行基菩薩開基49ヶ院・和泉大野寺土塔

行基菩薩開基49院の 概要は 「行基と律令国家」吉田靖男、吉川弘文堂、昭和61年 より転載
「行基年譜」泉高父宿衝、安元元年(1175)成立:行基開基寺院として49院を記す。

建立寺院 建立年 行基年齢 所   在   地

現存

比  定  地 「天平十三年記」の関連施設 備  考
◇は「行基建立の四十九院」田中重久、昭和15年 よる
- 2佐紀堂 慶雲2年
 (705)
38 平城京西大寺附近 -

-

- -
1 3大須恵院(高蔵)
大修恵院
慶雲2年 
 (705)
38 和泉国大鳥郡大村里大村山 高倉寺 大阪府堺市高倉台一丁目 -

現況:泉北ニュータウンの一画に現存する。現在は江戸初頭の伽藍を残すだけであるが、良く観察すると雛壇状の伽藍地に往時の面影を残す。(実見済・写真なし)

2 6恩光寺 霊亀2年
 (716)
49 大和国平群郡床室村 - 奈良県 -

所在未詳

3 7隆福院(豊実) 養老2年
 (718)
51 大和国添下郡登美村 霊山寺 奈良市大和田町追分 -

霊山寺
2012/05/19追加:
昭和43年追分梅林の開墾中に奈良期の「追分廃寺」が発見される。菅谷文則氏は当廃寺を隆福院と推定し、現在ではこの説は妥当性を持つと支持が多い。
霊山寺の寺伝は行基の創建した道場であると伝える。この道場とは隆福院の蓋然性が高く、霊山寺は隆福院の後身と見ることもあながち荒唐無稽 なことではないであろう。

4 8石凝院 養老4年
 (720)
53 河内国河内郡日下
「枚方市史第1巻本編」;日下は「早」と書く用例がある、「行基年譜」では早村と書く。
※「枚方市史第1巻本編」関係は2015/01/29追加
- 大阪府東大阪市日下町 -

昭和37年東大阪市日下墓地西方で基壇と推定される瓦積を発掘。
「枚方市史第1巻本編」では、「日下墓地は行基7基の一つとされ、行基千百回忌である弘化4年(1847)年紀の卒塔婆がある。」と云う。
また平安末期には山城教王護国寺末寺であったと記録される。(「教王護国寺文書」永保元年(1081)「河内國石凝寺々地等免判抄」)

5 9菅原寺(喜光寺) 養老5年
 (721)
54 平城右京三条三坊 喜光寺 奈良市菅原町 -

寺史乙丸は行基に自宅を献じ、そこに精舎を建立し菅原寺と号す。また菅原寺東南院は行基示寂地と云う。なお喜光寺とは聖武天皇の命名、この地は菅原道真の生誕地と伝えられる。

6 10清浄土院(高渚) 神亀元年
 (724)
57 和泉国大鳥郡葦田里 - 大阪府堺市湊町
- -
7 11同 尼院(高石尼院) 同上 57 和泉国大鳥郡日下部郷高石村

-

大阪府高石市 - -
8 12久修園院(山崎)   神亀2年 
 (725)
58 河内国交野郡一条内 久修園院 大阪府枚方市楠葉中之芝二丁 楠葉布施屋(楠薬郷) 山崎橋架橋に伴って建立とされる。
9 13檜尾池院 神亀3年
 (726)

59

和泉国大鳥郡和田郷 - 大阪府堺市檜尾 -

檜尾池なる池は現存せず不詳。

10 14大野寺 神亀4年
 (727)
60 和泉国大鳥郡大野村 大野寺 大阪府堺市土塔町

野中布施屋(土師里)、土室池・長土池(土師郷)

大野寺及び土塔現存
大野寺土塔は下の「和泉大野寺土塔」の項に掲載。
行基の概要は下の「行基菩薩概要」の項に掲載。
11 15同 尼院 同上 60 同 所 - 同 所 - -
12 16善源院(川堀) 天平2年
 (730)
63 摂津国西成郡津守村 - 大阪市西成区/西淀川区 比売場堀川(津守村)白鷺鴫堀川(津守里)

-

13 17同 尼院 同上 63 同 所 - 同 所 - -
14

18船息院

同上 63 摂津国兎原郡宇治郷 - 神戸市兵庫区 大輪田船息(宇治)

-

15 19同 尼院 同上 63 同 所 - 同 所

-

-

16 20高瀬橋院 同上 63 摂津国嶋下郡穂積柑 - 大阪市東淀川区 高瀬大橋(高瀬里)、高瀬堤樋(茨田郡高瀬里)直通

-

17 21同 尼院 同上 63 同 所 - 同 所 - -
18 22楊津院 同上 63 摂津国河辺郡楊津村 - 兵庫県猪名川町木津 - -
19 23狭山池院 天平3年
 (731)
64 河内国丹比郡狭山里 - 大阪府南河内郡狭山町 狭山池(狭山里)

