概 略 |
1111年 |
アレッポの法官イブン・アル=ハシャーブ、バグダードでフランクの侵略に対する介入を求めて、反カリフの暴動を組織する。 |
|
ポエモン、ヨーロッパの自領プーリアで死去。 |
1112年 |
ティール(スール)の勇敢な抵抗。 |
|
アンティオキア公国の領主となっていたタンクレード、疫病で死去(36歳)。死ぬ前、伯父ポエモンの息子が成人するまでの間、ポエモンの部下リカルドの息子ルッジェロを摂政とするよう指示。また、ルッジェロとエデッサ伯ボードワンの娘との結婚、ルッジェロの妹とジョスラン・ド・コートネーとの結婚、自分の妻セシリアとトリポリ伯の息子ポンスとの再婚も指示するなど、イェルサレムの北側の安定を図った上での死だった。イェルサレム王国を中心とするエデッサ、アンティオキア、トリポリの連邦制がこの後この後しばらく機能することになる(*2
I‐P282)。 |
1113年 |
リドワーン死去すると若年の息子らの下で権力闘争が発生し、シリア・セルジュークは衰退していく。 |
1115年 |
スルタンからの派遣軍に対し、シリアのムスリムとフランクの君侯が同盟。 |
1118年 |
イェルサレム王ボードワン1世、エジプトへの牽制のための行軍中に倒れ死去(53歳?)。遺体は聖墳墓教会の兄ゴドフロアの隣に埋葬された。法王代理ダインベルトのカトリック教徒のみをイェルサレムに居住させる方針を転換し、イスラム教徒の居住、モスク、商取引なども認め、都市王国経営を強化した。 |
|
ボードワン1世のいとこのエデッサ伯ボードワンがイェルサレム王となる(ボードワン2世)。ボードワン2世はゴドフロアのイェルサレム攻略にも参戦していた。エデッサ伯領は、ジョスラン・ド・コートネーが統治。 |
|
十字軍の兵力は騎兵300、歩兵2,000程度になっており、これ以降は異教徒イスラムに囲まれた十字軍国家の守りの時代になっていく。ヨーロッパからイェルサレムへの巡礼者は増えたが、兵力は増員あまり増員されなかった。 |
|
聖堂(テンプル)騎士団、聖ヨハネ騎士団が設立される。巡礼者の保護や病院運営を行う宗教騎士団であるが、王や領主、イェルサレム総主教の下に属さない独立した存在であった。しかし、どちらの騎士団も500を越えたことはなかった。ただし、従者、歩兵を含めると10倍くらいになる。 |
|
ビザンツ帝国皇帝アレクシオス死去。 |
1119年 |
アレッポの領主イルガジ、サルマダで十字軍を破る。アンティオキアの摂政ルッジェロ戦死。ボードワン2世とトリポリ伯ポンスがアンティオキアに入城を果たし、アレッポ軍は撤退。 |
1122年 |
ジョスラン・ド・コートネーがアレッポの捕虜となる。その後、狩りにでていたボードワン2世もアレッポ兵に襲われ、捕虜となる。ボードワン2世とコートネーが共に捕囚となるのはこれで2度目。アルメニア兵の協力により2人は脱出するが、ボードワンは再度捕虜となる。 |
1123年 |
十字軍、20年ぶりにパレスティナに戻ってきたヴェネツィア海軍の支援を受け、エジプト海軍を撃破。アスカロンを攻略。(*2) |
|
ヴェネツィア海軍の後押しもあり、ユースタス・ガルニエがイェルサレム総司令官となる。 |