Title9-3.GIF (2758 バイト) 宗教の歴史 探究テーマ史 #8 


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 時代 欧 州 中近東・アジア・日本
BC40世紀    古代エジプトの宗教
BC20世紀    古代メソポタミアの宗教
BC14世紀    エジプトのアメン=ヘテプ4世(BC1362~1333)、アメン=ラー信仰(多神教)を改め、アテン神のみを信仰する宗教改革を実施(一神教)。アメン信仰の神官の勢力を抑えるためか。その後、アメン信仰に戻る。
BC13世紀    ユダヤ教
   ラムセス2世(在位前1279-1213)の時代に抑圧されたユダヤ人が、モーゼに導かれ出エジプト。抑圧されたアテン信仰(一神教)の流れか。
 BC11世紀   旧約聖書
BC10世紀   ゾロアスター教
 BC9世紀  古代ギリシア神話 
   
 BC6世紀  ローマ神話  老子(BC571?~471年?)、以降、『老子』に基づく道教広まる。
   クセノファネス(詩人哲学者)は、叙事詩などの伝統的な「神々」の語り方を批判。合理的な一神論に踏み出す。  孔子(BC552~479年)、以降『論語』等に基づく儒教、または儒学が広まる。
   エピクロス派の原子論に基づくルクレティウスは『事物の本性について』で、従来の神々を「迷信」を意味する「宗教」として批判。 -ブッダ(ゴータマ・シッダールタ、BC566~486)悟りを得て仏教を開く。インドのコーサラ国やマガダ国で教化活動を始める。
    ジャイナ教
    -マハーヴィーラ(BC549~477)
 BC5世紀  プラトンのイデア論の「一者」は一神教に通じる(プラトンが後にキリスト教の思想的根拠となったとの説)。プラトンが開設したアカデメイア(学園)では、ティアソス(宗教結社)的な性格をもった可能性も。  中国)諸子百家;春秋時代から戦国時代へ;下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。(諸子百家として整理、体系化されるのは後の漢時代頃)
BC3世紀  『旧約聖書』のギリシア語訳(七十人訳聖書)
BC1世紀 キリスト教
1世紀 ‐イエス(BC4~AD30) 儒教の宗教化(漢の時代)
-パウロ(生年不詳~AD65)  AD67頃 仏教、中国に伝来(白馬寺建立)
  新約聖書  
   ローマ時代に始まり中世に興隆するキリスト教神学・哲学は、特定の宗教に基づきつつギリシア哲学を展開して総合的知となった。  
3世紀  ギリシア哲学の影響を受けたグノーシス(覚知)主義は、イエスの受難などに懐疑的な立場をとり、排斥される。*4 マニ教
   グノーシス主義と似ているマルキオン派は旧約聖書を否定し、自派の聖書として新約聖書を編纂した。キリスト教正統派は対抗上、新約聖書を編纂し、これが新約聖書の形成につながった。*4 -マニ(216~276)
   護教家たちがキリスト教を擁護する際に議論の相手方として念頭に置いていた人々が、当時の知識人、つまりギリシア文化に通じた人々だったため、キリスト教にギリシア文化が入ってきた。やがて哲学的神(かみ)論は、神学となっていく。  
   オリゲネス(185~254年)『諸原理について』で「神は何らかの物体であるとか、物体の内に存在すると考えてはならず、純一な知的存在であり、自らの存在にいかなる添加をも許さない。神はことごとく一(モナス)であり、単一性(ヘナス)であり、精神であり、あらゆる知的存在即ち精神の始原である。神が複合体と考えてならない。」など哲学の影響を受けており、三位一体論などが生まれた。  
4世紀  アレクサンドリア司教アリウス(?~336)はキリストを被造物とし、それに対してイエスは神と一体であるとしたアタナシウス(296~373年)が対抗した。  
 325年 ニケーア公会議;ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(?~337年)が開催。三位一体派(アタナシウス派)を正統とし、アリウス派を異端とした。  
   337年ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝死去。ローマの分割統治。  
   350年 ゴート族の司教ウルフィラス(311~383)、聖書のゴート語訳を完成;アリウス派キリスト教、ゴート族の間に広まる。  
   361年コンスタンティウス帝死去。ユスティニアヌス帝が跡を継ぐ。  
   381年テオドシウス帝が開催したコンスタンティノープル公会議において、キリストは被造物ではなく(父から)生まれたのだと明示された。  
   ローマ皇帝テオドシウス1世(347~395年)がコンスタンティノープル公会議を開催。キリストは被造物ではなく、父なる神から生まれたとされ、その神性が明確化された。  
