陸 奥 梁 川 八 幡 龍 寳 寺 / 陸 奥 大 崎 八 幡 龍 寳 寺

陸奥梁川八幡龍寳寺(梁川八幡龍寶寺三重塔跡)/陸奥大崎八幡龍寳寺(大崎八幡別当龍寳寺多宝塔)
/附:仙台東照宮康国寺仙岳院

梁川八幡龍宝寺に関する参考文献:
 「梁川町史 1」梁川町史編纂委員会、1996.3
 「伊達氏ゆかりの歴史を訪ねて」(小冊子)福島県伊達市教育委員会、2006

陸奥梁川八幡龍宝寺概要

伊達市八幡堂庭に位置する。梁川城の鬼門の方角約1kmにある。

○梁川八幡宮の創建及びその後の度重なる移転には諸説がある。
永観年中(983-85):鎮撫使田原中納言勝植、伊達郡富野村に石清水八幡宮を勧請し、若宮八幡宮を創建するという。
文治5年(1190)伊達朝宗(下野中村及び常陸伊佐の領主中村常陸入道念西、念西は伊達朝宗を名乗り、伊達氏の祖と云われる。)、
頼朝の奥州討伐に従軍し伊達郡を拝領、高子岡に築城する。
 朝宗は高子に鶴ヶ岡八幡宮を勧請する。(なお高子城跡には高子亀岡八幡宮が現存すると云う。)
3代義広(粟野義広)は高子岡より、粟野大舘に居を移す。義広は亀岡八幡を大舘の辺に遷すと云う。(「伊達正統世次考」)
建久年中(1190-1199)中村次郎為重(伊達宗村)、梁川に築城、天神宮と若宮八幡宮を合祀し、八幡神を梁川に遷座し、梁川八幡宮(亀岡八幡宮)が成立する。
正治年中(1199-1200)伊達宗村が富野村若宮八幡宮に鶴岡八幡宮を勧請する。別当亀岡寺・光明寺が創建されるとも云う。
 ※伊達氏の守護神である八幡神の創建、あるいは梁川への遷座などの事情・時期などは明証を欠く。
文明16年(1483)12代伊達成宗、上洛し、足利将軍家に太刀23振、馬95頭、砂金380両、銭5万7000疋を献上する。
 ※伊達氏は奥州の王者であることを印象つけるとともに、成宗は京文化に心酔する。(「梁川町史 1」)
天文元年(1532)14代伊達稙宗、居城を梁川から桑折西山城に移し、同時に梁川八幡を桑折に遷す。
天文17年(1548)15代伊達晴宗、米沢へ居城を遷す。
永禄10年(1567)16代伊達輝宗、桑折の亀岡八幡を梁川に戻すことを決め、元亀2年(1571)梁川八幡宮が再造営される。
慶長8年(1603)17代伊達政宗、仙台に築城。

要するに伊達氏の本拠地の移動とともに複雑な経緯を辿り、八幡宮は梁川から米沢成島八幡・仙台大崎八幡(伊達政宗)・現亀岡八幡宮鎮座地(亀岡山・伊達綱村)などに遷座 する。

