概 略 |
1097年 |
最初の十字軍の侵寇。ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。 |
|
アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドがセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。(ホラズム朝成立) |
|
十字軍は次にアンティオキア攻略に向かう。アンティオキア総督ヤギ・シヤーンは、ダマスカス太守ドゥカーク、モスール太守カルブーカに息子を派遣し救援を要請する。より近くのアレッポ領主であり、ヤギ・シヤーンが娘を嫁がせたリドワンには救援を求めなかった。また、リドワーンはドゥカークの兄であったが、弟を殺そうとするなど、険悪な関係にあった。ヤギ・シヤーンは、十字軍への内通を恐れ、アンティオキアに居住するキリスト教の男を追放する。 |
|
10月十字軍約5万の兵がアンティオキアを包囲。ポエモンの弟であるタンクレードはジェノヴァと協力して、サンシメオン港、イシュケンデル港などを獲得していた。 |
|
ダマスカス太守ドゥカークはアンティオキア救援に向かうが、ポエモンとフランドル伯の軍に敗れ、逃げ帰る。地震が発生し、ポエモンらはアンティオキアに戻る。 |
|
エデッサ領主トロスが、モスール太守を攻めるため十字軍に応援を要請。ボードワンはエデッサに赴くが、トロスが部下に殺されたため、ボードワンがエデッサの領主となる。エデッサ伯領の成立。 |
1098年 |
ヤギ・シヤーンは、アンティオキアの領有権譲渡を条件に、アレッポ領主リドワーンに救援を要請。しかし、リドワーンはポエモンに撃退される。 |
|
イギリスから十字軍参加志願の騎士が、大量の木材をもって到着。攻城のための塔を建設。アンティオキア城内のギリシア正教徒が食糧を高く売りつけ、十字軍の反感を買う。 |
|
アンティオキア攻囲中の十字軍に、エジプトのカリフの特使として宰相アル・アフダルが訪問、セルジューク(バクダッドのカリフ政権)に対する同盟を申し入れる。条件は、シリア占領には協力するが、パレスティナには立ち入るな、であった。十字軍はこれを拒否。 |
|
バクダッドのカリフが呼びかけ、モースルのカルブーカが率いる全ムスリム軍がアンティオキアに援軍として向かう。まずは、エデッサ伯のボードワンを攻める。ボードワンは3週間の攻囲に耐え、カルブーカは背後に敵を残したまま、アンティオキアに向かう。 |
|
アンティオキアは元キリスト教徒のアルメニア人に内応により、陥落。ヤギ・シヤーンは脱出するが部下に殺された。フランク(十字軍)、アンティオキア占領。 |
|
6月 カルブーカ軍10万以上がアンティオキアを包囲。ポエモンは全軍を6手に分け、城塞から打って出た。激戦のうちに、ムスリム側は次第にドゥカーク、リドワーンなどが離脱し、最後はカルブーカも離脱し、十字軍の勝利となる。もはやシリアには、十字軍に対抗できるムスリム軍は残っていなかった。(*2
I-P148) |
|
疫病と飢饉が蔓延。司教アデマール死去。アンティオキアの領有でポエモンとサン・ジルが対立。 |
|
しかし、アンティオキアの食糧庫まで燃やしてしまった十字軍は食糧欠乏に窮していた。サン・ジルの兵士がマアッラで人肉食い事件を起こし、味方の十字軍からも批判を受ける。これにより、サン・ジルはイェルサレムへ向かうこととなり、ポエモンがアンティオキアを領有。 アンティオキア公国(1098〜1268)成立。 |
|
ローマ法王ウルバン2世、提唱した十字軍の活躍により神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世の権威を上回り、皇帝が後ろ盾となっていた法王が逃亡し、ウルバン2世が公邸であるラテラノ宮殿に入る。(法王の権威は高まり、以降3代の法王はウルバン2世と同じクリュニー修道院出身者が占める。約100年後のインノケンティウス3世の時に最高潮に達する) |
1099年 |
サン・ジル、ゴドフロア、タンクレード(ポエモンの甥)を主力として、イェルサレム解放に向かう。ヨーロッパを発ったと約5万だった兵が1万2千5百となっていた。(*2
P167) |
|
この当時のパレスティナは、エジプト(ファーティマ朝)カイロのカリフの支配下にあったが、山岳地帯の東側はダマスカスの太守であるトルコの支配下にあった。海側の都市でもまだ総督はトルコ人がエジプトの支配を受けていた。各都市のトルコ人総督にとって、十字軍はエジプトからの解放者でもあった。(*2
P169)シャイザールやハマ、トリポリ、シドン、ティロス、アッコン、ハイファ、カエサリア、アルスーフ、ヤッファ(現テル・アヴィヴ)などの街は、食糧や金などを与えたうえで、十字軍を素通りさせた。6月十字軍はイェルサレムを望む地に到達。 |
|
7月15日 ゴドフロワ・ド・ブイヨンが指揮官として、イェルサレム陥落させる。イェルサレムを守備するイフティファールは、フランクのサン・ジルと交渉し、脱出。その後、イェルサレムはフランクにより、略奪と殺戮が行われる。アル=アフダル率いるエジプトからのファーティマ朝の援軍は敗走。ゴドフロワが王となり、イェルサレム王国が成立(1099〜1291)。ノルマンディー公の聴聞僧だったド・ローをイェルサレム大司教とした。 |
|
8月 宰相アル・アフダル率いるエジプト軍3万がイェルサレムに向けて進軍してきたとの情報。アスカロンに待機していたところを約1万の十字軍が急襲し、撃退する。 |
|
イェルサレム占領後、アスカロンとアルスーフがサン・ジルに降伏を申し出るが、指揮官であるゴドフロアは自分に降伏してこなかったことで、この申し出を拒否する。これに対して、サン・ジルとノルマンディー公、フランドル伯が反発し、帰国すると言って北へ向かう。イェルサレムに残ったのは、ゴドフロアとタンクレードのみ、騎兵300と歩兵2,000程度となる。 |
|
12月 アンティオキア攻防戦中に死去した法王代理アデマールの代わりに、ダインベルトが赴任。アンティオキア公ポエモン、エデッサ伯ボードワンが同行し、イェルサレムに至る(*2
P215)。ポエモンとボードワンの兵の一部がイェルサレム防衛に残る(ボードワンの兵は元々兄ゴドフロアから借りた兵だった)。 |
|
また、この間、タンクレード(ポエモンの甥)は、わずか24騎でイェルサレムの周辺ガリラヤ地方を制覇していた。ティベリアスを中心としたガリラヤ公爵となる。ティベリアスは、後にイスラム世界に対する強固な砦となる。 |
|
ダインベルトは、ド・ローを追い出し、イェルサレム大司教となる。 |