【宇佐美】 黒部節子さんと同じ女学校ご出身だと聞いております「三重詩人」の加藤千香子さん、よろしくお願いいたします。

私は、三重県立飯南高等女学校の、黒部節子さんの一級後輩なんです。それでお話しすることは、その少女時代のことなんです。黒部さんとはお話ししたのは全然憶えておりませんけれども、黒部さんは法田の櫛田というところだと思うんでが、倭姫命が天照大神を安置する所を探している時に櫛を落としたという伝説からつけられた櫛田で近鉄に乗って、松阪に降りられて――松阪というところは 松阪駅を降りると まっすぐ向うに堀坂山が見えているんです。
そして彼女が通っていく道というのが、先ほどもお話しがありました殿町を通るんですね。その殿町に 中野嘉一 さんが精神科のお医者さんを営んでみえて、それからちょっと工業の前を通りますと、右手のところに梶井基二郎がお姉さんのところで少し過ごした家がございまして、それからずーっと御城番というところを通っていって、そして松阪城の横手門に着きまして、そこの角にものすごい大きな椿の木がありました。それがしょっちゅう映画に出てくるんですけど。

そこを左に曲りまして、そこは左に曲るとずーっと松阪城の石垣を沿っていくんですが、その松阪城が立っているところが、四五百森(よいほの森)といいまして、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の森なんです。そして左側が国文学者本居宣長の本居神社なんです。
そしてその森と森に挟まれたところの坂道をずーっと下りていきますと、飯南高等女学校があるんですけれども、そういうふうに行く人が半分で、反対側の畑や田んぼの方から来る人が半分――まあほとんどの人は、四五百森と森の間を抜けて、セーラー服姿で、それで終戦後に私が入りましたから、黒部さんはもう一年、戦争中も一年間、学校にいらしたんですけど。私たちはセーラー服で、後ろでパンと割りましてここを二つに結ぶんです。そして結んだゴムから三センチ以上長かったらいけなかったんですな(笑)。
だからみんなそういうステレオチップな教育、良妻賢母型の貞節な女の子を育てるという、そういう教育を受けまして、みんなが女学生姿でね、全く同じ格好していくんですけど、黒部さんだけは図抜けてそういう田舎の子じゃなかったんですな。色が図抜けて白くて、目が大きくて、唇が赤くて、八頭身で、鶴の精のような方だったということしか私の頭にはないんです。

今日この映像を見まして、黒部さんて――私は黒部さんよりずっとずっと野性的だと思ってたんですけど、全く違いまして――すごいバイタリティの方だなと思いました。今までもこの見る力についていろいろ話されましたけれども、その透視力というのか、私は社会派の方ですけれど、黒部さんの場合は形而上的な詩で、 『いまは誰もいません』 とか、非常にひ弱い感じがしてたんですけど、着物の着方を見ても肝っ魂母さんみたいに子供さんをたくさん育てられて、それから 詩画展 などをこのようにされて、とてもかなわないなあ、すごい作品と生活力、その生命力のすごさというものが、この19年間の余韻となっていたんではないかなと、そういうふうに思いました。
黒部さんという人を、全く違うように、この映像は見せつけてくれまして、この女学生の写真もありましたけれど、映像はすごい力があるんですけれど、私たちの心に残っているのは本当に楚々とした白百合のような方という印象でした。








松阪駅を降りると

松阪の詳しい地図は、→こちら

中野嘉一(1907―1998)

愛知県生まれ。詩人、精神科医。
詩誌「暦象」主宰。
「暦象」は1951年に松阪で創刊され、中野氏の東京移転にともない、 一年半の休刊を経て1964年に東京で復刊した。 以降、127号で終刊(1997年)するまで編集人をつとめる。
詩集『記憶の負担』他、『古賀春江―芸術と病理』、『太宰治―主治医の記録』、『前衛詩運動史の研究』など。

●詩集『いまは誰もいません』(74年)

ラ・ポーラでの詩画展(80年〜84年頃)

詳細は、→こちら

黒部節子さんを偲ぶ会