越  後  本  長  者  原  廃  寺

越後本長者原廃寺

越後本長者原廃寺a:破壊

2016/05/26追加:
関係する市町村の沿革は次の通り。
明治22年中頸城郡天野原新田、今池村、本長者原村、新長者原村、本長者原新田、藪野村、辰尾新田、西松野木村、下四ツ屋村が合併、三郷村が発足する。
昭和30年三郷村、高田市に編入、旧三郷村本長者原は高田市に属することとなる。
昭和47年高田市と直江津市が合併、上越市となり、旧三郷村本長者原は上越市に属することとなる。
なお、平成17年上越市、市域周辺の東頸城郡・中頸城郡・西頸城郡の13町村を編入合併、市域は合併前の4倍(面積)となる。
一方
現上越市の南方に接する妙高市の沿革は以下の通りである。
昭和29年新井町、矢代村、斐太村、鳥坂村、泉村、平丸村、水上村、上郷村、和田村の一部が合併し、新井市となる。
平成17年新井市、中頸城郡妙高高原町ならびに妙高村を編入、「妙高市」と改称する。新井市は消滅する。

新潟県上越市今池にある。越後国分寺の建立場所は今も不明とされるが、当廃寺を越後国分寺に比定する有力な見解がある。 しかもこの仮説は極めて妥当性があるものと思われる。しかし現状、当廃寺の遺構はほぼ壊滅し、下記以上の新事実が出ることは期待できず、それ故に創建越後国分寺であると断定できないというのが正直なところであろう。
○「幻の塔を求めて西東」:忘失した心礎:
心礎は出枘式、270×270cmで、径90×15cmの出枘を持つ。「新井市史」より
 ※「新井市史」は未見。
◆Web上で次の情報がある。
「本長者原廃寺へ行ってみる。それらしき場所に近づくと看板を発見。読んでみると、塔心礎とおぼしき礎石があったらしいのだが、切石として利用され散逸してしまったとのこと。」
◆2008/07/16追加:「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
上越市本長者原大江端・今池(今池は廃寺跡の北西数百mにあり、当廃寺から持ち込まれたと推定される瓦が出土した地点と思われる)にある。
この地は昭和40年頃に圃場整備され、一面の水田となり、地上には何も留めない。しかし「新井市史」では塔心礎の存在の記録があること、基壇と思われる畑地の高まりがあったこと、あるいは古瓦が散布することなどから寺院跡(越後国分寺か)とした。
塔心礎は広さ9尺(2.7m)、その上面に径約3尺(90cm)・高さ2.5尺(75cm)の凸部があったと云う。(出典不詳)・・・ただし高さ2.5尺とは不審ではある。 <2.5尺は5寸(15cm)の誤り>
昭和59年確認調査を実施、塔基壇の推定地にトレンチを開け、その結果堀込地業及び版築とその礫を確認、堀込地業は方形で一辺約14mを測る。さらにここに心礎があったとされるため当遺構が塔基壇と判断された。
 本長者原廃寺基壇遺構図
 本長者原附近の地籍図:(圃場整理前):A地点でトレンチ、ここ に心礎があった、その他B及びC地点にも畑地があった。この畑も基壇と推定され、Bを講堂・Cを金堂とし、Aを塔とすれば、国分寺の伽藍配置として妥当であり (金堂・講堂を南北に並べ、塔を金堂の東南に配置する)、塔の規模も 国分寺塔としての規模を備えているといえるであろう。であるならば、本廃寺が創建時の越後国分寺である可能性は高いであろう。
 ※次項2009/05/06追加の記事が更に詳細である。
◆2009/05/06追加:「新修国分寺の研究」 より
 本長者原廃寺旧地割:「新潟県上越市本長者原廃寺の再検討(越後国分寺の一例)」坂井秀弥【「新潟史学」1983 所収】:○印は昭和59年発掘調査地点、D及び俗称は追加:
上に掲載の明治年間の更正図(地籍図)には水田中に島状の畑が3ヶ所(A、B、C)点在する。これは水田開発前の地形に左右され、人工的構築物による高まりが畑となって残存したものと推測される。
