近 江 己 高 山

近江己高山・近江己高山観音寺跡・近江己高山及び一山諸廃寺

近江己高山観音寺(鶏足寺)跡

この項は主として
サイト:滋賀県立大学 人間文化学部教授 高橋美久二(考古学・歴史地理学)のホームページ
 →研究室の調査活動 己高山山岳寺院の調査 を要約 し、図版を転用する。
2010/02/06追加:
あるいは、上記サイト内容(文面・図版)の「報告」は次の調査報告書に掲載がある。
「己高山鶏足寺第1次測量調査(平成11年度)」及び「己高山鶏足寺第2次測量調査(平成13年度)」(いずれも「木之本町遺跡分布調査集成」木之本町埋蔵文化財調査報告書、2006年 所収)

己高山は、伊吹山地の一支峰で、伊吹山(1377m)から北西15kmの位置にある。標高は923m。
己高山々頂よりほぼ西にのびる尾根をやや下った南側斜面に位置する。観音堂跡といわれる基壇と礎石、塔跡がある広い平坦面を中心にいくつかの平坦面が存在する。
鶏足寺跡とよばれている場所は、己高山山頂寺院の中枢部分と思われる広い平坦面をなす。ここでは、観音堂跡とよばれる建物跡を中心にいくつかの平坦面、基壇や礎石及び庭園跡などの遺構が残る。
本堂は昭和8年冬期不審火により焼失、そのため鶏足寺は山下の廃飯福寺の地に下山し、この地を鶏足寺として再興したと思われる。

「己高山縁起」<応永14年(1407)奥書>では
行基によって開基、泰澄が行をおこなう道場を建て、最澄によって再興されたとする。
再興本堂は三間四面で、その他十社権現、八坊の僧舎があったと云う。
さらに「惣山之七箇寺」として観音寺を筆頭として法花寺、石道寺、満願寺、安楽寺、松尾寺、円満寺があったとする。
その後荒廃していた己高山は、応安七年(1374)頃から復興が始まる。
永徳元年(1381)本堂再建供養、その時には、本堂の他鎮守社、食堂、楽屋、如法経堂、鐘楼、塔、西之坊、温屋、一切経蔵があった。
 ※食堂は11間の建物、楽屋は鎮守に対面し10間の建物。左の岡に鎮守社壇を安置し十所権現となす。右のほとりに如法経堂、南に鐘楼一層、東に塔婆一基を造る。西には坊舎(西之坊)、巽に温屋を建つ。艮の壇上に一切経蔵を造り、経論五千巻を納め薬師三尊像を安置する。
◇「興福寺官務牒疏」<応永14年(1407)奥書>では
己高山五箇寺 在伊香郡
 法華寺 僧房102宇衆徒50口 行基早創
 石道寺 僧房38宇衆徒20口 延法上人開基
 観音寺 僧房120宇衆徒60口 泰澄開基 己高山随一
 高尾寺 僧房12宇 観音寺に属す
 安楽寺 僧房12宇
  観音寺別院:飯福寺 鶏足寺 円満寺 石道寺 法華寺 安楽寺 とする。
※己高山五箇寺と観音寺別院とは一部寺院が重複するが、その重複を除けば、己高山には8ヶ寺があったと思われる。

今般の調査(2000年度)は東西110m、南北70mの範囲が対象とされる。
※寺域はこれ以外にも四方に広がると想定されるも、伽藍中心部と思われる範囲に調査は限定された。
ここには12の平坦面(A〜L)と基壇と礎石が露出し、8棟(SB01〜SB08)の建物跡と確認できる遺構がある。

 ※2010/02/18追加:「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による創作(椿井文書) の可能性が大であり、全面的な信頼をおくことは出来ない。
 慎重な史料検討が必要であろう。以下にも「牒疏」の引用があるが、同様。

己高山測量図と建物推定及び遺構の概要

建物跡推定
SB01:永徳元年(1381)再々建された三間四面の本堂(本尊十一面観音)と推定される。観音堂伝承地。
SB02:多宝塔跡(本堂の東にある、釈迦を安置)と推定される。これが「己高山縁起」の永仁年間に建立された塔であったかどうかは不明。
SB03:左の丘の上にあり、伊香具坂神社(麓に下りて現存する)と規模が一致する。
SB04:与志漏神社境内に現存する経蔵と規模が一致する。
SB05:基壇や建物規模は不明であるが、「己高山縁起」に本堂の南にあるとする「赤銅洪鐘」を釣った鐘楼であろう。
SB06:建物の棟数・規模・構造など不明。地元では本坊と云い、復元図では中之坊とする。
SB07:倉庫と思われるも、復元図では池本坊とする。
SB08:地元の伝承も復元図も食堂とする。食堂は11間とするので、この平坦面にあった蓋然性は高いと思われる。
 ※一切経蔵(文永7年<1270>建立・供養、本堂の艮にあるとされる<「己高山縁起」>)の位置は確定できなかった。
 ※本堂など己高山山頂の主要伽藍は「己高山縁起」の永徳元年(1381)本堂再建供養時の記録とほとんど一致する。
  それ故、現在の己高山山頂遺構は中世の己高山伽藍遺構と推定される。