   394年 テオドシウス帝、ローマ帝国の再統一。  
   ポントスのエウアグリオス(346~399)や6世紀ガザのドロテオスなど修道者は、禁欲的な隠遁生活など、いかに生きるかを実践したためキリスト教は「蛮人の哲学」とも言われた。*5  
   アンブロシウス(339~397)ミラノ司教。情欲に流されるも抑えるも「自分次第」とし、アウグスティヌスに影響を与える。  
  アウグスティヌス(354~430)北アフリカ生まれ、マニ教からキリスト教へ転向。人間の悪の根はむさぼりであり、自分の意思に神の恩恵が勝つと説く。  5世紀頃まで、大乗経典の制作運動は確認できるが、教団形成は確認されない。
福音派  仏図澄(?~348年);インドで修行後、五胡十六国時代の洛陽で布教。中国仏教の基礎となる。
5世紀 431年エフェソス公会議;アンティオキア学派の流れを汲むコンスタンティノープル司教ネストリウス(351~451年)(キリストの神性と人性の分離)と、アレクサンドリア司教キュリロス(キリストの神性と人性の合一)との論争。  鳩摩羅什(344~413年)が前秦の涼州、後秦の長安で仏典の漢訳を行う。
   451年 カルケドン公会議(第4回);キリストの神性と人性の合一を確認したが不十分。  慧遠(334~416年);東晋時代の僧で、浄土信仰の始祖。4世紀末に念仏仏教の結社として白蓮社を創設、後の浄土宗になる。
     法顕(337~422年);自らのインド旅行を『仏国記』としてまとめ、当時の西域やインド、南海諸国の状況を伝える貴重な資料となる。
     北魏の太武帝(在位 : 423年 - 452年)の太平真君年間における廃仏(仏教弾圧)。
6世紀  529年 アテネのアカデメイヤ、リュケイオン、ユスティニアヌス帝により閉鎖される。   『日本書紀』によれば、仏教公伝は552年(欽明天皇13年)であるが、『元興寺縁起』などでは538年とされている。(Wiki)
    北周の武帝(在位 : 560年 - 578年)の建徳年間の廃仏。
   543年 ペスト流行  
   キリスト教会による異端取り締まりが厳しくなり、ヨーロッパは暗黒時代へ。  
7世紀  イスラム教
 ‐ムハンマド(570~632)
     (日本)崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏・中臣氏の争いが起きたが、物部守屋の敗死と厩戸皇子により仏教受容が確定
     玄奘(602~664)、義浄(635~713)などインド求法の巡礼
     チベットの王ソンツェン・ガンポによる仏教導入
     景教(中国のネストリウス派)
8世紀    751年 タラス河畔の戦い(唐‐アッバース朝);紙の西方伝播
     チベット王ティソン・デツェン 禅宗系の中国仏教を捨て、インド仏教を採択
9世紀    唐の武宗(在位 : 840年 - 846年)の会昌年間の廃仏。「会昌の廃仏」
     チベット王ランダルマによる廃仏(これ以前を前伝期、以降を後伝期)
10世紀    後周の世宗(在位 : 954年 - 959年)の顕徳年間の廃仏。
11世紀  東西教会の分裂  
   1077年 カノッサの屈辱;ローマ教皇の権威高まる  
   1085年 カスティーリャ王国のトレド占領。ヘレニズム文献のラテン語への翻訳始まる。ヘレニズム文化、ヨーロッパへ里帰り。  
   1096年 第一回十字軍遠征、1099年十字軍によるイェルサレム王国成立  
12世紀  1148年 神聖ローマ帝国皇帝コンラート、フランス王ルイ17世率いる第二次十字軍遠征軍、ダマスカスを前に敗走。  
13世紀  トマス・アクィナス(1225~1274)  元のフビライ サキャ派の長パクパにチベット支配権を与える
14世紀  ウィクリフ・フスらの改革運動  チベットのツォンカパ ゲルグ派を創設。
   黒死病(ペスト)大流行(ヨーロッパの1/3が死亡)  
15世紀  ダンテ『神曲』、ボッカッチョ『デカメロン』  1453年 ビザンツ帝国滅亡
   レコンキスタ完了  
   大航海時代  
16世紀  宗教改革  オイラート部のアルタン・ハーン(1507~1582)、ゲルグ派の継承者ソナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を授ける
   1527年 ローマ略奪(1494~1559年のイタリア戦争で、ルネサンスは終焉)  
   1532年 マキャベリ『君主論』刊行(カトリック教会から禁書とされる)  
   マルティン・ルター(1483~1546)  
17世紀  1618年 三十年戦争  
   1648年 ウェストファリア条約;プロテスタント、ドイツの領邦の主権、オランダのスペインからの独立の3つが認められる。  
  イグナティウス・ロヨラ(1491~1556)  
  ジャン・カルヴァン(1509~1564)  
     
