十字軍の歴史 | 探究テーマ史 #108 |
概 要 | ||
(1) 1038年 | セルジューク族の拡大 | |
(2) 1041年 | セルジューク朝の成立 | |
(3) 1055年 | セルジューク朝のトゥグリル・ベグ、バグダードに入城しカリフとなる | |
(4) 1071年 | セルジューク朝、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う | |
(5) 1077年 | セルジューク朝、バグダードの本家の他に四つの地方政権に分裂 | |
(6) 1097年 | 最初の十字軍遠征により、ニケーア陥落 | |
(7) 1099年 | 十字軍によりイェルサレム王国など建国される | |
(8) 1110年 | 十字軍により、トリポリなどパレスティナ沿岸がほぼ占領される | |
(9) 1120年 | 第一次十字軍主要人物が去り、パレスティナ十字軍諸都市が守りの時代に入る | |
(10)1128年 | アレッポの太守ザンギーが勢力拡大 | |
(11)1144年 | ザンギーがエデッサ伯領を奪還 | |
(12)1154年 | ヌールッディーン、ダマスカスに入城 | |
(13)1163年 | ヌールッディーン、エジプトを支配下に置く | |
(14)1171年 | サラディン、アイユーブ朝を創設 | |
(15)1183年 | サラディン、エジプト・シリアを統一 |
版図を大きく広げたセルジューク朝は支配域の中に、セルジューク朝の権威を認めて服属する小王朝を抱え込み、さらにトゥグリル・ベグの時代から大スルタンとよばれるセルジューク家長を宗主として、各地でセルジューク一族が地方政権を形成して自立した支配を行っていた。このような構造をもつセルジューク朝の支配をセルジューク帝国と呼ぶ学者もいる。(Wiki) セルジューク朝トルコの圧迫に危機感を持ったビザンツ帝国の呼びかけもあり、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するための西欧騎士団の熱狂から始まり、複数回の遠征が行われた。しかし、しばしば宗教上大儀名分を逸脱して、略奪と征服の熱狂へと変わった。11世紀末から約2世紀に渡り、地中海のシリア沿岸の諸都市にキリスト教の拠点を作ったが、エジプトのマムルーク朝によって完全に撃退されることとなる。イスラム教から見れば、突如として平和を破られたフランクの蛮行として歴史にとどめられ、長い間、キリスト教圏との間に大きな溝をつくることとなった。当時、西欧より先進的な文明を築いていたイスラム教圏であったが、フランクの侵攻に対して、連携することなく、各都市が個別に攻略され、また、イスラム教圏での覇権争いから足を引っ張り合って、キリスト教から侵略者を撃退するまでに200年近い時間を要することとなる。 |
年代 | キリスト教圏 | イスラム圏 | ||||||
1038年 | トゥグリル・ペグがカズニ朝から独立、セルジューク朝トルコ成立(1038~1157年)。 | |||||||
1055年 | トゥグリル・ペグはアッバース朝カリフから招かれてバグダードに入城し、カリフの実権を掌握。スンニ派の擁護者として、シーア派のブワイフ朝を討つ大義名分を得る。*1 | |||||||
1063年 | トゥグリル・ペグが亡くなり、甥のアルプ・アルスラーンがスルタン位を継承した。アルプ・アルスラーンはアタベクのペルシア人官僚ニザームルムルクを宰相として重用。彼のもとで軍事組織の整備や、マムルーク(奴隷兵)をもとにした君主直属軍事力の拡大がはかられ、遊牧集団の長から脱却し君主権力の確立が目指された。 *1 | |||||||
1066年 | ノルマン人によるイングランド征服。*2 | |||||||
1071年 | セルジューク朝の王アルプ・アルスラーン、マンジケルトの戦いで、ビザンツを破り、小アジアを奪う。エジプトを除く中東全域のイスラム世界を支配下に置く*1。 | |||||||
1072年 | ノルマン人による南イタリアとシチリアの解放(キリスト教圏への奪還)。*2 | 第二代スルタン アルプ・アルスラーンの死後、子のマリク・シャーが即位(~1092)。しかし、マリクの即位に反対する親族の独立傾向が強まる。 | ||||||
1077年 | カノッサの屈辱;ローマ教皇グレゴリウス7世(57歳)が、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ(27歳)を破門。ハインリッヒ、カノッサ城前で佇み、許しを請う。 | セルジューク朝がバグダードの本家の他に、ケルマーン(イラン東部)、ルーム(小アジア)、シリア、イラクの四つの地方政権に分裂。*1 | ||||||
1085年 | レコンキスタによりイベリア半島トレド奪還。*2 | |||||||