平坦面概要
 ◇平坦面A:最大規模。東西43m南北34mで、東西に2棟の建物跡がある。
西側(SB01)は観音堂跡と呼ばれる基壇と礎石がある。基壇規模は9×9mで、礎石の並びは三間×三間、基壇の縁に縁側がくる。 亀腹構造の故に側柱しかないと思われる。柱間は東西方向が中央間2,4m・両脇間2.1m、南北方向は各間2.0mを測る。さらにこの基壇の南側3mほどの所に、かつての基壇と思われる石積みがある。これは基壇及び礎石の向きと一致していない。
  己高山観音寺本堂遺構
東側(SB02)にも基壇と礎石がある。基壇は東側に石がないため東西は不明、南北は9mと推定され、心礎はないが四天柱礎石が露出し側石も7個確認でき、礎石の並び方から塔跡と考えられる。柱間は中央間2,7m・両脇間1.8mの方形である。
  己高山観音寺塔遺構
現在、平坦面Aにはハイキング用の道が東西に貫き観音堂正面・塔を通る。西側には下段の平坦面への道がある。東側は己高山頂上へ続く道となる。中央部北側には一段高い平坦面に行くための通路と階段がある。
 ◇平坦面B:平坦面Aの北西隅にわずかばかり高くて小さい平坦面。東西14m南北8.5mで、礎石はない。
 ◇平坦面C:Aの北側上段にある、東西35m南北8mの細長い平坦面である。石積み基壇が平坦面の西側と中央に二基ある。
中央の基壇(SB03)の規模は東西3.9m南北4.1mで中心に「伊香具坂神社之旧跡」という石碑が立ち、礎石などが残る。建物は東西2.7m南北1.8mでその東西と南に幅0.5mの縁側がつく。一間社流造社と推定される。
西側の基壇(SB04)は、SB03とくらべてやや小さく基壇の東側が崩れている。基壇規模は東西3.8mで南北3.3mで、礎石はない。平坦面の西隅に別の平坦面に行く北にのびる道があるがその先はブッシュで測量不能。
 ◇平坦面D:Aより西に下ってすぐ南側にある。東西9m南北16mで南側にSB05の基壇の石積が南東隅から南西隅まで残る。基壇の南側の長さは4.8m、礎石が一個残存する。
 ◇平坦面E:Dより西にやや下がった所にある。東西19mm南北19mで基壇及び礎石と思われる石がある。この礎石建物SB06の礎石の並び方は不明である。さらに西側の下にも平坦面が見える。
 ◇庭園F:GとEの間にある。東西4m南北16mで、中央に石をつんだ中島(中心は大きな石)があり、周りを石で囲む。滝口が北側と東側の二ヵ所あり、東側の滝口からは現在でも水が西へ流れている。
 ◇平坦面G:Fの北側にあり、東西12m南北14.5mで、ほぼ中央に礎石建物SB07がある。二間(各間1.8m)×三間(各間1.8m)の並びになる礎石が10個ある。
 ◇平坦面H:Gの東側にあり、Gよりやや高い。東西4m南北13mで、礎石はない。
 ◇平坦面I:Gの西側にあり、Gよりやや高い。東西3.5m南北7mで、礎石はない。
 ◇平坦面J:Dの南東、Aの南側にあり、東西22m南北12mで、平坦面の東部がほんの少し高くなってSB08の礎石がならぶ。少し高くなっている範囲は東西9.5m南北12m。礎石は南北方向に五間以上並ぶようで、東西方向は不明。
 ◇平坦面K:Jの東にある。Jよりやや低い。東西11m南北8m。
 ◇平坦面L:Jより少し南に降りた所にある。東西27.5m南北9mで礎石はない。ここより南西の斜面は緩やかになっている。

 2008/09/30追加:
 「己高山の歴史と文化」古橋歴史文化保存会/編・刊
    (平成6年度文化財愛護活動推進方策研究委託事業)、リーフレット(4ページ構成) より:


「己高山鶏足寺鳥瞰図」として掲載の「絵図」を転載。

この絵図は古絵図を掲載(堂舎名称は新規に書入)したものなのか、あるいは絵自体を新規に作成(この場合も古絵図の下敷の有無あるいは文献の有無なども不明)したものかは全く不明。
しかしながら新規に作成した偽古絵図であるとしても、古絵図としての雰囲気がありかつ堂宇・坊舎の配置もかなり正確と思われ、かっての己高山観音寺(鶏足寺)を彷彿とさせると思われる。

 ○己高山鶏足寺鳥瞰図:左図拡大図

参考文献として、以下が掲られる。
(1)宇野茂樹「己高山文化圏の宗教彫刻」(『近江路の彫像』雄山閣出版、1974)
(2)高梨純次「小説の舞台の仏たちー鶏足寺と渡岸寺の古仏たち」(松島健編『仏像を旅する=北陸線』至文堂、1989)
(3)高梨純次「滋賀・鶏足寺の木心乾漆十二神将立像について-その制作年代の推定-」(東京国立博物館美術誌『MUSEUM』437、1987)
  高梨純次「己高山」(木村至宏編『近江の山』京都書院、1988)
(4)『伊香郡志』上巻(江北図書館、1952年)
(5)太田浩司「滋賀県伊香郡木之本町『古橋区有文書』の伝来と特徴について-己高山諸寺院の歴史と相伝文書-」
  (福田栄次郎編『中世 史料採訪記』ぺりかん社、1998)

2008/12/01追加(2008/11/23撮影)

己高山伽藍図(現地説明板):下図拡大図

●己高山多宝塔跡

己高山多宝塔跡1:ほぼ西方向より撮影 、画面中央が塔跡
 同  多宝塔跡2: 同 上、S1とS4との間に写真中央の木がある。
 同  多宝塔跡3;ほぼ北方向より撮影
 同  多宝塔跡4: 同 上、写真右下から左上に4個の礎石が
    黒い円形で並ぶが、手前から礎石G1、S1、S3、G4である。
 同  多宝塔跡5: 同 上、写真手前中央はS1、左やや上方は
    S2、上方中央はS3、S3のすぐ上はG3である。
多宝塔四天柱礎石1:S1
  同        2:S2
  同        3:S3

