【北川】 次にお話しいただきますのは、作家司馬遼太郎さんの『街道をゆく』(文庫版)の校正をずっと続けてこられたという大西和男さん、お願いいたします。

 大西和男と申します。紹介が大げさだったんでちょっと照れてますけれども(笑)。3巻の「紀州街道」から43巻の「濃美参州記」まで、校正料を貰うのが申し訳ない愉しい仕事でした。そしていま、この濃美参州に来ています。
  今日は、ここにある 「夢ノツヅキ∞」 という黒部さんのリーフレットを編集させていただいたので、そのことについてお話しいたします。
  4月頃、来週発売される武満徹全集のために閉じ込められて、カンヅメ状態がだいぶ辛かったので、それなら黒部さんの詩集でも編集しようかなと思って(笑)、(黒部)晃一さんのところへ電話をして、スクラップブックを二冊いただき、その中から単純に「夢」という言葉が出てくるものを、七篇か八篇選んで作っちゃおうと、そういう気持でいました。
  それで今日喋れと言われたので、リーフレットを読んだら、「夢」という言葉が出てるのが一篇もないんです(笑)。もうぼけちゃったのかなあと思ってびっくりしたんですけど(笑)。

 でも、編集の時のメモを見ましたらば、「a vision」とか「エスキス」とか、そういうものの中に、<褐色の夢>とか<階段の途中の夢>とか、そういうのが載ってたから、あんまりぼけてたわけでもないんだなと思って。最初はその方針で編んだのです。
  しかし、一つには費用の関係で、この一ページに一篇載せられる詩というのを選んだので、こういうことになってしまいました。それで最後に、4月25日くらいに晃一さんの原稿を貰って、パソコンに打ち込んで、それで「夢ノツヅキ」というのは最初はひらがな「夢のつづき」だったんですけど、カタカナにしまして、それで一巻の終わりということです。

  それからもう一つ、スクラップブックを見ていて気がついたことは、 『暦象』 というのに黒部さんがずいぶんお書きになっていまして、私の頭の中にある『暦象』の 中野嘉一 さんというのは、新井薬師の病院の先生でして、どんな患者さんと向き合ってても先生の方が患者さんに見える(笑)というような精神科の先生で、私もお世話になったんですけど、どうしてそういう新井薬師の中野さんのところに黒部さんがお入りになったかなあという気持ちがありました。
  これも昨日なんですけど、中野さんのとてもいい詩集で『メレヨン島詩集』というのが出ています。黒部さんの第一詩集(『白い土地』)の三年前ぐらいに出てます。

 中野さんの住所が実はそこの奥付に載ってまして、松阪市の――何て言うんだろう、殿様の町、殿町(とのまち)と書いてありまして、それで、ああもしかしたら傍にいらしたのでというか、黒部さんの第一詩集も住所がそこです。出版社は中野さんは 「詩乃家」版 ですけれど、黒部さんは「暦象」ということになっています。
  ああなんだ、もしかしたらそういう地縁といいますか、もちろんモダニズムの中野さんの魅力ということもあったかもしれないけれど、お近くにいらしたんだなあ、そんなことを思いました。
  以上、気づいた二つのことをお話ししました。


「夢ノツヅキ∞」

「夢人館通信」22号として発行された大西氏編集による追悼リーフレット 「缶けり」、「やさしい秋」、「木のことなど」、「文法」、「九年ののち」、「ずっと昔」、「それから」、「橋の上」の8篇の詩を納めている。 遺稿随筆集『遠くのリンゴの木』とともに、会場で來席者に献呈。

『暦象』1951年〜97年(127号)

黒部節子は、「暦象」創刊号から103号まで、ほぼ毎号詩を掲載した。写真は、「暦象」5号。

中野嘉一(1907―1998)

愛知県生まれ。詩人、精神科医。
詩誌「暦象」主宰。
「暦象」は1951年に松阪で創刊され、中野氏の東京移転にともない、一年半の休刊を経て1964年に東京で復刊した。 以降、127号で終刊(1997年)するまで編集人をつとめる。
詩集『記憶の負担』他、『古賀春江―芸術と病理』、『太宰治―主治医の記録』、『前衛詩運動史の研究』など。

詩人黒部節子の実質的な師として、暦象創刊時の出会いから30年以上におよぶ交流が続いた。 節子は、倒れる85年1月30日の3週間前に東京の中野氏に会いに行っている。

『詩乃家』

「詩乃家」は、藤田三郎氏編集による同人詩誌。写真は「誌乃家」3号(52年)

黒部節子さんを偲ぶ会