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●万治2年(1659)
●万治3年(1660)
●寛文元年(1661)
●寛文2年(1662)
●寛文4年(1664)
●寛文5年(1665)
●寛文6年(1666)
●寛文8年(1668)
●寛文9年(1669)
●寛文10年(1670)
●寛文12年(1672)
●万治元年(1658)
明の鄭成功の使者が長崎に来航して幕府に援軍を要請するが,幕府は拒否する。
林春斎が「寛永諸家系図伝」序文を書く。
8月13日−長崎奉行が,大村藩主大村純長(すみなが)がキリシタン603名を処刑したことを
幕府に報告する。
田代(たじろ)領百姓一揆解決、年貢軽減、指導の大庄屋(おおじょうや)、斬罪となる。
7月14日−幕府が長崎商人に貿易用の新銭鋳造を許す。
和泉国岸和田領内の作才(ざくさい)村の庄屋ほか農民全員が重税に抗して村を焼き,
五島列島に逃散する。
6月9日−オランダ船が明の鄭成功に台湾を追われ,長崎に来航する。
鍋島直弘死去。鍋島光茂、追腹を禁止する。
佐賀藩御道具山南川原(なんかわら)山に移る。
1月−長崎で天然痘が流行し,3月までに死者2,300人を超える。
長崎出島の国産品陳列場で初期赤絵が海外に紹介された。
4月−雲仙岳が大噴火する。
佐賀藩、家老四家『多久(たく)・諌早(いさはや)・武雄(たけお)・須古(すこ)』と定める。
6月19日−赤絵の技法を完成した初代酒井田柿右衛門(71)没。
2月27日−島原藩主高力隆長(こうりきたかなが)が苛政により所領を没収され,
陸奥伊達家預けとなる。
3月8日−幕府が長崎貿易の輸出入品目を改定する。
京都所司代板倉重矩が市中の無宿者男女70人を壱岐島(いきのしま)に送り,
農民とする。
大村藩が藩校五教館を創設する。
有田に赤絵町が設けられ、赤絵屋11戸を集める。