※積雪のため、礎石の確認が十分できず、礎石の誤認の可能性あり。
※左図「己高山測量図」では中央間270cm、両脇間180cmとあるが、実測の結果は中央間およそ250cm、両脇間およそ200cmを測る。

 己高山本堂跡1:正面より     己高山本堂跡2:背後より      己高山本堂跡基壇       本堂平坦地法面:庭園 跡付近から撮影
 伊香具坂社前石階         伊香具坂社基壇           己高山経蔵基壇
 食堂跡平坦地:本堂平坦地から見下ろす                  東谷坊舎跡平坦地:本堂平坦地から見下ろす
 庭園・池本坊?跡            己高山庭園跡            本坊(中ノ坊?)跡:庭園跡付近から見下ろす

2009/05/13追加(2009/05/02撮影)
                              ○己高山山容:尾山の南付近から撮影
 

己高山多宝塔跡11:西北(十所権現跡付近)より :左図拡大図
己高山多宝塔跡12:西より
己高山多宝塔跡13:西南より
己高山多宝塔跡14:写真中央付近が多宝塔跡、東南(東谷坊舎跡P上方)より
己高山多宝塔礎石10:礎石G7(左)と礎石S4
己高山多宝塔礎石11:G1
己高山多宝塔礎石12:G7
己高山多宝塔礎石13:G6
己高山多宝塔礎石14:S4
己高山多宝塔礎石15:S1
己高山多宝塔礎石16:S2
己高山多宝塔礎石17:S3
己高山多宝塔礎石18:G3

己高山本堂跡11:正面より
己高山本堂跡12:礎石
己高山本堂跡13:東北(十所権現跡付近)より

 本坊(中ノ坊)跡?11       本坊(中ノ坊)跡?12     己高山庭園跡
 己高山鐘楼跡?          己高山食堂跡?        己高山食堂跡?礎石        己高山経蔵跡基壇

 己高山十所権現前石階     己高山十所権現基壇:十所権現(明神)は現在では伊香具坂神社と改号する。

 己高山六地蔵:地蔵院跡とも云う     己高山西尾坊跡?     己高山東谷坊舎跡

2010/02/06追加:
○己高山鶏足寺之景:「名蹟図誌近江宝鑑上巻/伊香郡」明治30年 所収
 己高山鶏足寺之景:明治29年の己高山山上には本堂・宝蔵・鎮守の残存する様が描かれる。


己高山関係諸寺概要

己高山関係地図:左図拡大図

2009/05/02追加:
南側尾根上に廃高尾寺に至る分岐と踏分道は確かに存在する。
しかし、その踏分道は細くかつ急坂と推定される。
今般は、分岐を廃高尾寺に至る踏分道を採らず、西進する。
従って、廃高尾寺跡には至らず、廃寺跡の状況は不明のまま。

己高山山容:尾山の南付近から撮影
 2009/05/02撮影・上に掲載

◆己高山法華寺
 神亀3年(716)行基の開基、「興福寺官務牒疏」では「法華寺 僧房102宇衆徒50口 行基早創」とあり、また「惣山之七箇寺」の一つであった。天台宗、本尊薬師如来。法華寺薬師如来立像・乾漆十二神将立像(重文)は己高閣に安置。
なお石田三成が修行したと伝える三珠院は当寺々中であった。
元禄9年(1696)「古橋村寺社差出帳」では本堂・薬師堂・権現社・弁才天社・子院4ヶ寺、山城醍醐寺報恩院末と云う。
明治の神仏分離で住職還俗し廃寺、現在は本堂跡に伊波多岐神社(祭神保食の神)が建つ。伊波多岐神社とは明治初頭の改作であろう。
 ※上記の記録から、江戸期にはある程度の寺観を残し、明治維新まで存続したと推定されるも、神仏分離で廃寺となる。
2008/11/23撮影:
 己高山法華寺参道:この参道左右に多くの坊舎の石垣・平坦地を残す。
 法華寺坊舎跡1     法華寺三珠院跡
 法華寺坊舎跡2:坊舎屋敷跡はかなり広いものが多く、ある意味結構な構えであったと推測される。
2010/02/06追加:
「法華寺跡」(「木之本町遺跡分布調査集成」木之本町埋蔵文化財調査報告書 、2006年 所収)より
山門跡から本堂跡に約140mの参道があり、その東西に子院跡を残す。参道西側には5段の子院跡の平坦面を残し、その奥にも幾つかの平坦面を残す。本堂下西側は三珠院跡(間口9.9m、奥行67.7m)と伝える。東側にも5段の平坦面の残す。さらに東にも平坦面は広がる。
東西の大谷川に沿っても、およそ300mに渡り、平坦面が見られるも、これ等全てが子院跡かどうかははっきりしない。
なお平坦面の多くは植林がなされる。本堂跡には7×13mの石積基壇が残る。本堂跡平坦面の大きさは34×29mを測る。
 法華寺境内概略図:「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008)  より

