Title9-3.GIF (2758 バイト) MiddleEast 1110年

Europe&MiddleEast1099年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)  gya_r_bg.gif (1063 バイト) Europe&MiddleEast1120年

十字軍により、トリポリなどパレスティナ沿岸がほぼ占領される



 1100年 イェルサレム王ゴドフロア死去し、弟であるエデッサ伯ボードワンが第二代国王となる。エデッサ伯領は従兄弟のボードワンが継ぐ。1108年キリスト教=ムスリム連合軍同士が戦うなど聖戦としての混乱。1109年 サン・ジルが攻略したトリポリ陥落。パレスティナの海港都市を次々に攻略。

概 略 
1100年  イェルサレム王ゴドフロアが、アルスーフを攻める。十字軍側は、その北のカエサリア、ハイファ、アッコンなども含め周辺一帯を略奪。エジプトのファーティマ朝の支援はピサやヴェネツィアの船団が妨害した。アルスーフ、カエサリア、アッコン、アスカロンが講和を申し入れ、ゴドフロアはこれを受諾した。
 ゴドフロアとタンクレードが、ダマスカス太守ドゥカーク配下の通称「肥えた農夫」の領地を略奪。ドゥカークが反撃すると、タンクレードがダマスカス周辺を略奪。ドゥカークが講和を申し入れるが、タンクレードが6人の使節を送り、ドゥカーク自らキリスト教の洗礼を受けるか、ダマスカスを捨てるかを要求。逆にドゥカークは6人の使節にイスラム教に改宗するか死を選ぶかを迫った。一人は改宗したが、5人は殺された。タンクレードは徹底した略奪と殺戮を行い、「肥えた農夫」は降伏し許された。(*2 I-P227)
   ヴェネツィアからトリポリ攻略での協力と、成功したときはトリポリの支配権をヴェネツィアに認める代わりに、イェルサレム王ゴドフロアに年貢金を払うことを提案。十字軍が聖職者、騎士、商人によって構成されていたことがわかる。
   7月ゴドフロアはヴェネツィアと組んで、アッコンを攻略する。しかし、ゴドフロアは病死(40歳)。ダインベルトがイェルサレムをローマ法王に寄進するよう求める中、部下のワーネル・ド・グレイは、ゴドフロアの弟でありエデッサ伯ボードワンをイェルサレムに呼んだ。
 タンクレードはアッコン攻撃を再開するも抵抗され、ヴェネツィア人の提案により南のハイファを攻め陥落させる。パレスティナの海港都市としては北からベイルート、シドン、ハイファ、カエサリア、アルスーフ、ヤッファ、アスカロンが十字軍支配下となった。
   賢者ダニシメンド、アンティオキア公ポエモンが小部隊での制覇行に出たところを待ち伏せした。ボードワンはポイモン救出に向かうが捕囚先がわからず帰還。兄ゴドフロアの死を知る。
   ゴドフロワの弟エデッサ伯ボードワン、いとこのボードワン(後のボードワン2世)にエデッサ統治を任せ、イェルサレムへ進軍。ボードワンは騎兵160、歩兵500で、ドゥカークのゲリラに悩まされながら南下を果たす(*2 P239)。ドゥカークは敗走し、11月ボードワンはイェルサレムに到着する。
   ゴドフロワの死、ポエモンの捕獲、サン・ジルはコンスタンティノープルに去る、というイスラム側にとってはよい知らせが続いた。しかし、トリポリの首長ファクル・アル=ムルクは、ドゥカークの権勢拡大を危惧し、ボードワンに内情を知らせるなど、ムスリム側はボードワンより大軍であったが、足を引っ張り合って、敗退した(*1)。
   ボードワンは住民からの歓迎を受け、大司教ダインベルトも牽制し、イェルサレムの王ボードワン1世となる。(兄ゴドフロアは、大司教に遠慮して「キリストの墓所の守り人」と称していた)。12月25日 聖墳墓教会で戴冠式を行う。
   ボードワンはタンクレードに伯父ポエモンが囚われているアンティオキア公領の統治を依頼。タンクレードは、3年間ポエモンが戻らなかったらアンティオキアを所有するという条件で受諾する。ボードワンにとってガリラヤ地方を支配しているタンクレードを遠ざける以上に、イェルサレムにとって、アンティオキアの支配が対イスラムへの強固な備えの意味を持っていた(*2 I-P243)。
1101年  「1101年の十字軍」;第一次十字軍の熱狂から、ミラノ大司教が旗を振り、イタリア北部や南仏の兵士や巡礼がイェルサレムを目指した。第一次十字軍に参加したトゥールーズ伯サン・ジル、ブロア伯、仏王弟ユーグが先導した。しかし、セルジューク・トルコにより打撃を受け、イェルサレム王国の兵力増員にはならなかった。
   アドリア海東岸に進出したハンガリーに対抗するため、ヴェネツィア海軍が、この年から20年間、パレスティナから撤退したことも十字軍にとって痛手となる。ピサやジェノヴァの海上戦力を頼ったが、海港諸都市でイスラム教徒を殺戮することになる。
 サン・ジル、コンスタンティノープルから出撃し、アンカラを陥落させる。
   クルジュ・アルスラン、ニケーアでフランク防御体制をとるが、フランクはアンカラへ。
   サン・ジル、ニクサルの首長ダニシメンドにメルジフンで敗れる。
   クルジュ・アルスラン、フランクの第二次遠征隊を撃破。
   クルジュ・アルスラン、フランクの第三次遠征隊をヘラクレイアで撃破。
1102年  サン・ジル、300のフランク兵で、トリポリでムスリム軍と戦い、7千人以上を殺す。
   ダマスクス王ドゥカークが、トリポリ領主へ2年前の裏切りの代償を払わせた(か?)。
   アンティオキアの摂政となったポエモンの甥タンクレードが、アレッポ周辺を荒らす。リドワーンはタンクレードに引き上げてくれるなら要求に応じると伝え、アレッポの寺院の上に大十字架を掲げさせられた。