A地点:東西14m、南北12、3mでほぼ方形を呈する。この地点は「長者屋敷」と通称する。ここには「長者が蔵の礎石」と伝えられる「広さ9尺程の石の中央に径約3尺、高さ5寸の凸起あり。地表厚さ2尺位露出し、地下埋没の深さ不明なり」とあり「長者屋敷より四方百間内外の地域には地下より田畑耕耘のとき布目瓦の破片を往々発見せらる」(「頸城郡三郷村村誌」)と云われた地である。
 ※この礎石は心礎と推測される。またこの礎石は現存しない。
B地点:三筆の畑でかっては「焼屋敷」と呼ばれたと云う。Bから南22m東45mにA地点はある。
C地点:ニ筆の畑でかっては「高畑」と称したと云う。BC間は約27mある。
Aは塔、Bは講堂、Cは金堂とすれば、東大寺式伽藍配置となる。
D地点:BC地点の南約50mに長方形(20×8m)の畑がある。ここに南大門が存在した可能性がある。
 昭和59年発掘調査:発掘調査図として上の本長者原廃寺基壇遺構図と同一の図が示される。
掘込地業の中央部に礫の分布がない円形部があり、これは塔心礎の抜取穴の可能性がある。
 心礎の記録は「頸城郡三郷村村誌」にあるものと思われる。
  ※「頸城郡三郷村村誌」は未見。
◆2014/03/31追加:
ブログ「古代国分寺友の会」 のページに現地説明板の掲載があり、この板には「心礎という礎石」写真の掲載がある。おそらくこの写真は「新井町史」あるいは「三郷村史」からなどの転載であろう。
   本長者原廃寺説明板

左の写真は上記「本長者原廃寺説明板」から「縮小した模型」という部分をトリムした画像である。

写真で見る限り、心礎であるならば極めて異形であり、心礎であるとは思えない形状である。後世に整形されていないとすれば、ほぼ方形に整形された古代心礎というのは類例を見ない。また径90cm高さ15cmの出枘とは出枘の限度を超えているであろうし、柱座としては高さがあまりに高くその類例を見ることができない。従って、この写真で判断すれば、この石はほぼ心礎ではないであろうと言わざるをえない。
なお、時期には触れていないが、この遺物は切石として利用され現存しないとあるのは何としたことであろうか。

2015/11/02追加:
妙高市在住「tacarbon」氏(Tacarbons Tips and Researches)より次の情報提供を受ける。
【1】2015/10/28(水)「新潟日報」記事:「まちかど歴史探訪」/「国分寺塔の礎石と伝えられる石」の記事
この「新潟日報」記事を要約すれば次の通りである。<伝国分寺塔の礎石(切石)の写真掲載もあり。>
 『三郷小学校向かいの「公民館三郷分館」の敷地に、長方形に裁断された5個の石が横たわる。各々は凡そ長さは2m、巾は40cmほどであり、黒味を帯び表面はざらざら している。
地元では国分寺の塔の礎石と伝える。奇しくも公民館から北西100mほど離れた場所は「本長者原廃寺」であり、ここが国分寺跡ではないかとされている。
この廃寺について、三郷村誌(1961年刊)は旧村誌(発行年不明)の記述を基に、石は明治初期に当時は畑地であった廃寺跡から見つかり、
約2.7m四方の巨大な石だったと推測、中央には直径約90cm高さ約15cm」の突起があったとしている。
「三郷地区の歴史・史跡を研究する会」の会長は「地元ではあまり見ない石であり、海路都から運ばれてきたのではないか」と推察する。
石は農作業の邪魔になるとして明治8年頃に住民が切り出して散在した。石の一部は公民館脇に置かれたとの記録が残る。
越後の国府及び国分寺の場所はさだかではないが、廃寺に隣接して今池遺跡があり、そこから大規模な掘立柱建物趾が多数発掘され、廃寺からも国分寺の塔によく使用された布目瓦が発掘されている。「現時点ではこの地が国府・国分寺の可能性が一番高い」(上越市教委専門学芸員)という。』
 ○伝国分寺塔の礎石(礎石切石):公民館三郷分館所在 :「新潟日報」掲載写真を転載(部分)
  ※伝承や記録のとおりであれば、この5個の切石は(越後国分寺)塔心礎を切り出したもので、心礎の残片となる。
