概 略 |
1122年 |
ジョスラン・ド・コートネーがアレッポの捕虜となる。その後、狩りにでていたボードワン2世もアレッポ兵に襲われ、捕虜となる。ボードワン2世とコートネーが共に捕囚となるのはこれで2度目。アルメニア兵の協力により2人は脱出するが、ボードワンは再度捕虜となる。 |
1123年 |
十字軍、20年ぶりにパレスティナに戻ってきたヴェネツィア海軍の支援を受け、エジプト海軍を撃破。アスカロンを攻略。(*2) |
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ヴェネツィア海軍の後押しもあり、ユースタス・ガルニエがイェルサレム総司令官となる。 |
1124年 |
十字軍、ティロスを奪い、パレスティナ沿岸全土を占領。 |
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捕虜となっているボードワンの利用価値が下がったところで、コートネーが身代金8万ディナールを払ってボードワンを救出。 |
1125年 |
イブン・アル=ハシャーブ、暗殺教団に殺される*1 |
1128年 |
ザンギー、バクダードのトルコ軍で実績をあげ、モスール、アレッポを支配。ザンギー朝(〜1146年)*1 |
1129年 |
ボードワン2世の娘メリゼンダとフランス王推薦のアンジュー伯フルクが結婚。ボードワン2世の他の二人の娘もトリポリ伯レーモン2世、アンティオキア公ポエモン2世に嫁ぎ、十字軍国家間の連帯を強めた。 |
1130年 |
ザンギーがアンティオキアを攻撃。ポエモン2世戦死。嫁いだボードワン2世の娘アリーチェは、自分の身分の保障と引き換えに、ザンギーにアンティオキアを引き渡そうとするが、側近に阻止され、ボードワン2世により追放される。ボードワン2世は2歳の孫娘とアンティオキアをコートネーに託し、イェルサレムに戻る。 |
1131年 |
8月 ボードワン2世死去。イェルサレム王にはアンジュー伯フルクが就任。イェルサレム王国はフランス王国と同様、封建諸侯から成り立っており、これらの同意があってはじめて騎兵500、歩兵2,000を動かせた。中東での実践経験のないフルクには重荷だった。*2 |
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ザンギー軍との戦闘中にジョスラン・ド・コートネーが負傷し、まもなく死去。エデッサとアンティオキアのリーダーが不在となる。(*2 II‐P46) |