19世紀    日本における廃仏毀釈
 20世紀    如来蔵思想を説く『大乗起信論』が、梁啓超(1873~1929年)など辛亥革命指導者の理論的支柱となる。

* イスラム教;2010年時点で16億人の信徒があると推定されていて、キリスト教に次いで2位。(Wiki)

資料   『世界史大年表』(山川出版社、石橋秀雄 他) *1
 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 *2
 『世界哲学史 1』 浦和也 他 著 *3
 『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著) *4
 『世界哲学史 2』 戸田聡 他 著 *5
 『十字軍物語』 塩野七生 著(新潮社)

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古代エジプトの宗教
創始者 不明 
創始 BC4,000年頃 
教典
教義 人間は肉体のほか、名前、影、そして翻訳の難しい概念である「バー」と「カー」の合計5つの要素から成り立つとされた。バーは一人の人間における肉体以外の特徴をすべて内包しており、あえて言えば、「人格」に近い。一方、カーは生まれるときに現れる一種の生命力である。バーは人の頭と両腕を持つ鳥の形をした文字で表され、カーの方は両腕を曲げて直立させた形をした文字で表される。
拡大・最盛期   
文化的影響・逸話 バーは古代末期においてギリシア語でプシュケーと訳された。これは思想の継承として意義深い。
衰退  
参考文献・関連リンク 『世界哲学史』 第二章「古代エジプトにおける世界と魂」 柴田大輔 著
  

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古代メソポタミアの宗教
創始者 不明 
創始 BC2,000年頃 
教典 『エヌマ・エリシュ』(シュメル語・アッカド、教典というより神話的文学)
教義  「上では天が名づけられておらず、下ではまだ地が名を呼ばれいなかった頃、彼らの胤を宿させた最初の男親はアスプ―(地下水、淡水)であり、創始者ティアマトが彼ら全てを生んだ母親で、彼らは彼らの水を一緒に混ぜ合わせたが、牧草地はまだ造られず、葦の茂みも探し出されていなかった頃、神々はまだ誰も顕れておらず、名も呼ばれず、定めも決められていなかった頃、その頃、神々は彼らの中で造られた。」その後、年配の神々と若い神々の間に戦争が起こり、バビロンの若い守護神マルドゥクが原初の海の女神ティアマトを征伐して神々の王に即位する。この新しい王マルドゥクはティアマトを殺害したのち、その亡骸から世界の細部を創造する。「(マルドゥクはティアマトを)干し魚のように二つに割いてその半分を置き、天の覆いとした。・・・残りの半分を使って大地も創造して、ティグリス・ユーフラテス川や遠方の山脈などを造った。」
拡大・最盛期   
文化的影響・逸話  『エヌマ・エリシュ』の冒頭部分が『旧約聖書』の「創世記」一章にある天地創造の記述と極めて類似していることが知られている。共通性は用いられる語彙にまで及ぶことから、両社の間に何らかの実体的な受容関係があったことは疑いえない。エルサレムを征服したバビロニア王ネブカドネザル2世(BC604~562)はユダ人をバビロニアに捕囚したが、近年発見された楔形文字からも詳らかになったように、ユダ人たちはバビロニアにおいて通常の生活を送っていた。・・・ユダ人の知識層は実際に当地で楔形文字とシュメル語、アッカド語を学んだと考えてよい。・・・ただし、「創世記」の天地創造が『エヌマ・エリシュ』の単なる複製ではなく、テキストが素材として活用されつつも、根底から異なる革新的な思想がそこから生みだされた。
衰退  
参考文献・関連リンク 『世界哲学史』 第二章「古代西アジアにおける世界と魂」 柴田大輔 著
  

