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何を研究すればよいのか?




 札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」です。私たちの日々の実践研究が目指すのは、自覚があるか、ないかにかかわらず、私と君とのあいだの、極めてローカルな個別的法則性であるのかもしれません。いわゆる人間の一般法則とは異なります。目の前にいるクライエントとのあいだで繰り広げられる、特殊個別的なことがらです。

 あるいは、こうも言えるかもしれません。つまり、私たちがカウンセリングなる日常の営みのなかで実践研究を行うのは、私と君とのあいだで見えるものとなる(形成される)、そのつどの出会いの「かたち」なのであると。

 これまでの流れの中で、ローカルな個別的法則性とか、個別的パターンとか、出会いのかたちと言う表現を使ってきました。これらを体験に即して言いかえると、カウンセリングの場、つまり私と君とのあいだで、何らかの意味が直観に開示すると言うことになります。この意味を言葉にもたらすこと、つまり声にすることによって、カウンセリングが展開して行く場合もあるでしょう。

 このようにして与えられた意味によって、目の前のクライエントに対する自分の姿勢を改めなければならないと気づくこともあるでしょう。あるいは、これでよいのだと、いまの姿勢を後押ししてくれることもあるのかもしれません。

 個別的な出会いのかたちが記憶としてあなたの身体に蓄積されて行くにつれて、一人のクライエントを超えた、大勢のクライエントに共通して認められるパターンが概念として形成され、行為的直観として閃くようになります。ゲーテであれば、これを「原型」とか「根源現象」と呼ぶかもしれません。これがひとつの視点になって、そのパターンがそこかしこに直観されるようになるでしょう。もちろん、それが何であるのかは人によって異なるわけですが、おそらくあなたが生涯を賭けて追い求めようとするテーマになることでしょう。

 「何を研究すればよいのか」と考えているあいだは、上記のような「原型」にまだ手がかかっていないのです。それは求めても得られるとは限りません。実践研究と言う受苦のうちに与えられるのです。そのときまで「待つ」こと、あなたにはできますか?

 与えられた原型はひとつの視点となり、テーマとして自律する可能性があります。ここではじめて、あなたにとって実践と研究が分節化することになります。テーマを追求して論文にする方向へと歩むこともできます。そして、論文のことなど考えずに、臨床の場へとここで折り返すこともできます。それは、あなた自身の選択です。

 テーマが自律した時点で、注意しておくことがあります。テーマが自律するとその追求が目的となり、クライエントとのカウンセリングがその手段になってしまう危険性が高まるのです。ここで私が想定しているのは、対人援助を生業とする初心者の方々です。おそらく皆さんは、苦しみのうちにあるクライエントに即した援助をしなければならず、たとえば予算が十分に配分されたインスティチュートなどのように一定の目的の下にクライエントを募るようなことはできないはずです。つまり、あくまで日常のなかで臨床を営まなければならないのです。

 私の場合です。私は大学に籍を置いていますから、立場上、研究目的のカウンセリングはやりませんと言ってもそれはウソになります。ウソとまでは言えなくても、言葉にリアリティが無くなってしまうのです。ですから、それに関しては、クライエントにあらかじめお話するようにしています。しかし、探求するテーマのためにカウンセリングのかたちを変形させるのかといえば、そんなことはありません。クライエントに即した対応を心がけているので、テーマのために必要と思われても、クライエントのことを考えるとできないこと、できないときが、とてもたくさんあるのです。私の抱える大いなる矛盾です。

 さて、実践研究のテーマは、往々にして躓きがきっかけになるような気がします。つまづくことが、ヒントを与えてくれるのです。そのようにして手にするテーマは、人の数だけ、星の数だけあるはずです。広大な領野を前にして、まさに「何を研究すればよいのか」。いずれにせよ、テーマが自律してからは、手段と目的の反転に十分注意してください。札幌・江別の「のっぽろカウンセリング研究室」でした。




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