両院の遺構は不明。
東野廃寺と狭山神社境内廃寺の遺構の 何れかの可能性があるも、確定的根拠に欠ける。

20 24 同 尼院 同上 64 同 所 - 同 所 -
21 25昆陽施院

 

附:行基石

同上 64 摂津国河辺郡山本里 昆陽寺 兵庫県伊丹市寺本五丁 昆陽上池・下池・院前池・中布施屋池・長江池(山本里) 昆陽上溝・下池溝(山本里)昆陽布施屋(嶋暢里)

昆陽寺とは直接の関係はないが、伊丹市立博物館に◆「行基石」 の展示がある。
行基が東大寺建立のため石を六甲山から搬出中に不要となり落下した石、あるいは行基が食事中にお椀の中から箸で捨てた石との伝承がある。また旧郷村との境界にあったので境目石とも云う。個人より寄贈 と云う。

22 26法禅院 (檜尾) 同上 64 山城国紀伊郡深草郷 - 京都市伏見区深草鞍ヶ谷町(谷口町とあるも鞍ヶ谷町)
-

参考:山城おうせんどう廃寺を比定する説がある。
かなり、有力ともいう。

23 27河原院 同上 64 山城国葛野郡大屋村 - 京都市 - 山城西芳寺は行基開基49院の一院と云う。
○「京都府葛野郡史概要」京都府教育會葛野郡部會、大正11年 より(p8.)
行基が畿内各処に設けし所謂49院の中、河原院は本郡大屋村にあり(大屋村の地今明かるからず)而して大井院は同じく大井村にありしと。
而してこの両院は共に奈良朝の盛時天平3年に設けられしと傳ふるが故に(行基年譜)、葛野川の大堰はそれ以前に設けられ子と考へざるべかざる。
24 28大井院 同上 64 山城国葛野郡大井村 - 京都市右京区天竜寺造路町〜西京区嵐山山田町 - -
25 29山埼院 同上 64 山城国乙訓郡山前郷 - 大阪府三島郡島本町 山崎橋(山崎郷)

◇山崎離宮八幡宮に所在の相応寺心礎はこの山崎院 心礎とするのが相応しい。

26 隆福尼院 同上 64 大和国添下郡登美村 霊山寺 奈良市大和田町追分 -

霊山寺:養老2年に は3.隆福寺が創建される。3.隆福寺の項を参照のこと。
◇この尼寺は無視し、7隆福院(豊実)を尼寺とする。

27 30枚方院 天平5年
 (733)
66 河内国茨田郡伊香村 - 大阪府枚方市伊加賀 - -
28 31薦田尼院 同上        66   同 所 -  同 所 - -
29 32隆池院(久米多) 天平6年
 (734)
67 和泉国泉南郡下池田柑 久米田寺 大阪府岸和田市池尻町 久米多池・同地溝(丹比郡里) 久米田寺
30 33深井尼院(香琳寺) 同上 67 和泉国大鳥郡深井村 - 大阪府堺市深井 薦江池(深井郷) もと字中村にあった野々宮神社が永正年中火災に罹り、安村香林寺の境内に移る。明治の神仏分離で香林寺は廃寺となる。なお香林寺は近世の地誌類では行基開基と 明記される。
31 34吉田院 同上 67

山城国愛宕郡

- 京都市左京区吉田神楽岡町 - -
32 35沙田院 同上 67 摂津国住吉 - 大阪市 -

未詳

33 36呉坂院 同上 67 摂津国住吉郡御津 - 大阪市住吉区長峡町

-

-

34 37鶴田池院 天平9年
 (737)
70 和泉国大鳥郡凡山田村 - 大阪府堺市草部

鶴田池(日下部郷)

-

35 38頭陀院 (菩提) 同上 70 大和国添下郡矢田岡本村 - 奈良県大和郡山市矢田町 - -
36 39同 尼院 同上 70 同 所 - 同 所 - -
37 40発菩提院(泉橋院) 天平12年(740) 73 山城国相楽郡大狛村 泉橋寺 京都府相楽郡山城町上狛 泉大橋(泉里) 泉寺布施屋(高麗里) 泉橋寺
 →【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】
「行基年譜」:
 聖武十八年天平十三年辛己三月掩留山城国泉橋院、十七日申時、天皇行幸給、奉拝大僧正矣。拝訖給、御座終日並談説給。
38 41同 尼院 同上 73  同 所 -  同 所 -

