近 江 の 日 蓮 宗 諸 寺

近江の日蓮宗諸寺

長浜霊亀山妙立寺

京都内野立本寺末。大覚大僧正開山、青蓮房日選を2世とする。

近江八幡具足山妙経寺:近江八幡市長福寺町:京都内野立本寺

具足山と号する。日像上人旧跡。もとは真言宗長福寺であったが、文保年中(1317-1319)日像改宗す。
2008/10/04撮影:
 近江妙経寺本堂    近江妙経寺山門
2016/09/26追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
もとは真言宗で重福寺と号したが、文保2年(1318)日像の教化を受け改宗し、現在の山号寺号に改める。

今浜具足山法華寺:守山市今浜町:京都内野立本寺末、筵師法縁。

永仁2年(1294)日像上人叡山に登り、堅田から木の浜に渡る。この時同船した今浜の庄屋今江彦左衛門を教化する。今江彦左衛門は今浜に小庵を営むという。これが当寺の始まりという。江州三具足。
2017/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」) より
応長元年(1311)(この行路を横川にとり、まず浄光院(定光院)の廟塔を拝し)、堅田より木濱(守山)に至る。
船中に彦左といふ者ありて日像を請す。乃ち今濱に至り妙法を説く、帰信するもの夥し、日像本尊を授け、石工をして題目の7文字を方塔に彫刻せしむ、石工日像に帰信して岩倉の家に請す、後、守山の本像寺。岩倉の妙感寺、今濱の法華堂等を興す。
 →日像上人略伝
2016/09/26追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
日像の近江における最初の道場で法華堂と称した。
永仁2年(1294)10月に当地の庄屋今江彦左衛門が法華三昧堂を建立開基。
なお、年代・理由など不明であるが、今濱妙泉寺を当山に合併している。

守山具足山本像寺:守山市今宿:京都内野立本寺末、筵師法縁。

応長元年(1311)日像上人東下鎌倉に向かう時、当地にて若珍大明神が出現し説法を乞う。上人はここに暫く逗留し小庵を営み説法す。これが当寺の始まりという。江州三具足。
2017/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」) より
応長元年(1311)(この行路を横川にとり、まず浄光院(定光院)の廟塔を拝し)、堅田より木濱(守山)に至る。
船中に彦左といふ者ありて日像を請す。乃ち今濱に至り妙法を説く、帰信するもの夥し、日像本尊を授け、石工をして題目の7文字を方塔に彫刻せしむ、石工日像に帰信して岩倉の家に請す、後、守山の本像寺。岩倉の妙感寺、今濱の法華堂等を興す。
 →日像上人略伝
2016/09/26追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
應長元年(1311)3月日像が創立。日像は今濱より守山を経て、身延への帰途、本尊を授けて石工に刻ませた。(現存)
5世日圓の代に守山清水町より現在地に移転する。

岩倉具足山妙感寺:近江八幡市馬淵町:京都内野立本寺末、筵師法縁。

もとは真言宗であったが、永仁4年(1296)日像上人東下の時教化され改宗するという。江州三具足。
2017/09/26追加:
○日像上人略伝(「岡山市史」) より
応長元年(1311)(この行路を横川にとり、まず浄光院(定光院)の廟塔を拝し)、堅田より木濱(守山)に至る。
船中に彦左といふ者ありて日像を請す。乃ち今濱に至り妙法を説く、帰信するもの夥し、日像本尊を授け、石工をして題目の7文字を方塔に彫刻せしむ、石工日像に帰信して岩倉の家に請す、後、守山の本像寺。岩倉の妙感寺、今濱の法華堂等を興す。
 →日像上人略伝
2016/09/26追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上、昭和56年 より
元真言宗であったが、日像が永仁4(1296)改宗創立する。日像が東下の途中、横川より今江彦左衛門(今濱法華寺開基)を教化する。日像は帰京の折この地を訪れ、時の住僧智徳院明慶もまた教化を受けて寺檀ともに改宗し、山号寺号を改めて2世となる。

