十字軍の歴史 | 探究テーマ史 #108 |
概 要 | ||
(1) 1038年 | セルジューク族の拡大 | |
(2) 1041年 | セルジューク朝の成立 | |
(3) 1055年 | セルジューク朝のトゥグリル・ベグ、バグダードに入城しカリフとなる | |
(4) 1071年 | セルジューク朝、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う | |
(5) 1077年 | セルジューク朝、バグダードの本家の他に四つの地方政権に分裂 | |
(6) 1097年 | 最初の十字軍遠征により、ニケーア陥落 | |
(7) 1099年 | 十字軍によりイェルサレム王国など建国される | |
(8) 1110年 | 十字軍により、トリポリなどパレスティナ沿岸がほぼ占領される | |
(9) 1120年 | 第一次十字軍主要人物が去り、パレスティナ十字軍諸都市が守りの時代に入る | |
(10)1128年 | アレッポの太守ザンギーが勢力拡大 | |
(11)1144年 | ザンギーがエデッサ伯領を奪還 | |
(12)1154年 | ヌールッディーン、ダマスカスに入城 | |
(13)1163年 | ヌールッディーン、エジプトを支配下に置く | |
(14)1171年 | サラディン、アイユーブ朝を創設 | |
(15)1183年 | サラディン、エジプト・シリアを統一 | |
(16) 1187年 | サラディン、ヒッティーンの会戦で十字軍を撃破。イェルサレムと十字軍領の大部分を回復 | |
(17) 1192年 | イギリス王リチャード1世、サラディンと講和し、第三次十字軍撤退 | |
(18) 1223年 | イギリス失地王ジョン、仏王フィリップ2世にノルマンディー・アクィテーヌ地方を奪われる |
版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。(Wiki) セルジューク朝トルコの圧迫に危機感を持ったビザンツ帝国の呼びかけもあり、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するための西欧騎士団の熱狂から始まり、複数回の遠征が行われた。しかし、しばしば宗教上大儀名分を逸脱して、略奪と征服の熱狂へと変わった。11世紀末から約2世紀に渡り、地中海のシリア沿岸の諸都市にキリスト教の拠点を作ったが、エジプトのマムルーク朝によって完全に撃退されることとなる。イスラム教から見れば、突如として平和を破られたフランクの蛮行として歴史にとどめられ、長い間、キリスト教圏との間に大きな溝をつくることとなった。当時、西欧より先進的な文明を築いていたイスラム教圏であったが、フランクの侵攻に対して、連携することなく、各都市が個別に攻略され、また、イスラム教圏での覇権争いから足を引っ張り合って、キリスト教から侵略者を撃退するまでに200年近い時間を要することとなる。 |
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1038年 | トゥグリル・ペグがカズニ朝から独立、セルジューク朝トルコ成立(1038~1157年)。 | |||||||
1055年 | トゥグリル・ペグはアッバース朝カリフから招かれてバグダードに入城し、カリフの実権を掌握。スンニ派の擁護者として、シーア派のブワイフ朝を討つ大義名分を得る。*1 | |||||||
1063年 | トゥグリル・ペグが亡くなり、甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。アルプ・アルスラーンはアタベクのペルシア人官僚ニザームルムルクを宰相として重用。彼のもとで軍事組織の整備や、マムルーク(奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却し君主権力の確立が目指された。 *1 | |||||||
1066年 | ノルマン人によるイングランド征服。*2 | |||||||
1071年 | セルジューク朝の王アルプ・アルスラーン、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う。エジプトを除く中東全域のイスラム世界を支配下に置く*1。 | |||||||
1072年 | ノルマン人による南イタリアとシチリアの解放(キリスト教圏への奪還)。*2 | 第二代スルタン アルプ・アルスラーンの死後、子のマリク・シャーが即位(~1092)。しかし、マリクの即位に反対する親族の独立傾向が強まる。 | ||||||
1077年 | カノッサの屈辱;ローマ教皇グレゴリウス7世(57歳)が、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ(27歳)を破門。ハインリッヒ、カノッサ城前で佇み、許しを請う。 | セルジューク朝がバグダードの本家の他に、ケルマーン(イラン東部)、ルーム(小アジア)、シリア、イラクの四つの地方政権に分裂。*1 | ||||||
1085年 | レコンキスタによりイベリア半島トレド奪還。*2 | |||||||
1086年 | ハインリッヒにローマから追われたグレゴリウス7世死去。*2 | |||||||
1088年 | ウルバン2世、テラチーナでローマ教皇に即位。南イタリアとシチリアを支配するノルマン朝を頼る。*2 | |||||||
1095年 | クレルモン公会議でウルバン2世、十字軍提唱。*2 | シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュ、バルキヤークに敗死。二人の息子リドワーンとドゥカークが所領を分割相続して、バルキヤークの宗主権に対立した。しかし、兄弟の仲も悪く、シリア・セルジュークは衰退していく。*1 | ||||||
1096年 | 隠者ピエールの呼びかけに貧民、女子供まで、5~10万人が付き従い、施しを受けながらイェルサレムを目指す。しかし、ビザンツ帝国領内に入り、特にユダヤ教徒などに対しては略奪を行う。 | クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。*1 | ||||||
▼ 第一次十字軍に参加した主な諸侯は以下のとおり。 | ▼ 第一次十字軍を迎えたシリア各国の領主 | |||||||