1086年 | ハインリッヒにローマから追われたグレゴリウス7世死去。*2 | |||||||
1088年 | ウルバン2世、テラチーナでローマ教皇に即位。南イタリアとシチリアを支配するノルマン朝を頼る。*2 | |||||||
1095年 | クレルモン公会議でウルバン2世、十字軍提唱。*2 | シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュ、バルキヤークに敗死。二人の息子リドワーンとドゥカークが所領を分割相続して、バルキヤークの宗主権に対立した。しかし、兄弟の仲も悪く、シリア・セルジュークは衰退していく。*1 | ||||||
1096年 | 隠者ピエールの呼びかけに貧民、女子供まで、5~10万人が付き従い、施しを受けながらイェルサレムを目指す。しかし、ビザンツ帝国領内に入り、特にユダヤ教徒などに対しては略奪を行う。 | クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。*1 | ||||||
▼ 第一次十字軍に参加した主な諸侯は以下のとおり。 | ▼ 第一次十字軍を迎えたシリア各国の領主 | |||||||
◆トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル ; 50代半ば。兵5万。レコンキスタでイスラム教徒との戦闘経験あり周辺の小領主も付き従う。ウルバン2世に公会議前から声をかけられていた。総大将と自認していたと思われるが、裕福で多く兵を養えたが、人望がなかった。また、傘下に法王代理の司教アデマールが参加。第一次十字軍迷走の原因となるが、トリポリ攻略に尽力。 | ◆クルジュ・アルスラン;ルーム・セルジューク第二代スルタン。ニケーアを首都とした。 | |||||||
◆ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン ;36歳。 ロレーヌ地方(現ベルギー)の領主。ロレーヌは後にフランス領となるが、この時代は神聖ローマ帝国に属していた。騎兵1万、歩兵3万と言われている(実体はその半分くらいか)。第一次十字軍の中で自然に総大将と目されていく。法王と対立していた神聖ローマ帝国皇帝の臣下のため、法王としては想定外の参加だったのでは?弟のユースタスとボードワン、いとこのもう一人のボードワンも同行。不要な土地や私物を売り払って遠征費用をまかなったが、それでも足りず領民に寄付を募ったが、予想以上に集まったというほど領民からも人気があった。初代イェルサレム国王となる。 | ◆リドワーン;シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュの長男。アレッポの領主。1095年に父がバルキヤールクの前に敗死すると、兄弟であるドゥカークと所領を分割して相続してバルキヤールクの宗主権を否定して対立した。だがドゥカークとの兄弟仲も非常に険悪だった。 | |||||||
◆プーリア侯ポエモン;47歳。ノルマン朝アルタヴィッラ家に属する。南イタリアからビザンツ帝国勢を駆逐し、シチリアを制覇した。しかし、シチリア王には弟グィスカルドがつき、ビザンツ帝国のギリシアへの侵略はヴェネツィア海軍にはばまれ、アマルフィを攻めている時に十字軍提唱を聞いた。騎兵1万、歩兵2万(実体はその半数くらいか)。ノルマン人で貴族の割合が高く精鋭揃い。甥のタンクレードが同行。敵も含めて女にモテた。後のアンティオキア公国領主。十字軍では勇名をはせたが、ヨーロッパにもどって迷走し、失意の中死去。 | ◆ドゥカーク;シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュの次男。ダマスカスの太守。リドワーンの弟。 | |||||||
その他、◆ヴェルマンドワ伯ユーグ (39歳)、数百~一千、仏王の弟/◆ノルマンディー公ロベール(イングランド王ウィリアム2世の兄)/◆ブロア伯エティエンヌ ;(妻はノルマン朝征服王ウィリアムの娘)/◆フランドル伯ロベール (31歳)、騎兵500。 | ◆ヤギ・シヤーン;アンティオキアの太守。十字軍に包囲されて籠城し、シリア各国の領主であるドゥカーク、リドワーンやモスールのカルブーカに応援を求める。 | |||||||
当時、中東のイスラム教徒全般を「サラセン人」と呼んでいた。 | 当時、ヨーロッパから来るキリスト教徒全般を「フランク人」と呼んでいた。 | |||||||
1096年の年末までにコンスタンティノープルに入ったのは、ユーグ伯とゴドフロアだけだったが、ビザンツ皇帝アレクシオス・コムネノスは諸侯に対して自らの傭兵と同様に臣下の誓いを求めた。 | ||||||||
1097年 | 十字軍最初の大遠征;ニケーア陥落、 | ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。*1 | ||||||
