信  濃  神   光   寺   跡  ・ 信  濃  貞  祥  寺

信濃神光寺跡・信濃貞祥寺三重塔

信濃松原神光寺塔跡:2008/11/13撮影
 
神光寺廃参道石段:この石段を登ると三重塔北面に至る。
神光寺三重塔跡1:北から撮影
     (上記の石段上にこの写真の景観がある。(塔屋敷・塔基壇が現存する。)
神光寺三重塔跡跡2:西より撮影
神光寺三重塔跡跡3:南西より撮影
神光寺三重塔跡跡4:北西より撮影:左図拡大図
神光寺三重塔跡跡5:西より撮影
神光寺三重塔跡跡6:西より撮影
三重塔跡北側礎石列       三重塔跡西側礎石列
三重塔跡南側礎石列       三重塔跡東側礎石列
三重塔跡西南隅礎石:当初からここにあり、礎石に転用と推定される自然大石
三重塔跡東北隅礎石      三重塔跡南東隅礎石

近世の変遷として以下が知れる。
文政12年(1829)松原村大火、三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂を焼失。
弘化2年(1845)三重塔再建の工作小屋から出火、塔婆再建用材や仮本地堂、本堂を類焼。ただちに再興勧進を開始。
嘉永2年(1849)三重塔上棟式。(本堂は文久3年(1863)再建が始まるが、慶応元年(1865)暴風雨のため建築途中で倒壊。)
 ※三重塔棟梁後見役は小林源蔵という。
 2002/09/06撮影:
  松原神光寺三重塔址1     松原神光寺三重塔址2     松原神光寺三重塔址3(基壇隅)

 ◆松原神光寺三重塔能概要:2008/11/13実見
松原神光寺三重塔跡概要
 ※この図はあくまで凡その様子を示す概要図で、正確なものではない。
 ※2008/11/13実見

塔一辺は2.75mを測る(実測:芯-芯間)
礎石は北に5、東に5、南に5(自然大石含む)、西に4(自然大石含む)を置く。即ち自然大石を含め15を配置する。
また心礎は勿論、四天柱礎石を置いた形跡は見られない。
 ※但し、現貞詳寺塔婆は当然ながら四天柱があり、その間に須彌壇を置くと云う。

左概要図の通り、側柱礎石は側柱に対応した配置ではなく、塔一辺に沿った形に礎石を配置する。
中間の個々の礎石は側柱を直接に受けないか、あるいは寸法が不明ではっきり分からないが、現貞詳寺塔婆の中央間は広く設計されているところを見ると、各辺の中央の礎石は柱を受けず、その両脇の礎石が中間の側柱を受けたものとも思われる。

北東・北西・南東の隅礎石には8×8cm、深さ4cmの枘孔を穿つ。
南西隅礎石のみが極端に大きくまた比整形であり、これは元々この場所にあったと推定される自然石の大石をそのまま隅の礎石として利用したものと推定される。


信濃神光寺概要

松原神光寺は松原大明神 (松原諏方神社)別当であった。
当地は古くから松原大明神(諏方神社)の上下宮が鎮座していたと言われる。
別当神光寺は、松原湖南東の長湖に突き出た半島上にあり、寺址のみを残す。(なお松原湖周囲は現在軽く薄いリゾート地である。)

左記の図の「松原(諏 方)神社下社」
 の部分をクリック。
 ※左図の「諏訪」は「諏方」が正。
  →松原神社梵鐘(重文)

この梵鐘は在銘で
弘安2年(1279)に信濃落合新善光寺に奉納され、その後、武田氏によりおそらく陣鐘として持ち出され、松原神社に奉納されたものとされる。

神光寺跡:長湖に突き出た半島にある。(北西から撮影)

○2008/11/13撮影:信濃神光寺跡遠望:長湖半島遠望

半島上には、現在も三重塔、本堂、諸堂の礎石、多くの宝篋印塔・無縫塔・石仏等が残存する。
一部は民家(旅館?)になっているとも思われるが、三重塔・本堂址は町史蹟として保護されてはいる。