◆トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル ; 50代半ば。兵5万。レコンキスタでイスラム教徒との戦闘経験あり周辺の小領主も付き従う。ウルバン2世に公会議前から声をかけられていた。総大将と自認していたと思われるが、裕福で多く兵を養えたが、人望がなかった。また、傘下に法王代理の司教アデマールが参加。第一次十字軍迷走の原因となるが、トリポリ攻略に尽力。 | ◆クルジュ・アルスラン;ルーム・セルジューク第二代スルタン。ニケーアを首都とした。 | |||||||
◆ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン ;36歳。 ロレーヌ地方(現ベルギー)の領主。ロレーヌは後にフランス領となるが、この時代は神聖ローマ帝国に属していた。騎兵1万、歩兵3万と言われている(実体はその半分くらいか)。第一次十字軍の中で自然に総大将と目されていく。法王と対立していた神聖ローマ帝国皇帝の臣下のため、法王としては想定外の参加だったのでは?弟のユースタスとボードワン、いとこのもう一人のボードワンも同行。不要な土地や私物を売り払って遠征費用をまかなったが、それでも足りず領民に寄付を募ったが、予想以上に集まったというほど領民からも人気があった。初代イェルサレム国王となる。 | ◆リドワーン;シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュの長男。アレッポの領主。1095年に父がバルキヤールクの前に敗死すると、兄弟であるドゥカークと所領を分割して相続してバルキヤールクの宗主権を否定して対立した。だがドゥカークとの兄弟仲も非常に険悪だった。 | |||||||
◆プーリア侯ポエモン;47歳。ノルマン朝アルタヴィッラ家に属する。南イタリアからビザンツ帝国勢を駆逐し、シチリアを制覇した。しかし、シチリア王には弟グィスカルドがつき、ビザンツ帝国のギリシアへの侵略はヴェネツィア海軍にはばまれ、アマルフィを攻めている時に十字軍提唱を聞いた。騎兵1万、歩兵2万(実体はその半数くらいか)。ノルマン人で貴族の割合が高く精鋭揃い。甥のタンクレードが同行。敵も含めて女にモテた。後のアンティオキア公国領主。十字軍では勇名をはせたが、ヨーロッパにもどって迷走し、失意の中死去。 | ◆ドゥカーク;シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュの次男。ダマスカスの太守。リドワーンの弟。 | |||||||
その他、◆ヴェルマンドワ伯ユーグ (39歳)、数百~一千、仏王の弟/◆ノルマンディー公ロベール(イングランド王ウィリアム2世の兄)/◆ブロア伯エティエンヌ ;(妻はノルマン朝征服王ウィリアムの娘)/◆フランドル伯ロベール (31歳)、騎兵500。 | ◆ヤギ・シヤーン;アンティオキアの太守。十字軍に包囲されて籠城し、シリア各国の領主であるドゥカーク、リドワーンやモスールのカルブーカに応援を求める。 | |||||||
当時、中東のイスラム教徒全般を「サラセン人」と呼んでいた。 | 当時、ヨーロッパから来るキリスト教徒全般を「フランク人」と呼んでいた。 | |||||||
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1096年 | 1096年の年末までにコンスタンティノープルに入ったのは、ユーグ伯とゴドフロアだけだったが、ビザンツ皇帝アレクシオス・コムネノスは諸侯に対して自らの傭兵と同様に臣下の誓いを求めた。 | |||||||
1097年 | 十字軍最初の大遠征;ニケーア陥落、 | ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。*1 | ||||||
エデッサ領主トロスが、モスール太守を攻めるため十字軍に応援を要請。ボードワンはエデッサに赴くが、トロスが部下に殺されたため、ボードワンがエデッサの領主となる。エデッサ伯領の成立。 | ホラズム朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、旧ガズニ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。 | |||||||
1098年 | フランク(十字軍)、アンティオキア占領。アンティオキア公国(1098~1268)*1建国。攻略の主力となったポエモンが領主となる。 | 十字軍のアンティオキア攻囲中に、ダマスカス太守ドゥカーク、ついでアレッポ領主リドワーンが十字軍を攻めるが敗退。 | ||||||
モースルのカルブーカ率いるムスリムがアンティオキアに援軍として向かうが敗れる。マアッラで人肉食い事件。 | ||||||||
1099年 | ゴドフロワ・ド・ブイヨン、イェルサレム陥落させる。イェルサレム王国(1099~1291)成立。ゴドフロアは大司教の手前、「キリストの墓所の守り人」と称したが、実質的な初代国王。 | イェルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサンジルと交渉し、脱出。その後、エルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。*1 | ||||||
ダマスカスの法官アル=ハラウィ、難民の代表を率いてバグダードへ赴き、侵略に対するムスリム指導者の無策を非難する。*1 | ||||||||
しかし、バグダードでは、スルタンのバルキヤクが弟のムハンマドと、首都バグダードの主導権をめぐり争乱状態だった。*1 | ||||||||
1100年 | イェルサレムのサン・ジルが他の武将と対立し、コンスタンティノープルへ去る。 | |||||||
ゴドフロワ、アッカ攻めの最中に戦死。 | 賢者ダニシメンド、フランクのポエモンを捕虜とする。*1 | |||||||
ポエモンの甥タンクレードがダマスクス近郊を荒らす。 ダマスクス王ドゥカーク、タンクレードの使者を斬首。タンクレード、ダマスクス周辺を破壊。*1 |
||||||||
ゴドフロワの弟エデッサ伯ボードワン、エルサレムへ進軍。ドゥカークは敗走し、ボードワンがイェルサレムの第二代国王となる。*1 | トリポリの首長ファクル・アル=ムルクは、ドゥカークの権勢拡大を危惧し、ボードワンに内情を知らせるなど、ムスリム側はボードワンより大軍であったが、足を引っ張り合って、敗退した。*1 | |||||||
