★大和岡寺(竜蓋寺)三重塔
昭和61年建立(再興)。15年後の平成13年塔荘厳が完工し落慶。
大乗院日記目録の文明4年(1472)7月31日条:「夜前大風・・・竜蓋寺塔婆顛倒・・・」とある。
※三重塔は旧境内地(八幡社)に建っていたと云う。
それ以来五百有余年後(昭和61年)に、三重塔が再建される。復古調の本格木造塔である。
★三重塔塔荘厳(琴)
「飛鳥発掘物語」河上邦彦、産経新聞ニュースサービス、2004 より
岡寺三重塔荘厳・琴3
塔荘厳は遅れ、平成13年に終了。
岡寺蔵「両部大経感得図屏風」図中の五重塔に「琴」の荘厳がある。これに基づき各重各屋根下隅に琴を吊るす。
(平成再興塔の「琴」は青銅で作成) 2008/05/13追加:「両部大経感得図屏風」(岡寺蔵)
「古今目録抄」では法隆寺五重塔に「箜篌(ふご)」が吊り下げられていたとの記録があると云う。
山城石清水八幡宮「琴塔」(明治の神仏分離で除去)には「木琴」があった。(絵図・記録が明確に残り、最近現物が発見されると云う)
※参考(「箜篌(ふご)」、「琴塔」など):
石清水八幡宮宝塔院、 同
琴塔
★大和龍蓋寺概要
西国観音7番札所。
天智天皇2年(663)義淵僧正の開山とする。(寺伝)
その開山の地は、八幡社(明治維新後は治田神社と捏造)の地と推定される。
→下に掲載の「大和龍蓋寺跡」の項を参照。
龍蓋寺仁王門(重文):慶長17年(1612)の再建(墨書)で、三間一戸、入母屋造、本瓦葺を有する。
大和岡寺仁王門1 大和岡寺仁王門2
龍蓋寺本堂:文化二年(1805)上棟、完成まで30年を要すると云う。
大和岡寺本堂1 大和岡寺本堂2
★大和本龍蓋寺旧跡
岡寺仁王門の西方に平坦地があり、八幡社(明治維新後は治田神社と捏造)がある。
ここからは白鳳期の瓦が出土し、礎石も数個残り、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使用(観察するも、良く分からない)される。
蓋し、龍蓋寺の本の伽藍地と推定される。
昭和57年発掘調査が実施されるも、伽藍配置は不明と云う。
現在の岡寺の姿は近世の再建になる。
※岡寺寛文年中(1661〜72)絵図(岡寺蔵)では、現治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれていると云う。
※明治維新前は、この推定岡寺跡に八幡社が鎮座しているが、この社は岡寺移転後に鎮座と思われる。(経緯不明)
その後、八幡社は明治維新の復古神道などにより、治田氏の祖先を祀るなどと捏造されるも、適当な付会にしかすぎない。
なお祭神は依然として”応神天皇”のままと云う。
大和岡寺旧伽藍地(八幡社・現治田神社)
;写真右手が土壇跡であろう。
大和岡寺創建時礎石
2009/08/29追加:「大和上代寺院志」保井芳太郎、大和史学会、1932 より
現在の岡寺の地は殆ど古瓦も出土せず、創建の地は現在地ではないと思われる。
大和岡寺付近図:八幡社の地には土壇や現在柱座を持つ礎石が2,3個移動して残る。礎石は元々5、6個あったと云う。
遺構・遺物・記録などから、この地が創建の地と推定される。なお八幡社は岡寺鎮守として記録される。
・元岡寺:現在の岡寺の地から東に数町上ると、元岡寺と称するところがある。宝永頃には礎石が3個残ると記録される。(「大和陳跡名鑑圖」)
近年礎石1個在りしも、今は他所に売却・搬出された。
但しこの場所は余に高所であり、本岡寺の地ではなく、岡寺の奥の院などの堂宇があったと考えるのが合理的であろうと思われる。
元岡寺亡失礎石:なおこの礎石および八幡社残存礎石の実測図の掲載もあるが、本ページには不掲載。
2022/06/28追加: ○「京内廿四寺について」花谷浩(「研究論集Ⅺ」奈良国立文化財研究所学報60冊、2000 所収) より
31.岡寺 寺号は龍蓋寺。岡寺の創立と沿革は福山敏男氏などの研究に詳しい。
創建は義淵僧正とする伝承があるが、出土瓦から7世紀末から8世紀初頭の創建と推定され創建時期と矛盾しない。
創建の伽藍は、現岡寺の西にある※八幡社(現在は復古神道の捏造である治田社などという)附近に残る。1982年の発掘調査では、金堂の凝灰岩製基壇化粧が確認された。
この金堂は南向きで、南西に塔、東に南面する講堂があったらしい。
2006年以前作成:2022/06/28更新:ホームページ、日本の塔婆
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