神光寺跡概要図

下記の図の「入口石碑・石仏」、「堂址」、「A」(A地点から堂・三重塔址の叢を撮影)、「無縫塔など」の部分をクリック 。
   →該当の画像を表示

詳しい寺暦は不詳、天長3年(826)慈覚大師の開基とも伝える。あるいは当初真言宗であったが天台宗に転宗したとも云う。
松原上下社の別當であった。藤島山清浄院神光寺と号す。近世には朱印30石と云う。
 なお松原上下社には神光寺とは別の神宮寺が存在したが、江戸初期に廃寺となり、神光寺に併合されたとも云う。
末寺には梓山村泉龍寺、海尻村医王院、八那池村秀光寺、馬越村極楽寺、八郡村万性院があったと伝える。
 (稲子弥勒寺も末寺と云う。)
 2015/11/03追加:
 寛政3年(1791)神光寺の絵図が海尻醫王院に引き継がれているようである。
 この絵図(松原諏方上下社寺繪圖)についてはサイト「海尻山醫王院」に掲載されるので、転載する。

 松原諏方上下社寺繪圖:左図拡大図

向かって右下が神光寺、中央には下宮、中央上部には上宮が描かれる。
 やや繪圖の解像度が低く判然としない部分があるが、下記のように文政12年(1829)に三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂が焼失というので、三重塔、本堂(本地堂?)、庫裡(?)、惣門などは推測できるとして、具体的にどの建物がそれ以外の十王堂、三王堂、神殿、阿弥陀堂、観音堂なのかは分からないが、それらも描かれていたのであろうと思われる。
 何れにしろ、文政12年焼失前の神光寺が描かれる貴重な絵図であろう。

文政12年(1829)松原村大火、三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂を焼失。
弘化2年(1845)三重塔再建の工作小屋から出火、塔婆再建用材や仮本地堂、本堂を類焼。ただちに再興勧進を開始。
嘉永2年(1849)三重塔上棟式。
本堂は文久3年(1863)再建が始まるが、慶応元年(1865)暴風雨のため建築途中で倒壊。
 2002/09/06撮影:
 松原神光寺本堂址
  ※左写真はA地点から本堂址正面を、中央写真は東から本堂礎石列を、右写真は本堂礎石を撮影)。礎石上には石造物が置かれる。
 2008/11/13撮影:
 松原神光寺本堂跡1     松原神光寺本堂跡2:正面礎石列     松原神光寺本堂跡3:西面礎石列
 松原神光寺本堂礎石1     松原神光寺本堂礎石2     松原神光寺本堂礎石3:何れも方形の枘孔を有する礎石が残存する。
 松原神光寺堂跡1:堂跡に至る石階も残る。
 松原神光寺堂跡2:堂名は不明、堂を廻る縁石類と思われる石材が残る。

明治元年神仏分離で住職は還俗。
 明治2年神光寺第七十九世光俊は還俗、藤島一學氏と改名、神職となる。
檀家総代は存続再建に努力するが、時代の風圧は強く、頓挫・廃絶する。
三重塔は信濃貞祥寺に明治3年金112両2分で売り渡される。
本尊、本地仏は他に移され現存するが、一部は湖中に投棄されると云う。
 ※神光寺本尊薬師如来(身丈2尺6寸・約70cm)は海尻醫王院(神光寺末寺)に遷座し、醫王院本尊として現存する。
  また神光寺は佐久33所観音霊場の19番札所であったが、この名跡も医王院が継ぐ。
  平成12年神光寺の歴代住職の追善菩提の為に、千手観音堂を医王寺境内に再興と云う。
 ※醫王院:海尻山醫王院藥師寺(天台宗)と号す。南佐久郡南牧村海尻。元禄2年(1689)性海上人によって開山される。
 ※上諏方社本地仏である普賢菩薩、下諏方社本地仏千手観音と地蔵尊は稲子弥勒寺に預けられたと云う。
 2015/11/03追加:
 ※稲子弥勒寺:現存する。但し無住という。山中に観音堂があり、この堂は下の宮(下諏方社)から移築したといい、
 この中に聖観音、千手観音(下宮本地佛)、普賢菩薩(上宮本地佛)が祀られる。
  サイト:オコジョの散歩道2012年11月23日 より
   稲子清水観音堂
  サイト:オコジョの散歩道2014年10月09日 より
   稲子清水観音堂2     稲子清水観音堂3     稲子清水観音堂内部:普賢菩薩・千手観音・聖観音の木造坐像が安置される。
   稲子弥勒寺
  サイト:八十二文化財団 より
   稲子清水観音堂4:上記サイトの観音堂写真が真とすれば、この写真の堂は観音堂ではないように思われるが、如何であろうか。
   本地千手観音坐像:下諏方社本地仏     本地普賢菩薩坐像:上諏方社本地仏