1101年 | サン・ジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。*1 | クルジュ・アルスラン、ニケーアでフランク防御体制をとるが、フランクはアンカラへ。*1 | ||||||
サン・ジル、ニクサルの首長ダニシメンドにメルジフンで敗れる。*1 | クルジュ・アルスラン、フランクの第二次遠征隊を撃破。*1 | |||||||
クルジュ・アルスラン、フランクの第三次遠征隊をヘラクレイアで撃破。*1 | ||||||||
1102年 | サン・ジル、300のフランク兵で、トリポリでムスリム軍と戦い、7千人以上を殺す。*1 | ダマスクス王ドゥカークが、トリポリ領主へ2年前の裏切りの代償を払わせた(か?)。*1 | ||||||
アンティオキアの摂政となったポエモンの甥タンクレードが、アレッポ周辺を荒らす。リドワーンはタンクレードに引き上げてくれるなら要求に応じると伝え、アレッポの寺院の上に大十字架を掲げさせられた。*1 | ダニシメンドは身代金の支払いを条件にポエモンを釈放。釈放されたポエモンはアンティオキアに戻り、近隣のムスリム住民から金を取りたて、身代金とした。*1 | |||||||
宰相アル=アフダルの息子シャラフの2万の軍勢が、ラムラーでボードワンに奇襲。しかし、次の標的をヤーファか、エルサレムか迷っているうちにフランクの援軍が到着し、攻略が困難になる。(*1 P136)*1 | ||||||||
1103年 | サン・ジルはトリポリ攻略のため、その郊外の岬に城塞を築く。*1 | |||||||
1104年 | トリポリによる反撃によるやけどでサンジル死去。トリポリのカーディー ファクル・アル=ムルクと包囲の十字軍の間に休戦協定。 ファクルはカイロのアル=アフダルと仲が悪く、救援を期待できず、ハッラーンで勝利したソクマンに救援を求めた。*1 |
春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元イェルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。ハッラーンにおけるムスリム軍の勝利フランク軍の東への進出を永久に食い止めた。(*1 P140) | ||||||
大セルジュークのバルキヤークが没後、子マリクシャーも若くして死去。バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルが継ぐが、大セルジュークの権威は凋落。 | ||||||||
トリポリ救援に向かったソクマンは、あと4日の行程で、狭心症の発作で死去。 | しかし、ソクマンとジェケルミシュはけんか別れ。ジェケルミシュはタンクレードの不意打ちに愛妾を奪われ、捕虜としているボードワン二世か金貨1万5千ディナールとの交換を申し出た。ポエモンとタンクレードは、金貨を選んだ。(ボードワンはさらに3年捕虜生活を送る)*1 | |||||||
ダマスカスのスルタン ドゥカーク死去、アタベクであったトゥグ・テギーンが権力を掌握。後にブーリー朝(ダマスカス政権)を創設。*1 | ||||||||
1105年 | バクダードのスルタン バルキヤーク死去。バクダードの兄弟間争いによる混乱が終息。弟はムハンマド・イブン・マリクシャーを名乗る。*1 | |||||||
1107年 | ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。*1 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。*1 | ||||||
1108年 | トリポリのファクルは、バグダードのスルタン ムハンマドに支援を直訴することにした。(*1 P151) 途中ダマスカスのトゥグテギンに歓待を受け、バグダードでもムハンマドの歓待を受けるが、援軍は得られなかった。(*1 P152) |
テル・バーシル近郊で二つのムスリム=キリスト教徒同盟軍が戦う。ムスリム諸侯の戦いにフランクが加勢するようになっていく。タンクレード軍にはアレッポのリドワーンが派遣したトルコ騎兵600人が参加。対するモースル領主ジャワリ軍には、エデッサのボードワンとそのいとこジョスランが参加。フランクを追い返すことが最優先事項でなくなっていく。 この戦いはタンクレードが勝利し、アンティオキアを支配。 *1(P146) |
||||||
サンジャル、遠征によりゴール朝を支配する。 | ||||||||
1109年 | 2000日の籠城の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109~1289)*1 | |||||||
1110年 | ベイルートとサイダ(シドン)陥落。*1 | |||||||
1111年 | アレッポの法官イブン・アル=ハシャーブ、バグダードでフランクの侵略に対する介入を求めて、反カリフの暴動を組織する。*1 | |||||||
1112年 | ティール(スール)の勇敢な抵抗。*1 | |||||||
1113年 | リドワーン死去すると若年の息子らの下で権力闘争が発生し、シリア・セルジュークは衰退していく。*1 | |||||||
1115年 | スルタンからの派遣軍に対し、シリアのムスリムとフランクの君侯が同盟。*1 | |||||||
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1119年 | アレッポの領主イルガジ、サルマダでフランクを破る。*1 | |||||||
1124年 | 十字軍、ティールを奪い、アスカロンを除く沿岸全土を占領。*1 | |||||||
1125年 | イブン・アル=ハシャーブ、暗殺教団に殺される*1 | |||||||
1128年 | ダマスカスに対する十字軍の強引策が失敗。*1 | ザンギー、アレッポのあるじとなる。ザンギー朝(~1146年)*1 | ||||||
1135年 | ザンギー、ダマスカス奪取を企てるが失敗。*1 | |||||||
