概 略 |
1189年 |
5月神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ=赤ひげ、62歳)が陸路進軍開始。騎兵数千、歩兵数万の大規模軍。 |
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イェルサレム王ルジニャン、バリアーノ・イベリン、聖堂騎士団、病院騎士団、ピサ、ジェノヴァなどがアッコン奪還のため攻撃開始。第三次十字軍の第二戦。欧州から遠征してくる十字軍もアッカを目指すようになる。 |
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アッカ防衛を市内の防衛力に任せようとしていたサラディンだったが、兵站基地としてのティール(アッカの50Km北)の参戦もあり、サラディン自ら参戦すると決める。
アッカを包囲するフランク軍の外側をサラディンの甥タキ・アル・ディールに指揮を任せ、弟アル=アーディルを中央に配した。
しかし、ヒッティーンの熱狂が過ぎたエミル(太守)たちは自らの所領にもどり、サラディンの派兵要請に応じなくなる。*2 |
1190年 |
6月 フリードリッヒ1世、小アジアで渡河中に落馬し、溺死。
7月英王リチャード1世と仏王フィリップ2世が海路で出発。合計で騎兵数百、歩兵数千。 |
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ドイツ軍崩壊の報を聞いたアッカ包囲の十字軍はアヴェーヌ伯ジャックの主張により、外側のサラディン軍との間に濠を築く。これにより1年間持ちこたえることになる。*2 |
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9月 英王リチャード1世はシチリアのメッシーナに入り、仏王フィリップと合流。しかし、シチリア王妃となっていた妹ジョアンナが幽閉されていたため、シチリア王タンクレード(第一次十字軍の同名とは無関係)を攻めて、妹を解放。しかし、この戦闘でアッカに渡る季節を逸してしまう。さらに、母アクィテーヌのエレオノールがメッシーナに結婚相手を連れてくるなどして、出発は翌年まで遅れる。 |
1191年 |
4月仏王フィリップ、6月英王リチャードがアッカに到着。途中、リチャードは、妹たちが拿捕されたビザンツ領キプロス島を攻撃し、5日間で占領した。キプロスは50隻の船と金貨3,500枚を提供し、これ以降、ギリシア正教からカトリック教側に立ち、巡礼の中継基地となる。さらに、リチャードはアッカへの補給物資を積んだ大型のイスラム船を拿捕した上で、アッカに入港した。そして、十字軍の指揮系統は統一された。 |
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7月、英王リチャードのアッカ到着後に、アッカ(ティールの南約50Km)を開城。
イギリス王リチャードの介入で、第三次十字軍はサラディンからイェルサレムを除く数都市を回復。*1
8月、仏王フィリップは、仏軍を残して帰国。フランドル伯が戦死したため、その領土を狙っていたか。仏王より大きなフランドル伯領、シャンパーニュ伯領、ブルゴーニュ伯領、そして、英王が所有するアクィテーヌ地方などへの領土拡大の野心を持っていた。*2 III-P92 |
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オーストリア公レオポルドがドイツ軍を残して帰国。残されたドイツ人は「チュートン騎士団」という3つ目の宗教騎士団となる。 |
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8月リチャードは、サラディンが身代金の支払いを先延ばししたことに対して、人質2,500人を殺害し、イェルサレムに進軍。約2万の軍勢。 |
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9月7日 アルスーフの戦闘;リチャードの指揮のもと、十字軍は行軍を続けながらの5時間の激闘で、アヴェーヌ伯ジャックが戦死するが、十字軍が勝利し、アルスーフに入城。9月15日サラディンの命により破壊されていたヤッファ(現テル・アビブ)に入城。 |
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11月リチャードとアル・アーディル(サラディンの弟)の休戦会談するが決裂。12月25日十字軍は、ラムラまでを占領。 |
1192年 |
