★和泉海会寺跡(史蹟)
◆海会寺概説
2015/04/01追加:
海会寺跡は今、海会宮(海営宮)祇園社(祇園社というから牛頭天王であろう、現在は一丘神社などと称する)の境内地となる。
※「和泉名所圖繪」寛政7年刊 では「信達牛頭天皇」
(ママ)とある。
海会寺跡は法隆寺式伽藍であることが判明する。
→ 百濟大寺式伽藍配置(百濟大寺式軒瓦)
○「飛鳥幻の寺、大官大寺の謎」木下正史、角川選書、平成17年 より
法隆寺式(法起寺式)伽藍配置は地方寺院や小規模寺院に多く採用されたこともあり、私寺系あるいは普及型伽藍配置と見て、その歴史的意味を強調するむきもあった。だが、この伽藍配置の古い例は650年頃の斑鳩法輪寺や桜井安倍寺、泉南海会寺などで明らかにされており、香芝尼寺廃寺も最近の発掘で7世紀中葉の法隆寺式伽藍と確定した。
法隆寺式伽藍配置は日本最初の官寺・百濟大寺で初めて創出されたのかも知れない。
同范軒瓦については、吉備池廃寺→四天王寺の順で作成されたことは分かっていて、それはさらに海会寺に伝わっている。
○パンフレット「重要文化財海会寺跡出土品」泉南市古代史博物館、平成15年 より
海会寺金堂で最初に使われた軒丸瓦は「単弁八葉蓮華紋軒丸瓦」(7世紀中葉)であり、これと同じ紋様の瓦は畿内各所で出土している。
近年、大和吉備池廃寺が発掘調査され、この廃寺は最初の国立寺院である百濟大寺跡とほぼ断定されるが、この吉備池廃寺で海会寺と同范の瓦が出土したのである。そして、この瓦は有名な「山田寺式軒瓦」と呼ばれる瓦よりやや古い時期に作られたと分かってきたのである。
この「吉備池廃寺式」とも云うべき軒丸瓦は、まず640年頃吉備池廃寺で使われ、後に同じ(2枚の)范型が摂津四天王寺で使われ、最後に650年頃海会寺跡で(2枚の内の1枚の范型が)使われたことが判明する。
これが何を意味するかは不明であるが、国家最初の大寺や四天王寺と海会寺は強いつながりがあったことは確かであろう。
※大和木之本廃寺も同范の瓦を出土するが、これは木之本廃寺が高市廃寺(天武朝大官大寺)であることの証左の一つと考えるべきことなのであろう。、
※上記に関連して、次のような大脇氏の指摘がある。
○「畿内の古代寺院」大脇潔(「古代寺院の成立と展開」泉南市教育委員会、1997 所収) より
法隆寺式伽藍配置は、今まで聖徳太子との関係のみが重視されてきた。しかし吉備池廃寺が百濟大寺であったならば、将来は百濟大寺式伽藍配置と言い換える必要があるかもしれない。山田寺式軒瓦も、百濟大寺式軒瓦言い換える必要が今後出てくるかもしれない。
このことは、大王家が初めての本格的な寺造りに際して採用した伽藍配置と軒瓦の紋様がその後流行したと理解すれば、理解しやすい。
※海会寺の性格やその後の展開などの言及には次がある。
○「和泉国とはどんな国か」栄原永遠男(「蘇る海会寺」泉南市教育委員会、1988 所収) より
海会寺跡に関する文献史料は皆無であるが、
「日本霊異記」中巻第22話。和泉國日根郡を通る道路の南に「盡恵寺」という寺院があり、盗人に仏の銅を盗まれるという。
この寺は海会寺である可能性はないだろうか。
○「いま一度『海会寺』を」水野正好(「蘇る海会寺」泉南市教育委員会、1988 所収) より
海会寺とは興味深い名称である。海会とは多くの川が海に集まり合う様をいう。転じて、ひとところに人の集う意味で使われる。
おそらくはこの海会寺の地は和泉から紀伊への交通の要衝であり、市が立ち、人が集う場所であったのかも知れない。おそらく、ここを支配した豪族が海会寺を建立したのであろう。
しかし、豪族の没落とともに寺も衰微する。平安期、新しく街道を彩る信仰として京都祇園社の牛頭天王の信仰が広まり、この地に定着したのかも知れない。牛頭天王を頂く宗教者がこの交通の要衝を拠点とすべく寄宿したのかも知れない。やがて、海会寺は信達牛頭天王社にとって代られたのであろう。