寺名が隆福尼寺とされるも、間違いとされる。隆福尼寺は既に天平3年に起工されている。26

39 42泉福院
(誓願寺)
同上 73 山城国紀伊郡石井村 - 京都市伏見区 -

◇相楽郡木津町御霊神社東に誓願寺址(8世紀の瓦を出土)があり、39はこの誓願寺のことと云う見解もある。近世には京都寺町にあり、浄土宗西山深草派本山となる。

40 43布施院 同上 73  同 所 - 同 所 - 2020/02/20追加:
山城御香宮廃寺は紀伊郡石井郷にある。そこで、御香宮廃寺は布施院という説がある。
勿論、現在では白鳳期の瓦が知られる御香宮廃寺が奈良期創建の布施院であることは有り得ないが、しかし49院は既存の寺院に付設する形も少なくなかったとされ、その意味では御香宮廃寺の寺域内もしくは近隣に布施院が付設されたことは十分に考えられる。
41 44同尼院 同上 73
42 45大福院御津 天平17年(745) 78 摂津国西成郡御津村 - 大阪市南区御津寺町 - -
43 46同 尼院 同上 78  同 所 - 同 所 - -
44 47難波度院 同上 78 摂津国西成郡津守村 - 大阪市西成区〜西淀川区 度布施屋(津守里)

-

45 48牧松院 同上 78  同 所 - 同 所 - -
46 49作蓋部院 同上 78  同 所 - 同 所 - -
47 報恩院 不明 ? 河内国交野郡樟葉郷 - 大阪府枚方市樟葉 -

◇49院以外の「行基年譜」の記載で、行基建立とするも建立年の記載が無い。

48 長岡院 不明 ? 菅原寺西岡 菅原遺跡か? 奈良市疋田町 -

◇同上
大和菅原遺跡の可能性が高い。1981年の仏堂跡の発見に続き、2021年に円形堂跡が発見される。

49 大庭院 勝宝2年(750) 没後 和泉国大鳥郡上神郷大庭村 - 大阪府堺市大庭寺 - -
50 蜂田寺(華林寺) 天武9年(680) 13 和泉国大鳥郡蜂田郷 華林寺 大阪府堺市八田寺町 -

行基母方蜂田氏々寺の可能性あり。清香山と号す、蜂田寺は古名とする。
◇49院以外の「行基年譜」の記載。

51 1家原寺神崎院 慶雲元(704) 37  同 所 家原寺 大阪府堺市家原寺町一丁 茨城池(蜂田郷) 家原寺
行基生地と云う。
52 4生馬仙房  4(707) 40 大和国平群郡生馬 竹林寺 奈良県生駒市有里町 -

生駒竹林寺
草野仙房とも云う。
行基墓が現存し、行基舎利瓶などが出土する。

53 5神鳳寺 和銅元(708) 41 和泉国大鳥郡野田村 - 大阪府堺市鳳北町一丁 大鳥布施屋(大鳥里) 神鳳寺

※作者(吉田靖男氏)は,47・48・49を数えず,51・52・53を四十九院に数える。
※建立寺院名左の番号及び◇印記事は「行基建立の四十九院」田中重久、昭和15年 による。



