武 蔵 品 川 天 妙 国 寺 ・ 武 蔵 品 川 本 光 寺

武蔵品川天妙国寺五重塔心礎/礎石、本光寺三重塔/宝塔

品川妙国寺、南品川本光寺、浅草慶印寺は日什門流(京都妙満寺派)触頭江戸三箇寺という。

品川天妙国寺

◆塔婆情報

○「武蔵妙国寺絵図」(寛永年中作・東京品川天妙国寺蔵・紙本着色):

本堂手前右に多宝塔、さらに手前右に五重塔を描く。
 (多宝塔情報は下記の「江戸名所圖會」以外に皆無。

五重塔は江戸の地に江戸初頭建立された6基
池上本門寺上野寛永寺芝増上寺、品川妙国寺、谷中感應寺浅草寺
のうちの1基であった。)

 品川妙国寺絵図
 品川妙国寺絵図部分図:左図拡大図

○トレース図(2023/04/30追加)
 武蔵妙国寺絵図・トレース
五重塔には「大猷院殿御建立」とある。
仔細は不明であるが「権現様御止宿書院」との記載もある。

2010/04/12追加;「天妙国寺総合調査報告書」 より
 △街道に面し、表門があり、ニノ門、三門(楼門)と続き、その直線上に本堂(東面・重層・桁行5間)が配される。
本堂左手には5×5間の祖師堂(北面・重層)、右手には多宝塔(東面)、さらに五重塔(瓦葺)が建つ。
五重塔傍らには「大猷院殿御建立」とある。
三門内側左右には3×3間の本瓦葺入母屋造の2棟の建物があり、内左の建物には鬼子母神堂とある。
ニノ門と表門との間左には庫裏、五重塔右と庫裏の裏手には寺中がある。
この図には寛永11年(1634)大猷院(家光)建立の五重塔があるが、一方では寛永18年再興の鐘楼が無いので、この間の境内図と推定される。
 ※「品川歴史館」には当図の模写の展示があると云う。

○「日本社寺大観 寺院篇」 より
顕本法華宗(京妙満寺末)、弘安2年天目の開山、長禄年中鈴木充純伽藍を建立する、
五重塔は鈴木充純(品川の豪商)建立で高さ13間(23.66m)、慶長年中暴風のため倒壊。徳川家光の信仰が篤く、寛永年中家光が堂宇を再興。

○「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年など より
五重塔略歴:
 長禄3年(1459)創建、慶長19年(1614)大風のため倒壊。
 寛永11年(1634)徳川家光により再建、元禄15(1702)年大火により類焼、以降再興されず。

○「江戸名所圖會」 より
鳳凰山天妙国寺
・・京妙満寺の触頭江戸三箇寺の隋一なり。・・五層塔(文安年間建立と云)、多宝塔(縁起より日教造営せりとあり)
  天妙国寺全図:この江戸後期の絵では、多宝塔・五重塔は(当然ながら)描かれず。
鳳凰山と号す。弘安8年(1285)中老天目上人によって創建。
第二祖日叡上人代、日什教学に帰す。往時は寺中4院を有す。
室町初期には、品川湊豪商鈴木道胤(熊野三党の鈴木氏と云われる)七堂伽藍を整備する。
鈴木充純とは「熊野鈴木の後孫、沙弥道印、法名は日胤、光純」と伝える。
 △京妙満寺の触頭江戸三箇寺は品川妙国寺、南品川本光寺、浅草慶印寺を云う。

2010/04/12追加:
「天妙国寺総合調査報告書」東京都品川区教育委員会、昭和55年 より

詩文集「梅花無尽蔵」:僧万里集九著(文明17年(1485)太田道灌に招かれて美濃から東下)
 「品河 多法華宗
 双塔五重兼一層 問宗旨答法華僧 ・・・・」
  ※若干意味不明なるも、塔が双び、五重塔があったと解される。
「見聞集」:三浦浄心著(後北条氏の遺臣)
 「今品川に五重たう(塔)有、・・・昔鈴木道印と云うとく(有徳)なる町人立なり。・・・・・此塔百六十九年さかんにして、
 滅する時節にあへりと云えは・・・・此塔品川の名物、所のかさり(飾)なるを・・・・・」
  ※五重塔の鈴木氏の建立と慶長19年(1614)8月28日の倒壊などを伝える。

2010/04/12追加:
◆品川天妙国寺心礎/礎石

2009年、五重塔礎石(心礎も含む)が中庭より発掘されると云う。
現在は品川区文化財に指定され、境内西側に展示保存される。
礎石は3個で、心礎と推定される礎石も残る。