ホラズム朝がセルジューク朝から自立の構えを見せるが、1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルタン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。 | ||||||||
1137年 | ザンギー、イェルサレム王フルクを捕え、のち釈放する。*1 | |||||||
1138年 | ザンギー、フランク=ビザンツ同盟を失敗させる。シャイザルの戦い。*1 | |||||||
1140年 | ザンギーに対し、ダマスカスとイェルサレムが同盟。*1 | |||||||
1141年 | カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると、ホラズム朝は再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。 | |||||||
1144年 | エデッサ伯領消滅。 | ザンギー、エデッサを奪い、中東にできた4つのフランク諸国のうち、最初にできた国を滅ぼす*1。ザンギーは、キリスト教徒の砦にもどらないようエデッサを完全に破壊。 | ||||||
1146年 | ザンギー暗殺され、子のヌールッディーンがアレッポを継ぐ。*1 | |||||||
1147年 | ムラーヴィト朝、ムワッヒド朝に滅ぼされる。 | |||||||
1148年 | ドイツ皇帝コンラート、フランス王ルイ17世率いる第二次十字軍遠征軍、ダマスカスを前に敗走。*1 | |||||||
1149年 | ヌールッディーンの兄が死去。兄の領地モスールを引き継ぐ。 | |||||||
1150年 | もとガズニ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落。その略奪によってガズニ朝は衰退。ガズニ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。 | |||||||
1154年 | ヌールッディーン、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。*1 | |||||||
1157年 | 大セルジュークの支配を回復したサンジャルが病没し、東部ペルシアの大セルジューク朝滅ぶ。(ルーム・セルジュークは存続。)*1 | |||||||
1162年 | アモーリー1世、イェルサレム王に即位(~1174)。 | ムワッヒド朝、グラナダ占領。 | ||||||
アラゴンの王子アルフォンソ(のち2世)、バルセロナ伯となり、アラゴンとバルセロナ連合成る。 | ||||||||
1163年 | ファーティマ朝で権力争いに敗れた宰相シャワールからの援軍要請に応えてシールクーフがエジプト遠征。しかし、シャワールが復権後、十字軍と組んでシールクーフを攻撃(第一次)。シールクーフと十字軍は共に軍を引いた。 | |||||||
1167年 | アモーリー1世、エジプト遠征。 | シールクーフ、再びエジプト遠征。ファーティマ朝・十字軍連合軍と戦う(第二次)が、シールクーフ、十字軍とも軍を引く。*1 | ||||||
1169年 | ファーティマ朝ではシールクーフが政治を専横していたが、その息子カミルからの援軍要請に応えてヌールッディーンが派遣した副将シールクーフ(第三次)がエジプトをザンギー朝の影響下に置く。シールクーフ、ファーティマ朝の宰相となるが2か月後急死。甥のサラディンが継ぐ。サラディンがエジプトでザンギー朝ヌールッディーンに対して独立。*1 | |||||||
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1170年 | イギリスでトーマスベケット事件(カンタベリ―大司教トーマスベケット、対立するヘンリー2世の黙認により暗殺される)。ローマ法王アレクサンドロス3世はヘンリー2世を破門。英と対立するフランス王ルイ7世も法王に同調。 | シリア全域で大地震。ヌールッディーン、復旧に力を注ぐ。 | ||||||
1171年 | イェルサレム王アモーリー1世は、ヌールッディーンやサラディンの勢力拡大に危機感を感じ、ローマ法王へ十字軍派遣を要請する。しかし、トーマスベケット事件などで混乱する西欧情勢により、十字軍は実現せず。(*2 II-P211) | ファーティマ朝カリフ死去。サラディン、ファーティマ朝廃絶し、自ら宰相となり、ダマスカスのカリフに従うことを宣言。アイユーブ朝創設(~1250年)。*1 | ||||||
1172年 | ヌールッディーンが、サラディンに対して合流して、イェルサレム王国を攻めることを提案。しかし、サラディンは父の病気を理由にカイロへ戻る。ヌールッディーンは疑ったがサラディンの父は死去。ヌールッディーンはサラディンのいるエジプト攻略を構想。 | |||||||
1174年 | イェルサレム王アモーリー死去(38歳)。ライ病のボードワン4世が王に即位(13歳)。母后アグネーゼ・ド・コートネーの介入を排除。ティロスのグイエルモを宰相に任命。 | ヌールッディーン死去(56歳)。クルド族出身のサラディンはセルジューク・トルコの領主たちが補佐するヌールッディーンの息子に忠誠を誓い、ダマスカスに入城し、支配*1。 | ||||||
1177年 | モンジザールの戦い;580騎のボードワン軍(イェルサレム軍500騎、聖堂騎士団80騎)が、2万6千のサラディン軍を破る。サラディンはじめての敗戦。 | |||||||
1179年 | シリアでサラディンの弟がボードワン軍を襲撃。将軍トロンはボードワンを守って戦死。ボードワンは追悼戦のためイスラム領内に攻め込むが、サラディン本軍の逆襲により、聖堂騎士団団長など多くが捕虜となる。 | |||||||
1181年 | イェルサレムの南ケラークとモントレーの領主シャティヨンがイスラム教徒の巡礼団を襲う盗賊行為をたびたび行う。 | |||||||
1183年 | ボードワン4世は、姉シビッラの6歳の息子を王位に就け(ボードワン5世)、トリポリ伯レーモンとバリアーノ・イベリンを摂政とした。シビッラが結婚した無能なルジャンにが王になるのを防ぐため。また、宰相グイエルモをローマに派遣し、十字軍派遣を要請した。(グイエルモは行方不明となる) | サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。*1 | ||||||
サラディンの弟アル=アーディルの艦隊が、シャティヨンの艦隊を攻撃、シャティヨンの手下を斬首。 | ||||||||
