6.原爆と樹木
被爆樹木
09.02.19広島随分久しぶりに広島平和公園を訪れた。冷たい雨の振る日であった。いつもの樹木散策気分で、たまたま平和公園に行ったのだが、帰ってきて写真を整理していたら「被爆樹木」という言葉を見つけた。被爆樹木とは、爆心地から概ね2000m以内で被爆した樹木や焼け焦げた樹木の株から再び芽吹いた樹木のこと。原爆が落とされた爆心地には、今後30年草木も生えないだろうと言われた。かってのフィルムで見る爆心地付近は、生あるものがすべて消滅し、見渡す限りの瓦礫であった。爆心地から近いところに立つ樹木は逃げることもできず被爆したが、その木がまた芽を出した。こうした被爆樹木が市内に160本余りあると言う。戦後の広島において、樹木は「命と平和」の象徴とされ、市内各地で積極的に植樹されてきた。あの瓦礫の中から復興し、木々の青い葉が再び風にそよぐ姿を目にした市民の気持ちが分かる気がする。今度訪れるときは一度被爆樹木を訪ねてみるつもりである。
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(追記)
長崎の被爆樹木(読売新聞2019年8月7日夕刊)
「爆心地から4キロ圏内にクスノキ、カシ、ザクロなど46本の被爆樹木がある。このうち保存対象は、被爆の痕跡が色濃く残る30本。市が年1回、樹木医に依頼し、枝葉の状態や木の中にできた空洞などを確認している。」保存維持するためには金がかかる。福山雅治が呼び掛けて、ふるさと納税で寄付を呼び掛けたところ、2,400万円の寄付が集まった。被爆の実相を伝えるために、これまでの被爆建物に加えて、被爆樹木を保護支援の対象に拡大。残したい運動である。
呉市海事歴史科学館
09.02.20呉最近できたと言う呉市海事歴史科学館大和ミュージアムに出掛けた。写真は1/10模型の大和である。映画「男たちの大和」を見られた方も多いと思う。戦艦大和は、昭和20年4月、片道の重油だけ積んで沖縄水上特攻に参加し、途中米国の艦載機の集中攻撃で沈没した。無謀とさえ思える特攻作戦に疑問を持つ隊員に、哨戒長・臼淵大尉はこう言う。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」
また、隣には、退役した本物の海上自衛隊の潜水艦あきしおが展示された「てつのくじら館」もある。
乗艦は大和
09.02.29呉 館内は薄暗くピンボケになったが、大和とともに亡くなった3千人の乗組員の名簿がある。その中にX本政一と言う名がある。一緒に行ったY氏が「あれが私の会社にいるX本君のお祖父さんだ」と言う。インターネットからの引用だが、こんなエピソードがあった。『私がホテル勤めをしていた頃の話。ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。一通りの祝いの言葉の後に、 自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。たとたどしくですが話されました。同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」と尋ねると、新郎は小声で「大和です」 。それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。おじいさんも見事な答礼を返されました。私はその後は仕事になりませんでした。ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。』
江田島
09.02.20呉ゼロ戦 写真は大和ミュージアムにあるゼロ式艦上戦闘機62型である。ゼロ戦はアメリカのスミソニアン博物館にも展示したあった。今回は行く時間がなかったが、呉には旧海軍兵学校があった江田島があり、その中の教育参考館には特攻隊員の遺書が展示されている。もう7、8数年前にもなるだろうか。まだ呉に住む叔父が存命中一度訪れたことがある。端からその遺書を読んでいく。やるかたない思いと涙なくしては見ることができない。展示品の中に「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」と大書した布があった。少し前、二代目貴乃花が横綱拝命時に言った言葉である。私的にはむしろ、この反対の「可惜身命(あたらしんみょう)」という言葉の方が人間味があって好きだが。館内の見学は団体行動なので、いつまでも自分だけ物思いを耽っている訳にもいかず、またいつか、と江田島を後にした。