信濃貞祥寺三重塔(旧信濃神光寺三重塔)

明治の廃仏毀釈で神光寺は廃寺、明治3年貞祥寺に移築される。
 

嘉永2年(1849)頃完成。
一辺2.75m、高さ16m弱の小型塔である。
中備は省略、中央間には通肘木間に密に斗を並べる。
三重は二層扇垂木。
心柱の上部を囲む木枠に竹製バネを付け、揺れを吸収する耐震構造の構造を採り入れる。
脇間の窓部分7面(1面欠)に花鳥彫刻を入れる。
支輪には波型彫刻を嵌める。

貞詳寺三重塔1
 同      2(左図拡大)
 同      3
 同      4
 同      5
 同      6
 同      7
 同      8
 同      9
 同  脇間彫刻

2023/01/07追加:
○「刹の柱 信濃の仏塔探訪」長谷川周、信濃毎日新聞社、2011 より
初重内部は四天柱が建ち、禅宗様須弥壇を置き、大日如来坐像と薬師如来坐像を安置する。さらに背後に神光寺境内にあった地蔵菩薩石像を安置する。
内陣天井は鏡天井で龍の墨絵が描かれる。外陣の天井は草花を描いた格天井が取り巻く。
 旧神光寺三重塔立断面図     旧神光寺三重塔内陣     旧神光寺三重塔外陣天井


貞祥寺概要:
大永元年(1521)前山城主伴野貞祥の開基とし、その後武田氏、松平氏、仙石氏の庇護を受ける。
杉の大木に囲まれた森に中に伽藍を展開し、総持寺の輪番を努める寺院と云う。
現在も塔婆、仏殿・法堂、僧堂、庫裏、山門、東司、浴室などの禅宗伽藍をはじめその他多くの堂宇が残る。
なお境内には島崎藤村が小諸義塾の教師をしていたころの旧宅が移築されている。 


2006/06/22追加:但し写真は2002/09/06撮影である。
 ※本項作成に当り、写真撮影から4年弱の月日が経ち、多少記憶の薄れている部分もある。
 ※2008/11/25追加:2008/11/13に撮影写真を追加
松原神光寺跡石造物:井出正義氏著

「町の石造文化財(82) 松原神光寺跡石造物1」(小海町公民館報385、平成14年11月 所収)
「町の石造文化財 松原神光寺跡石造物」(小海町公民館報387、平成15年1月 所収)・・・・・(83)、石造物2であろう。
「町の石造文化財 松原神光寺跡石造物 その3」(小海町公民館報389、平成15年4月 所収)・・・・・(84)、石造物3であろう。
「町の石造文化財(84) 松原神光寺跡石造物 その4」(小海町公民館報390、平成15年6月 所収)・・・・号数は(84)ではなく(85)であろう。
「町の石造文化財(86) 松原神光寺跡石造物5」(小海町公民館報391、平成15年7月 所収)
「町の石造文化財(87) 松原神光寺跡石造物6」(小海町公民館報392、平成15年9月 所収)
「町の石造文化財(88) 松原神光寺跡石造物7」(小海町公民館報393、平成15年10月 所収)
「町の石造文化財(89) 松原神光寺跡石造物8」(小海町公民館報394、平成15年11月 所収)
 ※8回シリーズであるが、途中掲載されない号もある。
 ※著作者は町文化財調査委員 井出正義氏
 ※「小海町公民館報」は信濃南佐久郡小海町が基本的に毎月1回発行。
   (小海町は人口5700人余りであるが、この公民館報の「充実」は瞠目に値する。)

以上では、神仏分離により廃寺となり、それ故記録などが散逸・遺棄された神光寺の歴史の一端が明らかにされる。
 (上記労作には深く敬意を払うものであり、以下、上記論考より、要約を掲載させて頂くものである。)

「町の石造文化財(82) 松原神光寺跡石造物1 」(小海町公民館報385、平成14年11月 所収)

松原には神宮寺と神光寺のニ神宮寺があった。神宮寺は松原諏方神社下社(松原湖北岸)の東方高地にあった。
この南方西に松原諏方神社上社(松原湖東岸)があり、神光寺はさらに南方東(長湖)の半島上にあった。
 (「佐久郡伴野庄諏方上下社境内図」宝暦2年(1792)という木版画があるという。)