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ゾロアスター教
創始者 ザラスシュトラ(ツァラトゥストラ/ゾロアスター) 
創始 BC1,000年頃 
教典 『アヴェスター』(3世紀頃に整備)
教義  最高神アフラ・マズダーが世界を創造した。善い神スプンタ・マンユを筆頭に七神。邪悪と害毒を司るアンラ・マンユ(別名アフリマン)を筆頭に七神。宇宙の始まりから終わりまで、12,000年と数え、3,000年ずつ4期に分ける。ザラスシュトラは「今の時代は善い神たちと悪い神たちが激しく争っている時代であり、苦しい日々が続くのは悪い神アンラ・マンユが優勢なとき。やがて善悪の神が戦う混乱の時代が終わる12,000年後の未来、世界の終末にアフラ・マズダーが行う最後の審判によって、生者も死者も含めて全人類の善悪が審判・選別され、悪人は地獄へ落ち、すべて滅び去る。善人は永遠の生命を授けられ、天国(楽園)に生きる日がくる。だからこそ、現世で三徳(善思、善語、善行)を積む必要がある。」時間を直線的に捉える善悪二元論を展開。宗教思想における善悪二元論は、この世を説明するときに、強い説得力を持つ。
拡大・最盛期   ゾロアスター教は、ペルシャに移住したアーリア人の民族的な信仰を基本して、ザラスシュトラが創始した。しかし、ザラスシュトラは単に思想的詩文を表明し、種子を蒔いたにすぎない。アケメネス朝の創始者キュロス2世(BC550~530)の時代には、すでに広く信仰されていた。中央アジアを経て中国にも広がり、祆教(けんきょう)と呼ばれた。アケメネス朝の後、セレウコス朝、パルティアを経て、パルティアを倒したササン朝(226~651)のバハラーム1世(273~276)の時代に国教となった。
文化的影響・逸話  
衰退  
参考文献・関連リンク 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著
ゾロアスター教[Wikipedia] 


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仏教
創始者 ブッダ(BC566~486) 
創始 BC6世紀 
教典 『ダンマパダ(真理のことば)』『ウダーナヴァルガ(感興のことば)』(どちらもブッダの自著ではなく、教えや言葉をまとめたもの)
大乗仏教の経典としては、『般若経』『法華経』『浄土三部経』『華厳経』
教義  輪廻転生の苦しみからの解脱(げだつ)のために八正道を実践することを説いた。八正道とは、正見(しょうけん)、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定(しょうじょう)。わかりやすく言えば、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想のこと。極端な修行は否定している。
 創始の時代背景 カスピ海の北方から中央アジアに南下し、その地で遊牧生活を送っていたアーリア人は、BC1,500年頃にインド西北部パンジャーブ地方へ移動。BC6C頃東方ガンジス川中・下流域に大集落を成立させて、勢力争いをする16大国の時代となる。この中からマガダ国やコーサラ国が台頭。ピラヴァスト(現ネパール領)でサカ族の王子としてブッダは生まれた。強国の侵略にさらされる政情不安の中、ブッダは妻子を捨て、家を出る。やがて、悟りを開いて、コーサラ国やマガダ国で教化活動を始める。
当時のインドでは、バラモン教が中心で司祭階級がカースト制の頂点に君臨していた。しかし、農民や商人などが経済力を持つようになり、反発も生まれ始めていた。バラモンが儀式のために農民たちの財産である牛を連れて行ってしまう。そこに、ブッダやマハーヴィーラが無益な殺生を戒める教えを広めており、牛を没収されることに抗する理屈ができた。
拡大・最盛期  インドではじめてインダス川からガンジス川にまたがる大帝国をつくったマウリヤ朝3代目アショーカ王(BC268~232)の時代に、仏教の教義を政治の指針とししため、仏教が大いに発展し、第3回仏典結集が行われたといわれている。
アレクサンドロス大王の死後、シリアを支配したセレウコス朝から、BC3Cにギリシア人のバクトリア王国が独立し、さらに東進してインド・グリーク朝(BC2C~BC10年頃)を開いた。その8代目の王メナンドロス1世(BC155~130頃、呼称ミリンダ王)とインド仏教僧ナーガセーナとの対話、ギリシア哲学と仏教の出会いにより、ミリンダ王は仏教徒になった。(『ミリンダ王の問い』)
分裂 紀元後、仏教やジャイナ教により地方へ追われたバラモン教は、牛を生贄にして反発された失敗から学び、牛殺しもやめ、難しい教えもシンプルにして、再び都市に持ち込まれるようになり、ヒンドゥー教と呼ばれるようになり、インドの国民宗教になっていった。インテリ層を中心に信仰を集めていた仏教はこれに危機感をもった。従来は個人の悟りを主目標にしていたが、「自分だけが小さな乗り物に乗って幸福になる小乗仏教ではなく、大勢の人が幸せになる大乗仏教」を目指すという改革思想が生まれた。それによって、小乗(上座部)仏教と大乗仏教に分裂した。 伝播した先の国や地域の特性によって差異が生まれたのではなく、古代インドで二分した仏教が伝播先に選択的に取り入れられた。*2
文化的影響・逸話  思想的発展を遂げた大乗仏教を、初期仏教やそれを継承する上座部仏教と比較したとき、そのもっとも顕著な差異は、言語論の深化に認められる。上座部仏教が思想の要素を、無常、無我という初期仏教の言説の段階の概念で留めておくことができたのは、その思想を実践的行為に委ねることによって、言語論を深化させる努力から免れたためである。それに対して、大乗仏教は、実践的行為のみならず、救済という結果までも言語化した。大乗仏教経典の有無による差異でもある。*2
衰退  
参考文献・関連リンク  『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 *1
 『世界哲学史2』下田正弘他 著 *2
 仏教[Wikipedia] 