エデッサ領主トロスが、モスール太守を攻めるため十字軍に応援を要請。ボードワンはエデッサに赴くが、トロスが部下に殺されたため、ボードワンがエデッサの領主となる。エデッサ伯領の成立。 | ホラズム朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、旧ガズニ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする。アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。 | |||||||
1098年 | フランク(十字軍)、アンティオキア占領。アンティオキア公国(1098~1268)*1建国。攻略の主力となったポエモンが領主となる。 | 十字軍のアンティオキア攻囲中に、ダマスカス太守ドゥカーク、ついでアレッポ領主リドワーンが十字軍を攻めるが敗退。 | ||||||
モースルのカルブーカ率いるムスリムがアンティオキアに援軍として向かうが敗れる。マアッラで人肉食い事件。 | ||||||||
1099年 | ゴドフロワ・ド・ブイヨン、イェルサレム陥落させる。イェルサレム王国(1099~1291)成立。ゴドフロアは大司教の手前、「キリストの墓所の守り人」と称したが、実質的な初代国王。 | イェルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサンジルと交渉し、脱出。その後、エルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。*1 | ||||||
ダマスカスの法官アル=ハラウィ、難民の代表を率いてバグダードへ赴き、侵略に対するムスリム指導者の無策を非難する。*1 | ||||||||
しかし、バグダードでは、スルタンのバルキヤクが弟のムハンマドと、首都バグダードの主導権をめぐり争乱状態だった。*1 | ||||||||
1100年 | イェルサレムのサン・ジルが他の武将と対立し、コンスタンティノープルへ去る。 | |||||||
ゴドフロワ、アッカ攻めの最中に戦死。 | 賢者ダニシメンド、フランクのポエモンを捕虜とする。*1 | |||||||
ポエモンの甥タンクレードがダマスクス近郊を荒らす。 ダマスクス王ドゥカーク、タンクレードの使者を斬首。 タンクレード、ダマスクス周辺を破壊。*1 |
||||||||
ゴドフロワの弟エデッサ伯ボードワン、エルサレムへ進軍。ドゥカークは敗走し、ボードワンがイェルサレムの第二代国王となる。*1 | トリポリの首長ファクル・アル=ムルクは、ドゥカークの権勢拡大を危惧し、ボードワンに内情を知らせるなど、ムスリム側はボードワンより大軍であったが、足を引っ張り合って、敗退した。*1 | |||||||
1101年 | サン・ジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。*1 | クルジュ・アルスラン、ニケーアでフランク防御体制をとるが、フランクはアンカラへ。*1 | ||||||
サン・ジル、ニクサルの首長ダニシメンドにメルジフンで敗れる。*1 | クルジュ・アルスラン、フランクの第二次遠征隊を撃破。*1 | |||||||
クルジュ・アルスラン、フランクの第三次遠征隊をヘラクレイアで撃破。*1 | ||||||||
1102年 | サン・ジル、300のフランク兵で、トリポリでムスリム軍と戦い、7千人以上を殺す。*1 | ダマスクス王ドゥカークが、トリポリ領主へ2年前の裏切りの代償を払わせた(か?)。*1 | ||||||
アンティオキアの摂政となったポエモンの甥タンクレードが、アレッポ周辺を荒らす。リドワーンはタンクレードに引き上げてくれるなら要求に応じると伝え、アレッポの寺院の上に大十字架を掲げさせられた。*1 | ダニシメンドは身代金の支払いを条件にポエモンを釈放。釈放されたポエモンはアンティオキアに戻り、近隣のムスリム住民から金を取りたて、身代金とした。*1 | |||||||
宰相アル=アフダルの息子シャラフの2万の軍勢が、ラムラーでボードワンに奇襲。しかし、次の標的をヤーファか、エルサレムか迷っているうちにフランクの援軍が到着し、攻略が困難になる。(*1 P136)*1 | ||||||||
1103年 | サン・ジルはトリポリ攻略のため、その郊外の岬に城塞を築く。*1 | |||||||
1104年 | トリポリによる反撃によるやけどでサンジル死去。トリポリのカーディー ファクル・アル=ムルクと包囲の十字軍の間に休戦協定。 ファクルはカイロのアル=アフダルと仲が悪く、救援を期待できず、ハッラーンで勝利したソクマンに救援を求めた。*1 |