 三重塔跡西方の一段上の台地上の区画(径7cm長さ1.9mの石製角柱で縁取りをする)に大無縫塔がある。
この無縫塔表面には「伝灯大阿闍梨法印恵存大和尚位」と刻む。
大きさは一辺70cm高さ20cmの方形台石に、径65cm高さ20cmの円形台石を重ね、さらに径45cm高さ35cmの蓮華座を置き、最大径40cm高さ110cmの塔身を建てる 。総高185cm。
 この無縫塔に対面して1基の石塔と2基の石像が並ぶ。
 石塔(高さ83cm)には「当人誦衆決定往生攸恵存本願 延宝八甲辰八月吉辰」と刻み、恵存は延宝8年(1680)8月吉日多くの人々を集め念仏を唱えながら往生した云々の意を刻する。
恵存について、神光寺住職過去帳では「三部都法大阿闍梨堅者法印恵存 元禄10年(1697)寂す」とある。
(神光寺住職過去帳では戦国期末から誤記や記載方法の変化が目立つから注意・検討を要するようです。)
いずれにしろ、恵存は延宝もしくは元禄頃に寂した神光寺住職であった。
 対面する2基の石像(首は無い)は無銘で詳細は不明。
  恵存無縫塔など: (2002/09/06撮影)写真は小、正面墓碑の左の無縫塔と思われるも、不確実。

「町の石造文化財 松原神光寺跡石造物 」(小海町公民館報387、平成15年1月 所収)

上記の大無縫塔の区画から、更に西へ一段上がると、湖水に面した東側に、右から大きな無縫塔が一基、
家形墓塔が二基並んでいる。
 無縫塔は、東(湖水)に面し、「□□権大僧都○○○法○○和尚位」と判読できる。住職の墓塔と思われる。
法量は碑の高さ80cm、蓮華座高さ20cm、基礎石15cm、総高115cm。
 この無縫塔の西にほぼ同形の屋形石塔がある。屋根は高く急傾斜。
一つは正面には四角の窓が上2、中3、下1の三段に開けられている。家形は高さ57cm、屋根高さ34cm、総高91cm、間口39cm、軒下の妻飾は左右両面とも五つ星の紋である。正面右側「正保二年二月一日」左側に「妙繁祥定尼」の銘文がある。
もう一つの左側の屋形石塔は、ほぼ同形・同寸法であるが、正面の窓穴の数が上2、中2、下1、妻飾の紋様が丸型の五つ星紋となっている点は異なる。正面右側は判読困難。左に「□郷右衛門」左側面に「正保弐年酉二月日」とある。
二つの墓塔はその形から夫婦か一族近親の墓塔と考えられるが、没年は同じ。
 この三基の墓塔から、直角に南に向かって八基の無縫塔が並んでいる。
その塔列の背後は急斜面の熔岩流の落ちこみとなっていて東端から五基目の次の無縫塔は背後の落ちこみに転落して失われてしまったらしい。
 そこまでの5基の無縫塔は35cm内外の小形無縫塔で、刻銘は全て判読不能。
次の3基は台石を除いて、高さ45cmと小型である。
 この3基は向かって右から「長祐」、次に「長海」と明確に銘が判読できる。
 最後の一基は大木の根元に押されるように、やや傾いているが、「開山栄心」と刻銘がある。
 (やや不鮮明のようであるが、「開山」の二字に間違いないと云う。総高は50cm?)

「町の石造文化財 松原神光寺跡石造物 その3 」(小海町公民館報389、平成15年4月 所収)

