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●明和2年(1765)
●明和3年(1766)
●明和5年(1768)
●明和7年(1770)
●明和8年(1771)
●安永元年(1772)
●安永3年(1774)
●安永4年(1775)
●安永8年(1778)
●安永6年(1777)
12月23日−幕府が長崎港の浚蝶を計画し,港に出入りする船からその費用を徴収する。
幕府が,オランダ船舶載の金銀銭をはじめて輸入する。
銀札通用せず、札方請元(ふだかたこうもと)佐賀城下呉服町野口太左衛門、中町堤伊右衛門など
打ち毀しにあう。
鹿島藩、財政困難となり、本藩より400石の合力を受ける。
6月19日−幕府が長崎での竜脳(りゅうのう)国産を命じ、輸入品と国産品を
ともに扱う竜脳座を新設,江戸・大坂・京都に3か所の取り次ぎ所を定める。
佐賀藩が出島陶器改め方を設置し,陶器輸出を統制する。
1765年の後藤梨春(りしゅん)につづき,長崎遊学中の平賀源内が電気治療器エレキテルを紹介する。
佐賀藩、財政困難となり家中に御馳走米を命じる。
6月20日−ハンガリー人べニョフスキーが、寄港先の奄美大島より長崎のオランダ
商館長あてにロシア人南下の警告書簡を送る。
7月20日−唐津藩領の農民・漁民25,000万人が新税廃止などを要求して一揆をおこし、
24日、要求が通って解散する(虹の松原一揆)。
9月27日−佐賀藩が改革に着手する。
佐賀藩、藩祖直茂の霊を祀る松原社を建立する。
佐賀藩御蔵方行き詰まり、寺社の万人講(ばんにんこう)をやめ、新たに御用達商人を講元とし、
運上金を徴した。
7月19日−植物学者ツンベリーがオランダ商館医として来日する。翌年10月23日帰国。
佐賀藩伊万里瀬戸村黒崎、七浦(ななうら)郷西葉浦(にしばうら)、諌早郷永田村の干潟築立
(ついたて)を命じる。
11月20日−平戸藩が藩校維新館を設置する。
佐賀藩、去秋の損毛による米価高騰につき人別銀を免除する。