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●延享2年(1745)
●延享3年(1746)
●寛延2年(1749)
●宝暦元年(1751)
●宝暦2年(1752)
●宝暦3年(1753)
●宝暦4年(1754)
●宝暦5年(1755)
●宝暦11年(1761)
●宝暦12年(1762)
●延享元年(1744)
8月−幕府が長崎の商人8人を俵物一手請方に任命する。
4月18日−長崎の俵物一手請方が俵物会所を設置する。
幕府がオランダ船の貿易額を本年に限り銀1,000貫目・銅90万斤に増額する。
8月−長崎の唐人屋敷で争いがあり,死傷者が18人出る。
1月-幕府が長崎貿易の清船を年15隻とし,貿易額の増加をはかる。
9月6日-肥前藩が有田皿山(ありたさらやま)などの蔵入り地で製造の陶磁器を自由に移出させる。
8月23日−平戸藩が以前からの農民支配法令を集大成する。
神埼(かんざき)町祇園社内に鐘楼を設け時鐘を打ちはじめる。
2月15日−勘定奉行松浦信正が長崎奉行兼職を解かれる。
9月−6月に長崎奉行へ抜け荷の取り締まりを厳命した幕府が,
奉行所前に抜け荷などの訴状を受けつける目安箱を設ける。
田代売薬が成立、博多で販売される。
7月8日−幕府が,追放者や欠落者が長崎に入って悪事を働くとして,彼らの長崎立入禁止を
九州などの諸大名に命じる。
1月19日−幕府が、抜荷改めを取り違えて、正当な中国・オランダ貿易品の調達までも
控える者がいるとして,手広く商売するよう論す。
田代領壮年者の売薬稼業を禁止する。
唐津領で干害。
唐津藩主土井利里(としさと)、下総国古河(こが)へ転封、水野忠任、三河国岡崎より唐津へ移る。