梁川八幡宮の別当については、根本的な資料がなく、さらに仙台大崎八幡宮社僧龍宝寺及び亀岡八幡宮別当亀岡山千手院が各々梁川八幡の別当の流れを汲むと称するため、混乱がある。
龍宝寺の草創のことは資料がなく不明であるが、中世には資料が2、3あり、龍宝寺が梁川八幡の別当であったことは信じてよかろう。
天文元年、梁川八幡は桑折西山に遷座するも、社領・社殿は梁川に残される。おそらく龍宝寺も残り、梁川八幡の別当の地位にあったものと思われる。
その後、伊達正宗が岩出山・仙台に転封され、当地が上杉領となり、梁川龍宝寺は仙台に移転、梁川の龍宝寺は消滅したのであろう。
従って、近世以降、梁川八幡にあった寺院は亀岡寺(光明院)と記録され、龍宝寺ではない。但し、亀岡寺が梁川八幡別当であったかどうかは明証がない。
 ※亀岡寺は上杉領となった近世初頭、初めて「亀岡寺 八幡村」と資料(「伊達信夫寺数之覚」)に明示される。
 ※そもそも龍宝寺は古義真言醍醐寺末であり、亀岡寺は新義真言豐山派小池坊末であり、別系列である。
 おそらく龍宝寺が仙台へ去った後、亀岡寺は別当に準ずるような立場に立ったのであろう。
 ※現在、梁川の亀岡寺は龍宝寺と称する。この龍宝寺は亀岡寺が古の寺号を復古しただけのことと思われる。
 明治の神仏分離で、亀岡寺は廃寺、住職は復飾、神官亀岡氏を名乗る。明治8年廃亀岡寺失火・焼失。
 明治9年神官亀岡氏の子息(亀岡寺48世)が落飾、「八幡山龍宝寺」として寺院を復興、檀家・財産を継承する。
一方
亀岡山千手院は寺伝でも、近世は70石とあるのみで、旧記焼失・詳細は不詳とし、梁川当時のことは全く不詳。
 ※八幡宮神主は菅野氏であった。伊達氏に従って伊達郡に入部したとされる。菅野氏は梁川天神社の神官も兼務する。
 一方、宮大夫は伊達氏入部以前からの神主であったが、菅野氏が宮大夫の上位とされていた。
 その後、山田宮大夫清重は伊達氏が転封された後の慶長7年(1602)亀岡八幡の神体を密かに持出し伊具丸森に移る。
 清重は政宗の命を受け、仙台に仮宮を建立する。
 寛永17年(1640)18代伊達忠宗、社殿を造営、梁川八幡と称する。別当は亀岡山積宝寺千手院と号する。
 天和元年(1681)20代伊達綱村、社地を川内に与え、亀岡八幡宮となる。
中世末資料には千手院は梁川八幡宮衆徒の筆頭に挙げられる。(上述の「梁川富野八幡宮由緒覚」(延宝年中1673-1681)、「関根家文書」など)
 ※この千手院が仙台亀岡に移動したのかどうかは良く分からない。
 ※仙台亀岡八幡宮は梁川八幡宮は勿論、それ以前の伊達氏の守護神である八幡宮の歴史も引継ぐと社伝では云う。
  (要するに、伊達氏の守護神である八幡神の正系は大崎八幡ではなく、亀岡八幡であると主張する。)

陸奥梁川八幡龍宝寺(亀岡寺)三重塔跡

N氏情報:亀岡八幡宮(梁川八幡宮・富野八幡宮)別当竜宝寺に三重塔の礎石が残る。

「梁川町史 1」 より:
「八幡山亀岡寺縁起」(明治初年撰述)では以下のように述べると云う。
<平泉藤原秀衡、佐藤庄司基治らに命じて建立、久安6年(1150)入仏、応仁元年(1467)の台風で倒壊、下一重のみ残る>と。
<もしこの弘仁元年崩壊説が正しいとするなら、それは京都東山文化に心酔していた伊達成宗が上洛する直前であり、都より帰城した成宗がこの崩壊を見逃すはずはないであろう。成宗は記憶に新たな京文化を梁川に移植すべく、文明年中に京風の三重塔を建立したとみるべきであろう。基壇の一辺は約6.6m、東西に若干長い方形で、柱間は1.5〜1.4m、心柱のない(心柱は初重の梁から建つ)三重塔であろう>と。
 ※梁川と平泉藤原氏との関係は不詳。
 ※伊達成宗建立説とは大胆な推論であろう。
<「奥州道中絵図屏風」にあるように(?)塔は近世半ばまで存していた>と。
 ※「奥州道中絵図屏風」とは不詳(未見)で、良く分からないが、上の文面は屏風絵には梁川亀岡寺及び塔婆が描かれている可能性があると解釈できるであろう。 そして描かれた年代から、江戸中期?位までは塔が存続したと判断できると云うことであろうか。