○古代史博物館「解説シート8」 より
海会寺には軒丸瓦や伽藍配置など中央/律令国家との強い結びつきを示すものがある。ではなぜ海会寺は都ではなく泉南の地に作られたのか。
大化2年(646)大化の改新というクーデターは発生する。即位した孝徳天皇は飛鳥の地を離れ難波の地に都を定める。
そして政治基盤強化のため「畿内」の範囲を定める。ここ泉南の地は南海道が通り、すぐに紀伊国に入ることができる要衝の地である。
ここに最新技術を投入して寺院が建立される。
※人々の耳目を驚かすきらびやかな寺院を建立することは力の誇示として十分な効果あると目論んだのであろうか。
◆出土瓦:吉備池廃寺式軒丸瓦及び塔に使用された海会寺独自の軒丸瓦
※吉備池廃寺式軒丸瓦とは従来までは山田寺式軒丸瓦と呼ばれていた瓦である。最近では山田寺式より吉備池廃寺式の方が僅かに早く、また圏線の表現や太さに僅かな違いがあり、ひとまとめには「山田寺式」とは言えないという。
なを、出土した露盤残欠と出土瓦塼類、塼仏残欠、仏像残欠、土器残欠などを合わせた302点は一括して重文に指定され、古代史博物館に収蔵・展示される。
◆海会寺発掘調査
塔の発掘調査前は、ほぼ方形の土壇が残り、発掘調査によって礎石3個が発掘される。
現在は塔基壇・礎石が復元展示される。
金堂基壇東には基壇を壊した跡に海営宮祇園社(信達牛頭天王)社殿がある。そのため金堂基壇は半壊の状態である。
金堂基壇は21m×17.2m(推定)と復元される。
金堂礎石は付近に散在するが、いずれも柱座を持ち、拝殿石垣に4個、神殿基壇に3個、社務所前方礎石転用に1個が残ると云う(一部未見)。
そのほか講堂跡(復元)、西側回廊跡(復元)、南門跡などが検出される。
なお海会寺主軸は、金堂・塔・回廊と講堂・南門では約4度の違いがあり、講堂・南門は遅れて建立されたと判断される。
2015/04/01追加
主軸のふれ:古代史博物館「解説シート3」 より
このふれについて、古代史博物館「解説シート3」では次のようにいう。
「このふれは何を意味するのか。長期間の建立期間の内に生じた設計上のずれ、あるいは周囲の地形に制約を受けたためかも知れない。」
ことは、伽藍の見栄えに影響することである、設計上のずれが生じたとしても、ずれたまま施工するとは考え難い。また、たとえ地形に制約を受けたとしても、それは地形を改変すれば済む話で、歪んだまま施工するとは考えられない。
2015/04/01追加:
○「海会寺のあゆみ」泉南市教育委員会、2008 より
海会寺遺構図
○「海会寺海会寺遺跡発掘調査報告書」泉南市教育委員会、1987 より
基壇は河原石の乱石積基壇で、基壇基底部には幅30cm前後の犬走りが廻る。基壇上面は塼で覆われている可能性が高い。
塔一辺は7.2m(柱間は2.4m等間か)、塔基壇一辺13.2m、高さ2m。
海会寺塔跡平面図 海会寺塔跡立面図
※塔基壇一辺13.2m(44尺)とは古代寺院では山城平川廃寺の57尺、大和橘寺の46尺、大和若草伽藍の45尺、大和新堂廃寺の44.5尺に次ぐもので、攝津四天王寺の39尺、大和法隆寺の35尺など通常の寺院よりかなり大きな基壇であり、その上基壇の高さは2mを測る。
海会寺の塔の規模は通常の寺院の規模から頭一つ抜きん出ている規模なのである。
○資料集(「蘇る海会寺」泉南市教育委員会、1988 所収) より
海会寺遺構空撮 海会寺塔跡金堂跡 海会寺塔跡版築:2mの版築が見られる。
海会寺塔崩落瓦
○2005/10/30現地説明板撮影:
和泉海会寺塔跡
寺院は発掘瓦などから飛鳥期の創建とされ、平安・鎌倉・室町と存続し、天正の兵火で廃滅したと伝える。
→なお古代伽藍の廃滅後は南西の地・現長慶寺の地に伽藍を移し、慶長年中、豊臣秀頼により長慶寺として再興されると伝える。
★和泉海会寺跡現況