1185年 | ボードワン4世死去(24歳)。 | |||||||
1186年 | ボードワン5世死去(8歳)。母シビッラと夫ルジニャンがイェルサレムの共同支配者となる。 | サラディン、モスールを支配。名実ともにイスラム世界の支配者となる。 | ||||||
カズニ朝、ゴール朝によって滅ぼされる。 | ||||||||
1187年 | ヒッティーン会戦後、バリヤーノ・イベリンがサラディンと交渉し、イェルサレム無血開城。 十字軍はティール、トリポリ、アンティオキアのみを保持。(アンティオキアはビザンツ帝国が支配)*1 II-P287 ローマ教皇ウルバン3世は、イェルサレムがイスラム側に奪還されたとの報を聞いて、ショックで死去。 |
サラディン、「聖戦(ジハード)」を宣言。北、東、そして南はカイロから弟アル=アーディルにより、イェルサレムを包囲。イスラム側は攻城戦が苦手であることを認識したサラディンは、周辺を支配し、平原におびき出す戦術にでる。ヒッティーンの会戦で、サラディン軍4万は十字軍1万8千を巧みに追い込み、撃破。イェルサレムを包囲、開城。88年ぶりにイスラム側に戻る。また、サラディンは十字軍領の大部分(ガリラヤ地方、アッコン、ヤッファ、アスカロン等)を回復。*2(II-P283) | ||||||
1188年 | 教皇クレメンス3世、第三次十字軍を提唱。 イギリス王ヘンリー2世は十字軍に応じようとするが、息子リチャードが反乱を起こし敗れ、後に死去。リチャード1世(獅子心王)が十字軍に応じる。 フランス王フィリップ2世も参加を表明。二人一緒に発ち、一緒に帰る。帰国が遅れた場合でも他方の領土を侵害しない協定を結ぶ。 |
サラディン、ティールを攻囲。ティール防衛の指揮官モンフェラート侯コラードに対して、開城しなければ、捕虜になっている父グイエルモを殺す、と脅すが、コラードは父親に対して矢を射かけて拒否。サラディンは父親を解放し、ティールから撤退。第三次十字軍の第一戦となり、サラディン攻勢の勢いが止まる。 サラディンは、捕虜としていたイェルサレム王ルジニャンも釈放するが、ヒッティーンでの敗北の責任者の入城をティールが拒否する。 |
||||||
1189年 | イェルサレム王ルジニャン、バリアーノ・イベリン、聖堂騎士団、病院騎士団、ピサ、ジェノヴァなどがアッコン奪還のため攻撃開始。第三次十字軍の第二戦。欧州から遠征してくる十字軍もアッカを目指すようになる。 5月神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ=赤ひげ、62歳)が陸路進軍開始。騎兵数千、歩兵数万の大規模軍。 |
アッカ防衛を市内の防衛力に任せようとしていたサラディンだったが、兵站基地としてのティール(アッカの50Km北)の参戦もあり、サラディン自ら参戦すると決める。 アッカを包囲するフランク軍の外側をサラディンの甥タキ・アル・ディールに指揮を任せ、弟アル=アーディルを中央に配した。 しかし、ヒッティーンの熱狂が過ぎたエミル(太守)たちは自らの所領にもどり、サラディンの派兵要請に応じなくなる。*2 |
||||||
1190年 | 6月 フリードリッヒ1世、小アジアで渡河中に落馬し、溺死。ドイツ軍は解散。次男フリードリッヒに従ってイェルサレムを目指したのは騎兵700、歩兵6千のみ。 7月英王リチャード1世と仏王フィリップ2世が海路で出発。合計で騎兵数百、歩兵数千。*2 III-P92 |
|||||||
1191年 | 7月、英王リチャードのアッカ到着後に、アッカを開城。 イギリス王リチャードの介入で、第三次十字軍はサラディンからイェルサレムを除く数都市を回復。*1 8月、仏王フィリップは、仏軍を残して帰国。フランドル伯が戦死したため、その領土を狙っていたか。仏王より大きなフランドル伯領、シャンパーニュ伯領、ブルゴーニュ伯領、そして、英王が所有するアクィテーヌ地方などへの領土拡大の野心を持っていた。*2 |
|||||||
ドイツ軍を率いていたオーストリア公レオポルドが軍を残して帰国。残されたドイツ人は「チュートン騎士団」という3つ目の宗教騎士団となる。 | ||||||||
8月リチャードは、サラディンが身代金の支払いを先延ばししたことに対して、人質2,500人を殺害し、イェルサレムに進軍。約2万の軍勢。 | サラディンは5万の兵でリチャードを追う。 | |||||||
9月7日 アルスーフの戦闘;リチャードの指揮のもと、十字軍は行軍を続けながらの5時間の激闘で、アヴェーヌ伯ジャックが戦死するが、十字軍が勝利し、アルスーフに入城。9月15日サラディンの命により破壊されていたヤッファ(現テル・アビブ)に入城。 | ||||||||
11月リチャードとアル・アーディル(サラディンの弟)の休戦会談するが決裂。12月25日十字軍は、ラムラまでを占領。 | ||||||||
1192年 | 1月バイ・ヌーバ(イェルサレムまで30Km)占領するが、リチャードはいったん後退。エジプト支配を任されているサラディンの弟アル・アーディルによりエジプトから援軍がくる可能性もあり、第一次十字軍のときとはちがって、イスラム側がサラディンのもとで結束しており、慎重を期した。*2 源頼朝を征夷大将軍に任命。鎌倉幕府を開く。 |
|||||||
リチャードはアッカでのピサとジェノバやその背後にいる諸侯の内紛を仲裁。イェルサレム王位はルジニャンからモンフェラート侯コラードへ。リチャードはルジニャンをキプロス王とした。コラードは裏でサラディンと取引し、イェルサレム攻略に参戦していなかった。*2 III-P142 | ||||||||
リチャードはイェルサレム攻略の前に、破壊されていたアスカロンを再建する。*2 また、アスカロンおよびイェルサレム攻略の進路を守るために、エジプト方面のガザ、ダールムを攻略。 | ||||||||
アスカロン再建後に仏軍はティールに撤退。仏王フィリップが英王リチャードの十字軍滞在を長引かせるため。 ティールでコラードが暗殺される。バリアーノ・イベリンはイェルサレム王継承権を持つ娘イベリンとシャンパーニュ伯アンリを結婚させ、イェルサレム王継承者を定める。 |
||||||||
英本国から仏王フィリップとリチャードの弟ジョンが組んで攻め込んできており、救援、つまりリチャードの帰国を要請してきた。 | ||||||||