◆己高山高尾寺
 「興福寺官務牒疏」では「高尾寺 僧房12宇 観音寺に属す」とある。
 旧石道寺の北方山中に廃寺跡があるとされるが、情報が殆ど無いため、詳細は不詳。
大正3年旧石道寺と石道観音堂(旧高尾寺)が合併し、新石道寺として現石道寺が建立される。
 2009/05/14追加:「高時村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・高尾山は己高山に西南にありて高尾寺及び神前神社の社の址等あり。
・観音堂(石道):
神亀元年行基菩薩此地に来り高尾山に登り神前大神を崇敬し・・・伽藍を建立し紅葉山高尾寺と号し・・・延暦年間伝教大師・・・伽藍を再興・・・神前杉の傍らに一坊を建て杉本坊と名けらる其れより神前坊龍禹坊不動坊岩本坊東谷坊西谷坊池本坊瑞光坊等の坊舎を興隆し・・・当山号を己高山と改称し賜ふ・・・・
文明12年大雪の為に堂舎倒壊す且つ従来氏子は字高尾山の麓に居住せしに明応7年に至り悉くこの地に転じ・・・明応9年神仏共高尾山を下し奉り堂舎を建立しこの赤谷に安置し旧名を以て己高山高尾寺と唱へ来たりしも維新の際寺号を廃し且つ神仏混交ならずとの御趣意に基き明治23年願済の上字向山に移し観音堂と称す。
 ※この観音堂(石道)は山下の旧高尾寺を云う。
・高尾寺の旧地(石道):
高尾寺旧地は大字石道字三谷山に属する小字高尾山神前谷と称する平坦地に本堂鎮守の社址行者屋敷その他坊舎の跡所々散在す神前坊龍禹坊杉本坊不動坊岩本坊東谷坊西谷坊池本坊瑞光坊等の古跡あり。
2010/02/06追加:
○「木之本町遺跡分布調査集成」木之本町埋蔵文化財調査報告書 、2006年 より
標高480m付近に東西約35m、南北約70mに渡り8個の平坦面が確認できる。北西の平坦面には石積基壇(西及び北の石積は消滅)が残り本堂跡と考えられる。この基壇上には礎石と推定される石が3個残る。基壇の大きさは8.7×8.0mである。
平坦面西側に逆杉(幹回7.8m)と小祠が残る。
 高尾寺概要図
2010/02/06追加:
○廣峯神社及観音堂之景:「名蹟図誌近江宝鑑上巻/伊香郡」明治30年 所収
 廣峯神社及び観音堂之景:出版年から見て、明治30年前の景観と思われる。当時、廣峯神社(現在は神前神社と号する)社殿と観音堂(高尾寺)・鐘楼・物置があり、高尾寺は命脈を保っていた様が描かれる。
廣峯とは「行基が高尾寺の創建に当り、牛頭天王の像を刻み、鎮守とする」とあり、牛頭天王社つまり廣峯社としたものであろう。明治の復古神道により、牛頭天王号は停止・素戔嗚が祭神とされ、廣峯の社名が適当に付けられたものであろう。
また「明治の朝、寺号を廃し、字手向山に遷せり」とあり、明治初頭山下(手向山)に遷り、観音堂と称する。
上述のように、大正3年旧石道寺と石道観音堂(旧高尾寺)が合併し、現石道寺が建立され、このことによって、旧高尾寺堂宇(観音堂)は廃されたものと推定される。
高尾寺は鎮守とともに己高山中に創建されるも、中世には衰微・倒壊し、山下(赤谷、赤谷?とは現神前神社地か?)に再興される。
明治の神仏分離で高尾寺は廃号、鎮守は神前神社(廣峯社)と改号、更には大正3年石道寺との合寺で、旧高尾寺観音堂も廃堂となる。
 ※現神前神社の地は未見であり、現地の現状は不明、しかし「石道古墳群遺跡」図に示される概略図では、参道(2本)、社前の石垣、本殿、祠と観音堂阯が残るものと推測される。

◆己高山石道寺
神亀3年(716)延法上人の開基と伝える。延暦年中(782-805)に伝教大師により再興。
「興福寺官務牒疏」では「石道寺 僧房38宇衆徒20口 延法上人開基」とある。また「惣山之七箇寺」の一つであった。
文和3年(1354)京都護国寺源照が伽藍・36坊などを再興し、真言宗豊山派となる。
明応年中(1492-)己高山中から山下に移転すると伝える。
山下の石道寺は明治維新まで寺門を維持したが、明治27年仁王門焼失、明治29年山津波で庫裏が流失、無住となる。
大正3年石道観音堂(旧高尾寺)が合併し、新石道寺として現石道寺が建立される。(旧高尾寺は上項の「高時村誌」を参照)
旧地には山門跡・礎石などが残ると云う。
本尊:木造十一面観音菩薩像(石道寺像・重文・平安後期)、木造持国天立像(重文)、木造多聞天立像(重文)、木造十一面観音(高尾寺像・平安中期)などの仏像を残す。
2008/11/23撮影: 己高山石道寺現本堂
2009/05/02撮影: 己高山石道寺現本堂2:明治2年再興、大正3年旧石道寺より移建。
 石道寺山門跡:夏草に覆われるも、中央は石階が残り、左右には人の背丈ほどの石垣を残す。ここに山門(どのような形かは不明)があったものと推定される。
 石道寺本堂跡:山門跡すぐに本堂があったと思われる平坦地がある。ここには「己高山石道寺舊址之碑」がある。(写真中央に碑が写る、但し 碑文は殆ど読めない。)付近には墓石などがあると云うも分からない。礎石などの残存も夏草が茂り、良く分からない。
 2009/05/14追加:「高時村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・石道寺:
古昔泰証法師自ら十一面観音の像を彫刻し岩窟の石上に安置す後神亀3何行基菩薩堂宇を建立し延暦年間伝教大師・・・坊舎伽藍を建立し己高山石道寺と号し賜ふ・・・
2010/02/06追加:
○「木之本町遺跡分布調査集成」木之本町埋蔵文化財調査報告書 、2006年 より
「石道寺跡」:「己高山石道寺舊址之碑」(碑は昭和17年建立)には明治28年大水害で廃寺となるとある。
現在、山門跡と17の平坦面を残す。山門跡はコ字型の石積基壇を2個残す。東奥平坦面には本堂跡基壇(東西10,6m、南北10.8m)と礎石は11個確認できる。建物は3×3間で側石(束石?)が付く。本堂の北東には川により北東部分が削られているが、9.3×9.2m高さ3.9mの巨大な石垣を残す。南の平坦面に鐘楼跡といわれる石積基壇(10.6×3.6m)と基壇上に2個の礎石(礎石間隔は2.8m)を残す。
 石道寺跡概要図