庭つづきに大きな無縫塔2基がある。(庭つづきとは位置不詳・・・本堂跡西の地点)
 向かって左側の無縫塔は、一辺90cm、高さ30cmの方形の基礎石の上に、高さ37cm、一辺35cmの六角形の蓮弁つき台石を置き、その上に高さ20 cm、径50cmの円形の蓮花座を置き、その上に上部径45、高さ120cm、総高200cm超える巨大な墓塔である。
頂上には阿弥陀三尊の梵字が刻まれている。
碑面の銘には「当山中興大阿闍梨堅者法印真俊大和尚位」「寛政三年三月十七日」裏面に「73世」とある。
  73世真俊大和尚無縫塔:2008/11/13撮影
 ※「神光寺住職過去帳」(海尻医王院)では、「大阿闍梨法印貞俊大和尚」の事蹟は「七十三世住職法印真俊は本堂・庫裏を総建替した神光寺中興の偉大な住職である。」と書かれている。
 もう一つの右側の無縫塔はやや小型で、基礎石は自然石の川原石で、その上に高さ60cmと50cmの六角の台座を置き、その上に蓮華座を置いて高さ80cmの無縫塔を建てている。碑の正面に「権大僧都法印俊明墓」、裏面に「僧俊静弟子武州深谷瑠璃光寺住」とあり、側面に「嘉永三年正月五日寂」とある。
  法印俊明無縫塔     法印俊明無縫塔2 :2008/11/13撮影:手前左端の石塔が「権大僧都法印俊明墓」
「神光寺住職過去帳」では、「74代法印俊静、文政5午年(1822)10月10日寂」とある。瑠璃光寺の師弟であった俊静と俊明であるが、俊静は74代住職、俊明は弘化ー嘉永三年(1844ー50)頃の(75代)住職であった。
 ※深谷瑠璃光寺・神光寺とも慈覚大師円仁の開基という。天海大僧正一行が日光東照宮に参拝時には必ず瑠璃光寺仁王門で休憩し、次に世良田長楽寺に向かったと云う。神光寺は長楽寺末であった。瑠璃光寺とは天台系寺院として交流があったと推測される。
 ※天台宗深谷山光明院瑠璃光寺57世は俊明。
「瑠璃光寺縁起」(江戸末期)には「嘉永四戌年三月朔日 信佐久下越の空々識」とある。信佐久下越とは信濃佐久下越と解釈されるも不詳。現在の地名では臼田下越か?

「町の石造文化財(84) 松原神光寺跡石造物 その4 」(小海町公民館報390、平成15年6月 所収)

前回の3基(?)の無縫塔のさらに左に3基の無縫塔がある。(6基で一群をなす。)
左の3基は前面に大型塔が2基、背後に小型塔がある。
 右大型塔は総高138cm、身の最大径は32cm。奥行きの長い長方形基壇に八角の蓮華座を置き、その上に塔を建てる。
正面銘は「大阿闍梨堅者法印順栄大和尚」右側面に「当山72世安永7戌(1778)10月15日」である。
 左大型塔は高さ12cmの切石製基壇に一辺68cm高さ20cmの方形大石を置き、径50cm高さ30cmの円形蓮華座を置く。さらにその上に径50cm高さ20cmの敷茄子を置き、径50cm高さ20cmの蓮華座を重ねる。塔身は上部径35cm下部径22cm高さ80cmで、この塔の総高は171cmとなる。碑面は表面を幅約20cmで縦に削る。
銘は「当山74世法印俊静塔」とあり、裏面に「文政5牛10月10日、行年72年、寺務23年」とある。
  74代法印俊静無縫塔:2008/11/13撮影
 俊静法印塔の背後にある小型塔は基礎石に2枚の蓮華紋の台石を重ね、径50cmの台石を載せ、75cmの塔身を建てる。総高約100cm。
銘は「権律師高純」右側面に「嘉永2年(1849)2月24日」と刻む。
この住職でない「高純」は、弘化2年2月三重塔焼失、再興工事(大工は野沢小林一太郎<源三の子息>)の上棟式が嘉永2年の行われた頃の神光寺僧侶と思われる。 おそらく三重塔再興などの寺務を切り盛りしていた僧と推定される。

「町の石造文化財(86)松原神光寺跡石造物5 」(小海町公民館報391、平成15年7月 所収)

