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  私はそのことにとっても感動しまして、見えるものを見えるままに描くってどういうことだろうと思って読んでいきましたら、たとえば 矢内原伊作さんの「君の顔を描きたい」という有名なお話 があります。描いても描いても、何時間モデルとして坐っていても、絵が出来上がらない。で、明日また来てくれ、矢内原さんは帰る予定の飛行機をキャンセルしてまで通いつめる。翌年の夏は、ジャコメッティから招聘状が来る。で、また物置のようなアトリエで、モデルをしなくちゃいけないということを覚悟して行くんですが、そのときはもうすでに矢内原さんの方は、自分から進んでモデルになるようになっていったようです、これは自らお書きになっています。
  そういう長い間の制作時間をかけながら、矢内原さんが休憩の時間にキャンバスを覗くと、何も描いていない、消しちゃっている。どうしてこんなことになるのだろうって、見えるものを見えるとおりに描く。さっき僕が書いた君の絵は、確かにその瞬間、真実を捉えたと思ったけれど、今君の顔を見ると、さっきの絵は見間違いだった、君はもうずっと先へ行っている、というわけで、消してしまうんですね。描いては消し描いては消しですから、何日経っても出来上がらない。あの感動的なお話を矢内原さんは、よく書いていらっしゃいますが、その中で本当にこれで描けたと、ジャコメッティが考える。その瞬間ってどういうことになっているんだろうというのが、私のとても気になっていることでした、

 たとえば弟さんの像を作るときに、確か今記憶がはっきりしませんが、等身大くらいの大きい像から作り始める。で、これも違うあれも違うって削り取っていくうちに、指ほどの小さな像になってしまう。ついに最後はなくなってしまうということも書いております。
  そういう中で、ジャコメッティがこれが真実の姿だって捉えたその瞬間の絵って、皆さんご存知のような、あの煙霧の中に隠れるような、幻覚が溶けていってしまうような絵や、それからじょろじょろと針金のようになっている彫刻なんですね。そのときに私がとても感心しましたのは、ジャコメッティが見れば見るほど君の深みが内部が深く見えてきて、周囲との関係も分かってきて、さっき見たのが見間違いだったことが分かるって書いてありました。そうすると、たとえば私がものを見ているって何だろうという、とても自分自身が嫌になるようなところへ突き落とされてしまうんですね。

  黒部さんとそういうことをお話しているときに、黒部さんが詩の中では、家などのものがどこかへ消えていくような部分があります。はっと消えていくような廊下があそこにある――なんていうようなことも書いてらっしゃるんですね。あるいは誰もいない運転台が薄気味悪い、風って目に見えないものの手に違いない。あの家にはふいに消えていこうとする廊下があるということを書いてらっしゃいます。
  そのときに、私は黒部さんに聞きましたのは、これは見えないものを書くという例のやり方ですか、随分不躾な質問をしました。そしたら、意外な答えが返ってきたんですね。今消えていこうとする廊下は、私にはそこに見えているって言うんですね。そうすると、おそらく芸術家というのは、眼の仕組みが普通の人とは違ってますから、消えていこうとするものも見えている、そこにあることがすべて見えていて、黒部さんが陽の当る部屋にいて、その隣の部屋が煙霧の中に消えていこうとしているその部屋の様子も、黒部さんにはどうも見えているらしい。ですから、あそこに書かれていることは全部私には見えているのよっておっしゃったことがあるんです。