  但し残念なことに、出枘の一部でも残っていれば、心礎との証明ができるのであるが、長方体の形状だけでは、如何とも判断できない。
【2】「tacarbon」氏情報
『現地説明看板の写真は、文献等の情報によると、三郷小前身である学校の教員が記述を元にコンクリートで作成した概要模型ということのようで、型枠の都合で方形をしており、文献の記述から凸部の高さを設定しているものと思われる。』
▽以上から、管理人(s_minaga)の本長者原廃寺に関して誤認識があったことのお詫びをしたい、また理解不能な点の理解が進展したことを深謝する。
即ち
1)「公民館三郷分館」には200cm×40cmほどの国分寺塔の礎石と伝える「切石」5個が現存するとの認識を得る。
2)現地説明板の写真は「縮小した模型」との説明があり、この写真はあくまで「三郷村誌」の記述に基づく「復原模型」であり、破壊前の心礎写真が残っているわけではない。
従って、2014/03/31追加の「おそらくこの写真は「新井町史」あるいは「三郷村史」からなどの転載であろう。」という認識は誤認識であったことにな り、これは撤回する。
「復原模型」が「ほぼ方形に整形」されていることの不可思議さは、模型作成の「型枠の都合で方形をしている」ということで納得はできる。
3)「径90cm高さ15cmの出枘とは出枘の限度を超えているであろうし、柱座としては高さがあまりに高くその類例を見ることができない。」との管理人(s_minaga)の見解は誤った見解であるので、撤回する。
それ以前に、出枘の話(高さ15cm)であるのに、柱座の高さに話がすり替わっていて、論理をなしていない醜態であった。
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 次のように少数ではあるが、90cm内外の大口径で高さ15cm内外の出枘を持つ心礎は存在するのである。
三河医王寺(表面は相當荒れているが、出枘と思われる突起<径59×8/12cm>を有する。但し出枘も荒れ大きさなどは概数と思われる。)
美濃国分寺(出枘は径61×12cm)
伊予国分寺<心礎は中央に径160cmの柱座を造り、その中央に90cmの出枘がある。但しその高さは摩耗し良く分からない。>
  2015/11/20追加:上の<>内の典拠が不明、推測するに、「径1.6mの柱座」とは「愛媛県史」の「柱座径は5.4尺(1.63m)
  以下と推定」という記載から引用したものと思われる。
  「90cmの出枘」とは全く典拠が分からない。なお、出枘については「伊予国分寺」の項に述べるように、
  心礎の現状は「出枘があったという痕跡は全く見られない。ただ柱座は一部にその痕跡を残す。」というのが実態である。
  したがって、<>内の記載は誤謬とする。
          →詳細は「伊予国分寺」の項を参照。
豊後国分寺心礎(中央部に径76cm×14.5cmの柱座を造り出すという。但し、塔跡には観音堂が建ち、心礎は床下にあり実見することができない。この柱座は出枘である可能性がある。)
また、大和東大寺東塔心礎は割られ、破片が残るが、径99×29cmの出枘の残欠が残る。
以上のように、巨大な出枘は存在するのである。
 (参考):以上の他、出枘を造り出す心礎は数少ないが、主として奈良後期の塔就中国分寺の塔に多くみられる。
出枘の径55cm以下を有する心礎を列挙すれば以下のようになる。
 出枘のみを造り出す心礎は
上総国分寺(出枘は径33×15cm)、駿河日吉廃寺(出枘は径27.5×14cm)、尾張国分寺(出枘は径36cmで突起はほぼ欠失)、
大和本薬師寺西塔(出枘は径約25×8.5cm)、河内田辺廃寺西塔(出枘は径23×3cm)、河内黒山廃寺(出枘は35×6cm)、
紀伊国分寺(出枘は径55×5.5cm)、播磨国分寺(出枘は径約25cm×8.5c)、伯耆坂中廃寺(出枘は径36×10cm)、
