Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe&MiddleEast 1223年

Europe&MiddleEast1192年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)  gya_r_bg.gif (1063 バイト) Europe&MiddleEast12XX年

イギリス失地王ジョン、仏王フィリップ2世にノルマンディー・アクィテーヌ地方を奪われる


 イギリス王リチャード1世(獅子心王)の奮戦により、ティール、アッカ、ヤッファと地中海沿岸を占領していき、イェルサレム攻略の準備をしていたが、先に帰国したフランス王フィリップ2世にイギリスに攻め込まれ、サラディンと講和を成立させて帰国することとなった。

概 略 
 1192年  リチャードが帰国するために、妻や妹、部下たちを先に送り出し、自らは少数の部下とともに帰国の途に就いた。しかし、ジェノバの港にはフランス王フィリップ2世の部隊が待ち構えているとの情報を得て、ヴェネツィアに上陸しようとするが、暴風で船が難破。部下の何人かも失い、聖堂騎士団に扮して陸上を旅したが、途中でオーストリア公レオポルドに捕らえらる。アッカ占領後に城壁の塔のオーストリア公の旗を下ろされた恨みから幽閉される。*2
 1193年  吟遊詩人に頼んで部下に居場所を知らせたが、復讐を恐れたレオポルドは神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身柄を預けた。ハインリッヒには、フランス王フィリップ2世から幽閉を続けるよう依頼される。皇帝ハインリッヒはモンフェラート侯コラードを「ハッシシを吸う男たち」と呼ばれる暗殺集団に殺させた罪で裁判にかける。しかし、暗殺集団を率いる「山の老人」からコラードを殺したのは自分たちの復讐のためであり、リチャード1世からの依頼ではないとの手紙が届く。裁判にかける理由がなくなったが、皇帝ハインリッヒは、リチャードに法外な身代金を求めた。母エレノオールやソールズベリー司教などが金策し、1年3か月ぶりに釈放された。
   サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル・アーディルが再統一。*1
1194年  本国では熱狂で迎えられたリチャード1世に、ジョン派の諸侯も恭順を示し、弟ジョンはフランスに逃げた。リチャードは不在の間にフランス王フィリップに奪われていたノルマンディー地方とアクィテーヌ地方奪還のためフランスに向った。
   ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
1196年   イギリスが2年ほどで大部分の領土を奪い返し、リチャードとフィリップの間に休戦成立。
   サラディンの息子たちの間で権力争い。アル・アーディルは、長男アル・アフダルをダマスカスから追放。
1198年  インノケンティウス3世、教皇即位。38歳ながらコンクラーベ(枢機卿会議)の1回目で選出が決まるエース中のエースと目されていた。後にフランチェスコ派を公認し、神聖ローマ皇帝となる前のフリードリッヒ2世を支援するなどルネサンス運動の端緒に関わる。(*2 III-P194)
   インノケンティウス3世、「救出修道会」にローマの4つの城門からの関税を財源と認めた。これにより以降600年間活動が継続される。
   サラディンの次男アル・アズィズが落馬で死去。長男アル・アフダルが政権復帰に動く。
1199年  2年の休戦を経て戦争が再開された1199年4月、城を攻めていたリチャードは負傷し、死亡した(41際)。*2 III-P187。
   リチャードには子がなく、後継ぎに亡き兄の遺児を指名していたが、弟ジョンが横取りし、国王に即位。しかし、その後の17年間でリチャード(獅子心王)が奪い返した地方のほとんどをフランス王フィリップ2世に奪われ、「ジョン失地王」と称される。
1200年  インノケンティウス3世、フランス諸侯に第四次十字軍を呼びかける。シャンパーニュ伯ティボーなどが賛同。シャンパーニュ伯、ブロア伯、フランドル伯の家臣2人ずつの合計6任人を代表として、ここで決めたことを全員の意思とすることとした。
1201年  太守たちに見放されたアル・アフダルが引退生活にもどることを承知、アル・アーディルがスルタンに就く。
   アル・アーディル、ヴェネツィアとの通商条約に「相互不可侵」を追加。次の十字軍に備える。
   5月十字軍の代表がヴェネツィアに海上輸送の依頼のための交渉に赴く。ヴェネツィアは、イスラムのアル・アーディルとの不可侵条約交渉中だったが、4,500人の騎士と2万人の歩兵の輸送を85,000マルクで請け負う。ただし、十字軍が征服した領土の半分をもらうことを条件として快諾される。*2 III-P222
   総司令官となる予定のシャンパーニュ伯ティボーが病死。伯から資金と十字軍参加を託された多くの諸侯が姿を現さなかった。モンフェラート侯ボニファチオが総司令官を引き受ける。
仏王フィリップ2世は、周辺の諸侯がまた十字軍として留守にすることを喜んだ。*2
 1202年  ヴェネツィアの集結したのは1万程度で予定の1/3だった。しかし、6/24出発予定日に向けてヴェネツィア側は約束の艦隊(ガレー船50隻、帆船240隻、平底船120隻、快速小型ガレー船70隻、計480隻)の準備を終えていた。しかし、約束の支払いができるまでヴェネツィアは船を出さないと通告。 *2 III-P234
   8月ヴェネツィアのドージェ(元首)ダンドロは、ハンガリー王の扇動で反乱したザーラ(アドリア海のヴェネツィアの基地)攻略に手を貸してくれるなら、借金の返済期間を延期すると相談。キリスト教徒を攻めることに抵抗があり、協議したが、十字軍代表者たちは提案を受け入れた。