梁川八幡龍宝寺三重塔跡概要図

左図は概要図であり、正確なものではない。

当遺構の基壇上(基壇は明確なものではない、「梁川町史 1」では基壇一辺は約6.6mと云う)に14個の礎石を残す。
南側四天柱礎2個及び南側柱礎西2番の礎石は欠失。
心柱は初重梁から建つ構造と思われ、心礎は元々無かったものと推定される。

塔一辺は420cm(14尺)、
柱間は若干異同があるが、平均すれば
中央間は150cm(5尺)、両脇間は135cm(4尺5分)の値を得る。
礎石は自然石(川原石)を利用する。大きさは100×70、90×70、80×80、80×70、70×60程度を測る。<何れも実測>

この基壇及び礎石の状況は古典的でもなく、また江戸初頭の江戸坂東風の精美な礎石を使用している訳でもない。従ってこの塔の造立は平安末期や江戸初頭というより、中世の造立と見るのが常識的な見方であろう。
 


梁川八幡龍宝寺三重塔跡


梁川八幡宮三重塔跡遠望:北西から撮影
  同       塔跡1:東から撮影
  同       塔跡2:東北から撮影:左図拡大図
  同       塔跡3:東から撮影、北側礎石
  同       塔跡4:東から撮影、南側礎石
  同       塔跡5:四天柱礎、左2個が礎石、右の礎石は欠失
  同       塔跡6:西から撮影、北側礎石
  同       塔跡7:西から撮影、北側2列目
  同       塔跡8:西から撮影、南側2列目
  同       塔跡9:西から撮影、南側礎石
  同       塔跡10:北から撮影、西側礎石

梁川八幡龍宝寺の景観

「梁川富野八幡宮由緒覚」(延宝年中1673-1681)では次の七堂があったと云う。
本殿(延享2年1745の再建)、拝殿(割)、若宮八幡、弁天堂、三重塔、二王堂、釈迦堂、鐘堂、経堂である。
 梁川八幡社叢遠望:南から
 梁川八幡拝殿+本殿     梁川八幡本殿1     梁川八幡本殿2     梁川八幡本殿4
拝殿前に放生池(現在の瓢箪池)が石橋の東西にあり、東池は弁天島を廻る。弁天島には弁財天(現在は観音堂)を祀り、西池に面して若宮八幡があったと思われる。
 ※鬼石観音堂は享保3年(1718)の再建と云う。この頃弁天島の弁財天に替り、観音堂が建立されると思われる。
 龍宝寺鬼石観音堂
弁天島南に三重塔の礎石が残り、塔別当はその南にあったと思われる。塔別当の西の参道に現在鳥居があるが、ここに仁王堂(門)があった。仁王門は明治の神仏分離で廃される。
仁王門(現在は鳥居)の南は一段下がり、厳島神社を祀る中島があり、太皷橋(石橋)が架かっている。
 龍宝寺厳島社
参道東には現在龍宝寺に至る道路があるが、ここは流鏑馬の馬場跡である。馬場の東には細い道があり、これが龍宝寺へのかっての参道であったのであろう。本殿参道と馬場と細い道の間には六供僧や衆徒屋敷があった と思われる。
龍宝寺は本殿東にある。山門は古風な藥医門である。門と放生池の間に鐘楼がある。経堂は放生池西池畔に若宮八幡と並んであったと推定される。
 梁川八幡龍宝寺現参道     梁川八幡龍宝寺山門     梁川八幡龍宝寺本堂
 梁川八幡龍宝寺鐘楼+観音堂     梁川八幡龍宝寺鐘楼
境内北部は今は松林であるが、ここには熊野、稲荷、天王などの社と千手堂があったと思われる。
龍宝寺には釈迦堂(本地堂)、護摩堂(不動堂)などの存在が想定さえる。本地堂は現在龍宝寺西側に残る礎石列(未見)がその跡なのであろうか。
六供僧は南野坊、中野坊、瀧本坊、和泉坊、杉本坊、発心坊を名乗り、衆徒として千手院、塔別当、鐘突蔵司、竹ノ下、坂上、出雲与五衛門らが記録される。 竹ノ下以下は寺侍か?。