1月バイ・ヌーバ(イェルサレムまで30Km)占領するが、リチャードはいったん後退。エジプト支配を任されているサラディンの弟アル・アーディルによりエジプトから援軍がくる可能性もあり、第一次十字軍のときとはちがって、イスラム側がサラディンのもとで結束しており、慎重を期した。*2 |
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リチャードはアッカでのピサとジェノバやその背後にいる諸侯の内紛を仲裁。イェルサレム王位はルジニャンからモンフェラート侯コラードへ。リチャードはルジニャンをキプロス王とした。コラードは裏でサラディンと取引し、イェルサレム攻略に参戦していなかった。*2
III-P142 |
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リチャードはイェルサレム攻略の前に、破壊されていたアスカロンを再建する。*2 また、アスカロンおよびイェルサレム攻略の進路を守るために、エジプト方面のガザ、ダールムを攻略。 |
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アスカロン再建後に仏軍はティールに撤退。仏王フィリップが英王リチャードの十字軍滞在を長引かせるため。
ティールでコラードが暗殺される。バリアーノ・イベリンはイェルサレム王継承権を持つ娘イベリンとシャンパーニュ伯アンリを結婚させ、イェルサレム王継承者を定める。 |
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英本国から仏王フィリップとリチャードの弟ジョンが組んで攻め込んできており、救援、つまりリチャードの帰国を要請してきた。 |
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リチャードは、サラディンと休戦交渉を開始。しかし、8月1日リチャードが留守をしていたヤッファにイェルサレムのサラディンが攻撃をしかける。リチャードは馬が少ない守備隊に甲冑と槍による針の山を作って防ぎ切った。;ヤッファ前の戦闘。 |
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リチャードからの再度の講和提案。8月4日アル・アーディルがヤッファを訪れ、講和締結。このとき、アル・アーディルは長男を同行したが、この少年を気に入ったリチャードは騎士に叙任した。のちに第六次十字軍を迎えるスルタン
アル・カミールである。*2 |
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講和は、イェルサレムはイスラム側のまま、ただしキリスト教徒の巡礼は認める。イスラム側は巡礼者の安全を保証する。ティールからヤッファまでとその周辺は十字軍側に属す。双方の自由な行き来、つまり経済交流も認めた。アスカロンは破壊される。*2
III-P172 |
リチャード1世の後日談 |
リチャードが帰国するために、妻や妹、部下たちを先に送り出し、自らは少数の部下とともに帰国の途に就いた。しかし、ジェノバの港にはフランス王フィリップ2世の部隊が待ち構えているとの情報を得て、ヴェネツィアに上陸しようとするが、暴風で船が難破。部下の何人かも失い、聖堂騎士団に扮して陸上を旅したが、途中でオーストリア公レオポルドに捕らえらる。アッカ占領後に城壁の塔のオーストリア公の旗を下ろされた恨みから幽閉される。吟遊詩人に頼んで部下に居場所を知らせたが、復讐を恐れたレオポルドは神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身柄を預けた。ハインリッヒには、フランス王フィリップ2世から幽閉を続けるよう依頼される。皇帝ハインリッヒはモンフェラート侯コラードを「ハッシシを吸う男たち」と呼ばれる暗殺集団に殺させた罪で裁判にかける。しかし、暗殺集団を率いる「山の老人」からコラードを殺したのは自分たちの復讐のためであり、リチャード1世からの依頼ではないとの手紙が届く。裁判にかける理由がなくなったが、皇帝ハインリッヒは、リチャードに法外な身代金を求めた。母エレノオールやソールズベリー司教などが金策し、1年3か月ぶりに釈放された。
本国では熱狂で迎えられたリチャード1世に、ジョン派の諸侯も恭順を示し、弟ジョンはフランスに逃げた。リチャードは不在の間にフランス王フィリップに奪われていたノルマンディー地方とアクィテーヌ地方奪還のためフランスに向った。2年ほどで大部分の領土を奪い返したが、2年の休戦を経て戦争が再開された1199年4月、城を攻めていたリチャードは負傷し、死亡した(41際)。*2
III-P187 |