10月ヴェネツィアを出港。
11月 ザーラを攻略。インノケンティウス3世が十字軍とヴェネツィアを破門にした。釈明した結果、十字軍だけは破門解除。後にヴェネツィアも解除。
   ザーラで越冬している間に、ビザンツ帝国の皇子アレクシスが、簒奪された帝位を取り戻すために、ビザンツ帝国の首都への攻撃を求めにきた。(1)20万マルク、(2)エジプト攻めのための兵1万を1年間提供、(3)パレスティナのキリスト教徒防衛要員500の騎兵提供、(4)ギリシア正教会をローマカトリック教会に統合、が条件。
ドイツに行っていたモンフェラート侯は事前に知っていた可能性も。
1204年  コンスタンティノープルを10か月で攻略。ビザンツ皇帝は逃亡し、皇子アレクシスも元皇帝であった父も殺されており、帝位不在となり、フランドル伯を皇帝とするラテン帝国を樹立。5/8をフランス諸侯に分与、3/8をヴェネツィア領とした。また、ヴェネツィアが敵対する国の商品はラテン帝国では通商できないことを決めた。
また、この遠征でドージェ ダンドロは、ヴェネツィアからコンスタンティノープルまでの間をクレタ島を含む領有基地でつなぐ海のルートを確立し、「地中海の女王」となっていく。た。 *2 III-P256
1205年  ヴェネツィア元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロ、コンスタンティノープルで死去。
1208年  インノケンティウス3世による対アルビジョア派十字軍、南仏勢力を弱め、北仏のフィリップ2世を利する。
1214年  第四次十字軍、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。アル・アーディルの息子アル・カーミルが十字軍を撃退。*1
1216年  ローマ教皇インノケンティウス3世死去。ホノリウス3世即位。第五次十字軍を提唱。イェルサレム王女マリア(17歳)と結婚し、王位に就いていたフランス人騎士ジャン・ド・ブリエンヌ(60歳)に催促する。リーダーシップの欠けた十字軍にホノリウスはペラーヨ枢機卿を就け、ローマ教皇主導の十字軍となった。海軍としてはヴェネツィアに対して挽回を期すジェノヴァが参加。
   イスラム側も、73歳と高齢になったアル・アーディルと息子のアル・カーミル(38歳)の交代期にあたり、シリア派とエジプト派の太守の間での権力争いが起きていた。アル・アーディルは長男のアル・カミールにエジプト統治を任せる等エジプト重視の方針だった。
1218年  5月 第五次十字軍がエジプトのダミエッタ(ナイル河口三角州の東端)に上陸。
 8月 ダミエッタの城塞を陥落させる。*2 III-P276
   8月 アル・アーディル死去。
エジプト以外の太守(エミル)が、アル・カーミルのクルディスタンを統治していた7番目の弟アル・ファイズを担いで反乱。ダマスクスの次弟アル・ムアザムが兄に味方し、反乱鎮圧。
   ローマ教皇ホノリウスから、ドイツ王フリードリッヒ2世へ第五次十字軍への参加要請。フリードリッヒは延期しつつ、長男をドイツ王にするための画策を行う。*2 III-P297
1219年  アッシジの修道僧(後の聖フランチェスコ)がアル・カーミルの陣幕に行き、キリスト教への改宗を勧めた。殺されず、十字軍陣営に送り届けられた。 
   アル・カーミルから、エジプトから出ていけば、イェルサレムとガリラヤ地方を十字軍に渡すとの和平提案があったが、キリスト教徒の血で解放されるべきという法王代理のペラーヨ枢機卿やエジプトの基地化を狙うジェノバ海軍が反対。 
1220年  ダミエッタ陥落。イスラム教徒殺戮。ダミエッタ防衛とカイロ攻略は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世を待って行うこととした。 
   11月 フリードリッヒ2世、ローマ教皇ホノリウスから戴冠し、神聖ローマ皇帝に即位(26歳)。十字軍への参加も誓うが、急がなかった。フリードリッヒはそのまま領国シチリアへ赴く。
1221年  アル・カーミルは、フリードリッヒ2世の派遣を恐れ、(第五次)十字軍に対し再度イェルサレムを譲り渡す和平提案を行うが、この和平提案をペラーヨ枢機卿が再度拒否。
   夏の増水期にアル・カーミルは、ダミエッタ方面のダムをせき止め、増水した時に決壊させ、十字軍を水攻めにした。
   水攻めにされ被害を受けた十字軍は撤退し、浅瀬になりジェノヴァ海軍の船が近づけなくなり、物資が補給されなくなり、疫病も流行った。
   アル・カーミルから3度目の和平提案;ダミエッタ放棄とエジプトからの撤退。十字軍は不利な和平提案を受けざるをえず、エジプトから撤退。期限は8年間。 *2 III-P287
1223年  フィリップ2世死去。古代ローマのアウグストゥスのフランス語「オーギュスト」と称される。
   フリードリッヒ2世、シチリアで反乱を起こしたサラセン人(アラブ人)をイタリア半島のフォッジア近郊に移住させ、イスラム信仰も容認した。ナポリに大学をつくり、古代ローマ法を教えたり、サレルノの医学校を再興したりした。ボローニャなど神学校中心の大学とは趣が異なり、ローマ教皇の気に障ることをした。

資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1『アラブが見た十字軍』アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生

十字軍の歴史
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