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札幌|のっぽろカウンセリング研究室
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映像や音声を記録すること




 札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」です。ビデオ・カメラやICレコーダーを使ってカウンセリング場面を記録(録音・録画)し、それを研究のデータとして使用する一群の人たちがいます。このページは、面接場面を録ることについて考えてみましょう。

 録ることについては、昔から賛否両論があって、決着はついていません。決着しなければならない問題の範疇をはずれるのかもしれません。反対派の代表は、たとえば対話哲学のマルティン・ブーバーでしょう。自然な会話が損なわれると言うのが反対の理由です。他方、来談者中心療法のカール・ロジャーズは、まだオープン・リールしかなかった時代に、大きな機械をテーブルにおいて活用しました。

 録ることのメリットは、なによりもミクロ的なプロセスに目を向けることができると言うことです。もちろん録らなくても目を向けることができるのですが、何度も反復して再生できるのは録らないかぎり不可能なことです。

 また、カウンセラー自身が自分とクライエントのやり取りを外部的な視点で見る・聞くことは、カウンセリングの修練と言う意味でも貴重な機会であると思います。ロジャーズは、かつて自分の先生はクライエントとオットー・ランクだと口にしたことがありますが、自分の師はクライエントと録られた映像・音声だと言う臨床家も出てくるかもしれません(下手なスーパーヴァイザーよりもずっとよいかもしれないと、小声で呟いておきます)。

 ブーバーと同じく、自然な会話が損なわれるので自分は録らないと言う臨床家も少なくありません。おそらく彼らは、面接後に想起して書いた記録をもとにして実践研究を行うのでしょう。テクストという意味では、書かれたものも、録られたものも、同様のテクストです。けれども、クライエントにとって「自然な」会話とは何なのであろうか?

 面接室の家具調度の類いでさえその場の雰囲気を演出します。そのように考えると、ICレコーダーがそこに置かれても何ら影響を及ぼさないと考えるのは不自然です。ロジャーズ時代の大きな機械はもちろんのこと、小さなレコーダーであるとしてもです。録る場合には、そのような何がしかの影響すら見込んで、そのような場として理解する必要があると思います。

 では、機材を目の前にすることで、自然な、本来的なカウンセリングの場から逸脱することになるのでしょうか。「自然な」「本来的な」と言う言葉の意味を考えて行くと、私にはその理屈が腑に落ちるような気がしません。しかしこの点については、ここでこれ以上考えません。機会を改めます。

 もっと具体的に、カウンセリングの場にいる私と君のあいだで考えてみましょう。レコーダーは、二人にとって、そのつど意味を持って立ち現われてくるはずです(反対に現われないこともある、というよりも、経験的に言えばあまり表立って現われ出ることはありませんが)。それは単なる機械とは言えません。レコーダーのことが現われ出たとき、二人でその意味について話し合えばよいのです。

 別の視点から考えてみましょう。たとえば、レコーダーは他者の目であり耳でもあります。カウンセラーとクライエントの二人しかその場には居ないはずですが、それ以外の他者たちの目と耳になり得るのです。二人の間に形成されるポテンシャル・サードでうごめく、他者たちのことです。カウンセリングの場は「公然の場」となります。二人以外の誰も居ない「私秘の場」とは違います。あまりよい譬えではありませんが、町中に溢れている監視カメラの前で、私たちがどう振る舞うのか想起してください。

 面接中に録ることはクライエントの構えを変えるのか? よい質問です。変えるとも、変えないとも言えます。通常人間は他人の目を意識すると、常識的な当たり障りの無いことを口にします。レコーダーを前にした人間も、そのような構えに変化する場合があります。しかし、それでよいのです。そのこと自体を取り上げて、話し合えるではありませんか。私は、レコーダーが構えを変えると言うよりも、レコーダーのことを通じて互いのポテンシャル・サードが現われ出るのだと考えます。「互いの」と言うことは、もちろんカウンセラーの側にも言えることであると思います。録るのはどうも気が進まないと言う方は、録ることに対する自分の感情的側面について、一度考えてみてはいかがでしょうか。

 何も録らないカウンセリングが自然で、本来的なカウンセリングであるとします。すると、録るカウンセリングは不自然で、非本来的なカウンセリングになります。このような論理だと、録る人は不自然なカウンセラーです。録らないカウンセラーからすると、逸脱した人なのです。

 逸脱したカウンセラーのつぶやきです。たとえば歩くと言う行為について考えてみましょう。通常であれば両手を振って二本の足で難なく前進します。そこに一本、杖を導入しましょう。この際、足が不自由な状態を想定せず、正常に機能すると考えてください。おそらく、しばらくの間は歩きにくいかもしれません。「本来的には」二本の足で「自然に」歩けるわけですから。けれども、すぐになれるでしょう。何の不自由もなく、杖を使いながら「自然に」歩くことができるようになるはずです。人間は道具を使う生き物です。媒介を自然に使うことが、本来的なあり方へと転化し得るのです。

 何だか、屁理屈をこねているような気分になってきました。そろそろお暇させて頂きます。最後にひとつだけ。「私秘の場」としてのカウンセリングが自然で、「公然の場」としてのカウンセリングが不自然であるとすれば、それは簡単に論駁することができます。録らないカウンセリングは「私秘」が前景に立つだけであって、「公然」が背景に退きます。カウンセリングの場は、どのようなかたちであれ、「私秘」と「公然」が襞のように入り組む場なのです。

 あなたは録りますか? 録りませんか? むかしむかしハリー・スタック・サリヴァンは、盗み撮りしたことがあるようです。録らせて頂く場合には、必ずクライエントの承諾を得ること。こっそりは許されません。札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。




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