尺別炭鉱跡  探検: 北の細道 尺別炭鉱

尺別炭鉱の火薬庫にピンポイントで到達する




北海道音別町

   炭鉱の坑道は掘削後、地圧の影響をもろに受ける。
円滑な人員・資材、石炭の運搬、通気の確保のため、その維持作業を指す 「仕繰」しくりは非常に重要な業務だ。
仕繰は機械化が困難で、 「先山」さきやま=坑道最先端の掘進作業者「中山」なかやま=掘進/爆破/運搬の中間作業者「後山」あとやま=運搬/支保などの後方作業者 の3名チームでの狭い坑道内の作業だ。
坑道最先端は発破で爆破、坑道を支える支保を設置、補強、交換し、
坑道分岐やT字路では強固な太い梁で複雑な支保を構成する。

坑内で採掘された石炭は『原炭』といい、岩石や品質の悪い石炭など不純物も混入している。
製品である『精炭』に仕上げるための必要工程が『選炭』である。
坑内から炭車やベルトで運搬された原炭は選炭工場へ。
単車ごと転回させるチップラ装置などから搬出された原炭は、
「ジンマスクリーン」ある大きさの隙間が空いた網状のふるい で一定の大きさに選別後、弾かれたものは再破砕、スクリーン通過のものはバウムジグ水選機へ投入される。
石炭の「含まれる炭素量が多いほど比重が軽くなる」性質を利用するのである。
水を 「脈動」空気の泡でブルブル振動を与える させた水槽中では品質の良い石炭ほど躍動し上部へ浮上、岩石・ズリは底部へと自動選別される。


大正10年(1921)の開坑が尺別炭鉱の始まりとされ、当時は90人程度の鉱員による稼働で、
当初、馬による運炭だったものが、やがて尺別枝線までの鉱山軌道の敷設に取って代わった。

昭和3年(1928)、 雄別鉱業所支所として、財閥による経営に移ると
炭住、郵便取扱所、尋常小学校などの設置に至り、運炭軌道の広軌化による根室本線との直結が実現。
尺別炭鉱総合選炭場の完成とともに、昭和18年(1943)には出炭量38万tを超えることとなる。
ところが太平洋戦争の激化に伴い、休坑、施設解体による九州への転換に至る。

終戦後、昭和21年(1946)から採炭復活、雄別からの独立を果たし、
活気みなぎる炭住街の増築と共に、炭鉱全盛時代へと突入する。

昭和37年(1962)、石炭鉱業調査団の発足と答申に基づく厳しい石炭鉱業合理化政策が提出され、
尺別炭鉱にも合理化の波が押し寄せる。
昭和41年(1966)には石炭鉱業審議会の答申で「全国出炭5千万t体制」が打ち出され、
石炭業界の危機がささやかれる。

その後、ヤマの灯を消さずと、その努力の甲斐もむなしく
昭和45年(1970)には 雄別炭鉱、 上茶路炭鉱と共に企業ぐるみの三山政策閉山を迎えることとなる。


複数回 訪れている炭鉱跡であるが、
今回はさらに深く探索するなかで、恐ろしい奴との出会いがあった。




隧道・斜坑・火薬庫・・・



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( ̄u ̄;)斜坑





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