◆己高山飯福寺(木之本町古橋):己高山上の鶏足寺が下山し、現在は鶏足寺と称する。
飯福寺は、神亀元年 (724)行基の開基と伝え、延暦18年(799)最澄が再興すると云う。「興福寺官務牒疏」では観音寺の別院とする。
延徳年中(1489-)法印実盛上人により中興。
近世には京極、浅井、豊臣、徳川氏の庇護を受ける。
元禄9年(1696)「古橋村寺社差出帳」では本堂・薬師堂・権現社・宝寿院・金剛院など5塔頭があったと云う。
現本堂は正徳3年(1723)、護摩堂(五大堂)は享保17年(1732)の建立。
明治元年薬師堂本尊を飯福寺本尊とする。昭和初年廃寺。
中世及び近世(元禄9年には5坊)には多くの坊舎があり、今も大門から本堂に至る直線の参道左右に多くの坊舎跡を残す。
2010/02/06追加:
○己高山飯福寺之景:「名蹟図誌近江宝鑑上巻/伊香郡」明治30年 所収
 己高山飯福寺之景:明治29年ころには、本堂・鎮守・護摩堂・鐘楼、本坊(坊舎)・寺門・宝蔵・物置、宝寿院坊舎が残る様が描かれる。

2010/02/06追加:○飯福寺境内概略図

飯福寺境内概略図:左図拡大図:
 「忘れられた霊場をさぐる[3]」栗東市文化体育振興事業団、平成20年(2008) より

「飯福寺跡」(「木之本町遺跡分布調査集成」木之本町埋蔵文化財調査報告書 、2006年 所収)より
 明治期には己高山諸寺中唯一存続していた寺院であったため、己高山随一といわれた鶏足寺の名称を残すため、昭和10年代に改称する。その後無住になるも、現在も鶏足寺と云われる。
 堂舎の配置は、南北約150mの参道両脇だけでなく、参道東の更に東に3面の平坦面と2面の付属平坦面が残り、一山多院制寺院の一典型を示す。
大門跡の南東にも坊舎跡を思わせる平坦面があるが、坊舎跡が田畑に転用されたのかどうかは不明。
宝珠院跡には5×3間と思われる礎石と池跡が残る。
梅本坊・泉長坊の平坦面には礎石などは確認できず。

○飯福寺伽藍伽藍配置図

2010/02/06追加:
当図はメモ書程度のもので正確性を欠く。正確な図は上の「飯福寺境内概略図」を参照。

2009/05/14更新:
飯福寺伽藍配置図:左図拡大図

2009/05/02撮影:
 飯福寺坊舎跡1
 飯福寺坊舎跡2:参道左右に坊舎跡が残る
 飯福寺泉長坊跡     飯福寺金剛院跡1     飯福寺金剛院跡2
 飯福寺坊舎1跡      飯福寺坊舎2跡      飯福寺坊舎3跡
 飯福寺梅本坊跡     飯福寺坊舎4跡1     飯福寺坊舎4跡2
 飯福寺宝寿院跡:中央左は園池跡
 飯福寺閻魔堂跡1     飯福寺閻魔堂跡2
 飯福寺新井坊跡
 飯福寺護摩堂1      飯福寺護摩堂2      飯福寺護摩堂3
 飯福寺坊舎5跡1     飯福寺坊舎5跡2     飯福寺坊舎6跡
 飯福寺権現堂跡      飯福寺権現堂基壇
 飯福寺本堂1        飯福寺本堂2

2008/11/23撮影:
 飯福寺大門跡:背後左の石垣は泉長坊跡、右は金剛院跡
 飯福寺泉長坊跡       飯福寺金剛院跡        飯福寺梅本坊跡       飯福寺坊舎4跡
 飯福寺宝壽院跡1     飯福寺宝壽院跡2:坊舎建物の基壇が残る          宝寿院園池跡
 飯福寺坊舎4跡       閻魔堂跡基壇石垣
 飯福寺新井坊跡
 飯福寺護摩堂       飯福寺鐘堂跡
 本堂下坊舎5:本堂至る石階の向かって左の坊舎跡       本堂下坊舎6:本堂至る石階の向かって右の坊舎跡
 現鶏足寺本堂       飯福寺権現堂跡

2009/05/14追加:「高時村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・飯福寺:
飯福寺は天平7年行基菩薩の開基にして延徳2年実盛法印中興なり、当寺は小谷城主淺井氏3代の祈願所にして天正2年・・羽柴筑前守秀吉より境内山林除地御判物並に制札を受けたり、次て元和5年・・台徳院の御上意にて板倉伊賀守の御印書を受けたり。