無印は2003/01/05撮影:▽は2005/10/30撮影:△印は2015/03/17撮影:
○和泉海会寺概況
和泉海会寺跡全景
和泉海会寺伽藍図
○2014/01/22追加:
「同箔軒瓦からみた和泉海会寺の造営氏族」小笠原好彦(「滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学 No.48」1998 所収)より
海会寺の伽藍配置
○和泉海会寺塔跡
○和泉海会寺心礎
心礎は過去に発掘され、社務所東に「石神」として祀られる。
※但しこの「神石」が心礎かどうかは分からない、というよりかなり疑問と思われる。
▽和泉海会寺伝心礎1 ▽和泉海会寺心礎2
▽和泉海会寺心礎3 ▽和泉海会寺心礎4
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
海会寺心礎・礎石実測図・・右が心礎実測図
※「飛鳥時代寺院址の研究」ほか一般的にはこの石は心礎とされるが、極めて疑問と思われる。
石質が脆い砂岩であること、厚さが後世に割られていないとすると、数十cmしかなく(厚さの半分弱は砂利セメントで補強されている)心礎としては強度的に不適格であること、また中心の枘孔とも思われる窪みも後世の加工では無いとすると不自然な形状であり、さらに飛鳥創建時の心礎とすれば様式的に合わないと思われる。
以上のように心礎とするには否定的な要素が多く、逆に心礎とする積極的理由は薄弱である。
さらに、今の位置にある経緯などは不明であり、かつ塔跡から出土したという記録などもなく、積極的に心礎とする根拠は薄弱と思われる。
○「日本の木造塔跡」:「明らかに心礎でない」(P.62)とする。
○「幻の塔を求めて西東」:「一重円孔(小孔)式、地下式?、81×78.7cmの大きさで、18×7.5cmの円孔」とする。
2015/03/17:
○「古代史博物館」側の説明:
心礎は抜き取られ塔跡には存在しなかった。かなり深い抜取穴が掘られ、その状況から心礎は地下式心礎であろうと思われる。
△海会寺伝心礎11 △海会寺伝心礎12 △海会寺伝心礎13 △海会寺伝心礎14 △海会寺伝心礎15
○和泉海会寺金堂跡
和泉海会寺金堂跡1 和泉海会寺金堂跡2
▽和泉海会寺跡金堂基壇1 ▽和泉海会寺跡金堂基壇2
△残存金堂基壇11 △残存金堂基壇12 △残存金堂基壇13 △残存金堂基壇14
海営宮祇園社社殿東裏側に4個の柱座を持つ礎石が放置される。(石室は花崗岩と思われる。)
▽和泉海会寺跡金堂礎石1 ▽和泉海会寺跡金堂礎石2
△海会寺金堂礎石3 △海会寺金堂礎石4
2015/04/01追加:資料集(「蘇る海会寺」泉南市教育委員会、1988 所収) より
拝殿石垣組込礎石:4個の礎石が写ると思われるが、現在この礎石は外され、社殿東側に置かれている礎石4個であると思われる。
○和泉海会寺講堂跡
和泉海会寺復元講堂跡
△海会寺復原講堂跡2 △海会寺復原講堂跡3
○和泉海会寺南門跡
△海会寺南門跡1 △海会寺南門跡2 △海会寺南門跡3
○和泉海会寺回廊跡
△海会寺復原回廊跡1 △海会寺復原回廊跡2 △海会寺復原回廊跡3
△海会寺復原回廊跡4
★海会寺跡出土遺物
●出土した露盤残欠と出土瓦塼類、塼仏残欠、仏像残欠、土器残欠などを合わせた302点は一括して重文に指定され、古代史博物館に収蔵・展示される。・・・瓦類は上に掲載済。
◆石製露盤と組合せ銅板
2011/08/31追加:
海会寺出土相輪:銅製と石製を組み合わせた露盤(破片)が出土と云う。
銅製露盤(破片)は復元一辺1.5m、厚さ2cm。
石製露盤(破片)は復元一辺は同じく1.5m、厚さ40cm、二上山産凝灰岩製。
石製露盤の上に銅製露盤を載せた組み合わせ露盤で、現在のところ類例がない。
2015/03/17撮影:
崩落した塔の瓦の下から、粉々の破片になった青銅の板と石材が発見される。
石材からは一辺1.5m、厚さ40cmで中心に円孔の開いた部材が復元される。(残念ながら、円孔の径の情報はなく、不明)
一方銅板からもほぼ同じ大きさの板が復元される。
石材の穴は周囲が巾7cmほど突き出し、これが青銅の板にすっぽりと嵌るものであった。
つまり石材と青銅の板は組み合うもので、その大きさ及び形は塔の露盤しかない。
しかも銅板と石造露盤を組み合わせたもので、これは日本で唯一のものである。
なお石材は二上山どんづる峯で産出されたものである。
→ 和泉海会寺石製露盤
◆海会寺相輪破片
古代史博物館にはスケール1/3の相輪復元模型が展示される。高さ10m。
相輪復元模型1 相輪復元模型2 相輪復元模型3 相輪復元模型4 相輪復元模型5
海会寺伏鉢破片 海会寺請花破片 海会寺九輪破片 海会寺水煙破片
海会寺相輪風鐸:高さ17cm
◆海会寺塔関係破片
海会寺風鐸:残存する高さ14cm 海会寺風鐸舌:長さ25cm
海会寺塔の塼1 海会寺塔の塼2 海会寺塔の塼3:塔の基壇上は塼に覆われていた可能性がある。
◆海会寺塼仏破片・土製仏像破片・鴟尾破片
海会寺塼仏1 海会寺塼仏2 海会寺塼仏3 海会寺塼仏4 海会寺塼仏5
:塼仏1〜5はいずれも完存すれば、高さ21cm
海会寺塼仏6:高さ6cm
海会寺土製仏像1 海会寺土製仏像2:残存する高さ10cm
海会寺鴟尾1 海会寺鴟尾2
★長慶寺塔婆(三重塔・多宝塔・唐様裳階付三重塔)
◆長慶寺三重塔
◆長慶寺多宝塔
2015/03/17撮影:
長慶寺多宝塔11
長慶寺多宝塔12 長慶寺多宝塔13 長慶寺多宝塔14 長慶寺多宝塔15
長慶寺多宝塔16
長慶寺多宝塔17 長慶寺多宝塔18 長慶寺多宝塔19 長慶寺多宝塔20
長慶寺多宝塔21
2017/03/02撮影:
長慶寺多宝塔31 長慶寺多宝塔32 長慶寺多宝塔33 長慶寺多宝塔34 長慶寺多宝塔35
◆長慶寺唐様裳階付三重塔
◎建築工事中の裳階付三重塔
2015/03/15追加:
「長慶寺三重塔/多宝塔」中西亨(「史迹と美術 842号」2014.2.25 所収) より
(多宝塔、三重塔に加え)更に本堂の向かって左前方に塔の基壇が用意されていた。
薬師寺東塔のような塔を建てる予定とのこと。
長慶寺新造基壇:ベタ基礎、基壇、石階は当然であろうがRC造である。
2015/02/13追加:
現在さらに新しい三重塔が工事中、「小振りの塔であるが、各重裳階付の三重塔で、今秋には竣工という。」
長慶寺裳階付三重塔:2015/01/18「X」氏撮影画像
2015/03/17撮影:現在三重目を組立中
確かに大和薬師寺東塔のように各重に裳階を付ける。但し初重の裳階は吹き放ちになる。二重の裳階は大和薬師寺東塔のように柱間装置が設置され閉鎖されると思われる。
一部和様の要素も入るが、柱、虹梁、斗栱など唐様を用いる。また貫を使用し、唐様の大振りな木鼻が眼につく。初重、二重とも扇垂木を使用する。あるいは初重で言えば、塔身は和様を用いるが、裳階部は唐様を用いる。但し、塔身と裳階を繋ぐ虹梁や垂木は唐様である。
長慶寺裳階付三重塔11 長慶寺裳階付三重塔12 長慶寺裳階付三重塔13 長慶寺裳階付三重塔14
長慶寺裳階付三重塔15 長慶寺裳階付三重塔16 長慶寺裳階付三重塔17 長慶寺裳階付三重塔18
長慶寺裳階付三重塔19 長慶寺裳階付三重塔20 長慶寺裳階付三重塔21 長慶寺裳階付三重塔22
長慶寺裳階付三重塔23 長慶寺裳階付三重塔24 長慶寺裳階付三重塔25 長慶寺裳階付三重塔26
長慶寺裳階付三重塔27:四天柱 長慶寺裳階付三重塔28 長慶寺裳階付三重塔29
長慶寺裳階付三重塔30 長慶寺裳階付三重塔31 長慶寺裳階付三重塔32 長慶寺裳階付三重塔33
長慶寺裳階付三重塔34 長慶寺裳階付三重塔35:心柱が見える。