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ジャイナ教  


ユダヤ教 
創始者  アブラハム(BC18C);アブラハムの子孫をユダヤ人とする。 
創始  BC1世紀
教典  『旧約聖書』『モーゼ5書』
旧約聖書という呼称についていうならば、キリスト教が自ら聖書をさして新しい契約の書物すなわち新約聖書と呼び、ユダヤ教の聖書をさして旧い契約すなわち旧約と呼んだところからきている。ユダヤ教はもちろん自らの聖書を旧い契約とは呼ばない。彼らは聖書を構成する三つの部分、すなわち律法(Torah)、預言(Nebiin)、諸書(Khetubim)の先頭の三つのアルファベットに母音をつけてタナク(TaNaKh)と呼ぶか、あるいは単にミクラー(読むべきもの)と呼んでいる。また、ヘレニズム期のユダヤ教について述べる際には、当時ユダヤ教が多数居住していたエジプトのアレクサンドリアにおいて完成されたセプトゥアギンタ(70人訳)と呼ばれるギリシア語翻訳聖書を抜きに語ることはできない。このギリシア語旧約聖書はヘブライ語聖書本文と同様に権威ある聖書として認められていた。
教義  メシア(救世主)が来臨し,人々を救うという預言がある。メシアはダビデ王の末裔とされ,彼は地上にメシア的王国と呼ばれる王国を樹立するとされる。(このメシアがイエスであるとするのがキリスト教である。)ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育であり、ユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料を無料とする公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。
拡大・最盛期   ユダヤ王国としては、BC11世紀のソロモンの繁栄が、最盛期とされている。その後、バビロン捕囚などの苦難を乗り越え、むしろ宗教的に強化、確立されていく。各国にユダヤ人コミュニティーを作り、政治・経済に影響を与えていく。
 1948年イスラエルとして、独立したが、周囲のアラブ・イスラム国家からは敵視され、紛争が絶えない。
文化的影響・逸話  カナンの地(イェルサレムなど)は、神に与えられた土地であり、そこから引き離されるのは、ディアスポラである。また、ユダヤ教はユダヤ人の宗教であり、(民族を問わない)世界宗教であるキリスト教、イスラム教を認めることができない。イスラム教では、イエスを預言者としているが、ユダヤ教ではそれを認めていない。律法主義については、ユダヤ教に似ている。
衰退  
参考文献・関連リンク   *1 『一神教』(佐藤賢一著)集英社
*2.『世界哲学史』‐「旧約聖書とユダヤ教における世界と魂」 高井啓介著
 Chronicles「ユダヤ人の歴史


