| 概 略 |
| 1208年 |
インノケンティウス3世による対アルビジョア派十字軍、南仏勢力を弱め、北仏のフィリップ2世を利する。 |
| 1214年 |
第四次十字軍、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。アル・アーディルの息子アル・カーミルが十字軍を撃退。*1 |
| 1216年 |
ローマ教皇インノケンティウス3世死去。ホノリウス3世即位。第五次十字軍を提唱。イェルサレム王女マリア(17歳)と結婚し、王位に就いていたフランス人騎士ジャン・ド・ブリエンヌ(60歳)に催促する。リーダーシップの欠けた十字軍にホノリウスはペラーヨ枢機卿を就け、ローマ教皇主導の十字軍となった。海軍としてはヴェネツィアに対して挽回を期すジェノヴァが参加。 |
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イスラム側も、73歳と高齢になったアル・アーディルと息子のアル・カーミル(38歳)の交代期にあたり、シリア派とエジプト派の太守の間での権力争いが起きていた。アル・アーディルは長男のアル・カミールにエジプト統治を任せる等エジプト重視の方針だった。 |
| 1218年 |
5月 第五次十字軍がエジプトのダミエッタ(ナイル河口三角州の東端)に上陸。
8月 ダミエッタの城塞を陥落させる。*2 III-P276 |
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8月 アル・アーディル死去。
エジプト以外の太守(エミル)が、アル・カーミルのクルディスタンを統治していた7番目の弟アル・ファイズを担いで反乱。ダマスクスの次弟アル・ムアザムが兄に味方し、反乱鎮圧。 |
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ローマ教皇ホノリウスから、ドイツ王フリードリッヒ2世へ第五次十字軍への参加要請。フリードリッヒは延期しつつ、長男をドイツ王にするための画策を行う。*2
III-P297 |
| 1219年 |
アッシジの修道僧(後の聖フランチェスコ)がアル・カーミルの陣幕に行き、キリスト教への改宗を勧めた。殺されず、十字軍陣営に送り届けられた。 |
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アル・カーミルから、エジプトから出ていけば、イェルサレムとガリラヤ地方を十字軍に渡すとの和平提案があったが、キリスト教徒の血で解放されるべきという法王代理のペラーヨ枢機卿やエジプトの基地化を狙うジェノバ海軍が反対。 |
| 1220年 |
ダミエッタ陥落。イスラム教徒殺戮。ダミエッタ防衛とカイロ攻略は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世を待って行うこととした。 |
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11月 フリードリッヒ2世、ローマ教皇ホノリウスから戴冠し、神聖ローマ皇帝に即位(26歳)。十字軍への参加も誓うが、急がなかった。フリードリッヒはそのまま領国シチリアへ赴く。 |
| 1221年 |
アル・カーミルは、フリードリッヒ2世の派遣を恐れ、(第五次)十字軍に対し再度イェルサレムを譲り渡す和平提案を行うが、この和平提案をペラーヨ枢機卿が再度拒否。 |
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夏の増水期にアル・カーミルは、ダミエッタ方面のダムをせき止め、増水した時に決壊させ、十字軍を水攻めにした。 |
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水攻めにされ被害を受けた十字軍は撤退し、浅瀬になりジェノヴァ海軍の船が近づけなくなり、物資が補給されなくなり、疫病も流行った。 |
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アル・カーミルから3度目の和平提案;ダミエッタ放棄とエジプトからの撤退。十字軍は不利な和平提案を受けざるをえず、エジプトから撤退。期限は8年間。 *2
III-P287 |
| 1223年 |
フィリップ2世死去。古代ローマのアウグストゥスのフランス語「オーギュスト」と称される。 |
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フリードリッヒ2世、シチリアで反乱を起こしたサラセン人(アラブ人)をイタリア半島のフォッジア近郊に移住させ、イスラム信仰も容認した。ナポリに大学をつくり、古代ローマ法を教えたり、サレルノの医学校を再興したりした。ボローニャなど神学校中心の大学とは趣が異なり、ローマ教皇の気に障ることをした。 |