近  江  百  済  寺  五  重  塔  跡

近江百済寺五重塔跡

近江百済寺五重塔跡

2001/10/07:
五重塔跡は現本堂の背後の裏山に登り、現本堂背後の旧金堂跡と推定される平坦地から数10m(凡そ120mとも)南の附近、つまり現本堂に向かって右奥の裏山に保存されている。
現状樹木は伐採され、土壇の四辺と推定される部分が土嚢で固められ、四天柱礎、脇柱礎がほぼ完存する。
また、この塔跡とは別に
心礎(創建時の心礎か?)が塔跡土壇から数m離れて残置されている。
五重塔跡は標高380m(総門は255m)にある。昭和27年塔跡が発掘調査される。

「日本の木造塔跡」:
心礎は塔跡から西南に寄ったところにある。
大きさは1.5×1.0m、中央に径49cmの浅い孔(深さは最大で3cm)があり、さらにその中央に一辺13cm深さ4.5cmの舎利孔がある。
 瓦が出土せず創建の時期ははっきりしないが、白鳳期の創建、平安期に再興、2層の焦土層が見られることから鎌倉期にも被災、
その都度再興されるも再び焼失と推定される。
側柱礎中、西側両端および東南角の礎石には枘孔がある。塔の一辺は5.4m。
塔跡の地下約70cmのところから、鎌倉期と推定される舎利壷(舎利は亡失)が発見されたという。
当初の舎利容器が再建の際、損傷したのでこの舎利壷に収められたと推定される。
側柱礎中西側の両端と東南隅の礎石は枘孔を持つ。塔一辺は5.4m。
なお現本堂は一段下の平坦地に再興されている。
  近江百済寺塔跡1    同       2    同       3
  近江百済寺心礎1    同       2    同       3     同   塔跡遠望

2007/11/18撮影:
本堂裏山の堂塔跡に行くには、本堂の左右からの2本の道がある。しかし現在このどちらの道も寺院により「立入禁止」とされる。(危険)

現状、塔跡に至る道も堂跡・五重塔跡も荒れつつある。
心礎は塔跡土壇から北西(「日本の木造塔跡」では西南と記載)に5〜6m離れて、残置されている。
心礎は「崖上のかなり危険な」位置にあり、崖の崩落などが無ければ・・・と懸念される。
近江百濟寺塔跡11   近江百濟寺塔跡12:やや荒れつつある 。
近江百濟寺塔礎石11   近江百濟寺塔礎石12

近江百濟寺心礎11
  同       12
  同       13
  同       14:左図拡大図
  同       15
  同       16

近江百済寺舎利壷

「MIHO MUSEUM」のページに以下の情報がある。

舎利壷は五重塔跡の心礎位置から昭和26年に発掘される。信楽焼で高さ21cm、径19cmの大きさと云う。
壼中にはガラス粒が入れられており、舎利容器として埋められたものと思われる。
従来塔が鎌倉期の建立といわれるため、舎利壷も鎌倉期とされていた。
しかし記録によれば、4回百済寺は焼亡し、その内、塔は明応7年(1498)と文亀3年(1503)の2回焼失し、また塔跡の発掘調査では上層の焼土層から出土しているため、文亀3年再興時のものと考えるのが妥当であろうとする。

