Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe&MiddleEast 1097年

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最初の十字軍により、ニケーア陥落



 1097年 最初の十字軍侵寇。ドリュラエウムの戦い;クルジュ・アルスラン敗退。ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す。

概 略 
1077年  セルジューク朝がバグダードの本家の他に、ケルマーン、ルーム(小アジア)、シリア、イラクの四つの地方政権に分裂。
   トルコ系のマムルーク、アヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命される。(のちにホラズム朝に発展)
1095年   シリア・セルジュークの始祖トゥトゥシュ、バルキヤークに敗死。二人の息子リドワーンとドゥカークが所領を分割相続して、バルキヤークの宗主権に対立した。しかし、兄弟の仲も悪く、シリア・セルジュークは衰退していく。
   クレルモン公会議でウルバン2世、十字軍提唱。「神がそれを望んでおられる」の歓呼が伝わる。キリスト教同士の休戦、翌年8月15日(マリア昇天祭)に東方へ向けて出発、赤い十字架を衣服に縫い付ける、十字軍参加者への免罪、資産の保全、借金の正当な値を法皇が保障、などを決める。*2各貴族の一族がそれぞれの紋章を掲げて参戦したが、統一感を持たせるための工夫だった。鎖かたびらの上に鋼鉄製の甲冑をまとう重装備だった。
1096年  隠者ピエールの呼びかけに貧民、女子供まで、5〜10万人が付き従い、施しを受けながらイェルサレムを目指す。しかし、ビザンツ帝国領内に入り、特にユダヤ教徒などに対しては略奪を行う。8月1日にはコンスタンティノープルに到着。
   ウルバン2世の呼びかけに応じるべき最も権威が高い神聖ローマ皇帝ハインリッヒは、ウルバン2世とはカノッサ屈辱以降対立関係。フランス王フィリップは王妃との離婚問題で破門中。仏王の弟ヴェルマンドワ伯ユーグが参加。他に、ノルマンディー公ロベール、ブロア伯エティエンヌ、フランドル伯ロベール(31歳)などが参加(第一次遠征は『諸侯たちの十字軍』と呼ばれるが、中央集権化以前なので、皇帝や王でなく、諸侯が軍事力を持っており、諸侯の参加が必要条件だった)。
   ◆ヴェルマンドワ伯ユーグ ; 39。、数百〜一千、仏王の弟にあたり、総大将格だが、兵数が少なく発言力は弱くなる。*2
   ◆ノルマンディー公ロベール ; 財政難のためノルマンディー公領を担保に弟のイングランド王ウィリアム2世に資金を借りて遠征へ。*2
   ◆ブロア伯エティエンヌ ; ノルマン朝征服王ウィリアムの娘を妻とし、その兄であるノルマンディー公も行くのだからと妻にけしかけられて参戦。イェルサレムに到達前に脱落して帰国するが、再度妻にオリエントに送り出される。*2
   ◆フランドル伯ロベール ; 31歳。騎兵500。以上のノルマンディー公ロベール、ブロア伯エティエンヌ、フランドル伯ロベールは行動を共にし、勇敢に戦い、領土獲得には野心を持たず、ヨーロッパに帰国した。*2
   ◆トゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジル ; 50代半ば。兵5万。レコンキスタでイスラム教徒との戦闘経験あり周辺の小領主も付き従う。ウルバン2世に公会議前から声をかけられていた。総大将と自認していたと思われるが、裕福で多く兵を養えたが、人望がなかった。また、傘下に法王代理の司教アデマールが参加。第一次十字軍迷走の原因となる。*2
   ◆ロレーヌ公ゴドフロア・ド・ブイヨン ;36歳。 ロレーヌ地方(現ベルギー)の領主。ロレーヌは後にフランス領となるが、この時代は神聖ローマ帝国に属していた。騎兵1万、歩兵3万と言われている(実体はその半分くらいか)。第一次十字軍の中で自然に総大将と目されていく。法王と対立していた神聖ローマ帝国皇帝の臣下のため、法王としては想定外の参加だったのでは?弟のユースタスとボードワン、いとこのもう一人のボードワンも同行。不要な土地や私物を売り払って遠征費用をまかなったが、それでも足りず領民に寄付を募ったが、予想以上に集まったというほど領民からも人気があった*2。初代イェルサレム国王となる。
   ◆プーリア侯ポエモン;47歳。ノルマン朝アルタヴィッラ家に属する。南イタリアからビザンツ帝国勢を駆逐し、シチリアを制覇した。しかし、シチリア王には弟グィスカルドがつき、ビザンツ帝国のギリシアへの侵略はヴェネツィア海軍にはばまれ、アマルフィを攻めている時に十字軍提唱を聞いた。騎兵1万、歩兵2万(実体はその半数くらいか)。ノルマン人で貴族の割合が高く精鋭揃い。甥のタンクレードが同行。敵も含めて女にモテた。*2
   総兵力は、公称10万、実体は5万くらいか。それでも大軍勢だが、指揮系統が一元化されず、迷走する。兵力の多いサン・ジルゴドフロアポエモンの3人の諸侯が第一次十字軍の主力軍となる。それでも法王の提唱どおり8月15日以降順次ヨーロッパを出発し、まずは、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに集結する。