春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元イェルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。ハッラーンにおけるムスリム軍の勝利フランク軍の東への進出を永久に食い止めた。(*1 P140) | ||||||
大セルジュークのバルキヤークが没後、子マリクシャーも若くして死去。バルキヤールクの異母弟ムハンマド・タパルが継ぐが、大セルジュークの権威は凋落。 | ||||||||
トリポリ救援に向かったソクマンは、あと4日の行程で、狭心症の発作で死去。 | しかし、ソクマンとジェケルミシュはけんか別れ。ジェケルミシュはタンクレードの不意打ちに愛妾を奪われ、捕虜としているボードワン二世か金貨1万5千ディナールとの交換を申し出た。ポエモンとタンクレードは、金貨を選んだ。(ボードワンはさらに3年捕虜生活を送る)*1 | |||||||
ダマスカスのスルタン ドゥカーク死去、アタベクであったトゥグ・テギーンが権力を掌握。後にブーリー朝(ダマスカス政権)を創設。*1 | ||||||||
1105年 | バクダードのスルタン バルキヤーク死去。バクダードの兄弟間争いによる混乱が終息。弟はムハンマド・イブン・マリクシャーを名乗る。*1 | |||||||
1107年 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。*1 | |||||||
ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。*1 | ||||||||
1108年 | トリポリのファクルは、バグダードのスルタン ムハンマドに支援を直訴することにした。(*1 P151) 途中ダマスカスのトゥグテギンに歓待を受け、バグダードでもムハンマドの歓待を受けるが、援軍は得られなかった。(*1 P152) |
テル・バーシル近郊で二つのムスリム=キリスト教徒同盟軍が戦う。ムスリム諸侯の戦いにフランクが加勢するようになっていく。タンクレード軍にはアレッポのリドワーンが派遣したトルコ騎兵600人が参加。対するモースル領主ジャワリ軍には、エデッサのボードワンとそのいとこジョスランが参加。フランクを追い返すことが最優先事項でなくなっていく。 この戦いはタンクレードが勝利し、アンティオキアを支配。 *1(P146) |
||||||
サンジャル、遠征によりゴール朝を支配する。 | ||||||||
1109年 | 2000日の籠城の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109~1289)*1 | |||||||
1110年 | ベイルートとサイダ(シドン)陥落。*1 | |||||||
1111年 | アレッポの法官イブン・アル=ハシャーブ、バグダードでフランクの侵略に対する介入を求めて、反カリフの暴動を組織する。*1 | |||||||
1112年 | ティール(スール)の勇敢な抵抗。*1 | |||||||
1113年 | リドワーン死去すると若年の息子らの下で権力闘争が発生し、シリア・セルジュークは衰退していく。*1 | |||||||
1115年 | スルタンからの派遣軍に対し、シリアのムスリムとフランクの君侯が同盟。*1 | |||||||
1119年 | アレッポの領主イルガジ、サルマダでフランクを破る。*1 | |||||||
1124年 | 十字軍、ティロスを奪い、アスカロンを除く沿岸全土を占領。*1 | |||||||
1125年 | イブン・アル=ハシャーブ、暗殺教団に殺される*1 | |||||||
1128年 | ダマスカスに対する十字軍の強引策が失敗。*1 | ザンギー、アレッポのあるじとなる。ザンギー朝(~1146年)*1 | ||||||
1135年 | ザンギー、ダマスカス奪取を企てるが失敗。*1 | |||||||
ホラズム朝がセルジューク朝から自立の構えを見せるが、1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルタン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。 | ||||||||
1137年 | ザンギー、イェルサレム王フルクを捕え、のち釈放する。*1 | |||||||
1138年 | ザンギー、フランク=ビザンツ同盟を失敗させる。シャイザルの戦い。*1 | |||||||
1140年 | ザンギーに対し、ダマスカスとイェルサレムが同盟。*1 | |||||||
1141年 | カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると、ホラズム朝は再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した。 | |||||||
