天皇総覧」笠原英彦、中公新書1617、2001 より
第39代 弘文天皇:
 名を大友皇子、父は天智天皇、天智天皇671年に没、没後の壬申の乱(672)で吉野の大海人皇子に破れ、敗死する。
「日本書紀」では弘文天皇紀を記さず、一代(天皇)とみなしていない。
「水鏡」「扶桑略記」では天智死後2日目に皇位を継ぐという。水戸光圀「大日本史」はこれを肯定する。
伴信友は「長良の山風」の執筆で、即位を立証することを企図する。
ここでは、「日本書紀」にも弘文天皇紀は存在したが、大海人(天武天皇)の息・舎人親王が編纂の過程で没にしたという。
弘文天皇と追号されたのは明治3年である。これに伴い、天智皇后・倭姫の即位や称制が行われたという説も唱えられる。
○「歴代天皇125代総覧」歴史読本編集部、新人物文庫316、2014 より
弘文天皇:
 671年大友皇子は太政大臣に叙任、父天智の実質的後継となるが、天智の同母弟の大海人の存在から、その地位は不安定であった。
天智の没1年後、吉野に出家した大海人との間で、殺戮戦(壬申の乱)が勃発、大友皇子は自縊する。
大友の即位は「西宮記」「扶桑略記」に初めて記され、その後「水鏡」「大日本史」に受け継がれ、明治3年「弘文」を追号され、ここに「皇統譜」に加えられる。
確かに、大友は近江朝廷の主権者の地位にあったのだろうが、即位を認める立場は、あくまで天皇位に空白を認めなくなった時代の産物であろう。
 (長谷部将司)
○「天皇陵の謎」矢澤高太郎、文春新書831、2011 より
39弘文:
 長等山前陵:大津市御陵町、円墳、明治10年治定、古墳名・亀丘
○サイト「新近江名所圖会 第186回 悲運の皇子 大友皇子の陵墓 −弘文天皇長等山前陵−」 では
(明治3年弘文天皇と追号されると)『明治政府としては、弘文天皇の陵を探索して、それを祀る必要が生ずる。そこで、「弘文天皇陵」の探索が行われた結果、大友皇子とゆかりのある地域の中から、長等山麓にあった「亀丘」と呼ばれる古墳が明治10年6月に政府によって陵墓と定められ、現在の「弘文天皇陵」となる。
 「弘文天皇陵」を定めるのに熱心に活動を行ったのが、第2代滋賀県県令(明治10年まで権令)籠手田安定(こてだ やすさだ)という人物である。・・・彼は、独自の調査・研究により、「弘文天皇御陵所在論」をみずから著して、「亀丘」こそ真の「弘文天皇陵」であるという自説を示し、政府にその旨を記した上申書を提出した。』
という。
神武天皇陵をはじめとする古代天皇陵などの治定はこの程度のものなのである。
これが国家神道を至上した国家のやり方なのである。
672年に死した人物を明治3年(1870)に自己都合で復権させ、明治10年にどこの馬の骨か分からない「亀丘」をミササギに御座いますと国家が大真面目に治定するなど、信じられない行為ではないか。
死者を冒涜し、人心を騙す話なのである。

 ※この北大路御霊明神やその祭神から浮かび上ってくるのは、愚かな人間の営みが歴史であるということであろう。
それは天皇であっても同じこと、いや古代天皇が権力者であった故に、愚かさが増幅されるということであろう。
壬申の乱とは諸豪族の権力をめぐる殺し合い、天皇家でいえば叔父が甥を殺害した武力行使ということ。
大友皇子の正妃は十市皇女(天武天皇皇女)、妃は藤原耳面刀自(藤原鎌足女)という。歴代、乱脈であり、皇室というのはおぞましい。
弘文は明治3年に天皇となり、明治10年に御陵が治定される。
明治維新後、天皇という「玉」を手中にした帝国権力者は「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ 神聖ナル祖宗ノ威徳 万世一系ノ天皇 皇位ハ皇男子孫之ヲ継承ス」などという国家神道を国の統治方針とする。
皇宗ノ遺訓・神聖ナル祖宗ノ威徳・万世一系ノ天皇・男系男子の皇位継承・・など全てが実体のない嘘としか思えない。
しかし、それをいまだに説教する国家神道を捨てられない勢力が跋扈しているのがこの国の現状であろう。
しかも、彼らは、自らはアホでないから信じてはいないが、権力で押し付けようとするが故に、なおさら悪質である。
今般、その親玉を「国葬」にすべきと画策する腹黒な奴がいるのが、我が「帝国」の昨今(2022年9月)である。
 北大路御霊社鳥居     北大路御霊社舞殿     北大路御霊社本社     北大路御霊社本殿


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