2010/03/28「X」氏撮影画像
品川天妙国寺礎石1:左図拡大図:推定心礎は中央にある礎石である。
品川天妙国寺礎石2:推定心礎

2011/02/27追加:2011/02/19撮影:
天妙国寺塔礎石
住職談:五重塔跡は良く分からない、北側に城南小学校があるが、その小学校のどこかにあったと思われる。
礎石実測値
 推定心礎(中央):110×110×75(見える高さ)cm
 礎石(西側):100×90×65(見える高さ)cm
 礎石(東側):90×90×50(見える高さ)cm
何れも方形に形を整え、表面は削平する。表面中央には何れも径13cm深さ10cm程度の円孔を穿つ。
この礎石の形式は関東に広く見られる近世初期の塔礎石の典型を示す。(各地に残る同時代の遺構に見られる形式であろう。)
 天妙国寺五重塔礎石:中央が 一番大きな礎石であり、心礎と推定され、その左右(西東)に各々1個の礎石を配する。
 天妙国寺推定心礎1     天妙国寺推定心礎2     天妙国寺推定心礎3
 天妙国寺西側礎石1     天妙国寺西側礎石2
 天妙国寺東側礎石1     天妙国寺東側礎石2     天妙国寺東側礎石3

◆品川天妙国寺概要

「天妙国寺総合調査報告書」東京都品川区教育委員会、昭和55年 より
弘安8年(1285)天目(日蓮中老)の草創とする。嗣法之列次は天目、日叡、日遷、日教、・・・とする。
 ※日教は多宝塔造営と云う・・・「江戸名所圖會」
日叡の時、京妙満寺末寺となる。この時期(文安2年・1445)に紀伊熊野鈴木氏末裔鈴木道胤が施主となり七堂伽藍を建立。
 ※「新編武蔵風土記稿」では伽藍建立を長禄3年(1459)とする。
天正19年(1591)徳川家康、10石を寄進。以降江戸期を通じ10石の朱印を得る。
拝領地(境内)は22,177坪余。(明治初頭には11、240坪、現在は3、465坪)
寛永11年五重塔再興。
元禄15年(1702)品川宿の大火で類焼。
寺中:「続江戸砂子」では真了院、義海坊、常泉坊、安立坊の4院。
「新編武蔵風土記稿」では修定院(客殿の東北)、正中院(客殿の東南)、真了院(正中院の西)。
天保14年(1843)「品川宿方明細書上帳」では真了院、集成院、中正院、安立院の4院。但し中正・安立院は破却の後、当時取建不申。
現在は真了院(現在は身延派・真了寺)のみ東側に残る。なお鎮守「諏訪明神」も残存する。
 2011/02/19撮影:
 品川天妙国寺山門     品川天妙国寺本堂     旧天妙国寺寺中真了院
2011/11/28追加:
かっての寺中真了院(現在は真了寺)が身延派とは正確を欠く表現である。
真了院は京妙満寺(顕本法華宗)の触頭江戸三ヶ寺の天妙国寺寺中として建立される。
昭和16年宗教の戦時統制で、顕本法華宗は日蓮宗と三派合同する。妙国寺は日蓮宗本山となる。
昭和23年妙国寺、日蓮宗を離脱するも、寺中真了院は離脱せず、日蓮宗に残留する。
昭和27年真了院は真了寺と改称する。
以上の経歴があり、当然真了寺は日蓮宗什師会の一員であろう。
 (片瀬本蓮寺の篤信の檀家様より、真了寺は日蓮宗中の「什師法縁」に属するとのご教示あり。)
  →京都妙満寺 > 「日什門流の現状」 を参照


品川本光寺

本光寺三重塔

昭和60年完成。
木造彩色なし本瓦葺きの小型塔。
三重塔は本堂背後(北西)にある。
本堂横は墓地であり、その一角にある。

「X」氏ご提供画像
武蔵本光寺三重塔11
武蔵本光寺三重塔12

2003/03/26撮影:
武蔵本光寺三重塔21
武蔵本光寺三重塔22
武蔵本光寺三重塔23
武蔵本光寺三重塔24
武蔵本光寺題目碑


2011/02/19撮影:
武蔵本光寺三重塔31:左図拡大図
武蔵本光寺三重塔32
武蔵本光寺三重塔33
武蔵本光寺三重塔34
武蔵本光寺三重塔35
武蔵本光寺三重塔36
武蔵本光寺三重塔37
武蔵本光寺三重塔38
武蔵本光寺三重塔39