藤島家倉庫右手の路を西に進んだ西端に墓群がある。
 向かって右側奥に2段の大きな切石の上に、蓮弁を刻んだ屋根形つき中台を置き、さらに蓮華・蓮華紋を刻した敷茄子を置き、上に大きな蓮華座を重ね、高さ80cmの塔身を建てる。総高196cmの大型無縫塔がある。
表に長方形に縁取りをし、頭部に阿弥陀の梵字を刻み、銘は「当山77世法印俊恵塔」、裏面に「文久4子正月10日寂」と刻む。
  77世法印俊恵無縫塔:2008/11/13撮影
「神光寺住職過去帳」では、「権大僧都俊恵、文久4子5月1日、江戸浅草燈明寺にて遷化」とのみある。
なお次の78世は法印深俊で明治10年11月稲子村弥勒寺にて遷化」とある。
 ※弥勒寺は稲子村にあり天台宗、佐久33所観音霊場19番は「下の宮」(諏方下社)であったが、観音像は弥勒寺観音堂内に安置されていると云われるようです。
 その左奥の無縫塔は横65cm高さ22cmの方形台石上に、高さ10cmの梯形台石を重ね、さらに高さ25cmの蓮華座を置き、高さ125cmの塔身を建てる。総高182cm。刻銘は浅く、辛うじて「・・・大阿闍梨・・・大和尚」と読める。歴代住職の一人と推測できるだけである。
  大阿闍梨・・・無縫塔:2008/11/13撮影
  俊恵無縫塔など: (2002/09/06撮影)写真右端の塔が俊恵無縫塔と思われる。その左の塔が上記の僧名不明の無縫塔と思われる、
 その右前方(藤島家幼児の人連名墓碑の後)に、塚状石据え墓域を形成した部分に2段の台石を置き、上半を失った墓塔があるが、銘は残った部分には見られない。
 その前方に倒れこんだ石があり、引き起こし洗うと、銘は「都法伝燈大阿闍梨賢者法印観海大和尚位」とあり、他には銘はみられない。
「松原史話」では「71世法印観海、元文5年(1740)庚申10月20日」とあり、「神光寺住職過去張」では「三部都法大阿闍梨観海、元文5年庚申10月20日」とあり、71世観海法印の墓と確認された。
なお、この墓の下には2基ほどの墓が埋もれている様子があるが、未確認。

「町の石造文化財(87) 松原神光寺跡石造物6 」(小海町公民館報392、平成15年9月 所収)

右手上檀の藤島氏墓地左端に大石塔がある。
 この石塔は横幅110cm高さ20cmの方形基礎石に横80cm高さ35cmの台石を置き、その上に横幅35cm高さ130cmの巨大な石柱を立て、頭部は穏やかな山形をなす。
正面銘「法華石経供養塔」(法華経を石に刻みここに埋めている標とする。)
左側面銘「三界有?我?○○成仏」(法華経石の功徳を述べる。)
右側面銘「この供養塔は当寺36世憲順が建仁2年(1202)に書写する云々」
  法華経供養塔右側面2:2008/11/13撮影
裏面銘「同院72世住順栄 宝暦3癸酉(1753)?再○(○)之」(建仁2年建立の法華供養塔を72世順栄が再興した。)
 ※「松原史話」には36世住職が憲順であることの記述がある。
鎌倉初期である建仁2年の事蹟が発見され、神光寺史にとって、奇跡的な発見と思われる。
  法華石経供養塔表面(2002/09/06撮影)
  法華石経供養塔右側面(2002/09/06撮影)

「町の石造文化財(88) 松原神光寺跡石造物7 」(小海町公民館報393、平成15年10月 所収)

松原諏方上社(松原湖東岸)を南に下ると長湖神光寺入口に至る。
ここは江戸期の高札場であり、明治初頭には長湖畔の阿弥陀堂を校舎とする小学校(広さ8坪)が開校された。
(校区:八那池・松原・稲子)
ここから神光寺への参道が通じていたから、この地は大門と呼ばれた。
 大門の右手火山岩の斜面に阿弥陀佛(磨崖佛)が刻まれていた。
先年の稲子道(県道)拡張のため、現在地に移設される。
法量は、幅3.7×高さ2.5mの岩盤に高さ約1.4m幅1,25mの佛顔が薄肉彫されている。
但し、岩質は脆く、また薄肉彫のため、不鮮明です。
 この磨崖佛の前に下面幅1,5m上面幅1,1m高さ35cmの台石の上に2基の石塔が建っている。
 左石塔は高さ90cm幅30cm(上端は尖る)の大きさで、表面銘は「現當両益祈願」、裏面は「寒念仏供養」、左側面は「當所講中」、右側面は「安永4未(1775)10月16日」とある。但しこの石塔はこの地方で見られる寒念仏供養塔で あるから、本来の正面は「寒念仏供養」と刻まれた面で、移設の時に表裏が逆にされたものと思われる。
 右側の石塔は高さ1.7mで先端は尖る。表面銘は「奉納経百八十八番供養塔」、右側面は「天保15年5月16日」、裏面は「十方檀那ニ世安楽、願主教善」とある。(教善という人が西国東国100番、四国88番に納経をし、この供養塔を天保15年(1844)に建立したものと推測される。教善とは現在不詳。
 ※川上村上田千風(佐久の国学者、京との国学者と交わる、11ヶ村(佐久?)取締役に任命され、民政に尽くす)千風は神光寺三重塔再興にも尽力し、棟梁小林源蔵、昭長父子を激励援助し、嘉永2年(1849)8月17日の三重宝塔完成式には「松原宝塔再建祭文」の祝辞を奉呈する。
千風(文化元年<1805>〜明治2年)の長男が教善(歌人、11ヶ村取締役、明治8年51歳で没)である。碑の天保15年は教善20才であるから、この碑の願主教善とは千風長男ではあるまい。千風が長男教善の名でこの碑を建立したとすれば、その可能性はゼロではないが、記録もなく全くの推測にしか過ぎないのが現状である。
  磨崖佛並びに2基石塔1(2002/09/06撮影)
  磨崖佛並びに2基石塔2(2002/09/06撮影)

