若 狭 羽 賀 寺 三 重 塔

若狭羽賀寺および三重塔絵圖・扉

若狭羽賀寺三重塔
 

「羽賀寺縁起」(重文):建久元年(1190)源頼朝によって建立されるとする。
「羽賀寺縁起」および「羽賀寺縁起<別本>」の該当部分

<前略>・・・建久元年庚戌、鎌倉右大将征夷大将軍源頼朝公、当寺の霊勝を聞き、先妣(せんぴ;亡母の意)の為に、三重の塔婆を建立し、国富庄において田五町を納めて追善に充(あ)つ。
<中略>応永5年、鬱攸(うつしゅう;火事)の災に罹り、山中の堂塔、一時に回禄せり。・・・・将軍(足利義教)命ありて修復を賜ふ。ただ塔基は別の因縁を以て、この興に漏れり。・・・<後略>

 

「若州遠敷郡国富庄・羽賀寺之圖」:羽賀寺蔵
 

寺伝では江戸期の作と云う。
本堂東方に三重塔がある。

羽賀寺之図(全図):左図拡大図

 

「鳳聚山羽賀寺之景」:羽賀寺蔵
 

寺伝では明治期の作と云う。
本堂東方に三重塔址がある。

鳳聚山羽賀寺之景:左図拡大図

なお山門は明治まで存続し、その写真が残存すると云う。(未見)

若狭羽賀寺三重塔扉(羽賀寺蔵)

源頼朝創建塔婆の扉とされる。塔婆は室町期雷火により焼失したとされる。
雷火を受けた時、扉の1枚が空中高く舞い上がり、この扉のみ焼失を免れたと伝える。
後世に塔婆の証とするため、この寺に伝世する。
扉内側の面に十二天の一尊と見られる像の痕跡を見て取ることが出来る。(現在は本堂外陣に安置)
 羽賀寺塔婆扉(内)1   同     (内) 2   同     (内) 3   同      (外側)

塔婆想定地

現状、塔跡は判然とせず。(寺院側でも良く分からないと云う。)
 羽賀寺境内 1(写真右の木立中 附近)
もしくは
 羽賀寺境内 2( 写真正面木立中附近)と思われるが、それらしい平坦地・痕跡・遺物は現状では見ることはできず。

羽賀寺概要
当寺は霊亀2年(716)行基が勅命を奉じて創建したと伝えられる。現在は高野山真言宗。創建以来幾多の興亡を繰り返す。
室町後期〜江戸初期には本堂・愛染堂・毘沙門堂・阿弥陀堂・護摩堂・鐘楼・山門等伽藍と宝聚院・乗蔵院・多聞院・安楽坊・院主坊・円実坊・奥之坊・吉祥坊・行法坊・春行坊・松音坊・宣海坊・泉蔵坊・大光坊・大乗坊・大蔵坊・大宝坊・東蔵坊・徳蔵坊・中之坊・西之坊・福生坊・明泉坊・了泉坊 の24坊があったとされる。
現在は古伽藍としては、室町再興の本堂1宇を残すのみ。
本坊は現在新築中と思われる。

2007/12/26追加:
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」小浜市、2006  より
若狭羽賀寺境内図
山門(仁王門)を入り、右に北の坊、円珠坊、真乗坊、徳蔵坊、左に宝聚院、護摩堂、突き当たりに池之坊・阿弥陀堂(現在の本坊か)、左に折れて右に泉蔵坊、右奥に普門坊、羽乗坊、奥之坊、宝蔵坊、右に南之坊、正壽坊、大光坊があり本堂に至る。

本堂:
重文、文安4年<1447>安東(安部)氏の寄進により再興、桁行5間梁間6間・入母屋造檜皮葺
 羽賀寺本堂1  本      堂2  本      堂3  本      堂4  本      堂5  本      堂6

本堂を寄進した安東氏は、前九年の役で源頼義・義家に討たれた安倍氏の後裔と称する。
中世、安東氏は、執権北条氏から蝦夷管領に任ぜられ、藤崎を拠点に奥州に跋扈し、寛喜元年(1229)安東堯秀は十三湖に進出して、
福島、唐川、柴崎城を築城し、また、十三湊を経営し、水軍を背景に日本海の交易を支配する。
安東氏は、永享8年(1436)後花園天皇の勅命により、羽賀寺の再建に着手する。おそらく膨大な財貨を投入したものと想像される。
現存本堂は、安東氏の最後の遺産として今日に伝えられる。

なお当寺には、本尊・十一面観音菩薩立像(重文・木造彩色)、千手観音菩薩立像(重文・長寛3年<1165>木造)
毘沙門天立像(重文治承2年<1178>木造)等の優れた仏像も伝えられる。

参考:画像使用許諾
 


2006年以前作成:2007/12/26更新:ホームページ日本の塔婆