1144年 | エデッサ伯領消滅。 | ザンギー、エデッサを奪い、中東にできた4つのフランク諸国のうち、最初にできた国を滅ぼす*1。ザンギーは、キリスト教徒の砦にもどらないようエデッサを完全に破壊。 | ||||||
1146年 | ザンギー暗殺され、子のヌールッディーンがアレッポを継ぐ。*1 | |||||||
1147年 | ムラーヴィト朝、ムワッヒド朝に滅ぼされる。 | |||||||
1148年 | ドイツ皇帝コンラート、フランス王ルイ17世率いる第二次十字軍遠征軍、ダマスカスを前に敗走。*1 | |||||||
1149年 | ヌールッディーンの兄が死去。兄の領地モスールを引き継ぐ。 | |||||||
1150年 | もとガズニ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落。その略奪によってガズニ朝は衰退。ガズニ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。 | |||||||
1154年 | ヌールッディーン、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。*1 | |||||||
1157年 | 大セルジュークの支配を回復したサンジャルが病没し、東部ペルシアの大セルジューク朝滅ぶ。(ルーム・セルジュークは存続。)*1 | |||||||
1163年 | ヌールッディーンが派遣した副将シールクーフがエジプトをザンギー朝の影響下に置き、宰相となるが、2か月後急死。甥のサラディンが継ぐ。*1 | |||||||
1169年 | サラディンがエジプトで独立。*1 | |||||||
1171年 | ファーティマ朝カリフ死去。サラディン、ファーティマ朝廃絶し、自ら宰相となり、ダマスカスのカリフに従うことを宣言。アイユーブ朝創設(~1250年)。*1 | |||||||
1174年 | ヌールッディーン死去。サラディン、ダマスカスを奪う。*1 | |||||||
1183年 | サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。*1 | |||||||
1186年 | カズニ朝、ゴール朝によって滅ぼされる。 | |||||||
1187年 map大 | ヒッティーン会戦後、十字軍はティール、トリポリ、アンティオキアのみを保持。*1 | サラディン、ヒッティーンの会戦でフランク軍を撃破。イェルサレムおよびフランク領の大部分を回復。*1 | ||||||
1190年map | アッカを前にサラディンの失敗。イギリス王リチャードの介入で、フランクはサラディンからイェルサレムを除く数都市を回復。*1 | |||||||
1193年 | サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル=アーディルが再統一。*1 | |||||||
1194年 map大 | ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。 | |||||||
1204年 | フランク、コンスタンティノープルで略奪。*1 | |||||||
1214年 | フランク、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。*1 | アル=アーディルの息子アル=カーミルがフランクを撃退。*1 | ||||||
1229年 | アル=カーミル、エルサレムをフリードリッヒ2世に引き渡し、アラブ世界から非難される。*1 | |||||||
1244年 | フランク、エルサレムを失う。*1 | |||||||
1248年 | フランス王ルイ9世、エジプトを侵略するが、敗れて捕虜となる。*1 | |||||||
1250年 | スルタンのトゥーラーン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝滅亡。義母のシャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとするマムルーク朝始まる(~1517年)。*1 | |||||||
1258年 | モンゴルのフラグがバグダードを破壊、住民を虐殺。アッバース朝最後のカリフを殺す。*1 | |||||||
1260年 | モンゴル軍、アレッポ、ダマスカスを奪うが、アイン・ジャールートの合戦で敗退。バイバルス、マムルーク朝の指導者となる。*1 | |||||||
1268年 | バイバルス、モンゴルの同盟国アンティオキアを奪い、破壊・虐殺。*1 | |||||||
1270年 | ルイ9世、侵略に失敗して、チュニス近郊で死去。*1 | |||||||
