寛永年間リンク⇒ | 東北 | 関八州・江戸 | 東海・北陸・甲信 | 近畿 | 中国 | 四国 | 九州 | 洋上 | 前ページへ |
●寛永2年(1625)
●寛永3年(1626)
●寛永4年(1627)
●寛永5年(1628)
●寛永6年(1629)
●寛永7年(1630)
●寛永10年(1633)
●寛永11年(1634)
●寛永12年(1635)
●寛永13年(1636)
●寛永14年(1637)
●寛永15年(1638)
●寛永16年(1639)
●寛永17年(1640)
●寛永18年(1641)
●寛永19年(1642)
●寛永20年(1643)
●寛永元年(1624)
鄭成功(和唐内)が平戸で生まれる。
吉田・嬉野・鳥坂(とさか)・有田で金山試掘を行う。
長崎諏訪神社を西山郷円山に造営。(御神事の奉納踊りは寛永11年から始まる)
閏4月26日−長崎奉行水野守信がイエズス会宣教師とキリシタンを処刑する。
2月28日−島原藩主松倉重政がキリシタンの内堀作右衛門ら16名を雲仙噴火口に投げ込む。
4月17日−肥前藩が家中藩士の困窮救済法を定める。
5月−幕府がスペイン艦船による日本船攻撃の報復として,長崎入港中のポルトガル船を
抑留し,同国と断交する。
7月17日−幕府が長崎代官末次平蔵に命じ,浜田弥兵衛が連れ帰った人質のオランダ人とその船を
抑留する。
明の僧覚海(かくかい)が来日し,長崎に福済寺を創建する。
佐賀藩、有田岩谷川内(ごうち)に藩窯を設ける。
佐賀藩、知行五百石未満の侍の在郷を許可する。
長崎で絵踏が始まる。長崎に福州(中国)出身の唐人船主により崇福寺(そうふくじ)が建立される。
長崎奉行、キリスト教徒を島原温泉岳の熱湯に投ずる。
4月1日−島原藩主松倉重政が領内のキリシタンを処刑する。
5月25日−前長崎代官末次平蔵没。
7月−ポルトガル使節ゴンサロ・シルベイラが長崎に来日し,通商再
開を要求。幕府は許可を与え,2年ぶりに通商が再開される。
11月11日−島原藩主松倉重政がキリスト教布教の本拠ルソン(フィリピン)偵察のため,
軍船2隻を派遣する。
11月16日−島原藩主でキリシタン弾圧に努めた松倉重政(57)没。
2月11日−幕府が長崎奉行竹中重義を職務上の不正により罷免。以降,長崎奉行は2名制になる。
2月28日−幕府が奉書船以外の日本船の海外渡航・帰航を禁止する(第1次鎖国令)。
5月28日−幕府が長崎に高札を立て,外国船の来航,奉書船以外の渡航を禁止する(第2次鎖国令)。
五島藩の菩提寺東光寺の和尚、本尊を抱いて焼身自殺をする。その霊を慰めるため、
命日にチャンココ踊りを奉納するようになる。
長崎に明の貿易船が来航し,交易する。
幕府が長崎町人に出島を築かせる(1636完成)。
長崎興福寺の黙不如定が中島川に眼鏡橋を架ける。
5月20日−明国人欧陽電ら6人を年行司として,長崎在住の明国人を監視させる。
5月20日−幕府が外国船の入港と貿易を長崎に限定し,28日には
日本人の海外渡航・帰国を禁止する(第3次鎖国令)。
御朱印船を停止し、海外渡航・帰国を禁じ、唐船の貿易を長崎一港に限る。
長崎に崇福寺が建立される。
3月28日−オランダ商館員のフランソワ・カロンが幕府に銅の大灯篭を献上。
長崎に出島が完成。ポルトガル人を収容し、ポルトガル人との混血児をマカオヘ追放。
3月−肥前藩が領内の有田(伊万里)焼の保護政策を打ち出す。
4月1日−幕府が平戸藩主松浦隆信に銅の輸出禁止を命じる。
10月25日−島原で藩主松倉勝家の圧政に反対し,農民・キリシタンが蜂起,代官を殺害し,社寺
を焼く(島原の乱が始まる)。
島原の乱おこり、九州諸大名に動員令下る。長崎での唐船主、ほかの差宿(さしやど)を始める。
11月9日−幕府は島原の乱に対して板倉重昌を派遣し,諸大名に動員を命じる。
12月3日−島原の乱の首領益田四郎時貞ら数万人が高来郡の原城址に籠城する。
1月1日−幕府軍がキリシタン・農民の立てこもる原城を総攻撃す
るが,攻城責任者の板倉重昌が戦死する。
1月4日−老中松平信綱が島原に到着する。
1月11日−オランダの軍船が幕府の要請で原城を砲撃する。
2月21日−原城の一揆軍が幕府軍に攻勢をかけるが,撃退される。
2月28日−原城が陥落し,一揆軍首領の益田四郎時貞(18)が討ち取られる。
2月28日−原城に監禁されていた幕府軍への内通者山田右衛門作が救出される。
3月27日−老中松平信綱が平戸のオランダ商館の破却を命じる。
4月12日−島原藩主松倉勝家が島原の乱の責任で所領を没収され,美作に配流される(7.19斬罪)。
また,唐津藩主寺沢堅高(かたたか)も所領のうち天草4万石を減封される。
4月−遠江浜松藩主高力忠房、島原4万石に転封。
11月10日−幕府が馬場利重・大河内正勝を長崎奉行に任命する。以後隔年に1人を在任とする。
2月21日−幕府が長崎奉行に抑留中のポルトガル船船長コレアの処刑と
在住オランダ人家族の国外追放,ポルトガル貿易船の海上銀・言伝銀(ことづてぎん)の停止を命じる。
4月16日−長崎奉行が明船20余隻の来航を幕府に報告する。
10月−幕府がオランダ人とその日本人妻子を国外追放する。
鍋島直澄、蓮池(はすのいけ)五万石を領す。
ポルトガル人の入国を禁じ、イギリス人・オランダ人に嫁いだ日本婦人とその子女を
ジャワ(インドネシア)へ追放する。
幕府はキリスト教の伝道に関係のない商船を平戸、唐船を長崎に限り貿易させる。
6月12日−幕府が大目付井上政重に長崎の政務を命じる(宗門改役の初め)。
6月16日−幕府がマカオより貿易再開要請のため長崎に来航したポルトガル船を焼き,乗組員61人
を処刑する。
9月26日−大目付井上政重が平戸のオランダ商館に,西暦を掲示した倉庫の破却を命じる。
鍋島勝茂、鹿島藩主鍋島正茂と不和、鍋島直朝を鹿島藩主とする。
板測量がオランダから長崎に初めて伝わる。
9月20日−幕府が幕府領となった天草の初代代官に鈴木重成を任じる。
12月24日−幕府が長門の農民30戸・178人を天草・島原に移住させる。
平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、わが国唯一の貿易港とする。
長崎に来航したキリシタン宣教師が全員処刑される。
3月−肥前藩が長崎警固番となる。翌年は福岡藩が命じられ,以後両藩の隔年勤番となる。
鍋島勝茂、幕府より長崎御番を命じられる。
龍造寺伯庵、会津保科家に預けられる(訴訟失敗)。
長崎市中の遊女屋を丸山町と寄合町に集めて遊郭とする。
幕府は各藩に一万石につき一戸の割で、島原に移住するよう指導する。
大村藩より島原藩に逃散した農民の返還折衝を行う。
有田焼の陶工酒井田柿右衛門が赤絵の技法を完成する。