参考
陸奥梁川輪王寺跡
堀と土塁に囲まれた館仕様の寺院と云う。北側の堀・土塁の一部が残る。
 ※現状、素人眼に見渡すも、遺構は良く分からない。
嘉吉元年(1441)11代梁川の伊達持宗が祖母(蘭庭明玉禅尼、石清水八幡宮善法寺通清の娘)のために、建立。開山は太菴梵守。臨済宗。
その後、輪王寺は伊達氏の居城移転(梁川・西山・米沢・会津・岩出山・仙台)とともに、「六遷」する。
仙台移転は慶長7年(1602)であった。
 梁川輪王寺跡
  →輪王寺は仙台に現存する。仙台輪王寺


陸奥大崎八幡龍宝寺多宝塔

昭和63年建立。一辺6.4m、総高21m、かなりの大型の塔婆である。
古典的な本格木造塔婆で純和様を用いる。丹塗、初重中備えは各間に蟇股を置く。
本尊は金剛界大日如来および胎蔵界4仏。 施工は(株)モトタテ。
陸奥龍宝寺多宝塔1
  同        2:左図拡大図
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同        10
「X]氏ご提供画像:
陸奥龍宝寺多宝塔11
  同        12

 

「N」氏1994年撮影画像:
陸奥竜宝寺多宝塔

◎参考:
 龍宝寺法宝蔵礎石
法宝蔵礎石と標す標柱とともに1個の礎石が現存する。
大きさ及び形状は一見「塔心礎」に似ている。法宝蔵礎石とは不明であるが、経蔵(輪蔵)の回転軸柱などの礎石とも思われる。
 美濃平蔵寺の心礎

陸奥大崎八幡龍宝寺大崎八幡略歴

延暦22年(803)坂上田村麻呂の創建とする。
文治年中(1185-90)伊達朝宗が中興。
伊達氏とともに常陸真壁の中村から伊達郡梁川へさらに米沢成島八幡別当として移転。
天正19年(1591)17代伊達政宗、岩出山に移転。
慶長7年、仙台の現在地に大崎八幡宮(米沢成島八幡と大崎八幡とを合祀)が造営され、その別当として移転する。
その後も伊達氏の保護のもと隆盛する。寺領270石余。
寺中6院(別当坊・東光院・泉照院・玉燈院・蓮乗院・龍城院、各院10石余を受領)を有する。
明治の神仏分離で、龍宝寺は廃寺、八幡宮は大崎八幡として分離。大崎八幡龍宝寺は庫裏と釈迦堂を残すのみとなる。
寺中6院も廃絶する(売却あるいは腐朽廃絶と云う)。
明治33年大崎八幡龍宝寺再興、戦後伽藍が復興される。真言宗御室派。本尊釈迦如来(大崎八幡本地、清涼寺式・重文)を残す。

陸奥大崎八幡略歴

延暦20年(801)坂上田村麻呂、蝦夷出征の折、胆沢郡八幡村に宇佐八幡を勧請、鎮守府八幡宮を創祀する。
大永7年(1526)奥州大崎氏により、遠田郡八幡村(現大崎市田尻)に遷座、大崎八幡宮と称する。
 ※この系統は元来、大崎氏の信仰形態と云える。
天正18年(1590)大崎氏の滅亡後、伊達政宗は岩出山に神体を遷す。
慶長7年(1602)伊達政宗が仙台築城の時、城の北西の高台に遷し,同時に、既に岩出山に勧請していた米沢成島八幡を大崎八幡と合祀する。慶長9年〜12年の工事で現社殿が完成する。
寛永21年(1644)黒印状493石余が下賜される。
 ※大崎八幡宮社殿(本殿・石の間・本殿は権現造・国宝)、長床(寛文年中・重文)が現存する。
○成島八幡
成島八幡は伊達郡より長井郡に進出してきた中世伊達氏の信仰系統に統合される。
宝亀8年(777)成島八幡、蝦夷に出征した大伴駿河麿により創建、宇佐八幡に戦勝を念じた故と云う。
大同2年(807)坂上田村麻呂が戦勝を祈願して社殿を造営する。
その後伊達氏の米沢支配により、伊達氏代々の崇敬を得る。
慶長5年(1600)伊達政宗、秀吉に岩出山移封を命ぜられ、岩出山に成島八幡を勧請。
慶長7年政宗仙台に築城の時、大崎八幡と合祀する。

