【北川 】 たまたま今これ(展覧会案内状)いただいたんですけども、名古屋市美術館で、 現在庄司さんの作品が展示されているということです。またお時間ありましたら、寄ってみてください。 それでは庄司さんよろしくお願いいたします。

 どうも失礼いたします。 桜画廊 を最後に看取った作家の庄司といいます。
  黒部節子さんを僕が最初に知ったのは、1970年ですから、皆さんよりだいぶ後になるんですけれども、僕は1968年に桜画廊で最初の個展をいたしました。多分、そのときも黒部さんは、観ておられる思うんですけど。
  黒部節子さんと一緒に旅行をしたので、そのことを報告したいと思います。 1970年の3月です。僕と先ほどたびたび出てきました『柄』の詩画集でもいっしょだった 久野真 さんと二人で考えまして、「横浜こどもの国」という、今の天皇御両陛下の皇太子のときの記念の公園が横浜にあるんですが、そこで1970年の3月から4月にかけて、大きな 野外の美術展のフェスティバル があるというので、それは公募でしたから、その展覧会に出品しようということで、久野真さんと僕と二人で考えて、空に溶け込むようなブルーの旗を、未来を考えて21本立てようというふうに考えまして、桜画廊に来るファンや作家、コレクターを捕まえては、一本釣りの方法で、一本ずつ参加しないか、つまりお金を募るというか(笑)、つまりスポンサー集めをいたしました。

 まんまと黒部さん引っかかりまして、その21本のうちの1本を買い取りました。買い取るということはどういうことかというと、それを立てにいかなくてはいけない(笑)ということでして、3月まだ少し小寒いときに、みんな「横浜こどもの国」に行って、青竹の先にですね、ブルーの大きな旗を縛って、一本ずつ立てていくという暴挙をですね、行いました。
  そのときに、黒部さん、 桜のオバチャン(藤田八栄子氏) 、女の人では宮島孝子さん、あとみんな男性の作家だったりファンだったりしたのが21人行ったんですけれど。それで、それは無事立てまして、帰る段になったんですけれど、われわれ男性たちは、予約を取っておりましたので名古屋にすぐ帰れたんですけれど、どういうことなのか知りませんけど、黒部さんと桜のオバチャンと宮島孝子さんがですね、帰る汽車がなくなりまして、夕飯食べた後で夜遅くなってしまって、それでホテルを探さなくてはいけないのに、中々ないということで、タクシーの運ちゃんにどこか泊まるところはないかと言ったところ、タクシーの運ちゃんが連れて行ったホテルがありまして、そこへ泊まることになったんだそうです。そのときの逸話が、桜のオバチャンの言葉で残ってますので、短いですから朗読します。あとこれ置いておきますので、興味があったら見てください。

………
  このときの帰りがまた面白くってね。みんなで横浜の中華街へ行って食べたところが、その中華料理屋のおやじさんが喜んで、こんなに大勢来ていただいてありがとう。これだけご馳走を余分にサービスしますって出してくれたんです。それを食べとったら汽車がなくなって、困っちゃってねえ。頭のええ人は東京に戻って中央線か何かの夜行で帰ったんでしょうけれども、私と久野真先生と黒部節子さんという詩人と宮島孝子さんという女の子の四人は、どうしても乗れんで。とにかく泊まろうやということになった。それが駅で紹介してくれる旅館へ電話をかけて、泊まれんのですよ。夜遅いし。それでタクシーの運ちゃんに案内してもらおうということになって、タクシーに乗ったんです。
  そしたら運ちゃんが案内してくれて、四人が部屋を通してもらったら、女中さんが規定の料金より余計もらわなならんですと言うんです。どうしてですかと聞いたら、そこはラブホテルだったんです。黒部さんがきちっとしたスーツを着とったもんで、この人は男性だと思った。二組ならお布団は二つですみますけれど、女三人、男一人というグループだと別にお布団は出さなならんで、その追加分ください。ああなるほど。理屈やしょうがないや。追加料金を出そうということになってね。詩人の黒部節子さんも私の大の仲良しなんです。この画廊に集まるメンバーが子供の国に集まって、旗を立てたというオチです。

………美術手帖86年11月号「画廊人・桜のオバチャン[8]」より

…という桜のオバチャンのそのときのことが書いてあります。ご紹介いたしました。

 黒部節子さんの詩については、何のコメントもできませんけれど、黒部節子さんの詩は大好きです。
それで、僕、今桜画廊のですね、 34年間の記録集 を編集しておりまして、  今日最終原稿を印刷屋にこの後出しにいくので、その前にちょっとここから借りていかなくてはいけない資料が見つかりました(笑)。 で、いい偲ぶ会に参加させていただいたと今しめたと思っているんですけれど、 そのわずかな写真が出てきましたので、これは桜のオバチャンが還暦のときに、黒部さんが5,6枚いい写真が映っておりますので、このまま黒部さんのご家族に差し上げます。置いておきますので見て帰ってください。
  どうもありがとうございました。


桜画廊
名古屋における現代美術専門の画廊。画廊主は、「桜のオバチャン」こと藤田八栄子氏(1910〜1993)。1961年から1994年まで、30年以上にわたって、主に地元の現代美術を紹介し続け、長く名古屋のモダンアートシーンの中心的役割を果たした。 栄の伏見の文天堂画廊を引き受けて61年にオープン、67年に伏見ビルに移転し、藤田氏の死去にともなう閉廊まで続いた。

久野 真(1921-1998)

名古屋市にあって活躍した現代美術家。1950年代に石膏を画材にした絵画作品を発表し、1960年代からは鋼鉄をおもな画材とし、以後一貫して金属による絵画表現を探求しつづけた。黒部節子とは、1965年に朝日新聞に連載された詩画『柄』でコンビを組んだ。 節子作品集『耳薔帆O』(69年)では、ブックデザインの他に制作上のサジェスションも与えたようである。

横浜子供の国野外フェスティバル(1970)


藤田八栄子(1910〜1993)

「桜のオバチャン」として慕われ、多くの美術家を輩出した桜画廊の主。その飾らない人柄や、 戦後の日本現代美術に果たした役割りについては、今も語り継がれている。 93年の死去にともない桜画廊は閉廊したが、翌年には藤田八栄子追悼展「桜画廊と作家たち」が開催され、 また今年(04年)7月には、庄司達氏らの尽力により、 「藤田八栄子の軌跡 桜画廊34年の記録 1961〜1994」集が発行された。

「藤田八栄子の軌跡 桜画廊34年の記録 1961〜1994」04年5月刊

庄司達氏が編集した桜画廊の34年におよぶ軌跡を収録した記録集。 04年7月10日には、桜画廊があった伏見ビル5階のスペースで出版記念パーティーが開かれ100人以上が集った。

桜のオバチャン還暦パーティー

1972年4月22日 藤田八栄子氏還暦祝賀会『赤い作品で「美女」を祝う会 』(桜画廊)

黒部節子さんを偲ぶ会