 黒部さんが持ってらっしゃるちょっとシュールめいたあの風景の展開の仕方、あれを 中野嘉一 さんのところで勉強していらした余韻があったらしくて、 村野四郎 さんにお会いした時に、黒部さんのお話をちょっと聞いてみたんです。そうしましたら、村野四郎さんがおっしゃるのは、あそこにある黒部さんが持っているシュール的な風景の展開というのは、あの中野嘉一さんのところで学習された非常にいい効果が出ているんだよっていうことを、村野さんがおっしゃってたことがありました。
で、私はそのときに、黒部さんの私にはちっとも見えない不思議な風景の展開の仕方というものが、黒部さんの天性のものであるのと同時に、やっぱり学習の成果というものが、下絵のようにちゃんと入っていることを、そのとき初めて気がついたようなわけです。
  面白いのはですね、私に会っていながら、確か何億年でしたか、三億年でしたか、 三億年前に「私は」って言いかけながら、私はまだ言い出せないでいるというような詩 もあります。私はあれがとっても好きなんで、「私は」って、三億年前に言いかけたその続きは出てこない、いったい私はどこにいるのか、私って何だろうかということが、黒部さん自身も一生懸命考えていたみたいです。で、言葉っていうものは、自分を発見し、自分を追及していくものだって、そのインタビューのときにはっきりおっしゃっていました。そうすると、おそらく黒部さんは、私の持っている何かって何だろうということを、ずーっとお考えになっていたような気がします。

  二人で、詩のことではない、万葉のことだとか、たとえば「家にてもたゆたふ命」という万葉の有名な歌がありますね。家にいてさえも私たちの命は漂っている――私はあれが大好きなんですが、黒部さんにそれを紹介しましたら、私は、家も、私という存在もみんな漂っているという気持がずっと私にある、とおっしゃってました。
  演劇のことなんかもなまかじりのまま、私が観た演劇のことをご紹介したりしながら、二人で随分いろんなことをごちゃごちゃとお話しました。そのときの印象がまだいろいろ私に残っていて、ときどき私を何か励ましてくれるような、私はいい加減なことしかしておりませんが、黒部さんはさっさと素晴らしい仕事をなさって、残念ながらお亡くなりになってしまいました。
  いろんなことを思い出しながら、黒部さんが残されたお仕事というものを、今改めて思い出しております。こんなことを話しが尽きませんので、この辺で失礼いたしますが、黒部さんがおっしゃっていたように、書き言葉ではなくて、何の意味もない生まれたての言葉に遭いたい、それは火や花に初めて遭ったときのように、言葉に遭いたいとおっしゃっていたのが、私には一番強く印象に残っております。

【北川】 私たちが触れることのできなかった黒部さんのエピソードを、柏木さん本当にありがとうございました。

●矢内原伊作
哲学者・矢内原伊作は、パリ留学中の1956年、彫刻家アルベルト・ジャコメッティ(1901〜66)の知遇を得、 61年にいたるまで5期にわたって彼のモデルをつとめた。

矢内原伊作『ジャコメッティ』みすず書房
矢内原伊作『ジャコメッティとともに』筑摩書房
など。









































中野嘉一(1907―1998)

愛知県生まれ。詩人、精神科医。
詩誌「暦象」主宰。
「暦象」は1951年に松阪で創刊され、中野氏の東京移転にともない、一年半の休刊を経て1964年に東京で復刊した。 以降、127号で終刊(1997年)するまで編集人をつとめる。
詩集『記憶の負担』他、『古賀春江―芸術と病理』、『太宰治―主治医の記録』、『前衛詩運動史の研究』など。

詩人黒部節子の実質的な師として、暦象創刊時の出会いから30年以上におよぶ交流が続いた。 節子は、倒れる85年1月30日の3週間前に東京の中野氏に会いに行っている。

村野四郎(1901〜1975)

現代詩人会初代会長として現代詩壇の発展に寄与した村野四郎は、「旗魚」「文学」「新即物性文学」「詩法」などの多くの詩誌を創刊し、 20世紀西欧文学に学びつつ実験的作品を発表。モダニズムの代表的詩人として知られた。 また、山本太郎、谷川俊太郎はじめ多くの新人たちを発掘した。
詩集に、『罠』、『体操詩集』、『抒情飛行』、『珊瑚の鞭』、『予感』など

詩集『空の皿』所収の「私はまだ…」
である って言えませんでした
であった って言えませんでした
なぜって 私は何でもなかったのですから
「私は」と言ったきり それきりで たとえばぬれてゆれる消えそうなあせびの茂みなのかも知れなかったのですから

でも私はそうして立っているんです
  三億年も もっとまえから
  「私は」と言いさしながら まだ 何にも言えないのです。
(…後略)

   
黒部節子さんを偲ぶ会