概 略 |
1183年 |
サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。*1 |
1187年 |
サラディン、「聖戦(ジハード)」を宣言。北、東、そして南はカイロから弟アル=アーディルにより、イェルサレムを包囲。イスラム側は攻城戦が苦手であることを認識したサラディンは、周辺を支配し、平原におびき出す戦術にでる。
ヒッティーンの会戦で、サラディン軍4万は十字軍1万8千を巧みに追い込み、撃破。イェルサレムを包囲、開城。88年ぶりにイスラム側に戻る。また、サラディンは十字軍領の大部分(ガリラヤ地方、アッカ、ヤッファ、アスカロン等)を回復。*2 |
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ヒッティーン会戦後、バリヤーノ・イベリンがサラディンと交渉し、イェルサレム無血開城。*2
十字軍はティール、トリポリ、アンティオキアのみを保持。(アンティオキアはビザンツ帝国が支配)*1
ローマ教皇ウルバン3世は、イェルサレムがイスラム側に奪還されたとの報を聞いて、ショックで死去。*2 |
1188年 |
教皇クレメンス3世、第三次十字軍を提唱。イギリス王ヘンリー2世は十字軍に応じようとするが、息子リチャードが反乱を起こし敗れ、後に死去。リチャード1世(獅子心王)が十字軍に応じる。
フランス王フィリップ2世も参加を表明。二人一緒に発ち、一緒に帰る。帰国が遅れた場合でも他方の領土を侵害しない協定を結ぶ。 |
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サラディン、ティールを攻囲。ティール防衛の指揮官モンフェラート侯コラードに対して、開城しなければ、捕虜になっている父グイエルモを殺す、と脅すが、コラードは父親に対して矢を射かけて拒否。サラディンは父親を解放し、ティールから撤退。第三次十字軍の第一戦となり、サラディン攻勢の勢いが止まる。
サラディンは、捕虜としていたイェルサレム王ルジニャンも釈放するが、ヒッティーンでの敗北の責任者の入城をティールが拒否する。 |
1189年 |
5月神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ=赤ひげ、62歳)が陸路進軍開始。騎兵数千、歩兵数万の大規模軍。 |
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イェルサレム王ルジニャン、バリアーノ・イベリン、聖堂騎士団、病院騎士団、ピサ、ジェノヴァなどがアッカ奪還のため攻撃開始。第三次十字軍の第二戦。欧州から遠征してくる十字軍もアッカを目指すようになる。 |
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アッカ防衛を市内の防衛力に任せようとしていたサラディンだったが、兵站基地としてのティール(アッカの50Km北)の参戦もあり、サラディン自ら参戦すると決める。
アッカを包囲するフランク軍の外側をサラディンの甥タキ・アル・ディールに指揮を任せ、弟アル=アーディルを中央に配した。
しかし、ヒッティーンの熱狂が過ぎたエミル(太守)たちは自らの所領にもどり、サラディンの派兵要請に応じなくなる。*2 |
1190年 |
6月 フリードリッヒ1世、小アジアで渡河中に落馬し、溺死。
7月英王リチャード1世と仏王フィリップ2世が海路で出発。合計で騎兵数百、歩兵数千。 |
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ドイツ軍崩壊の報を聞いたアッカ包囲の十字軍はアヴェーヌ伯ジャックの主張により、外側のサラディン軍との間に濠を築く。これにより1年間持ちこたえることになる。*2 |
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9月 英王リチャード1世はシチリアのメッシーナに入り、仏王フィリップと合流。しかし、シチリア王妃となっていた妹ジョアンナが幽閉されていたため、シチリア王タンクレード(第一次十字軍の同名とは無関係)を攻めて、妹を解放。しかし、この戦闘でアッカに渡る季節を逸してしまう。さらに、母アクィテーヌのエレオノールがメッシーナに結婚相手を連れてくるなどして、出発は翌年まで遅れる。 |
1191年 |
4月仏王フィリップ、6月英王リチャードがアッカに到着。途中、リチャードは、妹たちが拿捕されたビザンツ領キプロス島を攻撃し、5日間で占領した。キプロスは50隻の船と金貨3,500枚を提供し、これ以降、ギリシア正教からカトリック教側に立ち、巡礼の中継基地となる。さらに、リチャードはアッカへの補給物資を積んだ大型のイスラム船を拿捕した上で、アッカに入港した。そして、十字軍の指揮系統は統一された。 |
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7月十字軍、アッカ(ティールの南約50Km)を陥落させる。*2 III-P92 |