◆己高山安楽寺:尾山釈迦堂・(白山神社釈迦堂)
 「興福寺官務牒疏」では「安楽寺 僧房12宇」と云い、「惣山之七箇寺」の一つであったと云う。
現在、安楽寺は全く衰微し、纔かに釈迦堂・鐘楼・白山神社と2躯の平安仏を残す。
参道奥に鐘楼があり、一段上にかなり広い伽藍平坦地を造りその中央奥に釈迦堂がある。鐘楼と伽藍平坦地の境の右手斜面に白山社がある。
 ※白山社の立地から見て、明治の神仏分離で安楽寺は廃され、鎮守社が白山神社と改号する捏造が行われたと思われる。 但し、破壊は行われず釈迦堂・鐘楼・仏像などが現在に伝えられたものと思われる。なお、白山社が明治維新まで白山権現であったかどうかは不明。現在白山社は覆堂の中にあり、詳細は分からない。
 ※釈迦堂は近年RC造に造替されたと思われ、釈迦堂の雰囲気を欠く。元の堂の情報はなし、釈迦堂の造替理由は不明、収蔵庫を兼ねると思われる造作である。
 ※平安仏2躯:釈迦如来坐像(重文・平安中期・檜一木造、彫眼、像高156cm )、金剛界大日如来(平安期・寄木造、彫眼、像高139cm )
2009/05/02撮影:
 己高山安楽寺釈迦堂     己高山安楽寺鐘楼
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・白山神社(尾山):
慶安元年の創立にして文政元年堂宇を再建せり
 ※近世の勧請とされ、浅い歴史しか無いものと推定される。
・釈迦堂(尾山):
元亀元年の創立なり

◆己高山満願寺:高野神社大師堂
 満願寺は「惣山之七箇寺」の一つであった。行基が薬師如来を刻み、堂一堂を建立したことに始まり、最澄が、 満願寺として薬師堂を建立・鎮守大山咋を祀ると伝える。
現在、古の満願寺の中心であったと思われる境内地の中央に薬師堂(己高山満願寺)があり、左の一檀上に大師堂、薬師堂前右に鐘楼を残す 。薬師堂右奥に斜面に高野社を残す。
 ※高野社の立地及び社殿の規模などから見て、この社は満願寺鎮守であったと思われる。明治の神仏分離で満願寺は廃され、鎮守社が高野神社と改号する捏造が行われたと思われる。 但し、破壊は行われず薬師堂・大師堂・鐘楼・仏像などが現在に伝えられたものと思われる。
 ※大師堂本尊は伝教大師坐像(重文・寄木造、彩色、玉眼、像高78.8cm、弘安6年<1283>院信mの銘を持つ)と伝える。しかし、尊容から 伝教大師ではなく元三大師とされる。
 ※鎮守大山咋とあるが、近世の復古神道は都合よく祭神を変更するので、大山咋であったのかどうかは不明。
 ※なお集落内には多くの堂宇に因む字を残すと云うも、不明。
2009/05/02撮影:・・・鐘楼写真は撮影を忘れる。
 己高山満願寺薬師堂:左に大師堂、右に高野社が写る。     己高山満願寺大師堂     己高山満願寺高野社
2009/05/14追加:「高時村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・高野神社:
・・・聖武天皇神亀元年の創立・・・何つの頃よりか神威衰え境内荊棘を生じ廃頽に及べり・・称徳天皇宝亀2年再興して旧に復せりと云ふ。
・薬師堂(高野):
薬師堂高野神社の傍にあり己高山満願寺と称す本尊薬師如来日光月光菩薩十二神将何れも行基菩薩の霊作なり
・・・伝教大師・・・己高山満願寺を本寺として己高山願超寺仝正観寺等の七堂伽藍及48坊を建立し玉ふ(現今の大字高野の宅地は挙て寺坊の古跡なり)猶大師自身の像を刻みここに止めて・・・
元亀3年織田信長淺井長政と攻戦の際本寺と高野神社のみ灰燼を免れ他の寺坊は悉く烏有に属す其当時社寺再建の際別に一宇を建て伝教大師自作の像を安置す然るに願超寺正観寺の2寺は再建するも転宗して浄土真宗に帰し大谷派の末寺となる(現存)
2010/02/06追加:
○高野神社及満願寺之景:「名蹟図誌近江宝鑑上巻/伊香郡」明治30年 所収
 高野神社及満願寺之景:明治30年前の景観であり、今のほぼこの当時の景観と堂宇を残す。薬師堂を本堂とし、高野社は鎮守である構図が瞭然であろう。