比叡山横川華芳谷定光院

横川定光院は日蓮上人旧跡であるが、天台宗寺院である。但し、管理は協定により日蓮宗が行う。
寛元元年(1243)から建長6年(1254)頃まで、日蓮の比叡山における修行拠点であった。
文政5年(1822)圓海が洛中の満願寺住職日進と日蓮550遠忌を営み、堂宇を改修、日蓮筆の題目碑を建立。
明治16年洛中の七本山が堂宇の修築を行い、日蓮600遠忌を厳修。
大正2年「霊蹟保存会」を組織、洛中の本山が輪番で法要を営むこととする。
大正14年日蓮生誕700年を期して立正安国像が完成。
昭和56年(1981)日蓮聖人700遠忌であるが、「定光院奉賛会」が結成される。
平成4年(1992)日蓮御遊学750年慶讃法要が執行される。
平成5年(1993)日蓮宗と比叡山延暦寺との間で定光院護持運営に関する協定が締結され、「横川定光院護持顕彰会」が発足する。これにより、日蓮宗による組織的な護持管理体制となる。
平成7年(1995)「日蓮聖人御遊学 比叡山横川定光院の聖地」として、日蓮宗宗門史跡となる。
平成7年日蓮立教開宗750周年、本堂(祖師堂)・庫裡・山門が一新され、落慶する。現在は日蓮宗比叡山研修道場として機能する。
 →比叡山横川

大津真常寺

永仁6年(1298)日蓮宗に改宗、住持裕慶の時、日像上人の教化を受け、改宗、裕慶も名を日蒙と改める。
元は天台宗とも真言宗とも四宗兼学とも云う。
天正9年(1582)当時は松本山上にあり、松本山大津寺と号するも、領主京極氏による築城のため立ち退き、現在地に移転する。
山門は閉門し、中の様子は不明、近隣の商店に聞けば、住職は別の場所に住み、法要がある時のみ、開門し、平素はいつも閉じられているという。「要するに、会場の賃貸業でしょうか。」と。
2015/10/05追加;
真栄寺の参拝記がある:長照山真常寺【参拝記その11】寺内の様子を概ね知ることができる。
山門、本堂、庫裡、三社宮、最上稲荷の堂宇がある。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長照山と号する。京都内野立本寺末、筵師法縁。
もと大津松本の山上にあり、松本山大津寺と称する。四宗兼学であった。その後慈覚大師が再興し、後真言宗に改宗。
住職祐慶の時、日像の教化により、永仁6年(1298)一山改宗し、祐慶は日蒙と改号する。
天正9年(1581)京極氏の築城により、現在地に移転する。
本堂は明治18年の再建、文政6年妙見堂を建立し、清正公と三十番神を合祀。明治21年鐘楼を建立。庫裡・客殿を有する。
開山は日像、遷地は大雲院日慧。
2015/05/09撮影:
 真常寺Google:真常寺堂宇は入母屋造・妻入本堂、庫裡・客殿など、入母屋造・妻入堂宇と2棟ほどの小宇からなると思われる。
 真常寺山門
 真常寺堂宇:殆ど屋根しか写らないが、文字入れした堂宇が写る。寄棟造の堂宇は善通寺本堂であろう。
2019/11/16撮影:
 真常寺門前     真常寺山門2     真常寺本堂1     真常寺本堂2     真常寺本堂裏     真常寺玄関・庫裡
 真常寺鐘楼1     真常寺鐘楼2     真常寺最上稲荷     真常寺題目石:寛延2年(1749)の年紀
 真常寺秋山自雲神霊
 真常寺三社宮:おそらく元の妙見堂で妙見大菩薩・清正公・三十番神を祀るものと思われる。
 真常寺歴代墓碑     真常寺開基墓碑:摩耗しているが、開基大雲院日慧と刻むと思われる。

大津長等本要寺

蓮光山と号する。六条本国寺末。
元和2年(1616)平田源治(禅宗から日蓮宗に改宗)や松屋伊兵衛先祖らを檀越として、善住院日誉上人を開山として創立される。
江戸期には隣接地に大津牢獄があり、その牢獄門を山門にする。よって法華滅罪の寺とも呼ばれる。
 ※平田源治:〜寛永5年(1628)、小左右衛門、義宅院宗仁日禮、小川町青龍寺<不明>に位牌あり、織田氏の系統という。
 ※平田家は祖先が伊賀の山田郡平田城に住んだことから平田性を名乗るが、後に、近江大津に移る。
 この時に日蓮宗に改宗し、後の平田一族の日蓮宗への貢献の嚆矢となる。
 寛文2年(1662)平田一族が京都から讃岐大野原(現観音寺市)に移住し、大野原開墾に専念する。
 当時の当主平田与一左衛門の墓は日蓮宗大野原慈雲寺(清正公寺、平田氏開基)にある。
寳永3年(1706)第9世・顕壽院日如上人が現在の庫裡を建立する。(棟札)
明治20年第32世本成院日意上人が現在の本堂を建立する。
なお現住(35世)は山城大住法華寺兼帯という。
2015/05/09撮影:
 本要寺本堂1     本要寺本堂2     本要寺本堂3     本要寺庫裡客殿
 本要寺妙見宮     本要寺妙見宮内部     本要寺最上稲荷
 本要寺遠望:園城寺別所近松寺境内から遠望 、中央入母屋造桟瓦葺の大屋根が本要寺本堂