キリスト教 
創始者 イエス=キリスト(BC4~AD30) 
創始 AD1世紀
教典 『旧約聖書』『新約聖書』
教義  
拡大・最盛期  1077年、グレゴリウス7世(在位;1073~1085年)によるカノッサの屈辱から、教皇インノケンティウス3世(在位;1198~1216年);「教皇は太陽、皇帝は月」の間が、教皇権の最盛期。*1
文化的影響・逸話  
衰退  
参考文献・関連リンク    *1 『一神教』(佐藤賢一著)集英社
*2.『世界哲学史』‐「旧約聖書とユダヤ教における世界と魂」 高井啓介著
 「日本におけるキリスト教」
 Chronicles『キリスト教の歴史』

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マニ教 
創始者 マニ(216~276) 
創始 3世紀
教典 『シャープーラカン』『大福音書』『生命の宝(いのちの書)』『プラグマテエイア』『秘儀の書』『巨人の書』『書簡』 (いずれも断片)
教義  教祖マーニー・ハイイェー(216~277年)による独創であり、創設されたときには思想として確立された(ゾロアスター教と経緯が異なる)。ゾロアスター教の善悪二元論をさらに徹底させ、壮大な二元論の教えを創造した。また、教えを舞踏にして伝道した。
拡大・最盛期  ササン朝シャープール1世は寛容であり、その下でマニ教はまたたくまにペルシアに広まった。中央アジアを経て中国に伝わり、明教と呼ばれ、西は北アフリカまで広まった。北アフリカが生んだ古代キリスト教最高の神学者であるアウグスティヌス(354~430)も元はマニ教の信者であった。
古代ペルシアの宗教(ゾロアスター教)を教義の母体として、ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)、釈迦、イエスはいずれも預言者の後継と解釈し、マニ自身も自らを天使から啓示を受けた預言者と位置づけ、「預言者の印璽」たることを主張している(後述)。また、パウロの福音主義から強い影響を受けて戒律主義をしりぞける一方で、グノーシス主義の影響から智慧(グノーシス)と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。同時に、享楽的なイランのオアシス文化とは一線を画し、禁欲主義的要素が濃厚な点ではゾロアスター教的というよりはむしろ仏教的である。
ゾロアスター教がいっこうに流行らなかったのとは別の理由をもって、瞬間的には人類史上稀な思想のほとばしりを見せたものの、結局のところ流行らずに歴史の闇に埋もれていった。
文化的影響・逸話  現在も中華人民共和国の福建省泉州市においてマニ教寺院が現存。
衰退  シャープールの死後、ゾロアスター教の神学者であったカルティールの攻撃によって衰退し、マニ自身も刑死させられた。
参考文献・関連リンク 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著
『世界哲学史2』ゾロアスター教とマニ教 青木健 著
マニ教[Wikipedia] 

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ネストリウス派(キリスト教) 
創始者 ネストリウス(アンティオキアの神学者)(381~451) 
創始 5世紀
教典 『旧約聖書』『新約聖書』
教義  アレクサンドリア学派出身のアレクサンドリア総主教キュリロスとアンティオケア学派出身のネストリウスの間での対立から始まる。ネストリウスは、それまでの古代教父らが使用していたマリアに対する称号「神の母 」を否定し、マリアは「クリストトコス Χριστοτόκος(キリスト Χριστος を生む者 τοκος)」であると説いた。その理由は、キリストは神性と人性において2つ位格(ヒュポスタシス υποστασις)であり、マリアはあくまで人間的位格(人格)を生んだに過ぎないとした。一方、キュリロスは、キリストの本性(ピュシス)は神性と人性とに区別されるが、位格としては唯一である(位格的結合:hypostatic unionと唱えて反論した。ネストリウスはエフェソス公会議への出席を拒否。
ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年に「クテシフォン・セレウキア」に新しい総主教を立てた。7世紀中期までのペルシャ一帯におけるネストリウス派キリスト教については『シイルト年代記』に詳しい[5]。現在はイラク北部のアッシリア地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。
ネストリウス派の教会であるアッシリア東方教会(ギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別系統)の一部は、1553年にローマに帰一し(Sulaqa)、カルデア典礼カトリック教会[要リンク修正](帰一教会、東方典礼カトリック教会のひとつ)と呼ばれている。アッシリア東方教会とカルデアカトリック教会の両教会が、現在も中東・アフリカで活動している。
拡大・最盛期  中国における景教
中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会を唐の時代、大秦寺という名称で建造された。
文化的影響・逸話  
衰退  しかし唐代末期、王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって以降、弾圧され消滅した(参考:会昌の廃仏)。
モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に一時中国本土でも復活することになった。ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。
参考文献・関連リンク Wikipediaネストリウス派(景教)
 