 ダニシメンドは身代金の支払いを条件にポエモンを釈放。釈放されたポエモンはアンティオキアに戻り、近隣のムスリム住民から金を取りたて、身代金とした。ポエモンは留守を守ったタンクレードを解任、以前支配したガリラヤ地方はイェルサレム王国のボードワン1世が支配下に置いていた。
   宰相アル=アフダルの息子シャラフの2万の軍勢が、ラムラーでボードワンに奇襲。しかし、次の標的をヤーファか、エルサレムか迷っているうちにフランクの援軍が到着し、攻略が困難になる。(*1 I-P136)
 1103年  サン・ジルはトリポリ攻略のため、その郊外の岬に城塞を築く。
1104年  トリポリによる反撃によるやけどでサンジル死去。 トリポリのカーディー ファクル・アル=ムルクと包囲のフランク軍の間に休戦協定。
 ファクルはカイロのアル=アフダルと仲が悪く、救援を期待できず、ハッラーンで勝利したソクマンに救援を求めた。
   春、アンティオキアとエデッサのフランク人がハッラーン(イラクとシリア北部の連絡の要衝)の砦を攻める。モースルの新領主ジェケルミシュはその隣人で元エルサレム総督ソクマンと戦争状態だったが、フランクと戦うため、和睦し、フランクに向けて進軍、ユーフラテス川の支流バリーク川のほとりで会戦。ムスリムは逃げるふりをしてフランクに追撃させ、司令官の合図で回れ右をしてフランクを包囲し、粉砕した。ポエモンとタンクレードは、数騎で脱出、エデッサ伯ボードワンは捕らえられた。ソクマンはフランクの城塞に向かうと、味方が勝ってもどってきたと思って迎えに出てきたところを殺し、城塞を奪った。この策略を各地で繰り返した。この勝利はフランクの士気を衰えさせ、東方への侵略を止めることとなった。ポエモンはアラブを去った。ハッラーンにおけるムスリム軍の勝利フランク軍の東への進出を永久に食い止めた。(*1 P140)
   アンティオキアに撤退したポエモンは、防衛担当者がいなくなったエデッサ伯領にタンクレードを送り込む。
   しかし、ソクマンとジェケルミシュはけんか別れ。ジェケルミシュはタンクレードの不意打ちに愛妾を奪われ、捕虜としているボードワン二世か金貨1万5千ディナールとの交換を申し出た。ポエモンとタンクレードは、金貨を選んだ。(ボードワンはさらに3年捕虜生活を送る)
   ポエモンはタンクレードをアンティオキアの摂政とし、ヨーロッパへ行き、ローマ法王やフランス王にパレスティナでの兵力増員のため、新たな十字軍を起こすよう説得するため。
    トリポリ救援に向かったソクマンは、あと4日の行程で、狭心症の発作で死去。
   ダマスカスのスルタン ドゥカーク死去、アタベクであったトゥグ・テギーンが権力を掌握。後にブーリー朝(ダマスカス政権)を創設。
1105年  バクダードのスルタン バルキヤーク死去。バクダードの兄弟間争いによる混乱が終息。弟はムハンマド・イブン・マリクシャーを名乗る。
   トリポリによる反撃によるやけどでサン・ジル死去。
1107年  ジェケルミシュが倒されると、ボードワン伯はモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し、同盟を結ぶこととした。
   ボードワンはタンクレードに会いに行き、アンティオキアの返還を求めたが拒否される。大司教の仲介で返還される。
1108年  トリポリのファクルは、バグダードのスルタン ムハンマドに支援を直訴することにした。(*1 I-P151)
途中ダマスカスのトゥグテギンに歓待を受け、バグダードでもムハンマドの歓待を受けるが、援軍は得られなかった。
   テル・バーシル近郊で二つのムスリム=キリスト教徒同盟軍が戦う。ムスリム諸侯の戦いにフランクが加勢するようになっていく。タンクレード軍1,500に加え、アレッポのリドワーンが派遣したトルコ騎兵600人が参加し、2千百。対するモースル領主ジャワリ軍には、エデッサのボードワンとそのいとこジョスランが参加し、500のトルコ兵とベドゥイン兵で計2千。
ボードワンは1107年に釈放された時、身代金だけでなく、敵に攻められた時その撃退に協力することを条件にも同意していたため。このようなことが起きるのは、当時ムスリム側は宗教対立とは捉えていなかったことによる。協力しあってきた十字軍ではあったが、イェルサレム王ボードワン1世とエデッサ伯のボードワンは、すでに亡くなっているゴドフロア以下のロレーヌ家であり、タンクレードと甥ポエモンはノルマン家であり、その勢力争いも原因となっている。
この戦いはタンクレードが勝利し、アンティオキアを支配。
   しかし、イェルサレム王ボードワン1世は、キリスト教徒同士の戦いに怒り、エデッサ伯ボードワンとタンクレードを呼んで、和解させる。
1109年  2000日の籠城の果てにトリポリ陥落。トリポリ伯領(1109〜1289)成立。
1110年  ベイルートとサイダ(シドン)陥落。
   春、ヨーロッパのポエモンは編成した増援軍を率いて自領南イタリア対岸のドゥレスを攻めるが、ビザンツ軍やヴェネツィア軍に阻止され、講和を締結。ヨーロッパの諸侯からの信用も失い、失意のうちに翌年死去。(*2 I-P270)


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1『アラブが見た十字軍』アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生


十字軍の歴史
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