本光寺宝塔

三重塔と同時期の昭和60年完成。
高さ6.0m、径1.71m。本尊:日什上人。
総檜造(推定)で彩色なし。
屋外塔としては超小型塔であろう。
山門を入ってすぐ右(東)にある。
塔身は漆喰ではなく、板張とする。
軒はニ重繁垂木、四手先を用いる。
屋根本瓦葺。

「X」氏ご提供画像
武蔵本光寺宝塔11
武蔵本光寺宝塔12

2003/03/26撮影:
武蔵本光寺宝塔21
武蔵本光寺宝塔22
武蔵本光寺宝塔23

2011/02/19撮影:
武蔵本光寺宝塔31:左図拡大図
武蔵本光寺宝塔32
武蔵本光寺宝塔33
武蔵本光寺宝塔34
武蔵本光寺宝塔35
武蔵本光寺宝塔36

本光寺略歴

日什上人年表:至徳2年(1385)見付玄妙寺・品川本光寺創立とある。

永徳2年(1382)日什上人は二度目の奏聞上洛のため、中山法華経寺から京へ出立し、至徳2年(1385)途中の品川の古刹・隋応庵を改宗して法華の道場と する。これが本光寺である。
 なお、体用六カ寺とは京都妙満寺・吉見妙立寺・見附玄妙寺・飯田本興寺・会津妙法寺・当寺を称する。
往時境内は6350坪、寺中3ヶ院を有する。寺中清光院(現清光寺)が門前に残る。
 ※清光院(清光寺)はもと本光寺境内鬼子母神堂であったとも、本光寺住職の隠居所であったとも云う。
近世には日什門流江戸触頭三ケ寺の一寺としての位置を占める。
 2011/02/19撮影:
 品川本光寺山門     本光寺旧寺中清光院

木造日蓮上人坐像(附:像内納入造像願文、像内納入法華経8巻)を有する。
 ※この日蓮上人像由緒について「日蓮宗新聞」(1996/06/01日付)には以下のように記載する。
日経上人銘の胎内文書
アルゼンチンに流出していた貴重な祖師像が、このほど池上本門寺学芸員の山田泰弘氏と安藤昌就氏の調査で発見され、日本に戻ってきた。
 御尊像は右手に笏、左手に経巻を持つ説法祖師像。像高70cm、ほぼ等身大の堂々とした坐像である。残念ながら御頭が江戸後期の後補作であるものの、尊容、彫技、材質、御袈裟に見られる丁寧な文様等、いずれも古様で桃山時代の作風を示している。
 また、胎内納入品の開眼供養願文および法華経八巻も伝わっており、この祖師像が慶長19年(1614)、慶長法難(同14年)で有名な常楽院日経上人が京都東山上行寺の祖師像として造立、開眼供養され、弟子で日経上人と共に慶長法難で受難された境智院日秀上人に与えられた御尊像であることが確認できた。
 上行寺は日什上人開山・京都妙満寺のもと中本寺。慶長16年に境智院日秀上人が京都東山の五条橋近くに創建したが、大正3年に下京区にあった久遠寺と合併し妙祐久遠寺と改称、現在は右京区嵯峨に移転している。
 慶長法難で幕府によって追われた師弟が、わずか五年後に京都でかくも堂々たる尊像を造立し得たことには驚きを感ずる。
 この御尊像を所有していたアルゼンチンの某氏代理人を通じて日本へ持参、発見に至った。同国への流出期間、経緯等は残念ながら不明である。なお御尊像は什門系財団の紹介により所縁の寺院数ヵ寺に呼びかけられ、三月一日東京都品川区の本光寺へ引き取られ、遷座される。
 ※上行寺;元中本寺と称する。慶長16年境智院日秀上人開基、織田信好(信長11男)その資を寄せる。
維新後衰微する。境内420坪。世俗劓寺と呼ぶ。慶長14年常楽院日経上人が慶長の法難で劓刑に処され、その派僧日秀織田氏に依り、本寺を建つと云う。(「京都坊目誌」)
 2011/02/27追加:
 ※サイト「経王山本光寺」 (2018/09/22リンク切れ)に旧上行寺祖師像などの掲載がある。
  以下は標記サイトより転載。
   旧京都上行寺祖師像:品川本光寺蔵
   上行寺祖師像造立并開眼供養願文紙背:常楽院日経上人真筆
   上行寺祖師像造立并開眼供養願文:日経上人真筆、胎内/品川・本光寺蔵


2006年以前作成:2011/11/28更新:ホームページ日本の塔婆