大津札の辻本長寺

明光山と号する。六条本国寺末。末寺3。
永禄5年(1562)等覚院日壮上人の創建。元は下坂本延暦寺里坊等覚院であったが、日壮代日蓮宗に改宗、現在地に移転し、本長寺と号する。日蓮宗に対する弾圧が強い時代に改宗の故に、大本山六条本圀寺から宗祖自作の大黒天尊像を授けられる。
江戸期には大津代官小野・石原両氏が当寺の檀越であった。現在小野氏歴代の墓と、小野・石原両氏の木像が残る。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙見山と号する。六条本圀寺末、勇師法縁。
元天台宗で下坂本にあった、天正14年(1586)時の住僧等覚院日荘(元和6年寂)が現在地に移転、日蓮宗に改宗して創建される。
開基檀越は大検小野了以である。
2015/05/09撮影:
 本長寺山門     本長寺題目碑:裏面に寛延二己巳(1749)の年紀がある。
 本長寺本堂1     本長寺本堂2     本長寺鐘楼跡(推定)
 本長寺妙見宮1     本長寺妙見宮2     本長寺大黒天:おそらく六条本圀寺から授かった大黒天を祀るのであろう。
 本長寺瀧光大明神     大津代官小野氏歴代墓碑
2019/11/16撮影:
山号については明光山とする資料もあり、妙見山と明光山のどちらなのかは分からない。しかし、本堂扁額は「妙光山」とあり、「日蓮宗寺院大鑑」でいう「妙見山」は誤植あるいは錯誤かとも思われる。
 本長寺本堂3     本長寺本堂扁額     本長寺庫裡・玄関:向かって左が玄関     本長寺客殿?
 本長寺妙見宮鳥居     本長寺妙見宮3:向かって左は清正公大神祇、右は瀧光大明神
 本長寺推定鐘楼跡2     本長寺大黒天2     本長寺清正公大神祇     本長寺瀧光大明神2
 秋山慈運神霊:秋山自雲:天明8年の年紀が刻まれる。
 本長寺歴代墓碑1:向かって右から、開創等覚院日荘、二祖南澄院日空、三祖本俚院日近     本長寺歴代墓碑2

大津逢坂妙光寺

水上山と号する。その他の情報はなく、不明。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
水上山と号する。四条妙顯寺末、勇師法縁。
天正元年(1573)反織田方であった武将長谷川久兵衛が難を逃れて仏門に入り、現在地に一宇を建立、本光院日性を開山に迎える。
開山100年記念に毘沙門天を勧請(堂は昭和35年建立)、年代不詳であるが旧東浦妙見堂の妙見大菩薩を奉安する。
本堂は安政初年の再建、鐘楼は昭和48年の建立。
 ※武将長谷川久兵衛とは不詳。織田信長と対立した南近江の六角氏の家臣という見解もある。
2015/05/09撮影:
 妙光寺石門:かってはここに山門があったとも思われるが不明、境内を京阪京津線が通る。
 妙光寺山容
 妙光寺山門:妙見大菩薩碑が建つ      妙光寺本堂1     妙光寺本堂2
 妙光寺妙見宮1:妙見宮左右に祠があるが、 堂宇名称は未確認     妙光寺妙見宮2
 妙光寺鐘楼     妙光寺玄関     妙光寺庫裡1     妙光寺庫裡2
2019/11/16撮影:
 妙光寺石門2     石門前題目石:享保21年(1736)の年紀、題目石としては古いものである。
 妙光寺山容2     妙光寺山門前     妙光寺山門2     妙光寺本堂3     妙光寺本堂4
 妙光寺玄関2     妙光寺庫裡3     妙光寺庫裡4     妙光寺鐘楼2
 妙光寺妙見宮3:本尊は妙見大菩薩、脇に七面天女、三十番神などを祀る。
 妙光寺三社大明神     妙光寺三社大明神2:三社大明神とは稲荷のようである。
 妙光寺毘沙門堂     妙光寺毘沙門堂2     妙光寺歴祖碑:向かって右肩には「開山日性聖人」と刻む。


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