リチャードは、サラディンと休戦交渉を開始。しかし、8月1日リチャードが留守をしていたヤッファにイェルサレムのサラディンが攻撃をしかける。リチャードは馬が少ない守備隊に甲冑と槍による針の山を作って防ぎ切った。;ヤッファ前の戦闘。 | リチャードからの再度の講和提案。8月4日アル・アーディルがヤッファを訪れ、講和締結。このとき、アル・アーディルは長男を同行したが、この少年を気に入ったリチャードは騎士に叙任した。のちに第六次十字軍を迎えるスルタン アル・カーミルである。*2 | |||||||
講和は、イェルサレムはイスラム側のまま、ただしキリスト教徒の巡礼は認める。イスラム側は巡礼者の安全を保証する。ティールからヤッファまでとその周辺は十字軍側に属す。双方の自由な行き来、つまり経済交流も認めた。アスカロンは破壊される。*2 III-P172 | リチャード1世とサラディンとの講和は3年8か月の期限を越えて、1218年(第五次十字軍)まで平和がつづく。 | |||||||
リチャードが帰国途上、暴風で船が難破。聖堂騎士団に扮して陸上を旅したが、途中でオーストリア公レオポルドに捕らえられる。アッカ占領後に城壁の塔のオーストリア公の旗を下ろされた恨みから幽閉される。*2 | ||||||||
1193年 | リチャードが幽閉されていることを知ったイギリスから復讐を恐れたレオポルドは神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世にリチャードの身柄を預けた。ハインリッヒは仏王フィリップ2世から幽閉を続けるよう依頼される。皇帝ハインリッヒはモンフェラート侯コラードを「ハッシシを吸う男たち」と呼ばれる暗殺集団に殺させた罪で裁判にかける。しかし、暗殺集団を率いる「山の老人」からコラードを殺したのは自分たちの復讐のためであり、リチャード1世からの依頼ではないとの手紙が届く。裁判にかける理由がなくなったが、皇帝ハインリッヒは、リチャードに法外な身代金を求めた。母エレノオールやソールズベリー司教などが金策し、1年3か月ぶりに釈放された。 | サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル・アーディルが再統一。*1 | ||||||
1194年 | 本国では熱狂で迎えられたリチャード1世に、ジョン派の諸侯も恭順を示し、弟ジョンはフランスに逃げた。リチャードは不在の間にフランス王フィリップに奪われていた領土奪還のためフランスに向った。 | ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。 | ||||||
1196年 | リチャードは、2年の間にノルマンディー地方とアクィテーヌ地方の大部分を奪還し、フィリップと休戦。 | サラディンの息子たちの間で権力争い。アル・アーディルは、長男アル・アフダルをダマスカスから追放。 | ||||||
フリードリッヒ2世、シチリア王(ノルマン朝)とドイツ王とを兼ねる(2歳)。 | ||||||||
1198年 | ローマ教皇インノケンティウス3世即位(38歳)。第三次十字軍の講和とローマ教皇代理が同行していない世俗の十字軍であったことに不満であった。 | サラディンの次男アル・アズィズが落馬で死去。長男アル・アフダルが政権復帰に動く。 | ||||||
1199年 | 2年の休戦の後、再開した戦争でリチャード戦死。 子がいなかったため亡き兄の遺児を後継としていたが、リチャードの弟ジョンが横取りして国王即位。 しかし、在位の17年間でリチャードが取り返した領土のほとんどを仏王フィリップス2世に取り返され、「失地王」と称される。*2 III-P189 |
|||||||
1200年 | インノケンティウス3世、フランス諸侯に第四次十字軍を呼びかける。シャンパーニュ伯ティボーなどが賛同。シャンパーニュ伯、ブロア伯、フランドル伯の家臣2人ずつの合計6任人を代表として、ここで決めたことを全員の意思とすることとした。 | |||||||
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1201年 | 5月十字軍の代表がヴェネツィアに海上輸送の依頼のための交渉に赴く。 | 太守たちに見放されたアル・アフダルが引退生活にもどることを承知、アル・アーディルがスルタンに就く。 | ||||||
ヴェネツィアは、イスラムのアル・アーディルとの不可侵条約交渉中だったが、4,500人の騎士と2万人の歩兵の輸送を85,000マルクで請け負う。ただし、十字軍が征服した領土の半分をもらうことを条件として快諾される。*2 III-P222 | アル・アーディル、ヴェネツィアとの通商条約に「相互不可侵」を追加。次の十字軍に備える。 | |||||||
総司令官となる予定のシャンパーニュ伯ティボーが病死。伯から資金と十字軍参加を託された多くの諸侯が姿を現さなかった。モンフェラート侯ボニファチオが総司令官を引き受ける。 仏王フィリップ2世は、周辺の諸侯がまた十字軍として留守にすることを喜んだ。*2 |
||||||||
1202年 | ヴェネツィアの集結したのは1万程度で予定の1/3だった。しかし、6/24出発予定日に向けてヴェネツィア側は約束の艦隊(ガレー船50隻、帆船240隻、平底船120隻、快速小型ガレー船70隻、計480隻)の準備を終えていた。しかし、約束の支払いができるまでヴェネツィアは船を出さないと通告。 *2 III-P234 | |||||||
8月ヴェネツィアのドージェ(元首)ダンドロは、ハンガリー王の扇動で反乱したザーラ(アドリア海のヴェネツィアの基地)攻略に手を貸してくれるなら、借金の返済期間を延期すると相談。キリスト教徒を攻めることに抵抗があり、協議したが、十字軍代表者たちは提案を受け入れた。 10月ヴェネツィアを出港。 11月 ザーラを攻略。インノケンティウス3世が十字軍とヴェネツィアを破門にした。釈明した結果、十字軍だけは破門解除。後にヴェネツィアも解除。 |
||||||||
ザーラで越冬している間に、ビザンツ帝国の皇子アレクシスが、簒奪された帝位を取り戻すために、ビザンツ帝国の首都への攻撃を求めにきた。(1)20万マルク、(2)エジプト攻めのための兵1万を1年間提供、(3)パレスティナのキリスト教徒防衛要員500の騎兵提供、(4)ギリシア正教会をローマカトリック教会に統合、が条件。 ドイツに行っていたモンフェラート侯は事前に知っていた可能性も。 |