◆己高山円満寺:井口日吉社阿弥陀堂
 この地に円満寺があったと伝える。円満寺は「惣山之七箇寺」の一つであった。
現在、境内中央に日吉神社本殿があり、その右に粗末な一宇があり、己高山円満寺阿弥陀堂と号する。南に園池と鐘楼・梵鐘を残す。
 ※阿弥陀堂正面厨子に本尊阿弥陀如来、左に十一面観音と地蔵菩薩、右に日吉山王権現二十一社本地仏を安置すると云う。
 ※明治の神仏分離で円満寺は廃され、円満寺を日吉神社とする改竄が行われたとものと思われる。 但し、本尊・山王権現本地仏などは残存する。本堂あるいは阿弥陀堂は神社本殿に転用されたとも推測され、本尊・山王権現本地仏はその時、小宇を建立あるいは何らかの堂宇を流用 するなどをして、現在満願寺と号する阿弥陀堂とし、そこに残されたものと推測される。
 ※日吉山王権現二十一社本地仏が残存するので、円満寺には山王権現が勧請されていたものと思われ、そのため明治の神仏分離で円満寺は廃され、日吉社と改号されたものと推測される。
2009/05/02撮影:
 己高山円満寺本殿1     己高山円満寺本殿2
本殿は元文3年(1738)建立<棟札>、桁行3間?梁間3間・入母屋造・屋根茅葺・1間向拝付・外陣正面1間は吹放し・組物は出組・軒には支輪を用いる。唐様木鼻・中備には彫刻した蟇股を用い、内部天井は格天井を張ると云い、要するに本殿は仏堂であった可能性が極めて高いと思われる。以上のように、この本殿は満願寺の本堂あるいは阿弥陀堂などであったものと推測されるが、 情報が無く確認ができない。
(次項以降の保延寺白山社阿弥陀堂、持寺白山社、前項の己高山満願寺は神仏分離で寺院が廃され、神社が捏造されたのは同一と思われるが、この円満寺の場合のみは仏堂が本殿に改竄されたケースと思われる。)
 己高山円満寺阿弥陀堂:申し訳程度の堂宇一宇が今は己高山円満寺を称する。
 己高山円満寺鐘楼     己高山円満寺梵鐘:重文・寛喜3年(1231)銘
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・日吉神社(井口):
創立年紀を詳らかにせず明治9年村社に列せられたり
 ※以上の記事であり、要するに殆ど日吉社の実態が無かったということであろう。

◆保延寺白山社阿弥陀堂(保延寺は字名)
 保延寺に白山神社がある。かなり広い境内中央に仏堂(阿弥陀堂)があり、左に白山社、右に鐘楼を残す。
配置から推測するに安楽寺・円満寺と同じく元々は明らかに寺院である。
阿弥陀堂には三躯の阿弥陀坐像(中尊と右尊は室町期、左尊は江戸期と推定)を安ずと云う。
 ※推測するに、明治の神仏分離で寺院は廃され、鎮守社(元の祭神は不明)が白山神社と捏造されたものと推定される。但し仏堂・仏像は破壊を免れ、現在に残る。
なお、全く情報がなく、寺伝や己高山との関係は不明。
2009/05/02撮影:
 保延寺白山社境内:右は阿弥陀堂、左は白山社     保延寺白山社阿弥陀堂1     保延寺白山社阿弥陀堂2
 保延寺白山社鐘楼:阿弥陀堂左に鐘楼がある。
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・白山神社(保延寺):
創立年紀を詳らかにせず明治9年村社に列せられたり
 ※以上の記事であり、要するに殆ど保延寺白山社の実態が無かったということであろう。

◆保延寺観音堂(保延寺は字名)
 保延寺(字名)に小宇(観音堂)が残る。小字花寺から奈良期の瓦・古銭などが大量に発見されるといい、古代寺院があったとされる。
また保延という年号(1135-41)があり、あるいは保延年中に草創された寺院があり保延寺と命名されたとも考えられると云うが不明。
「己高山縁起」には「保延寺 阿弥陀」(伝教大師自刻と云う)とあり、保延寺は己高山の一山寺院とも思われる。
観音堂本尊千手観音立像を祀る。
2009/05/02撮影:
 保延寺観音堂: 現在ある堂宇は全くの小宇であり、由緒は不明。
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・大字保延寺:
延暦年中僧最澄此地へ来り保延寺と云う一宇を創立し給ふ依って村名を保延寺と名付けたりと云ひ伝へたり

◆持寺白山社(持寺は字名)
 持寺(字名)に白山神社がある。保延寺白山社阿弥陀堂と比べて境内は小さいが、保延寺白山社阿弥陀堂と同様に、仏堂(堂名不明)、仏堂の左に白山社、仏堂左手前に鐘楼を残す。
この配置は保延寺白山社阿弥陀堂と同じく、推測するに元々は寺院であり、明治の神仏分離で寺院は廃され、鎮守社(元の祭神は不明)が白山神社と捏造されたものと推定される。
2009/05/02撮影:
 持寺白山社仏堂(名称不詳)     持寺白山社鐘楼
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・白山神社(持寺):
宝亀2年の創立にして明治9年村社に列せられたり
 ※記事は以上であり、殆ど語るべき由緒がないものと察せられる。
・薬師堂(持寺):
古昔松鏡山長徳寺と号し僧最澄一宇を建立せしと雖元亀年中兵火に罹り其後再建せし?なし。
 ※以上から、上記仏堂とは薬師堂と推定される。最澄建立の長徳寺の遺構と思われる。

◆己高山観音寺(雨森)
 蔵座寺と号する。延暦年中伝教大師の草創と伝える。天正元年、兵火により灰燼に帰す。
明治12年本堂焼失、現本堂は明治14年再建と云う。本尊千手観音立像は再建時比叡山より勧請すると云う。
己高山と号することあるいは己高山周囲に位置する故に己高山との関係があったものと推定される。
 ※付近の寺院が殆ど神仏分離の処置によって廃寺、神社に改竄されたが、当寺にその影響が見られないのは鎮守社の勧請が無かったからなのであろうか?
2009/05/02撮影:
 己高山観音寺境内:(雨森)     己高山観音寺本堂:(雨森)
2009/05/14追加:「北冨永村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・観音堂(雨森):
延暦年中最澄の草創にして蔵座寺の本尊なりき・・・
天正年中淺井織田の軍が合戦せし時火を堂舎に放ち烏有となり漸次衰頽せり。

