Title9-3.GIF (2758 バイト) MiddleEast 1154年

Europe&MiddleEast1144年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)  gya_r_bg.gif (1063 バイト) Europe&MiddleEast1163年

ヌールッディーン、ダマスカスに入城



 十字軍封建諸侯は連携して守りを固めなか、中近東での実践経験のないフルクがイェルサレム王に即位。しかし、十字軍を担ってきたボードワン2世、ジョスラン・ド・コートネーが相次いで死去する。イスラム側では、台頭してきたザンギーが十字軍諸侯領を狙うなか、フルクはアンティオキアをビザンツ帝国に委ねた。

概 略 
1144年  ザンギー、エデッサを奪い、中東にできた4つの十字軍諸国のうち、最初にできた国を滅ぼす。*1
1146年  イェルサレム王国メリゼンダ女王からの求めに応じ、フランス シトー派の修道僧ベルナールにより第二次十字軍が提唱される。
 ザンギー、恨みを持たれた奴隷に暗殺され、子のヌールッディーンがアレッポを継ぐ*1。 *2 II-P64
ヌールッディーン(1118 - 1174年);1146年、父のサンギーが暗殺された後アレッポの太守となり、イスラム勢力を結集、アンティオキア公国や所領奪回を目指すエデッサ伯を始めとする十字軍と戦った。1148年第2回十字軍を撃退、アンティオキア公国の所領の大部分を奪い、アンティオキア公レイモンを捕らえて処刑。1154年にはダマスカスも支配した。シリアの大部分を支配下におさめ、ルーム・セルジューク朝のスルタンと争った。エジプトのファーティマ朝がエルサレム王国の攻撃を受け、支援を求めてくると、クルド人将軍シール・クーフをエジプトに派遣。しかし、甥のサラディンが事実上自立し、征討の準備をしていたが、熱病にかかり死亡。彼の息子が後を継いだが、1185年にサラディンのエジプト政権(アイユーブ朝)に併合された。 
1147年  ムラーヴィト朝、ムワッヒド朝(アルモハード朝)に滅ぼされる。
   フランス王ルイ7世、ドイツ皇帝コンラッド3世が先頭に立ち、諸侯を従えて、第二次十字軍として出発。ルイ7世には王妃エレオノールが同行。
   ビザンツ皇帝マヌエルは、裏でセルジュークと休戦条約を結んでおり、ルイとコンラッドに小アジア内陸部に踏み入らず、海路を取るように助言するが、聞き入れらず、フランスとドイツ軍はセルジュークの待ち伏せに遭い大敗する。ルイはビザンツ皇帝に対し懐疑的になる。
   負傷したコンラッドはコンスタンティノープルに撤退、アンティオキアに入ったルイに対し、アンティオキア公レイモンが共にアレッポのヌールッディーンを攻めるのに協力してくれるよう要請されるが、これを拒否。後にレイモンは第二次十字軍へ不参加となる。レイモンはエレオノールの伯父でもあり、ルイとエレオノールの夫婦仲は悪化。
1148年  第二次十字軍、復活祭(4月)にはイェルサレムに入る。ルイらはイェルサレム観光をしていて6月に遠征に出発。
   兵力は、ドイツ皇帝コンラッド;2千騎、仏王ルイ7世;7百騎、フランドル伯;6百騎、イェルサレム王ボードワン3世;5百5十騎・歩兵6千、テンプル騎士団;130騎、聖ヨハネ騎士団;百騎足らず。騎兵4千5百・歩兵6千6百。
 7月 第二次十字軍遠征軍、ダマスカス攻めるが、攻城機もなく散会した戦いに終始し、ヌールッディーンのアレッポ軍接近の報を聞き敗走*1。撤退戦でも多くの騎士を失う。*2 II-P94
1149年  イナブの戦い;ザンギー朝とブーリー朝連合軍とアンティオキア公国の戦い。アンティオキア公レイモンは戦死し、アンティオキア公国領の大部分はヌールッディーンのものとなる(Wiki)。この年、モスール領主(父ザンギーから引き継いだ)であるヌールッディーンの兄が死去し、ヌールッディーン(31歳)はアレッポだけでなく、モスールをも支配する。
1150年  もとガズニ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落。その略奪によってガズニ朝は衰退。ガズニ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。
1152年  フランス王ルイ7世は王妃エレオノールとの結婚がローマ法王から無効と認められ、離婚。2年後、エレオノールはノルマンディー公と結婚。さらに2年後にノルマンディー公がヘンリー2世としてイギリス王位に就き、エレノオールの領地アクィテーヌ地方がイギリス領となる。(ヘンリー2世とエレオノールの息子の一人がリチャード3世(獅子心王)。 *2 II-P96
   ドイツ皇帝コンラッド死去。ローマ法王から戴冠されなかったので、神聖ローマ皇帝にはなれずに生涯を終えた。
   第二次十字軍を送り出したローマ法王エウゲニウス、第二次十字軍には言及せずに死去。同年、修道士ベルナールは、信心が足りないから失敗したと言った後に死去。ベルナール「イスラム教徒に対する対策は一つしかない。根絶がそれである。殺せ!殺せ!そしてもし必要になったときは、彼らの刃にかかって死ぬのだ。なぜならそれこそが、キリストのために生きることになるのである。」ベルナールは死後、聖人となった。 *2 II-P97
1154年  ヌールッディーン(36歳)、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。*1
ヌールッディーンのもと体制を固めつつあるイスラム側に対して、第二次十字軍に見捨てられた中近東の十字軍都市国家の危機が高まる。

資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1『アラブが見た十字軍』アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生

十字軍の歴史
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