||||||||
1204年 | コンスタンティノープルを10か月で攻略。ビザンツ皇帝は逃亡し、皇子アレクシスも元皇帝であった父も殺されており、帝位不在となり、フランドル伯を皇帝とするラテン帝国を樹立。5/8をフランス諸侯に分与、3/8をヴェネツィア領とした。また、ヴェネツィアが敵対する国の商品はラテン帝国では通商できないことを決めた。 また、この遠征でドージェ ダンドロは、ヴェネツィアからコンスタンティノープルまでの間をクレタ島を含む領有基地でつなぐ海のルートを確立し、「地中海の女王」となっていく。た。 *2 III-P256 |
|||||||
1205年 | ヴェネツィア元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロ、コンスタンティノープルで死去。 | |||||||
1208年 | 対アルビジョア派十字軍、南仏勢力を弱め、北仏のフィリップ2世を利する。 | |||||||
1214年 | フランク、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。*1 | アル・アーディルの息子アル・カーミルがフランクを撃退。*1 | ||||||
1216年 | ローマ教皇インノケンティウス3世死去。ホノリウス3世即位。第五次十字軍を提唱。イェルサレム王女マリア(17歳)と結婚し、王位に就いていたフランス人騎士ジャン・ド・ブリエンヌ(60歳)に催促する。リーダーシップの欠けた十字軍にホノリウスはペラーヨ枢機卿を就け、ローマ教皇主導の十字軍となった。海軍としてはヴェネツィアに対して挽回を期すジェノヴァが参加。 | イスラム側も、73歳と高齢になったアル・アーディルと息子のアル・カーミル(38歳)の交代期にあたり、シリア派とエジプト派の太守の間での権力争いが起きていた。アル・アーディルは長男のアル・カミールにエジプト統治を任せる等エジプト重視の方針だった。 | ||||||
1218年 | 5月 第五次十字軍がエジプトのダミエッタ(ナイル河口三角州の東端)に上陸。 8月 ダミエッタの城塞を陥落させる。*2 III-P276 |
8月 アル・アーディル死去。 エジプト以外の太守(エミル)が、アル・カーミルのクルディスタンを統治していた7番目の弟アル・ファイズを担いで反乱。ダマスクスの次弟アル・ムアザムが兄に味方し、反乱鎮圧。 |
||||||
ローマ教皇ホノリウスから、ドイツ王フリードリッヒ2世へ第五次十字軍への参加要請。フリードリッヒは延期しつつ、長男をドイツ王にするための画策を行う。*2 III-P297 | ||||||||
1219年 | アッシジの修道僧(後の聖フランチェスコ)がアル・カーミルの陣幕に行き、キリスト教への改宗を勧めた。殺されず、十字軍陣営に送り届けられた。 | |||||||
アル・カーミルから、エジプトから出ていけば、イェルサレムとガリラヤ地方を十字軍に渡すとの和平提案があったが、キリスト教徒の血で解放されるべきという法王代理のペラーヨ枢機卿やエジプトの基地化を狙うジェノバ海軍が反対。 | ||||||||
1220年 | ダミエッタ陥落。イスラム教徒殺戮。ダミエッタ防衛とカイロ攻略は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世を待って行うこととした。 | |||||||
11月 フリードリッヒ2世、ローマ教皇ホノリウスから戴冠し、神聖ローマ皇帝に即位(26歳)。十字軍への参加も誓うが、急がなかった。フリードリッヒはそのまま領国シチリアへ赴く。 | ||||||||
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1221年 | アル・カーミルからの和平提案をペラーヨ枢機卿が再度拒否。 | アル・カーミルは、フリードリッヒ2世の派遣を恐れ、再度イェルサレムを譲り渡す和平提案を行う。 | ||||||
水攻めにされ被害を受けた十字軍は撤退し、浅瀬になりジェノヴァ海軍の船が近づけなくなり、物資が補給されなくなり、疫病も流行った。 | 夏の増水期にアル・カーミルは、ダミエッタ方面のダムをせき止め、増水した時に決壊させ、十字軍を水攻めにした。 | |||||||
十字軍はアル・カーミルからの和平提案を受け、エジプトから撤退。 *2 III-P287 | アル・カーミルから3度目の和平提案;ダミエッタ放棄とエジプトからの撤退。期限は8年間。 | |||||||
1223年 | フリードリッヒ2世、シチリアで反乱を起こしたサラセン人(アラブ人)をイタリア半島のフォッジア近郊に移住させ、イスラム信仰も容認した。ナポリに大学をつくり、古代ローマ法を教えたり、サレルノの医学校を再興したりした。ボローニャなど神学校中心の大学とは趣が異なり、ローマ教皇の気に障ることをした。 | |||||||
フランス王フィリップ2世死去。 | ||||||||
1225年 | 11月 フリードリッヒ2世、イェルサレム王の娘ヨランダと南イタリアのブリンディシで結婚、イェルサレム王となる。 | |||||||
1227年 | ローマ教皇ホノリウス死去。グレゴリウス9世即位(57歳)。フリードリッヒ2世へ十字軍を起こすことを要請。 | |||||||
8月 フリードリッヒ2世、第六次十字軍として出発を発表したが、疫病流行により延期。グレゴリウス9世はフリードリッヒを破門にした。フリードリッヒの反論の手紙に2度目の破門。 | アル・カーミルの弟アリ・ムアザム死去。エジプト派とシリア派の対立解消。フリードリッヒへのイェルサレム返還を白紙にした。 | |||||||
1228年 | フリードリッヒ2世の妻ヨランダが息子コンラッドを生んだ後に死去(17歳)。 | |||||||
6月、フリードリッヒ2世、ブリンディシから出港(第六次十字軍)。チュートン騎士団団長ヘルマン、マルタ島出身の海将エンリコが副将となり、イタリアの都市に依頼するのではなく、自前の海軍を建造した。 | ||||||||
9月フリードリッヒ2世、アッカ到着。十字軍史上はじめての皇帝の到着に熱狂。フリードリッヒ2世はアル・カーミルの代理人ファラディンと交渉を開始。フリードリッヒ2世は幼少期のシチリア時代にアラビア語を話せるようになっていた。■■■ *2 III-P328 ■■■ | ||||||||