2016/01/10「X」氏撮影画像:
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長慶寺裳階付三重塔01:左図拡大図
2015年11月8日落慶。木造塔である。
「X」氏の情報:
住職の談によれば、本塔は「孔雀宝塔」と称するという。それは本塔に高野山孔雀明王(重文、正治2年(1200)快慶作、高野山孔雀堂元本尊)を摸刻した孔雀明王を安置するためである。
また住職は無二の独創的な塔を建立したと自負しているとの由である。
※確かに独創的な無二の三重塔であろう。珍しく唐様を基調にしたのも意表を突いたものであろう。しかし、スタイルについては、底面に比して各重特に裳階部の高さが異様に高く胴長の印象は否めなく、残念である。「独創」にこだわるならば、裳階という「独創」は不要では無かったのではないか、唐様の意匠に徹した「独創」で、安定感のある現代の純唐様の塔を建立した方が宜しかったのではないかと思う。
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2017/03/02撮影:
長慶寺両三重塔1 長慶寺両三重塔2 長慶寺両三重塔3
長慶寺裳階付三重塔41 長慶寺裳階付三重塔42 長慶寺裳階付三重塔43 長慶寺裳階付三重塔44
長慶寺裳階付三重塔45 長慶寺裳階付三重塔46 長慶寺裳階付三重塔47 長慶寺裳階付三重塔48
長慶寺裳階付三重塔49 長慶寺裳階付三重塔50 長慶寺裳階付三重塔51 長慶寺裳階付三重塔52
長慶寺裳階付三重塔53 長慶寺裳階付三重塔54 長慶寺裳階付三重塔55 長慶寺裳階付三重塔56
◆長慶寺概要
長慶寺は金泉山慈昌院と号する。寺伝では行基開創と云う。
また聖武天皇勅願寺であり、往時は海会宮寺と号し、海会宮(海営宮)祇園社(牛頭天王/現在は一丘神社などという)周辺が寺地であったという。
その、古代海会寺の法灯を継ぐという。
平安末期、覚鑁上人
は高野山上に大伝法院を創建し高野山の革新を目指すも、高野山本寺方との確執・衝突が絶えず、覚鑁上人は大伝法院末寺である根来・豊福寺に下山する。その後、根来の末寺は紀伊根来寺として巨大教団となり、和泉にも進出する。
いつしか
海会寺も根来寺の末寺として存続する。
天正6年(1578)織田信長の雑賀衆焼討ちで焼亡。
中の島奥之院観音堂が類焼を免れたため、慶長年間、豊臣秀頼の命により観音堂(本尊如意輪観音)を現在地に移築し、時の年号を逆にして長慶寺と改号すると云う。
近世は岸和田岡部氏の祈願所となる。明治維新で荒廃する。戦後は一時無住であったとも云う。
近年、本堂・客殿の改築、庭園造築、山門(仁王門 )の建立等で復興し、さらに多宝塔・三重塔の建立を見、隆盛のようである。
なお、現在は新義真言宗ではなく、泉湧寺派もしくは御室派と思われる。
無印は
2015/03/17撮影、○印は2017/03/02撮影:
納骨堂は一重堂に相輪を架す。
長慶寺納骨堂1 長慶寺納骨堂2 長慶寺納骨堂3 ○長慶寺納骨堂4
長慶寺参道石階
長慶寺仁王門 ○長慶寺仁王門2 長慶寺鐘楼 ○長慶寺鐘楼2
長慶寺本堂 ○長慶寺本堂前 ○長慶寺本堂2
長慶寺客殿門? 長慶寺庫裡? 長慶寺庫裡客殿など 長慶寺信徒会館? ○長慶寺庫裡客殿など2
堂宇名不明4棟
石仏の小宇6棟:境内には西国三十三ヶ所、阪東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の各本尊石仏が中小数十の御堂に祀られるというから、百ヶ所観音を祀る数十の御堂の内の6棟かもしれない。
なお、
持仏堂、閻魔堂があるというも、未見。
2006年以前作成:2017/04/09更新:ホームページ、日本の塔婆
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