空知立坑 探検: 北の細道 空知立坑

空知立坑で制御進化の記譜をみる




北海道歌志内市

  九州と並んで北海道はかつて日本の石炭産業を支えた二大産地の一つであった。
その広大な北海道には大きく分類して石狩・釧路・留萌・宗谷の各炭田が分布していた。

釧路炭田には雄別庶路尺別 などの炭鉱が、 留萌炭田には 大和田小平羽幌の名が輝き、
宗谷炭田には 日曹曲淵 などの炭鉱が栄えていた。

中でも石狩炭田が日本全国の石炭埋蔵量の30.6%を占め、
1平方q当たりの理論埋蔵炭量においては、
全国平均378万tに対して北海道が693万t、九州298万tと群を抜く豊かさを誇っていた。
この豊かさの裏側には―
・炭層数が多いこと
・炭丈が厚いこと、
・左右から圧縮された 「褶曲地層」 による体積増
が要因であった。
まさに、地質が語る石炭の物語である。

褶曲地層
褶曲地層

北海道炭礦汽船(株)〔北炭〕はこの石狩炭田に4か所の鉱業所を所有していた。
夕張鉱業所平和鉱業所幌内鉱業所 そして空知鉱業所である。

北炭鉱区
北炭鉱区

北炭空知鉱業所は石狩炭田最北部にあり、鉱区は石狩川支流ペンケウタシナイ川中・上流域一円で、
歌志内市街地から空知川下流赤平市地内とその東方赤平市赤間の沢下流域を包含する。

安政年間には松浦武四郎が空知川をさかのぼった際にその両岸で炭層を発見し、
明治7年にはライマンが調査、19年には北海道庁が設立、測量を開始した。
明治23年(1890)に北炭が譲り受けて空知採炭所として開坑、
翌24年7月の鉄道開通と共に営業を開始した。

明治28年(1895)には空知坑佐久志立坑(深度190m)が起工され、
太平洋戦争終結後は坑内合理化工事の一端として排気立坑が重要視された。
昭和29年(1954)に 神威坑中央排気立坑 (φ3m/142m)が着工、
コンクリート構造の立坑第一号として昭和30年(1955)に完工している。

当時の空知鉱業所の統管は空知・神威・赤平の赤間の三坑だった。
国鉄歌志内線神威駅付近に神威坑、歌志内駅付近に空知坑の二坑を有し、
昭和30年4月現在の推定埋蔵量は約6億2千万tであった。

鉱区
鉱区

【立坑建設への経緯−集約への路】
明治23年(1890)に開坑した北海道炭礦汽船株式会社 空知鉱業所の鉱区は、
70年間にわたり複雑な地質構造に悩まされ、採炭の集約化が困難な状況が続いた。
老朽化した小規模な斜坑による操業が長く常態となっており、
その間に掘削された揚炭坑口は立坑1,斜立坑1,水平坑14、斜坑10にのぼっていた。

やがて斜坑周辺の終屈に伴い採炭区画の再編が迫られる中で、新区画開発と設備の一新が計画された。
坑内構造の簡素化と運搬の合理化を目指し、昭和32年(1957)5月、
新たなる試みとして入気・運搬兼用の立坑建設が静かに始動したのである。

建設中の空知立坑
建設中の空知立坑

【驚異の工費と先端技術−立坑という挑戦】
この立坑建設に要した総工事費は当時の金額で16億円。
現在の価値に換算すると (約115憶円)昭和32年のCPIとGDPの平均値から試算 にものぼる壮大なプロジェクトであった。
その内訳は坑道33%/機械電気施設50%/土木建設施設17%と、
技術系設備への重点投資が目立つ。

完成した立坑は、仕上り内径 6.0m、巻上深さ 255m、
工事期間は昭和32年(1957)5月から昭和35年(1960)10月までの15か月であり、
この短期間に当時としては最先端の巻上装置が据えられたのである。

巻上装置のスピードは秒速8m(28.8q/h)と、
現代の東京スカイツリー(464m)エレベーターの36km/hに遜色ない速度であった。
(※深度については資料により252mと255mが混在している)

空知炭鉱の若返り工事として計画され北炭としては戦後初めての揚炭立坑でもあり、
「操車坑道」運搬坑道から空車置き場までのトロッコの編成・入替を行うヤード をも含めて総合的に設計された。

坑底操車坑道
坑底操車坑道

【エネルギー革命と淘汰の波−北炭の決断】
ところが昭和34年(1959)春ごろからは、エネルギー流体化の世界的な趨勢に基づく石炭産業の合理化論が台頭した。
それに基づいてスクラップ・ビルド政策による石炭業界の体質改善が推進され、
非効率な炭鉱の切り捨てと資源の再集中による業界再編が推進されることとなった。

そのさなか、北海道炭礦汽船(北炭)は立坑完成という節目と軌を一にして、 大きな構造改革に踏み出す。
昭和35年(1960)に採算性の少ない 【万字】【赤間】【美流渡】 の三山を分離して新会社を設立して再編する。
更に昭和38年(1963)には空知・神威の両山を分離して、
新たに空知炭礦株式会社を設立、空知鉱業所の閉鎖に及んだ。