   隠者ピエール貧民十字軍は7月の終わりにはコンスタンティノープルに接近。出発当時からは半数以下に減っていた。ビザンツ帝国皇帝アレクシオス(当時4歳)は、各地で問題を起こす彼らがコンスタンティノープルに入るのを拒否し、ピエールのみを宮殿に招き入れた。その後、ろくに武器ももたない貧民十字軍に食と衣を与えて、ボスポラス海峡を渡る船も提供し、やっかり払いをする。
 クルジュ・アルスラン(ニケーアのスルタン)、隠者ピエールが指揮するフランク侵略軍を破る。2万人が殺されたとも。その後の諸侯の十字軍に吸収されるなどで消滅した。
   この年(1096年)、「諸侯の十字軍」でコンスタンティノープルに到着したのは、ユーグ伯とロレーヌ伯のみ。ビザンツ皇帝アレクシオス・コムネノスは自らが招請した十字軍により、失地回復を目指しており、諸侯に対して自らの傭兵と同様に臣下の誓いを求めた。神聖ローマ皇帝への忠誠を誓っているゴドフロアは回答せず。すると皇帝アレクシスは宿営地のゴドフロア軍への食糧供給を停止。ゴドフロアは弟ボードワンに命じて首都近郊の村を襲撃させた。食糧供給は再開される。
1097年  4月 ゴドフロアは忠誠の誓約書に署名し、皇帝アレクシオスから船の提供を受け、ボスポラス海峡を渡る。後から到着した諸侯も、臣下の誓いに署名し、ゴドフロアに続いて小アジアに渡った。
   小アジアは、西側はニケーアを本拠とするクルジュ・アルスランが、東側はコンヤ(コニア)を本拠とするダニシメンドが戦争していた。十字軍がニケーアを包囲したとき、アルスランは戦いに出かけており、留守にしていた。
 ニケーア攻防戦は激闘となり、トルコ兵四千人、十字軍二千人が戦死。トルコ兵千人の首を切り落としてニケーアの城壁内へ投げ込んだ。しかし、包囲していたニケーアの城壁に突如ビザンツ帝国の旗が翻り十字軍を唖然とさせた。皇帝アレクシオスが密使により降伏させてビザンツ帝国の傘下に収めた。十字軍はビザンツ皇帝アレクシオスに不信感を持ったが、食糧供給とギリシア人による道案内があり、当面は協力し合う(*2)。
   ルーム・セルジュークは首都をニケーアからコンヤに遷す(*1)。クルジュ・アルスランは、争っていたダニシメンドに応援を求め、カッパドキアの太守(エミル)ハサンなどセルジューク・トルコ軍を結集して、十字軍に対抗。
   6月 ドリュラエウムの戦い;トルコ軍の矢を射かける戦法は、十字軍主力の重装歩兵には通用せず、トルコ騎兵三千、歩兵二万が戦死。クルジュ・アルスラン敗退。主力を失ったセルジューク・トルコは以降ゲリラ戦を展開する。十字軍側も戦死者四千。
   8月 十字軍、ゲリラ戦や食糧略奪に悩まされながら、コンヤに到着。
   9月 ボードワン(ゴドフロアの弟)とタンクレード(ポエモンの甥)は、ティアナから南のタウルス山脈を越える道をとる。ボードワンはゴドフロアから騎兵五百、歩兵二千を借りた。タンクレードのその半数くらいの兵力か。(*2)
   その他はギリシア人案内人に従い北上し、アルメニア人の土地を通ってアンティオキアを目指したが、トルコ軍の待ち伏せに遭う。ビザンツ皇帝アレクシスがつけた道案内が、イェルサレムに向かうことよりも、小アジアのトルコ軍を駆逐することを優先していると疑う。
   タンクレードは数百騎でタルソスを占拠したが、後から来たボードワンの兵力が大きく、ボードワンの占領地となる。ボードワンは近くに来ていたロレーヌ領の海賊をタルソスの警固につけ、タンクレードとともに先行している十字軍を追った。この二人は少ない兵力でタルソス山脈南のキリキア地方の都市を制覇し、皇帝アレクシスの意に反して、十字軍の領土とした。
   ボードワンは、ピサ・ジェノヴァ・ヴェネツィアなどイタリア海洋都市国家と手を組み海上輸送能力を手に入れること、キリスト教系都市国家であるエデッサ(当時イスラム教系都市国家モスールと争っていた)から要請を受け、救援にいくことの2つを十字軍本体に提案。これらにより結果として、十字軍のビザンツ帝国からの自立を促すこととなった。イスラム側からは当初、十字軍は宗教の問題ではなく、領土獲得のための侵略と考えられていた。イェルサレム占領後はアンティオキアがイスラム教から守る最前線と考えらていた。
   エデッサ領主トロスが、モスール太守を攻めるため十字軍に応援を要請。ボードワンはエデッサに赴くが、トロスが部下に殺されたため、エデッサの領主となる。エデッサ伯領の成立。
   アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドがセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した。(ホラズム朝成立)


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1 『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生


十字軍の歴史
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