美作江見廃寺(中心に径約50cmの出枘を作り出すも、枘はぼぼ欠失し高さは不明)
 造り出し柱座の上に出枘のある心礎は
遠江国分寺(出枘があったとされるが、現状は破壊され良く分からない。)、若狭国分寺(径約34.5×約4cmの円形繰出を有する。)
山城国分寺(径36×14cmの出枘)、丹波国分寺(径45×3cmの出枘、但し出枘はほぼ欠失し高さは不明。)
河内国分寺(径26cm×4.5cmの出枘、但し心礎は埋め戻されてみることは出来ない。)、河内百濟寺西塔(径30cm×6cmの出枘)
淡路国分寺(径26.6cm×4cmの出臍、但し塔跡・礎石上には大日堂が建ち実見することはできない。)
大和大安寺西塔(径147cmの柱座の中央に出枘があったと推定されるが、現状その痕跡は認められない。)
大和元興寺(径30cmの出枘、明らかに出枘は欠失し、残る高さは僅かである。)
大和西大寺東塔(径39cmの出枘、明らかに出枘は欠失し、残る高さは僅かである。)
大和秋篠寺東塔(径18×7.6cmの出枘)
大和秋篠寺西塔(径18×8cmの出枘があるという。但し、直近では昭和61年の撮影写真が残るも、近年その所在は不明である。)
大和興福寺春日西塔(柱座の径134cmであり、出枘は痕跡が残るだけであり、大きさはよく分からない。)
大和興福寺春日東塔(柱座の径100cmであり、出枘の痕跡がある。但しこの礎石は動いており、心礎である確証はない。)
大和興福寺五重塔、大和當麻寺東塔、大和當麻寺西塔も柱座の上に出枘があるというも、現存塔が建ち、確認できない。
伊賀鳳凰寺(出枘があったとされるも、現状では、径74cmの柱座は明瞭であるが、出枘の痕跡は確認できない。)
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2016/05/26追加:
以下、本長者原廃寺に関する「資料」を発生年代順に記載する。
2016/05/26追加:
○「三郷村誌」大正15年
 ※「三郷村誌」については、遠方にしか所蔵館がなく、閲覧が難しいので、昭和46年の「新井市史(上巻)」から孫引をする。
「新井市史(上巻)」からの孫引:
大正15年に発行された「三郷村誌」によると次のように記されている。
「長者が蔵の礎石と云伝はりたるものは古来長者屋敷とと称し今は本長者原字大江端の畑538番地の中にありて広9尺程の石の中央に直径約3尺、高さ5寸の凸起あり。地表2尺位露出し・・・・・・(中略)・・・・・。長者屋敷より四方百間内外の地には地下より田畑耕耘のとき布目瓦の破片を往々発見せらる。」
本長者原廃寺に関係する論文を時系列で概観する。
2016/05/26追加:
○「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」平野団三(「越佐研究 第20集」新潟県人文研究会、昭和38年<1963> 所収) より
高田し本長者原大江端538番地畑中に地表約2尺程度顔を出している古来不思議な大石があった。広さ約一丈程、真中に直径3尺程の凸起があり、直径3尺の凸部分の周縁は約5寸ほど盛り上げてあったのである。明治8年頃地元住民協議の上これを切石となしてしまった。・・・
 ところが・・・大正6年当時の三郷村長がこれを惜しみ親しく古老に聞いて礎石の切片長さ4尺巾2尺厚5寸のものを使って当時の原形の約10分の1に縮小した1尺四方の礎石を造り、永久に保存することを計った。現在三郷公民館の前に置かれている。勿論正確な小模型であるとは言い難いが、古い塔婆心礎であることは疑いないと思われる。この礎石の置かれた長者屋敷より四方百間内外の地下から往々耕作の際布目瓦が出土したという。
 帰途三郷公民館の礎石を見学した。発掘当時六畳もあると語り草になった長者の土台石が十分の一、方1尺高さ3寸に縮小されて中央に直径3寸高さ2寸の出枘を空に向けていた。周縁も盛り高く表現されていた。・・・十倍に大きく想像すると、余りにも奈良朝国分寺塔婆心礎出枘式に酷似していることに驚く。国分寺は別にして私はこの地長者原に奈良期の塔があったのではないかと空想した。