◆戸岩寺・与志漏神社
 戸岩寺は霊亀2年(716)の創建と伝える。本尊は薬師如来。往時は薬師堂・大日堂・観音堂・鐘楼・経堂・念仏堂などを備え、岩本坊・阿弥陀坊・開寿坊・真乗坊・道禅坊・長円坊の六坊があったと云う。明治の神仏分離で寺院は廃絶したものと思われる。
 現在、世代山戸岩寺薬師堂・大日堂・鐘楼・観音堂を残す。
 ※与志漏神社は現在薬師堂背後にある。本社などは瑞垣に囲まれ、それらしい造作が成されているが、昔から今の形式であったどうかは不詳。近世には「世代大明神」と称すると云う。
推測するに、本来は戸岩寺の鎮守的なものであり、戸岩寺山内に「世代大明神」祀られていたが、明治の神仏分離により、戸岩寺は廃され、神社として捏造されたものと推測される。 その時に与志漏神社と改号したものと思われる。
しかし神仏分離の処置の後も薬師堂・大日堂・鐘楼・観音堂などは残され、仏像も伝えられる。
現在己高山及び戸岩寺の仏像保存の観点から、境内裏横手に己高閣(昭和38年・己高山諸寺の文化財収蔵庫)・世代閣(平成元年・戸岩寺関係什宝を納める)が 建立、公開されている。
2008/11/23撮影:
 戸岩寺薬師堂1    戸岩寺薬師堂2    戸岩寺境内石塔:神社背後に多くの五輪塔・石仏類が集められるも詳細は不明。
2009/05/02撮影:
 戸岩寺大日堂1    戸岩寺大日堂2    戸岩寺鐘楼
 戸岩寺観音堂:薬師堂背後の丘上にある。小宇であるが、使用する柱は主要仏堂建築に用いられる円柱(貫穴が残る)残欠である。
推測するに観音堂はかっては堂々たる仏堂であったが、腐朽し近年小宇に造替され、その時旧堂の柱材が転用されたものと思われる。
 2009/05/14追加:「高時村誌」(「滋賀県伊香郡誌」滋賀県伊香郡教育会、明治36年 所収)
・世志漏神社 並に春日神社・八幡神社:
氏神春日明神並に世代大明神の始めを稽(かんがえ)るに・・・(荒唐無稽の話は中略)・・神亀元年八幡宮を勧請し世代大明神を氏神として崇敬することになり氏神たる春日明神と八幡宮を脇社となしたり・・・・明治9年村社、明治18年郷社に列セラレ。
・薬師堂(古橋):
・・・・霊亀元年僧行基・・当地に来り、世代大明神・・告げて曰く・・・此地は上古薬師奉地なるも・・・
(行基は)薬師如来の尊像を得て・・世代大明神を鎮守として号を世代山と名け又岩に託して戸岩寺と称し玉ふ。
・・・塔頭には岩本坊阿弥陀坊開寿坊真乗坊道詳坊長円坊等六ケ寺の僧坊を構へ・・・草創し玉ふ。
大同元年弘法大師戸岩寺に来りて四天王を刻み、相続いて慈覚大師来りて鐘楼堂経堂等を造営し大日如来を彫刻して七間四面の本堂を建立せられたり。恵心僧都来りて・・念仏堂を建立す・・・
今薬師堂大日堂観音堂等の堂宇には・・・霊仏三十有餘体あり他に霊仏破損仏枚挙するに遑あらず・・・
明治元年坐像の薬師如来を飯福寺の本尊に遷す・・・
・観音堂(古橋):
・・・本尊は魚藍観世音菩薩・・・堂宇は火災の為狭小・・往古の材木を用ゆ・・・・
 ※本尊魚藍観音は世代閣に収蔵されている仏像と思われる。また往古の材木を用う・・とあり、薬師堂背後の丘上にある戸岩寺観音堂(上に掲載)がこの観音堂に相当するものと思われる。
2010/02/06追加:
○與志漏神社及旧戸岩寺之景:「名蹟図誌近江宝鑑上巻/伊香郡」明治30年 所収
 與志漏神社及旧戸岩寺之景: 明治30年以前の景観であるが、現在もほぼ同一の景観を保つ。廃戸岩寺の堂宇も良く残る。

◇己高閣:
十一面観音立像:旧鶏足寺本尊、重文、檜一木造彩色、藤原期
七仏薬師如来立像(7躯):旧法華寺本尊、木造素地、鎌倉期
 ほか不動明王、多聞天、兜跋毘沙門天など約20躰の仏像を奉安する。
◇世代閣:
薬師如来立像:旧戸岩寺本尊、重文、木造等身大漆箔塗、奈良期
十二神将立像(3躯):重文、木心乾漆造彩色、奈良期
 ほか魚籃観音立像(一木造漆箔、藤原)、十社権現座像(10躯、秘仏、一木造素地、平安-鎌倉期) などを収納する。

◆伊香具坂神社(十所権現)
 己高山観音寺本堂背後の段上にあった。「伊香具坂神社之旧跡」の石柱及び基壇を残す。現在、社殿は與志漏神社後方約300mの地点にある。十所権現と称する。(伊香具坂神社とは復古神道の付会であろう。) 鶏足寺の鎮守として勧請されたものと思われる。

◆己高山松尾寺(松尾・覚念寺)
己高山「惣山之七箇寺」の一つとする。
最澄の彫刻とする十一面観音像を安置。


2008/02/21作成:2010/02/18更新:ホームページ日本の塔婆