◆行基菩薩概要

○「東大寺の考古学 歴史文化ライブラリー518」鶴見泰寿、吉川弘文館、2021 より
 行基は聖武天皇の盧舎那仏造立において大きな役割を果たす。
行基は薬師寺の僧という。
天智7年(668)河内(後に和泉)大鳥郡で生れ、父は高志才智、母は蜂田古爾比賣という。
天武12年(682)に出家、都鄙に周遊し、衆生を教化、行基を追慕し、追従するもの千人を超えたという。
朝廷はこのような行基を危険視し、養老元年(717)「方に今、小僧行基并せて弟子ら、街衢(がいく)に零畳(注1:りょうじょう)して妄りに罪禍を説き、朋党合わせ構えて指臂(注2:しひ)を焚き剥ぎ(焚剥:ふんぱくし)、歴門して仮説し強いて余物を乞ひ、詐りて聖道と称して百姓を妖惑す」と詔して、布教を禁圧する。
 (注1)零畳:落ち葉が落ち重なるように、秩序なく群集する状態をいう
 (注2)指臂:あるいは臂指、指と肘のことで、意味は「指を焼い〔て灯とし〕たり、臂の皮を剥いで〔経を写したりして」の意であろう。
天平15年「皇帝、紫香楽宮に御す、盧舎那仏像を造り奉らんがために始めて寺地を開く。ここにおいて行基法師、弟子らを率いて衆庶を勧誘す」(「続日本紀」)と僅か1行であるが、記述がある。
 朝廷も軟化し、行基の業績を認め、あるいは行基を利用する方向に梶を切ったのであろう。
行基の都での活動については不明な部分が多く、どの程度大仏建立に関与したのかは明らかではないが、行基の弟子や信者が大仏建立に参画したことはあり得るだろう。
 行基入寂
大僧正行基和尚は大仏建立途中の天平勝寶元年(749)右京菅原寺で遷化、80歳(あるいは82歳)であった。
遺命により弟子景静らが平群郡生馬山の東陵にて火葬する。行基の墓は生駒の竹林寺にあるが、文暦2年(1235)寺僧寂滅によって骨蔵器が掘り出され、その記録によれば、墓誌の刻まれた骨蔵器は銅製で内部には「行基菩薩遺身舎利之瓶」ちいう銀札のかけられた水瓶形銀製舎利瓶が納められていたという。
この時、舎利瓶の銘文を書き写したものが唐招提寺に伝わる「大僧正舎利瓶記」である。
 ※この「大僧正舎利瓶記」の全文は本著p.49-50に記載される。
 ※この「大僧正舎利瓶記」の全文は直下に掲載する。
この「大僧正舎利瓶記」は天平21年弟子真成によって記されたもので、行基の一代記である。
1行20文字、17行で、この舎利瓶の一部は残存し、奈良博に所蔵される。
○奈良国立博物館より画像を転載:
 大僧正舎利瓶記:奈良国立博物館作成画像
僅かに残った残欠(下記の写真)を「大僧正舎利瓶記」に被せた画像である。
 行基墓出土墓誌断片:奈良国立博物館蔵
出土した時の記録によれば、八角の石筒や二重の銅筒に守られ銀の舎利容器が安置されていたという。
それらは戦国期の兵火で失われも、銅筒の破片(行基墓出土墓誌断片)だけが奇跡的に残される。
もとは桶状の容器とみられ、外面に長文の墓誌銘が刻まれていた。発見当時に全文が写されており(「大僧正舎利瓶記」、大和唐招提寺蔵)、それに照らすと一行目は大僧正の位を授かった天平十七年(七四五)、二行目は僧綱が完備し其上に就いたと雖も満足しなかったこと、三・四行目は天平二十一年二月に右京の菅原寺(奈良・喜光寺)で八十二歳の生涯を閉じたことなど、行基の後半生の重要な部分であることが記されている。


2024/07/31追加:
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聖武天皇と恭仁京(山背国分寺)などについては
  南都東大寺>聖武天皇の治世と盧舎那大仏建立

聖武天皇の治世と大仏建立については、
  南都東大寺>平城京での大仏建立(初期東大寺) を参照

聖武・孝謙(称徳)天皇、道鏡などについては
  宇佐八幡宮>【聖武の理想と暗闘/聖武の娘・孝謙天皇(称徳天皇)と僧道鏡/国家神としての八幡大菩薩】
     を参照。
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◆和泉大野寺土塔

 大野寺は法灯を今に継ぐ。南東にある土塔は史跡に指定されている。
「行基年譜」では創建を神亀4年(727)とする。発掘調査で「神亀四年■卯年二月■■■」と記された複弁八葉蓮華文軒丸瓦が土塔南側から出土していて、神亀4年創建を裏付ける。
 大野寺土塔から文字瓦が多く採取される。それは1300点を超える数である。
これは寺院建立に際し、寄進した瓦に寄進者本人が名前をヘラ書きしたものと考えらる。
その人物は僧・尼・優婆塞・優婆夷・童子・豪族・一般民衆と広い階層が含まれる。豪族は摂河泉の大鳥連・丹比連・高志史・土師宿禰・大友村主・白鳥村主・凡河内(おうちこうち)が多く、高市連・平群朝臣などの大和の豪族も散見される。
 大野土塔は正和5年(1316)頃の「行基菩薩行状絵伝」にピラミッド状の四角錐が描かれ、「十三重土塔在之」とあり、十三重塔であることが知られていた。
 発掘調査で、土塔は13段あることは確認され、平面は一辺約53mの方形、高さは9mである。各段の高さは約60cmで、下層の巾は広く、上層に行くに従って狭くなり、頂部では勾配が急になる。瓦は各段積土の上に直接本瓦葺きで葺かれたと思われる。頂部では凝灰岩片が集中し、小形の軒瓦セットが多いから、なんらの施設が存在したのであろう。最下段は瓦積基壇である。
 大野寺土壇立平面圖:原図は「史跡土壇ー遺構編ー」堺市教育委員会、2007
大野寺土塔は未見、GoogleMapより写真を転載。
 和泉大野寺土壇1     和泉大野寺土壇2     和泉大野寺土壇3
 大野寺土壇・瓦積基壇     大野寺土壇復元模型:頂部には「何等かの施設」が復元されている。
 


2008/01/02作成:2024/07/31更新:ホームページ日本の塔婆