また昭和26年の発掘時の記録が残され、その記録の全文は以下と云う。

「塔跡から 壼の出現 昭和26年        佛舎利壼出づ
釋迦山百濟寺開帳を昭和26年4月12日より4月28日まで一週間相営む計画の基に昭和25年末漸く「百濟寺案内」を作り26年始、八寸角桧材長さ一丈五尺に「聖徳太子御尊創當時之五重塔跡」の文字を、坂本の書家板倉宗悦氏の揮毫で(3月10日夕陽沈む刻)成り、3月13日(大工川上亀吉)藤澤外次郎、藤澤喜藏、川瀬利一郎、山本佐太郎その五重塔跡へその標柱を建てやうと思つて、礎石西面四個、南面三個、北面三個を基準にして其の中央を掘る 
地中面より推定約1尺5寸掘ると平面の石ありそれを外次郎氏が除くとそれは壼の蓋であつて壼の中が見えた,中は水がたまり土が壼の中に約半分積る、周りを大切に土を除いて壼を地上に出すと幾つかに割れてある
形をこわさず佐太郎は両手で恭しく捧げて静々と山を下る
本坊に保存し翌14日法印様(濱中光哲)と私(山本佐太郎)二人、法印様は壼に水をかけて土を除かれ、私は壼中の土を少しづゝ洗面器に入れて水を注いで濁り水を流し、又水を注いでは濁り水を流してたへず注視してゐると ルリ色の(大きさ御飯粒位)鑛物が現れ残る、法印様はそれを清洗いして三寶に載せる。又壼中の土少量を洗面器に入れ水を注ぎ……繰返し・・して得たものは
  1、瑠璃色の御飯粒大 数個
  2、ガラスか黄寶石か水晶かと思はる  御飯粒大 拾数個
  3、純金ゴマ粒大 壱個
          右合計20個
3月17日滋賀縣廳美術館宇野技師(考古學者)釋迦山のミロク菩薩を返へしに来訪され、発掘物を御覧、宇野師は本日は近頃にない大収穫追つて後程學界に發表すると話され冩眞に、壼、壼の台石、壼の蓋石、計参点撮影さる
  1、壼は信楽焼初代焼、鎌倉時代初期のもの
  2、壼の中の貳拾個のものは荘厳具といって信仰の対象物だと
  3、鎌倉時代と断定さる  土中からの発掘物は近江国では珍しい石山寺に此時代のものが掘り出された
               と宇野技師は補足された
昭和26年4月 釋迦山信徒惣代の一員
   山本佐太郎認む
 (箱内に収められている発掘記録文書より)」

※以上の記録によれば、塔跡の中央を掘ると云う。中央を掘るに、心礎のことには全く触れられていない。
このことは、おそらく既に心礎は塔跡の外に搬出され、塔の中央には無かったものと推定される。
※「(箱内に納められている発掘記録文書)」とは意味不明であるが、おそらく舎利壷を収納している「箱」に記録も収納されているのであろう。
以上の記録によると、心礎位置の地中から、舎利壷が出土し、舎利壷には「舎利」が納められていたと云うことであろう。
心礎は既に塔跡中心には無く、元々心礎の存在しない塔であったか、心礎はあったが何等かの事情で亡失したか、搬出されたかであろう。
幸いにも塔跡遺構のすぐ近くに1個の心礎が放置されている。この心礎を如何に解釈すべきなのか。
恐らく、この心礎は創建時の心礎であり、鎌倉期の塔再興の時に、塔跡から搬出・放置されたものと解釈するのが最も自然であると思われる。

▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。

百済寺概要

推古天皇14年(606)聖徳太子御願にて創建と伝える。
あるいは高麗僧慈恵と百済僧道欣によって建立とも云う。
 ※聖徳太子が百濟人のために創建し、その当時の本尊は太子自作の「植木の観音」と伝える。
(「近江愛智郡志」では本堂附近で白鳳期の布目瓦出土と云うも、現在は現存せず、確認できないとされる。)