1289年 | マムルークのスルタン カラーウーン、トリポリを奪う。*1 | |||||||
スルタンのハリール・アル=アシュラフ、アッカを奪い、中東におけるフランクの2世紀にわたる存在に終止符を打つ。*1 |
■ 主要都市の支配 ■ | |||||||||
1096年 | クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
クルージュ・アルスラン | |||||||||
1097年 | ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | ヤギ・シヤーン | ||||||||
1098年 | フランク(十字軍)、エデッサとアンティオキア占領。モースルのカルブーカ率いるムスリム援軍敗れる。マアッラで人肉食い事件。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ||||||||
1099年 | ゴドフロワ・ド・ブイヨン、エルサレム陥落させる。 エルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサンジルと交渉し、脱出。その後、エルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
サンジル | フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | アル=アフダル | バルキヤク | ||
1101年 | サンジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。1100年8月にポエモンが捕えられてからアンティオキアは元首を欠いた状態だったが、近隣のリドワーン、クルジュ・アルスラン、ダニシメンドは、これに乗じて攻めることはしなかった。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | ||||
1102年 | 1100年8月にポエモンが捕えられてからアンティオキアは元首を欠いた状態だったが、近隣のリドワーン、クルジュ・アルスラン、ダニシメンドは、これに乗じて攻めることはしなかった。1102年にはタンクレードが摂政となる。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | ||||
1104年 | 1104年春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元エルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため、和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (タンクレード) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | |||
1107年 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (ボードワン) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | ドゥカーク | フランク | バルキヤク | |||
1108年 | ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。 | ||||||||
コンスタンティノープル | ニケーア | アンティオキア | アレッポ | トリポリ | ダマスカス | ティール | エルサレム | カイロ | バクダード |
フランク | フランク (ボードワン) |
リドワーン | ファクル・アル=ムルク | トゥグテギン | フランク | バルキヤク |
資料 | 石橋秀雄他 『世界史大年表』 |
アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』*1 | |
塩野七生 『十字軍物語』*2 | |
スンニ派とシーア派について(『中東解体新書』NHK)_[写し] |
実証主義史学 | 史観の歴史TOP | |
成立・編纂者 | ||
概要 | 「私の考える実証史学のイメージは、まず、歴史事実や史料からこつこつと「史実」を復元する。次に、復元された史実をいくつも並べて、その史実たちを俯瞰する「史像」を導く。そしてそれらの史像を集めたうえで、「史観」といおう歴史の見方を生み出していく。史実から外れた史像や史観はもちろん論外だが、史実という土台がしっかりと築かれている上に表された史像や史観ならばそれは実証史学の範疇である。(『歴史学者という病』本郷和人 P174) | |
時代背景 | ||
著作物 | ||
参考文献・関連リンク | 『歴史学者という病』(本郷和人著) |