2016/05/26追加:
○「新井市史(上)」新井市史編集委員会、昭和46年(1971) より
越後国分寺の所在地については諸説がある。
1)上越市五智国分寺説
この寺は確かに国分寺を呼称する。国分寺奥之院(明静院)の木造大日如来坐像は平安後期の特色を持つ。しかしこの国分寺寺内や周辺からは全く古代寺院の痕跡を示す礎石とか古瓦の出土を見ない。
それ故、「北越軍記」に見える如く「永禄5年7月ハ越後ノ国分寺五智如来堂再興供養、導師ハ高野山無量光院清胤法院、勅使ハ勸修寺中納言晴秀ナリ。景虎参詣。」とあり、中古再興されたものである。
さて、「越後名寄」によれば、五智国分寺の山号は「安国山」とされる。これは五智国分寺が安国寺としての伝統を有することを意味するのではないか。「梅花無尽蔵」によれば、文明年中の直江津周辺には、安国寺と至徳寺などの寺が知られ、少なくとも国分寺という寺名は記されていない。現在、直江津にが安国寺、至徳寺という地名が残され、それぞれの場所に、この古寺があったものと思われる。
 以上のように、五智国分寺には古代に遡る十分な資料を保有していないと思われる。それ故、古代国分寺の法灯が五智国分寺に受け継がれているものではない。
2)中頸城郡板倉町田井国分寺(現上越市)
平野団三氏らによって唱えられる。国分寺という小字名が残り、各種の古代に遡る遺物が出土する。
しかしながら、寺院跡を示す礎石・古瓦類は皆無であり、古代集落は想定しえるも、国分寺は想することは出来ない。
それ故、国分寺の地名は他のところに存在した国分寺の寺領地かと推定されるのである。
 では国分寺跡はどこなのか。漸く近年になって僅かな手掛かり得ることができた。やはり、国分寺の存在を明らかにするには古瓦・礎石の存在を確認することであろう。
最近本長者原で圃場工事が行われ、古瓦の出土を見る。これらの資料を検討すると奈良期の瓦片と考えて差支えないものと思われる。
そして、なにより、大正15年の「三郷村誌」は巨石の存在(上に「三郷村誌」からの引用あり)を記述している。方9尺ほどの巨石であり、塔心礎である可能性が一番高い。更生図によって538番地の地割を見ると、周囲が水田であり、この地籍部分は畑地となる。東西8間2尺ほど、東西7間4尺の方形に近い土地に大正6年まで存在していたことになる。下野国分寺の心礎は8.5尺×7尺のほぼ方形の心礎であり、長者原の心礎に近い。また最近調査されている国分寺の塔基壇は50尺〜60尺の間であるので、礎石 が残されていた地割に近い。
 古瓦の出土を見、そして長者屋敷と云われる地割の例が塔跡であるとすれば、これこそ国分寺跡の可能性が最も強い。
なお、平野団三論文「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」で述べられている10分の1の心礎模型は、現地を訪ねるも発見することは出来なかったという。
2016/05/26追加:
○「本長者原廃寺確認調査概要」上越市教委、昭和59年(1984) より
昭和58年3月にかつて大石の出土した附近を発掘調査する。
先行する研究では、越後国分寺に関して出土遺物等を加味してその位置比定を試みた「新井市史」がある。これは越後国分寺に関して、出土遺物からアプローチした最初で唯一の論及であろう。
遺構としては、一辺14mを測る版築遺構を確認した。
 本長者原廃寺基壇遺構図:本図は次に掲げる「新潟県上越市本長者原廃寺の再検討(越後国分寺の一例)」、「北陸の古代寺院」、「古代地域社会の考古学」等の論考に引用され、本長者原廃寺が古代越後国分寺であることの有力な根拠とされる。
プランは方形を呈するものと思われる。今回南東コーナーと南西コーナーを確認した。しかし北西コーナーがSD5・SD6により攪乱をうけており、正方形はどうかは不明である。むしろセクションから判断して、長方形とも思われる。