平安期に天台宗に改宗し、鎌倉、室町期には残存する坊跡などから強大な勢力を持ったと推定される。
鎌倉期には五重塔建立と推定される。
寛治元年(1089)安曇川・北船木若宮神社大般若経銘:百済寺東谷隆昭の本願との記録がある。・・・最古の文献史料
天養元年(1144)天台宗に改宗、「東寺観智院文書」:百済寺天台別院と号す。
建暦3年(1213)「華頂要略」では比叡山無動寺末となると記す。
明応7年(1498)失火により五重塔等主要伽藍炎上。
 ※明応の勧進状では
 本堂(七間四面)、常行三昧堂、阿弥陀堂、太子殿、五重塔、一切経蔵、二階堂、大聖院、五大力堂、愛染堂、長徳院、三所神殿、鐘楼、楼門、廻廊、其外悉回録・・・ とされる。
 (東谷薬師堂、西谷曼荼羅堂、南谷阿弥陀堂、閻魔堂、北谷地蔵堂、東西南北の谷の300余坊は残ると云う。)
文亀3年(1503)伊庭貞隆の乱で五重塔等寺坊までも全焼。荒涼人影を留めずと形容される。
 七間本堂、五重塔、太子殿、常行堂、三所神殿、二階楼門、十禅師宝堂、其外寺中僧房・・焼亡・・・
文亀の被災では、まだ再興し得る力があり、伽藍は再興される。
元亀4年(1573)織田信長と六角義賢との戦闘で、城塞化した百濟寺は信長により火を放たれ、悉く焼亡烏有に帰す。
天正3年(1575)千手坊、岩本坊、実相坊、光浄坊等帰山仮堂を建立、同4年東谷蓮池坊、西谷是明坊、北谷西明寺、南谷定蔵坊、西谷勝泉坊が帰山。
 ※しかし、安土城築城にあたり、百濟寺の寺坊の石垣は多く持ち出され、安土城石垣・礎石に転用されると云う。
天正12年(1584)堀秀政により仮本堂再興。
慶長7年(1107)146石余の寺領安堵。
慶安5年(1652)現伽藍の本堂・仁王門・山門が再建。(天海大僧正弟子亮算が入山し復興する。)
享保年中四谷の坊舎は37坊、僧60数名と云う。
慶応元年(1865)坊舎は喜見院ほか5坊と云う。
明治維新の上地、及び神仏分離で坊舎の僧は山を去り、坊舎は廃棄される。日吉十禅社・八幡社・白髭社・大行事社は分離される。
 (維新後、岩本坊・一乗坊の記録は残る。)
明治36年本坊喜見院住職が逝去し、長く無住となる。(その後は金剛輪寺住職が兼務する。)
昭和初期住職が入山、喜見院を現在地に移築し、現在は喜見院1坊で護持する。

2001/10/07撮影:
昭和59年の調査では275の坊舎跡を確認と云う。
百済寺 坊跡図:坊跡図(現地の案内板を撮影)    同    坊跡

2007/11/18撮影:
近江百濟寺仁王門11  近江百濟寺仁王門12:仁王門右石垣は喜見坊跡(昭和15年本坊喜見坊は現在地に移転と云う) 。
近江百濟寺本堂11   近江百濟寺本堂12  近江百濟寺本堂13
  :本堂は平成16年重文指定、桁行五間梁間六間、入母屋造、正面中央軒唐破風を付設付。
近江百濟寺参道11   近江百濟寺参道12:参道左右 には石垣で構えた多くの坊舎跡を残す。
百濟寺本坊喜見院:この百濟寺も明治維新でほぼ壊滅し、現在では喜見院1坊が護持する。

2008/09/19追加:
坊跡は文献史料では北から北要害、北谷、南谷、東谷、西谷、南要害とされる地に立地する。
○「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006
 近江百済寺概略図:北要害、北谷、南谷、東谷、西谷、南要害に300近い坊舎・堂宇遺構の平坦地を残す。
    なお、最高所(図の東端)に五重塔跡・その北西に心礎を残す。
○「百済寺遺跡-近江湖東天台寺院の変遷」嶋田直人(「月刊文化財 Vol.518」、2006/11 所収)
 近江百済寺境内図:上記「近江百済寺概略図」と同一、但し絵図の左が北で、上は東である。
 近江百済寺五重塔跡:心礎を除き、四天柱・脇柱が完存する。一部束石とも思われる礎石も見える。
○滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
 近江百済寺五重塔跡2:上記「近江百済寺五重塔跡」のカラー写真


2006年以前作成:2008/09/19更新:ホームページ日本の塔婆