「町の石造文化財(89)松原神光寺跡石造物8 」(小海町公民館報394、平成15年11月 所収)

 「開山塔」(開山栄心)の右側の1基は台石のみ残存し、塔身は後凹地に落ちているものと思われる。
その右は「長海」順次右に「長祐」「祐春」「優慶」と続きその右は判読不明、さらに右の方向を変えた位置の銘は「祐○」(○は不明)とある。
  小形無縫塔列1:2008/11/13撮影
これと同形の小型無縫塔(台石を含め50cm内外)は開山塔の左にも数基ある。文字は僧名のみで彫りは浅い。
  小形無縫塔列2:2008/11/13撮影
開山を含め、海尻医王寺所蔵の過去帳(76世まで記載)には同じ僧名は存在しない。
また、栄心以下の小型無縫塔は塔形、大きさ、文字の形・彫りの深さ等ほぼ共通し、それは同じ工人によって同時に製作されたとも思える工作である。
この一連の小型無縫塔は何なのか。
松原神宮寺は江戸初頭に廃寺となったと言われ、そのとき神宮寺の墓が移転されたことも考えられる 。
 (「長海」以下の僧侶は廃寺となった松原神宮寺住職の墓とも考えられる。)
しかし、いずれにしろ今後の検討課題であろう。

2006/06/22追加:
法印舜祐(信濃神光寺僧舜祐)

上記の「松原神光寺跡石造物」の連載終了後、
新しく「法印舜祐」(信濃神光寺僧舜祐)というタイトルで連載が始まる。(筆者は従前と同じく、町文化財調査委員・井出正義氏)
この連載は現在(2006年6月)も継続中である。
現在は、「小海町公民館報397〜409(平成16年4月〜平成18年4月)」の11回分がWeb上で入手可能である。
 ※2012/02/15追加:このタイトルでの連載は「小海町公民館報411」で終了する。

現在Webで入手可能分で、神光寺に関係する部分であり、また今までほとんど世に知られていないであろうと思われる「意外な交流」を以下に要約掲載させて頂 く。

◇「町の石造文化財 信濃神光寺の僧・舜祐 岡山県で大活躍する」:(小海町公民館報397、平成16年4月 所収)
 「心覚坊舜祐尊賀の作善について」【岡山県教育委員会文化部・根木修氏の研究記録】(「真如院だより第6集」 所収)には以下の記載がある。
文禄5年(1593)「宮座主・東山明仙童寺真如院住持・生国信濃神光寺清浄院住侶心覚坊舜祐」が吉備津宮惣解文を書写する。
※「宮座主・東山明仙童寺真如院住持・生国信濃神光寺清浄院住侶心覚坊舜祐」とは惣解文の「奥書」に記載されている。
また、元和2年(1616)吉備津宮正宮(本殿)屋根葺替え棟札にもその名の記載がある。
 以上のように、舜祐は、少なくとも、文禄5年から元和2年までの20数年間吉備津宮での活動が推測される。
即ち、心覚坊舜祐は近世初頭に生きた人物で、備中「宮座主・東山明仙童寺真如院住持」であり、「生国」は「信濃」で前歴は「神光寺清浄院住侶」であったという事実が浮かび上がる。

