Title9-3.GIF (2758 バイト) MiddleEast 1144年

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ザンギーがエデッサ伯領を奪還



 十字軍封建諸侯は連携して守りを固めなか、中近東での実践経験のないフルクがイェルサレム王に即位。しかし、十字軍を担ってきたボードワン2世、ジョスラン・ド・コートネーが相次いで死去する。イスラム側では、台頭してきたザンギーが十字軍諸侯領を狙うなか、フルクはアンティオキアをビザンツ帝国に委ねた。

概 略 
1131年  8月 ボードワン2世死去。イェルサレム王にはアンジュー伯フルクが就任。イェルサレム王国はフランス王国と同様、封建諸侯から成り立っており、これらの同意があってはじめて騎兵500、歩兵2,000を動かせた。中東での実践経験のないフルクには重荷だった。*2
   しかし、フルクはその在任中にパレスティーナにおける十字軍の城塞を充実させる先鞭をつけた。オリエントの権力者は城壁をめぐらした都市に住むことを好んだため、城塞はあまり建設しておらず、あっても見張り程度の役割でしかない。(*2 II‐P56)
   モスール太守(アタベク)ザンギーとの戦闘中にジョスラン・ド・コートネーが負傷し、まもなく死去。エデッサとアンティオキアのリーダーが不在となる。(*2 II‐P46)
 バクダードのスルタン死亡。
1135年  ザンギーはダマスクス包囲するが、ダマスクスの実権を握ったトゥグ・テギーン(ドゥカークの後見役)の旧友の武将ムイーヌッディーン・ウヌルの前に、攻撃は困難と悟り休戦協定が結ばれた。
イマードゥッディーン・ザンギー(1085 - 1146年);父はセルジューク朝スルタン マリク・シャーのマムルーク。アレッポの太守となり、そこでアタベク政権ザンギー朝を建てた。1144年に十字軍国家群からエデッサ伯国を奪い、第2回十字軍を呼び寄せることになる。つまらないことで恨みを買い奴隷に殺害された。 
1137年  ザンギー、イスラム側のダマスクスを攻撃し失敗するが、途中の小領国を攻略。これを阻止するためイェルサレム王フルクが北上し、激突。フルクはアンティオキア、トリポリ軍から分離され、モンフェランの城塞に追い込まれ、講和してこの重要拠点を明け渡す。
1140年  ザンギーに対し、イェルサレム国王フルクがダマスカス領主と同盟。しかし、ザンギーが南のダマスクス攻略を諦め、北東のエデッサに向かうことになる。さらに、フルクはアンティオキア公国をビザンツ帝国にゆだねてしまう。(*2 II‐P53)
1142年  聖ヨハネ騎士団により、クラク・ド・シュヴァリエ(騎士の城)建設される(現存)。
1143年  フルク、狩りに出ていたときの落馬で死亡。妻のメリゼンダ(ボードワン2世長女)が女王として即位。(*2 II-P53)
1144年  ダマスカス領主との間に対ザンギー同盟を結んでいたイェルサレム王国はメリゼンダが女王に就くなど混乱しており、好機であるにもかかわらず、ザンギーはエデッサに向かう。完成したばかりの「クラク・ド・シュヴァリエ」が気になったからではないかと思う(*2 II-P58)。このとき、エデッサはジョスラン・ド・コートネーの息子ジョスラン2世が守っていた。
   ザンギー、エデッサを奪い、中東にできた4つの十字軍諸国のうち、最初にできた国を滅ぼす。*1
ジョスランが戦闘に出た隙にエデッサは大軍に包囲された。聖職者たちが指揮して防戦にあたったが、ジョスランの帰還はイスラム軍によって妨害され、アンティオキア公国もイェルサレム王国もすぐに援軍を出さず、エデッサは陥落し、破壊と殺戮が行われた。

資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1『アラブが見た十字軍』アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生

十字軍の歴史
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