 調査区全景     E・Fトレンチ     版築遺構南東コーナー     版築遺構南西コーナー
2016/05/26追加:
○「新潟県上越市本長者原廃寺の再検討(越後国分寺の一例)」坂井秀弥【「新潟史学」1983<昭和58年> 所収】は上に掲載済
2016/05/26追加:
○「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987<昭和62年>は上に掲載済
2016/05/26追加:
○「古代地域社会の考古学」坂井秀弥、同成社、平成20年(2008) より
本長者原廃寺が古代越後国分寺跡である可能性が極めて大きいことの論考は昭和58年の坂井秀弥「新潟県上越市本長者原廃寺の再検討(越後国分寺の一例)」とほぼ同一の論及である。
本論及も「本長者原廃寺確認調査概要」の発掘調査の成果に基づき展開される。
この調査概要では
 かって心礎が出土したという地点で版築遺構(掘込地業)が発掘される。
 平面は一辺14mを測る方形であり、南東と南西のコーナーを確認する。
 一辺は14mであるが、平面は正方形ではなく、長方形の可能性がある。
 礎石・礎石抜取穴は確認できない。
というようなことが述べられる。
以上の見解について、平面は、図と写真を見る限り、北西コーナーと思われる部分が僅かに認められる。もし、これがコーナーであるとして、図上で再計算すれば一辺は14mではなく、15mの正方形と考えられるのである。
なお、平面図を見る限り、礫の分布する方形のほぼ中央に礫が全く分布しない円形の部分が見える。これは心礎の抜取穴とも考えられる。
 ところで、一辺15m以上の塔基壇(掘込地業一辺15m<50尺>)とは古代寺院の中でどのような位置付けとなるのであろうか。
基壇の一辺の判明している国分寺塔の20例のうち、石見の26尺(7.8m)は例外として、相模の68尺(20.4m)を最高に、40尺半ばから60尺である。まさに国分寺の塔に相応しい規模なのである。
因みに、飛鳥・白鳳の一般寺院では下野薬師寺の52尺(15.9m)を最高に30〜40尺である。
2016/05/26追加:
○本長者原廃寺心礎残欠
上に掲載のように、2015/10/28(水)「新潟日報」記事:「まちかど歴史探訪」/「国分寺塔の礎石と伝えられる石」の記事により、
『三郷小学校向かいの「公民館三郷分館」の敷地に、長方形に裁断された5個の石が残存するのが分かる。各々は凡そ長さは2m、巾は40cmほどという。
これは「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」で述べられる「明治8年頃地元住民協議の上これを切石となしてしまった・」との記載に符号する。
2016/05/26追加:
○縮小(1/10)心礎模型
「乙宝寺心礎と頸城地方心礎の問題」で述べられる「大正6年当時の三郷村長がこれを惜しみ親しく古老に聞いて礎石の切片長さ4尺巾2尺厚5寸のものを使って当時の原形の約10分の1に縮小した1尺四方の礎石を造り、永久に保存することを計った。現在三郷公民館の前に置かれている。」との記述があり、これに符号する。
また本長者原廃寺の現地説明板に掲示される「縮小した模型」写真に符合する。
しかし、この心礎模型は既に昭和46年(1971)の「新井市史(上)」では「現地を訪ねるも発見することは出来なかった」という。
2016年、上越市教育委員会にこの模型の所在について問い合わせると「現在、確認されていません。」との回答がある。
そして、現地説明板の模型写真の所在についても「現在、不明です。」という。但し、「推測ですが、当該写真については故 平野団三氏撮影とも思われ」るとのことである。
以上は、本長者原廃寺に関する「資料」を発生年代順に記載したものである。


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