概 略 |
1192年 |
リチャードが帰国するために、妻や妹、部下たちを先に送り出し、自らは少数の部下とともに帰国の途に就いた。しかし、ジェノバの港にはフランス王フィリップ2世の部隊が待ち構えているとの情報を得て、ヴェネツィアに上陸しようとするが、暴風で船が難破。部下の何人かも失い、聖堂騎士団に扮して陸上を旅したが、途中でオーストリア公レオポルドに捕らえらる。アッカ占領後に城壁の塔のオーストリア公の旗を下ろされた恨みから幽閉される。*2 |
1193年 |
吟遊詩人に頼んで部下に居場所を知らせたが、復讐を恐れたレオポルドは神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身柄を預けた。ハインリッヒには、フランス王フィリップ2世から幽閉を続けるよう依頼される。皇帝ハインリッヒはモンフェラート侯コラードを「ハッシシを吸う男たち」と呼ばれる暗殺集団に殺させた罪で裁判にかける。しかし、暗殺集団を率いる「山の老人」からコラードを殺したのは自分たちの復讐のためであり、リチャード1世からの依頼ではないとの手紙が届く。裁判にかける理由がなくなったが、皇帝ハインリッヒは、リチャードに法外な身代金を求めた。母エレノオールやソールズベリー司教などが金策し、1年3か月ぶりに釈放された。 |
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サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル・アーディルが再統一。*1 |
1194年 |
本国では熱狂で迎えられたリチャード1世に、ジョン派の諸侯も恭順を示し、弟ジョンはフランスに逃げた。リチャードは不在の間にフランス王フィリップに奪われていたノルマンディー地方とアクィテーヌ地方奪還のためフランスに向った。 |
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ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。 |
1196年 |
イギリスが2年ほどで大部分の領土を奪い返し、リチャードとフィリップの間に休戦成立。 |
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サラディンの息子たちの間で権力争い。アル・アーディルは、長男アル・アフダルをダマスカスから追放。 |
1198年 |
インノケンティウス3世、教皇即位。38歳ながらコンクラーベ(枢機卿会議)の1回目で選出が決まるエース中のエースと目されていた。後にフランチェスコ派を公認し、神聖ローマ皇帝となる前のフリードリッヒ2世を支援するなどルネサンス運動の端緒に関わる。(*2
III-P194) |
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インノケンティウス3世、「救出修道会」にローマの4つの城門からの関税を財源と認めた。これにより以降600年間活動が継続される。 |
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サラディンの次男アル・アズィズが落馬で死去。長男アル・アフダルが政権復帰に動く。 |
1199年 |
2年の休戦を経て戦争が再開された1199年4月、城を攻めていたリチャードは負傷し、死亡した(41際)。*2 III-P187。 |
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リチャードには子がなく、後継ぎに亡き兄の遺児を指名していたが、弟ジョンが横取りし、国王に即位。しかし、その後の17年間でリチャード(獅子心王)が奪い返した地方のほとんどをフランス王フィリップ2世に奪われ、「ジョン失地王」と称される。 |
1200年 |
インノケンティウス3世、フランス諸侯に第四次十字軍を呼びかける。シャンパーニュ伯ティボーなどが賛同。シャンパーニュ伯、ブロア伯、フランドル伯の家臣2人ずつの合計6任人を代表として、ここで決めたことを全員の意思とすることとした。 |
1201年 |
太守たちに見放されたアル・アフダルが引退生活にもどることを承知、アル・アーディルがスルタンに就く。 |
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アル・アーディル、ヴェネツィアとの通商条約に「相互不可侵」を追加。次の十字軍に備える。 |
1223年 |
フィリップ2世死去。古代ローマのアウグストゥスのフランス語「オーギュスト」と称される。 |