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イスラム教 
創始者  ムハンマド(570~632)  (正式にはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブム)
創始  610年、40歳のムハンマドがヒラ―山で瞑想しているときに大天使ジブリールから神の啓示を受ける。
教典  『旧約聖書』『クルアーン』『ハディース』
教義  現世で神の教えを守って暮らしていけば、最後の審判で天国に行くことができる(キリスト教、ユダヤ教と同じ)。キリスト教に比べて、現世に肯定的でなく、戒律が厳しい。孤児や未亡人を救済するため4人まで妻を持つことができる。貧者、困窮者を救うための喜捨(ザカート)が求められる。
拡大・最盛期   ユダヤ人は地中海やアラビア半島、ペルシアなどにも拡散(ディアスポラ)し、交易などに従事していたので、交易を行っていたムハンマドがユダヤ人と接触し、一神教として影響を受けた可能性はある。
 分散したユダヤ人は、イェルサレム神殿で祈り、学ぶことができないため、各地にシナゴーグを建設し、そこで活動した。神殿型から教会型宗教へ。そして、シナゴーグのネットワークにより、交易などで栄えた。
文化的影響・逸話  キリスト教がローマ帝国で公認、国教化されていくと、キリスト教徒から迫害を受けるようになる。
衰退  
参考文献・関連リンク     *1 『一神教』(佐藤賢一著)集英社
 Chronicles『ユダヤ教の歴史』

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 旧約聖書
 39の書物をヘブライ語と一部アラム語で記述した人々は、現在のイスラエル、かつてイスラエル北王国とユダ南王国に国家が分かれて存在する時代(BC11~BC6C)にそれらの書物を編纂した。北王国の滅亡とアッシリアへの捕囚、南のユダ王国の滅亡とバビロニアへの捕囚という出来事を経験したのち、とくにバビロニアでの捕囚生活およびパレスティナに帰還してからの時代(BC5~BC3C)に編纂されたものもある。古代イスラエルおよびユダ人の宗教との連続性を持ちつつ、バビロニア捕囚およびパレスティナ地域に住む人々を中心に、捕囚と捕囚からの解放という新しい現実に直面した人々―のちにユダヤ人とよばれるようになるとくにユダ王国の遺産を受け継ぐ人々―が形成した宗教がユダヤ教とよばれる。
旧約聖書という呼称についていうならば、キリスト教が自らの聖書をさして新しい契約の書物すなわち新約聖書と呼び、ユダヤ教の聖書をさして旧い契約すなわち旧約と呼んだところからきている。ユダヤ教はもちろん自らの聖書を旧い契約とは呼ばない。
彼らは聖書を構成する三つの部分、すなわち律法(Torah)、預言(Nebiim)、諸書(Khetubim)の先頭の三つのアルファベットに母音をつけてタナク(TaNaKh)と呼ぶか、あるいは単にミクラー(読むべきもの)と呼んでいる。(*1)

旧約聖書の中でも大事件として扱われるのが、モーセのエジプト脱走である。それによれば、ヤコブの子のヨセフの時代にイスラエル人はエジプトに移住し、エジプト王の厚遇を得て栄えたが、王朝が代わって迫害が始まり、イスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱走し、40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついたというものである。この放浪中のシナイ山でイスラエル人たちは神と契約を結んで十戒を授かるなど、ユダヤ教の中でも極めて重要なエピソードであり、仮庵の祭りなどの形で現代のユダヤ教にも継承されている伝承である。旧来の解釈によれば、イスラエル人たちを厚遇した王朝は紀元前1730年頃から紀元前1580年のヒクソスであり、ユダヤ人を迫害したのはイアフメス1世が建国した第18王朝、モーセのエジプト脱走は諸説あるものの、前13世紀の第19王朝ラムセス2世(在位前1279-1213)の時代である。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。
ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。
ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。
北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。
一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国(英語版)として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。
前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。
新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。(*2)
 *1.『世界哲学史』‐「旧約聖書とユダヤ教における世界と魂」 高井啓介著
 *2.Wikipedia古代イスラエル人より。