かくして、長年石炭産業を支え続けた北炭 空知鉱業所は、その歴史に幕を下ろす岐路に立たされることとなった。
時代の潮流が炭都の風景を静かに、しかし確実に塗り替えていったのである。

【空知炭礦の躍進と終焉−105年の軌跡】
北炭からの分離・独立を経て新たに設立された空知炭礦(株)は大胆な合理化と効率化を断行した。
設備の刷新、人員配置の見直し、そして全社一丸となった増産体制の確立―
その挑戦は、炭都の再生を目指す希望に満ちたものであった。

子会社化当時、年産50万tであった生産も昭和40年度には88万t(空知58万t+赤間30万t)に急伸、
一人当たりの出炭も60tという驚異的な生産効率を達成することとなる。

しかしながら石炭産業は国内炭の需要減が進み、空知炭礦も次第に追い風を失っていく。
そして平成7年(1995)3月18日に105年の歴史は静かにその幕を閉じることとなった。

空知立坑
空知立坑

【地底へと響く、立坑櫓の鼓動】
地下深部の石炭を効率よく採掘するための垂直のトンネル、立坑において、
エレベーターのようにそのカゴの昇降させる要となる装置群が立坑櫓となる。
心臓部とも言えるその場所には、重力と機械のせめぎ合いが凝縮されている。

空知立坑の運転制御は昭和61年(1986)に大きな転機を迎えた。
人の手による操作から、機械制御・自動化への移行―それは炭鉱技術の進化を象徴する出来事であり、
時代が「人から機械へ」と静かに流れ始め、自動化の波が制御を塗り替えた経緯がある。

次章ではこの制御変更の背景と、在りし日の立坑櫓内に脈打っていた音と気配―
人と機械が共に生きた空間の記憶をレポートしたいと思う。

立坑櫓
立坑櫓


立坑比較

  立坑名   竣工/完成年   形式/深度/櫓高   制御方式/速度   メーカー
 奔別立坑ケージ側  S31/S35  グランドマシンH型/750m/50.52m  ACギヤ減速式 低周波制御方式(12m/sec)  富士電機株式会社
 奔別立坑スキップ側  S31/S35  グランドマシンH型/750m/50.52m  DC直結式ワードレオナード方式(12m/sec)  ブラウン・ボベリ社
 赤平第一立坑  S34/S38  グランドマシンH型/550m/43.8m  DC直結式ワードレオナード方式(12m/sec)  株式会社安川電機製作所
 羽幌運搬立坑  S36/S40  タワーマシン型/512m/39.34m  DC直結式ワードレオナード方式(11m/sec)  富士電機株式会社
 空知立坑  S32/S35→S61  新H型閉鎖鉄骨型/255m/30.4m  AC低周波制御→DCサイリスタレオナード方式(8m(9.4m)/sec)  (デマーグ社)富士電機株式会社

また表のように空知立坑は、その深度・櫓の高さともに比較的コンパクトな設計で知られる。
これは単なる地形的制約ではなく、地域的・時代的要請と技術進化の交差点にあった立坑のかたちとも言える。
そのような特徴に頓着しつつ、
昭和35年完成奔別立坑ケージ側、スキップ側、昭和38年完成赤平第一立坑、
昭和40年完成羽幌運搬立坑と比較したうえで約20年間の技術進化を御覧いただきたい。

時の流れの中でその象徴としての空知立坑は、炭鉱技術の成熟と地方炭鉱の知恵が結晶した静かな証しでもある。



今回、以下各社様 のご厚意により
著作物の引用転載許諾等頂きましたことを含めて、この場を借りてお礼申し上げます。

富士電機 株式会社  御中

出典

著作物:富士時報
著者名:高橋 正昭氏他3名
タイトル: 北海道炭礦汽船・空知立坑ケーペ式ケージ巻上設備
富士時報:Vol.33 No.7 p.505〜510
発行年:1960年
引用転載箇所: 「第1図」〜「第12図」




【調査協力者への謝辞と記録方針】
※本稿に記載された空知立坑櫓については2025年3月現在、既に解体が完了しています。

空知立坑櫓の外観・内部構造に関する本調査・撮影そして記録および解析・公開は、
空知炭礦株式会社 土肥隆則副社長ならびに歌志内歴史研究会のご承諾・ご協力のもと、
特別な許可を得て実施されたものです。

現地周辺は私有地につき、一般の立ち入りは固く禁じられています。
記録は、現場の尊厳と歴史の記憶を守る意図のもと、慎重かつ適正な手続きを経て行いました。
この場をお借りして、貴重なご支援に深く感謝申し上げるとともに、
調査は適正な手続きと倫理的配慮を踏まえて行われたことを付記します。


@立坑の背骨−櫓と制御系の技術史…全体の概論です。

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