本殿:国宝:桁行五間・梁間三間・一重、屋根入母屋造・杮葺。
 陸奥龍宝寺八幡本殿1      同         2:右は石ノ間
拝殿:国宝:桁行正面七間・背面五間・梁間三間。屋根入母屋造・杮葺、正面に千鳥破風を付設、向拝軒唐破風を設ける。
 陸奥龍宝寺八幡拝殿1     同         2     同         3     同         4     同         5
   同         6     同         7     同         8     同         9
石ノ間:国宝:桁行一間・梁間一間・両下造・屋根杮葺。内部格子天井には、53種の薬草を金泥で描く。
長床;:重文:桁行九間・梁間三間・屋根入母屋造・亜鉛引鉄板葺。素木造、中央に軒唐破風を付設。
 陸奥龍宝寺八幡長床1     同         2


参考:仙台東照宮康国寺仙岳院

慶安2年(1649)伊達忠宗、東照宮普請始、承応3年(1654)造営落成遷座。
同時に、別当天台宗眺海山康国寺仙岳院も創建され,さらに康国寺々中として延寿院(寺領35石・現存)、宝蔵院、成就院、吉祥院,真浄殿(徳川将軍家位牌所)が整備される。なお仙岳院は平泉中尊寺別当を兼ね、江戸期は仙台藩一門筆頭格寺院であったと云う。
創建当時、仙岳院は1000石(東照宮祭祀料500石と仙岳院寺領500石)を管理、後には1440石(東照宮645石、仙岳院645石、真浄殿供養料150石)を管理する。
明治の神仏分離で東照宮と仙岳院は分離する。
昭和10年失火により幣拝殿焼失、昭和39年復興。
昭和53年唐門・透塀の大修理竣工、昭和55年本殿の修復完了。
・唐門・透塀(重文):
唐門は一間一戸向唐門、銅瓦葺。正面円柱、背面角柱、花崗岩の基盤の上に立つ。天井と垂木の間、蟇股に牡丹の花、扉の綿板に紗綾形模様を彫出し、鳳凰、麒麟、唐獅子の浮彫を 付加する。
透塀は総延長44間(79.4m)、銅瓦葺。花崗岩の基壇上に土台を廻し、角柱を建て、腰長押、内法長押を廻す。欅文、連子窓は黒漆塗、長押には飾金具を付ける。
 仙台東照宮唐門1     同       2
・本殿(重文):
正面三間、側面二間、入母屋造銅瓦葺 、総欅造、縁・勾欄・木階は朱漆塗、外部板部と床は黒漆塗、内外部分は透漆塗(木目を現す)、彫刻には金箔押や生彩色を施す。各所に鍍金金具を付け、金梨地の金蒔絵、桟唐戸の金具の七宝装飾等の装飾を施す。
 仙台東照宮本殿1     同       2
・隨身門(重文):
三間一戸の楼門形式の八脚門、屋根入母屋造銅板葺。
 仙台東照宮随身門1     同        2
・仙岳院:
仙岳院本尊は釈迦三尊、東照宮本地薬師如来を有する。
 仙台東照宮仙岳院山門     同        山内


2008/04/09作成:2010/05/05更新:ホームページ日本の塔婆