札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」です。医学の世界は、的確な診断の上で治療が進められます。治療がうまく行かなかった場合などは、診断にさかのぼって、それを誤診と呼びます。
カウンセリングの世界には、診断と類似する言葉としては「見立て」があります。しっかりと見立ててからカウンセリングを行うのが、この世界の常識のようです。
この見立てと心理療法の二分法は、医学モデルの名残のような気がします。エビデンスを重視する認知行動療法も、あまり重視しないように見える精神分析も、事前のアセスメントが必須とされるのです。
この接ぎ木のような二分法は何とかならないものでしょうか。この論理だと、相手に働きかける前にその人のことを「理解する」あるいは「分かる」ことが必要になります。そのため、見たてるためにさまざまな情報を入手しようとする面接も持たれるわけです。相手のことが分からなければ働きかけることは危険であると言う言葉は、なるほどよく耳にします。
はたしてそうでしょうか?
「理解する」「分かる」には二つの異なる意味があるように思います。ひとつは、情報を収集することによっていたる、何らかの像です。そこにはカウンセラーのモノローグ的な思考があり、クライエントは不在です。もうひとつは、クライエントとの対面状況での触感です。それはダイアローグ的思考(ローゼンツヴァイクは新しい思考と呼ぶ)です。何となく分かることと言ってもよいかもしれません。ヴィーコであればトペカと呼ぶでしょうし、ポランニーであれば暗黙知と呼ぶかもしれません。
心理テストをたくさん行ったロジャーズが診断的理解から共感的理解へとシフトしたのは、このようなことであったのかもしれません。彼の来談者中心療法はそこが弱点であると批判する人もいますが、はたしてそうでしょうか。
カウンセリングの日常は暗黙知の次元で展開し、さまざまな臨床判断が行われるのも、まさにその次元に他なりません。そのような臨床判断こそ見立ての上で行われるのだと言う人がいるのなら、見立ての意味がかなり拡大解釈されてしまったような気がします。
臨床心理の世界は、心理療法とアセスメントを分けて考えるのが一般的です。しかし、最近はスティーヴン・フィンの治療的アセスメントが注目され、教育畑においては教育とアセスメントのあいだを乗り越えるダイナミック・アセスメントが注目の的です。
二分法の前提を自明視することなく疑ってみること、そうすれば、あなたにとって新たな世界が開けるかもしれません。医学モデルの名残がある情報収集型の見立てについて、これでよいのかと一度は考えてみましょう。主知主義的な「分かる」から、やってみなければ分からないのではと言うアリストテレス的な行為論へ。
お前は診断なしに治療するのか、見立てなしに心理療法を行うのかと言う批判の声が聞こえてきそうです。いまある常識から抜け出すこと、別の価値観へと転換することは、本当に大変なことなのです。札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。
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