【宇佐美】 まだ他にお願いした方いらっしゃいますけど、大変申し訳ありません、時間がありませんのでこれで失礼させていただきます。それでは、黒部節子さんのご遺族を代表されまして、黒部研二さん、それから永谷悠紀子さん、前にお出になっていただきたいと思います。

 本日は「偲ぶ会」に、たくさんの方に来ていただきまして、しかも私、あまり知らない昔の話しをいろいろ聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。それから、この会を企画していただきました「アルファの会」のみなさまとか、司会をしていただいた北川様、宇佐美様始め、いろいろサジェスションをいただいた小柳さんに、厚く御礼を申し上げます。いい思い出の会ができまして、一生心に中に残ると思います。
  私たち、昭和30年に結婚しまして、岡崎に住居を移しました。私の会社の関係で岡崎に住んだわけで、生れは三重県の松阪市の田舎の方です。私も家内も一緒で、30年に岡崎の方へ移ってまいりました。結婚する前から詩をやってたということはよく知ってたんですが、どうも右と左と脳の構造が違いまして、私あんまり詩の方のことは存じ上げてなくて、お互いにほとんど、それぞれの世界のことは首を突っ込んだことはなかったんですね。まことに申し訳ないんですけど、今日ご出席の方もほとんど面識がないような格好で、本当に失礼いたしました。

  最初、倒れたのが、40歳のときで、昭和47年だったと思います。このときは二、三年後には、身体には相当ひどい障害は残りましたけれども、頭の方はどうにか快復いたしまして、熱心に詩の方の活動をやっておりましたんですね。(倒れたときは)確か久野先生と会う約束をしていて、喫茶店で待っていたときに倒れたらしいんですけど、そのときお医者さんが、三ヶ月再発しなければいいだろう、それから三年再発しなければ、まず大丈夫だとおっしゃいましたので、もう十何年たちましたのでもう大丈夫だろうと、安心しきっていたんですが、ちょうど53歳になるちょっと前ですね、夜中にまた脳内出血を再発してしまいまして、倒れました。急いで病院へ運び込んで手術をして、一命は取り止めたんですが、残念ですが、その後今日まで意識が戻ることなく、19年と1ケ月の寿命を終えたわけでございます。
  そういうわけで、20年間ずっと寝て何もできなかったわけですから、過去の人となって、皆様に完全に忘れ去られてしまったのではないかと思っていたんですが、今日こんなにたくさんの人に来ていただきまして、初めて故人の詩の世界を垣間見たような気がいたしまして、非常に感激しております。
  それと同時に、多くの人々から支えられて、ご厚情願ったことが,元気にやってこられたんではないかと思っておりまして、この場を借りまして、故人に代りまして厚く御礼申し上げます。

 それからちょっと余分なことですが、小柳玲子さんには、随分いろいろお世話になりまして、先ほどもどなたかおっしゃっていらっしゃいましたけれど、世に知られた最大の原因は、小柳玲子さんのご尽力だった思っています。
  さきほども、不思議な出会いだとおっしゃったんですけれど、小柳玲子さんと私の家内はずっと交際しておったんですが、実は小柳玲子さんの御主人のお父様が、三重大学の土木課の名誉教授だったんですね。俳句をたしなんでいらっしゃいまして、節子の父親は画家だったんですが、趣味で俳句もやっておりまして、同じサークルで長く交際していたんですね。親は親で交際して、子供は子供で交際して、十何年全然知らない状態でいて、あるとき蓋を開けたら、親子ともども知り合いだった(笑)という、そんなこともありまして、今更ながら、不思議な出会いというものを、感じております。
  今後ともひとつよろしくお願い申し上げます。







黒部節子さんを偲ぶ会