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 アウグスティヌス(354~430年)
 主な著作;『告白』『神の国』
『告白』は自叙伝で、 若くして外遊し、弁論術を学び、キリスト教を捨てて、ペルシア発祥のマニ教を信奉した。学者たちがよく議論していた、アリストテレスの『十個の範疇』を読んだが、「何の役にも立たなかった」と述懐。ミラノにでて、アンブロジウスの教えを受け、「新プラトン主義」に出会う。その神秘性とキリスト教との間に多くの共通点を見出だし、キリスト教への回心を決意した。
『神の国』は、世の中には「神の国」と「地の国」があるとする「二世界論」。目に見えない「神の国」を、世俗にまみれた「地の国」で体現させたのが教会であり、現実の国家がどうなろうと、教会を通じて「神の国」に近づける。これが、激変する現実世界に対応する教会と信者にとっての処方箋となった。人間の悪の根はむさぼりであり、自分の意思に神の恩恵が勝つと説く。神探究の出発点を自分の内へ、そして内から上という内的超越が特徴。
 *『教養としてのギリシア・ローマ』(中村聡一著 東洋経済新報社)
 *『『世界哲学史』‐「ラテン教父とアウグスティヌス」(出村和彦著 講談社現代新書)

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 トマス・アクィナス(1225~1274年)
 ヨーロッパで大学が誕生するなど学問が盛んになり、知識が増えて論理的な思考が台頭すると、改めて「神とは何か」が問われます。アウグスティヌスの「神の国」のような教義は、もはや人々を説得できなっていた。新しい知識をや科学を容認すれば人々の信仰離れを招きかねないし、排除すれば知識層との対立を招き、イスラム世界からますます遅れることになる。そこで、トマス・アクィナスは著書『神学大全』において、ほとんどの事象の原因と結果は人間の理性で理解でき、そのための学問が哲学である。一方、宇宙の動きや死後の世界、神の存在など、人間の理解が及ばない世界もある。それを解き明かすのが神学であり、人間の叡智の及ばない部分を扱う神学の方が上位である、とした。この解釈は、神学の根拠をプラトンからアリストテレスに移したこと、もう一つは神学と哲学の関係を明快に整理したことの2つの足跡を残した。これにより知識や科学は哲学の範疇として存分に吸収できることとなり、進んでいたイスラム世界から大量の知識が、逆輸入され、「12世紀ルネサンス」が開花した。
 *『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著)

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 宗教改革
 発端は1515年、サンピエトロ大聖堂の建設資金を募るため、ローマ教皇レオ10世が「贖宥状」を大量に発行したこと。当時ローマ帝国の後継を自称する「神聖ローマ帝国」だったドイツでは特に多く販売された。
 これに異を唱えたのが、ドイツ ヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン・ルター。本来、信仰心さえあれば、神の赦しは受けられるはずであり、教会が代行できることではない。ましてそこに金銭の授受が発生するのはおかしい、と主張。1517年、ルターは「95ヶ条の論題」というラテン語の文書を発行。これがドイツ語に翻訳され、当時発明されたばかりの印刷によって大量に配布された。当時のドイツは小さな「領邦」が300近く分立する状態で、帝国はその上に形式的に君臨しているだけであり、ドイツで盛り上がる批判を抑えることができなかった。ルターは皇帝カール5世に異端者として破門され、市民権を剥奪されるが、帝国と敵対的な領邦に保護された。その間に、ルターは『新約聖書』のドイツ語訳を行い、そこにも教会の権威や「贖宥状」については書かれておらず、教会への批判や不満がさらに高まった。重要なのは聖書に基づく信仰心だけで、教会や聖職者の権威は不要という「ルター派」が形成された。カトリック教会側は弾圧を加えようとしたが、ルター派はカール5世に「抗議書(プロテスト)」を提出。ここからプロテスタントと呼ばれるようになった。
 また、ルターに感化された一人がフランスの思想家ジャン・カルヴァンで、労働と富を肯定し、労働者に受け入れられ、カルヴァンの亡命先であるスイスをはじめ、フランスでは「ユグノー」、イギリスでは「ピューリタン」、オランダでは「ゴイセン」として広がった。
 *『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著)

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 (史観)哲学の世界化と翻訳
 ある思想が別の時代に別の言語で別の文化圏に移入される場合、翻訳という営みが必要となる。(中略)翻訳を通じた越境が、哲学に世界化をもたしていく。
 翻訳は「受容(レセプション)」という創造的な営みであり、このプロセスを多く経験した思想、より豊かな展開を見せた哲学が、世界哲学としての性格を強く帯びると考えてはどうか。
 *『世界哲学史2』(ちくま新書、納富信留著、P34)

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