1229年 | アル・カーミル、イェルサレムをフリードリッヒ2世に引き渡し、アラブ世界から非難される。*1 | |||||||
1244年 | 十字軍、イェルサレムを失う。*1 | |||||||
1248年 | フランス王ルイ9世、エジプトを侵略するが、敗れて捕虜となる。*1 | |||||||
1250年 | スルタンのトゥーラーン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝滅亡。義母のシャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとするマムルーク朝始まる(~1517年)。*1 | |||||||
1258年 | モンゴルのフラグがバグダードを破壊、住民を虐殺。アッバース朝最後のカリフを殺す。*1 | |||||||
1260年 | モンゴル軍、アレッポ、ダマスカスを奪うが、アイン・ジャールートの合戦で敗退。バイバルス、マムルーク朝の指導者となる。*1 | |||||||
1268年 | バイバルス、モンゴルの同盟国アンティオキアを奪い、破壊・虐殺。*1 | |||||||
1270年 | ルイ9世、侵略に失敗して、チュニス近郊で死去。*1 | |||||||
1289年 | マムルークのスルタン カラーウーン、トリポリを奪う。*1 | |||||||
スルタンのハリール・アル=アシュラフ、アッカを奪い、中東におけるフランクの2世紀にわたる存在に終止符を打つ。*1 |
■ 主要都市の支配 ■ | |||||||||
1096年 | クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
クルージュ・アルスラン | |||||||||
1097年 | ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | ヤギ・シヤーン | ||||||||
1098年 | フランク(十字軍)、エデッサとアンティオキア占領。モースルのカルブーカ率いるムスリム援軍敗れる。マアッラで人肉食い事件。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ||||||||
1099年 | ゴドフロワ・ド・ブイヨン、エルサレム陥落させる。 エルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサンジルと交渉し、脱出。その後、エルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
サンジル | フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | アル=アフダル | バルキヤク | ||
1101年 | サンジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。1100年8月にポエモンが捕えられてからアンティオキアは元首を欠いた状態だったが、近隣のリドワーン、クルジュ・アルスラン、ダニシメンドは、これに乗じて攻めることはしなかった。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | ||||
1102年 | 1100年8月にポエモンが捕えられてからアンティオキアは元首を欠いた状態だったが、近隣のリドワーン、クルジュ・アルスラン、ダニシメンドは、これに乗じて攻めることはしなかった。1102年にはタンクレードが摂政となる。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | ||||
1104年 | 1104年春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元エルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため、和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (タンクレード) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | |||
1107年 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (ボードワン) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | |||
1108年 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (ボードワン) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | トゥグテギン | フランク | バルキヤク | |||
1110年 | 1109年、2000日の籠城の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109~1289)成立。1110年、ベイルートとサイダ(シドン)陥落。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (ボードワン) |
リドワーン | フランク | トゥグテギン | フランク | バルキヤク |
資料 | 『世界史大年表』 石橋秀雄他 |
『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ著 *1 | |
『十字軍物語』塩野七生 *2 | |
スンニ派とシーア派について(『中東解体新書』NHK)_[写し] |
実証主義史学 | 史観の歴史TOP | |
成立・編纂者 | ||
概要 | 「私の考える実証史学のイメージは、まず、歴史事実や史料からこつこつと「史実」を復元する。次に、復元された史実をいくつも並べて、その史実たちを俯瞰する「史像」を導く。そしてそれらの史像を集めたうえで、「史観」といおう歴史の見方を生み出していく。史実から外れた史像や史観はもちろん論外だが、史実という土台がしっかりと築かれている上に表された史像や史観ならばそれは実証史学の範疇である。(『歴史学者という病』本郷和人 P174) | |
時代背景 | ||
著作物 | ||
参考文献・関連リンク | 『歴史学者という病』(本郷和人著) |