◇「町の石造文化財 91 岡山県で活躍する 舜祐法印 2」(小海町公民館報397及び998、平成16年6月 所収)
 「吉備津宮惣解文」とは吉備津宮の応永頃(1394−1427)の訴訟・請願・答申などすべての記録を云う。
神光寺の僧舜祐は、吉備国において、明仙童寺真如院住寺となり、多方面に活躍したと推定される。
文献資料・棟札・仏像の銘文・修理銘等に、舜祐・尊賀・心覚坊舜祐・心覚尊賀等として残り、これ等の署名は同一人であることが確定したとされる。
 ※現在、寡聞にして、具体的事例、また同一人と断定する根拠等は不明。

◇「町の石造文化財 舜祐法印 4」(小海町公民館報400:平成16年10月 所収)
 筆者(井出正義氏)の調査によれば、「吉備津宮惣解文」で云う「信濃神光寺清浄院」とは南佐久郡小海町松原湖畔の天台宗藤島山清浄院神光寺が唯一該当する寺院であり、松原神光寺以外にはその存在は確認できないと云う。

 松原諏方神社梵鐘(重文):
弘安二年(1279)、大井荘地頭大井光長が大井荘落合で鐘造。
延徳元年(1480)から天文年間(1532−1554)に甲斐の武田氏により、松原諏方神社に奉納さる。

◇「町の石造文化財 97 舜祐法印 8」(小海町公民館報405、平成17年8月 所収)
 「野ざらしの鐘」の銘文によって記してみると次のようである。
 寛元2年(1244)7月、落合の新善光寺の勤進説法者の念阿道阿の二人は阿弥陀如来・観音・勢至・一光三尊の金銅像を造り、建長元年(1249)10月勧進法阿弥陀仏の不断念仏を唱えながら募金をし、弘安2年8月15日これを完成して奉納した。
  大勸進法阿弥陀仏
  勸進説法二人念阿道阿
  大旦那源朝臣光長
   並諸旦那
      大工伴長敬白
 こうして松原諏方神社梵鐘は佐久郡大井荘地頭大井光永が大旦那となって大和国葛城下郡下田鋳物師の大工伴長を招いて鋳造した中世信濃国を中心に鋳造された最古の名鐘であると云える。

2006/06/22追加:
「吉備津神社」藤井駿、岡山文庫52、昭和48年 より
 近世初頭、備中吉備津宮明仙童寺真如院住持は心覚坊舜祐であった。
その心覚坊舜祐は、少なくとも、文禄5年から元和2年までの20数年間の活動が推測される住持であったが、その生国は、思いもかけない遠隔地の「信濃神光寺清浄院住侶」であったという。
心覚坊舜祐の生国は吉備津神社に残る「吉備津宮惣解文」に記録される。
 以上に関して、「吉備津神社」藤井駿、岡山文庫52 には全文の掲載と以下のような簡単な解説がある。
吉備津宮惣解文
 
・・・・・・ 吉備津宮惣解文・表紙:「吉備津神社」岡山文庫52  より転載

(表紙)吉備津宮惣解文 法印舜祐之 真如院 

 備中国11郡72郷 島2
   都宇郡 4郷
 河面郷 能米100石 賀陽友延  から始まり
   嶋 2
 柏島 海月海老濱松少々 ・・・・で本文は終る。
  惣解文集書
 右本者、応永元年申戌書物、見来余爛朽、字境然与依不見処、干時文禄五申秊、為後代之写置者也、穴賢々、

 宮座主、東山明仙童子寺真如院住持・生国信濃神光寺清浄院住侶心覚坊舜祐曇鏡依縁為琢禿毛染置而己、
 右此惣解文者、応永比当社之記録也、文禄5年舜祐所為写本、因及紙牒損破、今加修復矣、干時宝永7庚寅歳8月21日
    吉備津宮検校藤井斎宮亮藤原高吉

 ・・・以下略・・・・

この旧記の評価は、多少その内容に疑問があり、直ちに応永年中のものという訳にはいかないが、いずれにしろ室町期の記録であるのは、確かとされる。
備中一宮である吉備津宮には備中一円の諸郷から、大祭あるいは遷宮など事ある度に、御調(みつぎ)として、吉備津宮に放浪されたことは事実であろう。膨大な寄進の記録 が今も神庫に保管されていることでも、それは裏付けられる。

  →備中真如院については「備中吉備津宮」真如院の項を参照。(吉備津宮・神宮寺中の真如院の項)
 


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